2008年10月アーカイブ

このブログに来られているみなさん。バグダッドとモスルの記述では、ご心配をおかけしました。私はすでに日本に帰国し、今は「テレビ局に拉致」されています。

本日のテレビ朝日「報道ステーション」で、イラクの現状ルポが放映予定です。監獄都市バグダッドの街の様子、その中で生活する母親と子ども。そしてモスル近郊の町ハムダニーヤに逃げてくる人々、劣化ウラン弾によると思われる障害児たち、クラスター爆弾の被害者などの最新映像を紹介する予定です。

昨日は深夜2時ごろまで編集室に缶詰。スタッフも気合入ってます。よほど大きなニュースが飛び込んでこない限り10時過ぎごろのオンエア。今日だけは「麻生総理、解散するな(笑)」という気分です。直前のお知らせで申し訳ありませんが、ぜひご覧ください。

アリー君と 1.JPG

写真の子どもは、モスル近郊のハムダニーヤ総合病院で出会った。アリー君(11歳)の左足は膝のところでねじ曲がり、膝の横に足が張り付いている状態。
アリー君を生んだ母親は、わが子の姿を見て泣き続けている。次の子がアリー君のような姿で生まれてくるのが怖くて、両親はこれ以上の出産をあきらめている。

モスルの下町で生まれた。湾岸戦争、98年の「砂漠の狐作戦」、そして今回のイラク戦争。多くの劣化ウラン弾が撃ち込まれたモスル。劣化ウラン弾だけではない、おそらく化学兵器が使用されている。この病院には下半身不随の子どもがやたらと多い。さらには通常兵器が安全かというと、そうではない。通常兵器に含まれている鉛やマンガン、タングステンなどが地中に入り、重金属が土壌を汚染する。

この子の場合は、おそらく劣化ウラン弾だ。遺伝子が壊れないと、このような姿にはならないだろう。
さて、モスル近郊「ハムダニーヤ」とも今日でお別れ。ハムダニーヤからタクシーをぶっ飛ばし、アルビルとの国境まで急がねばならない。できるだけ日の昇っているうちに、モスル側の国道を突っ切って、アルビルへと入りたい。
サファーンから「次もぜひここを訪れてくれ。ここには国連もNGOもいない。モスルの人々を見捨てないでほしい」と頼まれる。バグダッドもモスルも、まだまだ危険であるが、危険だからこそ援助物資を届けたい。

「次は3月ごろだ」と約束し、ハムダニーヤを出発。アルビルまでは60キロ。わずか1時間にも満たないドライブだがアルビルは天国、こちらは地獄。道中、民兵による臨時のチェックポイントが設定されていないことを願う。
タクシーは飛ばす。後部座席に身をかがめながら、モスル側の風景を脳裏に焼き付ける。やがてアルビルとの「国境」が見えてきた。どうやら抜けることができそうだ。

実は私にはモスル入りの秘策があった。「ハムダニーヤ病院」から救急車に乗り、サイレンを鳴らしながら「モスル子ども中央病院」に移送してもらうのだ。これならチェックポイントでばれないし、拉致されないだろう。

ハムダニーヤ総合病院の院長も、いったんは「救急車を用意する」と確約してくれた。しかし今回は状況が悪かった。10月10日(わずか5日前だ!)から始まった「キリスト教徒虐殺」事件で、モスルは戒厳令状態に入ってしまったのだ。

「ニシ、救急車も消防車も、すべて止められる可能性があるよ」とサファーン。外国人と分かれば、身代金目当ての誘拐犯たちが動き出す。「救急車ごと拉致」される可能性があるので、いったんは承諾してくれた院長も、「今回はやめておこう」ということになった。

「モスル子ども中央病院」は、まさにモスルの下町に建っており、地元住民でさえ、よほどの用事がない場合にしか出歩かない地区である。仕方がない、今回はあきらめよう。

モスル子ども中央病院は「壮絶な状況」になっている。毎日300人もの子どもたちが、通院してくる。米軍の空爆で片手を失った子ども、劣化ウラン弾の影響と思われるがんの子ども、クラスター爆弾の被害者…。「トゥーメニー(患者が多すぎる)」とサファーン。次回はこの「秘策」で、モスル市内入りを果たしたいものだ。
モスル市内入りをあきらめた私の元に、たくさんの患者がやって来る。

背中に大きな腫瘍があって、下半身不随の子ども。この症状は劣化ウラン弾被害に特有のもので、遺伝子異常のため、脊髄が普通に発達しなかったのだ。本来なら神経が脊髄の中をまっすぐに下半身まで通るべきところを、背中でストップし、それが腫瘍を形成している。彼の下半身は、おそらく一生動くことはない。バグダッドでも、ツワイサでも同じ症状の子どもを見た。

両足に義足をした青年。彼は羊飼いで、5年前17歳のとき草原に落ちている「不思議なもの」を見つけた。それは03年の空爆で、米軍がばら撒いたクラスター爆弾だった。「今まで見たことのなかった金属で、僕にはおもちゃに見えたんだ」。
彼と友人3人はその金属を手にとって遊んでいた。そして試しに、その金属片を地面に放り投げた時…。大爆発が起こった。他の3人は死んでしまった。彼だけが生き残ったが、両足は膝上切断。義足に松葉杖の生活が5年間続いている。

「化学兵器、劣化ウラン弾、空爆での被害。モスルには障害者が一杯だ。僕は障害者たちのリハビリセンターを作りたいんだ」サファーンが当面の目標を語る。
次回は、「秘策」を成功させ、モスル市内の人たちと会ってみたいものだ。

まずは新生児病棟へ。保育器に未熟児の赤ちゃんが眠っている。目の部分が包帯でぐるぐる巻かれている。この赤ちゃんは双子で、もう一方も同様に保育器に入っている。
狭い病室に保育器が6つ。母親たちは病室の床にカーペットを敷き、ここに寝泊りしている。

次に幼児たちの病棟。一つのベッドに2人、3人と入院している。劣化ウラン弾によるがん患者かと思ったのだが、そうではないようだ。衛生状態が悪いので下痢になった子どもが多い。点滴が施されているが、その点滴のチューブにハエがたかっている。
「患者たちは地元住民と、モスル市内からやってくる人々が半分半分といったところ。ご覧のように、病室もベッド数も足らないので、ベッドは共有している」。と担当医師が案内する。
幼児に母親が付き添っているのだが、「寝る場所がない」と訴える。

病棟を出て、病院の中庭を歩いていると、「俺の子どもを見てくれ」と、警備員の一人が娘を抱きかかえてやってきた。
警備員が幼女のズボンを脱がせる。「この子は生まれつき右足と左足の太さが違うんだ」。
確かに右足はガリガリに細く、左足は太くむくんでいる。左足のかかとの部分に巻かれている包帯をはずすと…。かかとの部分に大きな穴が開き、赤い肉が露出している。この症状の子どもには、03年にバグダッド子ども病院にもいた。「皮膚がん」なのか?それとも…。
「ウラン弾か化学兵器」サファーンがつぶやく。モスルにはこのような子どもがたくさんいるよ、とも。

この幼女は下半身の感覚がないので、尿意を催さない。24時間垂れ流しだ。足をつねっても痛がらない。「足の指を噛み切ってしまった子どももいるよ。痛いという感覚がないんだ」とサファーン。サファーンは「モスル中央子ども病院」でエンジニアとして働いているので、多くのケースを目撃している。

湾岸戦争、そして今回の戦争で、モスルにも大量の劣化ウラン弾をはじめ、さまざまな爆弾が打ち込まれた。ウランの放射線、爆弾の重金属汚染、そして化学兵器使用疑惑。イラクの人々は「複合汚染」にさらされている。
米軍の空爆やアルカイダの自爆テロなら、避難することもできる。しかし水を飲まないわけにはいかないし、空気を吸わないわけにもいかない。イラク戦争での死者は100万人以上といわれているが、「複合汚染でじわじわと死んでいく人」を加えれば、途方もない数字になる。ブッシュ大統領こそ、大虐殺者である。

小学校は男の子ばかり。イスラム国家では、小学校から男女別だ。平屋建ての校舎に教室が6つ。それぞれの学年にアラビア語で少しだけあいさつ。その後「この中で、戦争で両親を失った子どもがいれば、立ってください」と質問。
サファーンが質問をアラビア語に通訳して尋ねると、わらわらと子どもたちが立ち上がる。

「米軍の空爆で…」「自爆テロに巻き込まれて…」。この小学校では約60%が地元の子どもで、40%がモスル市内中心部からの避難民だ。立ち上がったのはモスルからの子どもたち。
校舎の裏でサファーンに1000ドルを手渡す。後日、サファーンはモスルから逃げてきた子どもたちに、学用品を配ってくれた。

小学校を後に、ハムダニーヤ総合病院へと向かう。病院案での道のりに、クルド軍のチェックポイント。
「なぜ日本人が乗っている?」「そのカメラで何を撮影した?」と執拗な質問攻めに。ここハムダニーヤはアラブ地域であるが、警察と軍はクルドが握っている。

実は10月10日にモスル市内で大規模な「キリスト教虐殺事件」があり12人のクリスチャンが殺されたのだが、「犯人はペシャマルガ(クルド軍)だ」という説が根強い。「日本人が何か嗅ぎまわっている」とでも考えたのだろうか?
スレイマニアやバグダッドでは、ペシャマルガに護衛してもらったのだが、ここハムダニーヤではそのパシャマルガに注意が必要だ。

何とかクルドのチェックポイントを潜り抜け、病院へ。病院の門前には警備兵が数人いて、病院内に入ってしまえば安全上の問題はない。本日はこの病院に泊まることになる。
便宜を図ってくれた院長にお礼のあいさつ。院長自身もモスル市内の病院で働いていたが、暗殺の脅しを受けて、モスルから脱出。院長もクリスチャンだったので、この町に逃げてきた。「モスルは人口300万。しかし内戦状態で医師がいない。だからこの病院に患者が殺到する。私は毎日手術して、眠る暇もないほどだ」。

実際訪れた日も、院長はインタビューを終えると、すぐに患者の元へ帰っていった。イラクでは客人が来ると、ゆっくりとお茶を飲むのが普通であるが、この人は相当忙しいのだと感じた。

では、その院長たちが奮闘する病棟を回ってみよう。

「このカラシニコフで奴を撃つんだ。さぁ、早くしろ」民兵に促されて、銃を構える。ファインダーには飲み仲間のS君の顔。こいつを、俺は撃ち殺さねばならないのか…。引き金を引こうとするが、指が凍りつく。「だめだ、できません」。カラシニコフ銃を民兵に返そうとすると、「裏切りやがったな。死ぬべきはお前だ!」叫んだかと思うと、銃弾が私の下腹部に。「やられた!」崩れ落ちる私の体を民兵が担ぎ上げ、穴の中に投げ入れる。あぁ、俺はこの穴の底で白骨になってしまうのか…。

悪い夢を見た。時計を見れば午前4時。シャツは寝汗でびっしょりと濡れている。やはり緊張しているのか。
本日は10月15日。今日から激戦地モスルへ潜入する。モスルは今やバグダッドより危険な街で、米軍の空爆が連続的に行われているし、アルカイダもモスルに集まってきている。人口300万人の、イラク第3の大都市であるが、市内中心部は100メートルごとにチェックポイントがあり、地元住民もめったなことでは出歩かない「ゴーストタウン」と化した街である。
スレイマニアからタクシーでアルビルという街に入り、そこからモスルを目指す。アルビル~モスルの「国境」を越えれば、注意が必要だ。アルビル側は治安が安定しているが、モスル側は何が起こっても不思議ではない。
「国境」ではサファーンが待っている。彼は「モスル子ども病院」で働くエンジニアで、がんの子どもや両親を失った子どもの支援活動を続けている。何とか「国境」を越えてサファーンに会わないと、恐ろしくてモスルには入れない。

スレイマニアで拾ったタクシーの運転手は、英語は話せるがアラビア語はしゃべれない。ここクルドでは年配の人はアラビア語をしゃべるが、若者はしゃべれない。フセイン時代までは「アラブ化政策」で、アラビア語が必修であったが、湾岸戦争後はクルド語が公用語になり、若者たちはアラビア語を話す必要がなくなったからだ。一方サファーンはアラブ人なのでクルド語がしゃべれない。「国境」のどのあたりで待つのか、「国境」まではどのようにしていくのか、私の携帯電話を使って、互いに不自由な英語でやりとり。
スレイマニアからキルクークまでが約80キロで一時間。キルクークからアルビルまでが約100キロで、道路も悪くて一時間半。そしてアルビルから「国境」まではわずか30分。

「国境」が見えてきた。同じ国だがパスポートチェックなどが行われている。「国境」のゲートは、私には「地獄への門」に見える。30分ほどで「国境」を通過。無事サファーンと再会。サファーンはアラブ人なのでアルビルには入れない。クルドの首都アルビルは、アラブ人の「入国」を厳しく制限している。
「奴らはアラブ人すべてがテロリストだと思っているのさ」サファーンが苦笑する。サファーンの車でハムダニーヤという街へ。ここはイラクでは珍しいキリスト教徒の町。

10月10日からモスルでは「キリスト教徒の虐殺」が始まって、多くのクリスチャンがこの町に逃げ込んでいる。ハムダニーヤの小学校へ。モスルほどではないが、この町にも数キロ毎にチェックポイントが。検問しているのはクルドの「ペシャマルガ兵」だ。バグダッドほどではないが、町の様子は車内から隠し撮りしなければならない。

小学校にはイラクの国旗とクルドの国旗が並んではためいている。アラブとクルドが「領土争い」をしているのだ。ハムダニーヤはモスルから東へ30キロ。住民はアラブ系が多数だが、03年のフセイン崩壊後、クルド人が流入して、今度は逆に「クルド化」させようとしている。ハムダニーヤはそんな「微妙な位置」に存在する。
さて小学校に入ってみよう。

午後7時、「アル・マンスールホテル」を抜け出し、繁華街のカラダ地区へと向かう。暗くなり、車内に座る私の顔が日本人だとばれにくくなったので、思い切って外へ出ることにした。途中、フセイン像が倒されたあの有名なフィーロードス広場を通る。この広場から世界中のマスコミが宿泊していたパレスティナホテルと、PMCが入っていたシェラトンホテルが見渡せるが、どちらのホテルも大規模なロケット弾攻撃に遭い、恐ろしくて今は誰も泊まらなくなっている。大通りに面したホテルは危ないのだ。

カラダ地区の「アル・ガディーヤホテル」の前を通る。2003年、04年にイラク入りしたとき、私が宿泊したホテルだ。「アル・ガディーヤホテル」はつぶれていた。このホテルも大通りに面しており、誰も泊まらなくなった。さらに経営者はキリスト教徒だったので、イスラム原理主義者に殺害されてしまった。

04年4月、日本人が拘束され、アメリカ人、フランス人、韓国人…と次々に「身柄拘束」されていった頃、その経営者が「(ホテルが攻撃されそうなので)本当は外国人を泊めたくないんだ」と語っていたのを思い出す。
カラダ地区の裏通りにしゃれたレストランがあるのでそこで夕食。大通りは壁に囲まれて異様な雰囲気だが、一筋街中に入ると、普段どおりの市民生活が存在する。
おそらく戦時中の日本もそうだったのではないか?「OO地区が空爆された」という情報が流れても、逃げるところがないので、粛々と日常生活を続けるしかない。

翌朝、ホテルの窓からチグリス川を眺めていると、やはり飛行船が不気味に飛んでいる。飛行船を撮影していると、「バタバタバタ」という轟音とともに2機のヘリ。昨日の爆破テロがあった辺りを旋回している。4年前は米軍が戦車で現地確認していたのだが、いまは戦車ではなく、ヘリで上空から行うしか方法がないようだ。

オマルにバグダッドでの日常生活をたずねていると、またまた「バン!」という乾いた爆発音。あわてて窓から外を確認するが、窓とは逆方向で爆発があった模様。
「ユージュアル(普通のことだ)」とオマル。ウー、ウーとパトカーのサイレン音が聞こえるが、ホテルの従業員も宿泊客も誰も驚いていない。

オマルと街へ出る。ビデオカメラを隠しながら撮影の機会をうかがうが、難しい。テロで破壊されたビルを車内から撮影。外へ出て撮影したいのだが、壊れたビルの前には数人の警官がいて、オマルが許可を求めるが、「外へ出ての撮影」は許可されなかった。

PUKのバグダッド本部へ。この建物の中に入っているときだけ、少し安心する。ここであらかじめ連絡を取っておいた、イサーム・ラシードと面会。
イサームはイラク人ジャーナリストで、私のDVD「戦場からの告発」「ジャーハダ」に、彼の撮影した映像を一部使用している。
「ニシさん、よく来たね」「イサーム、会いたかった」しばし抱擁。

イサームから日本へのメッセージを撮影する。彼は日本の支援者への感謝を口にするとともに、最後に「まいど、おおきに」。ちなみに「イラクの子どもを救う会」からの募金で、毛布などを配るときには、彼は袋に「MYDO OKINI」と書いて配布する。高遠さんらのグループからの募金で配布するときには「ARIKATO」である。ちゃんと方言を使い分けているのだ。

スレイマニアに帰る時間が迫ってきた。市内から空港まで後部座席で身をかがめるようにして突っ走る。かなりの数のチェックポイントをクリアし、空港へのだだっ広い国道に入る。「注意!この道で駐停車すれば、テロリストに襲われる危険」との赤い看板。「テロリストではなくて、米軍に襲われる」やろ、と思わず苦笑い。実際米軍は不審者に対してためらわず発砲してくる。一番恐ろしいのは米軍なのだ。

10箇所以上の検問を無事通過し、空港へ。これで一安心。この空港には非常口ではなく「シェルター」なる看板がある。武装勢力の攻撃を想定して「シェルター」を備えている空港は、世界でここだけではないだろうか?
ということで、一泊二日のバグダッド行きは、無事に終了した。まだまだ治安は安定していないが、何とか潜入取材が可能だということが分かった。次回再訪するときは、さらに治安が安定していることを望む。

バグダッドで宿泊したのは「アル・マンスールホテル」。このホテルは大通りからかなり離れた場所に位置していて、ホテルに入るまでに、数箇所のチェックポイントを通らねばならない。ホテルの受付でオマールと初対面。

彼とはメールでやり取りしていて、バグダッドでの取材&セキュリティーを委託していた人物である。彼は2004年から、バグダッドで両親を失った子どもたちを支援するプロジェクトを開始している。そして彼は米軍の通訳として働いた経験を持つ。米軍にも顔が利くし、イラク市民の信頼もある程度集めている人物なのである。

バグダッドで「オマル」という名前を名乗るのは非常に危険なのだ。なぜなら「オマル」という名前は100%スンニ派で、IDカード(身分証明書)に「オマル」と書いてあるだけで、シーアの民兵に虐殺される可能性があるのだ。普通の「オマル」さんは、IDカードを偽装し、「アリー」や「ムハンマド」に名前を変えて、バグダッドの街で生活している。

「なぜ、オマルという名前で通しているの?」「確かにオマルを名乗るのは危険だ。しかし俺には、スンニ派、シーア派、米軍のネットワークがあって、それぞれが俺の事業を信頼してくれている。だから危険だけれど、殺されないと思って、オリジナルな名前を名乗っている」とのこと。

ホテルの部屋で、そんな話をしているときだった、突然、ドーンという爆発音。「まさか!やったのか!」とあわてて窓から外を見る。私の部屋はチグリス川に面した5階だったので遠くの景色まで一望できる。
ベランダに出てチグリス川対岸を見ると、モクモクと煙が上がっている。米軍ヘリが2機、慌てて旋回している。「あそこはパレスティナ通りだ。テロリストが爆破したようだ」とオマル。私たちのベランダに向かって米軍ヘリが飛んでくる。(ように見えた)「カメラを隠せ!やつらはレーザーで監視している。ビデオカメラで撮影しているのがばれたら、容赦なく撃ってくるぞ」。
まるで映画の一場面のような光景だが、バグダッドでは日常茶飯事。

「怖くないのかって?そりゃ怖いよ。でもどうすればいいんだい?俺たち市民はなすすべなく、見守るだけさ」とオマル。
翌日のニュースで知ったのだが、この爆発で27人の市民が殺された。犯人はまだ捕まっていない。バグダッドは約600万人の人口を抱える。毎日のようにこの手の爆発が繰り返されている。600万人分の27。大阪で例えるなら、今日は梅田で、明日は心斎橋、明後日は…。といった状況だ。人々は粛々と、その日の暮らしを終えていく。

誰がバグダッドをこのような街にしてしまったのか?
間違いなく米軍である。サダムを倒して、治安を改善させるべき米軍が、あえて人々を殺害して、激怒させ、そして無政府状態にしてしまった。一般市民からすれば、「いい迷惑」なのだろう。少なくともサダムの時代は、アルカイダはいなかった。スンニであるかシーアであるかで、人々は争うわなかった。「治安を守るために占領した」米軍の姿は、街のどこにも見えない。米軍は基地の中に閉じこもっている。街にでてくるのは監視用の飛行船と、テロ直後の偵察ヘリだけだ。

バグダッドを「殺人の街」にしたのは、間違いなく米軍だ。だれがこの責任を取るのだろうか…。


バグダッドのPUK本部で、幹部職員にインタビュー。バグダッドの治安は安定に向かっているものの、まだ外国人にとっては危険な状況。ちなみに、ファルージャやラマーディーには、かなりの注意が必要で、「行かないほうがいい」と忠告を受けたが、イラク南部、すなわちサマワやバスラには訪問可能とのこと。今回は日程が詰まっているので、サマワにはいけないが、次回は行けそうだ。

幹部インタビューを続けていると、ハッサンアボッドがやってきた。ハッサンとは携帯電話で連絡を取り合って、本日バグダッド入りすることを伝えてあった。ハッサンアボッドは、私の通訳であり、友人。大阪に3回招待し、そのうち2回は裁判で法廷に立った。

彼は大阪の「イラク派兵差し止め訴訟」の原告なのだ。ハッサンは私の事務所に寝泊りした経験を持つ。そのハッサンとこうしてバグダッドで再会しているのが不思議だ。
みなさんご存知の通り、この「イラク派兵差し止め訴訟」は全国で行われて、名古屋高裁で「イラク派兵は9条1項違反」という画期的な判決が出た。ハッサンはこの裁判の貢献者である。
「ニシタニさん、良かったね。裁判で勝ったんだね」ハッサンも結果を聞いて喜んでいる。しばらくPUKのメンバーたちに私たちの関係を説明し、ハッサンとはここでお別れ。「ニシタニさん、気をつけて。決して無理してはいけないよ」。ハッサンも私の身の安全を心配してくれる。

PUKバグダッド本部を出て、ラシード通りの下町を行く。ラシード通りも壁で囲まれているが、商店街は普通に営業を続けている。その様子を車内から撮影していると、ピーッと笛が鳴り、警官が駆け寄ってくる。
「今、ビデオ撮影していただろ?」。しまった!見つかってしまった。こんなときは慌ててはいけない。「日本から来ている。『イラクの子どもを救う会』というNGOの者だ。悪気はない。軍や警察を撮影したのではない。ただ商店街の様子を撮っただけだ」。
私の身分証明書を見ながら、警官たちはなにやらアラビア語でしゃべっている。
「ここは撮影禁止だ。次回からは気をつけろ」と、「釈放」してくれた。下手をすればカメラ没収のところだった。危ない、危ない。

バグダッド・クルド人街の下町に、PUKの「母子センター」がある。
「日本人が来る」というので、多くの母子が集まっている。夫を殺された未亡人が多い。私が到着すると、「うちの子どもを見てくれ」「助けてくれ」と、ビデオカメラの前に母親たちが殺到してくる。
頭が膨れ上がった子どもがいる。3歳にして「水頭症」だ。母親は2回妊娠したが、上の子どもは死産だった。そしてこの子は生まれながらの「水頭症」。「劣化ウラン弾によるものとみて間違いないと思う」とは、PUKの女性スタッフ。

「俺の子どもの頭を見てくれ」と2人の兄弟を連れてきた父親。頭蓋骨の一部が削り取られていて、頭皮が露出している。指で触ると、そこは柔らかくて、脳内に指が入っていく感覚。米軍の空爆の破片が、頭蓋骨を削り取っていった。その結果、この男の子は普通に歩けなくなってしまった。歩行神経がやられてしまったのだ。不自由に歩く姿を撮影。本来なら傷ついた頭蓋をセラミックか何かで補強すべきなのだろうが、ここはバグダッドである。そんな手術は期待できない。空爆の際、一番恐ろしいのは、爆弾そのものより、周囲に飛び散る破片だ。目に当たれば失明するし、胸に当たれば死んでしまう。この子の場合は頭蓋をかすったのかもしれないが、若くして障害を抱えてしまった。
米軍がボタン一つで発射するミサイル。撃たれた側は生涯その痛みを引きずっていく。

ファラドーンが「この子どもたちに50ドルずつ援助しよう」と提案。急遽、名簿を作り、一家族ずつ50ドルを配っていく。
母子センターを後に、ホテルへと向かう。チグリス川沿いの「アル・マンスールホテル」。大通りから離れていて、チグリス川岸に建つ5つ星ホテルだ。ホテルに入るまでに入念なボディーチェックと荷物検査。外国人が宿泊するホテルは常に攻撃の対象となる。「日本人か!珍しいね」ホテルの警備員が驚いている。少しでもアラブ人に近づこうと、ひげを生やしていたが、やはり一目で分かるようだ(笑)。とにかく無事ホテルにチェックイン。さて明日はどうなるのだろうか?

茶色い大地を飛行機が滑り降りてゆく。私たちを乗せた飛行機は「普通に」着陸した。3年前の05年11月29日、バグダッド空港へは、上空からの「きりもみ着陸」だった。あの頃は武装勢力のロケット弾攻撃があるので、飛行機は上空から旋回して着陸していたのだ。今は治安が改善されたのだろう、「普通に」着陸したので、安堵とともに少し拍子抜けする。

入国審査のカウンターにはインド系労働者の群れ。民間軍事会社に雇われた戦争の「後方支援部隊」なのかイラク復興費で雇われた「建設労働者」なのか、おそらくそのどちらかだ。

3年前はこの場所で「日本人の入国は認められない」「なぜだ?」「お前たちの政府からの命令だ」とやり取りして、結局入国が認められずアンマンまで強制送還されたのだが、今回はすんなり通過。これで念願のバグダッドの地を踏むことができる。

空港を出るとPUK(クルド愛国者同盟)のメンバーが待っている。3人の兵士が護衛につく。空港を出てバグダッド市内へと向かう。いきなり異常な数の戦車と兵士がお出迎え。イラク国防軍のチェックポイントが何重にも連なる。車内から隠し撮りするが、「ここでは撮影するな!」と兵士の一喝。
「悪い悪い」と謝りつつ、この光景を撮らないと何のためにバグダッドまで来たのかわからない。兵士の注意をかいくぐって、何とか外の風景をカメラに収める。
空を見上げれば飛行船。

「あれは何だ?」と聞くと、「米軍の監視だ」。あまりにもテロが多発するので、米軍は「住民監視飛行船」を飛ばしているのだ。知らなかった。
空港を出るまでに10箇所以上のチャックポイント。そのたびに、緊張しつつビデオカメラを隠す。
空港を出て一般国道を走る。03年の空爆で破壊された「サダムタワー」が見えてくる。懐かしい。4年前はあのタワーの下で通行人にインタビューできたのだが。

バグダッドの街は、様相が一変していた。一言で言えば「コンクリートに囲まれた監獄都市」である。メーンストリートの両サイドは、高さ2メートルほどの壁で覆われている。
シルクロードの中心、2千年の歴史を持つ都が「壁の街」に変えられてしまったのが悲しい。人々は壁の前を黙々と通行する。戦車が通っても、ヘリが上空を旋回しても、パトカーがサイレンを鳴らして通過していっても、ただ黙々と歩いている。この異常事態に慣れてしまって、ただ黙々と生活を続けているその姿は、まるで修行僧のようだ。

バグダッドの交通信号はいまだに点灯していない。電力不足が一番の原因。それと信号を点灯させても、異常事態が発生するので、守る人が少なく、あまり意味がないからだとも言える。
よって信号のない交差点では渋滞するし、チャックポイントでまた渋滞。たまに米軍が通行するときは、周囲数百メートルにわたって交通規制するから、またまた渋滞。人々はあきらめきっているのか、ただ黙々と、渋滞が緩和するまで待っている。4年前よりメーンストリートの通行人が多いのは、「車で行くより歩いたほうが早い」からでもある。

私を乗せたランドクルーザーは、護衛の兵士たちが強引に道を空けさせて通行するので、渋滞の車を尻目におよそ一時間でPUKバグダッド本部。PUKバグダッド本部もまた、テロリストの襲撃を恐れてコンクリートの壁で囲われている。ランドクルーザーが本部に進入。ここで初めて兵士たちが笑顔に。「ようこそバグダッドへ、アハラン・ワ・サハランン」。
こうして08年10月11日午後12時半、何とか無事にバグダッドの街にたどり着いたのだった。

しばらくこのブログを更新しなかったので、「いったいあいつは何をしているのだろうか?」と、ご心配をおかけしたかもしれない。一昨日からバグダッドに入っていたのである。
バグダッドに入るかどうか、かなり迷った。治安は改善の方向に向かっているとはいえ、連日のように自爆テロが起こっている。恐ろしいのは政治的なグループではなくて、身代金目的の誘拐、物取りなどである。

バグダッドへ飛ぶ前日、「お前の顔は一目で外国人とわかる。俺たちよりずっと危険だ。犯人たちは携帯電話で連携して襲ってくるぞ。そうなると防ぎようがないんだ」。通訳のファラドーンが、電話をかけたり、銃を構えたり、いつものようにオーバーなゼスチャーで、いかに危険かを熱弁する。かなり鬱陶しい。もっとまともな、落ち着いた通訳に換えたいなと、痛感する(笑)。

「そんなことは分かっている。問題はいかに潜り込むかだ」と熱弁をさえぎるが、ことあるごとに止めにかかる。
で、妥協の産物として、①バグダッド宿泊は一日のみ。②ピンポイントで取材し、さっとその場を立ち去る。③街の様子は車の中から撮影し、外へでない。ことを条件に、バグダッド空港から街の中まで、PUK(クルド愛国者同盟)の護衛がつくことになった。

制限された中ではあるが、私にとっては4年ぶりのバグダッドだ。10月11日早朝、スレイマニアからバグダッドへ飛ぶ。乗客は地元市民と、おそらく民間軍事会社(PMC)の傭兵っぽいグループ、そして私とファラドーン。
空港で飛行機を待っていると、ファラドーンの妻から電話がかかる。かなり心配している様子。昨日はほとんど眠れなかったとのこと。ファラドーンには1歳8か月の息子がいる。二女宝と同い年だ。「俺には3人の子どもがいる。お前にも3人いるだろ?無理をしないように頼むよ」。何の因果で俺までバグダッドに行かねばならないんだ、と悲しそうな目で、私をみつめ、ついには「今から引き返してもいいんだぜ」。

「今さら引き返せるか、アホ」と「提案」を一蹴するが、確かに油断禁物、安全第一だ。
8時半に飛ぶ飛行機がなぜか遅れて9時半のフライト。さぁ飛行機が飛ぶ。もう引き返すことはできない。バグダッドまでは1時間のフライトだ。

本日は10月9日、二女宝の命日である。宝が生きてくれていれば満二歳。カラア避難民キャンプには、宝と同じ年頃の子どもたちがたくさん住んでいる。

昨日仕入れた毛布とウォーターボックスを2台のトラックで運ぶ。午前10時カラア避難民キャンプに到着。
「日本から援助物資が届く」というニュースはあっという間に広がっており、トラックを待つ人で一杯。地元のテレビ局も取材にやってきている。

毛布とウォーターボックスを満杯にしたトラックの周りを、避難民たちは固唾を呑んで取り囲む。
「モハマド・アウドッラー!」。避難民リストに従い、一家族ずつ名前を読み上げる。名前を呼ばれた家族が、それぞれ毛布とウォーターボックスを手にしてテントへと戻っていく。スレイマニアはこれからどんどん寒くなっていく。風邪をひかずにこの冬を乗り越えてほしい。

次々と名前が読み上げられ、避難民たちが毛布を手にして帰っていく。リストに載っているすべての人の名前が読み上げられてからも、「俺はまだもらっていない」と訴える家族。
新しく逃げてきて、まだリストに載っていない家族なのか、それとも「毛布がもらえる」と聞きつけて、やって来た「不心得者」なのかが、判然としない。通訳のファラドーンが、不満を口にした人の名前をリストに書き加えていく。後で協議して毛布を手渡すかどうかを決めるという。

そんな騒動を見ていた人々の中に「毛布もいいけれど、金をくれ」と言い出す人が現れた。「お前の家族にだけ金を渡すわけには行かないだろう」と諭すが、「俺の家族は11人もいる。金が必要だ」と必死に訴える男性。

そうなのだ、この避難民キャンプにはほとんど何の援助も届いていないので、毛布とウォーターボックスだけでは足らないものが一杯。国連も赤十字も入ってこない中で、生活そのものが成り立っていかないのだ。

問題は山積みされているが、とにかく第一歩、「安全に冬を越す」ことが最優先課題である。バグダッドが安全な都市になって、このキャンプの人々が故郷に戻れる日が来るまで、援助を続けることができれば、と願う。

イラク・スレイマニアに入ると、通訳のファラドーンが「だれそれと面談してくれ」「会わせたい人がいる」と私を振り回すので、ブログ更新がおろそかになってしまう。ご心配をおかけしているのかも。

本日はファラドーンの「お前に会わせたい人がいる攻撃」をくぐり抜けて、カラア避難民キャンプへ。驚いたことに、200以上あったテントの半数以上が撤去され、800人近かった避難民は、今や400人程度になっている。
理由として、バグダッドの治安が改善され、避難民たちが故郷に帰還したことと、イラク政府が「帰還すれば補助金を出す」と、帰還奨励政策に出ていることが挙げられる。
これはシリアに逃げた難民たちにも共通していて、まだバグダッドが危険ではあるが、家を奪われた人々が、帰り始めていることは事実だ。

しかしイラク政府の「バグダッドは安全」という情報を信じないで、まだカラアに居残る人が400人もいるのも事実。その「居残り組」に取材した。
「バグダッドが安全になった、といわれてもにわかには信じられない。俺の叔父は内戦で民兵に首をかき切られて殺されたんだ。恐ろしくて帰る気にはなれないよ」とはアドナーンさん(41)。聞けば10人も子どもがいるという。やはりアラブは多産だな、と思ったのだが、よくよく聞くと、妻が二人。隣のテントに新妻が。隣のテントへ。妻は赤ん坊を抱えている。生後4日。10番目の娘だ。このテントで出産?と聞けば、スレイマニア病院で出産したとのこと。イラクでは医療費は基本的に無料なので、丈夫な赤ちゃんを産めたようだ。

今何が一番必要か?との質問には、「これから寒くなるので毛布」とのこと。キャンプを後にして、市場で毛布とウオーターボックスを大量に(400人分)購入。
明日すべての避難民に、毛布とウォーターボックスを配ろうと思う。このキャンプでは、きれいな水が不足しているので、週に何回か配給される水を貯めておくウォーターボックスが必要だ。日本の皆さんからいただいた募金が役に立つ。ここスレイマニアは、日中はかなり気温が上がるが、そろそろ夜間は冷え込む。この冬を越すためには毛布ときれいな水が欠かせない。明日は朝から、毛布とウォーターボックスを配ることになる。

イラクの子どもを救う会へカンパいただいたみなさん、ありがとうございました。


10月7日早朝、アンマンのクイーンアリア空港。この空港からイラクへ飛び立つのは何回目だろうか?いつものように、入念な荷物チェックの後、(かつてこの空港で日本人新聞記者の持ち込んだクラスター爆弾が爆発した)航空券を受け取り、待合ゲートへ。

隣の4番、5番ゲートは飛行機を待つ人で一杯。それぞれベイルートとキプロスへ飛ぶ便である。私の待つ6番ゲートだけ人影もまばら。イラク・スレイマニアへ飛ぶ人は、まだ少数なのだ。あまりにも乗客が少ないと、「儲からないから飛ぶのヤメ」と、フライトがキャンセルされるので、少し不安だ。
2年前、実際にその理由でキャンセルされて、ほぼ一週間をアンマンで過ごさざるを得なかった悪夢がよみがえるが、本日は何とか飛んでくれた。

スレイマニアまでは2時間のフライト。雲ひとつない砂漠の上空を飛ぶ。
スレイマニア国際空港に到着。ほかの乗客はすぐに入国審査を抜けて、出て行くのだが、いつものように私だけストップがかかる。そしていつものように通訳のファラドーンが、空港の中まで入ってきて、係官と協議。やがて入国が許可され、無事イラクに入国した。9回入国に挑戦して7回成功。9打数7安打、イチローの打率を上回っているぞ。

スレイマニアの街も、来るたびに新しいビルが建っていく。「スレイマニアは安全だ」という実績の上に、やはりオイルマネーが投資されているのだ。サブプライムローンが破綻し、世界的には不動産投資が見直されているが、ここスレイマニアはまだまだ「バブルはこれから」といった様子だ。

ホテルの受付でハラブジャ市長が待っている。昨春、ハラブジャに被爆アオギリを植樹し、そして今年8月6日、広島の平和式典に案内した関係なので、市長自らホテルに出張してきたわけだ。ラマダン明けの忙しい時期に、片道2時間、往復4時間もかけて、わざわざやってきてくれたのだが「そんなことしていて市役所は大丈夫なのか」と、元市職員の身としては、そちらの方が心配になる。

ここスレイマニアでは大きなテロもなく、昨今は落ち着いている。しかし一歩クルド自治区を外れると、まだまだ紛争が継続しており、避難民はいまだに帰還できていない。先日もすぐ近くのモスルという街で米軍の銃撃により、罪なき市民11人が殺されたばかりだ。
さて、今回のイラク取材、どうなっていくのだろうか。

ラマダン明けの祭り休暇がようやく終了し、各国の大使館もようやく「営業」を始めた。イラクへのビザも何とかなって、いよいよイラクへ飛ぶ。で、私は今どこかというと、ヨルダンのアンマンである。イラクからアンマンに逃げてきたフセイン君の取材をしたかったかだ。フセイン君(8ヶ月)はサマワに住んでいて、生まれつきペニスがなかった。おそらく劣化ウラン弾の影響だと思われる。アンマンの彼の家を訪問したが、すでに引っ越した後だった。

昨今のアンマンは、バブルの情況を呈していて、難民たちは物価高に苦しんでいる。おそらく彼ら一家はアンマンには住めなくなって、シリアのダマスカス(物価が安い)か、イラクに戻らざるを得なかったのだろう。
ここアンマンは建設ラッシュ。あちこちに高いビルが建設中で、「次のドバイ」を目指しているかのよう。金満国家ドバイは、中東の若者たちの憧れの都市だが、実は年中暑くて隅のには適していない都市だ。

その点緯度も高度も高いアンマンのほうが過ごしやすい。本日(10月6日)の日中の気温は30度を越えておらず、日本と大して変わらない。だからなのか、湾岸諸国から不動産に莫大な投資が入っている。多額のオイルマネーが流れ込んで、「不動産バブル」になっているのだ。私は4年前からアンマンを取材拠点にしているが、来るたびに街が豪華になっていく。

明日は早朝の飛行機でスレイマニアだ。明日からようやく本格的な取材がスタートする。そんなわけで、今日は通訳のハーミドたちとちょっとした宴会。日本から持参した焼酎が、すでに底をつきかけている。おそらくハーミドたちと飲み干してしまうだろう。この調子だとあと2週間、焼酎なしで過ごさねばならない。今は、三笠フーズの事故米焼酎でも何でもいいから手に入れたいが、ここはイスラム国家で酒はご法度である。日本の皆さんがうらやましい。えっ?ちょっとは我慢しろって?


飛行機のチケットを段取りし、イラク入りを伺っているが、ビザ問題でまだドバイに足止め。仕方なく(?)本日は「ドバイ・砂漠サファリ」を楽しむ。午後4時ごろドバイ市内を出発して、夕暮れの砂漠をトヨタ・ランドクルーザーで突っ走るというツアーだ。参加したのは、スーパーマーケットを経営するオーストラリア人女性と、会社経営の韓国人夫妻、サウジアラビアの学生二人と日本人の私。

車内で世間話をするが、確実に私が一番貧乏である。ドバイからオマーンへ抜ける国道を30分ほど突っ走ると、すでにそこは砂漠となる。砂漠になるのだが、まだ高層マンションやアウトレットモールが建設中。どこまで膨らんでいくのだろう、ドバイの街は。
砂漠の国道を行くこと一時間、ようやくマンションもモールもなくなったところで、ランドクルーザーは国道をそれておもむろに砂漠に入る。

「シートベルトをするように!」運転手が叫ぶ。その声が終わるか終わらないかのうちに、ランドクルーザーは砂の上をうねって進む。私たち乗客は、天井や窓ガラスに頭を打ちつけながら、「アー」と声にならない悲鳴を上げて、車のバウンドに体を合わせる。さながら砂の上のサーフィンだ。
私たちの悲鳴に、調子に乗った運転手が無理に砂丘を越えようとして、スタック。さぁ大変だ。みんな協力して車を押しても引いても動かない。やがて日がどっぷりと暮れ、太陽に変わって月が顔を出す頃、救助隊が現れなんとか脱出。「アイムソーリー」。運転手が謝るが、こういう経験こそ得がたいもので、こちらが感謝するくらい。

救助隊を待つ間に、サウジの学生に質問。
「サウジでは女性は車を運転してはいけないんでしょ?」
「そうだよ。女性はダイヤモンド。男が守らなくてはいけないんだ」。この会話を聞いていたオーストラリア女性が、「えっ何で?なぜ女性は車を運転できないの?」と素朴な疑問。
「運転だけではなく、女性は仕事に就くことも許されないんだ」というと、素朴なオーストラリアンの目が点になっていた。

おそらく日本人もあまり知らないであろう、「イスラム原理主義」のサウジやオマーン、イエメンの実態。これら「王族支配」のイスラム国家は、昔のベドゥイン時代そのままのしきたりが支配している。王族にとってはその方が、民衆を支配しやすいのだろう。日本も終戦まで女性には参政権がなかった。女性やマイノリティーの人権がどれだけ守られているか、でその国の民主主義度が計れるのだが、サウジに関して言えば、まだ「封建時代」なのだ。
これは王族や富豪にとって都合がよい。空前のオイルマネーを、一手に引き受ける王族とその周辺にとっては、民衆の蜂起が一番怖いのだ。

新作DVD「ジャーハダ」で、サウジの王族、ブッシュ一族とビンラディン一族のつながりについて、詳述したが、「オイルマネーの独占者たち」は、自分たちに都合のよい政治体制を敷いている。

「UAEにもビンラディングループが活動しているよ。彼らは政府発注の建設工事に食い込んでいる」とサファリの運転手さん。「UAEよりサウジの王様のほうが強欲だね。UAEの族長は、市民にもオイルマネーを還元しているが、サウジは独り占め。だから言われるほどサウジ市民はリッチではないよ」とも。
中東では、ビンラディングループが大富豪だというのは常識なのである。


本日はドバイ初日。早朝にチェックインして、爆睡。午前11時頃に目覚めて外へでるが、暑い。すでに気温は40度ほど。今年6月にスーダンへ行き、そこで50度近い猛暑を経験。帰国すれば日本でも猛暑。ようやく秋の気配を感じる頃に、またドバイへやってきて猛暑。なんか今年は夏ばかりである。

本日はラマダン明けのフイトロ祭で、なおかつ金曜日(休日)。ほとんどの店は閉店していて、開いているのは旅行者向けのホテルや24時間営業のスーパーと、わずかにレストランがちらほら。
ドバイ中心部のバスセンターあたりは、シャッターを下ろした店の前で、多くの男性たちが所在なげにたむろしている。彼らは出稼ぎに来ているインド人、バングラディッシュ人たちだ。ほとんどが建設現場で働く人々で、金満国家ドバイの底辺を支える労働者だ。

この町では出稼ぎ労働者にも階層があるようだ。例えばタクシー運転手はパキスタン人が多い。この国のタクシー労働者は「強気の商売」ができる。タクシー台数より圧倒的に客のほうが多いので、平気で乗車拒否をする。規制緩和でタクシーの車が駅前に列を成す日本とは正反対だ。商売上手なパキスタン人の中には、小金をためて旅行社を立ち上げ、観光客相手に日銭を稼いでいる。下町の定食屋はインド人が多くて、ホテルのボーイはネパール人。最底辺の建設現場はバングラディッシュ人といったところ。

ドバイに宿泊するのは3度目であるが、どうもこの町を好きにはなれない。町では普通に英語が通じるし、インドカレーはうまくて、素敵なバーもある。しかしなぜか腹立たしい。世界一ののっぽビル、「ブルジドバイ」や海に国家を浮かべた「ザ・ワールド」など、どこか「町全体が成金趣味」なのだ。アンマンやダマスカスでは「ドバイで働くのが夢」と言う若者たちが多かった。一攫千金を夢見てドバイで一旗あげようとしているのだろうが、私にはダマスカスやアンマンの町のほうが、ずっと落ち着いていて「風格」を感じる。町の格より、金なのだろうか?

中東ではラマダンが明けたようで、本日から3日ほどはフィトル祭だ。祭りで社会全体が休業している時に、中東へ飛ぶ。通訳たちも家族サービスをしなければならないだろうから、3日ほどはダマスカスかドバイで何もすることなくボーっと過ごさないといけないのかもしれない。

先日ダマスカスでも自爆テロがあった。ダマスカスからの、空港へ行く道とリトルバグダッドへ向かう道との分岐点あたりで、爆発が起こったらしい。被害者には悲しい「フィトル祭」になっているだろう。

またイラクでもテロが多発しており、コレラがはやっているという。電気事情も改善されていないようだ。子どもたちは学校に通えているのだろうか?

そのあたりを取材して、10月下旬には無事帰ってきたいと思う。