12月24日早朝、モスルを目指しスレイマニア市を出発。クリスマスイブなので日本ではツリーなんかが飾られていると思うが、この街にはほとんどキリスト教徒がいないので、「普通の土曜日」である。
12月のクルドは結構寒い。そしてあいにくの雨。難民キャンプのテントが雨漏りしていなければいいが。
車をぶっ飛ばす事1時間、キルクークに到着。「右へ行けば、アルビル、左はモスル」の看板を、左へ。さらに走ること30分。
「おー燃えてる燃えてる」。地面から猛烈な炎が噴き出して空を焦がしている。油田だ。「北クルド石油カンパニー」という看板。そして周囲は高いコンクリートの壁に囲まれる。クルド兵士が道路に立ち、チャックポイントが増える。そしてパイプラインがはるかトルコまで伸びている。
兵士たちは「住民ではなく油田」を守っている。
油田を通り過ぎて、どんどん西へと進む。昨年の11月、キルクークを訪問した時はこのあたりが前線だった。あれから1年。特に今年10月末から開始された「モスル奪還作戦」で、イラク軍とペシュメルガ(クルド軍のこと)が攻勢に出て一気に陣地を西へと広げた。もちろんその勝利の背後に、米英仏露の猛烈な空爆があった。
ISは敗走して西のシリア方面へ逃げていくが、その時に住民をさらっていき、その住民を「人間の盾」に使っている。なんとかISから逃げだせた人は新避難民となって、クルド側に押し寄せている。
午前10時、ドバスという街に到着。「1ヶ月前にIS兵士が突然、この街を襲ってきた。しかしペシュメルガは勇敢に戦い、ISを追い返した」。通訳ファラドーンが説明してくれる。一方的にクルドが勝ってるわけではない。IS側も警備が手薄な街を集中的に攻撃して、奪い返そうとしているようだ。(現実に、シリアのパルミラはISが奪い返している)
ドバスからさらに30分ほど西へ走る。巨大なキャンプが見えてくる。ディバガ避難民キャンプだ。ここはネットに地図があった。http://reliefweb.int/sites/reliefweb.int/files/resources/20160715%20Iraq%20Flash%20Update.pdf
前線に行く前に、ぜひキャンプの中を取材してみたい。責任者と交渉。このディバガには3つのキャンプがあって、主にモスルとその近郊から逃げてきている。最初はわずか100名程度の小さなキャンプだったが、1年間で2万人になった。今は、ISからの解放で故郷に戻っていく人、新たな攻撃で村が破壊され、ここに逃げてくる人の差し引きで、2万人という数字はキープされている。
広大なキャンプなので、車でざっと周回する。一箇所、車を降りて男性にインタビュー。私のビデオカメラに子どもたちが寄ってくる。この子たちに、兵庫県丹波市の和田中学校から預かっていた草木染めのハンカチを配る。日本の中学生たちが英語で「Peace」と染めてくれたハンカチは奪い合いになった。
キャンプを後にさらに30分ほど西へ。
大きめの工場が破壊されている。2014年6月、モスルを陥落させたISは、クルドの首都アルビルに進出してきた。ここはマハムールという町。この町を陥落させたISは、アルビルを奪いかねない勢いだった。アメリカ2014年8月に空爆を開始。最初の一撃はこの町に着弾した。オバマ大統領は、イラク人、特にヤジディー教徒たちがISに大虐殺されてもすぐには動かなかったが、油田に近いこの街が襲われたら、すぐに空爆で対応したのだ。
マハムール基地へ。この基地は正面の門に向かって左側がイラク軍、右側がペシュメルガ。かつての敵同士が、同じ基地から出撃してIS掃討作戦を行っている。そして両基地の奥には米軍基地がある。
なぜ米軍がいるのか?
それは戦闘指導、作戦立案のためだ。イラク軍とペシュメルガが装甲車に乗って前線に出発する。どちらの装甲車、戦車も米軍の払い下げだ。ちなみにISもモスルを陥落させた時にイラク軍から奪った戦車で戦っている。何のことはない、イラク軍、クルド軍、ISの3者は、すべて「かつては米軍の武器」で戦っているのだ。
ペシュメルガの装甲車の中に入らせてもらう。運転席の窓ガラスに大きな弾痕。
「カンナース(機関銃)」と兵士が説明。IS兵士に狙撃されたのだが、防弾ガラスが強力なので、装甲車は無事だった。IS狙撃兵の腕がいいのか、見事にガラスの中心、つまりブチ抜けば運転手に当たったことになる。
あちらの装甲車も同じ場所に大きな銃痕。結構撃たれてるやないの、ペシュメルガ。
基地からは護衛がつく。護衛の車に守られながら、いよいよ前線へ。
「えっ、何これ?町が全部…」
前線の町ルワラは文字通りのゴーストタウンだった。すべての家が破壊され、誰もいない。ISが奪ったり、ペシュメルガが取り返したり、この町は3度にわたって「所有者」が変わった。両者からの砲撃でほとんどすべての家が破壊された。命からがら逃げ出した住民は、あのディバガ避難民キャンプにいる。そして逃げだせなかった人々は、ISが連れ去っていった。だから町に誰もいないのだ。
無人の町を行く。家が途切れ、視界が広がったところに基地があった。ここだけ人が住んでいる。基地に入る。
「ここは非常に危険だ。IS支配地域は2キロ先。いつ兵士が襲ってくるかわからない」。ファラドーンは早く取材を切り上げろ、と急かす。確かにゆっくり取材するわけにはいかないようだ。ここには時折ロケット弾もとんんでくる。
カリーム司令官にインタビュー。一週間前も兵士が10人死亡し、数十人重傷者が出た。IS兵士を捕まえても自爆するので、その巻き添えでペシュメルガ兵士も殺され、傷つく。戦闘は主に夜間に行われるので、兵士の多くは寝ているようだ。
基地の監視カメラの映像を見せてもらう。わずか2キロ先のIS側がアップになる。カラーでくっきりとした映像、今の技術は大したものだ。
基地を後に、急いでマハムールへと戻る。道中、誰もいなくなった大通りに4台の大型バス。ISから逃げてきた人々だった。夜間にIS兵士の目を盗み、徒歩で10時間歩いてここまできた。バスはクルド政府がチャーターしたもの。このバスに乗って、あのディバガキャンプまで移送される。
乗っていた男性はすべて長いあごひげを生やしている。IS地域では男性は髭を生やさねば、処刑か拷問。女性も民族衣装で顔を隠さずに外出すれば、処刑か拷問だ。靴下なしの子どもも大勢いる。せわしなくポテトチップスを食べる幼児がいる。お腹が減っているのだ。寒い山道を、よく10時間も耐えてきたと思う。
マハムール基地まで戻れば大丈夫。ここまではロケット弾も届かない。
ということで私は無事にスレイマニアまで戻ってきた。平和なスレイマニア、5つ星ホテルがあって、ショッピングモールまである、この町から車で4時間も行けば、そこはISとの最前線である。逃げてきた人々にも普通の生活があった。イラクがここまで混乱したのは、2003年の無謀な戦争からである。ブッシュ大統領が無謀な戦争をしなかったら、ISは生まれていない。「製造者責任」があるアメリカは、空爆を続けて、さらに人々の生活を破壊している。
さてオバマを経て、トランプになった。この戦争はいつまで続くのだろう。

2016年12月20日、関空からのドバイ便。ギリギリに乗り込んだ私の隣に座っていたのは、小柄なおばあさん。私は一人で飛行機に乗るので、隣に座る人も一人旅の人が多い。バックパッカーのお兄さんや出稼ぎに行くイラン人など「濃いめ」の人が多いのだが、今回は全く普通の、いやむしろ海外旅行などしたことなさそうなおばあさん。一人で寂しそうに座っていたのだ。
「どこまで行かれるのですか?」「サンパウロです」。
おばあさんは50年前にブラジルに移住したのだった。
「当時は大変だったのですね。ブラジルへ行けば仕事があると…」「何も食べるものがなかったからね」
おばあさんは沖縄の人だった。8歳の時に終戦、沖縄戦ではガマの中で過ごした。米軍に「保護」されて捕虜収容所で暮らしたが、一番しんどかったのは「食べるものがないこと」だった。
「ブラジル、ドミニカ、ボリビアなどへ行けば食べるものがあるよ」。当時の琉球政府は、南米への移住を奨励していた。移住先がサンパウロになったのはラッキーだった。ボリビアやドミニカの田舎に行った人は荒れ地をあてがわれて、筆舌に尽くしがたい苦労をした後、おばあさんらが移住したサンパウロの村に逃げてきた。そんなウチナーンチュの移住者達とブラジルで生活すること50年。どうしても、死ぬまでに故郷沖縄を見てみたい。
おばあさんは一人で、サンパウロからドバイ、そしてドバイから日本にやってきて、2ヶ月間、故郷沖縄ですごした。そして本日、ドバイまでの便に乗り込んでいたのだった。
「沖縄は変わったわー。いっぱい建物が建ってる」。おばあさんは沖縄の発展ぶりに驚いた。でも変わっていないものもあった。
「オスプレイが落ちたね。知事さんも苦労するわね」。
島民の4人に1人が殺されたと言われる沖縄戦。そして捕虜として収容され、米軍の占領が続いたのち、貧困のために南米への移住を選択。
「戦争がなかったら、普通の人生だったと思います」。ドバイ到着後にポツリと一言。おばあさんは今、ドバイでサンパウロ行きの飛行機を待っている。

8月16日、ガジアンテップで取材開始。まずはリムさん(12)の自宅へ。前回の取材で出会った、リムさん、イスマイルくん(10)のその後はどうなっているのか?粗末な門扉にぶら下がっているチャイムを鳴らす。リムさんが出てきて扉を開ける。「少し大きくなったかな?」。シリア女性は早熟な人が多く、背が伸びて大人に近づいている。
6畳ほどの布団しかない部屋、祖母と3人で暮らす。「おじさんは?」「シリアに戻ったまま帰ってこれないの」。シリア北部アザーズの街に残る親族が病気になったので、おじさんがトルコまで連れてきてここで一緒に暮らすはずだったが、トルコとの国境で止められてしまったのだ。シリア難民の急増で悩むトルコ政府は、難民の再入国を許可しないことが多い。つまり難民にとってシリア帰還は「一方通行」に等しい。
2年前、私は川をたらい舟で越えてシリアへ出入りしたが、あの場所にも巨大な壁ができていて、密入国も無理になっている。
リムさん、イスマイルくんの健康状態、やけどの回復状態を見る。全然変化がない。いや、むしろ悪化している。腹の皮膚を顔面に移植したが、移植後に新たな皮膚ができてこないとダメだが、そこが黒く変色している。栄養、特にたんぱく質が不足すると、筋肉も皮膚も更新しない。病院に行っていないし、薬もないので、当然といえば当然。5月に当面の生活費、病院代として600ドルを手渡したのだが、おじさんが使ってしまったとのこと。そのおじさんも国境で足止めを食らっているが。
つまりこういうことだ。「手術代、薬代としてお金を渡しても、それらは当面の生活費に消えてしまう。だから直接病院に連れて行って信頼できる医師に相談するしかない」。
そんな医師が見つかるかどうか。
リムさん宅を後に、現地NGO「アハサーンセンター」へ。日本語にすると「チャリティーセンター」といった感じ。
ここに戦争で傷ついた人々68人が共同生活を送っている。サーラ・ムハンマドさん(26)はデリゾール市でパン屋さんを営んでいた。デリゾールはIS支配地域なので、この2年間、ロシアとアサド軍の猛烈な空爆にさらされている。7ヶ月前のその日もアサド軍の戦闘機がやってきた。そしてミサイルが店舗を直撃。
店内には灯油タンクがあった。毎日パンを焼くので、油は欠かせない。そのタンクが爆発、店は炎上した。ムハンマドさんの両足は膝上から切断され、残ったわずかな足にもケロイドが残る。「この子が我が家で唯一の男性だったのです。稼ぎ手を失って、デリゾールに残った家族生活もどん底です」付き添いの母が一枚の写真を見せてくれる。生後7ヶ月の赤ちゃん。そう、サーラさんは新婚ホヤホヤで、初めての赤ちゃんが生まれて20日後に空爆されたのだ。
ISは外部との連絡を厳しく制限しているので、こちらからうかつに電話はできない。妻が地下組織でネットがつながるところに行けた時だけ、連絡が取れる。IS支配地域では電話するのも命がけなのだ。
シェイマちゃん(7)は、アレッポの幹線道路で狙撃された。乗り合いバスで移動中のことだった。アレッポには、大きく分けて自由シリア軍、ヌスラ戦線、アサド軍、IS、そしてクルド軍という5つの武装勢力があって、街の実効支配をめぐって猛烈な戦闘が続いている。幹線道路は、自由シリア軍とクルド軍、そしてISの支配地域を貫いて走る。乗客でいっぱいの乗り合いバスは、その幹線道路を走っていた。PKK(クルド武装勢力)がバスを射撃。隣にいた兄は即死、銃弾は標的に当たってから爆発するタイプで、その破片が彼女の顔面を直撃した。
右目は失明、左目はかすかに光を感じる程度。
トルコの病院ではこれ以上の治療は無理だと告げられた。「ドイツかカナダ、日本に行くしかない、と言われたよ」。付き添いの父親が絶望的な状況を語ってくれる。この子を救うには、1 ドイツ行きのビザが下りて(シリア人には難しい)2 相当な手術費用(おそらく100万円以上)と移動費用(約50万円)を集めて 3 ドイツで受け入れてくれる病院がないと、奇跡は起こらない。
いっそ日本に連れて帰りたいくらいだ。
ヘクマト・ハムダーンさん(18)は自由シリア軍の兵士だった。米仏露などの空爆で、ISは支配地域を後退させている。自由シリア軍が前進し、支配地域を奪い返していく。そんなとき不用意に入ると‥‥。逃亡する際、ISが仕掛けた爆弾が炸裂するのだ。
細い釣り糸が爆弾に結びついている。その釣り糸に足をかけると、ドッカーンと大爆発。昨年、イラクの基地でこの対処方法を取材した。教官は「仕掛け爆弾と、リモコンで爆発する路肩爆弾が一番危険だ」と言っていた。まさにその爆弾でやられたのだ。
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」。反戦川柳作家、鶴彬の句を思い出す。アサド軍の空爆だ。彼は兵士ではなく普通の市民。アレッポではこのような犠牲者が急増している。早くこの戦争を止めないとダメだ。

8月15日早朝、イスタンブールに無事到着。現地の英字新聞「デイリーサバーハ」(毎朝新聞という意味)を求める。民主主義を求める新聞として創刊されたようだが、最近はエルドアン支持、ギュレン派に厳しい論調を展開しているようだ。
この新聞にヌレティン・ベーレンという人物のインタビュー記事が載っている。
要約すれば、ベーレンとギュレン師は幼なじみだった。ギュレン師はトルコ西部イズミルで活動を始めた。1966年からモスクの中に貧困層の避難所を作った。70年代に入るとトルコは学生運動が盛んになった。左翼と極右勢力の衝突で、保守派の学生は行くところを失った。ギュレン師は保守派学生の避難所を作った。アパートを借りて、寮と下宿にして、瞬く間に「ギュレン師のシェルター」は、トルコ全土に広がった。これはヒズミット(ギュレン運動)と呼ばれるようになった。やがてギュレン師はトルコの私立大学、予備校を建設、保守系学生を養成した。これで資金と名声を集めた。
旧ソ連が崩壊した。ギュレン師はロシアに進出。ロシアへ英語教師を送り込んだが、この英語教師の中に米国、つまりCIAのエージェントがいて、ギュレン師とCIAは密接につながるようになった。
1996年ギュレン師は弟子たちに、トルコの軍と警察、裁判所を支配せよ、と演説した。こうしてギュレン師はトルコの機密事項をつかめるようになり、それをCIAに流し続けた。ギュレン師の組織FETOとCIAは約40年前からつながっている。
だから、今回のクーデターは背後にCIAがいるのは間違いない。
以上がベーレン氏の発言要旨である。この新聞がエルドアン大統領の支配下にあって、ギュレン師に反発するキャンペーンを張っているのは明らかなので、話を全面的に信用することはできないが、「背後にCIAがいる」という指摘は、傾聴に値すると思う。話も具体的で、エルドアンと米国の関係を考えれば、「やるかもしれない」と思うからだ。
エジプトがいい例である。アラブの春で、民主的に選ばれた政権を、軍がクーデターで倒して、シーシが大統領になったが、ここは一気に「親イスラエル、親米政権」に変えられたのだ。
クーデター後、エルドアンはロシアに急接近している。この地域のパワーバランスがまた、激変していくのではないか。

これは本当に不本意なことです。しかしなぜか「身代金の話をした奴は国賊」のような話になったので、常岡氏と一緒に私のことを非難している藤原亮治氏が、一番先に「身代金の話をしていた」事実について、私と彼とのメールやりとりを公開します。なお、公開に当たって、私は期限を切って、藤原氏に「公開するけれど、それでも大丈夫か?」と確認しました。彼は「どうぞ」と回答したので、公開します。彼は誠実なジャーナリストだと思います。なので、困難な状況の中、トルコ南部のアンタキヤに住むカーセムのところまでたどり着いて、安田ささんの命を救いたいと願ったのです。それは私も同じです。こんなことを公開しなければならないのは全て常岡氏の一方的な「思い込み」による弊害です。彼がなぜ常岡氏の言うことを信じてしまったのか?なぜ本当の敵「安倍政権」への怒りを共有せずに、私へ誹謗中傷をするのか?猛省を求めたいと思います。以下、昨日(6月8日)から本日(6月9日)までのメールやりとりです。

常岡氏のいわれなき中傷に対して、私が抵抗を始めた最初の記録になります。下からの上へメールやりとりです。


藤原さん
今、いろいろ考えておられるのでは、と思います。
私は、あなたに言わねばなりません。
「なぜ、そんなに上から目線なのですか?」と。
プライド? そんなもの捨てなさい!
あなたが、カーシムとあったのは事実だし、安田さんを救いたいと思って
身代金の話もしたのも事実でしょう?
みんな努力して、「仲介人」にたどり着けば、安田さんを救いたいので、
そう言いますよ。だからあなたもヒューマニズムがあるのでしょう?

だからこそ、あなたには、常岡氏に一方的に攻められて反論しない
私に、「何があったのですか?」と、それこそ「裏をとる」必要があったのですよ。
2月23日に、私が撮影したカーセムの映像は、具体的で、説得力があります。
一方、常岡氏、あなたの、私への罵詈雑言は具体性も説得力もありません。

みんな、そこをみて判断するでしょう。
私は山本美香さんが殺害された2週間後に、同じアレッポに入っています。
彼女が何を伝えたかったか、なぜシリアに入ったのか、直後に(運が良くて)
撮影できた私が、アレッポの映像を流すことによって、
「やっぱり現場のことを知らねば」「山本さんはこのことを伝えたくて現地に入ったんだ」
と思う人が増えてほしい、と考えたのです。
あなたの行動を振り返ってください。
私に取材することなく、いろいろと言ってますね。
その上で、問題のビデオも見せるつもりはない、と。
その上で「ジャーナリス芸人」と勝手につぶやいたのですね。
(別に私はあなたのつぶやきは問題にしませんが)


カーセムは「あなたが初めてやってきて、安田さんの交渉をした」と言いました。
その映像があります。
これが最後の提案です。
「あなたは今までのご自分がやったことを反省し、本当に安田さんを救出するために
誠意を示しますか?」
それとも、今までどおり、常岡氏らとつるんで、私に罵詈雑言を投げかけますか?

私は常岡氏に対して、訴訟をするつもりです。なので、今回のメールやりとりも
残ります。ここであなたから返事があって、謝罪があれば、
このメールやりとりも裁判に出さないでおきましょう。
(逆に言えば、返事がないことも証拠になりますね)

最後のチャンスです。明日、新潮の記事が出て、私は批判にさらされます。
あなたが、どうなさるか、明日の朝、9時まで待ちます。

お返事待ってます。
西谷拝


2016/06/08 19:00、Ryoji FUJIWARA/Japan Press Inc のメール:

西谷さん

あきれてものが言えませんが、では、普通の感覚を持った人間が、
彼は、藤原というジャーナリストが来て、「金ならいくらでも出す」「100万ドルでも」
と言ったと証言しました。
と、西谷さんは本気でお思いですか?
いったい、100万ドルどころか10万ドルのカネをどうやって、誰が用意するんでしょうか?
西谷さんの「普通の感覚」はあまりにも私とは違うようです。

それと、
≫10日金曜日、午後1時に勝どき駅の改札で
いかがですか? お手数ですが、会えるかどうか、
お知らせください。(本日中に。スケジュールを組まねばなりませんから)
私も色々とやらねばならない仕事がありますので。

会いたいといったのは私ではなく、あなたなのですが。
私もいろいろと仕事がありますが、あなたは自分の都合は押し付けてくるが、
相手の都合は関係なしですか。
ものすごい「普通の感覚」をお持ちですね。

時間の無駄なので、今後ご連絡は不要です。
公表したら西谷さんが恥かくだけですが、お好きなように。


藤原

-----Original Message-----
From: 西谷 文和 [mailto:nishinishi@r3.dion.ne.jp]
Sent: Wednesday, June 8, 2016 6:48 PM
To: Ryoji FUJIWARA/Japan Press Inc
Subject: Re: 西谷です

ではそのビデオとやらを見せていただけないのですね。
「証拠のビデオを見せてもらえなかった」という事実は公表しますね。
というのは、常岡氏の誹謗中傷を明らかにして、安田さん解放を
政府に迫らねばならないからです。なので、「他のジャーナリストも
いっぱい仲介人に会っていること」「身代金はいくらくらいなのかを問うていること」
これらが「普通の人権感覚を持った人」なら尋ねる事項なのです。
だからあなたも尋ねたのでしょう?私もNHK、その他テレビ局も同じような
ことを聞いてますよ。なのに常岡氏が、私にだけ「それをしたからダメになった」
と吹聴するので、こちらとしては「身を守るため」にやらねばなりません。
明日、常岡氏の中傷が週刊誌に出ます。
なので、自己防衛のためにあなたのことも公表せざるを得ないのです。

私の条件を聞いていただければ、公表しませんが。
(あなたのツイッターでも結構誹謗してますよね)
午後7時までに連絡なければ、アップします。
西谷


2016/06/08 18:38、Ryoji FUJIWARA/Japan Press Inc のメール:

西谷さん


重ねて言いますが私はカネの話など一言も話してませんし、プロならご自身の足で
裏を取ってきてください。
それと、私は安田さんに関する交渉のやり方について批判めいたことは
発言しておりますが、
「西谷さんが交渉をしたので困難になった」という発言はしておりません。

いきなり私に脅しをかけてくるような方と会うつもりはありませんのであしからず。


藤原


-----Original Message-----
From: 西谷 文和 [mailto:nishinishi@r3.dion.ne.jp]
Sent: Wednesday, June 8, 2016 6:05 PM
To: Ryoji FUJIWARA/Japan Press Inc
Subject: Re: 西谷です

藤原さん
わかりました。少なくとも彼は「日本政府も来ない、家族も来ない中で、藤原氏だけがやってきた」と申しております。
そして金の話をした、と。どちらかが嘘をついていることになりますね。では裏をとるために、
そのビデオを見せていただけませんか?
私はあなたがカーシムに会いに行った話は誰にも喋ってませんし、黙っていましたが、常岡氏が
「西谷が身代金交渉をしたので、困難になった」と騒ぐので、(あなたも同調されているのでは?)
お尋ねしているのです。10日に東京に行きます。その時にぜひビデオを見せてください。
西谷
2016/06/08 17:59、Ryoji FUJIWARA/Japan Press Inc のメール:

西谷さん


はじめまして。
アハマド・カーシムと話したとき、私はビデオを回してましたので、
家に入る時からインタビュー終わる時まで話は録音されておりますが、
そんな話は当然ながら一言も言ってませんよ。
証拠がありますので、彼の嘘はいくらでも証明できますよ

どうぞ、そこかしこでしゃべっていただいて結構ですよ、ご自身が恥をかきますから。
あの詐欺師の話を裏もとらず、そのまんま信じて記事にされるのこそ、
あなたは職業人としてやばいのではないでしょうか?
詐欺師に見事に引っかかった上に、それをそのまんま記事に書き、さらには私に脅しですか(笑)。

いきなり面識もないのに、嘘に踊らされた上の脅しの如きメールを送ってくるような
人間と話すつもりはありません。

用事があるのなら、どっかで調べて自分から電話をかけてきてください。
どうぞご自愛ください。


藤原


-----Original Message-----
From: 西谷 文和 [mailto:nishinishi@r3.dion.ne.jp]
Sent: Wednesday, June 8, 2016 5:19 PM
To: fujiwara@j-press.co.jp
Subject: 西谷です

藤原さん、初めまして。
安田さんのことで、常岡氏からいわれなき中傷を受けております。
あなたも色々と発言されてますね。常岡氏が言うには、「ヌスラと
身代金なしで解放交渉中だったのに、シハブと西谷が出てきて、邪魔をした。
安田さんの命を危険にさらしたのは身代金交渉をした西谷だ」と。
実は私は、今年2月、アンタキヤでアブーカーシムと会って、インタビュー撮影に成功しています。

彼は、藤原というジャーナリストが来て、「金ならいくらでも出す」「100万ドルでも」
と言ったと証言しました。私はこれを2月23日に撮影しています。あの時点で、シハブはアブーカーセムに
身代金なしの解放交渉を依頼していたが、「フジワラとアハマドフルサードペイジ、そしてムハンマドタラスが
交渉を困難にした」と言いました。このビデオがあります。

藤原さん、黙っていますよね、この事実。
本日、午後7時まで待ちます。一度私の携帯にお電話下さい。

安田さん拘束事件に関して 6月9日時点での、私の見解と常岡浩介氏に対する公開質問状

自称ジャーナリスト、またはジャーナリスト芸人と呼ばれている西谷です(苦笑)。本日発売の週刊新潮に悪意ある記事を書かれました。こうなった以上、今までの沈黙を破り、事実の確認と質問をしなければなりません。
その前に、なぜ私が常岡氏のツイッターなどによる非難に反論を控えていたか。
それは何よりも現在フリージャーナリストで、シリアで拘束されているとみられる安田純平さんの1日も早い解放を願っているからです。相手側が期限を切ってくるという非常に重要な時に、政府の交渉を邪魔してはならないので、静かに見守ろうとしていたのです。しかしあまりに加熱して、このままでは私たちの名誉が毀損されてしまう恐れがあるので、これまでの事実経過を説明し、常岡氏に回答を求めたいと思います。

1 常岡氏らによる「身代金なしで交渉中だったのに、西谷、シハブが仲介人と交渉してご破算になった。西谷、シハブは、邪魔をしている」という中傷について。

まず、いつ、どのように、誰と「身代金なしで交渉し、それが解決寸前だった」のでしょうか?
何の証拠も示さず、一方的に主張しています。私たちのために失敗した、というなら、その証拠を見せてください。

ちなみに、「仲介人と接触する」ことがあたかも罪であるかのような言い分ですが、タリクは拘束されている安田さんの写真や画像をネットにアップした人物なのです。タリクには、日本のマスコミ各社も取材しています。ジャーナリスト芸人(苦笑)の私も、同じようにタリクに会って、「要求は何か?」「解放の条件は何か?」を尋ねました。それは「国民の知る権利」と「安田さんの解放」のためにジャーナリストなら当然尋ねることだと思います。「なぜタリクと会ったことを非難したのか?その根拠は何なのか?」。この点も合わせて答えてください。

2 今年2月23日に、私は別の仲介人、カーシムと接触しました。カーシムは、フジワラという日本人ジャーナリストがやってきて、「身代金はいくらか?」「いくらでも払うので救出を」と求めたと証言しました。(このビデオもあります)この人は藤原亮治さんというジャーナリストです。やはり「身代金の額」を尋ねられたようです。「安田さんを救いたい」と考えて、取材されたのでしょう。これが普通だと思います。ただ藤原さんは私に対して「カーシムとは一切、金の話はしていない」とおっしゃいました。「金の話をしなかった」証拠のビデオがある、と。私にはカーシムの証言ビデオがあるので、どちらかが嘘をついていることになると思い、「そのビデオを見せてほしい」とお願いしましたが、彼は拒否したので、「金の話をしたか、しなかったか」については事実確認ができていません。藤原さんなどのジャーナリストも、私にジャーナリスト芸人(苦笑)というツイートをしていました。つまり、なぜかこの事件の途中から『身代金の話をしてはいけない』かのような風潮になったのです。(おそらく常岡氏が私にそのようなツイートを続けたからだと思います)不思議な話です。ヌスラが拘束していて、その要求は何か?この話を聞いてはならないとすれば、事件の全貌が見えませんね。ちなみに2月の時点で、シハブは「できるだけ身代金が低い額で、つまり『安田さんを拘束した期間の食事代金および宿泊費』という名目で、いくらくらいなら?と尋ねていたそうです。カーシムは「フジワラがいくらでも払うといったので、吊り上ってしまった」と言いました。
(本当は、こんな証言を公開したくなかったのです。しかし藤原氏が証拠のビデオを見せない、私と話をしない、と対話を拒否され、ネット上に公開してもいいとの態度だったので、公開せざるを得なくなりました。藤原さん、恨むならこんな状況を展開した常岡氏を恨んでくださいね)

3 仲介人タリク、その上司Aにインタビューした経過を述べます。
5月16日、私はトルコのシャンリウルファという街で彼らに会いました。
あの時点でスペイン人3名が解放されていました。身代金の具体的な額も報道されていました。
それで、Aは「ヌスラとスペイン政府の間に立ったこと」「スペイン人がどのようにして解放されたかの詳細」を証言した上で、「国境で身柄とお金が交換される写真」「解放直前のスペイン人たちの写真」を持っていました。
これらは「当事者しか知らない情報」だと思い、私は「政府はAと交渉すべきだ」と思いました。3月に安田さんの映像をネットにアップしたのも、タリクでした。交渉できるのは政府だけです。なので、この事実を政府に情報提供しようと思いました。タリクはこの時、「政府が交渉しなければ、近々、新たな映像または画像をアップする」と言いました。(それが5月30日にアップされたあの画像です)時間的な余裕がないと思いました。
つまり、ヌスラは直近のスペイン、イタリアなどの解放交渉で、「身代金」を求め、スペイン、イタリア政府が交渉に応じたから解放したのです。このことはすでに各国で報道されています。ロシアとアサド軍の空爆で追い込まれたヌスラは、「金がいる」と言いました。だからこそ、「日本だけが、それも常岡氏だけが身代金なしで交渉解決できる」と主張される根拠をお聞きしたいのです。

もちろん、安田さんの人命がかかっていますので、本当はこんなことを質問している場合ではありません。ただ、常岡氏たちが週刊誌、ラジオなどで私たちの実名を挙げて騒いだので、こうなったのです。私は今まで、このことでメディア上で常岡氏を誹謗したことはありません。常岡氏が不必要に騒ぐことによって、政府交渉に支障が出たとするならば、責任は重大だと思います。

4 常岡氏たちの主張は、結局、(もし交渉しなかったならば)政府をサポートするものになってしまう。

私は安田さんの解放は政府が水面下で身代金交渉を進めるしかないだろう、と考えています。5月16日の時点で、タリクとAは「まだ政府関係者と接触できていない」と証言しました。後藤さんの事件の教訓を生かし、政府は速やかに交渉のテーブルについてほしい、と思いました。(水面下で交渉されていることを願っています)
5月30日に、新たな画像が出ました。なので、私は政府に「一度お会いして、ビデオと隠し撮りした音声を提供するので、分析してほしい」とお願いしました。(5月16日時点のビデオですから、一番最新のものだと思うのですが)1週間待ちましたが、返事がないので、また6月7日に電話をしました。本日時点で、まだ政府からの連絡はありません。

常岡氏たちが大騒ぎをすることによって、一番大事な「政府が交渉を進める」ことに支障が出ませんか?
この点、常岡氏の見解を求めたいと思います。

以上の点に加えて、「私やシハブに話も聞かずに、実名を挙げて少なくないメディア上で、憶測で、誹謗中傷した」ことに対して謝罪を求めたいと思います。
2016年6月9日 西谷文和


5月17日。今日はシャンリウルファ最終日。まずはDrムサンナ、通訳のムスタファと一緒に町の問屋街で扇風機の買い出し。シャンリウルファの夏は気温50度を超えるそうだ。まだ五月というのに、汗ばむ陽気。難民たちは窓のない倉庫や空き店舗に住んでいるので、扇風機がなければ地獄の日々。なので、扇風機と食料を買いだす。トラックに詰め込み、ハヤーティ・ハラーン地区へ。難民たちは賃貸料が安いので、ここに住み着いている。空き倉庫からわらわらと子どもが出てくる。扇風機を配ることがばれると、パニックになる。なのでトラックを隠して、ムスタファの車に少しずつ積み込んで、少しずつ配っていく。それでも目ざとく、子どもの手を引いて母親たちが寄ってくる。
「わかった、あなたがたの家に案内して」。母親たちは満面の笑顔になり、それぞれの家に招かれる。「ここで難民生活をして3年になるけど、扇風機をもらったのは初めてよ。本当にありがとう」。母親がお礼を言ってくれる。
支援物資のチョイスは間違ってなかったようだけど、何しろ難民の数が多すぎて、みんなに行き渡らない。11月にここを再訪することになるかもしれないが、その時はたくさんの毛布が必要だろう。
食料はDrムサンナが運営するリハビリ施設、ブナンソサエティーへ。ここで週6日配食サービスをしていて、約1500人が炊き出しを受けているというので、ここに援助した。「これで3ヶ月は持つ。ありがとう」カメラの前でムサンナが礼を言ってくれる。
今回は「イブラヒーム募金」として多くの方々からカンパをいただいた。イブラヒームの手術は成功し、彼の右目はなんとか失明せずに済んだ。実は彼はさらなる手術が必要なので、ドイツへ飛んで行った。だから今回、イブラヒームを撮影することはできなかった。ツイッターで、後日、彼の手術後の写真をアップする予定。
何はともあれ、募金いただいた皆さん、ブログを読んでいただいている皆さん、ありがとうございました。

5月16日シャンリフルファの「ブナン・ソサエティー」へ。ここに約50名の戦争で傷ついたシリア難民が共同生活をしていて、日曜日をのぞく週6日、約1500名のシリア難民に給食サービスを展開している。トルコ政府、国連からの援助はなく、すべて近隣住民、亡命シリア人、その他人道支援者からの募金で運営されている。小さいながらもリハビリ施設があって、手足を切断した人や、背中に銃弾を受けて下半身付随の人たちが、懸命にリハビリに励んでいる。責任者Drムサンナが施設を案内してくれる。
顔にひどい火傷を負った若者がいる。自宅にアサド軍の戦車砲が飛び込んで大火事になった。戦車砲にもいろいろあって、家を焼き尽くすタイプのものだろうか?気を失った彼が病院のベッドで目を覚ました時、唇は癒着して口が開かなかった。両目は手術でぼんやりと見えるようになってきたが、まだ左目はまぶたがなく、インタビュー中にも涙が滴り落ちてくる。痛み止めの薬もないので、毎日を耐え忍びながら、ここで座って1日を過ごす。むごいことだ。
私のビデオカメラは顔認証が付いているので、ビデオ撮影しながら自動的に写真を撮っていくのだが、彼の写真は撮影されなかった。カメラが彼を「顔として認識しなかった」のだ。なんということ。
「ホンダ、ヤマハ」。私が日本人だとわかって陽気に声をかけてくれるおじさんがいる。足を失う前はバイクが大好きで、よくバイクで釣りに行っていたとのこと。彼の両足は切断され、左肩も重傷で腕を伸ばせば、明らかに左手が短くなっている。アサド軍のロケット弾の直撃を受けた。普通の市民で通りをただ歩いていただけだったのに。
義足を持ち上げてみるとかなり重い。日本ならもう少し軽くて実用的なものがあるのではないだろうか?
さてシャンリウルファの取材も明日で終わりだ。明日は支援物資を配布する。


5月15日、早朝より車をチャーターしてシャンリウルファを目指す。国道400号を東へ。トルコは高速道路網がしっかりしているので快調に飛ばす。
ユーフラテス川を越える。この川の下流にはISの首都ラッカがあり、今も戦闘が続くイラクのファルージャへとつながる。
スルチという町への別れに到着。スルチの小高い丘を越えれば、そこはコバニ。ISとの激戦をクルド軍が制して、いまはペシュメルガ(クルド軍)が押さえている。かつてはこの高速道路から黒煙が見えたという。
2時間でシャンリウルファに到着。もともと人口60万人の町が、シリア難民40万人以上の流入で、あちこちに新築ビルが建設中だ。この町は単にウルファと呼ばれている。第一次大戦後、フランスに占領された町を、市民が蜂起して独立を勝ち取った際に、勇敢な市民に対して「シャンリ」と讃えられたので、シャンリウルファとなった。この点はガジアンテップと共通する。
シャンリウルファの歴史は古く、紀元前2千年頃から栄えたと言われ、2世紀にはキリスト教の町として、さらに11世紀には十字軍の拠点都市となった。「元祖キリスト教」の町だが、住民のほとんどはイスラム教徒である。
ハヤーティ・ハーディン地区へ。倉庫や空き店舗が並んでいるが、これらは全て難民たちの住居になっている。10数キロも行けばシリア、それもIS支配のデリゾールやラッカに近く、難民たちはまずはこの町にやってくる。
アリーくん(10)は1年前にここに逃げてきた。早朝4時から夕方6時まで、ゴミを拾う毎日。日曜日だけお休みなので、たまたまここで出会えた。「学校に行きたい?」と尋ねると、首を振る。「お母さんを助けないとダメなので、働かないと」。1日ゴミを拾って、わずか10トルコリラ(約300円)。しかしこれが唯一の収入なのだ。10才の子どもの両手は黒ずみ、何を聞いても笑わない。
シャンリウルファで耳をすますと、戦闘機の音が聞こえる。米軍、トルコ軍がIS支配地域を空爆しているのだ。空爆への対抗としてISは、またどこかでテロを起こすだろう。デリゾールやラッカの人々は、ISの恐怖政治と米軍、トルコ軍の空爆から逃れるために、この町に逃げてくるだろう。アリーくんのような少年がますます増えていく。北風と太陽。人々はいつまで北風に耐えることができるのだろうか?

リムさん(12)、イスマイルくん(10)のきょうだいに出会った時、私は息を飲んだ。眉毛がなく、顔面が引きつり、唇がめくれ上がっている。顔面に大やけどを負ったことが一目でわかる。
2015年2月、アレッポ北部はアサド軍の総攻撃を受けていた。自由シリア軍の兵士だった父親はすでに戦闘で死亡していた。家には母ときょうだいが残っていた。アサド軍のヘリコプターがやってきた。ドーンという爆音とともにドラム缶が落ちてきた。タル爆弾に詰められたガソリンが爆発、家の中は猛烈な炎に包まれた。リムさんの記憶はここで途切れている。外では駆けつけた親族が必死で鉄の門扉をこじ開けようとしていた。アレッポ北部では、ISやアサド軍の襲撃が続いていた。だから万一の時に備えて頑丈な門扉に取り替えていた。逆にそれが仇となった。なかなか門扉が開かないのだ。5分、10分が経過、親族にとっては長すぎる時間だった。ようやく門扉が開き、炎に包まれたきょうだいが救出された。すぐにトルコ・アナダンの「やけど専門救急病院」に搬送された。1ヶ月後、リムさんが目覚めた時、彼女の顔面は焼けただれ、喉には気管切開で大きな穴が空いていた。
一緒に家にいた母と2人の叔父はすでに死亡していた。
孤児になったきょうだいは、アダナの病院からガジアンテップの大学病院に搬送された。数回の手術の後、叔父の借りているアパートにやってきた。
「右耳は焼けてなくなったの。目は見えるけど、まだ手術が必要だと言われたわ」。リムさんは喉の穴に指を置いて喋ってくれる。そうしないと息が漏れて言葉にならないのだ。アサド軍は「アレッポ北部にISがいるので空爆して掃討した」と発表している。実際は自由シリア軍が押さえている地域で、空爆されたのは普通の市民、子どもたちだ。民家へのタル爆弾投下は戦争犯罪であり虐殺である。こんなことが許されていいのだろうか。
アサドはロシアのプーチンに守られて今のところ安泰だ。しかし人々の間に「虐殺の記憶」は残る。彼女のやけどが何よりの証拠。戦争は人を狂わせる。そうならないように外交で解決するのが大統領の仕事だったはず。アサドは世襲で政権を受け継いだ。日本や北朝鮮もそうだが、「権力が世襲で受け継がれる」ことの危うさを感じる。人の痛み、嘆き悲しみを知らない権力者が一番危険だ。リムさんを取材して、絶対にアサドを許してはならないと、改めて感じた。

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