スーダン、ウガンダ国境の町、ニムレへ飛ぶ

続いて、ジュバ2日目の模様。

6月5日午前9時、ジュバの空港から国連機でスーダン最南端の町ニムレへ飛ぶ。車体にUNと大書された国連機に乗るのはもちろんはじめてであるが、わずか12人乗りのプロペラ機に乗るのも初体験だ。小型乗り合いバスのような車内、コックピットから前方の景色がよく見える。本日は快晴なので素晴らしいフライトになるだろうが、今は雨季である。雷雨が来れば、木の葉のように揺れるとのこと。

9時半、ジュバを出発。プロペラ機は空港を旋回しながら南方へ進路を取る。眼下にはミニチュアのようなジュバの街と、白ナイル川。頭に水を乗せて歩く女性の姿まで見える。原生林の上空を国連機が飛ぶ。「象の群れを見れるかも」と、UNHCRの現地副代表、ジェフさんが叫ぶ。
残念ながら象の群れは見ることができず、一時間ほどのフライトでニムレ上空。飛行機は旋回を数回繰り返し、高度を下げていく。「あれが空港だ」とジェフさん。「えっ?あれって草原の中に…」。そう、「空港」は草原の中に伸びる、一筋の赤茶けた「道」だった。舗装もされていない、デコボコの大地。ガガガッ、タイヤから白い煙を上げながら、国連機はけなげにも無事に着陸してくれた。

「空港」にはUNHCRの現地スタッフが待ってくれていた。トヨタのランドクルーザーに分乗し、目的地のガンジ村まで走る。「雨季が来たので、道は最悪だよ」ドライバーの言うとおり、デコボコ道に時折巨大な水溜り。「トヨタのランドクルーザー以外では、おそらく無理だね」。私が日本人だからか、「トヨータ!」と親指を立ててくれた。
約15㌔進むのに一時間ほどのドライブ、ようやくガンジ村へ。大きな木の下で子どもたちが集まっている。「青空学校」のようだ。
カメラを回すと、ワーワー叫んで近づいてくる。この子どもたちは全員が先月ウガンダから帰還したばかり。教師もまたウガンダからの帰還民だ。
50~60人ほどの子どもたちに、ユニセフの教科書が数冊。家の仕事を手伝っているのか、鍬を抱えたまま授業を受ける女の子もいる。
先生が、髪の毛を指差して「ヘアー」、口に「マウス」、耳をつまんで「イアー」。手持ちの黒板にスペルを書いていく。
「青空教室」の隣で、「青空健診」が始まった。ポリオの予防薬を子どもたちに飲ませていく。予防薬は赤十字が用意したもの。
学校の教師にも、予防薬を飲ませている医師にも、給与は支給されていない。「ボランティアワーク」と医師が答える。
「青空教室」から車で数分走ると、診療所がある。中をのぞくと、赤ちゃんを抱いた母親。昨晩から高熱が出ているので、ここへ連れてきたのだ。しかし医師はいないし、薬もない。マラリアでなければいいのだが。

ニムレのウェイステーションへ。
ここはジュバのものより大きくて、一度に1000人を収容できる。ニムレはウガンダとの国境の町なので、まずウガンダからニムレにやってきて、そこから故郷への長い道のりを取る。
帰還民を乗せたバスが車列を作ってやってくる。「オー、レレレレー」アフリカの部族特有の甲高い声を上げて、女性たちが出迎える。ほとんどの帰還民にとって約20年ぶりのスーダンだ。
杖を突いて歩く老女がいる。もしや地雷では?とインタビュー。地雷ではなかった。難民となってスーダンから逃げ出すとき、「早く、早く!」といわれ、急いで走り出したときに穴ぼこに足を取られ、骨折してしまったのだ。それ以来約20年、彼女は杖を欠かせない。
20年ぶりに帰還する決心をしたのはなぜか?と尋ねてみた。
「私の周囲の人がスーダンに帰還し始めた。でもスーダンはまだまだ危険だと思っていたので様子を見ていたの。でも帰還した人がウガンダに戻ってこない。これはもう大丈夫なのかな、と思ったわ」。
人々がスーダンからウガンダやケニアに逃げたのは、1983年と1989年の内戦勃発時が多い。89年に逃げた人は19年間を、83年に逃げた人は25年間、つまり四半世紀を難民として暮らさざるをえなかったのだ。

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このページは、nishitaniが2008年6月 7日 20:53に書いたブログ記事です。

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