UNHCRとリトルバグダッドを訪問

3月5日午前9時半、シリア情報省の外国人メディア担当部署を訪問。モハンマドと打ち合わせ。まずシリア中心部、観光省の横に、仮設であるがUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ができているのでそこを訪問。敷地の中に長い看板。細かい字でイラク難民の名前と番号。難民を登録し、番号が振られて初めて支援物資が届く。
敷地の中には巨大なテント。テントの中には登録を待つイラク難民がぎっしりと、番号を振られるのを待っている。「毎日5千人がここにやってきます」と担当官のイブラヒームさん。第2テントで「仮番号」をもらい、コンピューターに入力。第3テントで住所、氏名、家族の人数、携帯番号などを入力し、正式な難民カードが手に入る。カードが手に入ると、食料や衣類の配給を受けることができる。
配給現場へ。テントが仮設倉庫になっていて、米や油、ナツメヤシなどの食料とマットレスや毛布など非食料が分けて積んであって、10人家族なら、それぞれ10箱づつトラックに積んでいく。トラックもUNHCRが借り上げたもので、そのトラックが順次イラク難民の住所まで運んでいくというシステムだ。
3月10日に、中東学習ツアーでここを訪れることにする。
UNHCRの次は、リトルバグダッドと呼ばれるイラク難民の街、サイダザイナブへ。この街にはバグダッド~ダマスカスの長距離バスターミナルがあり、大量のイラク難民が住み着いた。街のメインストリートはいまや「イラク通り」と呼ばれている。
その中に、ファイサルさん(25歳)とウィサームさん(22歳)の兄と妹を紹介しよう。彼ら二人はサマッラという激戦地に住んでいた。03年3月、アメリカはサマッラの町を大規模に空爆した。今からちょうど5年前のことだ。空からはアパッチヘリが、陸上からは戦車砲が、夜の11時から朝の10時まで、11時間に及ぶ空爆だった。
そのとき兄と妹は家にいた。空からアメリカの爆弾が降ってきた、と思ったとき、2人は気絶して、気がついたときは空爆が終了して5時間がたっていた。
二人は異様なガスのにおいをかいだ。ものすごく気分が悪くなっていたが、街が破壊され病院に行けたのは1週間後のことだった。
ガスの異様なにおいをかいでから、二人は体調を崩していく。2か月ほどして、兄も妹もふらふらと歩くようになり、言葉もろれつが回らなくなっていく。「毒ガスではないのか!」。不思議なことに、母が知っている近所の若者&子どもも、18人が同じような症状を呈していく。やがて…。二人はまったく歩けず、そして軽度の言語障害になった。イラクの病院で治療を続けてきたが、イラクではこれ以上治療が進まないので、2か月前にシリアまで逃げてきた。
「アメリカが化学兵器を使ったのではないか」通訳モハンマドは、「それしか考えられない」と言って頭を振った。
現在は車椅子が一つしかないので、妹が外出するときは兄が、兄の外出時には妹が留守番をしている。中東ツアーでは車椅子も持ってくる予定なので、一台をこの二人にプレゼントできないものだろうか、と感じる。
本日は、この2人の兄妹の他にも、さまざまな戦争犠牲者と出会った。テロリストの銃弾で下半身不随になった携帯電話の店主、99年、クリントン時代の空爆のショックで障害児を生んでしまった母親、バグダッド大学で生物の教授だった妻が暗殺団に脅かされ、長男を人質に取られた家族…。「100人のイラク難民には100の悲劇がある。ぜひ、この事実を伝えてほしい」ムハンマドが重い言葉を投げかける。その横で難民の子どもがサッカーに興じている。サッカーはボールさえあればできる。この難民の街からスターが現れてほしいものだ。

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このページは、nishitaniが2008年3月 6日 04:09に書いたブログ記事です。

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