ハラブジャでスピーチする

3月16日はイラン・イラク国境の町、ハラブジャを訪問した。ちょうど20年前の1988年3月16日、サダムフセインはこの町に化学兵器を投下した。一瞬にして約5千人、後の治療の甲斐もむなしく3千人、合計約8千人が虐殺された。その20周年メモリアル集会が、この町で行われたのだ。

スレイマニアから車を飛ばすこと一時間半、イランとの国境が山になっている。その山すそに広がる町がハラブジャだ。

20年前の3月16日午前11時35分、バース党の、つまりサダムフセインの空軍がまず、「普通の」爆弾を撃ってきた。人々は防空壕に隠れた。イラン・イラク戦争が激化し、この町への空爆は、いわば「日常どおり」のことだった。ちょうどあの日の広島のように。

2回目の爆撃の後、町中に「ガーリックの臭い」「腐ったリンゴの臭い」が充満した。その後、町は地獄絵と化した。目を見開いたまま倒れる者、ケタケタと笑いながら息を引き取る者、皮膚がただれ、うずくまって助けを求める者、赤ちゃんを抱えたままその場で倒れる母子…。
実際に使用された毒ガスは、マスタードガス、サリンガス、VXガス、タブンなどなど。かくしてハラブジャは「イラクの広島」になった。

「日本からNGOの代表が来ている」という情報が現地政府に入り、私は「日本代表」として壇上でスピーチをすることになった。大急ぎでスーツとネクタイを買いに走り、集会に参加した。

「日本から来ました。ヒロシマにもハラブジャにも、たくさんのヒバクシャがいます。昨年広島の被爆アオギリを、この町に植えました。私の夢は、イラクの学生と日本の学生を、交換留学させることです。日本の学生は、イラク戦争やハラブジャの悲劇から、平和の大切さを学ぶでしょうし、ハラブジャの学生は、高度に発達した日本から、技術や知識を得て、この国を復興させてくれるでしょう」。3千人を越える聴衆の前で、大要、このようにスピーチした。集会の模様は、各国のテレビが放映した。

集会後、ハラブジャ市役所の前に、亡くなった人たちの遺影が飾ってあったので、そこでインタビュー。
アルサラーンさん(37歳)が、遺影の前から動かない。彼は8人家族だったが、生き残ったのは彼一人だけ。当時、モスルの大学で勉強するため、町を離れていたので助かったのだ。両親と5人のきょうだいの顔写真が並んでいる。一番下の赤ちゃんは生まれたばかりだった。その子だけ写真がないので、赤いバラの花が描かれている。その花の下に「1988年生まれ」とクルド語で記されている。一気に家族全員を失った彼の嘆きはいかばかりだっただろうか。
生き残ったハラブジャの人たちの間に、がんや呼吸器疾患が増えている。ヒロシマでヒバクシャへの援護が本格的に始まったのは、原爆投下からかなり後のことだったと聞く。
ハラブジャへの国際的支援は、いまのところ、皆無に等しい状態だ。


トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: ハラブジャでスピーチする

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.nowiraq.com/mt/mt-tb.cgi/154

コメントする

このブログ記事について

このページは、nishitaniが2008年3月18日 18:56に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「路肩爆弾の下に地雷が・・・」です。

次のブログ記事は「ハラブジャでスピーチする」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01