本日、夜の報道ステーションでアフガン映像が流れると書きましたが、流れません。中止になりました。残念ですが、何らかの形で、この戦争犯罪を発信していきたいと思います。
次の機会をご期待ください。

早いものでアフガンから帰国し、2週間が過ぎた。現地通訳、イブラヒームからのメールによれば、ようやくカブールにも雪が降り、10年に一度の干ばつへの不安が少しは拭われているようだ。
避難民キャンプに雪が積もる。子どもは裸足であるから、雪解けまではつらい日々を過ごさねばならないだろうが、干ばつよりは寒さの方がマシだろう。
さて、今回もテレビ朝日系の報道ステーションでオンエアできる運びとなりそうだ。放送日は2月11日、カブールの寒さ、ジャララバードの乾燥、そしてアフガンでも進行していた劣化ウラン弾の悲劇などをご覧ください。

RAWAが送ってくれた写真 女性虐待 ブログ用.jpg 写真はRAWAから提供されたもの。夫に虐待され、身体は焼かれ、肋骨が折れていた。現在セーフ・ハウスで暮らしている。

今回の取材で、お世話になったのがRAWAのカブール担当者。RAWAとは、Revolution association of the women of Afghanistanの略。「アフガン女性解放協会」とでも訳される団体である。

RAWAのカブール担当者は、20歳代の若き女性。仮に名前をノリスさんとしておく。彼女は本名を明かすのを拒んだ。カルザイ政権からも、タリバンをはじめとするイスラム原理主義者からも、RAWAは狙われ、弾圧されている。
ノリスさんに会ったときも、「私たちの活動は、ここアフガンでは非合法なので、目立つと困る。どこか秘密の場所で会いたい」とのことだった。

実際にRAWAの創始者は暗殺されている。

インタビューの場所に選んだのは、ムスタファホテルの、とある一室。レストランやカフェなどでは誰が見ているかわからないので、ホテルには別々に入り、あらかじめ定めた部屋に入室する。
アフガンでは、一般的に男性である私が、女性を撮影するのは難しい。ノリスさんを撮影するのは、別の意味で配慮が必要だった。彼女は「男の前では顔を隠さねばならない」「女性は仕事をしてはならない」などというタリバン的な政策に真っ向から反対して、闘ってきた女性であるから、「顔出しインタビュー」は歓迎である。しかし政治的弾圧があるので「顔出しインタビューは困る」のである。先日も名前を名乗らない男から、「RAWAの活動を続けると、殺す」という電話脅迫を受けたばかり。
顔を隠してのインタビューで、今のアフガン女性の状況の一端を垣間見た。

―戦争未亡人が多いでしょ。彼女たちはどうして生計を立てているの?
「物乞いです。よっぽどラッキーな女性でないと、仕事には就けません。路上に出て寄付を求めて歩いています。最近、カルザイ政権が『路上での物乞い禁止』を言い出したので、未亡人たちは、さらに厳しい状況に追い込まれています」

―再婚できるのでしょうか?
「貧困や戦争で夫が亡くなった場合、夫の兄弟に嫁ぐ場合もありますが(イスラムでは4人まで妻を持てる)、経済的な理由もあって再婚できない場合が多いです」

―レイプも多いそうですね。どのような場合に、多くレイプされるのでしょうか?
「軍閥たちにレイプされる場合が多いです。銃を持っていますので逆らえません。イスラム原理主義者にも襲われる場合が多いです。被害を受けてもほとんど泣き寝入りです」

―勇気ある女性が、例えば警察に訴えたりできないのですか?
「もし警察に訴えたら、その女性は警官たちにもう一度レイプされます。実際にそうした例を私たちは見てきています」

―夫からの暴力被害(DV)も多いのでしょう?
「そうです。体中にアザを作り、骨折した状態で逃げてくる女性が多いです。私たちはそんな女性たちを保護する『セーフ・ハウス』を運営しています。夫が奪い返しに来る場合があります。奪い返されると、生死の問題になります」

―そんな暴力的な夫なら、離婚の自由もあるでしょう?
「法律では、あります。しかし実際は離婚は不可能です」

―妻が実家に逃げて帰ればどうなりますか?
「一族の名誉が傷ついた、と父や兄弟に殺される可能性があります。実家には戻れません」

―では家庭内暴力を耐え続けるしか方法はないのですか?
「唯一の方法が、自殺です。灯油をかぶって焼身自殺する女性が、多く出てきます」

―虐待されている女性を保護したり、戦争孤児を育てたりしているRAWAが、なぜ過酷な弾圧にあうのですか?
「男性は家事をしなくて良い、レイプしても捕まらない、暴力を振るって女性を従わせる、などという古い考え方は、男性にとって都合が良い。『イスラムの教え』という口実をつけて、そのような社会を、変えたくないグループがいるのです。それはイスラム原理主義者であるし、カルザイ政権も同じ考えです。したがって私たちは双方から狙われています」

ノリスさんの証言は以上のような内容だった。今回の旅では、RAWAに密着する時間が少なく、セーフ・ハウスや虐待の内容などを詳しく取材することができなかった。次回への宿題である。RAWAは旧ソ連からも狙われていた。権力者にとっては、「女性の解放」は都合の悪いことなのだろう。
昔、日本では「戦後強くなったのは、女性と靴下」と言われた。女性が強くなることは結構なことだ。アフガンほどではないが、イラクでも、出戻ってきた娘を父が殺す、という「名誉殺人」がある。
戦争で社会秩序が乱れ、レイプも増えている。タリバン時代はほとんど一件のレイプ事件もなかった。ばれたら公開処刑場で石投げ処刑だった。
石投げ処刑も許せないが、レイプの横行、そして警官によるセカンドレイプも、断じて許されないことなのだが…。

米軍の毒ガスを吸った子ども2 ブログ用.jpg 写真は、カブールのインディラ・ガンジー子ども病院にて。手にしているこの管は、この子どもの胃に直接入る栄養分の管。ISAF軍の空爆後、体調が激変した。

カブール中心街より車で、空港方面に15分、国道沿いにインディラ・ガンジー子ども病院がある。病院玄関には子どもを抱きかかえた父母が並んでいる。

RAWAのカブール担当者マヤールさんは、この病院に入院する子どもたちの支援を、粘り強く続けている。
マヤールさんの案内で、ガンジー病院の副院長にインタビュー。彼は、米軍が使用した劣化ウラン弾によるとと思われる影響で、アフガンにたくさんのがん患者がいること、そしてその数は増え続けていること、劣化ウラン弾だけではなく、化学兵器を米軍が使ったと思われること、などを医者の立場で証言した。
「できるだけ典型的な患者を」とのリクエストに、案内されたのが小児病棟。

写真の子どもは4歳。昨年ISAF軍(おそらく米軍であろう)の空爆で、母ときょうだい全てを殺され、生き残ったのが、父親とこの子どもだけ。
ISAF軍の空爆で、この子どもは肺呼吸が困難になり、胃腸の消化機能が著しく低下した。父親が公文書を持っている。
「ISAF軍が毒性のガスを空爆したので、この子どもは障害を持った」と書かれている。その証明書には、ISAF軍の空爆で、この子ども一家は、母ときょうだいを殺された、との証明も。
この4歳の子どもは、空爆後体重が減っていき、今では4歳にしてわずか9キロ。頭髪も抜けかけている。4歳で9キロ、そして服を脱がせてみると…。

心臓の辺りから管が出て、その管が二つに分かれている。
「毎日こうして注射している」。父がその管に注射器をあてるまねをする。消化機能が衰えたので、栄養分を直接、この管から内臓に注入しているのだ。

明らかな異常事態。それも空爆後に。

担当医師は劣化ウラン弾の存在を知っていた。しかしこの子の場合ウランの影響ではなく、化学兵器(毒ガス)の影響かもしれない。イラクのラマーディーから逃げてきた子どもにも、毒ガスとしか考えられない症状が現れていた。呼吸器と消化器を攻撃する毒ガスが、存在する。米軍はいったい何をしているのだろうか?なぜこのような事実が報道されないのだろうか?

その後、小児がん病棟を見て回る。
イラクとまったく同じ光景がそこに繰り広げられていた。白血病の子ども、抗がん剤の副作用によると思われる頭髪が抜け落ちた子ども、原因不明の吐血が続く子ども、様々ながんの子ども…。
がん病棟とともに、悲惨だったのがやけどの子どもたち。カブールはじめ、アフガンは寒いので、暖房の効いていない貧しい家庭の子もたちはつい火に近づく。暖かい衣服もなく、氷点下のカブールでは石炭ストーブが、冬を越す手段だ。
結果、衣服に火がついて焼け死ぬ子どもが後を絶たない。

やけどの子どもを撮影する。肉が赤く露出し、泣き叫ぶ。悲惨、そして地獄。貧困は、子どもを凍死させるし、時として焼け殺す。日本では考えられない事態が、アフガンで進行中である。
私はイラクで多くのがんの子どもたちを取材した。「想像以上の事態が進行中である」と、この「イラクの子どもを救う会」を立ち上げた。同じ被爆国として何かできることを、と支援活動を始めた。
アフガンでも、同じ状況が進行中であることがわかった。

劣化ウラン弾がアフガンでも使われ、そしてその被害者が急増している、という事実。
今回、それが初めて、私の中で証明された。

イラク戦争を「ブッシュの戦争」と呼ぶのなら、今のアフガン戦争は、「オバマの戦争」である。オバマの戦争も、同じように汚れ、腐りきっている。
急がねばならないのは、「オバマの虚像」を崩すことである。

孤児施設1 ブログ用.jpg 写真はカブール市内の孤児施設 豊中市の小学生が描いた絵をプレゼントした

1月17日、ジャララバードよりカブールまで無事帰還。標高1800メートルのカブールは凍てつく寒さなのだが、雪は降らず「例年に比べ段違いの暖かさ」だという。
あらかじめ連絡を取っていたRAWAのカブール責任者と面会。

RAWAとはRevolution association of the women of Afghanistan つまり「アフガン女性解放協会」。(RAWAについては後日詳述する)
RAWAの案内で「戦争孤児施設」へ。RAWAはイスラム原理主義者からもカルザイ政権からも、組織解体を迫られ、弾圧されている。したがってこのような施設には看板が掛かっておらず、一見すると民家と変わらない。

RAWA担当者は、通訳のイブラヒームが同行するのさえ、拒否した。移動手段はタクシー。専用車だと秘密警察に尾行され、この孤児院がRAWAの運営だとばれてしまう恐れがある。日本で言えば戦争中の共産党の活動のようだ。

孤児院は3階建てで、この場所へ移転したばかり。前の場所は狭くて、増え続ける戦災孤児を受け入れるスペースがなくなったため、昨年移動したばかり。
普段は80名ほどの孤児たちがここで生活しているのだが、今は冬休みなので、片親が生きていたり、祖父母がいる子どもは故郷に戻っていて、本日会えたのは14名の子どもたち。
豊中市の小学生が描いた絵を子どもたちに手渡す。喜んでいる。

14名の子どもの中ではバーミヤン出身者が多かった。バーミヤンは雪深く、遠いので村に帰れず、ここで冬休みを過ごしているのだ。1998年からの「タリバン時代」、バーミヤンでは大虐殺が行われた。ハザラ人主体のバーミヤン自警団と、タリバンが大規模に戦闘を行い、結果、ハザラ人たちは虐殺されていった。当時1~3才で父親を失っているので、父の記憶がない子が多い。

この子どもたちは主に欧米の「養親」がバックアップしていて、子どもたちが中学卒業後も「学びたい」という意思があり、養親たちが「支援する」ことを続ければ、高校にいけるが、この二つの条件がそろわなければ、働くことになる。

孤児院の次は、病院を訪れる。カブール市、インディラ・ガンジー子ども病院で、私はイラクと同じ光景を見ることになる。

ジャララバードで 中村さんと ブログ用.jpg

「やぁ、よく来たね」。その人はそこに居るのが当たり前のように、ドアから出てきた。中村哲さん。ジャララバード、ダラエヌールの地で、用水路を建設してもう10年が過ぎている。

まさかダラエヌールで中村さんと会えるとは思っていなかった。この地で農業支援中に、不幸にしてお亡くなりになった伊藤和也さんのお墓にお参りしようと思って、ダラエヌールを訪れた。伊藤さんのお墓の場所を探しながら、道行く人々に聞いていくと、
「俺たちは、日本に感謝している。ナカムラ先生に。ミスターイトーの件は、本当に申し訳ないことをした。イトーのことなら、あそこの事務所で聞けばいい」。紹介されたのが、ペシャワール会の事務所だった。

中村さんは伊藤さんの事件以来、ここで1人で用水路建設に携わっている。ランドクルーザーに乗せてもらい、水路の建設とその結果できあがってきた緑の大地を見せてもらう。
「私が来たとき、ここは全て砂漠でした。この水路は7年前に建設を開始し、3週間後に完成します」
「水さえあれば、人々が生活できるんですね」
「この周辺の土地は、全て私たちが建設した水路が命綱になっています。例えばこの水路は完成すれば23キロになりますが、15万人の命を救ってくれます」

中村氏の言葉通り、水路沿いの土地は見事に小麦畑に変わっている。そして人々が家を作り、村ができ始めている。
「彼らは、この村に帰ってきたのです。旱魃で食えないから難民になった。ジャララバードの橋からこちら側(東側に当たると思う)は、全てこの間私たちが作ったり修繕した水路で、農業が成立しています」
草木も生えない乾いた大地が、一本の水路によって緑に変わっていく。カメラを回しながら、感激して言葉も出ない。

「彼こそ、ノーベル平和賞にふさわしいよ」イブラヒームも感動している。

クナール川の取水口や、洪水時のための貯水池、水門や防砂林などを見て回る。重機も使っているが、アフガン人たちのほとんどは手作業で溝を掘り、石を並べる。私たちが通り過ぎると、みんな笑顔で手を振ってくれる。
「約600人を雇用しています。彼らは農民なので、器用に何でもやりますよ」。
この事業は、大地を潤しながら、現地の人々の雇用も生み出している。
対岸で「HITACHI」と書かれた大型重機を運転しているのもアフガン人。
すると中村さんは水路にジャブジャブ入って行き、なんとその重機を自ら運転し、「こういう具合に土砂で固めて」などと指示している。必要に迫られたとはいえ、土木工学や水流に関する理論などを学ばれたからこそ、できる作業である。

1時間ほど水路に沿って走ると、きれいなモスクと学校が現れた。何とこれらの施設も中村さんたちが建設した、という。
「モスクと学校も3週間後に完成します。水路の開通と合わせて記念式典を行う予定です。あのモスクは、私が設計したんですよ」。

もう完全に脱帽状態。同じ日本人であることに誇りを感じる。
「なぜモスクを作るかというと、まぁ日本で言えば神社みたいなもの。村の共同体にとってモスクが必要なのです。揉め事があっても、モスクでジルガ(会議)をして解決する。モスクで勉強も教えることができる。相談事もモスクで行う。モスクにはいろいろな機能があるのです」

学校は?
「両親を失った孤児が多い。両親が健在でも貧しくて勉強する余裕がない。学校建設も長年の悲願でした」
もちろん、モスクや学校を作っているのも、中村さんたちが雇った現地の人々である。
クナール川下流の、別の村への取水口へ。タリバン時代に作られた用水路が干上がっている。なぜか?原因は対岸の護岸工事。米軍の一部であるPRTが、水路の知識もないままに「見えるところだけ」護岸し、そのままメンテナンスもないままに放置したからである。

どういうことか?PRTが行った「護岸」工事によって、対岸は守られたが、護岸壁に当たってはね返った水流が、こちら側の川底を掘り下げたため、川の水位が低下しこのタリバン時代の取水口に水が届かなくなってしまったのだ。
結果、下流の村が飢えた。

中村さんたちは、新たな取水口を作って、新たな水路を建設中だ。
「米軍は2重に邪魔をする。一つは空爆など戦争で人を殺す。もう一つは、『支援』と称して逆に貴重な財産(この場合は水路)を使えなくしてしまっているのです」。

最後に中村さんはこう訴えた。
「水路を作り始めて、今年で10年になります。今年が一番降雪量が少ない。このまま放置すれば、旱魃になります。3万人の米軍増派で、戦争はさらに拡大する。そんな中飢饉が襲う。今年は間違いなく悲惨な年になります。川の水量が少ない1月2月までに、あの取水口工事と新たな水路建設を急がなければ、暴動が起こる可能性もあります」。

日本は今すぐ、米軍増派に反対し、PRTへの支援をストップし、国際社会の中で平和への対話を呼びかけるべきだろう。50億ドルがPRTへ流れないようにすることが大事だ。現地の人々は、PRTは米軍と同じだと認識している。


ジャララバード・チャンタラ避難民キャンプの子ども1 ブログ用.jpg 写真は、ジャララバード郊外の「チャンタラ避難民キャンプ」で。8万人が住むキャンプに、井戸が一本もない。

1月15日早朝6時。氷点下のカブールを出発しジャララバードを目指す。カブール~ジャララバード間は、舗装された立派な道。カルザイ政権が巨額の費用をかけて、3年がかりで整備した。おそらく巨額の援助金に、建設会社と政府官僚がおいしいところを持っていったのだろう。

左手に巨大なアフガン軍基地を見ながら、高速道路のような道を30分も行くと、カブールともお別れ。実はカブール市内からこの基地あたりまでが、仕掛け爆弾の可能性が高くて、この「カブール出口検問所」を越えれば、安全性が高まる。ここからジャララバードまで何もなければ約3時間。米軍が通過したりすれば、そのつど待たねばならないので、時には4時間にも5時間にもなる。

本日は金曜日でイスラムの休日。行き交うトラックも少なく、午前9時半、ジャララバードに到着。
早速ジャララバードの避難民キャンプをめざす。

国道を歩く人に道を聞いていると、「プァオーン」という大きなサイレン。一本道の国道を、米軍の車列が通る。先頭の装甲車から米兵がマイクで何か怒鳴っている。「道を空けろ」と言っているのだろう。ちょうどその時、国道沿いの売店にいたので、売店の柱の影から米軍車列を撮影しようと、カメラを取り出したときだった。

「やめろ!撃たれるぞ!」。イブラヒームと周囲にいたおじさんが「撮るな!」と叫ぶ。柱の陰に隠れて撮影しているのが見つかれば、米軍への襲撃者とみなされて容赦なく撃たれるのだ。
「米軍はタリバンよりもずっと恐ろしいぞ」とおじさん。彼はアフガン警察官で、きょうは非番なのだそうだ。国道沿いにいた人々は、私を含め、隠れずにそのままの状態で立つ。抵抗する意思がないことを米軍に示さねばならない。数台の装甲車が通過していく。
近寄ってもいけないし、逃げてもいけない。ただその場で立つ。そして見送る。
これがルールなのだ。

さて、その国道からそれて30分ほどでこぼこ道を走ると、広大な避難民キャンプが現れる。
「チャンタラ避難民キャンプ」には、約8千家族が住んでいる。1家族平均で10人いるとすれば、約8万人もの人々が、ここで不自由なテント生活を送っていると言う計算になる。
見渡す限り、草木一本生えていない乾いた大地。
そこに延々とテントと泥でできた家が続いている。

避難民のほとんどはパシュトン人で、パキスタンから2年ほど前にここに戻ってきた人々である。
2年前、パキスタン政府は「もうお前たちは、アフガンに帰れ」と強制退去させられた。同時にアフガン政府は「政府が土地と家を保障する」と帰還を奨励した。
パキスタン・ペシャワールから帰ってきたものの、政府から土地と家を与えられた人は本の少数で、大多数は約束の土地をもらえず、こうして「帰還難民」となった。

カブールのチャライ・カンバーレ避難民キャンプやパルワンドゥーキャンプと違うのは、水がないこと。乾ききった大地に井戸はなく、避難民たちは川まで水を汲みにいかねばならない。水汲みは女性と子どもの仕事で、1日に数回、プリタンクを担いで片道20分の距離を往復する。川の水は汚いのだが、その水で生活する。

少しばかりの金がある避難民は、水を買う。このキャンプのそばに私企業が井戸を掘削し、ポンプでくみ上げ、それを給水車に積んで、水を売って回っている。
ドラム缶2本分くらいある大きなタンクで、8ドル。日本では安いと感じる人も多いだろうが、ここでの避難民は1日1ドル以下で生活している人がほとんど。8ドルの水を買えない家族は、やはり川の水を飲まねばならない。

貧困ビジネス。
日本では、派遣労働者に不当に高い家賃のアパートや、高金利の金を貸したりして、その良識が疑われる企業があるが、ここアフガンでは大量の避難民相手の商売が成立している。

少年が大きな袋を担いで歩いているので、中を見せてもらう。
中身は雑草を干したもの。「家畜にやるべき草を、ここでは人間が食べているんだ」とイブラヒームが通訳。

国連の援助は、2年間でたったの2回だけ。「タリバンがいる」「危険だ」と思っているのか、援助物資を配ると、「犬のように」すばやく去っていくという。

「8万人か…」延々と続くテントを見ながら、その途方もない規模に、しばし言葉を失う。
日本の援助金50億ドルが、こうしたところに使われるべきである。
私のような一個人が、ちょっとした量の小麦を配っても、それは何の解決にもならないだろう。政府、国連レベルの解決策が望まれている。

米軍に撃たれた遊牧民の子ども ブログ.jpg 写真は昨日のブログで紹介した 米軍に撃たれた遊牧民の子ども


昨日と同様、午前中はミルワイズ病院で戦争被害者の取材。外科病棟で今年に入ってからの統計を見せてもらう。
IDE(仕掛け爆弾)犠牲者が14日間で33人、空爆の犠牲者が69人、銃撃戦が48人だった。合計150人。1日に10人以上が重傷をおってここに運び込まれていることになる。
村で即死した人、金がなくてここまで運べなかった人、軽症だったので地元の病院で手当てを受けている人などを考えると、犠牲者はこの倍にはなるだろう。

アフガンのイラク化。

イラク・バグダッドでは、最悪の時期には一日100人以上が死んだ。中央病院の遺体安置所は、すさまじい死臭であった。
ここミルワイズ病院にも遺体保冷庫がある。イスラムは土葬なので、亡くなっても遺体を焼かずに保存せねばならない。24体入る保冷庫に、7体のご遺体が眠っていた。
昨夏、この保冷庫の電源が切れて、異臭が充満していたという。ここで数日間待って、引き取り手のない遺体は、地方政府が「処置」する。

さて、2度目のカンダハールとも、そろそろお別れである。
信頼できるタクシー運転手を選んで、ここから空港までの、通称「IEDロード」を戻らねばならない。
午後1時、市内のホテルを出発。タクシーは順調に飛ばす。20分ほどで軽い渋滞に巻き込まれる。前方に事故車でもいるのかな、と思ったら、米軍だった。米軍の戦車と装甲車が通過するので、一般車は路肩によける。
通り過ぎて、また10分ほどいくと、今度は本格的な大渋滞。米軍の戦車数十台が約一キロにも及ぶ大車列を作って、「IEDロード」を寸断している。
30分ほど待っても寸分も動かない。仕方なく「IEDロード」をそれて、畑なのか、放牧地なのかわからない乾いた大地を、全ての車が走り出す。

「こんなときが一番危ない。タリバンがあの車列を狙って自爆したら、俺たちは巻き込まれてしまう」イブラヒームが言うまでもなく、全てのトラックドライバー、タクシードライバーは我先に、荒地を進む。
空港まであと数キロの地点。そしてフライト時間が刻々と迫ってくる。
私にとっては緊張の数十分。悪路でタクシーがスタックしないか、立ち往生している車にタリバンが襲ってこないか、飛行機の時間に間に合うのか。3重の恐怖と緊張。
やがて我がタクシーは悪路を抜け、元の「IEDロード」に戻る。

それにしても、何で米軍は道を寸断するのか?「タリバン狩り」でもするつもりなのか?
こんなことを日常的にやられたら、例えば妊婦が出産に間に合わなかったり、急病人が車の中で亡くなったりしてしまう。地元の人々にとっては大迷惑な話なのだ。

何とか空港に着いてカブールへと飛ぶ。しかし今度は私のほか数名の荷物が届かない。
「飛行機が一杯だったので、次の便に積んだ」とのこと。5時間待ち、6時間待ちは当たり前、そして時間通りに飛べば、荷物を積まない。なんともオシャレな航空会社だ。
かくして私は無事カブールに帰ってきた。今夜はイブラヒームと祝杯をあげる予定。

そして明日からはジャララバードに入る。


この左手は切断せねばならない ブログ.jpg 写真はISAF軍に撃たれた子ども。左手は切断しなければならない

自爆攻撃で破壊されたホテルから、ミルワイズ病院まではタクシーで10分ほどの距離。前回よりは緊張の度合いは薄れているが、やはり街行く人々全てがパシュトン人の伝統衣装を着ていて、頭にはターバンを巻いているので、誰がタリバンで誰が一般市民か区別することはできない。
「街の人々の半分が、親族にタリバンがいると考えて差し支えない。このタクシー運転手も信用してはいけない」とイブラヒーム。
アフガンは大家族で、ここはタリバンの拠点。身内にタリバンがいるほうが普通なのだ。

ミルワイズ病院でモレスタンディー外科部長と再会。部長は往診の最中で、空爆や銃撃戦の被害者を診察して回っている。
「前回訪ねた時、空爆で全身を焼かれた少女がいましたね。彼女は今どうしているのですか?」
「アッサン・ビビのことだね。彼女は村に帰ったよ」
「元気になったんですね」
「ザブール州の病院に移った。やけどの状態がマシになったのでね。うん、もう歩けるようになっていると思うよ」

まずは良かった。前回の訪問時に、こっそりと叔父に金を渡していたので、村へ帰るバス代にしてくれたようだ。彼女に会えないのは残念だが、良い知らせである。ちなみにビビちゃんはザブール州カラートというところに住んでいる。平和であるなら、車で2時間ほど。しかしザブール州は、最も戦闘の激しい州の一つ。車で行くのは自殺行為だ。

前回同様、外科病棟を見て回る。
野戦病院状態。顔や手足にギブスをはめた人々が苦しそうにうめいている。

ツーマディヤさん(25)はヘルマンド州の出身。5日前、村に2機の米軍機がやってきた。ヘルマンド州では連日のように、米軍の空爆が続いている。その日は、村の人々の誰か(タリバンとは言わない)が、その戦闘機にRPGか何かを撃った。その砲撃は米軍機には当たらなかった。しかし2機の戦闘機は、急速に村に向きを変えて、村の家々を空爆した。
「2人死んで、4人重傷をおった。俺たちは普通の農民だ。無実の人間をなぜ撃つのか?」全身の痛みに耐えながら、ツーマディヤさんは弱々しく、抗議した。

写真のサタール君(14)はウルズガン州の出身。20日前に、家の前で友人たちと遊んでいたら、ロケット弾が飛んできた。一緒に遊んでいた2~3人の子どもが死んだ。隣のベッドには、そのとき重傷を負った友人が入院していたのだが、本日朝、ウルズガンに帰ったが、彼はまだ治療が必要なので、ここに残っている。
その治療とは…。
彼の左手は皮膚の色が変色し、触っても体温を感じない。医師が「左手は、もうダメだ。これから切断する」と英語で。
左手の指を触りながら、「感覚がないの?」「うん」
「今から左手を失うことについて、どう感じている?」

するとイブラヒームが、「その通訳はやめておこう。彼はまだ自分の左手が切断されることについては、知らされていない」。
差し入れのジュースを上げると、ニッコリと微笑んでくれたサタール君。彼の今後の人生は苦難の連続だろう。

実はこのロケット弾は、米軍ではなくISAF軍(おそらくイタリア軍)が撃ち込んだもの。翌日ISAFの司令官とアフガン軍の責任者が、村に謝罪にやってきた。しかし謝っただけ。その後の補償は一切なかった。
「僕は、もう戦争に疲れたよ」。サタール君の小さな声に胸が痛む。

ディマ・ムハンマド君もやはり14歳だった。ザブール州の出身。1ヶ月前、ザブール州のメーンストリートを米軍が車列を作って通り過ぎた。ザブール州では空爆と地上戦が繰り返され、米軍部隊がコンボイ(車列)を作って、通過することは珍しくない。

ディマ君は遊牧民だ。毎日羊やヤギを追いかけて生活しているのだが、その日はたまたまメーンストリートで米軍と出会った。テレビも新聞もない生活。米軍の車列がどれほど危険か、彼には知識がなかった。ただ好奇心で近づいていった。ただ見たかっただけなのだ。
赤のレーザー光線が出た。これ以上近づくな、のサインである。もちろん、彼はそんなサインを知らない。
そして、撃たれた。

「僕はそのとき、ただ羊を追いながら、薪を集めていただけなんだ。足を打たれて、もう歩けなくなるかもしれない。歩けないと仕事ができないよ」。
米軍には、遊牧民の子どもが自爆テロリストに見えるようだ。1ヶ月を過ぎても、何の謝罪も補償もない。これが「大義ある戦争(オバマ大統領のノーベル賞受賞演説)」なのだろうか。
この病院に来るたびに、激しい怒りと悲しみに襲われる。

実はこの病院には併設して、看護師養成学校が建っている。この看護師養成学校の正面には、アフガン国旗と日の丸。ここは日本のJICAの援助で設立された。
治安上、日本の支援者はいないけれど、立派に看護師の卵を社会に送り続けている。
病院関係者が、私に好意的なのは私が日本人だからという理由もある。また前回インタビューした、国際赤
十字から派遣されている2人の看護師も、いまだに人命を救い続けている。

今後日本の援助のあり方が問われてくるだろうが、何も難しく考える必要はない。このような実績をそのまま伸ばしていけばいい。

War-torn country…戦争で切り裂かれた国。現地新聞は、よくこのような表現で自らの国をあらわしている。30年の長きにわたって切り裂かれ続けた国なので、平和にいたる道筋も、すぐには見えてこないかもしれない。しかし支援は確実に必要で、日本はその先頭に立てる国である。いろいろとフラフラしている新政権だが、給油をやめて平和貢献に徹すれば、きっとこのアフガン問題で国際社会を引っ張っていける活躍ができる、と信じている。

破壊された ホテル ブログ用.jpg 写真は、カンダハールで唯一、警備が行き届いていた「コンチネンタル・ゲストハウス」。クリスマスイブに破壊された。


アフガンにおいて、「テロとの戦い」を強化するオバマ大統領の方針のもと、カンダハール空港は、今、拡張工事の真っ最中である。この空港は軍民共用なので、ここが拡張されるということは、それだけ空爆の回数が増えるということだろう。
無人機プレデターはここから飛んでいる可能性が高い。

空港周辺には、コンクリート壁で囲われた建設会社。ベクテルやハリバートンなどの米国軍事企業が、おいしいところを抜いて、現地企業に丸投げしているようだ。
前回は「西神文化センター」と大書されたミニバスに現地の人々と一緒に乗り込んで、カンダハール市内に向かったのだが、ハッキリ言ってこれは危険。乗客の中にタリバンと通じている人物がいるかもしれない。
運よく国際赤十字の車に乗せてもらって、カンダハール市内へ。

空港からカンダハール市内への道は、別名「IEDロード」「死のロード」と呼ばれているほど、テロが頻発する。特に恐いのが路肩爆弾、IEDである。
死のロードを10分も走ると、前方からイギリス軍の戦車と装甲車が合計6台通過。英国軍が通過するまで、一般車は路肩で待機。全てが軍隊優先である。
さらに5分ほど走ると、今度はカナダ軍が前方から接近。1台、2台…全部で13台の戦車が通過していった。

カンダハール市内に入ると、さすがに軍隊の車列より普通の車が多くなる。昨年10月に宿泊したコンチネンタルゲストハウスへ。カンダハール市内で、警備が行き届いているのはこのホテルだけなので、是が非でもここに泊まらなければならないのだが、様子がおかしい。入場ゲートのところに兵士が二人、銃を構えているのは前回と同じなのだが、何とホテルの窓という窓が壊れているではないか。

09年12月24日、クリスマスイブの午後7時。ロバに荷車をつないで、行商している男がホテルの前にたたずんでいる。不思議に思ったホテルの兵士が、「何をしているのだ」と声をかけた。
大爆発音がとどろいた。男を尋問しようとした2人の兵士、通行人などが12人殺され、ホテルは破壊された。
それから17日。私たちが「泊めてくれ」とやってきたわけだ。

客は私と通訳のイブラヒーム2人だけ。ビニールで応急措置をした窓から隙間風が入る。厨房が壊れているので、満足な食事もない。インターネットも切れている。
そんな「かつての5つ星ホテル」に宿泊する。
このホテルにはジャーナリストや民間軍事会社の社員が宿泊していたので、外国人を狙ったタリバンの犯行なのだろう。クリスマスイブに自爆したのが象徴的だ。

ホテルに見覚えのある顔が入ってきた。昨年10月に取材したカンダハール警察署長である。「このホテルの周囲を壁で囲ってくれないか」と警察署長。「そうしたいのは山々だけど、コンクリート壁で囲うお金がないんですよ」とはホテルオーナー。両者の駆け引きがしばらく続きそうだ。

何はともあれ今回も無事にカンダハールまでたどり着けた。明日は早朝からミルワイズ病院で取材。日が沈めば外へは出れないので、窓ガラスのないホテルで一晩を過ごさねばならない。冷たい夜風が吹き込んでくる。毛布を3枚重ねにして眠るとしよう。