ハラブジャにて

本日は再度ハラブジャを訪問。毒ガス攻撃で犠牲になった方々、その後遺症に悩む人々、さらには貧困な医療施設などを取材した。フセインの軍隊が放った爆弾が不発弾になり、普通の民家のバルコニーに埋まりこんでいた。1988年当時、多くの人々は山に逃げており、この民家の方々も無事だったのだが、88年から91年まで、家に帰ることができず、難民として過ごさざるをえなかったという。
山に逃げていたとはいえ、毒ガスを少しばかり吸い込んでいたらしく、35歳になる彼の胸部、腹部には赤い斑点が目立った。毒ガスの後遺症である。彼の兄は右目の視力を低下させていた。
詳細はまたビデオで紹介する。
ここハラブジャでは、長引く戦争の結果、ほとんどの産業が衰退してしまった。道路は舗装されず、下水は整備されていない。商店街に並ぶ野菜や果物、家庭雑貨は、ほとんどがイランかシリア、トルコから輸入されたもの。地場産業が育っていないのだ。
当然人々は失業状態。金がなく、政府の予算もない。したがってハラブジャ病院には医師が3人しかおらず、日々やってくる約450人もの患者の手当てをしている状態だ。
原爆投下直後の広島もこんな感じだったのではないだろうか?占領軍に被爆実態を検閲され、被爆者には必要な医療が施されず、それどころか「原爆ぶらぶら病」で差別され・・・。
クルド人たちはそれでなくても「国を持たない世界最大の少数民族」として差別・弾圧されてきた。その上にハラブジャの悲劇である。
この地には、あの前国務長官のコリン・パウエルもやって来た。彼はハラブジャの惨状を見て、「あれもやらねばならない」「これもやる」と「約束だけ」して帰ったという。私の場合は、たとえ少しでも薬を持っていけただけ「パウエルよりまし」なのかもしれない。
もっとも、パウエルと競ったところで、人々の生活は一向に向上しない。政府レベルの援助が必要だ。

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このページは、nishitaniが2007年3月 9日 02:45に書いたブログ記事です。

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