日付が変わっていよいよ本日から、大阪地裁で松井知事に対し、「橋下徹前知事に、WTCビル購入と庁舎移転で浪費した96億3千万の税金を返還するように命令せよ」という住民訴訟が始まる。
明日、裁判所でなぜ80名を越える大阪府民が、この裁判を始めたか、について説明することになる。そのため、経過をまとめたので、以下、ご紹介する。
私たちがなぜ訴訟するに至ったか。
⑴ そもそもの発端
まず08年8月、就任まもない橋下知事がこのビルを視察した際、「関西再生の光が明石海峡の奥から見えた。ここしかない」と、ほぼ独断で購入&移転を決定した。しかし府議会議員や専門家などから、「耐震性に疑問がある」「防災拠点にするのは無理」「遠くて不便だ」など異論が噴出。そんな「真っ当な意見」に全く耳を貸さず、橋下前知事は突っ走った。
⑵ 府議会への恫喝
09年3月、府議会は移転にも購入にも反対した。知事は09年10月に再度移転条例を提案、「否決されれば出直し知事選挙、議会解散」など府議会議員を脅迫しながらの採決だった。この結果、府議会は「移転条例には反対だが、購入予算には賛成」という玉虫色の結論を出した。
ここで特記すべきは、3月議会は無記名投票だったが、「これでは誰が賛成し、反対したか分からない」と前知事は記名投票を要望。10月議会は府議会議員が「恫喝」された中での、記名投票だった。
その結果としての、「購入に賛成、移転に反対」。
⑶ 移転条例は否決されたが
府議会における2度の移転案否決にも関わらず、知事は10年4月頃から11月頃にかけて、職員の引っ越しを開始させ、現在はWTCビル(咲洲庁舎)に本庁舎5千人中、約2千人の府職員が引っ越しを完了させている。これは府議会が移転条例は否決したものの、移転費用を含めた予算を通過させたからである。
⑷ 地震が来た
WTCビルは、大阪南港の埋め立て地に建てられた55階建ての超高層ビル。南海、東南海地震が大阪平野を襲えば、咲洲自体が陸の孤島になってしまう。はたして大丈夫なのか、と少なくない人々がやきもきしていた。
そして今年3月11日、巨大地震が東日本を襲った。遥か彼方で起こった地震にも関わらず、WTCビルは長周期振動で大揺れ。ビル壁のひび割れ、天井パネルの落下、水道管の断裂など350カ所に及ぶ被害が出た。
⑸ 他人(特に職員)には厳しく自分には甘い
地震後、あのビルに移転するのは最初から無理だった、という常識的な指摘に対して、知事は「当時は巨大地震を予想していなかった。予測できない事態で責任を負うなら政治は一切できない」と開き直った。
原発事故は予測できなかった。想定外だ」と言い訳する東電ソックリの対応だった。
⑹ ついに移転断念
昨年8月、4回に及ぶ専門家を含めた会議の答申を受け、さすがに橋下知事はWTCへの全面移転を断念した。しかし2千人もの職員、来庁者、テナント営業者などの安全を考えると、早期に耐震工事を行わねばならない。その工事費が一部報道では130億円もかかるといわれている。購入費約85億、職員の移転費約11億、耐震工事費(今後いくらかかるか分からない)は全て、私たち府民の血税である。
「府庁舎が老朽化しているのであれば、現地で建て替える」のが普通の知事の判断ではないだろうか?
⑺ 拙速で強引だったために
府議会で移転条例が否決されたあと、ある府議会議員は、「結論を急がず、特別委員会で議論してはどうか」と提案した。通常、知事と議会の判断が分かれるときなどは、「継続審議」になる。ところが、前知事は「取り憑かれたように」移転を急いだ。もし特別委員会が開かれていれば、その間に311が来て、人々の地震に対する認識が変わった。つまり購入も移転もしなくて済んでいた。
つまり、「橋下徹という個人の性格」「すぐに白黒つけたがる」「敵を作り(この場合は移転反対の府議会議員)叩いて、自分の人気を上げる」という唯我独尊の府政運営がなければ、無駄な税金を浪費しなくて済んだのである。
以上が提訴に至る経過である。
※今後の闘い
今後裁判では、⑴ 購入前に、この「欠陥ビル」について、ちゃんと調べていたのか。⑵ なぜ府議会が移転条例を否決しながら、購入&移転予算を認めたのか。⑶ そもそも長周期時振動や液状化、陸の孤島化などを、「知見」としてどこまで考慮したのか。⑷ 交通至便な大手前から、無理して南港のWTCに移転する合理的な理由はあったのか。⑸ 出直し知事選挙などの恫喝行為で、民意が歪められたのではないか。
などなど。
上記のような点について、橋下市長本人を証人喚問するなり、府議会議員の証言を取るなりして、私たちはまず「真実を知りたい」と思う。その上で不当な購入&移転だと証明されたのなら、その分を返還させたいと考える。
これから裁判が始まっても、おそらく本人は不誠実なコメント、逃げ、責任転嫁などに終始するだろう。しかしこの問題は曖昧にすることはできない。数年かかるかもしれないが、勝利するまで闘いたい。
1月6日に弁護団と会議をして、訴状が完成。裁判のポイントとなる点を整理しました。同時に提訴の段取りを決めたので、以下お知らせします。平日の午前中なので、集まりにくいかもしれませんが、たくさんの原告とサポーターで提訴し、「大勢の府民が、この税金浪費を許していないぞ」というところを示しましょう。
日時: 1月12日(木)午前9時半 大阪地裁玄関集合
提訴: 同日午前10時頃
集会: 提訴後、裁判所の隣、弁護士会館で集会
集会終了後、記者会見。
以上です。
なお提訴にあたって、例えば「橋下さん96億円返して」「2重行政解消を言う人が2重庁舎に」「WTCビルは地震で壊れる。欠陥ビルに府民の税金」
などのプラカードや横断幕を持ち寄って参加していただければ、ありがたいです。みなさんのご参加お待ちしております。
1月12日から橋下前知事に対して、「WTCビル購入&庁舎移転に伴う税金投入」問題で住民訴訟を始める予定だが、現在続々と委任状が到着している。委任状は、この裁判の原告になるという意思表明である。「大阪に独裁はいらない」という、みなさんの熱い思いを感じる。
数年前まで、イラクへの自衛隊派兵は違憲である、という訴訟を闘っていたが、まさか今度はこのような形で、大阪地方裁判所に通うことになるとは思ってもみなかった。
いち早くブッシュに賛意を示して、イラクに自衛隊を送ったのは、小泉首相だった。その小泉劇場に似ているのが、維新旋風である。新自由主義の「小泉構造改革」で、日本は格差が広がり、失業者が町にあふれ、貧困層が急増した。今でこそ怨嗟の声がうずまく小泉構造改革であるが、当時は「純ちゃーん」と、街頭で叫ぶ主婦の姿に代表されるように、「自民党をぶっ壊す」(本当は国民生活がぶっ壊されたのだが)という単純なフレーズが支持されていた。
「大阪市役所をぶっ壊す」と彼は言い、おそらく大阪の教育をぶっ壊してしまうだろう。数年先には、大阪府民の間に怨嗟の声が広がってしまうかもしれない。そうならないようにするには…。
裁判は長い闘いである。少しずつ前へ進むしかない。1月は裁判、2月はアフガン、3月は震災一年、4月は…。新年早々、気が遠くなるような難題続きだが、まぁぼちぼち行くしかないな。
伊丹万作の「戦争責任者の問題」というエッセーがある。概略を紹介する。
「(前略)多くの人が今度の戦争でだまされていたという。私の知っている範囲では俺がだましたのだといった人間は一人もいない。たとえば民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。するとたった一人や二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でもわずか一人や二人の知恵で一億の人間がだまされるものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられるよりもはるかに多かったに違いないのである。しかもそれは「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家に分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かをだますということを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだと思う。
このことは戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自主的にだます側に協力していたかを思い出してみればすぐに分かることである。(中略)
私はさらに進んで「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。(中略)
つまりだますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあると考えるほかはないのである」
(後略)
この文章は1946年8月、映画春秋という雑誌に掲載されたものだ。
「だまされたものにも戦争責任がある」という痛烈な指摘は、その後、この日本において生かされてきたのだろうか?
大阪市の新市長に橋下徹という人物が選ばれてしまった。彼は「教育は2万%強制」といい、「日本の政治には独裁が必要」と主張する。大阪の有権者は、そんな彼の独裁的手法に、一抹の不安を感じながらも、「今の閉塞的状況を打ち破ってほしい」「こんな時代には少々強引に進めるリーダーが必要」「公務員(ダメ教師)を削ってくれるのは彼だけだ」など、彼の政策もしっかりと理解しないまま「何となくイメージだけ」で選んでしまった。このツケは数年後、かなり大きくなって、橋下新市長を支持した、まさにその人々に返ってくるというのに…。
脱原発の学習会で、「(脱原発を決めた)ドイツと日本の違いは何でしょうか?」との質問が出た。おそらく、それは「責任の取り方が違ったからだ」と思ったからそう答えた。
ナチスの犯罪を謝罪し、犠牲になったユダヤの人々にちゃんと補償をしたのがドイツの戦後。一方、日本は「一億総懺悔」で、「過ちは繰り返しませんから」と石碑に刻む。何という曖昧さ、そして主語のない文章!
今回の原発事故もそうだ。「がんばろう福島」「負けないっぺ福島」。そんな標語で生活は補償されるのか?流された家は帰ってくるのか?ローンは、仕事は…。
町に掛ける看板は「東電よ、きちんと補償せよ」「政府は責任を持って故郷を復興させよ」であるべきではないか。
エジプトやリビアで、独裁者を打倒する若者たちの運動を目の当たりにしてきた。彼らは独裁者に偏る富、理不尽な格差、政治的自由などを求めて、街頭に繰り出し、デモをして、とうとうその独裁者を打倒してしまった。
つまり中東の若者たちは敵を見誤らなかった。貧困層と中間層が団結し、「生活を苦しめている本当の敵」に向かっていった。
一方、日本はどうだったか?
年収700万円の「隣の公務員」に対して、年収200万円の非正規労働者が「怠けている」「リストラされないのは不公平」「ダメなヤツはクビを切れ」と、その怒りを向けた。
しかし怒りの矛先が向かうべきだったのは、「株式の投資で年間何十億円もの所得を得ている人々」「内部留保を溜め込みながら、労働者のクビを切り捨ててきた大企業経営者」「そんな富裕層から献金をもらって当選してきた政治家たち」ではなかったか。
日本の株式所得に掛けられる税金はわずか10%だ。そして新富裕層は株や証券の投資で、巨額の富を築いている。
ではなぜそこから税金を取らないのか?ちなみにフランスは株の所得に30%課税している。なぜ毎日の生活がギリギリの人々が消費税を10%も取られようとしている時に、この株式所得への極めて低い課税率が問題にならないのか?
本来なら、非正規雇用の労働者と公務員が連帯して、「富裕層からもっと税金を取れ」と言うべきなのに、なぜ「底辺同士で」争っているのか?
橋下新市長は一部で「ハーメルンの笛吹き男」と言われている。笛の音に釣られて洞窟に閉じ込められた子どもたち。
この場合、確かに笛吹き男には罪がある。しかし「だまされてついていった子どもたち」に罪はないのか?
「だまされるな、この王様は裸だ!」と叫ぶ子どもになろう。
私はこの笛吹き男、いや大阪新市長を相手取って、WTCビル購入と庁舎移転の問題について、来年早々から裁判をすることになる。WTCビルへの府庁舎移転に伴う巨額の税金支出に関して、橋下徹前知事の責任を明らかにし、彼にそのお金を支払ってもらおうという裁判である。
提訴は1月12日になる予定だ。
唐突だが、「維新の会マニフェストに対する疑問」を順次考えてみたい。一人の独裁者が大阪という自治体を破壊しそうな勢いなので、それを止めないとダメだ、という危機感からこのブログを書いた。
① まず1 大阪維新の会の理念と将来ビジョン について
「大阪市では4世帯に1世帯が年収200万以下で暮らしている。天王寺区ですら(489万円)、東京23区と比べると、22位の荒川区と23位(最下位)の足立区の間。街全体が貧困化している。
⇒ 街全体の貧困化は、様々な総合的要因があるはず。「2重行政だから」という「ワンイシュー」で貧困化したわけではない。むしろ東京都と比較することは非常に恣意的。東京は首都なので、本社機能が集中し、法人市民税などが都に落ちる。地方滅びて中央栄える、という図式なので、ならば北海道や東北、沖縄など、地方都市で同規模自治体とも比べるべきであろう。
② ①であげた「貧困化」を、ONE OSAKAで解決 としている。
⇒ これなどは、まさに「子どもも嗤う」解決方法。指揮官が一人になれば、大阪市民は豊かになるのか!何を根拠にして言ってるんじゃい、このドロガメ!とツッコミが入りそう。
「区長を選挙で選び、議会を置き、そこに権限と財源を与える特別区で地域主権」と言う。確かにそうなれば、より身近な議員と区長が生まれ、きめ細かな住民サービスが実現するかもしれない。つまりこれは、「区長と議員を増員する」ということだ。あれっ?維新の会は、議員定数を減らし、公務員を減らすのではなかったの? 一方で、公務員や議員数の削減を声高に唱えながら、一方でかなりの数の「税金で食べる方々の増員」になる。いったい目指す方向はどちらなのか?
※ つまり、問題は「住民サービスの中身」なのであって、サービスを充実させるためには何が必要か、どうすれば税収を上げることができるか、公共で行った方が良い部門と民間委託した方がいい部門は何か、そんな議論を経て、大阪市と区役所制度がふさわしいのか、それとも「都」にして「特別区」にする方がいいのか、「器の議論」が続くはず。維新の会は、まず「器から決めるべき」という「上から目線で押しつけ」なのだ。
※ 「地域主権というのは、住民ニーズを的確に捉え、災害対策を含むきめ細かなサービスを…」。
おいおいおーい。「災害対策を含めたきめ細かなサービスを」するため、咲洲のWTCに庁舎を移し、地震で真っ青になり、莫大な税金を無駄に支出した「災害対策の責任者」はどこの誰やねん! 大阪府議会という「地域主権」の代表者たちが2度も否決したのに、強引に移転して、開き直っている人物とその会派が、「災害対策」「きめ細かな住民サービス」を口にしている。ほとんどブラックジョークだ。
③ 2 「強くて豊かな大阪」について
⑴ 鉄道と高速道路の整備
⑵ 淀川左岸線整備と第2京阪&阪神高速湾岸線を結ぶ
⑶ 高速アクセス鉄道で関空まで30分
⑷ 北ヤードを森に。リニア新幹線の駅を作り、なにわ筋線で関空とつながる。リニア新幹線で東京へ。
⑸ 阪神港の一元管理で、西日本の輸出拠点
⇒ すべてゼネコンとそれに貸し込む大銀行が大喜びする計画。それこそ財源はどうするの?今後日本は人口減少時代。バブリーな開発は全て失敗している。
おそらくこれを強引に進めれば、「大阪破産パート2」である。WTC、ATC、O-CAT、フェスティバルゲート…。どれだけの税金を浪費してきたのか。ええかげんに目を覚ませ!と叱りたい。
④ 3自立する大阪
「東京と大阪の中央区を比べ、区長を公選制にしたら、区民生活に係ることは区で決める。地域振興会も市役所の顔色を気にすることはない。数百億円の予算は区で決めることができるようになる」。
⇒ 現在の「地域振興会」が、大阪市役所の顔色を気にしながら、仕事をしているのは本当か? 維新の会のどのような調査で、これが判明したのか?決めつける根拠は?
区長を公選制にしたら、さも「民主的」に物事が進み、万事解決するような「お気楽マニフェスト」である。
私は今回橋下知事が提唱する特別自治区と同じ人口規模、30万人の吹田市に住んでいる。もちろん吹田市では市長と議員は公選制である。議会定数は36だ。「民主的」に物事が進んでいるかどうかは、様々なモノサシで測る必要がある。吹田市の「地域振興会」が市の顔色をうかがっている、と感じる人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。
それより現在の大阪市議会議員の定数は86。8つの特別区にする計画だが、吹田市並の議会を置けば、36×8=288名。参議院並の大所帯だ。
いやそうではなく、86の定数を単純に8で割って、それぞれ議員を10〜11にする、というのなら、逆に吹田市や豊中市が大阪都に組み込まれる計画なので、各市36ほどある議員定数を、一挙に3分の1以下に激減させねばならない。
(そうならなければ、大阪都の中で不公平が生じる)これは堺市などを含めて、他の自治体にとっては、「余計なお世話」ではないだろうか。
⑤ 4 優しい大阪
「企業に儲けてもらい、従業員の給料を上げる。上がった税収で保育所を増やすとか、給食費を安くするとか、(中略)、高齢者や障がい者、女性に優しい地域社会を」
「ただし国保、介護保険、生活保護などのセーフティーネットは広域(都)が担い、平等で安心できる制度を完備」
⇒ 子どもや高齢者、障がい者、女性に優しい大阪をつくる、という点では全く意義なし。
でもドーンセンター(男女共同参画センター)の廃止を突然言い出したのはどこの誰?救急救命センターの補助金をバッサリ削って、命を危うくしたのはどこの誰?私学助成を減額する、と最初に打ち出して、高校生に抗議されると、「嫌ならお前たちが政治家になって変えろ」と言い放ったのはどこの誰?教育基本条例で、子どもと先生を果てしない競争に追い立て、学校現場を崩壊させようとしてきたのは、どこの誰なのか?
「お前が言うな!」と感じるのは私だけだろうか。
※ 「企業が儲けてもらい、税収を…」の部分、その企業は輸出を狙う大企業なのか、それとも地元密着の中小企業、町工場なのか?
「強くて豊かな大阪」にあるように、シャープや松下を意識しているのでは?それなら生産拠点を海外に移し、輸出で儲けようとするので、お金はそれほど大阪に落ちないし、雇用もそれほど生まれない。 むしろ地元密着の中小企業を支援して、大阪府内で雇用が進み、内需も上がる方向で産業政策を考え直さないと税収は上がらないのだ。(鳴り物入りで呼び込んだシャープが、すでに大阪から逃げようとしているではないか!)
今後、日本がTPPに加入してしまえば、さらに大阪の中小企業や農家などは淘汰されてしまう。大阪府民、市民の生活を守ろうと思えば、政府に対してTPP加入に反対を表明することだろうし、中小業者への貸し付け制度の拡充や、公共工事の地元発注などではないか。
以上、維新の会マニフェストの総論部分を批判的に検証してみた。大阪都構想のワンイシューで、さも「都になればすべて解決する」と叫ぶイカサマ詐欺師
橋下前知事の仮面を剥がさねばならない。「反ハシズム市民連合」である、ハシモトドオリの会を大きくして、「騙されない府民」を増やしていこう。
チャウサダのモスク敷地内で、いまだにテント生活をしている人々。洪水被害から1年。しかしまだ住居はない。
8月21日、本日は昨年の大洪水で被害にあった村を訪問する。昨年7月、パキスタンのインダス川、カブール川流域一帯が大洪水で、多くの家が流され、人命が奪われたのは記憶に新しい。この大洪水で約90万人が家を奪われ、今なお4万人もの人々が屋根のないテント生活を送る。
イスラマバードから西へ車を飛ばすこと2時間、インダスの大河が見えてくる。このあたりは中流に当たるが、それでも川幅は淀川の河口×1.5倍くらい。このあたりは雨がよく降り温暖なので、周囲には緑豊かな大地が広がる。古代文明が栄えたのも納得できる。
インダスの大河を越えて、さらに30分程走るとカブール川にさしかかる。カブール川はインダスの支流だが、このあたりまで来ると満々とした水を貯え、淀川の枚方大橋くらいの広さ。カブールではチョロチョロと流れる「どぶ川」程度だが、ジャララバードを越えて、ペシャワールあたりまで下ると、大河に変身する。
そんなカブール川が昨年6月頃よりじわじわと水位が上がり、そして7月には何と今渡ってきた橋をあふれ、堤防下の家々を飲み込んでいった。ヌシャラという中流層の住む街へ。カブール川岸の家には高さ3mのところに茶色い線が入っていて、これが当時の「洪水ライン」だと言うことが分かる。
東北の津波は一気に家を飲み込んでいったので、現地はかつての面影を跡形も残していないが、こちらは「じわじわと」飲み込んでいったので、家やビル自体は無事で、家財道具や人が流されていった。
「1年が過ぎ、ようやく家の修理に取りかかっているよ。国連も政府も何の援助もしてくれないので、修理費は持ち出し。まぁ家族は無事だったので、それだけでも幸いだったけどね」と、長いあごひげをたくわえたおじさん。ツナミのことはもちろん知っていて、日本のことを心配してくれていた。
ヌシャラを後にして、チャウサダという街へ。ここは相対的に貧困層が住んでいて、やはり3mくらい、低地の家々が沈んでしまった。
チャウサダの国道沿いにモスクがあって、そのモスクの敷地内にテントが続いている。
テントは避難民の出身地区によって2カ所に分かれていて、合計約80世帯、700人程度が、洪水被害から1年も経っているのに、まだテント暮らしである。
被害発生から3ヶ月ほどは、各国からのNGOがやって来て、それなりに食料援助などがあったのだが、ほとんどの支援団体は帰国してしまい、今やHRDSというNGOが給水援助をしているだけ。気温40度を超える炎暑の中、過酷なテント生活で電気はない。食料こそ、周辺住民がイスラム的な寄付(ザカートという)で何とかなっているが、この環境で1年は堪え難いものがある。
政府からの支援として、一度だけ被災者に「ビザカード」が配られた。この「ビザカード」で地元金融機関から5千ルピー(約4500円)引き落とせる。
で、支援はおしまい。
「この国は雨が降り、農作物が育つ。人々も勤勉で問題ない。問題なのは政府だ」と通訳のアユーブ。
テント生活する人々に、何がほしいかリクエストを聞く。何といってもまずは食料だった。特にラマダンなので、昼間は断食せねばならず、子どもがお腹を減らしているという。
8月22日、早朝よりラワルピンディーの市場で、支援物資の買い出し。80世帯700人分、約2トンの小麦、米、食用油、砂糖を買い出し。トラックに積み込み、ラワルピンディーからチャウサダへ。
テントからたくさんの被災者が出てくる。食料援助をみんな大喜び。パニックにならないように一列に並ばせ、配布スタート。
聞けば、今年になって初めての援助だとのこと(水はのぞく)。災害も戦争も、起こったときは、たくさんの支援が集中するが、やがて忘れられていく。
そもそも昨年の大洪水は、現地の人には責任がなく、おそらく地球規模で進む気候変動が原因だ。アフガンやパキスタン北部に大量の雪が降り、その雪解け水で増水しているところに長雨が続いた。
一方、東アフリカのソマリア中心に大干ばつが襲いかかり、100万人単位で餓死寸前に陥った人々がいる。
砂漠か洪水か。
地球規模で緑が奪われ、人口が爆発し、化石燃料が燃やされた。そのしわ寄せが一番弱い立場の人々に押し付けられている。
支援物資の配布が何とか終了。時計を見るとすでに午後5時。ここからイスラマバードまで約3時間。私の帰国便は午後10時に飛ぶので、急がねばならない。
ハプニング続きのパキスタンであったが、現地に入ることによって、また「テロとの戦い」の本質に少しは近づけたのではないかと感じる。
私がパキスタン入りした3日後、リビア情勢が激変し、そして22日にトリポリが陥落した。リビアに行けなかったのは残念だが、世界の歴史が、激しく動き出しているのを実感する。今年になり、日本では311地震、原発事故が起こり、中東・北アフリカでは次々と独裁者が倒れていった。そして911関連としてビンラディンが殺害され、アフガンから米軍が撤退を初めた。アフガン情勢を考える時、決定的な影響力を持つのがこのパキスタンだ。
さて、今年後半、来年はどうなっていくのか?
8月20日、難民キャンプもマドラサも取材制限がかかるため、仕方なく「ブッダ修行の地」へ。私は専門家ではないので詳しいことは分からないのであるが、ブッダはネパール近郊の町で生まれ、パキスタン(旧インド)、ペシャワール近辺で修行したということだ。
訪れたのはタキシーラという町で、町の入り口に博物館があって、近所の遺跡から発掘された仏像などが展示されている。
博物館から車で20分も走ると、その仏像などが出てきた遺跡に着く。ここはブッダの教えを聞くために集まった仏教徒の町で、メーンストリートの両サイドは商店と寺院の跡。表参道のような雰囲気だったのだろう。
「ストゥーバ、ストゥーバ」と案内人。卒塔婆はサンスクリット語のようだ。この案内人、実は日本語を少しだけしゃべる。「ホネ、ホネ」というので付いていくと、そこは遺骨が出てきたところ。「ヒドケー」と指差すのは、約2千年前に作られた日時計だった。
この当時の仏像は、ギリシャ様式の衣服を着ている。正倉院にはアフガンで掘り出されたラピスラズリがあるというし、エジプトのツタンカーメン王の目はやはりラピスラズリで飾られている。古代からシルクロードを通じて東西交流があり、この場所が文化交流の中心地の1つであったのだろう。三蔵法師が目指した天竺は、パキスタンのペシャワール近郊にあるというし…。
さて、200ルピー(約180円)で雇ったこの案内人が、なぜ日本語をしゃべるのか?それはかつてたくさんの日本人が観光でやって来たからである。今は?残念ながら激減している。自爆や銃撃戦のニュースが流れるので、それも仕方がないだろう。戦争が長引くと、観光業は大打撃だ。イスラマバードのホテルも外国人が来ないので、閑古鳥が鳴いている。
夕刻5時、イスラマバードに戻り、「赤のモスク」へ。ここは07年7月、モスクに立てこもった神学生たちと、当時のムシャラフ政府軍が激しい銃撃戦を繰り広げ、多数の死者を出した場所。
正確に言えば、神学生たちは赤のモスク本体に立てこもったのではなく、モスクの敷地内にあるマドラサ(イスラム神学校)の校舎に立てこもった。その校舎は、破壊されたままの無惨な姿で残っている。
07年7月、この赤のモスクの指導者アズィーズ師は、ムシャラフ前大統領が進めようとしていた教育改革に批判的だった。とりわけ、ムシャラフは「アフガンやイラクなどのイスラム教徒を殺戮している米軍の手先」と指弾されていた。このアズィーズ師がタリバンとつながっていたかどうかは定かではない。しかし住民が反米化していく中で、イスラム聖職者が、政治的発言を強めていくのは、イラン、イラク、リビアでも当然だったように、ここパキスタンでも目立った動きになっていった。
7月4日、神学生たちおよそ150人がイスラム教で禁止されている売春婦を拉致し、マドラサに立てこもった。政府は外出禁止令を出し、学生たちに投降を呼びかけたが、アズィーズ師は徹底的に戦うことを指示。マドラサにはあらかじめ武器が用意されていて、「覚悟のろう城」だったようだ。
7月10日、軍が強行突入。神学生75名、治安部隊10名が死亡したといわれる事件である。
「赤のモスク」で日没の礼拝が始まる。モスク周辺でカメラを回すのは危険なので、車の中から隠し撮り。モスクの建物自体はそれほど大きくはないが、マドラサを含めた敷地はかなり広め。
ムシャラフは「強力な指導者」だったので、妥協を許さず、強行突破を図ったのだろう。女性を拉致して立てこもるという犯罪行為を犯したわけだから、神学生たちは罪に問われるべきだと思うが、しかし銃殺する必要はなかったはずだ。この事件が、強固に見えたムシャラフ体制の蟻の一穴になった、と思う。
そして07年12月、ブット女史暗殺事件をキッカケにムシャラフは国を追われることになる。
パキスタン情勢が落ち着いたら、当時立てこもっていた神学生の生存者にインタビューしたいものだ。
8月19日、少々危険だが、ペシャワールへ。2年程前までは、ペシャワールは安全で、おそらく一人旅のバックパッカーでも訪問できただろう。しかしこの2年で情勢は一変した。米軍が「ドローン攻撃」を始めたのだ。ドローン、無人空爆機によるタリバン掃討作戦だ。
主にペシャワールから西側の部族支配地域で、このドローン攻撃が繰り返されている。
私は「正義の戦争」などないと思っている。戦争は常に「正義のため」「自衛のため」「権益を守るため」などと主張されるが、実態はウソ、ダマし、強欲な「邪悪な動機」で始まると思っている。百歩譲って、「正義の戦争がある」としよう。オバマは常に「テロとの戦いは正義の戦争だ」と演説している。
でも無人機で無抵抗な村を襲う戦争が、果たして「正義」といえるのか?
当然、攻撃されている「部族支配地域」は反米一色に染まっていく。
そこにマドラサがある。純粋な10代の若者にコーランを勉強させ、そして「聖戦」を教える。
私はこのマドラサを取材すべく、ペシャワールに向かったのであるが、マドラサ周辺にはISIの目が光っていて、外国人ジャーナリストは間違いなく検挙されてしまう。今年に入って、フランス、ドイツのジャーナリストが、同じような取材を試みて、見事に拘束されている。マドラサはあきらめるしかない。
ペシャワールはイスラマバードから高速を飛ばして2時間半。街中は一見すると何の変哲もなく、平和に見える。道行く人々はほとんどがパシュトン人で、ウルドゥー語しかしゃべれない通訳を連れていくと、ほとんど役に立たない。
ペシャワールの公設市場へ。庶民相手の「蚤の市」だが、入り口には銃を手にした警官。自爆テロが増えたので、警備が必要になったという。
中に入れば、普通に日用品やおもちゃ、婦人服などが売られている。不自然にはビデオカメラを回せないので、純然たる旅行者のように買い物をしながら、パシュトン文化に興味があるようなそぶりを見せながら、それとなくインタビューしていく。
警官「今年に入って治安はますます悪くなっている。自爆テロが増えた。でも市内は大丈夫だ。市外に出たらダメだよ」
店主「外国人旅行客なんて皆無に等しいね。商売上がったりだ」。
こんな取材をしていたのが午後1時半頃。その30分後、ペシャワールからほんの10キロ、部族支配地域のモスクで自爆テロがあり、48人が殺された。犯人は10代の若者。ズボンの中に仕組んだ爆弾を、金曜礼拝中に爆発させたのだ。
翌日犯行声明が出た。パキスタンタリバンだった。動機は?モスクの地域の部族棟がパキスタンタリバン運動に批判的だったからという理由。
それだけで、約50人近くの人々が何の理由もなく殺される。10代の若者はおそらく「マドラサで洗脳」されたのだろう。マドラサは自爆テロ犯製造機になっている。ISIは、影でタリバンを支援しているのでマドラサの内部を絶対に見せないのだ。今後もこうした自爆テロが続くだろう。911事件から10年、結果として、米国が始めた戦争は、テロを押さえ込むどころか、反米感情をあおり、暴力には暴力で対抗するという気運が広がり、ますますテロを助長している。
8月18日、10時間に及ぶ尋問でさすがに疲れた。さらに私と通訳の名前が記録されてしまったので、次に拘束されればアウト。慎重に行動しなければ。
まずは、ラワルピンディーの「ベナジール・ブット女史暗殺現場」へ。現場には彼女の大きな写真と追悼の碑が。
ブットが暗殺されたのは07年12月27日。現場は演説会場となった広場と大通りを結ぶアクセス道路。このアクセス道路と大通りは鉄の門扉で仕切られている。演説を終えたブットは多くの民衆に取り囲まれ、この鉄の門扉付近で車上から身を乗り出し、群衆に手を振っていた。その車のすぐ後ろ、あたかも護衛の車に見える車上から、一人の男が至近距離から銃撃、その後車が自爆した。銃撃後、自爆すれば確実に殺せる。プロの仕業に違いない。
現場にはその時の自爆した跡が穴になって残っている。
問題は誰が殺したのか?である。いまだに真相は明らかになっていない。イスラム過激派ではないか?というのが西洋社会の見方であるようだが、こちらでの多数意見は「夫で、現大統領のザルダリだ」というもの。まさか自分の妻を殺すなんて、と感じるが、この暗殺で誰が一番得をしたか、といえばザルダリなのだ。
当時の大統領ムシャラフは軍のトップでもあり、強力な独裁者だった。しかし911事件後、アメリカが「テロとの戦いに協力しなければ、パキスタンを石器時代に戻してやる」と脅迫され、ムシャラフは基地提供など米軍に便宜を尽くした。米軍がアフガンでおなじイスラム教徒を殺しているのに、その米軍に協力するとは何事!ということで反米・反ムシャラフ感情が高まっていく。
ブット女史に取れば、政権に返り咲くチャンス。しかしまだまだムシャラフは強い。そんな時に暗殺事件が起こった。当然、①ライバルであるムシャラフが殺したのではないか。②なぜ、国家の重要人物を守れなかったのか。ということになり、ムシャラフは引きずり下ろされ、代わりに政権トップに居座ることができたのは夫のザルダリだった。
このザルダリという人物、大変評判が悪くて「汚職王」なのである。現地では「ミスター10%」と呼ばれている。外国企業が様々な公共工事を受注する時、かならずワイロを支払わねばならず、それが10%なのだ。トップがそんな人物なので、警官も軍もワイロ漬け。昨日取り調べを受けたときも、執拗にワイロを要求された。
ブット暗殺現場を取材したのが、夕刻6時頃。日没が近づいてくる。人々はそわそわし、家路を急ぐ。ラマダン中は日没になってから食事をする。イフタールと呼ばれているが、みんなお腹をすかせているので、このイフタールに間に合うように一斉に帰ろうとする。
かくしてラワルピンディーの国道はラッシュとなる。腹が減ってるので、みんなイライラ運転。そんな状態でメーン交差点が大渋滞。本来交通整理をするべき警官までが、イフタールを求めて帰ってしまったため、「通せ!」「俺が先だ!」クラクションが鳴り響き、交差点上で小競り合い。
まぁイスラム圏ではよくあること。
ちなみに人々はなぜラマダンをするのか。
豊かになった現在でも、貧しかったときのことを忘れてはならない。なので、一年に一回くらいは満足に食事ができなかった頃を思い出そう、今も食事できない人々のことを忘れずにいよう、ということらしい。
8月17日、通訳兼運転手のアユーブとアボタバード行きについて打ち合わせ。
アユーブは、アボタバードにも住んでいたことがあり、ビンラディン殺害現場の周辺状況に詳しい。アボダバード市内は、人々は普通に暮らしているが、ビンラディン殺害現場は、軍と警察が何重にも警戒線を張っていて、それをすり抜けて中に入れるかが、本日のハイライトである。
イスラマバードからラワルピンディーに入ったところに、巨大な難民キャンプ。
ムスキナバードという所で、約8千人の貧しい人々が、泥でできた粗末な家で過ごす。約半数がアフガンから逃げてきた人々、残りがペシャワールなどから仕事を求めてやってきた人々だ。車を止めてちょっと取材。子どもがいるが、学校には通っていない。年齢は?と聞くも「分からない」。文字は読める?黙って首を振る。「1+1は?」「2」では「5+3は?」「うーん、9?」。絶望的な貧困⇒次世代への教育環境不備⇒さらに絶望的な貧困へ。貧困の悪循環である。
ムスキナバードから20分程で、ペシャワールへと続く高速道路に入る。高速道路を走ること1時間半、ようやくアボタバードの看板が見えてきた。
アボタバードは山の中腹に位置する高原都市で、夏はイスラマバードからの避暑客でにぎわう。
またアボダバードには巨大なパキスタン軍基地と、それに並んで銃などを作る「軍需工場」が林立している。地元民の多くは、軍事関係者である。
巨大な銃工場を右手に見ながら、いよいよ軍事ゾーンに入る。赤い看板で「これよりカクート基地」。巨大な基地を横目に見ながら、何カ所かの検問をすり抜ける。道路には「パキスタンを愛せ」「パキスタン人としての誇りを持て」などの標識。
ちなみにオサマビンラディンは、01年の米軍によるアフガン総攻撃で、ジャララバードに逃げ、その後トラボラの洞窟に潜んでいたと言われる。実はこの時ジャララバードの軍閥が、いったんビンラディンを捕まえていたのだが、多額の身代金をビンラディンが支払ったので、解放され、そしてトラボラ経由で、このアボタバードまで逃げてきたわけだ。殺害されたとされるビンラディンが本人ならば、ビンラディンは実に9年もの長い年月をこのアボタバードで過ごしていたことになる。
彼が殺されるまで、アボタバードの一般人は、この町に住んでいることさえ知らなかったのだが、果たしてパキスタン軍は本当に知らなかったのか?
「アボタバードは軍隊の町。軍が知らないなんて考えられない。諜報機関のISIは当然知っていて、匿っていたと思う。ISIはこの町のすべてを掌握しているはずだ」。アユーブと私の意見は一致する。
アフガンのタリバンを育てたのもISI、ビンラディンを匿っていたのもISIだとすれば、いったい、パキスタン軍は親米なのか、反米なのか…。
おそらく「どちらも」なのだ。パキスタン政府が米国と中国に「両賭け」するように。
いよいよビンラディン殺害の近くまで来た。のどかな風景。農民たちが畑仕事をしている。子どもたちは井戸まで水をくみにいく。電気は通っているが水道はない。地元住民に尋ねながら、現場に迫る。
数人の警官がいる。かねてからの作戦通り、私が車に残ってアユーブだけが警官のところに。地元民を装って、中に入れるか尋ねる。
「あちらの検問所で聞け」とのことだった。
問題の検問所へ。数人の兵士がたむろしている。おそらくビンラディン殺害現場はこの検問所の向こう側。細い道にロープが張られ、誰も通れないようにしている。少し離れた場所に車を止めて、私は車に隠れアユーブが兵士のところへ。「通っても良い」と許可されるなら車で中に入るし、「許可証がいる」というなら「どこで取ればいいのか?」を尋ねるつもりだった。実際、何人かの地元民が兵士と何やら話している。おそらく通らせてくれ、などと頼んでいるのだろう。
10分が過ぎ、20分が過ぎた。
兵士に連れられ、アユーブが車までやって来た。「ニシ、ばれちゃったよ」。
アユーブの持っている免許証などが調べられて、地元民でなくイスラマバードから来たことがばれてしまったのだ。
兵士「どこから来た」「日本からです」、兵士は笑っているが、目は真剣だ。やがてパソコンとビデオカメラ、携帯電話、所持金、パスポートなどが次々と没収されていく。かなり危機的状況だ。
検問所から50m程のところに掘建て小屋があって、ここが「取り調べ室」だった。30分程して、私服のおじさん2人が小屋にやって来た。
彼らが諜報機関ISIのメンバーだった。
兵士は「ノープロブレム」と言っていたが、この2人は違う。ハナから「尋問モード」だ。
「ここがどこか知っているな?」「ビンラディンが殺害された場所です」。こういうときは、ウソでごまかそうとしても無駄。素直に供述するのが一番。なぜか?実はイスラエルの国境で、同じように尋問されたことが3度ある。その際「テルアビブの町が素晴らしいと思って」などと入国目的をごまかしたが、すぐウソが見破られてしまい(ガザに行こうとしていた)、逆に悪印象を与えたのだ。彼らはプロなので、下手に言い繕っても逆効果。こうなった以上はまな板の上のコイである。
「この場所は、どのジャーナリストも立ち入り禁止だ。知っているな?」「これほど厳しく立ち入りが制限されているとは知りませんでした」。取材目的は素直に認めるが、悪気はないことを強調する。
「お前の持っているパソコン、携帯、ビデオカメラに、何も映っていなかったら良いが、怪しい写真などがあれば、厄介なことになるぞ」。取り調べ官はそういいながら、パソコンを入念にチェックする。
「下手したら監獄行きやな」……。絶望的な気分だった。私のパソコンには、アフガンでの自爆テロの様子や、米軍とアフガン軍の共同演習の写真、避難民キャンプやタリバン元外務大臣とのインタビュー動画も入っている。泣く子も黙るISIが、これらの写真をどう判断するか…。
「これはどこだ?」「カブールです」「これは?」「カンダハール」。
イラク、リビア、エジプトなどの写真が次々と検閲されていく。ラッキーだったのは、まだパキスタン入り2日目だったので、パキスタンの写真がなかったこと。パソコンは没収されず、ビデオカメラへ。
カメラには、アボダバードの街並、地元民へのインタビュー、殺害現場に至る道のり、基地や検問所の様子などが記録されている。あわれ、これまで撮影した全てのテープは没収。イスラマバードとアボタバードの記録はパーになってしまった。
やはりラッキーだったのは、カメラが旧式のテープ方式だったこと。本体への記録が可能なカメラだったら、カメラごと没収だった。
尋問されること約3時間、ようやく解放。しかし次に待っていたのが警察官たち。パトカーに乗せられ、アボタバードの刑務所へ。「入っては行けない地域に無断で侵入した罪」で取り調べがある。
刑務所に入るなり、暗—い気持ちに襲われた。3畳程の房に囚人たちが数人、所在無さげに座っている。「あそこに放り込まれるたら最悪やな」「ここで宿泊だけは避けたいね」。アユーブとひそひそ話。
制服警官はおおむね友好的だったが、イヤらしかったのが若手の私服刑事。尋問中に「(ワイロを)いくら払う?」「俺を日本に連れて行ってくれないか」など、関係のないことばかり質問してくる。実は、ビンラディン殺害現場を撮影しようとしてやってきたジャーナリストは、全て拘束されてここへやってくる。昨日は中国人ジャーナリストが2人、ここで尋問を受けた。この若手刑事は、外国人ジャーナリストからいろいろとかすめ取っているようだ。
取り調べが延々と続く。それもどうでもいいような質問ばかり。布川事件や足利事件など、密室で取り調べを受けた冤罪被害者のみなさんは、もっとひどい扱いを受けたのだろうな。
やはり3時間程尋問され、調書を取られ、何とか解放された。ワイロだけは絶対に払ってやるか、と抵抗したので、彼はボールペンとコーラン(お守り用に所持していた)、新品のノートを没収した。外へ出る。すでに真っ暗。拘束されて10時間以上が経過している。さすがに疲れた。
「捕まらなかっただけでもラッキーだったよ」「そうだね」「神様が助けてくれたのさ」「俺がコーランを持っていたのが良かったのかな?」「実は僕、クリスチャンなんだよ」。
驚いた。アユーブはパキスタンでは大変珍しいキリスト教徒だったのだ。
時計を見ればすでに11時。取り調べのうっぷんを晴らすかのように、アユーブは飛ばす。イスラマバードへの高速道路に乗る頃、深い睡魔が襲ってきた。
