2007年3月アーカイブ

昨日、高遠さんのコーディネートで、「イラクの空には何が見える」と題する講演会を企画した。イラク・ラマーディ市で、市民社会を再建する活動を続けるカーシム・トゥルキさんを迎えての講演会だ。
「カーシムが来るの。大阪で講演会を企画できない?」と高遠さんから電話があったのは、確か3月15日。カーシムの滞在期間はわずか2週間ということで、急遽開催の運びとなった。会場を貸していただいた保険医協会の皆さんに感謝。
カーシムからは、激戦地ラマーディの様子を詳しく聞くことができた。ラマーディ市は人口40万人くらいだが、この4年間で(少なく見積もって)約3万3千人ほどが米軍に殺されているという。40万人のうち3〜4割は故郷ラマーディを捨てて国内避難民になっている。20ある学校は全て米軍に占拠され、基地になっている。米兵たちは冬場暖を取るため、学校の机やいすを燃やしている。病院は米兵に包囲されているので、重傷者も病院へ行くことができない。米兵と武装勢力の間で銃撃戦が始まって、それに一般市民が巻き込まれ、重傷を負っても、人々は病院へ行かずに家に帰る。そこで出血多量で死んでも、死者数にカウントされない。実際、止血剤や応急手当がないため、出血多量で死ぬ人が多いという。
カーシムは「武装勢力は負の遺産」という。米兵との戦闘で肉親を失って武器を持って戦うイラク人が多いのだが、「それでは解決しない」と。戦闘が戦闘につながり、犠牲者の数が雪ダルマ式に増える。まさに今のイラクの状態であるが、彼によると「戦闘ではなく、そのエネルギーを病院や学校の再建に向けること」が大事だというのだ。
つまり9条の考え方である。日本から大量の机やいすをラマーディの学校に運ぶ際、ラマーディの武装勢力から「自衛隊を派兵している日本から?米軍関係の物資ではないだろうな?」と検問されたという。
そのたびに「政府からの援助ではない。日本の民間人からの人道支援だ」と説明して難を逃れたという。
昨日、政府は派兵を2年間延長すると決定した。私たちは声を大にして言わねばならない。
「日本政府と日本人は違う。多くの日本人は撤退を望んでいる」と。

週初めから東京へ出張だった。今回のイラク取材では、TBSが密着取材してくれて、私たちがイラクで撮影した映像とあわせて、夕方のニュースで特集を組んでいただくことになった。
よほど大きなニュースが飛び込んでこない限り、4月4日(水)、5日(木)の午後5時35分からだそうだ。
関西地方では「ちちんぷいぷい」を放送しているので、見ることはできないが、東京はじめ、九州や北海道などで視聴可能とか。
関西地方以外のみなさん、ぜひ4日5日はTBSをご覧ください。
昨年あたりから東京へ行く機会が増えたが、いつ行っても「人が多い」。新幹線で東京駅に着くと「高いビルばっかりやな」と上空を見上げながら歩いているので、完全な「おのぼりさん状態」である。
TBSも日本テレビも「壮大な」建物で、まずあの建物に気おされてから入場するのが常だ。
山手線は平日の午後2時で満員すし詰め状態。大阪環状線はガラガラやなー、景気が違うのかなーと感じながら、翌日、宿泊した代々木から、何気無く「東京方面」と書いてある、電車に乗って東京駅に向かうと、いつの間にか船橋。「えっ?ここ千葉やん」。
秋葉原で乗り換えなければ東京には行けないことを学んだのだった。
「難しいぞ、東京!!」

イラクから帰国すると、とたんに忙しくなり、このブログも更新しなくなるのが常なのだが、それではいけないので、近況とともに連絡を。
3月20日、開戦4年目の日は、北海道で講演。平和運動フォーラムという組織があって、そこの十勝、岩見沢双方の方々から招かれて北海道へ。北海道の特徴は、前回の郵政民営化選挙で、「唯一自民党に負けなかった」という土地柄。旧社会党の影響力が強いところで、私を招いてくれた責任者の方は、国鉄民営化のときに首を切られた国労の方だった。
北海道を含め、全国で知事選挙が始まったが、相変わらず知事候補が乱立傾向である。
憲法問題で統一候補ができないものかと感じるが、なかなか難しいようだ。
3月30日(金)大阪府保険医協会M&Dホールで、激戦地ラマーディから来日したイラク人青年カーシム氏を招いた講演会を開催する。午後7時から9時。講演会に先立って、私のイラク最新映像を上映予定。
年度末の忙しいときだが、30日の夜は、保険医協会M&Dホールへ。地下鉄難波26番A出口歩いて5分。連絡先は 保険医協会の住所 大阪市浪速区幸町1−2−33
          電話 06(6568)7721〜9 

昨日、無事アンマンに到着。毎度の事ながらイラクからヨルダンに帰還した瞬間が、一番ホッとする。ここアンマンでは、きれいな水が出て、ガソリンは普通に買えるし、電気も停電しない。当たり前のことが当たり前に行われていることに幸せを感じる。
今日で2週間にわたるイラク取材を終えるわけだが、今回は実りの多い旅だった。シリアのダマスカスでイラクからの難民取材、ハラブジャで被爆アオギリの植樹、スレイマニアがんセンターへ日本からの薬を届ける、ハンディキャップセンターで戦争被害者とのインタビュー、緊急外科病棟で出会った重症の子どもたち、そして激戦地のキルクーク・・・。
詳細は帰国後、テレビ、新聞などで報告するつもりだ。
これからアンマン〜ドバイ〜大阪への長い長い空の旅になるが、なんと昨日ドバイ国際空港で事故があり、昨日のフライトはほとんど全てキャンセルされている。おそらく本日のフライトは満席だろう。アンマンのクイーンアリア国際空港には、普段より早めに到着するように、との指示があった。最後の最後までハラハラする、私にとって6回目のイラクの旅は、ようやくゴールを迎えようとしている。

本日は、スレイマニア市内にある救急病院を取材した。詳細は帰国後ビデオなどで紹介するが、地獄図だった。バクーバという激戦地から12歳の少女が運ばれてきた。小学校から帰宅中に、米兵が背後から撃ったのだ。彼女の通う小学校周辺は、よく米軍の戦車が通過するところだった。その日、道路わきに仕掛けてあった爆弾が爆発、米軍の戦車は無事だった。しかしこのような爆弾攻撃の後は、米兵はクレイジーになる。周囲にいる人はみんなテロリストに見えるのだろう、米兵は銃を乱射した。その時彼女たちは3人で通学路を帰宅中だった。1人が殺され、彼女は両足に重傷を負った。
「なぜ米兵hは子どもを撃つのか!この子がテロリストだというのか!」付き添いの父親が嘆いた。
隣のベッドでは6歳の少年が横たわっている。両足は全てギプス。身体には無数の黒い斑点。クラスター爆弾だ。3日前、少年は3人で不発弾を触って遊んでいた。突然クラスターが爆発、2人が死亡し、唯一生き残ったのが、この6歳の少年だ。
身体に空いた無数の黒い穴の中には、今も鉄の塊が突き刺さっている。
バクーバ、キルクーク、モスル、そしてバグダッド・・・。各地から多くの重傷者が運び込まれてくる。医師が「1時間前、一人亡くなった」とつぶやく。
日本では「バグダッドで100人死亡」という「数字だけ」のニュースが流れる。その影で、多くの人々の涙と怒りが渦巻いている。

本日は激戦地キルクークに入った。スレイマニアから車を飛ばしてわずか1時間半ほどの距離にあるキルクークだが、内戦が激化し、国内避難民が急増している。
PUK(クルド愛国者同盟)に護衛を頼み、ピンポイント取材を敢行した。
油田で有名な町キルクークは、その油田があるために、利権をめぐって戦乱が続いてきた。フセインは、油田をアラブ側で押さえるために、元からすんでいたクルド人を追い出し、南部シーア派を大量に移住させた。キルクークに住んでいたクルド人たちは大量に難民となった。03年アメリカの侵攻でフセインが倒れると状況は逆転する。移住してきたシーア派アラブ人たちを、今度はクルドの帰還民が、追い出しにかかる。かくして、キルクークではアラブとクルドの領地争いが展開され、内戦状態に陥っているのだ。ややこしいのは、ここに「トルコマン人」がからみ、トルコがキルクーク油田の利権の一部を手中にしようとして、トルコマン人を刺激している。いわば三つ巴4つ巴の戦いである。
キルクークスタジアムへ。ここではサッカーや陸上競技が行われていたが、今は競技場が難民キャンプに変わっている。選手の控え室やロッカーが、難民たちの住居。電気は通電せず、給水車は3日に1回しか来ない。
戦闘が激化すると、夜間外出ができないので、子どもが病気になっても、病院にも連れて行けない。親たちは失業し、今はクルド政府の月20ドルの支援金で、細々と命をつないでいる状態だ。
生活排水と汚水が、スタジアムから漏れ出して異臭を放っている。03年のイラク戦争後から、ここは難民キャンプ化しているので、この生活がもう4年間も続いていることになる。
「ジャーナリストたちは、俺たちの生活を写真に収めるだけじゃないか!、アメリカからも、フランスも、イギリスからも、たくさんテレビや新聞がやってきたが、写真を撮るだけで何の援助もしてくれなかった。日本はどうなんだい?」と厳しく追及された。
絶望・・・「将来の夢は?」と聞いたときの答えであった。いまだに戦闘続くキルクーク。人間らしい生活が送れない難民キャンプから、わずか車で1時間半のスレイマニアは天国のようである。
阪神大震災で、神戸の小学校に寝泊りする被災者と、電車で30分のところにある大阪梅田で、連日ナイトクラブやディスコなどでお酒を飲む人々。
なぜか当時の神戸を思い出してしまった。

本日は再度ハラブジャを訪問。毒ガス攻撃で犠牲になった方々、その後遺症に悩む人々、さらには貧困な医療施設などを取材した。フセインの軍隊が放った爆弾が不発弾になり、普通の民家のバルコニーに埋まりこんでいた。1988年当時、多くの人々は山に逃げており、この民家の方々も無事だったのだが、88年から91年まで、家に帰ることができず、難民として過ごさざるをえなかったという。
山に逃げていたとはいえ、毒ガスを少しばかり吸い込んでいたらしく、35歳になる彼の胸部、腹部には赤い斑点が目立った。毒ガスの後遺症である。彼の兄は右目の視力を低下させていた。
詳細はまたビデオで紹介する。
ここハラブジャでは、長引く戦争の結果、ほとんどの産業が衰退してしまった。道路は舗装されず、下水は整備されていない。商店街に並ぶ野菜や果物、家庭雑貨は、ほとんどがイランかシリア、トルコから輸入されたもの。地場産業が育っていないのだ。
当然人々は失業状態。金がなく、政府の予算もない。したがってハラブジャ病院には医師が3人しかおらず、日々やってくる約450人もの患者の手当てをしている状態だ。
原爆投下直後の広島もこんな感じだったのではないだろうか?占領軍に被爆実態を検閲され、被爆者には必要な医療が施されず、それどころか「原爆ぶらぶら病」で差別され・・・。
クルド人たちはそれでなくても「国を持たない世界最大の少数民族」として差別・弾圧されてきた。その上にハラブジャの悲劇である。
この地には、あの前国務長官のコリン・パウエルもやって来た。彼はハラブジャの惨状を見て、「あれもやらねばならない」「これもやる」と「約束だけ」して帰ったという。私の場合は、たとえ少しでも薬を持っていけただけ「パウエルよりまし」なのかもしれない。
もっとも、パウエルと競ったところで、人々の生活は一向に向上しない。政府レベルの援助が必要だ。

昨日訪れたところは、ハンディキャップセンターといって、空爆や銃撃戦の巻き添え、地雷、クラスター爆弾の不発弾などで、障害を持った人々のためのリハビリ施設である。
1991年に、戦争で傷ついたクルド人のためのNGOとしてスタートした事業であるが、95年からは、人種、民族、宗教の違いを超えて、犠牲になった全ての人々を公平に救おうということで、名前に「インターナショナル」が加わった。
ご存知のように、今のバグダッド初めイラク各都市は内戦状態なので、多くの人々が傷つき、障害者となっている。ここではバグダッド、ティクリート、バスラ、バクーバなど、アラブ人地域から運ばれてきた患者に対しても、公平に診察し、義足を作り、リハビリを施している。
イラク国軍の兵士で、ティクリート近郊を車で移動中、道路わきの仕掛け爆弾によって重傷を負った人が座っている。10台の車列で通行中、突然爆発、彼の車には5人が乗っていたが、他の4人は全員死亡、彼だけが左足左目を失って、助かった。3ヶ月前のことだ。
切断された左足を撮影する。今から彼のための義足を作るというので、その工程を取材。クルド人技師が、左腿を5センチ間隔にマーキングする。その後石膏で左腿を固め、しばらくして抜き取る。これが型枠になり、その後型枠通りにプラスティックを流し込み、義足の上半分が作られるわけだ。彼の場合は膝の上から切断しているので、「膝から下の鉄の部分」に、前方にしか折れ曲がらないジョイントを設け、これを関節代わりにして義足が完成するわけだ。
これから厳しいリハビリが始まり、彼は歩けるようになるかもしれない。
しかし今後イラク国防軍に復帰することはできないだろう。今のところ、米軍はもちろん、イラク政府からも何の補償もない。彼には子どもがいるが、これから先どのようにして生活していくのだろうか・・・。
どの時代の戦争も、彼のような「前線兵士」が傷つき、司令官は安泰である。昨日もバグダッドでテロがあり200人以上が殺されたという。200人が殺されたということは、彼のような障害者が同数程度出ているということだろう。あらためてこの戦争の悲惨さを思い知らされる。

3月6日、7日は、スレイマニアがんセンターと、ハンディキャップセンターを訪れた。
がんセンターでは、日本からの薬を手渡す儀式を行った。この模様は、またもや地元のテレビが報道した。持参した薬は、「スレイマニアでは手に入らないものだ」と歓迎され、「これでたくさんの命が助かる」と医師から感謝された。
あらためて募金いただいたみなさんに感謝申し上げたい。
がんセンターとハンディキャップセンターの様子は、また後日詳述する。明日はハラブジャ。明後日はキルクークの予定。とにかく安全第一で行動するので、ご安心を。

3月5日は、急遽予定を変更して、ハラブジャの町を訪れた。ハラブジャは「イラクの広島」と呼ばれているところで、1988年サダムフセインの化学兵器によって、5千人もの人々が一瞬にして殺戮された街として記憶に残さねばならない街だ。
今回、広島市長から「被爆アオギリ」をいただいたので、その苗木をハラブジャの公園に植えるというプロジェクトであるが、それが地元のテレビ局に伝わって、盛大な儀式が開催されることになった。
私たちを出迎えてくれたのは、ハラブジャのPUK(クルド愛国者同盟)の責任者と、警察署長、そしてハラブジャ市長。現地では市長よりPUKの責任者の方が、より重要人物である様子。
ハラブジャの集団墓地の前で、記念式典がスタート。
持参した「被爆アオギリ100万本」という音楽が流れる中で、集団墓地に幹部3名とともに献花する。
その後、被爆アオギリの説明と、日本からの支援物資の説明をする。
この日の模様は、地元テレビ3局が放送し、翌日から「テレビで見た」と声をかけられることとなった。
ともあれ、「広島とハラブジャを結ぶ」というプロジェクトは、現地では大歓迎され、今後の期待の大きさと責任の重大さを感じた一日だった。

本日は3月7日、現地時間で午後8時。ということは日本ではもうすでに8日の午前3時頃である。
イラク入りには4日に成功して、すでに3日分の取材をしているのだが、こちらの電力事情&通信事情から、なかなかブログを更新できなかった。本日ようやくネットがつながったので、4日の分をアップします。

3月4日、懸念していた飛行機が飛んだ。午前11時、無事スレイマニアに到着。出迎えてくれたのは、通訳のハリルとファラドゥーン。彼ら2人が私のビザを取得すべく、働いてくれたので、今回もイラク入国に成功。
本日はクルド人にとって「建国記念日」に当たる休日。1991年3月4日、クルド革命軍が、フセインの軍隊を追い出し、この地に「クルド自治区」を建設した記念日なのだ。
休日なので、病院は閉まっており、緊急援助の薬も本日届けることが不可能。休暇明けを待って届けることにする。
スレイマニアでは、まず「がん病院」を訪れて、被害の実相を取材することにする。さらに、多くの人々が戦争被害に遭って逃げてきているということなので、外科病院と、リハビリセンターを訪問しようと思う。その後ハラブジャに「被爆アオギリ」を植樹し、ハラブジャの被害を取材する予定。
私たちのホテルにハラブジャの学生たちが訪れてきた。彼らはそれぞれ化学兵器によって家族を失っている。驚くのは犠牲者の数。「私の家族は7人」「僕は11人」「俺は27人」などの証言が飛び交い、あらためて化学兵器の恐ろしさを実感する。
そんな話をしている間にも、突然の停電。アメリカが発電所を空爆し、その後復旧していないため、イラクでは停電が日常茶飯事。このブログも、いつ停電するかヒヤヒヤしながら更新している。
何はともあれ、早朝の飛行機で、緊張の連続だったため、本日はこれくらいにして早く眠ることにする。

3月3日、まだヨルダンで足止めされている。飛行機が飛ばなかったのだ。理由は?「イラク航空ではよくあること」と説明されるが、こちらは薬を届けるという緊急人道支援なのだ。「勝手にフライトをキャンセルするな!」と抗議するも、先方は謝るだけ。
タラバニ大統領がヨルダンで治療をしていて、その関係で治安上飛ばなかったのかもしれない。
とにかく広島のアオギリは元気にしている。薬も250万円分用意した。東豊中小学校の子どもたちが描いてくれた絵も詰め込んだ。旭東中学校の子どもたちが集めてくれたおもちゃもパッキングした。荷物は全部で6箱と、カメラ、三脚、アオギリ・・・。
何しろ飛行機が飛ばないと話にならない。明日は順調に飛びますように。

ダマスカスのジャラマナ地区は、逃げてきたイラク人がたくさん住んでいる地域だ。何しろシリアには150万人ものイラク人が難民として入国し、その内の半数は日々の生活にも事欠く状態だという。
インテサーさん(33歳)は4人の娘がいる。上の二人をシリアに連れて逃げてくることができたが、下の二人はまだバグダッドにいて、祖母が面倒を見ている。
インテサーさんはどうしてシリアに逃げなければならなかったか?
それは自動車を使った自爆テロである。1年半前、インテサーさんは自動車テロに巻き込まれ、3ヶ月間を意識不明で過ごす。インテサーさんのお腹には赤ちゃんがいた。意識不明の身体から、バグダッドの医師は、帝王切開で娘   ちゃんを取り出した。
3ヵ月後、意識を取り戻したインテサーさん、爆発の衝撃と長期にわたる意識不明状態のため、彼女の脳はダメージを受け、神経の麻痺により歩行困難となった。
夫は入院中に、対立する宗派グループに拉致され、行方不明。生活にも事欠く状態で、仕方なく2人の娘だけを連れて、逃げ出したのだ。
シリア政府や国連からの援助は皆無。近所に住む逃げてきたイラク人の支えで細々と生活をしている。
しかしその状態も長くは続かない。もし国連の援助がなければ、シリアに住み続けることができなくなり、イラクに帰らねばならない。
「イラクに帰るのは嫌です。何とかシリアに残り、娘の子育てとリハビリを続けたい」とインテサーさんは訴えた。
ディア君(9歳)は小学校3年生だが、学校には行かず車椅子の生活を家の中で続けている。
2005年7月10日、父親の運転で、母、兄弟とともに小学校へ向かう途中のことだった。とあるビルの屋上から、米兵が車に向けて発砲してきた。バグダッドではこのような「気まぐれ発砲」が後を絶たない。米兵が撃った数発の銃弾のうち1発がディア君の背中に命中した。
「何が起こったかすぐには分からなかった。気がつけばおにいちゃんが倒れていて、あたりは血の海だったんだ」。すぐ下の弟ハムド(8歳)は、ディア君の隣に座っていたのだ。
ディア君は4ヶ月間バグダッドの病院に入院した。米兵の放った銃弾は、体内に入ってから爆発するタイプのもので、いまだに50以上の破片が残る。
銃弾は背骨の一部をえぐりとり、ディア君は下半身不随となった。
サッカーが大好きな9歳の少年は、それ以後学校に行かなくなった。
「みんながサッカーをしているのを見るのがつらいんだ。普段は家にいて、たまに外の通りを車椅子で散歩する・・・」語りながらデイァ君は泣き出してしまった。
「僕はお医者さんになって、お兄ちゃんを歩けるようにしてあげたいんだ。車椅子から立ち上がって、前のように一緒に遊びたいよ」。ハムドも泣きながら将来の夢を語った。
米兵が気まぐれで撃った一発の銃弾がディア君たち家族の人生を大きく狂わせている。米軍はいまだに何の補償もしていない。大量破壊兵器があるというウソで始まった戦争で、人生を狂わされた家族の「本当の事実」が、ここにも一つ転がっている。

2月28日は、ダマスカスのジャラマナ地区という、イラク難民が多く住んでいる町を訪れた。バグダッドはじめ、イラクのほとんどの都市で、アメリカ占領軍による殺戮と、内戦激化で、イラク人が難民化している。
この街で、イラクから逃げてきた人々の証言を拾ってみた。

ムスタファさん(22歳)の体に、8発の銃弾が撃ちこまれたのは、昨年10月のこと。彼はあの悪名高いアブグレイブ刑務所で、米軍の通訳として働いていた。彼と彼の叔父、いとこの通訳は3人だった。06年10月、休暇をとってアブグレイブから、バグダッドの実家に帰ろうとしていた。タクシーに乗って実家に向かっていたら、突然民兵が現れた。民兵たちはタクシーをストップさせ、問答無用で撃ってきた。叔父は即死、彼も8発の銃弾に倒れた。
その内の一発は心臓をかすめた。「あと1ミリずれていたら、心臓に当たって殺されていた」彼は自分の胸を指差した。
あご、右腕、腹部、足・・・それぞれの弾痕をカメラに収める。生き残ったのは奇跡に近い。あごに入った銃弾は、取り除くのに4か月かかった。その間、呼吸ができないので、のどに穴を開け、チューブで空気を送り込んだ。
「俺の父親は早くに死んでしまい、今は母と妹と暮らしている。シリアに逃げてくることはできたが、現在まったく仕事がなく無収入だ。国連の援助を待っている」。
ムスタファさんたちが、国連から援助を受けることができるのは、少なくともこの7月からだという。それまではまったくの無収入。「7月までどうやって暮らせばいいんだ。あと4ヶ月以上もあるんだぜ」。
銃撃の後遺症のため、右腕に力が入らず、肉体労働はままならない。バグダッドに帰れば、仕事のあてがあるのだが、「米軍の通訳」という過去があるため、おそらくまた狙われてしまう。
「撃ったのはスンニ派の民兵だ。俺はシーア派だからね」。取材をしていて、ほとんどのイラク人は「スンニもシーアもない。俺たちはイラク人だ」と言ってくれるのだが、実際は、ただスンニ、シーアであるだけで、ただ過去にその職業についただけで、殺されてしまうのがバグダッドの現実だ。
アブグレイブ刑務所に勤めていたとのことなので、米軍の虐待を見ていたのか尋ねたが、あの虐待事件があって、米軍の体制やそれまで雇われていた通訳が総入れ替えになって、その後、通訳として雇われたので、虐待については知らない、とのことだった。
いずれにしても、彼の運命は米軍と戦争に翻弄された。大学で経営学を学び、戦争さえなかったら、バグダッドで普通にビジネスをしていたであろう、ムスタファさんは、今、シリアのダマスカスの貧民街で、ただ、援助を待つだけの生活を余儀なくされている。

2月28日、今日からは予定を変更してシリアのダマスカスにいます。ダマスカスは紀元前から栄えたいにしえの都。城壁に囲まれたオールドダマスカスに一歩足を踏み入れると、そこはまるで中世・・・。なんて、旅行ガイドブックみたいに書き出してみましたが、こちらは元気にやっています。
ヨルダン〜シリアの国境で、すこし手間取ったものの、首尾よくダマスカス入りに成功。ダマスカスは人口700万人の巨大都市で、その上、最近では逃げ出してきたイラク人でさらに人口が急増中。
ヨルダン・アンマンで調査したところ、アンマンに逃げていた多くの貧しいイラク人が、ヨルダン政府に「ビザが切れた」と、追い出し攻撃をかけられ、仕方なくダマスカスに、緊急避難しているとのこと。
本日の取材で、その逃げてきたイラク人との接触に成功。
詳細は明日のブログで。
ここシリアは、アサド大統領の独裁国家なので、シリア批判につながることは問答無用でアウト。秘密警察の目を盗みながら、さてどれだけ取材ができるでしょうか・・・。
ではまた明日。

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