2009年3月アーカイブ

イラク版立ち飲みで ブログ用.jpg写真はバグダッド繁華街カラダ地区の立ち飲み。イラクでこのような店が営業できるようになったのは嬉しいニュース。1年前までは、このような「酒を売る堕落した店」は、イスラム原理主義者に襲われていた。

3月12日、いよいよバグダッド取材も今日が最終日。午前中は核・放射線病院を取材し、午後からバグダッドの下町で買い物をしてから、空港へ行く予定。
で、以下は昨日バグダッド版立ち飲みで、インタビューした話。

ムスタファさん(35歳)は、下腹の出た恰幅の良い中年親父だ。イラク人は老けて見える人が多いが、ムスタファさんも実際の年齢よりかなり上に見える。
彼は2003年から米軍に雇われた「アブグレイブ刑務官」だった。
バグダッドからアブグレイブまで移送されるとき、彼は囚人のように、両手を後ろに縛られ、目隠しをされて、アブグレイブ刑務所に連れてこられた。
彼の仕事は、米軍が捕まえてくる「テロリスト容疑者」を、刑務所まで運び入れることだった。

米軍は、捕まえてきた「容疑者」たちを、それぞれ「スンニ派」「シーア派」「アルカイダ」「単なる窃盗集団」に分けて収用した。
囚人たちは裸にされ、尻の穴まで調べられた。
ある日、米軍はわざと、一人のシーア派囚人をスンニ派の房の中へ、逆に一人のスンニ派をシーア派の房の中に入れた。
集団リンチが始まった。それぞれ別の房に入れられたシーア派、スンニ派の囚人は、ぼこぼこに殴られ、息も絶え絶えだった。

「キャッチザファイヤー」(火をつける)。米軍は、わざと、両派が憎みあうように、それぞれの派が対立するように、仕向けたという。
ムスタファさんは、アブグレイブで、スンニの過激派に銃撃された。その傷は今も二の腕に残る。
「アブグレイブでスンニ派囚人を痛めつけたから」狙われたのである。彼はシーア派なのだ。ビールをあおりながら、彼は「スンニ派系アルカイダを許さない」と言う。

もともとイラクで宗派間抗争があったわけではない。スンニ、シーアの争いは、全てアメリカの占領後に始まったことなのだ。米軍はわざと両派が対立するように仕向けた。しかし多くのイラク人はスンニ、シーアの別なく、「俺たちはイラク人だ」と統一を志している。
今後のイラクは、米軍の思惑を超えて、平和統一できるだろうか?
それとも、「復讐」に燃えた一部の過激派が、また内戦を始めるのだろうか?

おそらく紆余曲折を経ながら、少しずつ安定していくのだろう。昨日、そのアブグレイブで自爆攻撃があり、33人の「覚醒評議会」が殺された。「覚醒評議会」はスンニ派の自警団だ。スンニ派地域からアルカイダを追い出した、いわば「ヒーローのような」存在。そんな英雄たちに、テロが襲い掛かる。
治安は一進一退を繰り広げながら、安定に向っている。米軍が撤退し、イラク人に警察権限が完全に委譲されれば、こうしたテロもなくなっていくだろう。
「マリキ?とりあえずGOODだね。テロが少なくなったからね」ムスタファさんは、そういってグリーンのハイネケン缶にチュッと口付けしてみせた。

今日でバグダッドともお別れだ。ただ、午後5時半のスレイマニア行き飛行機が飛んでくれれば、の話だが。
私のホテルには中国人が数人長期滞在している。昨日少し話をすれば、彼らはやはり「石油会社」の社員だった。
イラクに眠る膨大な石油の利権に食い込もうとしている。
わが日本はというと、いわば「周回遅れのランナー」である。先日、ようやくイラク北部のアルビルにJICAが事務所を開設したが、やはり首都バグダッドに出てこなくては、「ビジネス」にならないだろう。

さて、ネットができるのも本日までになる可能性が大。今後スレマニでドバイ行きの飛行機を探し、できるだけ早く帰国しようと考えている。撮影したビデオ30本近く。およそ20時間におよぶ映像を分析しなければならない。

3月21日には「報告集会」を大阪で行う予定なので、関西にお住まいの方は、ぜひ。

うさぎぐちの子ども2ブログ用.jpg 写真の子どもは、「ウサギ口」。同じ症状の子どもたちが、小さな診療所に列を作って診察を待っていた。

3月11日、バグダッドのアーダミーヤ地区にある、「医師のための訓練・教育センター」へ。ここは1964年に建てられた医学生のための学校であるが、戦争後、あまりにもたくさんの障害児が生まれてくるため、特別に診療所が開設されている。
その診療所に入る。母親たちが赤ちゃんを抱えて並んでいる。見れば歯医者で使う医療器具。最初、この人たちは歯の治療にやってきたのかな、と思った。

被害は、私の想像をはるかに上回っていた。

写真で見るように、すべての赤ちゃんが「ウサギ口」なのだ。ウサギ口の赤ちゃんを順番に撮影していく、一人、二人…。合計で8人いた。たまたま入った診療所で、8人ものウサギ口。ウサギ口だけではない、生まれつき歯が生えていない子、指がくっついて生まれてきた子、全身麻痺の子、背骨が曲がって歩けない子…。
「すべて戦争後に生まれた子どもだ。アメリカの武器によるものに間違いない」。ドクターが証言する。「アブソルートリー」。確実だ、と。「ユーレニウム、ユーレニウム」と看護師が叫ぶ。劣化ウラン弾が原因だという。

この子どもたちは、バグダッド、ヒッラ、そして指がくっついている子どもは、ツワイサから。
バグダッド南方に「ツワイサ核施設」というのがあって、フセインは確かにここで核兵器を作ろうとしていた。しかし90年代の国連による経済制裁で、この施設は国連管理下におかれた。だからはじめから、フセインは核兵器を「作りたくても作れなかった」のだ。
イラクに大量破壊兵器がないのは、必然だったのである。

2003年イラク戦争終結直後、警備が手薄になったツワイサ核施設に盗賊団が忍び込む。彼らは、ウランが一杯詰まった「イエローケーキ」を、チグリス川支流に投げ捨てた。
2003年11月に、私はツワイサを訪れ、背中に大きな腫瘍のできた赤ちゃんを撮影したが、その後のツワイサも異常事態が進行しているようだ。

いずれにしても、何らかの手当てをしなければ、多くの子どもたちが死んでしまう。国際社会がイラクを忘れた頃に、本当の悲劇が忍び寄ってきている。

「ウサギ口」の正式な病名を、私はまだ知らない。しかし、日本の医療技術を持ってすれば、この赤ちゃんたちは治癒するのではないか?

バグダッドは以前ほど危険ではない。自衛隊ではなく、医療機関がここに来るべきである。
日本が行うべき人道支援は、間違いなく、こうした医療支援である。

廃油缶で作った難民たちの家ブログ用.jpg 写真は、アル・タジ地区、廃油缶で作られた難民の家

これを書いている今(3月11日)、バグダッドは猛烈な砂嵐に襲われている。ホテルの窓からチグリス川が見えていたのだが、見る見るうちに、視界がさえぎられ、もうまったく何も見えなくなった。この季節は時折砂嵐が吹き荒れるのだが、これほどまでに強烈だとは。
下手に窓を開けると、ビューッという音とともに、砂粒が舞い込む。パソコンのキーボードがザラザラである。
ちょうど6年前の今頃、米英軍は、この砂嵐が収まるのを待ってから侵略していった。その結果、多くの戦争犠牲者が生まれた。
「バグダッドが泣いている」。
ゴーッという音、舞い上がる砂塵。今、激しい怒りとともに、バグダッドは号泣している。

3月9日、バグダッド北方、ティクリートへと向う国道を数キロ走ると、「アル・タジ」地区が現れる。イラクのしきたりに従って、まず「アル・タジ」地区の部族長にあいさつし、撮影許可を得る。この地域では警察や軍よりも、この部族長が実験を握っている。
許可を得て、ごみ処分場へ。

広大な土地に、生ごみが放置されている。羊や牛が生ゴミを食べ、鳥たちがその食べ残しをついばんでいる。強烈な異臭。生ごみのすえた臭いと、ごみを野焼きしたすすの臭い、そして廃プラスティックと廃タイヤ、空き缶空き瓶…。
もし「ダイオキシンセンサー」があれば、ピーピーとアラームが鳴っているだろう。
そんなごみの山の中に、300家族、2千人以上の人々が住んでいる。

ほとんどが貧しいシーア派、この戦争で家を奪われた人々だ。
彼らは主に、南部のバスラ、クート、ナシリーア、サマワから流れ流れてここにやってきている。仕事がないので、ここを「不法占拠」」して、生ごみの山からプラスティック、空き缶などを拾って、生計を立てているのだ。
昨日は何ごみを野焼きした煙によって、2人が中毒死したという。周辺住民は「ごみ処分場を、砂漠に移転させろ」と大規模なデモを計画中。

しかしここに住み着いた難民たちは、生活のために砂漠への移転に反対している。
生きていくための究極の選択。
戦争さえなければ、イラクは豊かな国である。イラク・イラン戦争から、すでに20数年間もずっと戦争を続けているこの国に、「福祉」や「貧困者救済」の施策はない。
「ノーヘルプ、ノージョブ」と難民は訴える。
子どもたちも「ノースクール」。学校に通えないこの子どもたちは、やがて文盲になり、貧困の絶望から、武器を取ったりするのだろうか?

1時間も取材すると、鼻が曲がりそうになる。廃油缶で作った家の中へ。水は国道沿いの商店街から汲んでくる。電気は、この処分場を通る電線から「盗電」している。炊事するための燃料は、生ごみを燃やす。つまり家も、仕事も、燃料も「生ごみから」。
ハエが飛び回り、腐ったごみが異臭を放つ。こんな所に住んでいれば間違いなく、病気になってしまうだろう。
ここでの生活は、もう2年。しかし他の場所に移るつもりはないという。ここなら何がしかのお金が入ってくる。バグダッドの他の場所に移動しても、仕事はない。

これがイラク戦争後6年間の、「一つの姿」である。戦争はすべてを奪っていく。家も、愛する人も、そして人間としての尊厳も。

イラク軍戦車で道路寸断ブログ用.jpg 写真は病院へと向う国道で。米軍戦車とイラク軍戦車が道路を寸断。

3月8日、今日からイサームラシードは大学の授業があるので、友人のウィサームを紹介してもらう。イサームとウィサーム。名前は似ているが、実際の人物はまったく違う。イサームは敬虔なムスリムで、祈りを欠かさず酒も飲まないが、ウィサームはインド系のビジネスマンで、「酒のない人生?シット!人生楽しまなきゃ」という意見。
2人はともに、ニューヨークタイムス、BBCの現地特派員。英語に堪能で、私の取材したいポイントを的確につかみ、うまくコーディネートしてくれる。
実際、海外での取材は「通訳しだい」というところがあって、今回の「バグダッド延長戦」では、ようやく私につきが回ってきたようだ。

ウィサームとイラク厚生省へ。ここでがん病院への取材許可を取る。今のイラク政府のことなので、許可が出るまで数日かかるか、と思ったが、4年前に2回、バグダッドに医薬品を贈ってきた実勢かあるので、すんなり許可証が出た。

厚生省からバグダッド核・放射線病院を目指す。ところが道路が渋滞してまったく進まない。米軍の戦車、イラク軍の戦車が何台も通り過ぎていく。
その日のニュースで知ったが、まさにこの時、イラク警察学校前でオートバイが爆発し、28人もの人々が亡くなるという、今年、最大規模の自爆攻撃があったばかりだったのだ。

1時間半もかかり、核・放射線病院へ。診察は2時までなので、何とか取材に間に合った。
ところがこの病院のセキュリティーを管理する警官が出てきて、「厚生省の許可証だけでは足りない」と言い出す。
ほかの許可証が必要だというのだ。後でわかった話だが、これは嫌がらせだった。
実は、この病院はマリキ政権が直轄で運営しており、アメリカの顔色を伺っている。
「劣化ウラン弾でイラクが汚染されている」ことを、あまり宣伝してほしくないのだ。
「政治的な取材ではない。人道支援だ」と説明するが、そのうちに時間切れ。診察が終了し、病院から追い出される。
5年前にこの病院を訪れたときは、「どうぞ、撮影してくれ」という対応だったのだが…。

仕方がないので、ウィサームとバグダッドの下町で酒屋へ。この酒屋はキリスト教徒が営んでいて、なんと店内でビールが飲める。酒好きのイラク人数人が、奥のカウンターでウィスキーを傾けている。「イラク版立ち飲み」だ。
実際、このカウンターに酒屋の前掛けをした主人がいて、つまみに枝豆でも出されたら、もうここは「パラダイス」なのである。
実際にはイラクでは「食事しながら飲酒する」という習慣が根付いておらず、ただひたすら、ビールを飲む者、ウィスキーをちびちびやる者たちが、アラビア語でなにやらしゃべっているのだが。

私もそんな親父たちに混じってハイネケンをあおる。
「1年前までは、このような店はイスラム原理主義者に襲われていた。ようやくこうして隠れながらでも飲める店ができた。バグダッドにはナイトクラブも復活した。徐々にだが、市民は生活をエンジョイできるようになってきているんだ」。
ウィサームは「行き過ぎたイスラム主義」を警戒する。イラクにはキリスト教徒も無宗教者もいる。そんなマイノリティーの立場も守られるべきなのだ。

指が変形1ブログ用.jpg写真はアフマドさんの一番下の息子。生まれつき指が変形している。劣化ウラン弾の影響か?

3月7日、安宿で朝食のカロリーメイトを食べながら、白髪親父の「講義」を聴く。親父は大学で経済学を学び、イラクやヨーロッパ、日本の歴史を学んだインテリなのだ。
親父の話を聞いていたら、ホテルの玄関、窓越しに米軍の戦車が通り過ぎていく。一台、また一台。思わず「講義」を振り切り、ホテルの中から米軍戦車を撮影。

「隠れて撮れ。米軍は容赦なく撃つぞ」親父が叫ぶ。

米軍が通るときは携帯電話が通じなくなる。路肩爆弾は携帯で操作するので、イラクの携帯会社アジアセルの電波を、米軍は寸断する。
元々電波が弱い上に、時折寸断されるから、なかなか携帯がつながらない。
ようやく、友人でジャーナリストのイサームラシードと連絡がつく。
イサームは私が06年に日本へ招聘し、各地で講演してくれたから、ご存知の方も多いと思う。

午前10時、イサームと面会。
「ニシさん、会えて嬉しいよ。いつも突然来るんだね」
飛行機が飛ばなかったこと、携帯電話がつながらなかったことを説明。
結論から言えば、イサームは素晴らしいジャーナリストだ。ハッサンの場合は、よく言えば「人が良すぎる」、酷評すれば「押しが弱い」。しかしイサームは違う。
「ニシさん、アーダミーヤ地区に案内しようと思うけど、許可証が必要なんだ。でも許可証なんてシット!(くそ喰らえ!)撮りたい現場で撮るのが俺たちの仕事だよ」
ハッサンなら「許可証、必要です」と連れて行かないだろう。

イサームとアーダミーヤ地区へ。
アーダミーヤ地区は住民のほぼすべてがスンニ派で、「フセインの残党がたくさんいる」と、米軍が空爆や銃撃戦で住民を殺しまくった地区である。

アーダミーヤ地区に入ると、とたんに道が悪くなる。米軍がわざわざ舗装道路をはがし、空爆で道路に穴を開け、「テロリストがすぐに逃げ出せないように」した街である。
舗装をはがされたデコボコ道を、タクシーは時速数キロで走る。
「まずは、ここ。避難民の生活を取材して」。
青い鉄の門を開ければ、そこには空爆で破壊され、瓦礫になったコンクリートの山が広がる。その中に灰色のレンガで作られた避難民の家。

ここは元々フセインの「工業省」だった。米軍が破壊し、その敷地に避難民が住み着いている。
避難民たちは米軍に追われてここに住み着いたのではない。シーアの民兵に「殺すぞ」と脅かされたり、実際に家族を殺されたからだ。3月6日、サドルシティーで「俺たちはシーア派だが、スンニ派と協力して米軍を追い出すんだ」と語ったマフディ軍幹部の言葉を思い出す。

アーダミーヤ地区に逃げてきた人々にとって、米軍の空爆は恐ろしいものだったが、内戦はそれ以上、いや、地獄だった。シーア派が多数の地区に住んでいるスンニ派は間違いなく、殺されるか、家を捨て、その地域を出て行くか。
この「工業省」跡地に住み着いた避難民たちは、米軍の空爆とシーア派民兵襲撃、双方に怯えながら暮らしてきた。

息子を失った母親が当時の思い出を語る。母は7人の息子のうち3人を失い、1人は今、米軍によって監獄に入れられている。
上の息子は03年、イラク戦争が始まったとき、米軍との戦闘中に殺された。2番目と3番目は米軍が自宅に押し入ってきたときだ。
米兵たちは息子たちをテロリストと決め付けた。自宅に押し入った米兵たちは、2番目と3番目の息子を銃撃した。2番目の息子は即死だった。3番目の息子は肩を射抜かれ、大量の血を流しながら、母の元へと這い進んできた。米兵は血を流し、這いずり回る息子を踏みつけて絶命させた。
母が3人の息子の写真を見せてくれる。3番目の息子の殺害を語るとき、こらえきれなくなった母は大粒の涙を流し始めた。
私たちにお茶を持ってきてくれた別の家族の母親も泣いている。
イラク戦争が始まって6年経過したが、心の傷は深まるばかりだ。

避難民たちが住む「工業省跡地」を後に、アフマドさん宅へと向う。
アフマドさんはアーダミーヤ地区で日用品を販売している商店主だ。敬虔なムスリムなので、その日もお祈りに向っていた。
祈りに向う人ごみに、自動車爆弾が炸裂。14歳の息子は即死、アフマドさんは左手切断、左足の骨が砕け散るという重傷を負った。
シーア派原理主義者による自爆テロだといわれている。そのテロからすでに2年が経過した。しかしアフマドさんの両足からは今も出血が続く。

殺された息子の写真を手にしたアフマドさんに、「シーア派と米軍、どちらが憎いですか?」とちょっと残酷な質問。
「米軍です。彼らが侵略しなかったら、こんなことにならなかった。根本原因は米軍なのです」。

アフマドさんの一番下の息子。写真で見るように、足の指が先天異常だ。
米軍が空爆を繰り返しているとき、母はこの子を身ごもっていた。強烈な恐怖とウラン弾、化学兵器による環境被害。
担当医師は「戦争が原因だ」と明言しているという。

そんな取材をしているとき、米軍のヘリが低空飛行で飛んできた。アーダミーヤ地区では普通のこと。爆音をとどろかせてヘリが迫る。
「あっつ、今何か撃った!」。ヘリはオレンジ色、白色に光る2発の銃弾を発射したのだ。
「白リン弾と違うの?」とイサームに聞く。
「いや、あれは自衛のためにヘリが撃つフレアだよ」

武装勢力によるミサイル攻撃が怖いので、赤外線で追尾してくるミサイルをそらすためのフレアを放ったのだ。
「戦争はまだ終わっていない」ことを痛感する。

「ニシさん、これを見て」。イサームが指差すのは、アーダミーヤ地区で配られた毛布。
この毛布はイラクボランティアの高遠さんらが援助したもの。毛布を包む袋に「ARIKATO」(ありかと)と書かれている。その毛布がアフマドさん宅に。
ちなみに、「イラクの子どもを救う会」も同様の援助をイサームに続けていて、こちらの毛布には「MAIDO OKINI」(まいど おおきに)と書かれている。
毛布が配られている様子は、私のDVD「ジャーハダ」のラストに出てくるので、まだ観ていない方は、ぜひDVDを観てほしい。

さて、思わぬ形で「バグダッドの延長戦」が始まったが、これは大正解であった。ガザには次回入ればよい。やはりバグダッドの様子を追いかけなければ。
そして何よりもイサームに感謝。アーダミーヤでの取材は、今回の旅の中で、最も印象に残るものとなった。

空港にて ハッサンたちと ブログ用.jpg写真は、左からハッサン、フセイン、モハンマド、アブサラ。バグダッド空港に至る駐車場にて

3月6日、バグダッドのチグリス川に面した「マンスールホテル」の朝。ホテルからの眺めは素晴らしい。チグリス川の対岸には有名なフセイン像が倒されたフィロードス広場があるし、繁華街のカラダ地区付近には背の高いビルが目立つ。しかしこの眺めは「日中のみ」。
電気が来ていないので、夜景は楽しめない。
アブサラはシーア派ムクタダサドル師の幹部に顔が利くので、少々危険だが、午前中はサドルシティーを訪問する。
5年前ここを訪問したときは、米軍とサドルの民兵、マフディ軍が激しい戦闘を繰り返していたところで、あの頃の記憶がよみがえる。5年前の私は「バグダッドの素人」。知らぬが仏、今から考えればかなり無茶して入っている。

サドルシティーの入口に、米軍基地がある。案の定、基地の前は厳重な検問があって大渋滞。この検問がなければ20分ほどで到着するサドルシティーであるが、結局1時間ほどかけて到着。
街のあちこちにサドル師のシンボルカラーである黒い旗がはためいている。5年前は銃撃戦や空爆で殺された人々のお葬式があちこちで営まれていたし、壊された家屋が続いていたのだが、さすがに5年たつとすべて修復されている。

黒服を着たマフディー軍幹部にインタビュー。
「俺たちはシーア派だが、シーアもスンニも団結すべきだ。イラクは一つ。団結して米軍を追い出すんだ」
この人の主張は、まさに正論である。しかし実はこのマフディー軍は、かなりのスンニ派を殺害したとされている。

サドルシティーに入ると、イラク国防軍の姿が消える。私服の民兵が、交通整理をして検問する。
「この人たちね、警官より強いよ。勇敢ね」
ハッサンの言葉通り、マフディー軍は「死を恐れない民兵」として有名だ。
「でも教養がないね。貧しいから。イスラム主義、強すぎます」
そう、酒を売る店、ポルノショップ、果ては携帯電話やパソコン店など「アメリカ的なもの」を売る店などを襲ったのも、実はマフディ軍の一部跳ね上がりだったと言われている。
特にスンニ派の人々にとっては、「米軍より恐ろしい」軍隊なのだ。

サドルシティーからホテルに戻る。午後3時。もうすぐバグダッドともお別れ。今夜7時半の飛行機に乗ってスレイマニアに帰ることになっている。
空港でハッサンたちとお別れ。
「ニシタニさん、どうでした。今回の旅は?」
「うーん、60点くらいかなぁ。子どもたちに出会えてないから」
この時、実は私は迷っていた。すぐにスレイマニアに戻り、アンマンに飛び、カイロに入ってガザを目指さなければ、日程がきつくなる。しかしバグダッドで満足な取材ができたわけではない。
後ろ髪をひかれる思いでバグダッド空港。ハッサンたちと最後の記念撮影。

空港でスレマニ行きの飛行機を待つ。午後7時、8時、9時。ドバイ行き、ストックホルム行きの飛行機が次々と飛んでいく。
「イッツドンキー」。隣で飛行機を待つ人が、イラク航空を評する。そう、2時間3時間遅れは当たり前の飛行機会社なのだ。
午後10時、さすがに待ちくたびれた人たちが騒ぎ出した。いったい何時出るんだ?
10時半、空港にアナウンスが広がる。
「スレイマニア、アルビル行きの飛行機は、キャンセルされました。翌朝7時までお待ちください」。
えっキャンセル?朝まで待てって?さすがにこの時は私も「イッツ、ドンキー」と舌打ちしたが、その後すぐ、
「待てよ、これはチャンスかも。ガザをあきらめて、もう一度バグダッドで取材せよ、ということだろう」。

急いで荷物を取り戻し、空港を出てバグダッドへ向うタクシーを探す。「キャンセルかよ、やれやれ」という表情のイラク人たちに混じって、私だけ思わず笑みがこぼれる。
そんなイラク人と乗り合いタクシーに分乗して、マンスールホテルへと戻る。
午後11時を回ったバグダッドは不気味である。電気が灯らない国道を走り、ホテルへ。
しかしホテルは満室。

夜のバグダッドで、ホテル探しはさすがに危ない。えーい、こうなったらどこでもええわ、と飛び込んだのが、サァドゥーン通りの安宿。
セキュリティーもなく、眼鏡をかけた白髪親父が受付にいて、「一泊だけ?」と尋ねてくる。
最上階の一番端の部屋を借りた。なんとなく安全な気がしたからだ。考えてみれば、夕食も食べていない。しかし外で買い物もできない。
「お湯を沸かしてくれ」。
日本から持参の「どん兵衛」をすする。うまい。きつねうどんがこんなにもうまい料理だったとは。
白髪親父は英語が堪能で、「俺は日本の歴史を研究したよ、ヒロヒトの独裁体制と、ヒットラーと、フセインの類似性とかね」。
かなりインテリ親父だった。
クルド人のボーイに金を渡し、「ビール買ってきてくれ」と頼むと、10分ほどでハイネケンを調達してきた。
えーい、どうにでもなれ、と飛び込んだ安宿だったが、なかなか親切な宿だ。安全上の問題がクリアされ、インターネットが引かれれば、常宿したいくらい。

ということで、私はまだバグダッドにいる。いわば延長戦を闘っている。しかしこの延長戦を選んで正解だった。イラクの子どもたちが、私を待っていてくれたのだ。

ヒッラからバグダッドまでの国道を飛ばす。運転手はハッサンの弟ムハンマド。助手席には「社会民主活動党」ヒッラ責任者のアブサラ、後部座席にハッサンといとこのフセイン、そして私の5人。私たちは全員丸腰なので、できるだけ多くのメンバーが私を囲むようにして、目立たなくしてくれている。

ヒッラを出て2時間が経過。急に検問所の数が増えはじめ、警官と軍人の姿が目立つ。
「ラティフィーヤ」。いつもはのんきなハッサンの声も、少し緊張気味。車内からイラク軍の戦車を隠し撮り。
「ニシタニさん、ダメね。ここはカメラノー」。ハッサンが叫び、アブサラがカメラを下ろせ、とジェスチャー。
国道がコンクリートの壁で遮断され、軍と警察が一台一台車をチェックしていく。

私には一つ気がかりなことがあった。橋田さん殺害現場に花を手向けたいのだ。さっきから国道沿いの花屋を探しているのだが、イラクでは花を売る店は少ない。
ラティフィーヤの検問を過ぎると、小さな商店街が国道沿いに広がっている。
「ハッサン、ここで止まって!あそこで果物を買う」
「ダメダメ。車を止めれば危ないよ」
「いや、花か果物が必要。大丈夫、すぐにすませるから」
とは言ったものの、少し不安。車から降りて買い物をすれば「日本人が乗っている」ということがばれてしまう。しかし不安だが、確信もあった。「イラク人は、もう日本人を狙わないだろう」という確信が。

商店街の前で車を止める。
「ヤッラ、ヤッラ」(早く早く)
小走りに店の前まで進み、店頭に並んでいるみかんを購入。慌て過ぎると逆に不審者と思われるので、急ぎながらも「サラームアライクム」(こんにちは)とあいさつ。
「アライクムサラーム」店番の少年は笑顔で応えてくれる。
よし、みかんをゲットした。あとは数箇所の検問所を無事越えれば現場に到着する。

ラティフィーヤを抜ければすぐにマフムディーヤだ。マフムディーヤの検問を抜けると…。

「ニシタニさん、あそこ、ジャパニーズが殺されたところ」。
現場は白い壁が数十メートル続く、国道筋の商店街だった。
障害物がほとんどない一本道。橋田さんたちの乗ったGMCは、明らかに遠くからでも現認できただろう。
ここなら確実にヒットできる。犯人たちは、この白い門の後ろに隠れていたのだろうか?
車を止めて、商店街の白い門の前にみかんを供える。

しばし黙祷。ご冥福を祈る。

橋田さんたちは、クラスター爆弾で負傷した少年を救おうとしていた。生きておられたら、今頃、そんなイラクの子どもたちの写真集などを出されていたかもしれない。私たちは貴重なジャーナリストを失った。

なぜ武装勢力は2人を襲ったのだろう?米軍の関係者と間違えたのか?
「ハッサン、なぜマフムディーヤの武装勢力は、罪なき日本人を殺害したの?」
「あの頃は誰もがターゲットになっていました。米軍と間違ったのではありません。はじめから外国人を狙っていたのです」。
これはあくまでもハッサンの意見。実はハッサン自身も、もう少し先のユースフィーヤという町で一度身柄を拘束され、2週間ほど監禁されている。
さすがにこの「白い商店街」でインタビューするのは恐怖を感じたので、マフムディーヤを出て、ユースフィーヤの商店街でタイヤ屋の親父にインタビュー。

「日本人2人が殺された事件、覚えてますか?」
「もちろん。あの頃から地元では『なぜ日本人を狙ったんだ』という批判の声が上がっていた。狙うならアメリカ人だよ」
「殺害現場付近の治安は?
「そうだね。2年前は最悪だったが、だんだん良くなっているよ」

橋田さん、小川さんが殺害されて、もうすぐ5年。人々の記憶はだんだんと薄れ、あれほど大きく報道されたイラク戦争も、今ではべた記事扱いだ。
でも私たちは決して忘れてはいけない。この戦争で、イラク人はおそらく100万人以上、米兵は4千人以上、そして5人の日本人が殺されたということを。

あの靴はバカ売れしていますブログ用.jpg 3月5日、今日でヒッラともお別れ。午前中、ヒッラ中心街の靴屋へ。「あの靴」が並んでいるかインタビュー。 「ブッシュくたばれ!」といって靴を投げるまねをすると、「おー!分かったお前のほしい靴はこれだね」と店内奥に山積みされた靴を指差す。

そう、この靴はイラクではバカ売れしていて、ドライバーのモハンマドも実は同じ靴をはいているのだ。
記念に靴を買う。一足15ドル、つまり1500円ほど。以後、私はこの靴をはいて取材している。マフムディーヤでもバグダッドでも「俺もあの靴をはいているよ」と靴を見せると、「GOOD!お前は最高だよ」との反応が返ってくる。スンニ派、シーア派の区別なく、みんなあの事件に大喜びし、靴投げ記者の早期釈放を望んでいる。

靴を購入し、一路バグダッドへと向う。ヒッラからバグダッドまでは通常なら2時間半ほどで着くが、問題は検問の状況だ。
事件があったり、米軍が通過したりすると、長時間にわたって道路が寸断される。
バグダッドの入る手前、「死の三角地帯」と呼ばれる場所が、マフムディーヤ、ラティフィーヤと呼ばれる所。私たち日本人には、橋田さん殺害現場として知られているところだ。
果たして無事通過できるだろうか…。

3月4日、やはり早朝6時にハッサンの自宅を出て、ヒッラ市中心部にあるデモクラティック・ソサエティ・アクティビティース、日本語にするなら「社会民主運動」という名前の政党事務所へ。実はハッサンはこの政党からイラク地方議会選挙に立候補した。
結果は?残念ながら落選だった。

私たちはたくさん得票しました。でも落選。フェイクされたよ」。英語交じりの日本語でフェイク、つまり選挙結果について不正が行われたとハッサンは言うのだが、果たして…。
イラクの選挙は個人を選ぶのではなく、政党を選ぶ。そしてその政党の候補者名簿一位から得票に応じて順次当選者が決定する。

ハッサンは「社会民主運動」党の、順位一位の候補者だった。日本とのつながりがあり、日本からの支援を、貧しい人々に分配してきた実績が、順位一位に押し上げたようだ。
「社会民主運動」ヒッラ本部責任者の、アブサラ氏が敗戦の弁を語る。
「私たちはこの選挙に取り組むのが遅かった。資金も少なく、選挙宣伝も十分できなかった。しかし私たちは貧しい人々を救済してきた。ヒッラ市ではかなりの支持を広げた。しかし他のイスラム政党に勝つには至らなかった。次回(4年後)奮闘したい」。

日本で言えばハッサンは「無所属市民派」だったわけだ。この選挙で勝利したのは、1位はマリキ首相のグループ。2位はハキーム氏率いるイランの影響を受けたシーア派グループ。3位は反米強硬派で有名なモクタダ・サダル氏のグループだった。
日本でもそうだが、イラクでも「組織が強力な」政党が勝利したといえる。

さて、そのアブサラ氏の紹介でヒッラ女性子ども病院へ。ここヒッラでもがん患者が急増している。また原因不明の「今まで見たことのない」ような症例の子どもも多くいるという。「ぜひ、その子どもたちを撮影させてほしい」と依頼するが、この病院には放射線治療ができる機械がないので、それらの「アブノーマルな」子どもたちはバグダッドの病院へ行くそうだ。
2003年バグダッドの「核・放射線病院」で出会った、首が異常に膨れ上がった9歳の少年を思い出す。彼はこのヒッラ出身だった。

午後からは、かつての激戦地カルバラをめざす。カルバラのチェックポイントは難なく通過。止められるのはサマワだけ。
カルバラ子ども病院へ。医師は、この数年異常にがん患者が増えている、と言うが、やはりカルバラにもがん治療できる医療器械がなく、子どもたちはバスラかバグダッドの病院で入院している。
「カルバラは米軍のすさまじい空爆を受けた。戦争後、急激にがん患者が増えた」とはカルバラ子ども病院の医師。
証言を得ることができても、肝心の患者がいない。バグダッドの病院で取材するしかないのだろう。

カルバラからの帰路、ユーフラテス川のほとりにかつてのフセインの宮殿が建っている。ここは米軍の空爆を免れ、今は難民が住み着いている。宮殿のそばには、かつてフセインに仕えた人々の「社宅」があり、今やその「社宅」にも難民が住んでいる。「社宅」といってもユーフラテス川沿いに建てられた掘っ立て小屋だが。
「社宅」に住み着いたハリルさんにインタビュー。
「フセイン時代はヒッラ市の安アパートに住んでいた。ここなら家賃が要らないのでフセイン崩壊後の2003年に移り住んだんだ」

ハリルさんは、イランイラク戦争の際、フセインの兵士として戦った。その時イラン側からの銃撃で足を負傷した。
2006年には米兵の狙撃を受け、銃弾が彼の肩を貫通した。2度の銃撃を受けながらも彼は歩行障害もなく元気に生活している。身体は大丈夫なのだが、仕事がない。イラク政府から、「この社宅から出て行くように」との勧告を受けている。しかしお金がないので住むところがない。4人の子どもを抱えるハリルさん。電気もきれいな水も不足しているが仕事がないというのが一番の悩みの種だ。

本日もかなりの距離を移動したが、無事ハッサンの自宅に帰りついた。夕食中、停電。真っ暗な部屋での食事。イラクではこのような生活が6年も続いている。

サマワのチェックポイントで隠し撮りブログ用.jpg 写真はサマワのチョックポイントを隠し撮りしたもの。

3月3日午前5時、ハッサンの自宅を抜け出し2台の車でサマワへと向う。なぜこのような早朝から出発するかというと、①近所の人々に私の姿を見られたくない。②早朝はチョックポイントが甘い、からである。
ヒッラのチェックポイントは、ハッサンと警官が知り合い同士、難なく通過。
2時間ほどのドライブで、ディワニーヤ州の入口。ここにくるまでチェックポイントは20箇所ほど通過している。
しかしディワニーヤは様子が違う。数人の警官が車を取り囲み、
「何で日本人が乗っている」
「俺たちはサマワの病院を支援するためにやってきた。悪意はない」
「しかしビザがないじゃないか」
「いやビザではなく、スレイマニアで住民登録している。これを見ろ」
ちょっとした騒ぎとなった。イラクではよくあることだ。「しかしビザがないので上司に確認せねばならない」。警官数人とハッサンが、チェックポイントそばの事務所へ。

待つこと30分、やがてこの地区の責任者とハッサンが現れ、「すまなかった。ディワニーヤへようこそ。日本人、ウエルカムだ」。地区責任者と堅く握手。サマワだけでなく、ディワニーヤにも泊まっていってくれ、とまで言われる始末。
サマワはかつてディワニーヤ州の一部だった。近年になって分離し、サマワ州となった。つまりサマワまでもうすぐ、あと一時間ほどのところ。
巨大な米軍基地が現れた。「ディワニーヤ米軍基地」とハッサン。当然チェックポイントが数箇所あり、そのたびに車を止められ検査を受けるが、すべてパス。米軍基地の上空を無人の飛行船が飛んでいる。バグダッドでも見たが、米軍はこの無人飛行船で24時間市民生活を監視している。

午前9時、いよいよサマワへの入口。「サラームアライクム(おはよう)」これまでのように通過しようとすると、
「日本人だな。通行許可証は?」
「通行許可?そんなものは要らないはずだ」
「何をしにきた」
「病院視察と援助物資の配布だ」
「お前たちは政府に反対の立場か?賛成の立場か?」
「いや、政治的なものではない。人道支援だ」
やはりちょっとした騒ぎになった。ハッサンと2人でしばらく尋問を受けるが、結局サマワ警察本部まで連行されることになった。

サマワ警察本部はユーフラテス川を渡った街の南側、繁華街を越えたところにある。
取調室で2人の警官が繰り返し、訪問の目的をたずねては、なにやら携帯で電話をかけている。その間約一時間。
やがて「大変残念だが、お前たちをサマワに入れることはできない。さっきのチェックポイントまで戻ってもらう」。
えっ何で?ハッサンが猛烈にアラビア語で抗議している。しかし決定は覆らない。
「特別の許可証が必要だ」の一点張り。もし無視して入ったら監獄行きだ、とも。

後日、私はサマワより激戦地であるカルバラ、マフムディーヤにも入ることができたのだが、なぜかサマワだけは入れない。「特別許可証をどこで取ればいいのか」についても回答がない。なにしろ「許可証が必要」なのだ。
おそらく「許可証」はイラク政府内務省が出すのだろう。「許可証」を求めに行けば、内務省は日本のしかるべき公的機関(つまり政府)の推薦状を求めるだろう。
政府(イラク?日本?)のお墨付きを得た人物しか、サマワを訪問できない。
今回の旅で、入れなかった都市はこのサマワとファルージャ、モスルだけ。ファルージャ、モスルは文句なく危険なので、安全上無理である。サマワは「安全とは別の理由で」入市困難都市なのだ。

イラク戦争から6年目。この6年を総括する一つに、「日本の支援はいかにあるべきか」を検証することが欠かせない。サマワ警察の人々は、口々に「日本が好きだ」「自衛隊は良くやってくれた」と証言する。ならば、なぜ入れない?
見せたくないもの、があるのだろうか?サマワ警察だけ「特別に警戒心の強い」警察なのだろうか?
イラクには自衛隊を評価する人もいれば、否定する人もいる。評価する人に尋ねる。「あなたはなぜ日本軍(自衛隊といっても理解しない)が好きなの?」
「日本軍は誰も殺さなかったじゃないか、素晴らしいことだよ」。
つまり「米軍やイギリス軍に比べて殺さなかったからマシ」という評価なのだ。
日本の平和憲法の制約があり、自衛隊が直接戦闘行為を行わなかったからこそ、勝ち取れた評価。あらためて9条の値打ちを感じるのは私だけだろうか?
それにしても「殺さなかったからグッド」ということは、裏を返すと、それだけ米英軍の殺人行為がひどかったということだ。イラクでは「殺さなかった」という当たり前のことが評価の対象になるのだ。

昨日、バグダッドから「朝日放送ムーブ!」に電話で生出演したが、やはりイラクの携帯は聞き取りにくく、言いたいことが伝わったかどうか…。

さて、まだ私はバグダッドにいる。これを書いている今も、上空では米軍のヘリが飛びまわり轟音を響かせている。
宿泊している「マンスールホテル」には無線ランがあって、部屋でインターネットができる。街のネットカフェには安全上行けないのだが、ホテルでブログを更新できるようになったのは嬉しいことだ。
で、この間の行動、つまり「どのようにバグダッドに入り、以下、どうしているのか」について、順次アップしていきたい。しかしイラクのネット環境は最悪。常に停電するし、米軍の意向で通信がカットされる場合もある。そんなことで、できる限り最新情報をアップしていくが、うまくいかない場合はご容赦願いたい。
で、一回目は3月2日の状況。スレイマニアからバグダッドを経て、ヒッラに入った。

3月2日(月)、2枚の顔写真とパスポートを持って、スレイマニア市役所へ。今日はここで「外国人登録」をする。なぜこのようなことをするかというと、バグダッドへ入るためである。
①私にはクルド政府のビザしかない。②バグダッドへ入るには、イラク中央政府(マリキ政権)のビザが必要。③そのビザは、なぜか日本人には出にくい。④そこで「スレイマニア住民」になれば、同じイラク国内なのでバグダッドにビザなしで入れる。
まぁこのような「裏の手」を使用した。つまり今回、私は「旅行者」ではなく「住民」としてバグダッドに入ったわけだ。

外国人登録の列に並んでいるのは、私以外、ほとんどが出稼ぎのイラン人かトルコ人。石油の出るクルドに、仕事を求めてやってきた人たちだ。
日本で外国人登録をする場合、指紋を押捺して外国人登録証を作ることになるのだが、ここイラクでは指紋の代わりに「エイズ検査」が必要。
フセイン時代、国民の間にエイズが蔓延することを恐れた政府は、ビザ発給の際などに「HIV陰性であること」を求めていて、その伝統がフセイン政権崩壊後も続いている。
はるか異国の地で、トルコ人やイラン人に混じって、血液検査を受ける。

わずかタタミ一畳ほどの薄暗い市役所の一室。「おいおい、その注射針は大丈夫なんやろな」。逆に変な病気をもらわないか心配になる。1万ディナール(約900円)を支払って、順番を待つ。私の直前で、ベテランの医師から見習い風の女性看護師に交代。見習い風女性看護師は、イラン親父の太い右腕に注射しては失敗している。
「おいおい、さっきのベテラン医師に交代してくれよ」。注射針を刺されては抜かれているイラン親父と目で合図。私の番が来た。「日本人?珍しいわね」ニッコリあいさつされるも、こちらはこわばった微笑を返すのみ。
イラン親父で慣れたのか、私は一回で無事検査終了。良かった、ちゃんと注射針が刺さってくれて!見に覚えはないのだが、ここで「陽性!」なんてことになると、2重の意味でショックだ。あぁ俺はエイズなのか!というショックと、バグダッドに入れないではないか!というショック。幸いにして陰性。(当たり前だが結果出るまで不安)煩雑な手続きを経て、晴れて外国人登録完了。
手続き完了が午後1時半、すぐに航空券を手配し、バグダッドへのフライトが午後4時。われながら素晴らしい早業で、バグダッドへの機上の人となる。

わずか一時間のフライトでバグダッド空港着。民間軍事会社に雇われたと見られるインド系労働者の群れが、防弾チョッキを着て、座っている。これから米軍基地ででも働くのだろうか?
空港を出てタクシーを捜す。一般の空港なら「タクシー乗り場」があって、「00ツアー」「××旅行社」の旗がはためいているところだが、ここは皆無。客は地元住民と民間軍事会社の社員と、私のような「ちょっといかれた」ジャーナリストだけ。地元住民は迎えの車が来ているし、民間軍事会社の社員は会社の車で目的地に向う。かくして私一人がぽつんと空港に残る。

誰もいなくなった空港ロビーで、さてどうしたものかと思案していると、やはり民間軍事会社に雇われたと見られる警備員が、「タクシーはない。こいつの車に乗れ」。聞けばこの警備員はコソボ出身。戦争に慣れているからここに来たのだろうか?
がらんとした空港に、居残っているのはコソボ出身の警備員に、素性の知れない白タクの運転手と私だけ。空港を出るには、こいつらに頼むしかない。
あまり大きな金額を提示すると金を持っていると思われるし、少なすぎると行ってくれないかもしれない。微妙な線で30ドルを提示。
白タク運転手はバグダッドの青年。空港を出て猛スピードですっ飛ばす。途中数か所の検問所をパスし、通訳のハッサンが待つビルまで無事到着。

「ニシタニさん、よく来たね。夜になったので心配したよ」。
ハッサンとその兄弟・友人、合計6人が車2台で待機してくれていた。前の車を護衛に使って、私は後ろに車に。一路、ハッサンの故郷、イラク中部の都市ヒッラを目指す。
「ヒッラまで20以上チョックポイントあるよ。ちょっと危険けど、大丈夫ね」。ハッサンが日本語で説明してくれる。ハッサンは岐阜大学の留学生だったので、少し日本語がしゃべれるのだ。

ヒッラまでの国道を飛ばす。途中、激戦地のラティフィーヤ、マフムディーヤを通過。橋田さん、小川さんが殺害された現場だ。漆黒の闇。電気が来ていないため、家があるのか森なのか分からない。(後日この現場を訪れることになる)
「ここ、ちょっと危険。電気ないでしょ」
のんびりした日本語とは裏腹に、緊張のチョックポイント。チェックポイント数十メートル前からヘッドライトを消灯し、ハザードランプを点灯させて、車内灯を点ける。チェックポイントで待つ兵士に「俺たちはテロリストではないですよ」と顔を認識させるのだ。
「サラームアレイクム」(こんばんは)と、車内全員が手を挙げてあいさつ。
「俺たちは味方だ」と表現しないと、面倒なことになる。
こうしたチェックポイントがマフムディーヤ付近だけで10数箇所。緊張のマフムディーヤを越えれば、あとのチェックポイントは、それぞれの街の入り口だけ。
午後8時過ぎ、ようやくハッサンの自宅に到着。前の車が先に門を開けて、私は車から降りずに自宅に入る。
「ニシタニさん来てるの、ヒミツね。安全、一番ね」。

ハッサンの自宅で歓迎会。遅い夕食を食べていたら、オギャー、オギャーと泣き声がする。
「えっハッサン、赤ちゃんいるの?」
「そう、結婚してね、12月に生まれました」
「イラク選挙に立候補したニュースは伝えてくれたのに、結婚して子どもまでできているなんてニュースは伝えてくれなかったやないの」
「すいません。ちょっと恥ずかしい、でした」
見れば元気そうな男の子。マブルーク!(おめでとう)。イラク激戦地訪問初日は、いろんな意味で祝いの会で始まったのだった。

3月2日から、バグダッド、ヒッラ、カルバラ、マフムディーヤという激戦地を回っているため、ブログ更新できませんでした。
本日午後4時過ぎに、朝日放送ムーブ!に電話で生出演します。ムーブ!は本日が最終回。番組がなくなってしまうのは大変残念です。昨日は橋田さん、小川さんが殺害された現場に、みかんをお供えして来ました。
貴重なジャーナリストを失った悲しみと、一歩間違えれば私もそうなった可能性があるわけで、決して他人事ではないという怒りと。
そしてバグダッドは壁だらけ。米軍の不気味な無人飛行船が飛び回っています。
携帯の電波が弱いので、ちゃんと日本のみなさんに電話でお伝えできるか、が気がかりです。
あと4時間ほどで本番です。頑張りますので、このブログに気づかれたみなさん、チャンネルは6番です。

東芝の扇風機とキャンプの子ども ブログ用.jpg 3月1日、月が変わったがここスレイマニアでも小雨交じりの寒い冬が続いている。イラクというと灼熱の砂漠を思い浮かべるが、クルド人地域はイラクの最も北部に位置し、なおかつ山に囲まれているので、結構寒いのだ。

しかしこの寒い冬もそう長くは続かない。4月になれば徐々に気温が上がり、6月にもなれば酷暑の夏が待っている。
ということで、転ばぬ先の杖、カラア避難民キャンプの人々に、扇風機を配布した。

「TOUSHEIBA」なる扇風機70台を積んだトラックがやってくる。雨にもかかわらず避難民たちは、トラックの周りに我先にやってきて、「おい、俺が先だ」「私が先に並んでいたのよ」などと配布が始まる前にちょっとしたパニックに。
通訳のファラドーンがリストに載った名前を読み上げていく。嬉しそうに扇風機を受け取る避難民たち。今回もその笑顔に出会えて、ここまで来た甲斐があったと感じる。

イラク戦争から6年、このキャンプができて4年、いつまでこのような支援を続けなければならないのだろう。この人たちが、バグダッドへ帰還できる日が、早くやってきますように。

皮膚がんの子ども ブログ用.jpg 写真の子どもは半年前に皮膚がんになった。スレイマニアのがん専門病院で出会った子どもだ。

現在1歳半。イラク・ティクリートというフセインの故郷出身。米軍はフセイン捕獲作戦と武装勢力一掃のために、このティクリートでもたくさんの劣化ウラン弾を使用したと思われる。

この子は1歳半にして皮膚がんなのだが、普通日本では、1歳半で皮膚がんの子どもは非常に珍しいのでは?

ここイラクでは、このような子どもがたくさん入院している。これは果たして偶然なのか?
医師も、薬剤師も、母親も「戦争が原因だと思う」と証言する。
私はティクリートにはまだ行ったことがない。フセインが隠れていた穴のあった町としか知らない。

マズメディアは、あの穴と捕まったフセインを繰り返し報道したが、この子どもは報道していない。本当に深刻で、報道すべきなのは、フセインの見つかった穴ではなくて、このような子どもの実態ではないのか。

恐ろしい事態が進行している、現場では。