なぜ戦場にこだわるのか?

「なぜ市役所を辞めて、この道に進もうと思ったのですか?」とよく尋ねられる。様々な思いがあるので、「これだ!」という理由を一言で述べるのは難しい。

もともとジャーナリストという仕事に興味があった。高校時代、カンボジアのポルポト政権が崩壊した。あの頃は受験戦争真っ只中で、あまりニュースなどは見ていなかった。たまたま訪れた本屋に一冊の写真集が平積みされていた。それは「この目で見たカンボジア」。

恥ずかしながら、その時までカンボジアという国の正確な位置さえ知らなかった。カンボジア内戦が、ベトナム戦争によるものだということも後から学んだ。そんな知識はなかったが、一枚一枚の写真が胸に響いた。ほとんどが死体の写真だったのだ。

「どうしてこれだけの人を殺せたのか?」「ポルポトという人はどんな人物なのか?」「なぜこんな大虐殺を国際社会は止めることができなかったのか?」…。
写真が衝撃的だったことと同時に、この写真を撮影した中村梧郎という人に興味を持った。中村さんという人がいたからこそ、事実を知ることができたのだ。
しかし高校の日常生活の中では、このようなことは話題にすら上らなかった。迫り来る「共通一次試験」(私はその一期目です)の対策に、先生も生徒も追われていた。

立命館大学理工学部に入学した。1年生で学生自治会の執行委員になった。高校時代、生徒会活動をバカにしていたが、大学ではその中心に座ることになった。それはカンボジアの事実を通じて、私が社会的に成長していたからだと思う。
自治会の先輩に「この本を読め」「あの映画を観に行こう」などと、いろんな面で教えていただいた。学費値上げ反対闘争に取り組み、何日も大学に泊り込んだこともあった。当時学費は年間22万円。それが今や140万円とのこと。隔世の感がある。

「世の中のことを知るには、経済学を学ばねばならない」と感じ、翌年、大阪市立大学経済学部に入学。大学は中核派や革マル派が多く、大学祭の運営方法などをめぐって対立した。今大阪市大にはヘルメット学生など全くいなくなり、派手な立て看板も姿を消した。
私も下手なりによく立て看板を書いたものだが、「市大の名物」がなくなって少し寂しい。

この頃朝日新聞の本多勝一さんを知った。ベトナム戦争のルポ「戦場の村」や旧日本軍の犯罪を暴く「中国への旅」などを読んで、新聞記者になりたいと思った。
試験に落ちたので、新聞記者にはなれずに公務員になった。結果的には、「公務員になったことが正解」だった。就職してすぐに労組の役員を引き受けた。毎日交代で労組のニュースを出す。「日刊ニュース」と呼んでいて、月から土まで毎日出す、という体育会系のノリで、無理やり発行した。1991年から2004年まで13年間、私は「宣伝担当」として、機関紙、雑誌などを発行し続けた。

1993年、大阪の機関紙協会という団体が「カンボジア取材ツアー」を募集した。PKOで初めて自衛隊が海外派兵された。その現場を取材するという旅だ。ポルポト派がまだ残存していて、中田青年が殺されたのは、ツアーの一週間後のこと。
応募したのは私を含め4名だった。

プノンペン空港に降り立った時、私たちは「片足の人々の群れ」に取り囲まれた。シャツやカメラを引っ張り、「金をくれ」とせがまれる。一人に渡すとパニックになると思い、ひたすら「ノー、ノー」と言いながら脱出した。「片足の人々」は地雷被害者だった。
カンボジア内戦取材、地雷被害者の取材などを行ったが、言葉が通じず歯がゆかった。あれほど苦しんだ受験英語は一体なんだったのか…。

帰国後、英語の勉強を始めた。「駅前留学」などでは「身によくつかない」と思っていたので、ひたすら自習。NHKのラジオ講座が役に立った。ウォークマンに録音して毎日聞いた。この英語学習は今も続いている。
下手くそな英語だが、毎日聞くうちに、「自分の実力がどこまで通じるか」を試したくなる。95年に南ア、ジンバブエ、タンザニアの一人旅を敢行した。アパルトヘイトで苦しむ黒人の家にホームスティし、酒をあおりながら語り合った。私と同年代の青年が、黒人差別反対で立ち上がり、マンデラ大統領と同じ刑務所の独房に入れられていた。「地球から理不尽な差別をなくさねばならない」と抱き合い、泣きながら酒を飲んだのが、今では楽しい思い出である。

その後、ボスニア、カンボジア、タイ~ミャンマー国境の山岳民族、コソボと、海外取材は発展し、そして9・11事件が起こった。
9・11後はアフガン、そしてイラクである。とりわけイラクで出会った劣化ウラン弾の被害者、クラスター爆弾の被害者の姿が、帰国後も頭から離れず、何とかしなければならないと感じ、2003年12月に「イラクの子どもを救う会」を立ち上げた。

こうして振り返ってみると、やはり原点はカンボジアなのだろうと思う。戦争が人を狂気にし、平時では考えられない虐殺を引き起こしてしまう。私が撮影する映像や写真は戦争の一部を切り取ったものに過ぎない。いわば戦争という大きな象を触って、「鼻が長い」「いや、足が太い」など、一部を語っているだけである。しかし全然語らないよりましだ。ベトナム戦争、カンボジア内戦では、多くのカメラマン、記者が現地入りして、素晴らしいレポートを発信した。しかしイラクではその数は激減し、今や話題にさえ上らなくなった。戦争は今日も続いているのに…。

ジャーナリストに転身したことを決して後悔はしていない。(ボーナス時期などは「しまった」と思うことあるが)毎日が勝負。情報収集に手を抜いたり、語学の学習をサボったりすると、それは手痛い失敗につながってしまう。今は来る3月のツアーとイラク入りを、何とか成功させて、一人でも多くの人が、「戦争の一部」を切り取って帰国し、地域で、職場で、平和や憲法、命の大切さを語ってほしいと考えている。

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このページは、nishitaniが2008年1月 5日 19:25に書いたブログ記事です。

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