難民キャンプを訪問

本日(5日)は金曜日で休日のため、イラク航空の事務所は仕事をしないため、チケットの段取りができない。仕方なく、アンマン郊外にあるバカー難民キャンプへ。ここはパレスティナ難民キャンプとしては、ヨルダン最大の規模である。普通「難民キャンプ」と聞くと、テントが張ってあって国連の旗がはためき、UNHCR(国連高等弁務官事務所)と大書されたトラックが行き交うような光景を想像するが、何しろこのキャンプができたのは60年前である。パレスティナ問題は、1948年の第一次中東戦争から現在に至る60年間の歴史があるので、難民キャンプも年季が入っているのだ。
1967年、第3次中東戦争(別名6日間戦争)当時は、この地にはテントが張られ、約4万人の難民が緊急避難していたのだが、それから約40年の歳月は、このキャンプをテントからバラック小屋、そして狭いアパートメントへと変えてしまった。つまりバカーキャンプを一瞥するだけでは「普通の貧困街」と変わらない。
キャンプの中の細い道、コカコーラや菓子を売る店の主人、ハーヤクさん(52歳)も、67年の6日間戦争でイスラエルの民兵に家を終われ、アンマンに逃げてきた。近隣の村の住民が民兵に虐殺され、赤十字が緊急避難としてハーヤクさんらをイスラエル〜ヨルダン国境に非難させた。しかしイスラエル軍が国境の難民キャンプを空爆してきたので、じりじりとキャンプをヨルダン側に移動させ、最後にヨルダン政府がバカー地区に難民を誘導した。
当時12歳で小学校5年生だった彼は、以後国連の援助で学校を卒業、ごみ収集業で働き、その後保険会社を退職して現在は無職。
妻も難民で、夫婦の間に12人の娘と4人の息子。つまり16人もの子どもを育てたのである。バカーキャンプにはその後もイスラエル軍によって土地を奪われた人々がやってきたことと、ハーヤクさんのように「多産系」の夫婦が多かったので、いまや人口は50万人以上。つまり一つのキャンプが、都市の様相を呈しているのだ。
「ハマスとファタハ、どちらを支持するか?」と、ハーヤクさんにも、その他の人々にも尋ねてみたが、「どちらも支持しない」との答え。理由は、ファタハ幹部は汚職にまみれているし、ハマスは武力で支配しようとするから、という回答だった。パレスティナ人を解放するには、汚職にまみれている政府でもなく、テロや暴力で解決しようとする政府でもない、新たな政府が必要だという意見であった。
私は今、来年3月頃に、中東への「スタディーツアー」を考えている。
このバカーキャンプを参加者のみなさんと訪れてみるのも面白いかもしれない。

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このページは、nishitaniが2007年10月 6日 02:06に書いたブログ記事です。

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