イサーム・ラシードと激戦地アーダミーヤ地区へ

指が変形1ブログ用.jpg写真はアフマドさんの一番下の息子。生まれつき指が変形している。劣化ウラン弾の影響か?

3月7日、安宿で朝食のカロリーメイトを食べながら、白髪親父の「講義」を聴く。親父は大学で経済学を学び、イラクやヨーロッパ、日本の歴史を学んだインテリなのだ。
親父の話を聞いていたら、ホテルの玄関、窓越しに米軍の戦車が通り過ぎていく。一台、また一台。思わず「講義」を振り切り、ホテルの中から米軍戦車を撮影。

「隠れて撮れ。米軍は容赦なく撃つぞ」親父が叫ぶ。

米軍が通るときは携帯電話が通じなくなる。路肩爆弾は携帯で操作するので、イラクの携帯会社アジアセルの電波を、米軍は寸断する。
元々電波が弱い上に、時折寸断されるから、なかなか携帯がつながらない。
ようやく、友人でジャーナリストのイサームラシードと連絡がつく。
イサームは私が06年に日本へ招聘し、各地で講演してくれたから、ご存知の方も多いと思う。

午前10時、イサームと面会。
「ニシさん、会えて嬉しいよ。いつも突然来るんだね」
飛行機が飛ばなかったこと、携帯電話がつながらなかったことを説明。
結論から言えば、イサームは素晴らしいジャーナリストだ。ハッサンの場合は、よく言えば「人が良すぎる」、酷評すれば「押しが弱い」。しかしイサームは違う。
「ニシさん、アーダミーヤ地区に案内しようと思うけど、許可証が必要なんだ。でも許可証なんてシット!(くそ喰らえ!)撮りたい現場で撮るのが俺たちの仕事だよ」
ハッサンなら「許可証、必要です」と連れて行かないだろう。

イサームとアーダミーヤ地区へ。
アーダミーヤ地区は住民のほぼすべてがスンニ派で、「フセインの残党がたくさんいる」と、米軍が空爆や銃撃戦で住民を殺しまくった地区である。

アーダミーヤ地区に入ると、とたんに道が悪くなる。米軍がわざわざ舗装道路をはがし、空爆で道路に穴を開け、「テロリストがすぐに逃げ出せないように」した街である。
舗装をはがされたデコボコ道を、タクシーは時速数キロで走る。
「まずは、ここ。避難民の生活を取材して」。
青い鉄の門を開ければ、そこには空爆で破壊され、瓦礫になったコンクリートの山が広がる。その中に灰色のレンガで作られた避難民の家。

ここは元々フセインの「工業省」だった。米軍が破壊し、その敷地に避難民が住み着いている。
避難民たちは米軍に追われてここに住み着いたのではない。シーアの民兵に「殺すぞ」と脅かされたり、実際に家族を殺されたからだ。3月6日、サドルシティーで「俺たちはシーア派だが、スンニ派と協力して米軍を追い出すんだ」と語ったマフディ軍幹部の言葉を思い出す。

アーダミーヤ地区に逃げてきた人々にとって、米軍の空爆は恐ろしいものだったが、内戦はそれ以上、いや、地獄だった。シーア派が多数の地区に住んでいるスンニ派は間違いなく、殺されるか、家を捨て、その地域を出て行くか。
この「工業省」跡地に住み着いた避難民たちは、米軍の空爆とシーア派民兵襲撃、双方に怯えながら暮らしてきた。

息子を失った母親が当時の思い出を語る。母は7人の息子のうち3人を失い、1人は今、米軍によって監獄に入れられている。
上の息子は03年、イラク戦争が始まったとき、米軍との戦闘中に殺された。2番目と3番目は米軍が自宅に押し入ってきたときだ。
米兵たちは息子たちをテロリストと決め付けた。自宅に押し入った米兵たちは、2番目と3番目の息子を銃撃した。2番目の息子は即死だった。3番目の息子は肩を射抜かれ、大量の血を流しながら、母の元へと這い進んできた。米兵は血を流し、這いずり回る息子を踏みつけて絶命させた。
母が3人の息子の写真を見せてくれる。3番目の息子の殺害を語るとき、こらえきれなくなった母は大粒の涙を流し始めた。
私たちにお茶を持ってきてくれた別の家族の母親も泣いている。
イラク戦争が始まって6年経過したが、心の傷は深まるばかりだ。

避難民たちが住む「工業省跡地」を後に、アフマドさん宅へと向う。
アフマドさんはアーダミーヤ地区で日用品を販売している商店主だ。敬虔なムスリムなので、その日もお祈りに向っていた。
祈りに向う人ごみに、自動車爆弾が炸裂。14歳の息子は即死、アフマドさんは左手切断、左足の骨が砕け散るという重傷を負った。
シーア派原理主義者による自爆テロだといわれている。そのテロからすでに2年が経過した。しかしアフマドさんの両足からは今も出血が続く。

殺された息子の写真を手にしたアフマドさんに、「シーア派と米軍、どちらが憎いですか?」とちょっと残酷な質問。
「米軍です。彼らが侵略しなかったら、こんなことにならなかった。根本原因は米軍なのです」。

アフマドさんの一番下の息子。写真で見るように、足の指が先天異常だ。
米軍が空爆を繰り返しているとき、母はこの子を身ごもっていた。強烈な恐怖とウラン弾、化学兵器による環境被害。
担当医師は「戦争が原因だ」と明言しているという。

そんな取材をしているとき、米軍のヘリが低空飛行で飛んできた。アーダミーヤ地区では普通のこと。爆音をとどろかせてヘリが迫る。
「あっつ、今何か撃った!」。ヘリはオレンジ色、白色に光る2発の銃弾を発射したのだ。
「白リン弾と違うの?」とイサームに聞く。
「いや、あれは自衛のためにヘリが撃つフレアだよ」

武装勢力によるミサイル攻撃が怖いので、赤外線で追尾してくるミサイルをそらすためのフレアを放ったのだ。
「戦争はまだ終わっていない」ことを痛感する。

「ニシさん、これを見て」。イサームが指差すのは、アーダミーヤ地区で配られた毛布。
この毛布はイラクボランティアの高遠さんらが援助したもの。毛布を包む袋に「ARIKATO」(ありかと)と書かれている。その毛布がアフマドさん宅に。
ちなみに、「イラクの子どもを救う会」も同様の援助をイサームに続けていて、こちらの毛布には「MAIDO OKINI」(まいど おおきに)と書かれている。
毛布が配られている様子は、私のDVD「ジャーハダ」のラストに出てくるので、まだ観ていない方は、ぜひDVDを観てほしい。

さて、思わぬ形で「バグダッドの延長戦」が始まったが、これは大正解であった。ガザには次回入ればよい。やはりバグダッドの様子を追いかけなければ。
そして何よりもイサームに感謝。アーダミーヤでの取材は、今回の旅の中で、最も印象に残るものとなった。

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このページは、nishitaniが2009年3月10日 05:05に書いたブログ記事です。

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