ベイルート初日、イスラエルの空爆現場を歩いて

今回もカタール航空を使ってドーハ経由でベイルートに入った。毎回そうだが、関空〜ドーハ、あるいはドバイまでは日本人客ばかりなのだが、ドーハからアンマン、ベイルートになると、日本人は激減、というかたいがい誰もいなくなる。
ベイルート国際空港を通過するのは、これで2回目となる。前回は2日間だけだったのでストップオーバー扱いで入ったが、今回はビザがいるのではないか、と心配だった。ましてやつい先日まで戦争をしていた国なので、制度が変わっているかもしれない。入国審査で手こずるかな、と心配していたが、全くの杞憂に終わった。
アンマンでは指紋を取られ、顔写真まで撮られたのだが、ここベイルートでは「日本から?」「2回目?」と聞かれただけ。ビザも無料で出るし、拍子抜けするほど。
ベイルートは「中東のパリ」と言われているだけあって、美しい街である。70年代から90年まで続いた内戦で、街の中心街がことごとく破壊され更地と化したため、街は区画整理をやり直し、素晴らしくきれいなダウンタウンに生まれ変わっている。
26日はそのダウンタウンからタクシーで20分ほどの、ダーヒヤ地区を訪れた。ここは隣にパレスティナ難民キャンプがあり、ダーヒヤ地区自身は、ほとんど全てシーア派アラブ人が住む、「ヒズボラの街」。
メーンストリートには、ナスラッラーのばかでかい写真が飾られ、22日に開催された大集会(勝利記念集会)への参加を呼びかける赤い旗が林立している。
ダーヒヤ地区の、かつてのヒズボラ議長府へ。
この戦争の初期に、集中的にやられたようで、議長府の建物が跡形もなく破壊されており、門だけが残っている。周囲のビルも全壊ないし半壊。ブルドーザー、バックホー、大型トラックが出入りし、瓦礫を取り除いている。
あたり一面の砂埃。アスベストと火災によるダイオキシンが充満しているだろうと思ったので慌ててマスクを買いに走る。
病院のマネージャーにインタビューしたが、ここではクラスター爆弾は使われておらず、劣化ウラン弾も使用されなかったようだ。しかし次々とイスラエルの戦闘機からミサイルが発射され、逃げ遅れた人々が殺されたとのこと。
全く普通の8階建てマンションが爆撃され、「3階建て」になっている。「なぜこのマンションが?」とたずねると、「バイチャンス(たまたまだよ)」とタクシーの運転手。
運転手自身は、戦争中シリアに逃げていたので助かったと証言してくれるのだが・・・。
さて、本日は初日でベイルート近郊にとどまって取材したが、いよいよ明日から南部に入ることにする。子どもたちが虐殺された街カナまで入れるといいのだが・・・。

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このページは、nishitaniが2006年9月27日 11:07に書いたブログ記事です。

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