2008年3月アーカイブ

本日深夜便で帰国する。3月3日に日本を出国したときは、雪が舞うほど寒かったが、今では桜が近いという。ここドバイでは連日30度を越える蒸し暑さで、昨日は5つ星ホテルのプライベートビーチにもぐりこみ、ちゃっかりとプール三昧を決め込み、ペルシャ湾に沈む夕日を見てきた。

さて今回のイラク取材を締めくくるにあたって、前進面と課題面を整理しておきたい。
まずは、劣化ウラン弾によると思われる被害について、さらに認識が深まったということだ。とりわけ、アンマンでであったペニスのない子どもは衝撃的だった。彼はサマワの自衛隊基地から2㌔のところで出生した。ウランの粉末は風に乗って飛んでいく。自衛隊だけではなく、今後日本企業も、イラク南部の油田がらみで、進出していくだろう。きちんと医学的調査をして、将来に禍根を残さないようにするべきではないだろうか。
近い将来、イラク情勢が安定すれば、おそらく商社マンや、NGO関係者、JICAなどが入っていくだろう。飛んでくる弾なら避けるすべもあるが、飛沫になって漂うウラン粒子を吸い込まない方法はない。
バグダッドから逃げてきた子どもが2人とも、生まれつき直腸肥大で、人工肛門をつけていたのにも驚いた。遺伝子異常としか言いようがない。父親は「もうイラクでは子どもを生んではいけないんだ」と語っていたのが印象的だった。

次に、「米軍は神経ガスを使ったのではないか」という疑惑である。劣化ウラン弾を通常兵器と言い張る米軍なので、決して認めないだろうが、「状況証拠は限りなく真っ黒」である。空爆後に、だんだんと神経が麻痺して、重度の障害を抱えるようになった人が多数出ているのは、爆弾との因果関係を疑わざるをえない。原爆投下直後の情報を一切隠蔽し、ベトナムでは枯葉剤を使い、イラクでは劣化ウラン弾、クラスター爆弾を使い続けた国であるから、「新型神経兵器」を使ったとしても、それは「従来どおりの方針」なのかもしれない。
日本人、ベトナム人、イラク人は全て有色人種であって、アメリカの中に「これらの人種には使用しても仕方がない」と考えているグループが存在するのかもしれない。

そして難民の現況である。ブッシュ大統領は「イラクの治安は大幅に改善した」と胸を張った。では、なぜ難民、避難民ともに、その数が増えているのか?テント生活の避難民たちは一刻も早くテントから元の家に帰りたいと考えているはずだ。それなのに、テントが作られ続け、2年以上も不自由な生活が続いているのはなぜだ?
治安は回復していないのである。例えばバグダッドでは、シーア派は東へ逃げ、スンニ派は西へ逃げた。混住する地域から、いわゆる「民族浄化」に近いものが行われ、直接的な殺戮行為が減っただけで、互いの憎しみは深いままなのだ。
通訳モハンマドに、「今バグダッドに帰ったらどうなる?」と聞くと、シーアの民兵に見つかったらすぐに殺されるよ、と答えた。彼のおじは「オマル」という名前のIDカードを持っているだけで殺された。「オマル」という名前は100%スンニ派だからだ。

最後に5年目の3月20日をイラクで迎えることができたのは幸いだった。イラクは今や3つの国に分かれてしまったといって過言ではない。北部クルド地域では、20日はちょうどノールーズという新年祭に当たった。イスラムは太陰暦なので偶然にも祝いの日と侵略開始日が重なったのだ。何十万人というクルド人たちが街に出て新年を祝った。一方アラブ人たちはこの日を歯ぎしりして迎えた。確かにサダム・フセインは倒されたが、その結果、残ったのは、分裂と恐怖、嫉妬、そして底が見えないほど深まった憎しみである。

ここドバイでは、今日も出稼ぎ労働者が高層ビルを建築し、街路ではごみを収集している。アラブの富豪たちは、冷房の利いた部屋で株式や原油の動向を調査しながら、投資対象を探している。
新自由主義と戦争。強者はますます強くなり、弱者はさらに切り捨てられる。
これを理不尽だと思って闘うか、それともあきらめてしまうか。私たちは今、その岐路に立たされている。

これまで私にとってUAEのドバイは通過都市であった。関空からドバイ便が、毎晩深夜11時に出ている。地理的にもドバイ空港はヨーロッパ、アフリカ諸国の中間に位置しているので、国際的な「ハブ空港」である。私はドバイから乗り継いで、アンマンかダマスカス、あるいはベイルートに入り、その後イラク入りを目指してきたのだが、最近になってドバイ~スレイマニア、アルビル便が飛ぶようになった。
それだけ北イラクの治安が良くなったということだ。私にとって今後のドバイは通過都市から、拠点都市に変わるだろう。もうアンマンに出る必要はない。

さてそのドバイであるが、ハッキリ言って「成金都市」である。うなるほどのオイルマネーを背景に、各地で超高層ビルが建設中だ。世界一ののっぽビル「ブルジドバイ(ドバイの贈り物)」が建設中である。そしてそのビルの周囲は、超高層ビルが立ち並ぶ。まるでニューヨークみたいやね、とタクシーの運転手に言うと、「実は、こちらではこの地区をスモールニューヨークと呼んでいる」とのこと。

ちなみにホテルは7つ星まである。本日冷やかしたホテルのお値段は、シングルで一泊3900ディルハム(約11万円)、ロイヤルスィートで11900ディルハム(約35万円)である。7つ星ホテルの最上階から、ヘリポートが伸びている。超お金持ちたちが、ドバイ空港からわざわざヘリをチャーターしてここにやってくるそうだ。さらに7つ星ホテルのプライベートビーチの先には、「ザ・ワールド」。海の中に世界地図とそっくりな人口島を浮かべ、そこに別荘を作り、分譲しているのだ。確かサッカー選手のベッカムがどこかの「国」を買ったとのこと。
お前ら、ええかげんにせんかい!と突っ込みたくなるのは私だけだろうか。世界一ののっぽビルも、ホテルも、ザ・ワールドも、実際に建設しているのは、アジアからの出稼ぎ労働者だ。その他にもホテルの従業員、タクシーの運転手、各家庭のメイド…。これらは全て出稼ぎのインド人、パキスタン人、インドネシア人、フィリッピン人などである。
したがってこの国ではアラビア語は必要ない。インド訛りの早口英語が理解できれば、それほど不自由さを感じない。クルド語しか通じなかった北イラクとはえらい違いだ。

UAEの人々、つまり土着のアラブ人は何をしているのだろうか?彼らはほとんど働かない。
きつい、汚い、危険な、いわゆる3K職場には貧しいアジア人を働かせておけばいいのだ。
私の宿泊する安宿の従業員にそれとなく尋ねたところ、彼はネパールからの出稼ぎ者で、収入は月に800ディルハム(約2万円)しかなく、6年契約だという。彼は現在22歳ですでに3年間働いているので、あと3年すれば故郷に戻れる。上の兄もこのホテルで働いていてやはり月2万円の収入だ。
故郷ネパールを出るとき、約1500ディルハム(約3万5千円)を銀行から借金して、航空運賃などに充てた。その借金は、3年たった今も返済中だ。

「ネパールにいた時に、ドバイに行けばお金が稼げる、と思った。でも実際に来て失望したよ。だってこのホテルの経営者は、ちっとも賃上げしてくれないし、かといって他も出稼ぎ労働者がいっぱいいて、仕事もないし…」と嘆く。
彼の夢はあと3年後の帰郷だ。「僕の村は、当時ネパールの毛沢東主義者に支配されていたんだ。貧困の極みだった。でも毛沢東主義者がいなくなったので、村も良くなりはじめたと聞いている。ネパールに帰って、もう一度勉強して大学に行きたい」。

彼が6年かけて稼ぐ給料は、7つ星ホテルのロイヤルスイート4泊分に過ぎない。

3月23日無事イラクを脱出し、UAEのドバイに到着。今日からは普通の海外旅行だ。電気は一日中ついているし、街角に兵士がたむろしていないし、おそらく自爆テロも起こらない。考えてみればこれが普通の日常生活なのだが、あらためて「普通の日常生活」のありがたさが身にしみる。
ということで、本日は20日に再度行った、カラア避難民キャンプの様子について。なぜもう一度このキャンプを訪れたかと言うと、① 開戦5年目で、この戦争についてどう思うのかを、聞いて回りたかったことと、② この避難民キャンプの中で売春が行われていると聞いたので、その実態を調査したかった、からである。

①については、家を奪われ、夫を奪われ、命からがら逃げてきた避難民たちなので、この戦争に対する深い憤り、悲しみについて、再度取材することができた。問題は②である。

シーア派の民兵に兄を殺され、自宅まで調査が入り、取調べを受けた母娘がいた。この親子はスンニ派なのだ。娘は16歳。マフディ軍の事務所まで連れて行かれ、殺された兄のことを根掘り葉掘り聞かれた。通訳に「レイプされてないのか?」と尋ねる。通訳モハンマドは、4年前バグダッドで知り合った優秀なヤツ。「趣旨はわかった」とうなずき、慎重に娘と話をしている。「平手でほほを殴られただけで、レイプはされなかったようだ」。
その日の夜、モハンマドは私にこっそりと事情を説明した。「俺の見たところ、彼女はレイプされている。母親がいたので言えなかったんだ。レイプされたことがばれると、結婚できなくなるからね」。

避難民キャンプをさらに奥に入っていく。一番後方のテントが現在製作中。テントを作っている男たちは、なんとここにベンツで乗り付けている。
「ニシ、彼らが斡旋業者だよ。ベンツに乗っているし、酒を持ってきている。あのテントで斡旋するつもりだろう」モハンマドが、彼らに近づいていく。
「バグダッドから?しかしいい車に乗ってるねぇ」「この車で、スレイマニアとバグダッドを往復し、難民たちを輸送する商売を始めたのさ」世間話が続く。彼らもまた、アメリカ出て行け!と叫んだ。これから「妻」とここに住むと言っていたが…。

その後、モハンマドは避難民キャンプの、とある女性と携帯電話で連絡を取っていた。売春せざるをえない実態をインタビューさせてほしいと依頼していたのだ。
しかし彼女は取材に応じてくれなかった。もしインタビューに応じたのがばれてしまうと、刑務所行きで、なおかつスレイマニアから追放されてしまう。

夫を奪われ、家を失い、「勝ち組」のクルド男性に身体を売る女性たち。90年代は、この関係はまったく逆で、フセインの軍隊、つまりアラブ人たちがクルドの村を襲い、女性たちをレイプした。
戦争とはつくづく弱者にしわ寄せが行くものだと感じる。

3月18日夜、宿泊するホテルにムラート君がやって来た。昨年10月にキルクーク取材をしたとき、病院で出会った13歳の少年だ。当時は危篤状態。前日、アルカイダ系の若者による自爆テロに巻き込まれ、全身おおやけど、右目を失い、あごの骨は砕け散り、左胸には10を越える破片が突き刺さっていた。
あの時は、「あぅー、あぅー」といううめき声しか出せなかったが、今ではちゃんと会話もできるし、普通に歩けるようになった。

「スパーシ、スパーシ(ありがとう)」を連発するムラート君。しっかり抱きかかえてあげるとうれしそうに笑ってくれた。もっともサングラスをしているので、彼の瞳を見ることはできなかったが。
テロから5ヶ月が経過したが、彼の右腕にはまだ包帯がぐるぐる巻き。やけど跡のあの赤黒い肉が盛り上がっている。「右手は動くのか?」と聞くと、こっくりうなずいて、こぶしを握ったり開いたりしてくれた。神経は大丈夫だったようだ。
顔面にも赤黒い肉が盛り上がり、やけどのすごさを物語っている。サングラスをはずしてもらうと…。右目があった部分に、ボコッと穴が開いており、そこから涙が流れ出している。

「病院で出会ったことを覚えているか?」「うん、誰かが入ってきたように思った。でもあの時は音だけが聞こえてきて、誰かはわからなかった」「右目を失ったことをいつ知ったの?」「スレイマニアの病院まで運ばれて、手術してもらった後に聞かされた。ショックだった」「テロリストについてどう思う?」「憎い。殺してやりたい」

13歳の少年から「見つけだして殺してやりたい」という言葉が出る。それはそうだろう、この子の人生を大幅に狂わせた犯人を許せるはずがない。「話し合いで解決しよう」などと当事者でない私たちは、簡単に口にするが、しかし…。
「ムラートは数学の成績が良いんです。将来はエンジニアになりたいといってます」と付き添いのおじさん。

「学校は大好き」と答えるムラート君。将来はコンピュータ関係の仕事をしたいんだ、ムラート君の口から初めて白い歯がのぞいた。

私はこの間、戦争の民営化について若干の調査・研究をしてきた。今回、うまくいけばイラクにおける民間軍事会社(PMC)の実態を取材できるかもしれないという期待を抱いていた。3月20日、ちょうどイラク戦争から5年のその日、彼らは私の宿泊するホテルにやってきた。同じホテルに泊まる、クルド自治政府の要人を、どこかへ移送するためであった。一目でそれとわかる格好をした白人が、ホテルの玄関でタバコを吸っている。
何気なく近づき、声をかける。

「どこから来たの?」「ニュージーランドだよ」「イラクへはビジネスで?」「そうさ、もう4年もここに住んでいるんだ」。
スミスさん(仮名)の右腕には青い刺青が見え隠れする。スキンヘッドにコンバットブーツ。彼らの車、トヨタのランドクルーザーの中をちらっと覗き見すると、カーキ色の防弾チョッキとAK47砲。間違いない。

果たして彼はイギリスの民間軍事会社「ノース・スター」の契約社員だった。「バグダッドに行きたいんだ。でも危なくてここにとどまっている。あなたたちなら私をバグダッドに連れて行けるかい?」「もちろんだよ。俺たちには装甲車が2台、そして豊富な経験がある」。
陽気な、人の良いニュージーランド人。イラクへははじめてきたので、不安でしょうがない。何とかエスコートしてほしい、と客を装って話を進める。若干後ろめたいが、後日彼の事務所で、打ち合わせをすることになった。

3月21日、スミスさんの案内で「ノース・スター」スレイマニア本部事務所へ。「日本の会社のボスに、ノース・スターのことを伝えねばならない」と言って、撮影許可を得る。ただしスミスさんの顔出しは厳禁だ。「テレビなどで放映されると、ゲリラに襲われるからね。絶対に顔は写すなよ」とスミスさん。

この会社は、軍隊を除隊したイギリス人とアメリカ人によって2006年に設立された。社員は12名。ニュージーランド、イギリス、スゥエーデン、オランダなどの軍隊経験者が6名、現地で雇ったクルド人が6名。スミスさんは21年間、ニュージーランドの軍にいて、そこを除隊し、イラクで4年働いている。

気になる値段だが、一人雇って一日700ドル。バグダッドに行くには、最低でも2台の車が必要。私に2人の護衛がつき、カメラマンの吉田君にやはり2人の護衛が必要。つまりバグダッドへ行こうと思えば、人件費だけで一日2800ドル、最低でも約30万円の経費がかかるのだ。その上に装甲車を使った場合のオプション費用や、護衛を増員した場合などを考えれば、1日50万円は必要になるかもしれない。スレイマニアからバグダッドに入り、最低でも2日間宿泊したとすると、2泊3日で合計150万円也が、この民間軍事会社に入ることになる。これは「ビッグビジネス」ではないか。
「俺たちは、イラク全土に情報ネットワークを持っていて、毎日どこで何回の爆発が起こり、何人が死傷したかなどの情報が入る。この情報に基づいて、車の台数や護衛の人数を決める」スミスさんは、パソコンに収められた「デイリー、セキュリタリー、インフォーメーション(治安状況報告書)」を見せてくれる。
報告書にはイラク全土の地図が載っていて、危険度を赤と緑で示している。スレイマニアは緑で、キルクークは薄赤、バグダッドは真っ赤である。

「インテリジェンス(諜報)が一番大事なんだ。ボスがネットワークを持っているから、わが社に任せてもらえば、安全だよ」スミスさんは自信ありげに、コーヒーを飲み干した。
ノース・スター社では、ジャーナリストや要人の警備のほかに、ペシャメルガ(クルド兵士)やイラク国防軍に、軍事技術を教えている。
「AK砲の撃ち方や、路肩爆弾の処理の仕方などを教えるのさ。3日間の特訓コースで一度に20人ずつ教えている。だから普段は多忙なんだよ」。

クルドの正月、ノールーズ祭のため、スミスさんはこの日、たまたま仕事がなかったのだ。
スミスさんは、日本の航空自衛隊が物資を運ぶ、タリル空港にも宿泊していた。
「広大な基地だよ。基地の中では何でもそろう。エアコンもバッチリで快適さ」。その基地の外では、イラク市民が、エアコンはもちろん、電気も水もなく、恐怖の中で暮らしている。
イラク戦争は、歴史上最もアウトソーシングされた戦争だ。このような民間軍事会社の親会社は、ハリバートンやカーライルグループ。ハリバートンはチェイニー副大統領の、そしてカーライルは親子ブッシュの会社である。


3月19日は、スレイマニア市郊外にあるがんセンターを訪れた。3年前からこの町のがん患者、特に子どもたちを取材しているが、大雑把に言って患者は二通りに分かれている。
ハラブジャ出身者と、キルクークやバクーバから来たアラブ系の患者たちだ。
前者はおそらく1988年の化学兵器による影響で、後者は米軍の使用した劣化ウラン弾の影響だろうと考えられている。

入院している子どもたちの多くは、やはり急性白血病だった。抗がん剤の状況は、かなり改善されていて、病院内の薬局の棚に並んでいる薬の量と種類が増えている。クルド自治政府が予算をつけ始めたとのこと。
自治政府には、今後もたっぷりと石油収入が見込めるわけなので、こうした医療関係にもっともっと予算をつける必要がある。相変わらず、国連その他の人道支援機関は、この町がイラクであるとの理由で、まだ入っていない。これは避難民キャンプも同様だ。

がんセンター訪問後、新たにできたボーリングセンターを訪れた。イラクでボーリング?
そう、数少ない娯楽施設として1階がボーリング場、2階がゲームセンターになっている「複合娯楽施設」が誕生しているのだ。

仕事を終えたクルド人たちが、ボーリングにやって来る。まだ1ゲームが高価なので、順番に一人一投ずつ投げている。まだまだボーリングを知らない人が多いので、指に穴を入れずに、助走もつけずに、ただ投げている人が目立つ。
このボーリング場ではビールも販売されている。イスラム圏では公衆の面前で酒類を飲むことは禁じられている場合が多いが、ここスレイマニアは、イスラム色が薄いほうなのでオープンに飲めるのはうれしい。
2階のゲームコーナーには、日本や韓国の中古ゲーム機が並んでいる。パソコンによるインターネットのコーナーもあるので、中をのぞくと、「日本からか?珍しいね」とクリアーな英語。見れば20歳そこそこの青年だ。「ここできれいな英語をしゃべる人も珍しいよ」と言うと「俺はイギリスに8年間いたんだ」。

彼がなぜイギリスに住んでいたかと言うと、実は彼の左手。よくよく見れば義手である。1990年代にフセインが仕掛けた地雷で、左手を切断しているのだ。NGOの人道援助で、彼はイギリスに渡り、手術し、その後イギリスで学んで、こちらに戻ってきた。
「クルド人だからね。祖国に戻ってきたかったんだ」。

華やかなボーリング場とゲームセンター。一見、急速に復興しつつある街。しかしよく見ると、依然として多くの戦争被害者がいる。

本日、イラク戦争は5年目に突入した。この間取材した映像をインターネットで、各テレビ局に送っていたので、5年にあわせて報道してくれることになった。詳細は、

1 朝日放送 ムーブ! 3月21日 午後4時半ごろ

2 TBS サンデーモーニング 午前8時半ごろ?

3 帰国後、TBSのイブニングニュースと、ムーブ!で、詳しく報道される予定だ。

なお、昨日19日には、TBSイブニングニュースが、中東学習ツアーの様子を報道してくれた。感謝、感謝。
ムーブ!とサンデーモーニングには、生電話でお伝えする予定なので、よろしければ見てやってください。

3月18日はスレイマニア市郊外にあるカラア避難民キャンプを訪れた。昨年10月に訪れたときは450人ほどの避難民がテント生活を送っていたのだが、その数はじわじわと増加し、今では700人程度が不自由な生活を余儀なくされている。

スレイマニアではこの一週間でかなりの雨が降った。テントは雨漏りがするし、周囲はドロドロになる。夜間はかなり冷え込むし、5月を過ぎれば、今度は酷暑である。

数あるテントの一つに、車椅子に乗ったアプチサームちゃん(13歳)がいた。激戦地、ラマーディーの出身だ。
2004年7月、アメリカはラマーディーに集中砲火を浴びせた。アプチサームちゃん一家はラマーディーの名家で、広い敷地の実家に町の有力者が集まった。彼らはアメリカと徹底して戦うことを決意し、いつしか自宅が武装勢力の拠点となっていった。

2機の戦闘機が自宅に向かって飛来する。猛烈な爆撃、実家は徹底的に破壊された。その空爆後、アプチサームちゃんに異変が生じる。当時9歳だった彼女の身体が、だんだん麻痺していき、学校に通えなくなり、ついには歩けなくなった。言葉もしゃべれず、車椅子の重度障害児になってしまったのだ。

父親はアプチサームちゃんのIDカード(身分証明書)を持っていた。「これを見てくれ。この娘が5歳のころの写真だ。ノーマルだろ?娘は小学校に通っていたんだぜ。今では立ち上がることも、しゃべることもできない。なぜなんだ!」。

ダマスカスのイラク難民の中にも、アメリカの空爆後に麻痺が生じて、下半身不随になったきょうだいがいた。空爆後、脳内に異常をきたし、知的障害児になった9歳と4歳のきょうだいもいた。
神経麻痺を生じさせる新型爆弾を使ったのではないのか?どす黒い疑惑が鎌首をもたげる。

アプチサームちゃんの父親に、この5年間をどう思うかと尋ねた。
「俺たちラマーディーの人間は、アメリカの空爆で全てを失った。家も財産も健康も…。ブッシュよ、ここにテントを張って住んでみろ!もしこのテントで生活できるのなら、俺たちも生活を続ける。無理なら、元の生活に戻してくれ!」


3月17日は、スレイマニア市内にある「女性文化センター」を訪問した。ここはドイツのNGOが運営する、クルド人女性のための「人権擁護センター」である。なぜストレートに「人権擁護」とせずに、「文化」としているのかというと、「女性の地位向上」を望まない旧来の男性家父長勢力から攻撃されるので、「文化センター」と名乗っている。

ここクルドの女性たちにとって、「伝統的部族社会」のしきたりから逃れることは難しい。例えば結婚。好きな男性がいたとしても、しばしば結婚は部族長や父親が勝手に相手を決めてしまう。よくあるのは、若い娘を金持ちの男性に嫁がせ、多額の「結納金」をせしめる、というパターン。親から押し付けられた相手に対して、結果的に愛が芽生えるのならそれでもまだ救われるが、その男性が家庭内暴力をふるったりした場合は最悪だ。

法律では認められているものの、離婚など考えられない国であるから、彼女は一生を夫の暴力に耐え忍ぶか、自殺するか、それとも夫を殺してしまうか、失踪するしかないのだそうだ。実家に帰ればいいじゃないか。日本ではそう思うだろう。しかし、彼女は実家の父親や男のきょうだいから殺される可能性が高い。いわゆる「名誉殺人」である。

不倫問題もある。望まない結婚を強いられた場合、愛している男のもとに走ったとしよう。その場合、男は罪に問われないが、女は3年間の懲役だ。

もっとよくあるパターンは、婚前交渉。愛する男に、求められて身体をゆるしたのはいいが、その男が彼女と結婚しなかった場合である。やはりこの場合も「男との交渉があった」と家族にばれてしまった場合は、彼女は実家に住むことができない。

上記のような女性は、結局どうなるか?売春婦になる場合が多いのである。他に収入のすべがなく、一人で、あるいは子どもと一緒に生活する手段として、売春せざるを得ない状況に追い込まれる。
さらにここで「イラク難民女性」が加わる。戦争で夫を失った彼女たちもまた、売春せざるを得ない状況下になるのだ。

先日、クルド政府はいっせいにスレイマニア市内で「売春婦狩り」を行い、85名のイラク難民女性を検挙した。政府はクルド自治政府とイラク政府との「国境」まで彼女たちを連れて行き、そこに放り捨てたという。売春婦を斡旋していた業者は逮捕された。

「女性文化センター」は、そんな女性たちの、一種のシェルターのような存在だ。クルドの伝統的な部族社会の後進性と、イラク戦争が、二重に、弱い立場の人々を苦しめている。

3月16日はイラン・イラク国境の町、ハラブジャを訪問した。ちょうど20年前の1988年3月16日、サダムフセインはこの町に化学兵器を投下した。一瞬にして約5千人、後の治療の甲斐もむなしく3千人、合計約8千人が虐殺された。その20周年メモリアル集会が、この町で行われたのだ。

スレイマニアから車を飛ばすこと一時間半、イランとの国境が山になっている。その山すそに広がる町がハラブジャだ。

20年前の3月16日午前11時35分、バース党の、つまりサダムフセインの空軍がまず、「普通の」爆弾を撃ってきた。人々は防空壕に隠れた。イラン・イラク戦争が激化し、この町への空爆は、いわば「日常どおり」のことだった。ちょうどあの日の広島のように。

2回目の爆撃の後、町中に「ガーリックの臭い」「腐ったリンゴの臭い」が充満した。その後、町は地獄絵と化した。目を見開いたまま倒れる者、ケタケタと笑いながら息を引き取る者、皮膚がただれ、うずくまって助けを求める者、赤ちゃんを抱えたままその場で倒れる母子…。
実際に使用された毒ガスは、マスタードガス、サリンガス、VXガス、タブンなどなど。かくしてハラブジャは「イラクの広島」になった。

「日本からNGOの代表が来ている」という情報が現地政府に入り、私は「日本代表」として壇上でスピーチをすることになった。大急ぎでスーツとネクタイを買いに走り、集会に参加した。

「日本から来ました。ヒロシマにもハラブジャにも、たくさんのヒバクシャがいます。昨年広島の被爆アオギリを、この町に植えました。私の夢は、イラクの学生と日本の学生を、交換留学させることです。日本の学生は、イラク戦争やハラブジャの悲劇から、平和の大切さを学ぶでしょうし、ハラブジャの学生は、高度に発達した日本から、技術や知識を得て、この国を復興させてくれるでしょう」。3千人を越える聴衆の前で、大要、このようにスピーチした。集会の模様は、各国のテレビが放映した。

集会後、ハラブジャ市役所の前に、亡くなった人たちの遺影が飾ってあったので、そこでインタビュー。
アルサラーンさん(37歳)が、遺影の前から動かない。彼は8人家族だったが、生き残ったのは彼一人だけ。当時、モスルの大学で勉強するため、町を離れていたので助かったのだ。両親と5人のきょうだいの顔写真が並んでいる。一番下の赤ちゃんは生まれたばかりだった。その子だけ写真がないので、赤いバラの花が描かれている。その花の下に「1988年生まれ」とクルド語で記されている。一気に家族全員を失った彼の嘆きはいかばかりだったろうか。
生き残ったハラブジャの人たちの間に、がんや呼吸器疾患が増えている。ヒロシマでヒバクシャへの援護が本格的に始まったのは、原爆投下からかなり後のことだったと聞く。
ハラブジャへの国際的支援は、いまのところ、皆無に等しい状態だ。


3月16日はイラン・イラク国境の町、ハラブジャを訪問した。ちょうど20年前の1988年3月16日、サダムフセインはこの町に化学兵器を投下した。一瞬にして約5千人、後の治療の甲斐もむなしく3千人、合計約8千人が虐殺された。その20周年メモリアル集会が、この町で行われたのだ。

スレイマニアから車を飛ばすこと一時間半、イランとの国境が山になっている。その山すそに広がる町がハラブジャだ。

20年前の3月16日午前11時35分、バース党の、つまりサダムフセインの空軍がまず、「普通の」爆弾を撃ってきた。人々は防空壕に隠れた。イラン・イラク戦争が激化し、この町への空爆は、いわば「日常どおり」のことだった。ちょうどあの日の広島のように。

2回目の爆撃の後、町中に「ガーリックの臭い」「腐ったリンゴの臭い」が充満した。その後、町は地獄絵と化した。目を見開いたまま倒れる者、ケタケタと笑いながら息を引き取る者、皮膚がただれ、うずくまって助けを求める者、赤ちゃんを抱えたままその場で倒れる母子…。
実際に使用された毒ガスは、マスタードガス、サリンガス、VXガス、タブンなどなど。かくしてハラブジャは「イラクの広島」になった。

「日本からNGOの代表が来ている」という情報が現地政府に入り、私は「日本代表」として壇上でスピーチをすることになった。大急ぎでスーツとネクタイを買いに走り、集会に参加した。

「日本から来ました。ヒロシマにもハラブジャにも、たくさんのヒバクシャがいます。昨年広島の被爆アオギリを、この町に植えました。私の夢は、イラクの学生と日本の学生を、交換留学させることです。日本の学生は、イラク戦争やハラブジャの悲劇から、平和の大切さを学ぶでしょうし、ハラブジャの学生は、高度に発達した日本から、技術や知識を得て、この国を復興させてくれるでしょう」。3千人を越える聴衆の前で、大要、このようにスピーチした。集会の模様は、各国のテレビが放映した。

集会後、ハラブジャ市役所の前に、亡くなった人たちの遺影が飾ってあったので、そこでインタビュー。
アルサラーンさん(37歳)が、遺影の前から動かない。彼は8人家族だったが、生き残ったのは彼一人だけ。当時、モスルの大学で勉強するため、町を離れていたので助かったのだ。両親と5人のきょうだいの顔写真が並んでいる。一番下の赤ちゃんは生まれたばかりだった。その子だけ写真がないので、赤いバラの花が描かれている。その花の下に「1988年生まれ」とクルド語で記されている。一気に家族全員を失った彼の嘆きはいかばかりだっただろうか。
生き残ったハラブジャの人たちの間に、がんや呼吸器疾患が増えている。ヒロシマでヒバクシャへの援護が本格的に始まったのは、原爆投下からかなり後のことだったと聞く。
ハラブジャへの国際的支援は、いまのところ、皆無に等しい状態だ。


キルクークの中心部、ポーラさんの事務所に、20名ほどの戦争被害者が集まる。取材のためなので、当初は数名でいい、と言っていたのだが、「俺も、私も戦争の被害者だ」と20名ほどがやってきて、狭い部屋に、被害者がぎゅうぎゅう詰め。

ポーラさんの事務所では、戦争のために勉強できなかった女性や子どもたちのために、コンピューターが設置され、ここで英語やアラビア語などを習得する。教育レベルを上げないと、キルクークがよくならないという信念の元に、この「人権擁護事務所」が開設された。

しかしこのような「人権擁護事務所」がテロリストに狙われる。なぜか?女性や子どもに教育すると、将来的にキルクークが自立してしまうから、それを好まない勢力がこのような組織を狙うのだ。かくして事務所の前にはコンクリートの壁、先日も事務所を狙った爆発があり、玄関の窓ガラスは砕け散っている。

そんな中にムハンマドさん(27歳)がいた。彼は先ほど訪問した石油会社で「イラク石油警察」の一員として働いていた。2005年4月13日、米軍とともにキルクークを移動中のことだった。米軍の車列が通る道には、しばしばIED、路肩爆弾が仕掛けられている。果たしてその日も、道端にIEDが発見された。
「あの爆弾を処理せよ」。米兵の命令に従って、ムハンマドさんが慎重にIEDを除去していく。いつもと同じ処理のはずだった。しかしそのIEDの下には、さらに地雷が仕掛けてあった。

両目と仕事を失った彼に対して、米軍からの補償は何もない。除去せよ、と命じた米兵は無傷だ。私はいつもイラクにウォークマンを持ってきている。音楽を聴くと不思議と心が落ち着くからだ。今回はこれをプレゼントしよう。光を失った彼に、残された娯楽は少ない。

キルクークの中心部、ポーラさんの事務所に、20名ほどの戦争被害者が集まる。取材のために集まってほしいと依頼しておいたのだ。当初は数名でいい、と言っていたのだが、「俺も、私も戦争の被害者だ」と20名ほどがやってきて、狭い部屋に、被害者がぎゅうぎゅう詰め。

ポーラさんの事務所では、戦争のために勉強できなかった女性や子どもたちのために、コンピューターが設置され、ここで英語やアラビア語などを習得する。教育レベルを上げないと、キルクークがよくならないという信念の元に、この「人権擁護事務所」が開設された。
しかしこのような「人権擁護事務所」がテロリストに狙われる。なぜか?女性や子どもに教育すると、将来的にキルクークが自立してしまうから、それを好まない勢力がこのような組織を狙うのだ。かくして事務所の前にはコンクリートの壁、先日も事務所を狙った爆発があり、玄関の窓ガラスは砕け散っている。

そんな中にムハンマドさん(27歳)がいた。彼は先ほど訪問した石油会社で「イラク石油警察」の一員として働いていた。2005年4月13日、米軍とともにキルクークを移動中のことだった。米軍の車列が通る道には、しばしばIED、路肩爆弾が仕掛けられている。果たしてその日も、道端にIEDが発見された。
「あの爆弾を処理せよ」。米兵の命令に従って、ムハンマドさんが慎重にIEDを除去していく。いつもと同じ処理のはずだった。しかしそのIEDの下には、さらに地雷が仕掛けてあった。

両目と仕事を失った彼に対して、米軍からの補償は何もない。除去せよ、と命じた米兵は無傷だ。私はいつもイラクにウォークマンを持ってきている。音楽を聴くと不思議と心が落ち着くからだ。今回はこれをプレゼントしよう。光を失った彼に、残された娯楽は少ない。

3月15日は激戦地キルクークへの取材を敢行した。キルクーク取材は、これでもう4回目。運転手のファラドーン、そして今回はポーラ・タラバニさんが同行してくれる。
ポーラさんは、現在のタラバニ大統領の親族。父親のシーワン・タラバニはキルクーク革命運動の指導者で、1979年にサダム・フセインによって殺されている。キルクークの顔といえる人に護衛してもらっているので、今回はかなり安心。

スレイマニアを出て1時間半ほど車をぶっ飛ばす。5つのチェックポイントを越えれば、そこはもうキルクークだ。チェックポイントを越えたところ、「ようこそキルクークへ」と書かれたゲートの中心に、なんとポーラさんの父、シーワン・タラバニの肖像画が。思わず車を止めて、みんなで記念撮影。
キルクークの人々はポーラさんを見て「やぁ」と手を上げ、挨拶して通り過ぎる。かなりの有名人と見た。
ポーラさんの事務所から、石油会社へ電話。本来ならメディアが入ることのできない油田を取材できることに。

キルクーク市内から車で30分。「油田への道」を行くと、検問所が。通常ここから先は関係者以外絶対入れないところなのだが、今回は許可証がある。検問を抜けると、すぐさま「イラク石油警察」がガードにつく。イラク国防軍とは別に、油田だけを警備する「石油警察」がいるとは知らなかった。
検問から車で5分、油の臭いが鼻につきはじめる。街路樹の向こうに勢いよく炎が燃え上がっている。
地面から火が噴出している。ものすごい勢い。近づいて撮影しようとするが、熱くてなかなか近寄れない。風向きが変わると、熱風が押し寄せる。

本来なら、ここは「黄金の地」である。これだけの豊富な原油があれば、人々は世界でトップクラスの生活ができるはずだった。ところが歴史は皮肉なもので、この原油があるために、人々は常に争いの渦中に巻き込まれてきた。
「日本では石油は出るのか?」とポーラさん。「出ませんよ。出なくてよかったです。油の代わりに、水があります。そして平和が…」。
答えてから、心の中で「その平和はかなり危ないのだけれど」とつぶやく。

油田からパイプラインがトルコ方面に伸びている。この石油工場とパイプラインに向けて、これからもロケット弾が打ち込まれ続ける。
明日は、そのような攻撃で人々が塗炭の苦しみを味わっていることについてレポートしたい。

拙著「戦場からの告発~アメリカがイラクにこだわる5つの理由」が完成したとの連絡が入った。順調に行けば、今月20日過ぎにも、本屋さんの店頭に並ぶ予定だ。この本は「戦争あかんシリーズ②」で、今後も毎年一回くらいのペースで上梓していきたいと考えている。

今回は、4つの章に分けた。
第一章の「ムラート君を救え」では、頻発する自爆テロの実情を追った。こちら北イラクでは、クルドVSアラブで、キルクーク争奪戦が繰り広げられており、連日のようにどこかで爆発する。日本ではニュースにすらならない場合が多いが、そこで展開される一人ひとりの運命にスポットを当ててみた。

第2章は「クルドの悲劇」。日本人にはなじみの薄いクルド問題であるが、これは「もう一つのパレスティナ問題」といっても過言ではない。「忘れられた民クルド」を取材すれば取材するほど、この民族が大国の思惑によって振り回されてきた歴史の理不尽さを感じる。

第3章は「イラク難民」。国連の資料でも、シリアに逃げてきたイラク難民は150万人である。ダマスカスで取材すると、「いや、もっと多いよ。300万人はいるね」との感想を持っている人も多く、みんなよくこの状態で2年も3年も我慢しているな、と感じる。またイラク国内避難民は200万人とも120万人とも言われるが、こちらも悲惨な状態で2年間を過ごしている。ここスレイマニアは雨季で、肌寒さを感じる。トルコ国境には雪を抱いた山の中で、トルコ軍の空爆で追い出された避難民が、この冬を過ごした。

最終章は、副題にした「アメリカがイラクにこだわる5つの理由」。未熟ながらも、この戦争5年に当たって、戦争の裏側にある石油と軍需産業の利権の構造について書いた。また昨今のカジノ経済、投機マネーの氾濫は、戦争が原因であることについて、分析させていただいた。
A4版で64ページ。価格は600円。よろしければ買ってやってください。
問い合わせは 「せせらぎ出版」まで。 電話06-6357-6916

3月14日、今日は金曜日でアラブでは休日。官庁関係はすべて閉まっているので、こんな時は1年365日、24時間オープンの病院へ。

ショビアンさん(20歳)は、スレイマニア大学病院の緊急病棟に入院している。昨日訪れたパレスホテルの前をたまたま歩いているとき、自爆テロに巻き込まれてしまったのだ。3月10日夕刻、彼女は大学の授業を終え、いつものように徒歩で家路についていた。スレイマニアのメーンストリート、パレスホテルの前を通りかかったときだった。ホテルの玄関には警備員、入り口にはボーイたち。玄関に一台の車が止まっている。何の変哲もないまったく普通の光景だ。

ショビアンさんが、その車のそばを通りかかったとき…。突然の光、爆音、爆風。気丈なショビアンさんは、体内に10以上の破片が突き刺さりながら、そして大量の血を流しながらも、気を失わずに助けを求めた。目の前で、警備員が腹から血を流しながら息絶えていった。やがて…。彼女が担ぎこまれたのが、この緊急病棟だ。幸い顔には怪我がなかったのだが、お腹と左手、両足に爆発の破片が飛び込み、特に右足に重症を負った。
担当医師は、明日にも右足の切断手術をしなければ命が危ない、と言う。しかしショビアンさんと父親は、「お願いだから、足を切らないで」と懇願し、手術を先延ばしにしてもらっている。しかし運命は残酷だ。ここスレイマニアの大学病院では、足を切らずに治療する技術はない。

「ドイツか、日本の病院へ移送してほしい。私はまだ20歳。大学でもっと勉強したいし、このまま歩けなくなるのはつらいわ。日本のみなさん、どうか助けてください」。
ショビアンさんは、やはり気丈にも涙を見せずに、私たちのカメラに訴えた。

3日前の爆弾テロは、やはりアルカイダの仕業だ。「なぜなの?こんなことをして誰が喜ぶの?」。ショビアンさんの、悲しそうに訴える青い瞳が脳裏に刻まれる。

3月13日、本日はイラクのタラバニ大統領の補佐官で、日本で言えば経済産業相にあたるアブドラ・サイードさんのインタビューを行った。

アブドラさんによると、ここスレイマニアでは、経済が急成長しているらしく、一目見てわかるように、新しい高層ビル、高速道路、橋、学校などが次々と建設されている。なぜこの地域かというと、それは一にも二にも治安。バグダッド以下、イラクの各都市はまだまだ政情不安定で、企業にとって投資リスクが大きすぎる。スレイマニアは治安が安定しているし、政府は石油収入を見込めるので、各国からの投資が殺到しつつあるのだ。

この地に投資している一番手は、トルコ。北イラクではPKK(クルド労働党)とトルコ軍が、戦闘状態に入っているのだが、「戦争と投資は別」のようである。
次に多いのが、オランダ、ドイツなどのヨーロッパ勢。そしてバーレーン、UAE、カタールなど湾岸諸国が続く。
日本はといえば、2つの企業がスレイマニアにやってきたが、やはりまだこちらに乗り込んで事業を開始しているまでには至っていない。

アブドラさんは「どうして日本企業が来てくれないのか。ここは十分安全だ。条件としてPUK政府の国づくりに協力してくれること、どんな目的でこの地域で事業を進めるか、事前に相談してくれること、をクリアしてくれれば、企業の事務所費、通信など諸費用は、PUK政府がお膳立てするとのこと。さらには税金も無料だそうだ。
私は「イラクの子どもを救う会」の募金で、医薬品や医療機器をこの地区に持ち運んできているが、医療メーカーがこの地区に進出してくれればいいのになぁと感じる。
ここには、ハラブジャの毒ガス攻撃、劣化ウラン弾の汚染、クラスター爆弾の被害者などがたくさん住んでいるので、医療技術の発達した日本企業の出番であることは間違いないのだ。

アブドラさんのインタビュー後、「スレイマニア・パレスホテル」へ。3日前、このホテルの玄関で身体に爆弾を巻きつけた自爆テロリストと、爆弾を積んだ自動車を携帯電話で爆発させるという、2重の爆発が起こった。
パレスホテルの窓という窓は粉々に砕け散り、エントランスホールの天井が崩れ落ち、ウエルカムと書かれた扉が転がっている。爆発地点から約20メートル、すさまじい威力だ。

この自爆テロで、2人が死亡、29人が重軽傷を負った。8名はいまだに入院中。なお、自動車爆弾を爆破させた容疑者は、まだ捕まっておらずスレイマニア市内に潜伏しているといわれている。
ちょうどあと一週間で、イラクは開戦5年目を迎える。この5年間でイラクは大量の血を流し続けた。いつまでこの泥沼を続けるつもりか?比較的治安の安定していたスレイマニアで起こった事件。やはりアルカイダの犯行とされているが、この種の事件が、憎しみの連鎖を助長させ、さらなる泥沼にはまり込んでいく。通りには以前にも増して警官の姿が目立つ。はたしてイラクの人々は3月20日をどのような気持ちで迎えるのだろうか?

3月12日の夜、スレイマニアのレストランで日本人女性奥村さん一家と食事を共にする。なんと奥村さんは、この3年間をスレイマニアで過ごしている。声楽家として、こちらの大学で音楽を教えたり、楽譜のないクルド民謡の採譜をしている。
夫のアマンジさんとはドイツで知り合って結婚されたのだが、クルド地域の治安が安定してきたので、アマンジさんの故郷、スレイマニアでの生活が始まったのだそうだ。
アマンジさんにキルクークのことについて聞く

豊富な油田を抱えるキルクークを、クルド地区に組み込むか、アラブ地区に所属させるか、で住民投票がありますね。

「そうです。こちらの憲法で、キルクークの帰属については、住民投票で決める、となっています。しかし3年も経過しましたが、まだ住民投票は行われていません」

住民投票をすれば、どうなりますか?

「間違いなくクルドが勝つでしょう。人口の大多数は、クルド人ですから。

しかし下手に住民投票をやってしまうと、その結果に満足しない宗派や民族が武装蜂起し、内戦になったりしませんか?

「あなたは旧ユーゴのような事態を想定しているのですね。確かに住民投票直後は、小競り合いはあるでしょう。しかしキルクークはボスニアと違って、小さな町に過ぎません。国を揺るがすような内戦にはつながらないでしょう。それと例えばトルコマンは、実はクルドへの帰属を望んでいるのです。もしアラブに帰属させると、スンニ派、シーア派に次いで「石油の取り分」は3番目ですが、クルドになれば、クルドの次、2番目になりますからね。

でもトルコマンは、本国トルコの圧力で、クルドとは戦うのではないですか?

「確かにごく一部、トルコからの命令で動くグループがいますが、ここはイラクですよ。現実な実利を考慮して動くトルコマンが多数派です」

油田やパイプラインを守っているのは、PMC(民間軍事会社)ですか?

「そうです。米軍より安上がりな予算で済みますから、PMCが守っています。スレイマニアのホテルにも、たくさんのPMC関係者が宿泊していますよ。キルクークから休暇でここにやってきているのです」

そう、ここには見るからに「たった今まで戦争をしてきた」ような大男が、多数いる。彼らは英語をしゃべっているし、コンバットブーツを履いている。多くはスキンヘッドだったりするので、一種異様な雰囲気をかもし出している。
滞在中に、何とか油田&パイプラインの取材ができればいいのだが。

3月12日午前10時、無事イラク北部スレイマニア市への入国に成功。スレイマニアもバグダッドなどからの難民が流入していて、人口過密になり市内各地で交通渋滞を起こしている。わずか2日前の3月10日、スレイマニア中心部の高級ホテル「スレイマニア・パレス」に自爆テロ車が突っ込み、1人死亡、28人が重軽傷を負う事件があった。このホテルは日本からのマスコミ関係者も宿泊するホテルで、1階のレストランで東京新聞の記者さんと飲んだ夜を思い出す。この事件の詳細は後日に譲るとして、本日は、3月9日に行ったアンマンでの難民聞き取り調査について、簡単に触れてみたい。

私たち中東学習ツアーの一行はアンマンの下町、古ぼけたアパートの一室を訪ねた。ハーシムさん一家がひっそりと暮らす6畳ほどの部屋に、フセイン君(8ヶ月)が母に抱きかかえられていた。
8ヶ月だから、当然オムツをしている。しかし、おそらくフセイン君はずっとこのままオムツを続けなければならない。彼には本来あるべきもの、つまりペニスを持たずに生まれてきたのだ。
母親が紙オムツをはずす。小さな睾丸はついているが、あるべきものがそこにない。小さな穴が開いていて、そこからポタリ、ポタリとおしっこが漏れ出している。
「先天的な遺伝子異常でしょう。この子が成長してから、周囲の皮膚や筋肉を使って『人口ペニス』を形成しなければ、この子は一生オムツをしなければなりませんね」とは同行のN医師。
フセイン君はイラクのサマワ生まれ。自衛隊基地からわずか2キロの地点で生まれた。イラクが内戦状態になり、比較的安全だったサマワも危なくなったので、アンマンに逃げてきた。
サマワは劣化ウラン弾が大量に使われた地域の一つ。ハーシムさんの家系にも、妻の家系にも、フセイン君のような、先天的に障害を持った子どもは生まれていない。「劣化ウラン弾の影響だと思う」。ハーシムさんは静かに語る。自衛隊員は本当に大丈夫なのだろうか?
「自衛隊員は、自分や家族が病気になると、自衛隊の病院に入院するのです。だから内部で何が起こっているのかわかりません。政府はもっと情報を公開するべきです」とN医師の補足説明。
背筋が凍りつく人も多いのではないだろうか?
サマワに派兵される自衛隊員には、「今後3年間は子どもを作らないように」という指令が出たという噂もある。
日本政府が、もし劣化ウラン弾の情報を隠したまま、自衛隊員をサマワに派兵したとすれば、これは「説明義務違反」、いや人の命にかかわる、「犯罪行為」ではないのか。おそらく政府は、「劣化ウラン弾と健康との因果関係は証明されていない」と逃げるのだろう。アメリカでは帰国米兵たちが、「何も知らされずに劣化ウランを吸い込んで、がんなどの病気になった」と政府を訴えている。日本もそうなるのだろうか?

日本からの代表団を受け入れてから、目の回る忙しさが続き、ブログをアップできなかった。シリアでは、情報省のムハンマドと打ち合わせをして、UNHCRやリトルバグダッドの難民家族への訪問、難民が通う小学校への慰問などを次々とこなさねばならず、なおかつ訪問地では通訳をし、テレビ番組のための撮影も行い、さらにはシリア政府から「15人もの日本人を、一度に見学させてはならない」と横槍が入り、ツアー参加者を3分割して、それぞれのグループを、それぞれの場所に案内せねばならなかった。

ハッキリ言って、日本で仕事しているときの、3倍は疲れた。とてもブログ原稿まで手が回らなかったのが、実情である。ここ数日、「なぜブログがアップされないのか」とご心配をおかけしたかもしれないが、みんな元気で過ごしております。

ダマスカスでの難民家族との交流を滞りなくこなせたので、今はホッとしている。
本日午後2時、ダマスカスでツアー一行とお別れし、ダマスカスからアンマンに到着した。明日は午前7時のフライトで、イラク北部スレイマニアまで飛ぶ。
イラク航空はたまに飛ばないときがあるので、まだまだ安心できないが、首尾よくイラクに入ることができれば、10日間ほどイラクで取材ができる。
3月20日、イラク開戦5年の忌まわしい日には、イラク国内で取材ができるだろう。

スレイマニアは、それほどイスラム色が強くないので、街でビールやウイスキーを売っている。ここアンマンでは、なかなかそうは行かない。
私にとっては「イラクのほうが住みやすい」のかもしれない。もちろん、もっともっと治安回復してくれないとダメなのだが。

ということで、シリア・ダマスカスでの難民家庭訪問記は、明日以降にアップしていきます。ツアー参加者の家族のみなさん、参加者全員元気よく、パルミラ遺跡の見学に出発していかれました。あと2日で帰国されます。どうかご安心ください。

本日、無事14人のツアー参加者がアンマンに到着。20時間以上に及ぶフライト&待ち時間なので、体調を崩された方がいないかと心配していたが、みなさん元気な顔で空港を出てこられてひとまず安心。

ホテルへのチェックイン後、すぐに6名の、イラク難民のインタビューに移る。
6名のうち4名がバスラからの難民。うち3名は旧バース党に所属していた。戦争後、アメリカ占領軍は「バース党狩り」をして、軍人はもちろん、警官、石油工場の支配人、学校の校長、官僚など、要職についていた人々を追放した。
アメリカの占領政策は大失敗をするのだが、その最大の原因は、イラクという国を支えてきた、これら要職についている人々を、ただ「旧バース党だった」というだけで首にして、まったく行政経験のない、とりわけ亡命イラク人をはじめ、「アメリカに忠誠を尽くすと思われる人々」を要職につけたためだ。

当然、汚職が蔓延し、行政は混乱する。さらに大学教授や医師、弁護士などが暗殺の恐怖を受けて、国を捨てていく。やがて治安は乱れに乱れ、民兵が跋扈する。
シーア派モクタダサダルの民兵、マフディ軍が家までやってきて、出て行かないと殺す、と言い放つ。かくして3名はアンマンに逃げてきた。
イラク難民にスンニ派が多いのは、かつてのフセイン時代に、要職についていた人に、スンニ派が多かったためだ。

6名の中にアリー君(2歳)がいた。両親はバグダッド出身。彼は生まれてすぐにウンチがでなくなった。10日に一回しか出ないので、お腹はパンパンに膨れ上がった。生まれつき結腸に問題があったためだ。浣腸しては、排泄する日々。やがて手術。彼は2歳にして人工肛門をつけた。

「一日24時間あるけれど、この子は4時間くらい眠るだけで、あとは泣き続いているの。どうしてこの子がこんなに苦しまなければならないの」母が泣き崩れる。「劣化ウラン弾に間違いない。アリーのように生まれつき直腸に問題がある子が、バグダッドで大量に生まれている。バグダッドの病院で同じ症状の子どもをたくさん見た」と父。

バグダッドの治安が悪くなったことと、アリーの治療のために、彼ら家族は先月アンマンにやってきたばかり。最初の手術は国連とイタリアのNGOが費用を出してくれたが、今後続くであろう数回の手術については、援助してくれる国や組織は現れない。

14名のツアー参加者にとっては、いきなりショッキングな話が続いたかもしれない。しかしこれが現実なのだ。
明日は、アンマンの病院へ行き、さらに劣化ウラン弾の被害者と面談し、その後ダマスカスに向けて出発する予定。
この旅が実り多いものとなりますように。

3月7日。早朝にダマスカスを出て、アンマンへと向かう。アンマンへの長距離乗り合いタクシー乗り場へ。乗客が4人そろえば出発するのだが、今日は金曜日で休日である。私とインド系カナダ人の2人だけでなかなか他の乗客が現れてくれない。待つこと1時間、ようやくアンマンへのビジネスマンが二人来てくれて、午前10時、出発。

国境で通訳ハーミドへ電話。一刻も早く明日からのツアー打ち合わせをしようと思っていたのだが、「ニシ、今日は休日だよ。こんなに天気がいいのだから、俺たちはピクニックに行く。帰ってくるのは午後6時ころだ」。えっ、ピクニック?思わず空を見上げる。確かに雲ひとつない快晴。吹く風は心地よいし、暖かい。もしここが日本なら、「アホか!仕事とピクニックとどっちが大事や!」と一括するところであるが、残念ながらここはヨルダン。
郷に入っては郷に従わねばならない。金曜日にアラブ人を働かせるのは難しい。
ということで、本日のブログでは、3月4日に行った、アナス・ラシードとのインタビューを掲載したい。

3月4日、夜にイサームの甥、アナス・ラシードと夜のダマスカスを散歩。
アナス(30歳)はイサームと同じバグダッドのアーダミーヤ地区在住。イラク戦争が始まった年まで学生で、その後は電気技師をしているが、バグダッドが戦争状態になっているため、まだ結婚せずに独身。イサームはシリアに来ることができないが、アナスは可能。
なぜかというと、彼は学生のころにシリアに住んでいて、シリア居住ビザを持っているからである。ビザがあれば、シリアに出入りできる。イサームもシリアには何回も来ていたのだが、居住ビザを持っていないため、シリアに出てくることは困難。

アナスに、バグダッドの壁について聞く。
― 壁ができて、生活が不便になったね
壁が完成して一週間、アーダミーヤ地区の人間は壁の外へ出ることが許されなかった。食糧を買いに行くことができなくて、みんなひもじい思いをした。今でも、アーダミーヤ地区のそばで米軍を狙った爆発があった直後は、壁が閉まる。9日間も閉じ込められたこともあったよ。

― 壁の出入り口は何か所あるの?
僕が見たところでは2か所。普段は通れるけれど、やはり自爆テロ直後などは、検問がある。壁を乗り越えて出ようとしたら、容赦なしに撃たれてしまう。米軍はウイズアウトマーシー(慈悲なし)だよ。

― 学校や病院の様子は?
小学校は開いたり閉まったり。僕の甥っ子が小学校まで車で通っているとき、ちょっとした事故に巻き込まれた。警官がやってきて事故の取調べをしたのだけれど、その警官は甥っ子の所持金と携帯電話を奪っていった。電話を取られた、と甥っ子が泣いていたよ。
病院はシーア派の民兵が支配している。先日もスンニ派の医師が5人誘拐されてしまった。
僕の叔父も5ヶ月前に、シーア派の民兵に殺されたよ。

― バグダッドの人々の暮らしぶりは?
最悪だよ。熟練工で毎月300ドルくらいしか給料がないのに、灯油は1ガロン50ドルもする。この冬は特に寒くて、雹が降った夜も、電気なし、灯油なしで過ごさねばならなかった。水道もきれいな水が出る日と出ない日がある。

アナスは詰まりながらも、馴れない英語で一生懸命、バグダッドの生活を語ってくれた。彼は3~4日後、バグダッドへ帰っていく。シリアでは仕事がないからだ。夜のダマスカスを散歩しながら、戒厳令のようなバグダッドの夜を思い出す。バグダッド市民が夜の散歩を楽しめなくなって、もうすぐ5年が過ぎようとしている。

アナスとのインタビューは以上である。アンマンの澄み切った青空を見上げながら、バグダッドの空を思い出す。バグダッドもおそらく快晴の金曜日。しかしピクニックを楽しむ人はいない。

3月6日、ダマスカスは今日も快晴。友人でジャーナリストのイサームラシードの甥、アナス・ラシードと市内中心部で会う。彼と一緒にサイダザイナブ(リトルバグダッド)へ。

あらかじめ電話連絡をしていた、元タクシー運転手のロットフィー・ハンマディーさん宅を訪ねる。
2004年7月8日、いつものように仕事を終えたハンマディーさんは、サマッラのモスクでお祈りをしていた。モスクで祈りをささげていると、ゴーッという爆音が近づいてくる。米軍の戦闘機だった。12発のミサイルがサマッラの街に撃ち落された。不幸にもその中の一発がモスクに命中。14人が死亡、35人が重症を負った。ハンマーディーさんは右足と背中に爆発の破片が突き刺さり、サマッラの病院で緊急手当てを受けた後、バグダッドの病院へ運ばれ、そこで右足を切断した。

当時の写真が残っている。足を切断したハンマーディーさんの写真の下に、アラビア語で「これからどうして生きていけばいいのだ」「どうして家族を養えばいいのか」と記されている。
6ヶ月の入院生活の後、ハンマーディーさんは失業した。そんなハンマーディーさん一家を、更なる不幸が襲う。シーア派の民兵が脅迫する「スンニ派はこの街から出て行け。出て行かないと殺す」。
かくして2007年3月、ハンマーディーさん一家はダマスカスのリトルバクダッドに逃げてきた。

彼には4人の子どもがいるが、長女のアイシャは13歳。本来なら中学校に行かねばならないが、制服と本、ノートや靴などを買うお金がないので、ずっと家の中で過ごす。
学校に行くためには毎月100ドルが必要だが、その100ドルが払えない。
「学校に行って、アラビア語と英語を勉強したい」とアイシャは言う。

わずか月々日本円にして約1万円が払えないために、学校に行けない子どもがいる。
何とかならないものだろうか…。

3月5日午前9時半、シリア情報省の外国人メディア担当部署を訪問。モハンマドと打ち合わせ。まずシリア中心部、観光省の横に、仮設であるがUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ができているのでそこを訪問。敷地の中に長い看板。細かい字でイラク難民の名前と番号。難民を登録し、番号が振られて初めて支援物資が届く。
敷地の中には巨大なテント。テントの中には登録を待つイラク難民がぎっしりと、番号を振られるのを待っている。「毎日5千人がここにやってきます」と担当官のイブラヒームさん。第2テントで「仮番号」をもらい、コンピューターに入力。第3テントで住所、氏名、家族の人数、携帯番号などを入力し、正式な難民カードが手に入る。カードが手に入ると、食料や衣類の配給を受けることができる。
配給現場へ。テントが仮設倉庫になっていて、米や油、ナツメヤシなどの食料とマットレスや毛布など非食料が分けて積んであって、10人家族なら、それぞれ10箱づつトラックに積んでいく。トラックもUNHCRが借り上げたもので、そのトラックが順次イラク難民の住所まで運んでいくというシステムだ。
3月10日に、中東学習ツアーでここを訪れることにする。
UNHCRの次は、リトルバグダッドと呼ばれるイラク難民の街、サイダザイナブへ。この街にはバグダッド~ダマスカスの長距離バスターミナルがあり、大量のイラク難民が住み着いた。街のメインストリートはいまや「イラク通り」と呼ばれている。
その中に、ファイサルさん(25歳)とウィサームさん(22歳)の兄と妹を紹介しよう。彼ら二人はサマッラという激戦地に住んでいた。03年3月、アメリカはサマッラの町を大規模に空爆した。今からちょうど5年前のことだ。空からはアパッチヘリが、陸上からは戦車砲が、夜の11時から朝の10時まで、11時間に及ぶ空爆だった。
そのとき兄と妹は家にいた。空からアメリカの爆弾が降ってきた、と思ったとき、2人は気絶して、気がついたときは空爆が終了して5時間がたっていた。
二人は異様なガスのにおいをかいだ。ものすごく気分が悪くなっていたが、街が破壊され病院に行けたのは1週間後のことだった。
ガスの異様なにおいをかいでから、二人は体調を崩していく。2か月ほどして、兄も妹もふらふらと歩くようになり、言葉もろれつが回らなくなっていく。「毒ガスではないのか!」。不思議なことに、母が知っている近所の若者&子どもも、18人が同じような症状を呈していく。やがて…。二人はまったく歩けず、そして軽度の言語障害になった。イラクの病院で治療を続けてきたが、イラクではこれ以上治療が進まないので、2か月前にシリアまで逃げてきた。
「アメリカが化学兵器を使ったのではないか」通訳モハンマドは、「それしか考えられない」と言って頭を振った。
現在は車椅子が一つしかないので、妹が外出するときは兄が、兄の外出時には妹が留守番をしている。中東ツアーでは車椅子も持ってくる予定なので、一台をこの二人にプレゼントできないものだろうか、と感じる。
本日は、この2人の兄妹の他にも、さまざまな戦争犠牲者と出会った。テロリストの銃弾で下半身不随になった携帯電話の店主、99年、クリントン時代の空爆のショックで障害児を生んでしまった母親、バグダッド大学で生物の教授だった妻が暗殺団に脅かされ、長男を人質に取られた家族…。「100人のイラク難民には100の悲劇がある。ぜひ、この事実を伝えてほしい」ムハンマドが重い言葉を投げかける。その横で難民の子どもがサッカーに興じている。サッカーはボールさえあればできる。この難民の街からスターが現れてほしいものだ。

3月4日午前9時、無事シリアの首都ダマスカスに到着。

シリア情報省のムハンマドが、私のビザを空港当局にファックスしてくれていたので、私は「外交官など」のコーナーで入国審査を受ける。VIP待遇だから、すぐに通してもらえると思っていたのだが、別室に連れて行かれ、1時間以上待たされる。

「これなら普通にビザ手数料を支払って、通過したほうが早かったな」と思い始めたころに、許可が出る。待った甲斐あってジャーナリストビザが出た。

空港からタクシーでダマスカス市街に急行するが、市街地に入るとものすごい交通渋滞。

200万人ものイラク難民が流入し自家用車が急増、そして地下鉄やモノレールなどの公共交通機関がないので、どこへ行くにも「歩いたほうが早い」状態。

やっとのことで安宿スルタンホテルにチェックイン。すぐに情報省へ。シリア政府はバース党政権。バース党というとフセインで有名になったが、もともとバース党はシリアが発祥の地。

ここでようやくムハンマドと初対面。メール、ファックスでやり取りしていた時から、誠実そうな人物やな、と感じていたが、実際のムハンマドは、小柄で物腰低く、それでいて一本芯の通った「反戦公務員」である。今回の中東ツアーの目的を告げると、「ぜひ協力させてほしい」との返事。

英語ぺらぺらで、なおかつ政府職員。イラク難民の現実に心を痛めている彼がガイドにつけば、今回のツアーは期待大である。

ムハンマドと簡単な打ち合わせ。明日から、イラク難民の通う小学校、戦争犠牲者が入院する病院、UNHCR、バグダッドへのバスターミナル、イラク難民を支援するNGOなどを訪問し、来週に迫る日本からの代表団の受け入れ準備をすることに。

ムハンマドと話をしていたら、別の職員が「昨年はNHKを案内した。これがそのときの番組だ」と、挨拶にやってくる。その番組はイラク難民がシリアに逃げてくる模様を追いかけたドキュメンタリーで、日本でも話題になったすばらしいものだ。

NHKドキュメンタリーほどの取材はできないかもしれないが、10数人の「代表団」にも、現実の一端を感じてもらえれば、と思う。

いよいよ本日深夜便で中東に出発する。3月4日にダマスカスに着けばすぐに、政府情報省に出向いて、10数名となる日本人旅行者の受け入れ態勢を確保する予定だ。

シリアはイランとともに米国から圧力を受けているので、私たち「西側の旅人」を警戒するのかな、と思っていたのだが、実態は逆で、「見せてくれるところは見せてくれる」ようだ。半年ほど前、イスラエルがシリアの原子力施設を空爆した様子だが、そうしたところは見せてくれないだろう。

イラク難民が通う小学校や、戦争被害者が入院する病院、バグダッドへのバスターミナル、UNHCRなどを訪問できるように調整したい。「悪の枢軸」シリアが、一番多く難民を受け入れ、大金持ちのサウジやクウェートなどはほとんど受け入れない。そのあたりを政府も宣伝したいのかもしれない。
ダマスカスには、友人でジャーナリストのイサーム・ラシードの甥っ子が、私を迎えてくれる。アナス・ラシードという。彼からも最新のバグダッドの状況が聞けると思う。

4日~6日までをダマスカスで過ごし、7日にはアンマンへ。アンマンは私にとってホームグラウンドのようなもので、町の様子はよくわかっているつもりだが、05年のイラク人による連続自爆テロ後、アンマン在住のイラク難民は追い出されてしまったので、果たして現状はどうだろうか…。

通訳のハーミドによると、いまだに難民はアンマンで生活しているそうだ。アンマンでは、パレスティナ難民キャンプも訪問する。実はヨルダンは純粋のヨルダン人よりも、パレスティナ人の方が多い。長年の戦闘で、流入人口がオリジナルを上回った、世界でも珍しい国である。
「パレスティナ難民キャンプ」と聞くと、テントが林立し、国連の旗がはためくイメージであるが、実際の難民キャンプは、普通の「ごみごみした下町」という感じ。1967年第三次中東戦争で逃げてきた当初はテント。やがてそのテントが仮設住宅になり、それが石造りのアパートに変わり、商店街ができて、学校ができた。10数名の旅行者とともに、そんな中東の歴史を実感できる旅になればいいなと思う。

関空からドバイへの便は、深夜11時過ぎに飛び立つ。見送りに来る家族は私を心配し、私は妻の下手くそな運転で自宅まで帰る家族を心配する。関空がもう少し近くにあり、ドバイへの便がもう少し早く飛べばいいのだが、関西から飛んでくれるだけでも良しとせねばならないのだろうか。

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