京都・丹波マンガン記念館を訪問

一昨日の日曜日、京都市北部にある「丹波マンガン記念館」を訪れた。市町村合併で、こんな田舎まで「京都市右京区」になったが、実感としては「丹波の山の中」に位置するこのマンガン記念館。

戦争中は「大砲の砲身や戦車のキャタピラなどにマンガンが必要だ」と、強制連行された朝鮮人たちが働いていた。この記念館を作ったのは李龍植さんご家族。なんと鉱山を山ごと5年もかかって観光用に整備された。以後21年間この記念館を公開して、戦争によって人生を踏みにじられた朝鮮の人々の思いを伝えていたのだが、来年夏ごろに閉館することになった。閉館までに一度観ておきたいと思って、山道をドライブすること2時間、現地に到着した。

受付で切符を販売するのも李さんの奥さんで、特別館でお土産を売るのは李さんのお母さん。入館料800円也を支払い、「川端大切坑」へ。ここが鉱山の入り口。初期の頃は、ノミとオノだけ、つまり「手掘り」で掘り進んだ。坑道の中には鉄路とトロッコ。当時の労働者の様子をマネキンで再現している。ハンマーで手掘りする人形の前にはサザエの貝殻。サザエの貝殻にローソクを灯して掘り進んだという。強制連行された朝鮮人たちは、男性で200~300キロ、女性でも100キロ近いマンガンを背負って運んだ。腰を下ろすと立ち上がるのが難儀なため、立ったまま大便したという。
やがて手掘りから「さく岩機」に。作業は昔に比べ軽減されるが、一度にたくさんの岩が削られるため、今度は「塵肺」に倒れる労働者が続発したという。

一通り見学した後、李さんのお母さんに当時の思い出を聞く。
「家族会議をしましてね、夫がどうしても『記念館を作る』と言い張って。私も息子も反対しましたよ。でも最後は『ワシの墓やと思って作ってくれ』と。坑道に添え木をするのも、観光しやすいようにコンクリートで地面を固めるのも、みんな家族でやりました。私はマネキンの手足を曲げて、当時の労働を表しました。強制連行された朝鮮人たちが、西洋人の顔してますやろ(笑)。閉館ですか?もう21年もやったからこのあたりでええかな、と。行政からの補助?そんなんありますかいな。すべて私どもの持ち出しです。『寂しいわ』と言うてくれはる人もいるけど、仕方ないね」
戦争するためには鉄は欠かせない。日本の鉄鉱石にはほとんどマンガンが含まれず、普通の鉄にするにはマンガンが3~8%、大砲の砲身には25~35%のマンガンが必要だ。

日本の戦争を支えるために働き続けた朝鮮人労働者は、「給料は故郷へ送ってある」と騙され、終戦後、帰郷すれば一銭も支払われていなかった場合が多かったという。塵肺で死んでいった労働者も多かった。そんな人々へ、一切の謝罪と補償もないまま、日本では麻生首相が誕生した。「創氏改名は朝鮮人が望んだもの」と「放言」する首相に、一度来館してもらいたいものだ。

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このページは、nishitaniが2008年9月30日 16:03に書いたブログ記事です。

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