ダマスカスからアンマンへ

3月7日。早朝にダマスカスを出て、アンマンへと向かう。アンマンへの長距離乗り合いタクシー乗り場へ。乗客が4人そろえば出発するのだが、今日は金曜日で休日である。私とインド系カナダ人の2人だけでなかなか他の乗客が現れてくれない。待つこと1時間、ようやくアンマンへのビジネスマンが二人来てくれて、午前10時、出発。

国境で通訳ハーミドへ電話。一刻も早く明日からのツアー打ち合わせをしようと思っていたのだが、「ニシ、今日は休日だよ。こんなに天気がいいのだから、俺たちはピクニックに行く。帰ってくるのは午後6時ころだ」。えっ、ピクニック?思わず空を見上げる。確かに雲ひとつない快晴。吹く風は心地よいし、暖かい。もしここが日本なら、「アホか!仕事とピクニックとどっちが大事や!」と一括するところであるが、残念ながらここはヨルダン。
郷に入っては郷に従わねばならない。金曜日にアラブ人を働かせるのは難しい。
ということで、本日のブログでは、3月4日に行った、アナス・ラシードとのインタビューを掲載したい。

3月4日、夜にイサームの甥、アナス・ラシードと夜のダマスカスを散歩。
アナス(30歳)はイサームと同じバグダッドのアーダミーヤ地区在住。イラク戦争が始まった年まで学生で、その後は電気技師をしているが、バグダッドが戦争状態になっているため、まだ結婚せずに独身。イサームはシリアに来ることができないが、アナスは可能。
なぜかというと、彼は学生のころにシリアに住んでいて、シリア居住ビザを持っているからである。ビザがあれば、シリアに出入りできる。イサームもシリアには何回も来ていたのだが、居住ビザを持っていないため、シリアに出てくることは困難。

アナスに、バグダッドの壁について聞く。
― 壁ができて、生活が不便になったね
壁が完成して一週間、アーダミーヤ地区の人間は壁の外へ出ることが許されなかった。食糧を買いに行くことができなくて、みんなひもじい思いをした。今でも、アーダミーヤ地区のそばで米軍を狙った爆発があった直後は、壁が閉まる。9日間も閉じ込められたこともあったよ。

― 壁の出入り口は何か所あるの?
僕が見たところでは2か所。普段は通れるけれど、やはり自爆テロ直後などは、検問がある。壁を乗り越えて出ようとしたら、容赦なしに撃たれてしまう。米軍はウイズアウトマーシー(慈悲なし)だよ。

― 学校や病院の様子は?
小学校は開いたり閉まったり。僕の甥っ子が小学校まで車で通っているとき、ちょっとした事故に巻き込まれた。警官がやってきて事故の取調べをしたのだけれど、その警官は甥っ子の所持金と携帯電話を奪っていった。電話を取られた、と甥っ子が泣いていたよ。
病院はシーア派の民兵が支配している。先日もスンニ派の医師が5人誘拐されてしまった。
僕の叔父も5ヶ月前に、シーア派の民兵に殺されたよ。

― バグダッドの人々の暮らしぶりは?
最悪だよ。熟練工で毎月300ドルくらいしか給料がないのに、灯油は1ガロン50ドルもする。この冬は特に寒くて、雹が降った夜も、電気なし、灯油なしで過ごさねばならなかった。水道もきれいな水が出る日と出ない日がある。

アナスは詰まりながらも、馴れない英語で一生懸命、バグダッドの生活を語ってくれた。彼は3~4日後、バグダッドへ帰っていく。シリアでは仕事がないからだ。夜のダマスカスを散歩しながら、戒厳令のようなバグダッドの夜を思い出す。バグダッド市民が夜の散歩を楽しめなくなって、もうすぐ5年が過ぎようとしている。

アナスとのインタビューは以上である。アンマンの澄み切った青空を見上げながら、バグダッドの空を思い出す。バグダッドもおそらく快晴の金曜日。しかしピクニックを楽しむ人はいない。

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このページは、nishitaniが2008年3月 8日 02:40に書いたブログ記事です。

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