被爆アオギリ

今回のイラク行きに際して、私は広島市長からいただいた「被爆アオギリ」の苗木を持っていこうと思う。原爆を受けた被爆アオギリは、もう枯れてしまったと思われていたが、見事に芽を吹き出し花を咲かせた。現在は平和記念公園に植樹され、アオギリの前に設置されたボタンを押すと、アオギリの歌が聞こえてくる仕組みとなっている。以下は、アオギリと被爆者沼田鈴子さんについて書いたもの。原稿中、沼田静子となってしまっている。沼田さんごめんなさい。鈴子さんである。今年も8月6日にアオギリサミットが広島平和公園で行われる予定なので、出席したいと思っている。


みなさんは「被爆アオギリ」の名前を耳にしたことがあるだろうか?広島逓信局の運動場に茂っていた4本のアオギリは、原爆の熱線と爆風で、枯れ木になってしまったと思われていたのだが、その内の3本が数年後、芽を吹いて、生き返ったのだ。1973年にアオギリは逓信局から平和公園に移され、今日も広島を訪れる人々に、「生き続けることの大事さ」を教えている。
沼田鈴子さんは、修学旅行で広島を訪れる子どもたちに、そのアオギリの下で自らの被爆体験を語り続けてきた。私が追いかけているのは、イラクで使用された劣化ウラン弾の被害だ。61年前の原爆と、4年前の劣化ウラン弾。決して風化させてはいけない現実をご紹介したい。

1945年8月6日、広島逓信局で働いていた沼田さん、朝の掃除をしようと思い、バケツを手に、水を汲むため階段を下りて踊り場に到達した瞬間だった。キレイな色、赤なのか青なのか・・・。この世のものとは思えない光が差し込んだ。次の瞬間沼田さんは、爆風に吹き飛ばされ、気絶する・・・。
「誰かいないかー、っていう声が聞こえたんですよ。『助けて!、助けて』と、声のするほうに訴えました。2人の男の人が私の身体に覆いかぶさっている瓦礫をのけて、助け出してくれました。背中に負われた私の足首がブランブランとしているのを見て、父は『誰か娘を手当てしてやってくれ!』と叫んでいました」
広島逓信局の4階で被爆した沼田さんは、建物の下敷きになって、左足首を失ってしまう。畳に載せられ、1階まで。そこには、原爆で大怪我をした人々が集められ、まさに生き地獄であった。
「気絶している間に誰かが血止めをしてくれたんでしょうね。とにかく一命を取り留めました。でも重傷者ばかりでしょ。1人の医師で何十人と診察しなければならない。それで足首が取れたまま、私は3日間放ったらかしにされたんですね。すると、だんだん足が腐っていくんです。死が迫ってきて、『左足全部を切断したら、命は助かる』と言われました。当時、私には婚約者がいて、足をきられてしまえば結婚できないと思ったんです。それで『切らないで!』と叫びました。医師は『あんただけやない。多くの人が生きるか死ぬかの瀬戸際なんやで』と言いました。重病者は畳に寝かされていて、隣のお母さんは3歳の息子を左手で抱きかかえていました。私のように爆風で飛ばされたのか、右手はなく、その切れた腕の先からは蛆虫がわいていました。多くの人が気が狂ったような声を出して死んでいきました。『足を切れば生き残れるかもしれない』と思って、『では切ってください』とようやく決断しました」。
切断手術は8月10日早朝。電気がないので夜明けを待ってから、麻酔なしの手術だった。大きな悲鳴を上げて、また気絶した沼田さん。婚約者のことを考えていた。
後になって分かったことだが、その時すでに婚約者は外地で戦死していた。1944年4月に出征し、本当なら8月8日に広島に帰ってくるはずだった。8月8日〜10日、軍の命令で広島に帰ってくる、その日に結婚式を挙げる予定だった。だから沼田さんは「早く8月にならないかな」と、その日を指折り数えて待っていたのだ。
仕事の中で唯一の楽しみは、同僚女子たちと昼休みのおしゃべりだった。室内でそんなことをすれば怒られるので、昼休憩は運動場に植わっている4本のアオギリの下に集まった。
「一発の原爆でね、全てを失ったの。切断した左足の筋肉が、なかなか盛り上がらなくってね、どうしても骨が露出する。だから1年半も逓信局の一階で寝たきりでしたよ。ようやく足の切り口が良くなって、街へ出たの。そうしたら、全部消えているじゃないの。街も、私の家も。家に帰ってからも、自暴自棄になってね、何度も自殺を考えました。兄は足と胸に大やけどを負っているし、妹の顔も傷だらけでしょ。父は義足ができたぞ、松葉杖で歩く練習をしろ、などと言うけど、どうしてもそんな気になれなかったの。だけど自殺もできなかった。家族が『自殺するんじゃないか』と思って、ずっと私のそばについてくれていたんですよ」。
一家6人が被爆した沼田家。父は沼田さんを励まし、リハビリのため逓信局まで散歩しようと、誘う。
「遅々と妹に挟まれるようにして逓信局へ。運動場に行けばアオギリが焼けて、枯れ木になっているの。4本のアオギリのうち1本はまったくダメになっていて、残りの3本も、ケロイドがあって、大やけどしている。その時は『何だ、アオギリもこんなザマになったのか』と思いました」。
その後、沼田さんは、だんだん歩行練習で外へ出るようになる。ある日のこと、父がまた「逓信局へ行こう」と沼田さんを誘う。
「もう一度逓信局へ行きました。運動場でアオギリと再会。大やけどをして死んでしまった、と思われたアオギリから新芽が吹き出していたのです。その姿を見たとき『自殺はいけないんだよ、どんなことがあっても立ち上がるんだよ』とアオギリが話しかけてくれたような気がしたんです。その時私は『あー、右足!』と思いました。私にはまだ右足が残っている。友人も女学校の生徒たちも、たくさん死んでいった。でも私は生きている。生きていれば、死者の代わりに、命の大切さ、被爆の恐ろしさを、伝えていくことができる。
爆風で吹き飛ばされたあの時、もし両足に瓦礫が乗っかっていたら、私は右足も失っていた。でも私は命も右足も残ったじゃないか、と。
 被爆アオギリに、生きることの大切さを教えてもらった沼田さんは、それから原爆の語り部という仕事を始める。
「妹はね、乳がんになって20歳で両胸を取り除いたの。左手もふくれ上がってしまってね。放射能って恐ろしいよ。イラクの劣化ウラン弾も一緒でしょ。そうですか、アオギリをイラクへ。ありがとうございます。今、被爆アオギリはジュネーブやドミニカ、イタリアやリトアニアで植わっていますよ。イラクで育てばいいですね。原爆も劣化ウラン弾も絶対に許してはダメです。私はね、年をとって老人ホームに入っているけど、来年も平和公園のアオギリの下で、お話しようと思っているんですよ」。
私は今年、広島市役所からいただいたアオギリの苗木と、沼田さんの気持ちを、イラクに持って行こうと思う。劣化ウラン弾を多数撃ちこまれたイラク南部では、信じられないほどの子どもが、がんなどの不治の病で倒れている。「はだしのゲン」たちが、イラクで助けを求めているのだ。もちろん薬も医療器具も、何がしかの生活するお金も必要だろう。しかし、私は「生きる望み」を持って行きたい。アオギリをイラクに植樹し、そこを平和公園にするのだ。原爆にも負けなかったアオギリを見て、イラクの子ども達が、戦争にも貧困にも、そして白血病にも負けないように、しなやかに、たくましく育っていくように。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 被爆アオギリ

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.nowiraq.com/mt/mt-tb.cgi/54

コメントする

このブログ記事について

このページは、nishitaniが2007年2月13日 02:54に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ブログ再開」です。

次のブログ記事は「アンマンに到着」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01