2007年12月アーカイブ

早いもので、今年も今日で終わり。私の場合、いろいろなことがあった一年を締めくくったのは、「イラク派兵差止め裁判の判決」である。
12月26日、約200名近い傍聴者が集まり、大阪高裁202号法廷は中に入りきれない人々であふれた。大阪の裁判の特徴は、作家で9条の会代表であった故小田実さんと、イラク人ジャーナリスト、ハッサンアボッドが、原告になっていること。

とりわけ、この裁判に勝利し、イラクからの自衛隊撤退を実現させ、憲法9条を守り続ける、というのが、いわば小田さんの「遺言」であったので、当日はテレビや新聞も駆けつけ、年の瀬ギリギリの一大政治決戦、の様相を呈していた。
判決は、「見事に不合格」であった。そもそもイラクへの自衛隊派兵によって「平和的生存権が侵されている」と訴えているのだが、判決では、「(平和に生存したいという)権利は、具体性がなく、法的に保護するまでもない」と切って捨てた。

面白いのは500人近くの原告団の中で、ハッサンと私だけが、「特別に判断された」ことだ。
私の場合、2005年11月29日に、アンマン~バグダッドの飛行機に乗り、イラク入りを目指したが、空港でイラクの入国審査官に入国を拒否され、結果20万円ほどのチケットが無駄になった、という事実があった。なぜ入国を拒否されたかというと、日本政府が「いかなる日本人も入国させないように」と、陸路の国境や空港で「網を張っていた」からだ。
判決では、「日本国外務省職員の関与の内容、態様等も不明であるので、本件において、いまだ控訴人西谷がイラクへ入国できなかったことにつき、被控訴人側に、違法な行為があったと認めることはできない。この点の控訴人西谷の供述をもってしても、これを認めるには十分でない」としている。

つまり、私の証言だけでは認められない、というのだ。であるならば、私以外の「入国拒否された」事例を調べればいいのだ。05年、06年当時は、ほとんどのジャーナリストにビザが下りなかった。イラク政府に問い合わせると、「日本政府から止められている」との答えだった。様々な方々がイラクに入れずに、周辺国からのリポートに留まった。フリージャーナリストのF氏は、自らのホームページ上で、パスポート1ページ目、「通路故障なく旅行させ…」という文章と、「日本国外務大臣」の印鑑を、掲載し、当時の政府の行動を皮肉っていた。かくしてサマワからの報道が途絶えてしまい、自衛隊は何をしているのかが分からなくなってしまった。
そのような事実関係を調べることなしに、「法廷での証言だけでは信用できない」と判断されたわけだ。
私は約20万円の「損害」があったので、このような特別判断となったわけだが、問題なのは「国民の知る権利」である。あの時ほど、「現場からのリポート」が大事だったときはなかったと考える。陸上自衛隊がサマワにいて、そのサマワでは「水よこせデモ」が頻発。米軍は空爆を繰り返し、武装勢力が、米軍その他協力部隊を狙っていて、自衛隊にも迫撃砲が飛び込んでいた、ちょうどその時なのだ。

サマワの自衛隊は、大雑把に言って、毎日1億円の税金を消費して、「任務」に当たっていた。何リットルの水を供給したのか、病院への支援はどうなったのか、学校の再建は?
そのようなことが一切国民に知らされずに、「自衛隊は立派に任務を果たした」と言われ続けていたのだ。
内閣と国会が自民・公明の多数に握られ、まともな審議もないまま、自衛隊が派兵されたからこそ、私たちは司法に訴えた。しかしその司法が、政府のほうばかり見て、国民を見ない。これでは何のための三権分立なのだろうか?

今年の漢字は「偽」。食品偽装、年金の公約、出ないといって出る知事候補…。私にとって今年最大の「偽」は、大阪高等裁判所が下した、「判決」であった。

昨日の続きで、「世界最大の少数民族」と呼ばれるクルドの歴史と、ルポです。

かくしてクルドは4分割されてしまった。苦労して独立を勝ち取ったがゆえに、トルコ政府はクルド人の存在を認めなかった。クルド人を「山岳トルコ人」と呼び、クルド語を話すこと、子どもにクルドの名前をつけることを許さなかった。議会でクルド後をしゃべっただけで刑務所に入れられるという、大変な人権抑圧がまかり通った。
そんな中でクルド人が起ちあがる。1970年代にPKK(クルド労働党)が結成され、武装闘争を開始。以後、トルコ軍が鎮圧しては、PKKが自爆テロで反撃するという、泥沼の関係に陥ってゆく。
一方イラク領内、イラン領内のクルドも、独立闘争を開始した。とりわけ1980年代のイラン・イラク戦争では、イラクのフセインが、トルコ領内のPKKとイラン領内のKDP(クルド民主党)、イランのホメイニがイラク領内のPUK(クルド愛国者党)に武器を供給し、互いに戦わせた。かくして弱い立場のクルド人同士が憎しみあう関係になってしまった。
その後この地域は湾岸戦争、そして今回のイラク戦争と、世界の火薬庫となっていく。2003年のイラク戦争で、イラク領内のクルド、つまりKDPとPUKはアメリカ側についた。フセイン政権が倒され、クルドはアメリカの後ろ盾を得る。その後はご承知のとおり、アメリカはイラクの泥沼にはまり込み、今やイラク領内のクルド人政府だけがパートナーのような状態。治安の安定したクルド地域だけ投資が進み、先日も外資系石油会社とクルド政府が、キルクークの油田開発で先行契約を結び、スンニ、シーア、トルコマンなど、その他の諸派閥を激怒させたばかり。
この状態はトルコのみならず、シリア、イランにとっても望ましくない。なぜか?
もしこのままイラクのクルドが事実上の独立を勝ち取り、石油利権、イラク復興利権をはじめとする莫大な権力を手にすれば、当然その「勝利」は、トルコ、シリア、イランのクルド人たちに伝染し、「独立をめざす戦い」に火がついてしまう。今までなら多少クルドを弾圧しても、国際社会(西側)は黙っていたが、イラク戦争後は状況が一変している。アメリカがクルドの後ろ盾なのだ。
一方トルコ政府はというと、イラク戦争に関連した米軍の軍事物資の内、70%近くをトルコ基地経由で運んでいるのをはじめ、必死で西側に協力してきた。キリスト教が主体であるEU諸国に配慮し、トルコ政府は極力「イスラム色」をなくして、EU加盟を目指してきたのだ。今までの努力は一体なんだったのか?
そこにトルコを激怒させる「事件」が起こった。昨年10月10日にアメリカの下院で「オスマントルコによるアルメニア人虐殺非難決議」が通ってしまったのだ。アルメニア人虐殺に関しては、トルコではタブーと言うべき問題で、いまさら、そしてなぜこのタイミングでアメリカがこんな決議を出してきたのか?トルコから見れば明らかな「挑発行為」なのだ。
実はアルメニア人虐殺はオスマントルコ政府が行ったもので、今のトルコ政府の犯罪ではない。現在のトルコ共和国成立の歴史からいっても、アメリカの「アルメニア人虐殺決議」は無視しておいても良かった。しかし事態は逆に動き、トルコは駐米アメリカ大使を召還し、国務大臣の訪米も急きょ取りやめた。つまりトルコはまんまと「アメリカの挑発に乗ってしまった」のである。
そしてついに戦闘が始まってしまった。トルコ軍はイラク領内に越境し、PKK掃討作戦に出た。以下は昨年10月にイラク~トルコ国境の村を取材したルポである。

スレイマニア市から車を飛ばすこと10時間、山また山の「クルディスタン(クルドの土地)」を走りぬけ、目的のイニシケ村に到着。到着時点ですでに夜12時を越えている。夜間に車内で宿泊するのは危険なため、急きょ安宿に宿泊。私と同行の吉田君、ドライバーと通訳、そして護衛2人、6人チームがオンボロ部屋で雑魚寝。
夜明けを待って取材開始。村人の証言によると、13日夜(一昨日だ!)イニシケ村の背後にそびえる山々からトルコ空軍機がやって来て、12発のミサイルを撃ってきたとのこと。インタビューをしていると、村の子どもたちがわんさか寄ってくる。小学校高学年くらいの子どもが「僕、ミサイルの破片を持っているよ」。彼が手にしているのは、レンガ大くらいのミサイルの破片。空爆の翌朝、ミサイル着弾地点から拾ってきたのだ。「着弾点を案内する」というので、山を登ること10数分、山腹に直径1メートルほどの穴が開いており、その周囲が火事になったらしく、木々が黒焦げに立ち枯れている。
昨日イギリスのBBCがやって来て、穴の中の破片を持って帰ったらしい。この場所は本日(16日)夜のCNNでも報道されていた。BBCには先着を許したが、CNNには勝利したのだ(だからといって何もないが)。
空爆は断続的に行われており、今後しばらく続くだろう。幸いにして今のところ犠牲者は出ていないが、「羊がビックリして逃げてしまった」「山火事で草が焼け、放牧できない」「これ以上続くと恐ろしくて村に住めない」など、村人たちは不満と不安を口にした。
この地域を担当するKDP(クルド民主党)の幹部は、「攻撃されている村にはPKKはいない。全て普通の市民だ。なぜトルコは一般市民を標的にするのか」と、トルコ軍への不満を口にした。彼はさらに「俺たちは今後も国境を警備する。しかしトルコ領内に侵入し、反撃したりはしない。トルコ政府のエライやつに現場を見に来てほしいよ。この地域にはPKKはいないんだ」。
インタビューの最後、「俺たちは戦車もミサイルもない。日本政府は俺たちに戦闘機や戦車をプレゼントしてくれないかなぁ」とも。おいおい、それは「反撃する」ということやないか!とツッコミを入れたかったが、怖かったので黙って聞いておいた。
イニシケ村周辺は、実はリゾート地なのである。村から車で1時間も走ると、キャンプ場があり、人々はピクニックを楽しんでいる。隣でミサイルが撃ちこまれているのに、のどかな光景。同行の通訳ヌルディンは、「俺たちクルド人はずっと戦争をしている。イラン、イラク戦争、湾岸戦争後のフセインとの壮絶な戦い、そして2003年からのイラク戦争…、人々は戦争に慣れきっているし、ミサイルが飛んできてもそれほど驚かないよ。みんな『逃げ方』を知っているのさ」と笑う。
日本なら間違いなくパニックになり、みんな総出で逃げ出すところなのだが…。

その後の事態は、小さな小競り合いはあるものの大規模な戦闘には至っていないようだ。しかし間違いなく緊張が高まり、一触即発の状態が続いている。事態は戦争へ戦争へと動いているのだ。PKKはもちろん、トルコにとってもアメリカにとっても戦争によって得るものは少なく、失うものは大きい。なぜそこまで突っ張るのか?
「これでまた戦争ができる」とにんまりしている武器商人にとってはメリットがある。さらにこの動きにつられて原油価格が急上昇した。「虐殺決議」を仕掛けた裏には、やはり「石油価格の操作」によって大儲けをたくらむグループがあるのではないか?
異常な原油高の結果、間違いなく巨額のオイルダラーが転がり込んでいる。誰に?湾岸の産油国?メジャー?ヘッジファンド?それとも…。
テロとの戦い、民族紛争、宗教戦争…。大手メディアはじめ、多くの論者は戦争の原因をこのような「現象面」から説明しようとする。しかし私は戦争の水面下でうごめく「石油利権」「軍産複合体」「ドルの防衛」…。こうした水面下にこそ、戦争の本質が潜んでいるのだと感じている。


最近になって、またトルコ軍がイラク領内に越境して、PKK掃討作戦を行っているようだ。新聞には「アメリカ板ばさみ」などという見出しが躍っているが、「アメリカほくそ笑み」ではないだろうか?2000年のデータであるが、アメリカは世界の流通兵器の50%を生産しているのだから。

mainiti tizu.JPG私はかつて吹田市役所で働いていた。その時の関係で、市役所の職員さんに向けた雑誌の執筆を頼まれることがある。2008年新年号に寄稿した「国境って何だ?イラクとクルド、トルコ問題から国境紛争を考える」という一文を書いたので、ここで2日に分けて、発表したい。

世界地図で中東やアフリカを眺めていると、不思議なことに気がつく。それは、少なくない国の国境線が、定規で引いたような直線になっていることだ。
島国の日本に住んでいると、国境線を意識することはないが、大陸では常に国境問題を意識せずにはおれない。国境は通常、高くそびえる山であったり、蛇行して流れる大河であったりする。つまり国境線がまっすぐであるということはありえない。
ではなぜ中東ではまっすぐな国境線になったのであろうか?トルコ~イラク国境問題のルポと絡めて、考えてみたい。

地図1に示されている国は、トルコ、イラク、シリア、そしてイラン。それぞれ国内外に紛争を抱えており、新聞紙上をにぎわさない日はない。しかし世界地図を眺めているだけでは分からない事実がある。それは、この4カ国にまたがって暮らしている、「世界最大の少数民族」クルド人が、地図から抜け落ちているからなのだ。
実際のクルドは、主に地図2の丸く囲った部分に居住する「山岳民族」だ。ではなぜクルドは自分たちの国を持てなかったのか?以下、歴史的に考察してみよう。
もともと中東の大部分は「オスマントルコ」であった。第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの連合国と、ドイツ、オスマントルコが戦った。当時イギリスは世界の覇権国家で、イギリス軍は海洋を支配。カイロ、ケープタウン、カルカッタという要所を押さえ、植民化政策で巨額の富を築いていた。(3C政策)そのイギリスに対抗して急激に力をつけてきたのがドイツ帝国。イギリスが海洋を支配するならば、ドイツは大陸を支配しようと試みた。当時すでにベルリン、ビザンティン(現イスタンブール)までの鉄道が敷設されていたので、その鉄道をバグダッドまで伸ばして、中東を陸から支配しようと試みたのだ。(3B政策)新旧二つの帝国はやがて、世界の覇権をめぐって争うこととなった。当初オスマントルコは中立を保っていたが、やがてドイツと手を結び、イギリスと闘うようになる。
イギリスはオスマントルコを解体するために、「アラビアのロレンス」こと考古学者のロレンスを使ってアラブ人を組織、北からはイギリス軍が、南からはアラブ軍がオスマントルコを攻め立てて、大戦に勝利した。
「さてオスマントルコをどう分割しようか?」と、協議したのがイギリスとフランス。サイクス・ピコ協定なる秘密会議で、ヨルダン、イラク、パレスティナはイギリスが、シリア、レバノンはフランスが統治しましょう、と勝手に決定し国境線を引いたので、見事な直線の国境となった。
それでクルドは?本当なら「この地域はクルド」と指定し、国境線を引くべきだったのだろう。しかしその時、クルド地域のモスルに大量の石油が眠っていることが発見されたのだ。イギリスはこの地域を最重要視し、本来はクルドの土地であるところを、イラクに編入してしまったのだ。
以後、クルド人の長い長い「独立闘争」が始まる。当時トルコも英仏の植民地状態であった。その中で立ち上がったのがトルコ建国の父、ケマル・アタチェルク。アタチェルクは勇敢に独立闘争を戦い、アナトリア半島、つまりトルコ領土を確保した。しかしその領土東半分は、実はクルドの土地でもあったのだ…。 (続く)

来年3月に訪れる予定の、ヨルダン・シリアの旅について、詳しい旅程表ができました。詳細は下のダウンロードファイルをクリックしてください。

  • 日程=2008年3月7日〜14日
  • 内容=ダマスカス(シリア)、アンマン(ヨルダン)などでイラク難民や現地NGOとの交流。

繰り返しますが、ヨルダン・シリアはイラクとは違い、安全な国です。イラクには絶対入りませんのでご安心ください。ぜひイラク周辺国で、戦争の断片を切り取って、日本にもって帰りましょう。

tourschedule.pdf(ツアーのチラシ・表)
tourappli2.pdf(ツアーのチラシ・裏)

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西谷文和が作成しています。

略歴=1960年京都市生まれ。大阪市立大学経済学部卒業。吹田市役所勤務を経て、現在フリージャーナリスト。イラクの子どもを救う会代表。うめかもネットワーク(梅田貨物駅の吹田移転反対運動)事務局長。吹田市民新聞主筆。「うずみ火新聞」共同代表。2006年度平和協同ジャーナリスト基金大賞受賞。

著書に、『報道されなかったイラク戦争』(せせらぎ出版、2007年)他
DVD 『戦争あかん」シリーズ制作

イラクの子どもを救う会のホームページ http://www.nowiraq.com/
西谷へのメール nishinishi■r3.dion.ne.jp(■のところを@に置き換えてください)

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