2009年6月アーカイブ

今回の旅を振り返ってみる。まずアフガンへは8年ぶりだったので、まずは優秀な通訳とドライバー、安心して宿泊できるホテルを探さねばならなかった。旅の最後に、そうしたスタッフを確保できたのは、収穫だった。

カブールには入れるだろうと感じていたが、バーミヤンまで行けたのはラッキーだった。バーミヤンは治安が安定していて、むしろカブールのほうが危ないことが分かった。
カブール郊外のモジリーン避難民キャンプで出会った避難民たちの話によれば、米軍はかなりの頻度で空爆を行っている。村人たちは米軍の空爆と、それに反撃するタリバンの攻撃にさらされ、家を奪われ、家族を殺され続けている。

おそらくあの避難民キャンプから「ニュータリバン」が出てくるだろう。父や息子を殺され、人生に絶望したとき、最後に爆弾を体に巻きつけて、ISAFやアフガン軍に突っ込む人々が現れても不思議ではない。

タリバンとは何か? アルカイダの実態がつかめないように、今やタリバンはかつて01年までアフガンを実行していたタリバンではなく、戦闘にさらされた無数の村から、出現し始めている「武装集団」が、「ニュータリバン」だ。

イラクでもそうだったが、「テロとの戦い」は、新たな、それも以前より多数のテロリストを生み出してしまう。「テロリストが村に紛れ込んだ」「テロリストは小学校に隠れている」などの情報があれば、米軍は周辺を容赦なく爆撃していく。これでは1人のテロリストを殺すのに、10人の民間人が巻き添えになる。やがて巻き添えになった10人の家族の中から新たなテロリストが生まれる…。

テロ行為に対しては、警察力で臨むべきである。ブッシュのように無謀な戦争をすれば、それは武器を大量に消費するだけで、テロリストを根絶させることはできない。

オバマ大統領は「イスラムとの対話」を言う。現在のイランにも基本的に冷静に対応していると思う。ブッシュとは違い、その点は評価できる。
しかし同じ人物が、アフガンでは「テロとの戦い」を続けていくのだ。いや、続けるというより「より強行に戦う」つもりのようだ。

北風と太陽。イラク&イランには太陽で、アフガン・パキスタンへは北風。この矛盾をどう見る?

残念ながらここではまだ結論は出ない。ただ日米欧はいまや未曾有の経済危機である。「仕事があるなら軍需工場でも働かざるを得ない」「武器であろうが、宇宙兵器であろうが、輸出して経済を活性化させれば良い」などの意見も出てくるだろう。
日本のように格差が広がると、自衛隊が魅力ある職場に見えてくる。年金、健保、ボーナス完備。
米国の軍産複合体と、その株式を操る金融資本にとって、やはり「テロとの戦い」は続けていかねばならない。

オバマ大統領の評価は難しい。マイノリティである黒人、イラク戦争に反対する姿勢、原爆使用の責任を認める…。それでいて現在の戦争は続けていく。
オバマではなく「オバマ政権」として見ると、ヒラリーは軍産複合体から献金をもらっているし、ゲーツ国防長官はブッシュ時代からの横滑り。ガイトナー財務長官は、もっとも「サブプライムをあおった男」なのだ。

またアフガンの将来を展望することも、やはり難しい。8月に行われる大統領選挙では、おそらくカルザイが再選される。再選されてもイランのように混乱はしないだろう。選挙結果では混乱しないが、戦争は続く。

やはりたった2回のアフガン入りでは、まだまだ見えてこないものが多い。できるだけ早い機会に、またカブールを訪れることにしよう。モジリーン避難民キャンプが、そのときどうなっているか?イラクではようやく難民たちがバグダッドなどへ戻り始めている。さてアフガンはどうなるのだろうか?

このブログを3日ほど更新していなかったので、「あいつ拘束されたんと違うか?」「どこにいるんやろ?」とご心配をおかけしたかもしれない。

私はカブールから無事帰国し、現在「テレビ朝日に拉致され」ている(笑)。

明日25日の木曜日に「アフガン特集」を組んでいただくので、その映像編集にかかっている。60分テープを全部で13本回したので、その映像をプレビューし、ダリ語を翻訳してもらい、10分程度の番組を作る。
今回の取材の山場は、カブール郊外のモジュリーン避難民キャンプとカブール市内での障害者デモ、そしてバーミヤンの地雷撤去だ。テレビではなかなか報道されないアフガン民衆の生活の様子、戦争の傷跡などをみなさんの元に届けることができれば、と思う。

それと同時にオバマ大統領が「テロとの戦い」をストップさせて、「イスラムとの対話」を進めてもらえるような世論作りに貢献できれば、と感じる。

明日夜10時過ぎ、「報道ステーション」で。よろしければ観てやってください。

難民キャンプに食料を配る ブログ用.jpg

6月19日(金)、今日はカブール郊外の難民キャンプを再訪する。今日からの通訳はアブドッラーに交代。先日までの通訳オスマンの英語が分かりにくく、正確を期すためにアブドッラーを採用。彼はカブールに住んでいたが1990年代の内戦でカブールは戦場と化し、パキスタンに逃げた。イスラマバードで英語を覚え、カナダ系企業で働いてきた人物。カブールに来て10日目にしてようやく優秀な通訳に巡り会った。

アブドッラーの運転で「モジュリーン避難民キャンプ」へ。
先日訪問しているので、多くの人々が私を覚えていて、「金をくれ」と迫ってくる。
「まぁ待て待て、もう少し生活の様子を見せてくれ」とテントや泥でできた家を回っていく。地面にパンくずが落ちていて、そのパンくずにハエがたかっている。子どもがそのパンくずを集めて食べるまねをする。
「この子たちは今日の昼食もない。あのパンを食べるしかないんだ」。アブドッラーは淡々と語る。小さなテントがある。テントの前で男性がなにやら訴える。「このテントに14人寝ているそうだ」。たたみ8畳ほどの小さなテント。地面に一枚絨毯が敷いてあるだけ。ここに14人寝ているとは…。

電気はなく、水は井戸から。「トイレは?トイレはどうしているの?」。
「このキャンプにトイレはない。トイレはあそこだ」。アブドッラーが指差したのは、国道を挟んだ山腹。その山では羊が草を食べている。人間のウンチも羊たちが処理するのだろうか?アフガンでは女性は人前で顔をさらすことすら恥らう。女性が外で用を足すのは、(どこの国でもそうだが)非常に恥ずかしいことに違いない。「女性が用を足すときは、子どもたちが一緒についていって人垣を作り、女性たちはその中で用を足すんだ」。

取材を続けていくと、私たちの周りに大勢の人々が集まってきて、「金をくれ」「食べ物を恵んでくれ」と、パニックになりかける。
「分かった、分かった。金ではなく、食料を配るからここで待っていてくれ」。とその場を逃げ出す。お金は少数の人々にしか行渡らないし、そのお金をめぐってまた争うのは目に見えている。ここはいったん町へ出て、パンや米を買ってこよう。

カブールの下町で米、パン、食用油、野菜、お茶の葉、砂糖を買い出す。軽トラックに食料をつめ込み、再度キャンプに舞い戻る。
「おーっ、食料が来た」。どんどん集まってくる難民たち。またもや食料の分配をめぐってパニックになりかけるが、アブドッラーが必死の形相で整列させる。
「サンキュー、ジャパン!」子どもたちが笑顔でお礼を言ってくれる。まずは良かった。明日は世界難民の日。このキャンプの難民たちには国際援助はおろか、アフガン政府からの援助もない。世界にはこのような人々がたくさんいる。
このブログを書いているのは現地時間の午後8時半。今頃、あのテントの中で、パンや野菜を食べながら家族で団欒してくれているだろうか…。


6月18日(木)午前8時、バーミヤンの市場で普通の人々の暮らしぶりを取材。雑貨屋の店主、靴の修理屋などが通りに座って客引きをしているが、彼らは障害者である。

靴の修理屋さんは、昨日取材した「シャーリ・ゴルゴラ」付近で羊を追っているときに、地雷を踏んだ。病院で右足を切断。左足は切断しなくてもすんだのだが、傷跡が腐りだして、やはり切断した。両足ともに義足となった。

羊飼いとして生きていくことができないので、靴修理の技術を独学で学び、こうして大通りに座っている。収入は一日200アフガニー。(400円程度)

大きなズタ袋を抱えた子どもたちがいる。「学校は?」と聞くと、「午後から」との返事。学校のキャパシティに比べて、子どもの数が多いので、午前・午後授業なのだ。
ズタ袋の中を見れば、ダンボール紙が数枚。「リサイクルに出すの?」との質問に「燃料だよ」。こちらでは電気はもちろんガスもないので、調理にこのダンボールを燃やすのだ。9歳、7歳、6歳の兄弟たち。ハザラ人なので、顔は日本人と似ている。

9時、バーミヤン空港へ。「バリバリバリ」という轟音とともに、ISAFのヘリが数機やってきた。カブールから要人を運んできたのだ。
わっと子どもたちがヘリに集まる。ヘリに乗っていた兵士たちが、子どもたちに何か投げている。投げられた地点に、わっと集まる子どもたち。おそらくキャンディーか何かだろう。「ギブミーチョコレート」。終戦直後の日本もこんな感じだったのだろうか?

10時、定刻どおり国連機が飛んだ。バーミヤンからカブールまではわずか30分程度なのだが、この飛行機も「逆周り」。バーミヤンからヘラート、ヘラートからカンダハール、そしてカンダハールからカブールへと戻る。
「ついてへんなぁー」思わずため息。所要時間6時間。ようやくカブールに到着。さすがに疲れた。ホテルに残してある焼酎を飲んで寝るとしよう。

バーミヤンの東大仏跡 ブログ用.jpg

6月17日午後2時、地雷撤去作業を取材後、いよいよ大仏跡に向かう。まずは西大仏、ビッグブッダから。西大仏の足元から頭上を見上げる。その高さ55メートル。もちろん世界一背の高い仏像だ。「すごいなー」と感心して見上げているとすぐに首が痛くなる。

2001年にタリバンがこの大仏を爆破したので、今は右足と左足の一部が残るのみ。かつては「大仏の体や頭」だったものが瓦礫になり、アフガン情報文化省がその「瓦礫」を保存している。

西大仏の足元には、いくつかの洞窟があって、その洞窟一つ一つに仏像が彫り刻まれ、美しい壁画が残されていた。ご丁寧にもタリバンは、洞窟の仏像をことごとく破壊し、壁画を消し去っている。
スンニ派イスラムでは「偶像崇拝」を禁止している。したがってキリストの壁画や仏像は存在するが、「アッラーの像」や「預言者ムハンマドの肖像画」は基本的に存在しない。タリバンは、そうした「偶像崇拝の禁止」思想で、こうした貴重な文化遺産をことごとく破壊したのだろう。「過激なイスラム原理主義」によって人類の宝物とでもいうべき貴重な文化遺産が破壊しつくされたのは返す返すも残念だ。

西大仏から東へ約800メートルほど歩くと、スモールブッダ、東大仏跡が現れる。この東大仏跡は今、足場が組まれ、これ以上崩れ落ちないように補強作業中。
東大仏の足元には狭い階段があって、上部に登れるようになっている。
狭くて急な階段を上る。階段を10数段上ると、踊り場が現れ、踊り場と大小さまざまな洞窟がつながっている。洞窟にはやはり仏像後と壁画跡。ご丁寧にもことごとく破壊している。

階段を上ること20分、やっと東大仏の頭上に出た。高さ38メートル。ビデオカメラを回しながら、頭上の狭い通路を歩く。高所恐怖症の人でなくても、かなり恐ろしい状況。
東大仏の目の辺りからバーミヤン渓谷を見下ろす。アフガンでは珍しく、緑にあふれ、農作業する人々が点のような存在。大仏様は何千年も、こうした人々の営みを見つめ続けていたのだ。

「『タリバンが破壊した』と報道されているが、破壊したのは『パキスタン・タリバン』だ。アフガン人は全て、このバーミヤンの遺跡を愛していた。パキスタンはアフガンが平和になって、強国になっていくのを阻止したいので、アフガンの象徴のような、この大仏を破壊させたんだ」とは、通訳のシャムスディーン。「タリバンの名を騙って」。シャムスディーンは世界の報道と現実は違うんだと主張。

いずれにせよ、貴重な仏像は失われたが、バーミヤン渓谷にそびえるこの遺跡群は一見の価値あり。早くアフガンが平和になって、多くの観光客が戻ってきてほしいものだ。

慎重に地雷をマーキングしていく ブログ用.jpg

本日無事バーミヤンからカブールに帰ってきた。カブールは2日前よりも警備が厳戒になっている様子。こちらではテロが結構起こっているので、軍と警察の姿が目立つ。 で、以下はバーミヤンの取材を簡単にまとめたもの。

6月17日午前7時、地雷撤去センターの職員、シャムスディーンが迎えに来る。目指すのは世界遺産の一つ「シャーリ・ゴルゴラ」。12世紀中ごろに、シルクロードの中間点であるこの町は栄え、バーミヤン渓谷を見渡せる小高い山に首都が置かれた。しかし、その首都はチンギス・ハーンの部隊に皆殺しにされてしまう。シャーリ・ゴルゴラは「嘆きの町」という意味だ。
小高い山のあちこちに洞窟が点在する。古代から中世にかけて、人々はこの洞窟で生活していたという。洞窟は山の内部でつながっていて、内部には部屋があり、人の生活跡が在るという。1979年旧ソ連軍がアフガンに侵攻。全土は旧ソ連軍対アフガンゲリラ(ムジャヒディーン)との戦場と化した。旧ソ連軍との10年にわたる戦争で、このシャーリ・ゴルゴラは地雷原となった。そして戦闘中に多くの不発弾が残された。
旧ソ連軍が去った後、1990年代はタリバン対北部同盟の内戦になった。この時もここは激戦地となり、双方が地雷を埋め、不発弾が地中に眠った。したがって今はシャーロゴルゴラに点在する洞窟の中に入るのは厳禁。洞窟内には地雷と不発弾がゴロゴロ転がっている。

「今年4月から、ここで地雷&不発弾撤去が始まった。俺たちは2ヶ月で約800個の地雷&不発弾を撤去した」。シャムスディーンが誇らしげに語る。
撤去作業員は、ここだけで60人いて、6つのチームに分かれて作業している。

防弾スーツとフルフェースのヘルメットをかぶり、撤去現場を取材する。
シャーリ・ゴルゴラの山の中腹で、地雷探知機がキーンと鳴る。金属が埋まっている。作業員は、慎重に石を取り除き、赤のペンキでマーキングする。全て手作業。めちゃくちゃ危険で勇気のいる作業だ。聞けば月給は約5千アフガニー程度(1万円)。命を張った危険な作業にしては不当に低いサラリーだ。この地雷撤去作業はユネスコが所管し、ATCというアフガン人NGOが実際の作業を行う。予算の約30%以上を日本政府が拠出している。インド洋で米軍に給油するのではなく、もっとこのような人道支援に予算を使ってほしいものだ。
「気をつけろ、地雷ベルトだ」。シャーリ・ゴルゴラの山の頂には軍事基地があって、その軍事基地に至る道に多くの地雷が埋まっている。バーミヤンは寒いので11月に入ると雪に覆われ作業できない。10月までにこの「地雷ベルト」から全ての地雷&不発弾を撤去する計画だ。ちなみにATCではこれまで22人が爆発に会い、8人が死亡している。10月までに全員無事で作業を終了できればいいが…。

「不発弾が見つかった。場所は…」シャムスディーンの無線に連絡が入る。30分後、現場に到着。現場はランドクルーザーでしか入れないような悪路を突っ切ったところにある普通の村の山腹。
不発弾は旧ソ連製の戦車砲か、RPG肩掛けロケット砲だった。作業員が慎重にダイナマイトを仕掛け、銅線コードを山のふもとまで伸ばす。「400メートル離れろ」作業監督が指示。監督はハンドマイクで叫ぶ。「みなさん、今から不発弾を爆破します」。羊飼いなどが近づいてきたら大変だ。
3、2、1。ドッカーン。大音響とともに煙が舞い上がり、無事撤去終了。こうした作業を毎日毎日、10月末まで繰り返すのだ。気の遠くなるような作業である。

ちなみにバーミヤンの大仏跡は、2005年に彼らによって完全に撤去された。
「日本のみなさん、バーミヤンの大仏は安全ですよ。どうぞ観光に来てください」。シャムスディーンがウインク。「1970年代までは約1万人の日本人がバーミヤンに来てくれた。日本に帰れば、バーミヤンは安全だ、と宣伝してくれ」。


バーミヤン 大仏全景 ブログ用.jpg

6月16日(火)、カブールよりバーミヤンへ飛ぶ。午前11時半、国連機が離陸。乗客は国連職員と私のような「どこぞの馬の骨ジャーナリスト」で合計15人ほど。
カブール~バーミヤンはわずか30分と聞いていたので、機内ですぐに撮影の準備。バーミヤンに着陸するところをビデオカメラに収めるためだ。

離陸して30分、ヒンズークシュ山脈を越える。山頂には雪、ほとんど木が生えていない山肌に枯れ谷が峡谷を作っている。
行けども行けども同じ景色。やがて1時間経過。まだ着かない。「おかしいな、こんなに遠かった?」と感じ始めた頃、やがて機体は着陸態勢に入り、無事外の景色をカメラに収める。

着陸したが、何かおかしい。何人かは降りていったのだが、何人かは機内に残る。スチュワーデスに「ここ、バーミヤンでしょ?」と尋ねると、「ヘラートよ」。
ヘラートとはイラン国境に近いアフガン第3の都市。長い距離を飛んでいたはずだ。国連機はものすごい遠回りをして、バーミヤンにいくのだ。
気を取り直して(気を取り直しているのは私だけだが)ヘラートからバーミヤンを目指す。約1時間半のフライトで、ようやくバーミヤンに到着。

空港とは名ばかりの、何もない広場。滑走路は「地道」である。国連機といっても小さなプロペラ機であるが、このような悪路を無事着陸してくれる「けなげなヤツ」だ。

「空港」で、MACCA(アフガン・国連地雷撤去センター)のスタッフが待ってくれている。
車に乗ってしばらく行くと、「おーっ!バーミヤンや!」と思わず叫び声。
正確に言うと「バーミヤンの大仏跡」であるが、私にとっては、あのタリバンに破壊された大仏像が、「バーミヤンそのもの」なので、「バーミヤンや!」と叫んでしまったのである。
これだけ巨大な仏像を、3千年ほど前に作ったというのだから、にわかには信じがたい。西遊記でおなじみの三蔵法師がこの大仏を紹介して世界に知られるところとなった。
孫悟空や沙悟浄、猪八戒が出てきそうなロケーション。

大仏は2体あって、西大仏(ビッグブッダ)と東大仏(スモールブッダ)の間にも様々な仏像が彫られていたのだが、全てタリバンが破壊してしまった。
夕日に沈む大仏跡が美しい。アフガンの空はどこまでも青いので、その青がオレンジに変わり、「ブッダたち」が漆黒の闇へと消えていく。カンボジアのアンコールワットを見たとき以来の感動。

素晴らしい遺跡に囲まれた「世界の宝物」とでもいうべきバーミヤンだが、周囲は地雷原なのだ。明日は、その地雷撤去活動を取材する。

カブールでよく見かける片足の人ブログ用.jpg

6月14日分をアップしたつもりだったが、アップできていないようなので、再度アップします。かぶってしまったらごめんなさい。 以下、昨日の取材分です。


6月14日(日)、カブールは本日が週明け。事前にアポを取っていた、赤十字が運営する病院へ。この病院は1988年に「戦争被害者のための総合病院」としてオープンしたのだが、95年に戦争被害者だけでなく、全ての障害者、患者に向けて、治療&リハビリテーションを行う病院となった。
病院の敷地に入ると、「片足の男たちの群れ」が列をなして治療を待っている。地雷、戦闘、その他の病気…。病院内には、義足や車椅子を作る作業場、片足の人々が松葉杖で歩くリハビリセンター、病棟などがあり、それぞれ男女別に二つずつ作られている。
スタッフも障害者である場合が多い。地雷などで手足を失った人々に、わずかながらも職業に就けるようにしているのだ。
体のリハビリだけではなく、心、つまり精神的なケアにも力を入れているという。地雷などで障害を負ってしまうと、やはり家にこもりがちになるそうで、そんな希望を失いかけた人々を勇気付けるカウンセラーなども行っている。
アフガンでは女性にカメラを向けるのは非常に難しいのであるが、交渉してOKが出た。
2001年、9・11事件後の米軍による空爆で、片足を失った女性がいる。アフガン北部の村で農作業中の出来事だった。ブッシュ大統領が「テロとの戦い」を声高に叫び、テロリストにつくのか、正義につくのか、を迫った戦争で、普通の農民が死傷した。
以後8年間、彼女は不自由な体で子どもを育て、家事を続けている。

旧ソ連軍の地雷を踏んだ18歳の女性がいる。地雷を踏んだのは2歳のとき。学校にも行かずに、ずっと村の中で育った。リハビリのためにこの病院へ来た。
やはり地雷で片足になった36歳の女性。結婚後、娘ができた直後に踏んでしまった。夫と娘はドイツに亡命した。彼女は1人アフガンに残された。以後一人で生活しているという。

カブール市内で片足の人をよく見かけるが、ほとんど全てが男性である。昨日遭遇した「障害者の怒りのデモ」は全て男性だった。当然のことながら、女性も傷ついているはずである。健常者の女性でもあまり外へ出ないアフガンで、障害を負った女性はさらに社会参加が難しいようだ。

デストロイドエリアに戻ってきた住民たちブログ用.jpg

6月15日(月)、本日はバーミヤンまでの航空チケットを確保するため、国連オフィスへ。カブール~バーミヤンは陸路で9時間、空路で30分。最初、ランドクルーザーをチャーターして、陸で行こうと考えていたのだが、道中、とてつもない悪路で、運転手は行きたがらない。「タイヤパンクしたら150ドル追加だよ」「車体に傷が入ったら…」など条件がうるさい。途中で故障したら、おそらく誰も助けてくれない。
スケジュールに余裕があれば、地元民たちと「乗り合いバス」もいいのだが、道中が少し危険。9時間対30分という圧倒的な時間の差も考え、飛行機で行くことに。

往復で500ドル。ドバイ~カブールの往復チケットは、たったの250ドル。つまりわずか30分の国内便が、片道2時間半かけた国際便の倍の値段。「国連、ボッタクリや」と感じるのは私だけか?

チケットを買い、カブールの「デストロイドエリア」へ。破壊の街、カブール旧市街。この一角はことごとく破壊され、瓦礫の街となっている。
1989年、ゴルバチョフ大統領の登場とともに、旧ソ連軍が撤退。10年に及んだ旧ソ連軍とムジャヒディーン(アフガンゲリラ)の戦いに終止符が打たれる。誰もがこれでアフガンは平和になった、と感じたのも束の間、ムジャヒディーンたちはソ連の傀儡であるナジブラ政権にも攻撃を仕掛けた。ナジブラ政権が倒れ、今度こそ真の独立を勝ち取ったはずのアフガンで、今度はそのムジャヒディーンたちの間で内戦が始まった。
ラバニ、ヘクマティヤル、ドスタム、マスード。4つのグループがバトルロイヤルのようにカブールで戦闘。その結果、この街区はことごとく破壊されてしまった。
ちなみに、この果てしなく、かつ無慈悲な内戦を終わらせたのが、タリバンである。

破壊の街は、徐々にではあるが復活しつつあった。瓦礫と化した街ではあるが、ところどころ人の住んでいる気配がする。

その中の一軒にお邪魔した。この家が空爆されたのは12年前。一家はカブール郊外の村に逃げていたが、最近になって戻ってきた。壁のペンキを塗り替え、部屋を整理し、少しずつ修復している。現在は3家族15人がこの家に住んでいるという。
写真のご主人は、タクシー運転手として生計を支えているが、生活は苦しい。しかし何はともあれ、ふるさとの町カブール旧市街に戻ってくることができた。復興への道は険しく遠いが、希望の光も見えてきたようだ。

デモ行進する戦争被害者たちブログ用.jpg

6月13日(土)本日は、ISAFの本部へ行き、ISAFの記者カードを申請する予定。うまくいけば従軍取材ができるかもしれない。
ホテルからISAF本部までは、カブール川をはさんで20分程度。タクシーを降りて、本部へと向かう。
「アラーアクバル」(神は偉大なり)。大音響とともにISAF本部の方向から、デモ隊が現れた。デモ隊は警官ともみ合いながらこちらへ向かってくる。

「これは撮影せねばならない」。すぐにカメラを回す。一瞬デモ隊に近づきすぎて射殺された長井さんのことを思い浮かべるが、そんなことは一瞬に吹き飛ぶ。片足の男たちが怒りの形相で迫ってくる。
後で聞いたが参加者は約130名。全てが戦争被害者とその家族である。銃を構えた警官たちの制止を振り切って、デモ隊は進んでいく。ダリ語なので何を言っているのかは分からないが、「仕事をよこせ」「軍隊はカブールから出て行け」などと叫んでいるのだ、と後でオスマンが解説してくれた。

アフガンの旗がはためき、時おりコーランの一説を唱和する。「ラーイラーハ、イッラーラー」(アラー以外に神はなし)。「アシュハド、アン、ムハンマド、ラスールッラー」(モハンマドは神の使いなり)などは理解できる。日本でいえば「麻生は退陣せよ」などのシュプレヒコールの合間に「南無阿弥陀仏」と唱えるようなものか?
しかし日本のデモと全然違うのは、その迫力。片足の男たち、車椅子の男たちが、こぶしを上げながら、時おり、警察が路上に置いたカラーコーンを松葉杖で蹴飛ばしながら、鬼のような形相で「障害者にも仕事を与えろ!」と叫ぶのだ。私たち日本人が忘れかけている「抗議行動の原点」がここにあった。

デモ終了後、幾人かにインタビュー。その中の1人、ハザラ人のホスマンドさんは一見すると、中国人のようである。
「20年前に地雷を踏んだ。俺は47歳、家族を養わねばならない。地雷?おそらく旧ソ連軍が仕掛けていったんだろう。俺の村は地雷原になったよ。政府は月に700アフガニー(約1500円)の手当てをくれるだけだ。これでどうやって生活できる?日本人に言いたいこと?そうだね、軍隊に援助せず、俺たちのような住民を助けてほしいよ」。
日本がインド洋で米軍に給油していることは、ほとんど全てのアフガン人に「ばれてしまって」いる。米軍に給油する金があるなら、俺たちに回してくれ!という切実な声。
20年間、義足なしで生活してきた彼の手のひらには、松葉杖を使い続けたための「タコ」ができている。30年近く続いてきた戦争。
ホスマンドさんの赤く固まった手のひらが、その苦難の歴史を物語っている。

新調されたパグマンのモスク ブログ用.jpg

6月12日、今日は金曜日なのでほとんど全てのオフィス、店は休業。イスラム圏を取材するとき、もっとも厄介なのがこの金曜日で、まず、各種申請は無理。NGOの事務所、病院などもすべて閉まっているため、「ホテルでごろ寝」が一番なのだ。
しかし「ごろ寝」だけではもったいない。カブールからタクシーを飛ばしてパグマンという小さな村へ。

ここは歴史的な場所で、中世の城跡が残っており、背後の山から雪解け水が流れてきて、農業も盛ん。さくらんぼやりんごなどフルーツとおいしい水で有名な村である。
実はこの村は「せかいいち うつくしい ぼくの村」という絵本の舞台になった村である。絵本ではこの美しい村は戦争で破壊されてしまうのだが、パグラムも旧ソ連軍とムジャヒディーン(アフガンゲリラ)たちとの戦闘で、歴史的建造物はもちろん、周辺の家々も破壊されてしまった。山の中腹のモスクは、土台だけが残っていたのだが、昨年、人々の寄付で新しく作りかえられた。
新調されたモスクで大勢の人々が祈る。

パグラン郊外に破壊された旧ソ連軍の戦車。旧ソ連がアフガンに侵攻したのが1979年。以後、この地ではずっと戦争が続き、30年が経過した。逆に言うと、30歳以下の若者は戦争しか知らない。

カブールからパグマンへいたる途中に、なんと「カブールゴルフクラブ」なるものがある。これは政府が作ったゴルフ場。ゴルフするアフガン人なんているのだろうか?荒れ果てた農地のようなところに、羊飼いが羊の群れを追い立てている。すぐ隣は軍の施設。そんなところにゴルフコース。もちろん誰もゴルフはしてなかったし、かなり長い間プレーする人はいないように感じた。芝生ではなく「砂のグリーン」があって、ちゃんとカップも。バンカーはなかった。政府は「リゾート開発」を考えたのかな?それにしても不似合いなものを作ったものだ。

アフガン カブール郊外 モジュリーンキャンプの子どもたちブログ用.jpg

6月11日、記者証をゲットしたので、軍・警察関係以外のところには、大抵取材できるようになった。在アフガン・日本大使館に感謝である。
さて、まず訪れたのがカブール郊外の「モジュリーン避難民キャンプ」。カブール北西、数キロのところ、国道沿いに薄汚れたテントと泥でできた家が広がっている。その数150張以上。一つのテントに一家族。小さな子どもが多く、一家族に10人以上いるらしいので、避難民の数は1500人以上になる。
「ユニセフ」と大書されたテントがあるので、大家族が住んでいるのかな、と思ったら、なんとそのテントは学校だった。ここアフガンは厳格なイスラムなので、テントも男子小学生、女子小学生用に分かれている。
ノートを持った子どもがいる。「名前かけるか?」と尋ねたら、小さな手でたどたどしく自分の名前を書いてくれた。

そんな取材を進めていたら、「俺が案内する」と、エネルギッシュな男性。彼はウルズガン州から逃げてきた。
「なぜ逃げてきたの?」。アメリーキー、アメリーキーと叫ぶ。「2年前、アメリカ軍の空爆で村が壊滅した」。通訳のオスマンが説明する。「なぜアメリカはあなたの村を襲ったの?」「村はタリバンに支配されている、という理由だ。でも村にはタリバンはいない。俺たちは普通の農民だ」。
彼によるとアメリカの空爆は3~4年前から執拗に繰り返され、2年前の空爆がひどかったので、村を捨ててここへ逃げてきたとのことだ。

テントと泥でできた難民の家を縫うようにして進む。大きな穴を掘っている男性がいる。
「何で穴を?」「井戸を掘っているんだ」。手掘りで井戸を掘る男性。きれいな水が不足しているのだが、いまどき手掘りで水脈までたどり着けるのだろうか?
泥をこねて家を作っている男性たちがいる。たくさんの人々が逃げてくるので、「新避難民」にはテント、そして「旧避難民」にはテントより少し居心地のよい泥の家に昇格するようだ。
「これを見ろ!こんなパサパサのパンをこうして毎日食べているんだ」。男性は干からびたパンに水をかけ、「浮やかして」食べる様子を再現する。テントの外にはビニールゴミが散乱する。「これはゴミではない。このビニールを燃やして調理している」。ゴミと思ったのは「燃料」だった。バグダッドのゴミ処分場に住みつく難民たちも、同じように生ゴミを燃やして調理していたなぁ。
「このテントは昨日建てた。この家族は昨日ここに逃げてきたばかりだ」。テントの中には女性がいて、撮影不可。アフガンでは女性にカメラを向けることができない。

この避難民キャンプができてすでに2年が経過している。国連からも政府からも何の援助もない、と避難民たちは言う。「でもUNHCRと書いてあるテントがあるやん?」と聞けば、あのテントやビニールシートは、別の難民キャンプからの横流し品だ、と言う。「ノーフード、ノーヘルプ」。唯一の援助は、近隣住民からのイスラム的な寄付だけ。学校は誰が運営しているのか?なぜ政府やNGOの援助が届かないのか?そういったことを取材しようとしていたときだった。

バリバリバリ。耳をつんざく音がして、軍用ヘリがこの避難民キャンプをめがけて低空飛行してきた。「危ない!撃たれる!」。
慌ててキャンプから逃げ出す。ヘリは低空で旋回した後、またカブールの方向へ飛び去っていった。「アフガン政府のヘリだ」とオスマン。なぜヘリが?と聞くも、「分からない」。
避難民の中にタリバンがいると考えているのだろうか…。

私にとっては意味不明の「威嚇行為」だが、こうしたことは日常茶飯事なのか、避難民たちはまた普通の生活に戻っている。「俺たちは普通の農民だ」という避難民。そして「こいつらはタリバンの疑いがある」とキャンプを威嚇する政府のヘリ。いったいどちらが正しいのだろう。私には彼らは「普通の農民」に見えた。しかし長年アメリカの空爆が続いたので、「普通の農民」たちの中に、「報復の炎」が燃え上がっているのも、また事実なのだ。
「テロとの戦い」。米軍が行う「無差別爆撃」によって、新たなテロリストが生まれている。こんなことを繰り返すのは、いわば「無限地獄」なのである。

オバマ大統領は、「イスラムとの対話」を言い出した。これは正解である。対話こそが解決の道。しかし現実にカブール郊外で行われているのは、対話ではなく、「威嚇」である。
オバマ大統領には二つの顔がある。ジキルとハイド。「核兵器をなくすべき」と演説する彼が、「テロとの戦い」を進める。なんというダブルスタンダードなのだろうか。

カブール初日 コーエアスマイ山と人々ブログ用.jpg 写真は宿泊しているホテルの近辺から カブール市内の様子。

6月10日早朝。無事アフガンの首都カブールに到着。私が初めてアフガンを訪れたのは、01年10月のこと。当時のカブールはタリバン支配地域で、パキスタン側つまり南側からは入国できなかった。そこで、旧ソ連のウズベク、タジクを経由し、アムダリア川を船で越えてホジャバルディンという町に入った。あの頃は公務員だったので、休暇の日数をにらみながらの旅だった。マスード将軍が暗殺された場所や難民キャンプなどを北部の町で取材したが、カブール陥落までアフガンに滞在できず、結局カブールをあきらめて帰国した。いわば「カブールに入る」ことは8年越しの夢であったのだ。

カブール国際空港の入国審査。地元民と一緒に長蛇の列に並んでいると、「おいそこの日本人、お前から先にやるよ」と係官。アフガン人の多くは日本が大好きなようなのだ。8年前も同じように日本人優先で入国させてもらった経験がある。あの時は「お前たち日本人は日露戦争で憎いロシアをやっつけてくれた。だから俺は日本のファンなのさ」などと言われ、最初に入国させてもらった上に食事まで振舞われた。今回もそれに違いないと、並んでいるアフガン人をごぼう抜きし、すんなりと入国。
「10ドルだ」。「えっ?ワイロやったん?」。公務員の給料が少ないのだろう、この国もワイロに染まってしまったのかもしれない。

空港で本日の通訳を探す。「カナダ、スイス、中国などいろんなジャーナリストの通訳をした」というオスマンに決める。政府ナンバーの車に乗っているのは、何かあったときに好都合だ。英語はいまいちだけど、こいつの経験、つまり「安心」を買う。

カブールのメーンストリートには、軍と警察がずらり。治安警察の車に混じって、国連の車やISAFの戦車が通る。
ISAFの兵士が戦車から銃を構えて周囲を見渡す。バグダッドと似た光景。私たちの車が戦車に近づいたとき、「距離をとれ!」とオスマンが運転手に指示。下手に近寄りすぎると危険だ。

アフガン政府のメディア省へ。すんなり記者証をくれるかと思ったが、「フリージャーナリストは日本政府のレターが必要」とのこと。カブールの日本大使館へ。日本大使館に行くには、カナダ大使館の警備を越えなければならない。
「何しにきた?」「日本人か?」「ちょっと待て車を調べる」。カナダ大使館の警備員はテキパキと作業する。制服には「アーマーグループ」の刺繍。
民間軍事会社だ。大使館という最もテロリストに狙われやすい建物を警備しているのは、PMC、民間軍事会社だった。イラクに続いてここアフガンでも戦争が民営化されている。

突然の訪問にもかかわらず日本大使館は「レター」を出してくれた。感謝感謝。大使館としては、私のようなフリーランスという「どこかの馬の骨」は、ハッキリ言って「迷惑な存在」だろう。「くれぐれも安全に取材してくださいよ」という忠告を守り、無事10日間を過ごそう。

ホテルの前にはコーエアスマイ山がそびえ、ほとんど木が生えていない山の稜線まで家が建っている。空はどこまでも青く、朝夕は涼しい。平和であれば、ここは一大観光地になるだろう。バーミヤンまで車でわずか6時間、カンダハルも同じくらいでいける。ただし平和であれば。
「町から町への国道が一番危ない。タリバンが襲ってくるよ。だから空路が一番だね」。オスマンの経験に従いつつ、「とりあえず危険が少ない」カブールで情報収集だ。

6月8日深夜に関空を発って、9日早朝ドバイに到着。巨大なドバイ空港を出れば、ハイウェイとモノレールの工事が進んでいる。市内のあちこちには、巨大なクレーンが林立しマンションなどを建設中である。
一見すると好景気が続いているように見える。しかし「景気はタクシー運ちゃんに聞いてみるもの」が、どこの国でも鉄則。

タクシーに3回乗る機会があったので、乗り同じ質問を繰り返した。「アメリカの金融破たん後、ドバイは?」。
インド人運転手(2人)、パキスタン人運転手ともに、「昨年から最悪だよ。ここドバイでは、労働者の数が減った。旅行者も。収入は激減。家賃や食料費は下がらないので、生活はギリギリ。本国への仕送りをしながらなので厳しいよ」。との反応。

ここドバイでは、タクシー運転手のほとんどはインド人かパキスタン人であるが、それぞれ「友人の半分はニューデリーに帰った」「40%ほどの同僚はペシャワールに戻った」そうで、金融破たん後の不況に見舞われている。
ここドバイはNHKスペシャルで「沸騰都市」と紹介された。ドバイで一攫千金を狙う投資家たち、早朝から摩天楼の建設現場で、青い作業着を着て働くバングラディッシュ人たちが紹介されていたが、いまやそのドバイの温度が下がり、「ぬるま湯都市」といったところか?

さて、私自身の取材について言えば、首尾よくアフガンまでの往復チケットをゲット。明日からカブールに入れそうだ。
ところで、前回「インターネットテレビ」を始める、と宣言し、試作品をご紹介したが、第2弾がアップされている。
http://move.b-fx.net/modules/cinemaru/movie.php?id=7 でご覧ください。
これはバグダッドから北へ5キロの、ゴミ処理場に住み着く難民たち のレポート。
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