2006年5月アーカイブ

このブログでしばしば取り上げてきたモハマド君とイスラーちゃんであるが、その現状については明暗が分かれてしまった。モハマド君は、キングフセインがんセンターの治療が功を奏し、危機的状況を乗り越え、「安定期」に入ったようだ。抗がん剤の副作用などで緊急入院することもあるが、このペースでいけば健康を取り戻すことができそうだ。さすがに13歳にもなれば体力もついているのだろう。白血病は、基本的には治癒する病気なのだ。
一方イスラーちゃんの方は、がんセンターに入院するどころか、治療すらできずにイラクに帰ってしまった。イスラーちゃんの顔面にできた腫瘍を取り除くために、麻酔をしなければならないが、その麻酔が注射ではなくて、酸素マスクのように彼女の口から吸入させる方法をとらねばならない。しかし顔面およびのどの部分が腫れ上がっているので、口腔からの吸入もできず、結局麻酔ができないため手術ができないという事態のようだ。
それでもヨルダン・アンマンに滞在して、治療のチャンスをうかがうべきだったと思うが、「日本で治療できないのならイラクに帰る」と、両親はさっさとイラクに帰ってしまったようだ。
「もう少し粘り強くアンマンでチャンスを待ってほしかった」と思う。今のバグダッドではまったく治療不可能であるし、厳しい夏を電気状態の悪いバグダッドで過ごすより、アンマンで過ごすほうがイスラーちゃんのためになると思うのだが…。
確かにイスラーちゃんだけを救出することができても、イラクが抱えている問題を解決したことにはならない。4歳児にとって言葉がまったく通じない日本よりも、同じアラビア語圏のアンマンのほうが治療に適していると判断し、今回は来日してもらわなかったのであるが、両親の本音は「何が何でも日本で治療してほしい」ということだったようだ。
日本の病院が受け入れてくれるか、という問題もあった。日本ではただでさえ小児科医が不足し、手一杯の状態。あらためて支援の難しさを感じる。

イラク人ジャーナリスト、イサーム・ラシードが24日の夕刻、関空に到着する。「ファルージャの証言」というDVDを製作した人物で、イラク戦争の最前線からの映像は非常にショッキングである。
2004年の米軍によるファルージャ空爆の際には、ファルージャ市内の路上で寝泊りしながら殺され行く人々を撮影し、内戦状態のバグダッドからは連日のテロで犠牲になる人々、さらには2月22日のシーア派聖廟爆破の真相を取材する、という気骨の人物である。
彼は米軍に3回つかまっている。イラクでは、「ジャーナリストである」ということがばれると、米軍に逮捕され投獄される。刑務所で拷問を受けたそうだが、彼はしぶとく取材を続け、新しいDVDを作成した。
このDVD、実はアンマンまで持ってきてくれていたのだが、ヨルダン政府の情報機関に没収されてしまい、彼の手元にはない。仕方なく、イラクから私に宛てて、直接航空便で送ってくれているのだが、いまだにその航空便は到着しない。
彼の最新映像が報告会で間に合うか、非常にやきもきするのであるが、以下、緊急の日程である。
1 5月25日(木) 午後7時 大阪市北区天神橋1−13−15 グリーン会館2階
           DVDが到着することを願って、イサームの解説を聞きながらそれを上映
2 5月30日(火) 午後6時半 大阪市浪速区幸町1−2−33
           大阪府保険医協会 M&Dホール   
           「劣化ウラン弾などで被害を受けたイラクの子どもたちを支援するおおさか市民基 」
の結成総会をかねて。
モハマド君、イスラーちゃんの最新映像や、私が撮影してきたイラク・スレイマニア の最新映像も。
緊急なので、みなさんの予定が調整しにくいかもしれないが、ぜひご参加を

5月17日、午後1時(現地時間)無事アンマンに到着。いつもながら、イラクからヨルダンに帰り着くと、本当にほっとする。生還という言葉はあまり日本では使わないが、イラクでは生還という言葉に、実感がこもってしまう。
アンマンでは何事もなかったように市民生活が営まれている。当然といえば当然であるが、この当たり前のことが、イラクでは、戦争によって奪われている。
例えば、アンマンでは信号があって、人々は青になれば発信する。「何やそれ、当たり前やないか」と言うなかれ。法律、秩序のない世界では、そうしたルールは破られ、「早く発進しないほうが悪い」となる。今のイラクがそうだ。バグダッドでは、交差点の信号は、イラク戦争後、一度も点灯していない。電気がないからではない。ルールがないからだ。力の強いものが勝つ。銃をぶっ放したものが獲物を獲得できる。
そんな社会に誰が住みたいだろうか?
バグダッドでは毎日100人単位で人々が殺されていく。殺人者は逃げ切って、また新たな殺人を犯していく。まさに「無政府状態」。今、皆さんがこのブログを読んでいる瞬間にも、イラクの普通の人々は恐怖の中で生活している。ただ、日本ではその実態が報道されないだけだ。
こんな状態のイラクであるが、本日は本当にいいニュースばかりで嬉しい限り。
1 イサームラシードとイサーラちゃんが無事国境を越えたというニュースが入った。
2 3日間連絡の取れなかったハッサンと電話がつながり、彼の無事を確認できた。(これについてはまた詳しく報告する)
ということで、19日夕方に帰国する。今日は久しぶりに日本酒で乾杯!

ここスレイマニアには、「アンファール省」というのがある。1988年、フセインが行った大虐殺を「アンファール作戦」というのだが、ここではその悲劇を語り継ぎ、後世に伝えること、いまだに何十万人と言う難民がいるので、その難民の生活を支援すること、さらにはいまだに攻撃のあった村々から遺体が出てくるので、それらの遺体をイスラムに乗っ取って、葬ってあげること、などを主要な仕事としている。
虐殺から18年もたっているが、いまだに遺体が続々と出てくるし、難民たちの処遇は改善されていない。
これには多くの原因があるが、なんと言っても、「フセインの恐怖政治の後を引き継いだのがアンサール・イスラム(イスラム原理主義者)だった」からである。
9・11以降、ビンラディンのアルカイダやアンサールイスラムの摘発が続き、2002年頃に、ようやくこの地域は真に開放されたわけである。
解放されたというものの、イラク戦争があり、その後の大混乱でガソリンは不足するわ、治安はなかなかよくならないわ、移動するのには危険が伴うし、税金は高いわ、で、人々の暮らしがよくなったとはいえない。
ずっと戦争をしてきた地域なので、ここでは銃の携行は当たり前。私が外へ出て行くときは、必ず護衛がつくので、通訳のハリルはいつも「ほら、今お前は拉致されているぞ」と冗談を言うのが常となった。
しかしこれだけのカラシニコフが出回ってしまうと、ひとたび火がつけば止まらないだろうな、と感じる。
今のバグダッドがそうだ。連日50人単位で殺された、という報道が入ってくるが、現実はその倍以上頃されているだろう。報道機関が把握した数が50人というだけであって、多くは警察にも届けず、家族が涙しながら埋葬しているからだ。イスラムでは遺体はすぐに埋めなければならない。
いったい何人死ねばこの戦争が終わるのだろうか。

1988年3月16日、フセインはイラン・イラク国境の町ハラブジャに、化学兵器を投下した。ハラブジャは一瞬にして死の町になり、5000人が虐殺された。2年前にこの町をはじめて訪れた時、「化学兵器虐殺記念館」を取材した。私のDVD第5章で、虐殺された子どもたちの写真や折り重なって死んでいった人々の様子を紹介しているので、もしよろしければ買い求められたし。
そこを2年ぶりに再訪してビックリした。記念館が爆破されていたのだ。テロがあったのは、今年の3月16日。そう、ハラブジャに化学兵器が落とされたその日、18周年を記念して、人々は平和式典を行っていた。式典に参加した人々の中に自爆テロリストが忍び込んでいた。そして爆発…。完成してわずか3年の記念館が完全に吹き飛ばされ、16人が殺された。
なんということだ。これは8月6日、広島の平和式典の途中で記念館が爆破されるのに等しい犯罪である。イランから来たシーア派過激組織の犯行だという。なぜこの記念館を狙ったのか?…ハラブジャの人々がスンニ派だから、である。イラクでは2月22日、サマッラで黄金のドームが爆破されて以降、各地でシーアとスンニの争いが続いている。貴重なモスクが破壊され続けているが、これもそうした「内戦」の結果なのだろう。
記念館には、化学兵器で亡くなった人々の名前が黒い壁に刻まれており、亡くなった人々の写真が飾られていたが、もうそれを見ることはできない。後世に語り継ぐ貴重な資料が一瞬にして奪われてしまった。
ハラブジャの市長と面談した。市長はハラブジャに平和公園を作りたいと語った。広島、長崎と兄弟都市になりたい、とも。
市長自身も88年の化学兵器攻撃で、57人の親族を亡くしている。この町で親族を失わなかった人はいないのだろう。平和公園にしたい、という土地を見せてもらった。周囲には亡くなった人々のお墓があり、ハラブジャの町を見下ろせる広大な広場だった。ここに広島・長崎からのモニュメントが建ち、折鶴が飾られ、日本からの観光客が訪れる日が来たらいいな、と考えた。

本日は金曜日、休日である。アラビア語では金曜日を「ヤウムルジュムア」という。ヤウムルが「曜日」で「ジュムア」が「集まる」。つまり金曜日はモスクに集まってお祈りする日、という意味である。
イスラムの国では、この金曜日を中心として、金・土と休む国と、木・金と休む国があるようだが、いずれにしても金曜礼拝に多くの人々が集まってくる。
ここスレイマニアは比較的宗教色の薄いところで、女性でも顔を出している人が多いし、街角でビールを堂々と売っているのも嬉しい限りだ。
さて、今日はイラクのタラバニ大統領が、サダムフセインに対して蜂起した場所を訪れた。1988年からフセインは「アンファール作戦」を強行。多くのクルド人を虐殺したのだが、そうした状況の中で、タラバニ率いる「クルド愛国者同盟」(PUK)が、決起していく。
クルド地域は山岳地帯で、フセインとしても攻め落としにくく、PUKとしてはゲリラ戦に持っていければ、強力なフセイン軍とも十分戦うことができた。
PUKのゲリラ戦に手を焼いたフセインは、やがて禁じ手である「化学兵器」を使用する。クルドのレジスタンスは壊滅的な被害を受け、多くのクルド人が殺され、難民となっていく…。
やがて湾岸戦争が勃発し、フセインは大打撃を受け、クルド地域を手放すのだが、クルドを一つの国として独立させることには、トルコもイランも消極的であったため、結局は「クルド」という国は現在に至るも出現していない。
もともとイラクやトルコ、シリア、ヨルダンなどの国境線を勝手に引いたのは、第1次世界大戦後のイギリス、フランス、ドイツなどの列強であって、その中で「クルド独立」が承認されなかったのが問題だ。アラブやアフリカの国々の国境は定規で引いたようにまっすぐな場合が多いが、これらはヨーロッパの国々が勝手に決めた国境だからである。
さて、明日はその化学兵器の被害がもっとも悲惨だった村、ハラブジャを再訪しようと思う。慎重に行動するので、ご心配なく。

11日はスレイマニアの病院を訪問した。ここスレイマニアはイラクの中でも比較的安全なので、多くの人々がこの街に逃げてきている。もちろんその中にはがんの患者も多く含まれていて、スレイマニアのがんセンターは多くの患者であふれている。
例えば8歳になるアラント君。彼はハラブジャの出身で、3ヶ月前に白血病と診断された。1988年に化学兵器を使われ、一瞬にして5000人もの人々が亡くなったハラブジャだが、その化学兵器は、今も多くの人々を殺し続けているのだ。「ハラブジャ近郊では農作物が汚染されています。だからがん患者が増えています」とは診察にあたった医師の言葉。
水俣病やベトナムの枯葉剤がそうであったように、被害は胎児や幼児に集中する。
この化学兵器被害の上に、劣化ウラン弾が襲いかかる。イラクは今やこうした戦争被害者であふれかえっている。
リンパ腺がんの子どもがいる。重症だ。2週間前に行った手術跡が痛々しい。「2キロにおよぶ腫瘍を取り除いたばかりだ。彼を助けるのはアッラーの神以外にはないだろう」と医師がつぶやく。
「日本の薬と医療器具がほしい。ぜひ支援を」とは医師を目指す学生の言葉。シリア製の抗生物質を使っていたが、質が良くないという。医師の免許を持ちながら、さらにがん専門の医師になろうと、この病院へやって来て勉強を続ける多くの若者たちがいる。もともとのイラクは、教育が行き届き、医療技術もそれなりに高い国であった。誰が今のイラクの状況を想像していただろうか。
「ヒロシーマ、ナガサーキ」。私が日本人だと分かると、多くの人々が広島・長崎を口にする。ここイラクの現状と60年前の広島・長崎を比較する事はできないが、明らかに人々は日本にシンパシーを抱き、その支援を待っている。
明日は金曜日で休日である。帰国する前にもう一度この病院を訪れたいと考えている。

昨日に続き長い1日だった。どのようにして入ったかを明かすことはできないが、私は今イラクのスレイマニアという街にいる。ここまで来るのは大変長い道のりで、飛行機に2時間、トルコ国内を車で走ること3時間、国境で1時間、そして山道を走ること7時間…。
途中、バグダッドから逃げてきた難民キャンプがあった。取材したかったが、「外へ出るな」と言われたので車内からの撮影のみに終わった。
今後も、取材にはさまざまな制限がかかってくるだろう。サマワに行くのは難しいかもしれない。もし無事にたどり着けたとしてもちゃんとした取材ができるかどうか…。
現在はイラク警察さえ信用できない状態で、バグダッド以下ほとんどのイラクの都市は文字通りの「無法地帯」となっている。
明日、取材対象を絞り込んでいこうと思うが、まず病院、可能ならば難民キャンプ、さらには今後の支援のあり方などをインタビューできればいいな、と考えている。

本日9日は、今回の旅の中でおそらくもっとも長い一日となった。何しろ早朝、というか深夜2時に起床。車をぶっ飛ばしてアンマンの空港着が3時。そこから出国手続きを経て、イスタンブール着が朝の7時。さすがに疲れたので2時間ほど仮眠を取ってからハリルと市内観光へ。
イスタンブールを東西2つに分けているのが「ボスフォロス海峡」で、東側がアジア、西側はヨーロッパである。このボスフォロス海峡には何本か橋がかかっていて、そこを通過する際に「ここでアジアとヨーロッパが分かれているのか」と感動を覚えるのであるが、現地の人々は、その橋の上からのんびりと釣り糸を垂らしている。イスタンブールは「海の街」なのだ。
オスマントルコの首都として栄えたこの都は歴史の街でもある。旧市街にひときわ大きくそびえるのが「アヤソフィアモスク」。ここはかつてキリスト教の教会であったが、イスラムがここを攻め落とし、その後「青のモスク」として栄華を誇ったということだ。
中へ入ると、その大きさと天井の高さに圧倒される。小学校の遠足で奈良の大仏様を見て、「昔の人はよくこんなものを作ったものだ」と感心した経験があるが、ここのスケールはその比ではない。昔の船乗りたちは、このモスクの尖塔を目印にして航海していたのに違いない。
アヤソフィアモスクの隣には広大な「トルカピ宮殿」がある。1200年代から1900年代まで、約700年にわたってオスマントルコを支配した歴代のスルタンが住んでいた宮殿である。
この宮殿、真面目に歩いて見て回ると2時間はかかる。とてつもなく広くて、宮殿の中にはスルタンが着ていた服や馬車、椅子、風呂や刀剣などが陳列してあるのだが、そのほとんど全てに金銀宝石が飾られ、贅をほどこしたつくりとなっている。もし当時、長者番付があれば、このスルタンが世界のトップに君臨していただろう。王の宴を飾る女たちの風呂には黒人奴隷たちが、女たちの身体を清めるためだけに、使われていた。
10年前、タンザニアのザンジバルに行ったとき、多くの黒人たちがアラブの王様のもとへ連れて行かれた、と記されていたが、今も昔も富は一部に集中するものなのだ。
さて、明日もまた朝一番の飛行機に乗らねばならない。明日からはいよいよイラクだ。「飛んでイスタンブール」などと、浮かれていられるのも今日が最後。気を引き締めて行こう。

8日、ようやくモハマド君とキングフセインがんセンターで再会。抗がん剤の副作用で緊急入院していたので、なかなか外へ出る事ができなかったのだ。「今一番やりたいことは何?」と聞くと「早く学校へ行って友達と会いたい」との答え。好きな学科は「アラビア語」であった。
幸い、彼の治療は順調に進んでいて、このままのペースで行くと、イラクに帰国できる日がやってきそうだ。この病院は大変人気が高くて、現在380人を超えるがん患者が入院・通院していて、待機患者も多いとの事。
イサーラちゃんが17日にアンマンにやってくるが、はたしてここで診察してくれるのだろうか?
昨日「アラブの子どもと仲良くする会」の西村さんと会った。私がいない間でも、彼女がサポートしてくれるので大変心強い。
本日のニュースによると、バグダッドでまたまた50人を超えるスンニ派住民が殺され、シーア派の攻撃を恐れた10万人ものスンニ派の人々が、バグダッドから逃げ出している、とのこと。イラク・ヨルダン国境は固く閉ざされているので、難民となった人々は、ファルージャやラマーディなど、かつての「激戦地」に向かうことになるだろう。ファルージャやラマーディはスンニ派の街だからだ。
イラクは完全に内戦に突入したといえる。それもこれも元はといえばアメリカの犯罪である。
パレスティナではハマスとファタハの殺し合いが始まった。対イスラエルではなくアラブ人同士での闘いが始まっている。「同じムスリムなのに…」通訳のハリルの息子、ハーメドがテレビを見ながらつぶやいた。

7日の午後は、アンマンに滞在中のサーミ・マァジューンを訪問した。彼は元サマワ知事で、イラクの前労働大臣である。04年には来日し、小泉首相と会談したという。自衛隊を受け入れたサマワの責任者である。
サーミの家系はオスマントルコ時代、つまり第1次世界大戦の際、勇敢にもイギリス軍と戦った経験を持ち、サマワの人々から今でも尊敬を集めているとのことだ。
彼は最初に、「今のイラクには病院、学校、農業支援、道路整備…全ての分野で支援が必要とされていて、さらに戦闘状態の状況下では、確実に一歩ずつ前進する慎重さが必要だ」と述べた。
私が「何よりも今はけが人や病人を治療し、命を救うことが大事ではないか」と言うと、彼は「ぜひサマワに病院を作ってほしい」と答えた。「サマワはイラクでは一番安全な場所。バグダッドやバスラでは難しいことでも、サマワでなら可能だ。がんの子どもが急増しているので、1人、2人と支援するよりも、まず病院をイラク国内に作り、イラクで治療できる体制を整備することが急務」であり、「その場所はサマワが最適」だとのこと。
まず何ができるか、もしサマワに病院を作るなら、予算や医療スタッフなど、実現可能な計画書を作り、イラク人と日本人が共同会議を持って、安全に、確実に事業を進める必要がある。
さらには「イラクは、本当は豊かな国なんだ。石油がある。私たちは軍隊ではなくて日本の企業に来てほしい。私たちの石油と日本の技術で、政治的にも経済的にも豊かな国にできる。これから協力して国づくりを手伝ってほしい」と、大変貴重な意見をいただいた。
私は今、「イラクの子どもを救う会」を発展させて、「劣化ウラン弾などで被害を受けたイラクの子どもたちを支援するおおさか市民基金」の立ち上げに尽力しているが、今後の方向性が見えてきたようだ。モハマド君、イサーラちゃんだけを救出しても問題の解決にはならない。さらにはアンマンで「治ったように見えても」彼らが将来、またがんを再発しないとも限らない。そのたびに遠い外国へ旅立たねばならないようでは、真に解決したとはいえない。何としても自国で治療できる環境作りが必要だ。今回の旅がそのための一助になればいいなと願っている。

昨日、イラク南部の都市バスラで、大規模な戦闘があり、武装勢力(モクタダ・サダルに率いられたマフディ軍)がイギリス軍のヘリを撃ち落し、戦車を3台焼き討ちにしたようだ。イギリス軍とマフディ軍、互いにたくさんの人が殺されたようで、こちらのテレビでは、ヘリが墜落した現場で、踊って喜んでいるバスラの人々の様子が何回も放送されている。
同じくイラク南部の都市カルバラで自動車を使った自爆テロがあり、21人が死亡したと伝えている。さらには首都バグダッドで51人にのぼるスンニ派の人々が首をきられて殺されているのが発見されたとも。これらのニュースは日本でも報道されているだろうか?
イラクは完全に「内戦状態」に突入してしまった。おそらく51人もの人々が殺されたバグダッドでは、スンニ派が報復攻撃を仕掛け、シーア派の人々が殺されていくだろう。
これから現地入りをめざすのであれば慎重の上にも慎重に行動しなければならない。
さて、今日は午前中にアンマンのキングフセインがんセンターを訪問した。中東では一番信頼できるがん専門の病院だ。ここで、モハマド君の治療費の残り1500ドルを支払う。彼は容態が悪くて、通院から入院へと切り替わり、面会はできなかった。
ロビーでエレベーターを待っていると、「俺の娘を助けてくれないか」と話しかけてきた男性。バグダッドでは治療できないので、有り金をはたいてアンマンまで出てきたという。
傍らにはうら若き女性がたたずんでいる。
「名前は?」「シェイマ・アブドラ・ヤドッサリー(21歳)。5ヶ月前にがんと診断されました」「白血病ではなくてがんなんですね」「首筋に腫瘍が。20歳までは健康で、病気一つしたことがありませんでした」
彼女の父によると、政府からは何の援助もなく、ここアンマンで治療を続けようと思えば、莫大な金額が必要だと言う。バグダッドの中心街に住んでいるが、娘のがんは劣化ウラン弾によるものと考えている、とも。
おそらく彼女は甲状腺がんだと考えられる。アンマンで治療を続けないと、おそらく助からないだろう。今のイラクではがん患者を救うことはできない。21歳といえば、人生のうちでもっとも健康で、楽しい時を過ごせたはずだ。劣化ウラン弾との因果関係を証明するのは難しいが、あまりにも患者が多すぎる。先の「内戦状態」とあわせて、イラクでは大変な事態が進行している。

いつもながらの長旅で、頭クラクラ状態でアンマンに到着。関空を出てから飛行機に16時間、待ち合わせなどで8時間、ちょうど丸一日費やしたことになる。
アンマンに着いて驚いたのが、入国審査に指紋検査機が設置されていたこと。一通りの尋問の後、きっちり指紋を採取される。「テロとの戦い」がエスカレートして、このような監視社会になるのが一番問題だと思うのだが、この勢いだと、次に来る時には眼球の虹彩まで取られてしまうのだろうか…。
アンマンでハリルと再会。前回までは「日本人はイラクに入れない」状態であったが、今や「ヨルダン人もイラクに入れない」らしい。直接的には昨年11月9日の自爆テロで、60人以上が殺されたヨルダン政府が、イラク入りする人を警戒するようになったためだと思われる。そして最近の「内戦状態」が警告の度合いを増してくれている。
何しろ毎日100人単位で殺し合いが続いているという。メディアが報道しないだけなので、日本では実態が伝わっていないが、いまやスンニ派住民は、故郷を追われているようだ。2年前までは「アメリカ対イラクのレジスタンス」という構図で暴力の拡大再生産が行われていたが、今では「アメリカ対レジスタンス、それに加えてイラク人同士」の、バトルロイヤル状態なのだ。
今回のスケジュールはかなりきついので、ゆっくりとはしていられない。さすがに今日は疲れたので眠ることにするが、明日から予定をこなしていかねばならない。
ここアラブでは、なかなかこちらの予定通りことが運ぶことはまれなのだが、何とか充実した2週間にしたいものだ。

本日の深夜便で、まずカタールのドーハまで飛び、その後アンマンへ向かうことになる。
今回のスケジュールはかなりきつくて、アンマンに着けばすぐにイラクのクルド人地域へ飛ばねばならない。
その前にモハマド君と父に会い、治療費の追加支援をする。緊急入院したとのメールが、「アラブの子どもと仲良くする会」の西村さんから送られてきた。モハマド君も中学生になった(あるいはこの9月になる)だろうが、全然学校には通えていないので、簡単な英語の本などを持っていってあげようかと思う。堺市の方からハーモニカをいただいたので、これもプレゼントしよう。楽器は気持ちを落ち着かせるかもしれないし、イラク人は音楽が好きだ。しかし何より言葉の習得が大事だろう。彼ら父子はアラビア語しか話せないので、英語の学習は不可欠となる。
イサーラちゃんと会うのはおそらく5月15日頃になる。キングフセインがんセンターがイサーラちゃんを受け入れてくれればいいのだが…。

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