2005年12月アーカイブ

みなさん、お久しぶりです。長らくこのブログをお休みしてしまいました。これではいけないと大晦日に改心。来年こそは、毎日更新をと反省しております。
で、今回はモハマド君の件です。以下は、毎日新聞に書いたものです。

ニホンノミナサン、タスケテクダサイ…。私のビデオカメラに向かってモハマド君(12歳)が覚えたての日本語で訴えた。彼はバグダッド北方、タールミーヤ村の出身。今回のイラク戦争でアメリカは劣化ウラン弾を大量に使用し、フセインの戦車や装甲車を破壊した。破壊された戦車はまとめて捨てられた。タールミーヤ村は米軍基地に近く、川が流れている。劣化ウラン弾の被害を隠しておきたいアメリカにとって、川原は絶好の「戦車の墓場」となった。
「悪い予感がしていた。戦車には近づくな、と息子には注意していたのだが」。父親のハビーブ(40歳)が唇を噛む。父親や小学校の先生に注意されても、好奇心旺盛な12歳の少年には届かない。彼は15歳のいとこと毎日のように壊れた戦車で遊んだ。戦車の操縦席に入り込んでハンドルを握ったり、キャノン砲によじ登って銃身をのぞきこんだり…。その時、放射線を計測するガイガーカウンターがあれば、ビービーと警告音が鳴り響いていただろうが…。
やがて2年の歳月が流れた。15歳のいとこは戦車の部品を家に持って帰りコレクションしていた。彼は今年の9月に突然白血病になり、1ヵ月半後に亡くなった。次はモハマド君の番だった。10月に体調を崩し、当初インフルエンザという診断が、すぐに重度の白血病に変わった。「亡くなったいとこと同じではないか!」。父ハビーブはすぐにバグダッドのがん専門病院へモハマド君を連れて行った。しかしそこでできるのは放射線治療だけだった。今のイラクには抗がん剤がない。「この子を治療しようと思えば、イラク以外の病院へ行くしかないよ」と医師は通告した。
2002年までイラク軍兵士だった父は、除隊後、自宅で自動車修理業を営んでいた。軍隊で得た知識と技術を活用した商売だ。店の評判は上々だったが、モハマド君の「修理」はできない。家財道具と車を売り払って、ヨルダンへの旅費と治療費を捻出した。モハマド君は8人兄弟の4番目。残り7人は娘。唯一の息子で、何としても助けたかった。ありったけの金、つまり3000ドルをかき集めたが、バグダッド〜アンマンの飛行機代、病院の治療費、滞在費で、その金はほとんど底をついた。母はイラクに残り、他の子どもたちの面倒を見ている。
「政府からの援助金は?」「俺たちはスンニ派なので何の援助もない。今のイラク政府はシーア派で、スンニ派を敵視している。ジャファリ首相はアメリカの傀儡だ。俺たちを救うどころか『死んでくれたほうがいい』と思っているよ」。
サッカーが大好きなモハマド君は10歳まで、そうイラク戦争が始まるまでは健康優良児で病気一つしたことがなかった。元気だった少年の髪の毛は、今や抜け落ち、一日に3度、合計5種類の薬が欠かせなくなった。
「面白かったので毎日戦車で遊びました。小学校の同級生もたくさん死にました。僕の村は今では『監獄』のようです。ブッシュ大統領に僕の村を見てほしいと思います」。
イラク戦争は終わっていない。むしろこれから悲劇が広がっていく。恐れていたことが現実になっている。彼を日本へ連れて帰ってくることくらいしか、救う方法はないのかもしれない。受け入れてくれる病院はあるだろうか?受け入れの態勢は整うだろうか?

と、いうことで、現在モハマド君を日本に呼ぶ計画が進行中。新年早々、医療機関その他関係者と相談して、彼を受け入れる事ができるかどうか、相談します。受け入れるなら最低でも1千万のお金が必要とか。来年は忙しくなりそうです。
ではみなさん、よいお年を。

「日本人にはビザは出せません」。アンマンのイラク大使館では必ず、「エクセプト、ジャパン(日本だけ例外なんだ)」と言われる。傍らで、ドイツやカナダのジャーナリストがビザを取得し、イラクへ行く準備を整えていく。正直「うらやましいな」と感じていた。
今のイラク政府はアメリカの傀儡。ということは日本政府の言いなり。日本政府はフリージャーナリストのイラクへの入国を認めない。で、私には(正攻法では)ビザは下りない。
「日本政府の許可証があればビザを出すよ。でもあなたは正式な政府の許可証を持っていないでしょ」とイラク領事。
エクセプトジャパン。世界中でたった一つ、イラク入国を許可されない国、日本。これって異常ではないか?
パスポートの2ページ目には何と書いてあるだろうか?いわく、
「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸管に要請する。日本国外務大臣」
つまり麻生外務大臣は、日本人が旅行できるように援助するべきであって、妨害してはならないのだ。
「日本人にはチケットを売るな、と言われているんです」
「誰に?」
「日本政府に」
ここはアンマンのイラク航空事務所。アンマン〜バグダッドの航空券を購入しようとして訪れると、私には売れない、との返事。こういうところまで外務省の手は伸びている。何としても、一人たりとも入国は許さない、という執念を感じる。
政府はなぜこうまでしてフリージャーナリストの入国を阻止しようとするのか?
「邦人保護」のため?危険だから入国できないのだとすれば、スーダンのダルフールにも同様の「ビザ発給禁止」措置を取らねばならない。かつてのアフガンやコソボも同様だろう。しかし、これらの国ではそんなことにはならない。パスポートに書いてあるように「通路故障なく旅行させ…」が原則なのだ。
ズバリ、「サマワを見せたくない」のが本音だろう。わずか5時間の「視察」で「サマワは安全」とコメントする防衛庁長官を守るためには、誰もサマワに入れてはならないのだ。
小泉内閣の「せこさ」を実感する。
「フセインが見つからないからといって、大量破壊兵器が見つからないと言えますか」「人生いろいろ、会社もいろいろ」など、この国の首相からは全然「誠意」というものが感じられないが、外務省の「邦人保護」にも、まったく誠意は感じられない。

昨夕、関西テレビ「ほっとカンサイ」に生出演させてもらった。8分ほどのコーナーだったが緊張した。「バグダッド空港で寸止めされた」ことは絶対に伝えたかったので、「政府は本当のサマワを見られるのがいやだったのでしょう」と言っておいたが、さて視聴者の皆さんに、この政府の姿勢がどれほど伝わっただろうか?
実際、私の帰りの飛行機には額賀防衛庁長官が同乗していた。私はエコノミーで彼はおそらくファーストクラスだっただろうから、機内で会うことはなかったが、空港で報道陣に囲まれていた。彼は5時間ほどサマワに入って「安全だ」「自衛隊は現地の人に求められている」と語ったが、私がもし入国していたら、3日間は滞在し、現地の人々、少なくとも20〜30人くらいにはインタビューを撮ってくるのにな、と感じた。
バグダッド空港で寸止め、については別の機会に詳細を暴露する。で、本日のテーマはテレビ局の現場である。
結論から言うと、現場スタッフは「まだまだ熱い」。権力者に対してチェックしていかねばダメだ、というジャーナリスティックな意識がある。だから私のようなものでも出演できるし、自衛隊延長問題について、コメントもさせてもらえた。特にニュース番組は作成者の視点が問題で、例えばイラク問題にしても、劣化ウラン弾という側面から捉えるのか、フセインの裁判を追いかけるのか、サマワの実態から斬っていくのか、(ただしこれは実際に入った人の映像がないと無理)、小泉首相はじめ政府関係者のインタビューを垂れ流すだけにするのか、で、「ニュースの質」が違ってくる。現場スタッフは、この「質」を追いかけるのであるが、実際には「視聴率」という「数字」で評価される。
「ネコが見てても1%」という言葉があるが、「数字」だけで計られる世界というのは、矛盾をはらんでいる。もっと「質」の面でも計られねばならない。つまり、視聴者からの「評価」「抗議」「激励」などである。
「1本の電話の後ろに100人がいる」と言われる。テレビや新聞で、例えば「沖縄の基地特集」や「あらためて731部隊について考える」など、何でもいい、「こんな番組、記事を待っていた」と思う報道があれば、励ましのメールや電話を入れてあげればいい。それが「質の向上」につながると思う。

昨日はイラクから白血病の治療に来ているモハンマド君(12歳)を取材した。
彼は廃棄された戦車の墓場で遊んでいて、1年半後ガンになった。一緒に遊んでいた15歳のいとこは死んでしまった。現在アンマンの「キングフセインがん病院」で治療を続けていて、薬の副作用で髪の毛は抜け落ちている。
アンマンで治療を続けるのは、財政的にも政治的にも難しく、この子を救えるのは、アッラーの神か、日本の支援しかないだろう。
父親は家と車を売って、旅費と治療費を捻出し、近所のアパートを借りて生活している。母親はイラクに残り、他の子どもの面倒を見ている。この家族はスンニ派なので、イラク政府からの援助はない。今の政府がシーア派で、ジャファリ首相は、明らかにスンニ派を敵視しており、この家族には援助が届かない仕組みである。
バグダッド北方の町タールミーヤには川が流れており、米軍はそこに劣化ウラン弾で破壊したイラクの戦車や装甲車をまとめて捨てているのだ。
12歳と15歳の少年にとっては、格好の遊び場となった。いとこは戦車の部品を家に持って帰りコレクションしていた。
彼の通う小学校では、もう何人もガンで死んでいるという。
「ブッシュにこの現実を見せてやりたい。今ここにブッシュが現れたら、俺は首を絞めて殺してやるよ」と父は私のビデオカメラに向かって叫んだ。
何とかして、このモハンマド君を日本に連れて来れないだろうか?大阪大学、京都大学あたりで治療は可能だろうか?寄付は集まるだろうか?
みなさん、何かいい知恵があれば教えてください。帰国してから相談しましょう。

写真をお見せできないのが残念であるが、ここ中東のトイレは日本とは若干違っている。便器のすぐ横に、なにやら怪しげな「第2便器」のようなものが鎮座ましましている。最初、「これは何をするものだ。足でも洗うのか」と思っていたし、実際に洗いそうになったこともある。
「第2便器」には蛇口が2つ付いていて赤からはお湯、青からは水が飛び出す。その使用方法が分からなかったので、しばらくは「第2便器」のお世話にならなかったのだが、ある日、トイレに駆け込んだ際、紙が備わっておらず「火急の事態」を迎えた。用を足してから仕方なく「かねてより熟慮していた使用方法」を実行に移すことにした。
まず「第2便器」に付属している赤と青の蛇口を調整して水温を「適温」にする。水を手に当てて計るのだが、大事なのは「ぬるめ」にしないと、その部分が敏感なので、熱いと「ギャッ」と飛び上がることになる。次に慎重に「第1便器」から「第2便器」へと移行し、ぬるめの湯を当てる。ここで慌てると、お尻のあらぬ所や背中に湯が当たって、身体を濡らしてしまうので注意が必要だ。うまく命中したらしばらく「快感」に身を委ね、やがておもむろに蛇口を閉じてフィニッシュ。
何のことはない、第2便器は「分離型ウォシュレット」だった。
このように、世界では紙を使用せず、水で洗い流す文化が主流のようで、例えばタイの奥地、カレン族のトイレもそうだった。カレン族のトイレは通常家の外にあり、竹で囲まれた小さな小屋になっている。例えば夜に「火急の事態」を迎えると、さまざまな困難が待ち受けている。まず真っ暗闇の中でトイレを探さねばならない。うまくトイレまで行き着いたとしても、今度は手探りでドアを探さねば中に入れない。ドアを探しながらも刻一刻と「火急の事態」が迫ってくるので、かなりあせってしまう。ようやくドアを発見し、月明かりの中で用を足す。この頃には目が慣れてくるのであるが、よく見ると、便器の前にネコがいる。今ここでこいつに飛びかかられたら大変な事になるな、と、ネコとにらめっこしながら用を足してからが問題だった。「紙がない」のだ。
便器の横に水がめがあって、そこに赤い小さな洗面器が一つ。これで水をすくって洗え、ということだ。仕方なく水で洗い流す。つまり「指ウォシュレット」である。この際重要なのがどの指を使うかである。普段からよく使う人差し指ではなく、使用頻度の低い薬指がおすすめ。石鹸で入念に洗っても、しばらくは「ほのかに臭いたつ」ことになる。
感心したのが、インドの「トイレおじさん」である。ムンバイの空港でやはり「火急の事態」に陥り、トイレに駆け込んだのであるが、またも「紙がない」。しばし絶望にくれていると、トントンと私の肩を叩く人物がいる。振り向くと「トイレおじさん」が微笑みながら紙を持って立っている。地獄で仏とはこのこと、「サンキュー、サンキュー」とおじさんの紙を奪うようにしてトイレに入ろうとすると、「トイレおじさん」は右手を差し出す。「あぁ、チップね。ありがとう。助かったので奮発するね」と1ドル札を握らせた。
用を済ませて手を洗おうとすると、今度は石鹸を持って立っている。何と素敵なおじさんであることか、とその時は感謝していたのであるが、後でじっくり考えた。
はて、あのおじさんはどうしてトイレに立っていたのか?あらかじめ備え付けてあるトイレットペーパーを抜き取り、私のような「火急の事態」を迎えた人物が飛び込んでくるのを待っていたのではないか。何しろ緊急事態なので、トイレットペーパー1本10ドル、と言われても買ってしまうだろう。インドにはいろんな商売があるものだな、と妙に感心してしまったのであった。

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