2009年10月アーカイブ

10月24日の夜、無事に帰国。ギラギラとした直射日光を浴びて、「まだまだ暑いなー」と感じていたイラクからの帰国なので、「えらい寒いやん」と震える。裸足にサンダル、半袖シャツという夏のいでたちで関空に降り立てば、寒く感じるのも当たり前か。

ここで約20日間のアフガン&イラクを振り返っておきたい。
まずはアフガン。結論から言って、この時期にアフガンを訪れることができたのはラッキーだった。

まず①岡田外相がアフガンを電撃訪問し、その姿をカメラに収めることができた。インド洋での給油は、「百害あって一利なし」だと思う。サマワへの自衛隊派兵よりは「姿が見えないだけまし」かもしれないが、米軍へ協力するのは殺人者に手を貸すことであるから、絶対に即刻中止すべきである。
現政権は給油を中止し、民生支援に切り替えるべき、と考えている。ぜひ、避難民や病院、学校への支援を、これまで以上に展開してほしい。道路や上下水道の整備、病院の開設などで、近い将来、日本企業の姿が見えるようになってほしい。カブールに関して言えば、企業活動を再開しても大丈夫だと感じる。貧困状態、社会資本の不整備、役人の腐敗、貧富の格差の増大なども、テロを引き起こす要因であるから、その芽を早期に摘み取ることが必要だ。現地の人々は、米企業や中国企業ではなく、日本企業の参加を求めている。

②オバマにノーベル平和賞が出たこと。彼が平和賞を獲得した3日前に、ベドゥインの少女が焼かれている。全身やけどの痛みに耐える少女を見ていると、どんな理由をつけても賞を与えるべきではなかった、と感じる。「核廃絶を口にした」「平和賞を与えることでイランに攻撃させない」など、いろんな「解説」はあるが、「実際に人を殺している人物」に平和賞はないだろう。この戦争は現在進行形である。その意味では佐藤栄作の受賞より罪深い。

③ようやくアフガンの大統領選挙の結果が出て、決選投票になった。ハッキリいって何回投票しようが、カルザイが勝つだろう。アブドラに期待する声も少ない。しかし決選投票をしないことには、「不正選挙で大統領になった」ことになるので、やらざるを得ないのであろう。決選投票をすることで、また多額の予算が使われ、選挙に反対するタリバンは、投票に行く人々を殺すかもしれない。無駄なお金と命が浪費される。しかし国内の人々だけでなく、国際世論をも納得させるために決選投票ということになった。「政治ショー」だと思うが、ここまでこじれた以上仕方がないのかもしれない。

④本格的な冬が到来する直前に、援助物資を届けることができた。標高1800メートルのカブールの冬は半端ではない。夏は何とかしのげるが、問題は冬である。避難民キャンプには、おそらくタリバンとその内通者がいるだろう。だからといって援助物資を届けなければ、多くの人々が凍死する。ボスニアやコソボではすぐに国連が入り、「冬を越すための毛布や食料」が届けられていたが、ここアフガンでの国連の動きは鈍い。ボスニアはヨーロッパで肌の色が白く、アフガンはアジアでいろんな人種が混ざっているからだろうか?カブールには国連施設が一杯あって、職員で街があふれ、国連職員とISAF兵士が落とすドルで、ちょっとした「戦争景気」の様相を示している。そんなカブール中心街からわずか30分のキャンプに、なぜ援助物資が届かないのだろう。UNHCRは、UNICEFは、WFPはいったい何をしているのか?

今、パキスタンタリバンの活動が急激に活発化し、パキスタン全土にテロが拡大している。パキスタンタリバンとアフガンタリバンは「似たもの同士」のように感じる人も多いだろうが、実は全然違うのである。
アフガンタリバンはパキスタン政府の支援を受けて育ってきた。パキスタンタリバンはパキスタン政府の空爆で怒りを爆発させ、政府を狙ったテロを仕掛けている。同じタリバンであるからもちろん「アメリカへの憎しみ」は共通しているだろう。しかし、当面の戦う相手、裏で支援を受けている相手、が違う。

今回の取材で、そんな「入り組んだ関係」について理解を深めることができたのも収穫の一つだった。

ついで、イラクである。昨日バグダッドで大規模なテロがあり、百数十人の人々が犠牲になった。バグダッドは治安が安定しつつあるが、まだまだ戦争状態である。こんなテロが起こると、またまた復興のスピードが遅れる。劣化ウラン弾の被害者と思われる子どもたちへの支援も届きにくくなる。スレイマニアの避難民キャンプが一段落しているので、今後の援助を有効に届けようと思えば、バグダッドに入って、病院や孤児に直接支援することが必要であるが、①ビザがおりにくいことと②治安面で動きにくいことで、やはり支援を続けるのは困難な状態だ。

しかし、だからこそ支援しなければならないのだろう。アフガンの影に隠れて「イラクへの民生支援」がかすみがちだが、間違いなくイラクの人々も、日本の民生支援を待っている。次回は来年の1月になりそうだ。

右目を摘出したイラーフちゃん ブログ用.jpg 写真は、右目を摘出したイラーフちゃん  ここスレイマニアでもがん患者が急増している。


10月22日、スレイマニアのがん専門病院へ。ここを訪問するのはこれで5回目になる。訪問するたびにがん患者が増えている。ベッドの数が足らないので、廊下で寝る人、うずくまる人、点滴を受けている人が続く。

小児病棟へ。多くの子どもが入院しているが、白血病と骨肉腫が多い。入院患者は2つに大別される。一つはハラブジャ周辺から。ハラブジャは1988年にフセインによる化学兵器で虐殺されたところで、20年以上たった今も、環境悪化により、がん患者が急増しているのだ。他方はキルクークとその周辺から。キルクークはこのイラク戦争で劣化ウラン弾をはじめとする大量の爆撃があったところなので、それによる環境悪化でがん患者が増えている。

写真のこどもはイラーフちゃん(3)。右目に腫瘍ができて摘出したばかり。顔が膨らんでいる子どもをバグダッドでも見たが、この子も異様な膨れ方をしている。
「ポイズン、ポイズン」と医師が言う。劣化ウラン弾の放射線によるものなのか、それとも大量に打ち込まれた弾薬による土壌汚染なのか。おそらくそのどれもが関係する「複合汚染」なのだろう、「患者の数は増える一方」だという。

3年前にここをはじめて訪れたときには、がんの治療薬にも不足する状態であったが、(DVD「戦場からの告発」で紹介しています)今は薬は足りているが、患者が急増して病院を拡張する必要があるとのことだった。
アフガンでもそうだが、ここイラクでも日本ができることは多い。

政権が交代し、「自衛隊がせっせと運んでいたのは米兵」だったことが明らかになった。イラク戦争6年間で自衛隊が使った税金は約1000億円。

このお金ががん患者に回っていれば、何人の命を救えただろう。

写真は、イラク・スレイマニアの避難民キャンプで出会った病気になった少女


10月21日午前9時、スレイマニアで通訳のファラドーンと再会。すぐにカラア避難民キャンプへ。このキャンプを訪問するのも、すでに6回目。避難民の多くはバグダッドへの帰還を始めていて、最大で400家族もあったテントが、今は61家族のテント、避難民の総数は約300人弱となった。このこと自体は良いニュースであるが、しかしまだ300人もの人々が厳しい冬を越さねばならないのも現実である。

テントのいくつかを訪問する。昨年贈った毛布と、今年春に配布した扇風機が活躍している。「今は何が必要か?」との質問には、ほとんど全ての避難民が「お金」と答える。
お金をそのまま配ることはやりたくないので、「金の次に必要なものは?」と聞いていく。
食料、ヒーター、医薬品などであった。

いくつかのテントの中で、病気で寝込んでいる人がいる。写真の女性は16歳で、風邪をひいている様子。医者にいくお金がなく、薬もないので、ただ寝ているだけである。
今回は、ヒーターと医薬品を贈ることにしよう。

生まれつき鼻の組織がおかしかった子ども ブログ用.jpg 写真は劣化ウラン弾による遺伝子異常と考えられる子ども モスルではこのような被害が急増しているという。

10月20日、タクシーを拾い、アルビルとモスルの州境へ。ここはクルド側(アルビル)とアラブ側(モスル)の事実上の国境で、パスポートチェックをはじめ、荷物検査、運転手のIDカードチェックなど、厳戒警備体制。モスルからのテロリストを防ぐ、という意味もある。

無事、モスル側へ抜ける。通訳のサウファンと運転手のマジードが待っている。半年振りの再会。
サウファンらと、あらかじめ打ち合わせしていたアリー君(16)の家へ。ここはモスル中心地からわずか20キロ、バルテッラーという街で、人口の大半がキリスト教徒。モスルが危険なのと、キリスト教徒への弾圧があるので、この街に避難する人が急増し、人口が急激に増えている。

アリー君は7人兄弟。1人はテロに巻き込まれて死に、3人は米軍の空爆で死んだ。
06年3月10日、米軍はアリー君の家とその周辺を空爆し、3人の兄弟をなくすとともに、彼は身体障害者になった。背骨に爆弾の破片が突き刺さっており、以来、下半身不随の寝たきり生活だ。
「米軍から何の謝罪も補償もない。俺たちは普通の市民だった。アルカイダではない。空爆後、モスルを捨ててこの街へ逃げてきた。タクシー運転手だったが、今は失業している。この家は借りている。近所の人も戦争被害者だ」と、父親のイブラヒームさん(46)。

アリー君の家で取材していると、「俺もやられた」「私の息子を見て」と近所の人々が集まってくる。
写真の少年、アハマド君(5)は明らかに鼻の発達異常である。母親が彼を身ごもっているとき(5年前)、最も米軍の空爆がひどい時期だった。おそらく劣化ウラン弾の被害ではないか?
「ウランって知っている?」と母親に聞くが、「ウランって聞いたことがない」との答え。
しかし「息子は戦争の結果、このような顔になったと思うか?」との質問には「100%、戦争の被害だと思う。だって、このような症状の子どもが病院にあふれているもの」。

モスルは「フセインが隠れている」と疑われた都市で、とりわけ空爆が激しかった。二人の息子、ウダイとクサイが米軍に殺されたのも、このモスルだった。

モスル中央病院では、「メニー、メニービクティム(被害者はたくさん)」とサウファンが証言する。
今回は時間の都合と安全性が確保されていないため、モスル市内にははいらないが、できるだけ早期にモスルの実態を取材したいものだ。

昨年に引き続き、サウファンに日本からの募金を手渡す。このお金でモスル市内の小学校にストーブを買ってもらう予定。小学生の多数が、この戦争で親をなくしている孤児である。モスルはイラク北部に位置していて、冬は大変寒いのでストーブは喜ばれるだろう。

夕刻、無事アルビルまで帰還。長距離タクシーを捕まえてスレイマニアに入る。
私の旅もこのスレイマニアで終結する。残されたわずかな日々を、きちんと取材してから、帰国したい。

10月17日、カブールからドバイへ。ドバイはリーマンショック後の金融危機で、明らかに体力が落ちていると感じる。メーンストリートを車で走ると、あちこちの高層ビルに「TO RENT」(貸し出し)の看板。オフィスビルにテナントが入っていない。2年前には考えられなかった事態である。

世界一高い「ブルジ・ドバイ(ドバイの塔)が、スモッグのかかった空に浮かび上がる。179階建て、高さ800メートル以上。果たして最上階に住む人はどんな種類の人間なのか。空気は薄くないだろうか、エレベーターで昇るのにどれくらいかかるのだろうか、など興味は尽きない。ビルは完成しているが、一般公開されるのは来年の1月ごろだとか。

ドバイで有名なパームジュメイラへ。
ここは海をやしの木の形に埋め立てて、そこに豪華マンション、別荘などを作った、まぁ「成金趣味の典型」のような街であるが、はたしてここの豪華マンションもこの不況でどうなるのだろうか。パームジュメイラの先端に「アトランティス」という豪華ホテルがオープンした。ホテルの中には水族館まであり、海底トンネルを通ってホテルへと入る仕組み。日本も本四架橋を3本も行って、多額の借金を抱えてしまったが、本当にドバイは大丈夫なのだろうか。
カブールからわずか2時間半のフライトで、ドバイに着く。この圧倒的な経済格差、貧富の差。

さて、そのドバイに2日間宿泊し、19日イラク・アルビルに飛んだ。本日(20日)から、イラク取材を始める。本日はモスルの戦争被害者と面談する予定。モスルは少し危険であるが、取材先がモスル郊外の、厳重に警備された病院なのと、通訳のサウファンが有能なので、何とかなるだろう。では行ってきます。

10月16日、今日はカブール郊外の避難民キャンプに行って、ゴルジュマちゃん一家を、市内のレストランに招待する。チャーレバカールキャンプに到着。あらかじめ、父のワキールと母親、そしてゴルジュマちゃんに連絡しており、彼らがテントの前で待っている。

一家を連れてカブールに戻ろうとするのだが、私たちの姿を目ざとく見つけたほかの避難民たちが、「俺たちも車に乗せろ」と車の周囲に群がってくる。
「ダメだ!俺たちはゴルジュマを病院に連れて行くのだ、これは遊びではない」と説得。ゴルジュマちゃんと両親、そしてちゃっかりと叔父が車に乗り込む。叔父は招待していないのだが(笑)。

車中、「カブールへは行ったことがある?」との質問に「ない」と恥ずかしそうに首を振る。キャンプから車でわずか30分の距離だが、いまだに都会を知らない。
「レストランでは何が食べたい?」「何でも」。「好きな食べ物は?」「ポテト」。この家族は一ヶ月以上肉を食べていない。普段の食事でもっともご馳走なのは、じゃがいもだ。

レストランに到着。ここで予期せぬことが起こった。ワキールが妻に外で待て、と命令するのだ。妻はレストランの外でうずくまる。
「おいおい、俺はお前たち一家を招待したんだ。妻も当然レストランでランチを食べてもらう」「いや、ダメだ。レストランには他の男性客がいる。男の前で妻をさらすことはできない」。田舎のパシュトン人にとって、妻の素顔を見られることは最大の侮辱なのだ。
レストランに交渉し、2階の部屋を空けてもらう。2階へ。さぁ一緒に食事を、とメニューを見ているときだった。「お前と通訳は他人だ。他人の前で妻をさらすことはできない」とワキール。「おいこら!そこまで言うのか!俺たちはもう家族みたいなものじゃないか。一緒に食べよう」と通訳と一緒に説得するが、ダメ。妻とゴルジュマちゃんだけ、さらに別室を借りて食事。
「今は21世紀だぜ。なんというストゥーピッド(愚かな)文化なんだ」と通訳のイブラヒーム。同じアフガン人でもカブール市内に住む人々は、さすがにこうした文化を嫌がっている人が多い。しかし彼らは、ヘルマンド州の出身。電気もなく、レストランなど見たことがなく、テレビもインターネットもない中で生活してきたのだ。
ゴルジュマちゃんは子どもなので、男側でも食事ができる。かくしてゴルジュマちゃんは、父と母のテーブルを行ったり来たりしながら食事することとなった。

食事が終わり、おもちゃやさんで買い物。店に入るや否や、彼女は人形を抱えた。
「何でも買っていいよ」といっていたのだが、わずか数秒の買い物。赤ちゃんの人形を抱えて、微笑む。おそらくこの一年、これほどの笑顔を見せたことはなかったのではないだろうか。

ゴルジュマちゃんたちをキャンプへ送り、別の避難民キャンプ、パルワン・ドゥーに毛布200枚を贈る。パルワンドゥーキャンプのテントの中を取材。テントには無数のハエ。ひどい悪臭。見れば大きな金属のボールに茶色いご飯が山盛り。
「結婚式場の食べ残しだ。俺たちはこれを3日間、ずっと食べている」。辺見庸さんの著作「もの食う人々」のなかに、食べ残しを食べて生活するバングラディッシュ人のことが紹介されていたが、バングラデシッシュだけではない、ここカブールにも存在した。

毛布200枚が到着。歓声を上げて喜ぶ避難民たち。
「サンキュージャパン!」「タシャクール(ありがとう)」と、みんな満面の笑み。日本人のために祈りをささげてくれた。

さて、カブール取材もそろそろ終わりに近づいてきた。次回は1月、真冬に訪問したい。緊急にストーブとテントシートを援助しなければ、多くの子どもたちが凍え死んでしまうだろう。それまでの期間、日本で募金を集めることにしよう。

日本の看護師さんと ブログ用.jpg 写真はカンダハールの国際赤十字宿舎で撮影。彼女たちはもう一ヶ月以上、ここで医療支援している。今アフガンに必要なのは給油ではなく、このような民生支援だ。


ミルワイズ病院を取材中、驚くべき事実と遭遇した。なんと看護師の1人が日本人だったのだ。この病院は中国が建てて、アフガン政府が運営しているのだが、国際赤十字が全面支援している。その赤十字の派遣看護師として3名の日本人がここで医療活動に従事している。

3人のリーダー格の伊藤さんは名古屋から来ている。9月上旬にここカンダハールにやってきた。彼女はクンドゥズ、タロカンといったアフガン北部で同じような活動経験があり、カンダハールは3番目の勤務地。恐怖心に打ち勝って、ここで人命を救っている。彼女たちは赤十字のコンパウンドで暮らしていて、病院と宿舎を往復する毎日。アフガンで最も治安の悪い都市の一つカンダハールで、立派な人道支援、民生支援が成立している。

インド洋で米軍に給油することは、間接的な空爆支援であり、殺人加担である。オイルがなければ戦闘機は飛ばない。戦闘機が飛ばなければ空爆もない。
給油を続けるのは「通り魔に刃物を手渡している」のと同じだ。実際米軍の空爆は「通り魔」そのものである。村にタリバンがいるという情報があれば、村ごと焼いてしまい、そして逃げ去っていく。

つまり給油を続けるということは「加害者であり続ける」ということなのだ。では何ができるのか?

その答えは彼女たちが出しているのではないだろうか?軍隊に援助するのではなく、人々に援助するのだ。
「危険地域には自衛隊が行くべきではないのか」。おそらくこのような意見を持つ人がいるだろう。しかし現地で感じるのは、「自衛隊が行けば余計に危険」ということ。タリバンは間違いなく「米軍への協力者」を狙っている。もし自衛隊が行けば、サマワの二の舞になるだろう。「基地から一歩も外へ出れない」自衛隊が、どんな援助ができるというのだ。
彼女たち3人も赤十字の宿舎と病院を往復する毎日で、決して街には出ない。しかし病院での支援はずっと継続できている。

岡田外相がアフガンに来て、これから日本としてどんな支援ができるのか、議論が始まるだろう。ここカンダハールではJICAの援助で看護師養成学校ができている。市内の女子高も日本の援助で完成した。バーミヤンの地雷撤去は日本が一番予算を拠出している。

給油以外の方法で、日本はこれまで平和的に貢献してきた。何も難しいことはない。これまでどおりやればいいのだ。

全身やけど少女2 ブログ用.jpg

このブログは転送歓迎である。どうか多くの人にこの戦争を止めさせるべく、事実を伝えてほしい。
写真はミルワイズ病院でであった全身やけどの少女

10月14日、早朝からカンダハール市郊外の避難民キャンプへ。市内はまだ安全だが、郊外に出るとかなり危ない。したがって避難民キャンプではピンポイント取材にならざるを得ない。

市内のメーンストリートをでて数十分、一見して貧しい地区に入ったことが分かる。下水がないので、生活排水が道路に流れ出る。プラスチックのゴミが散乱し、そのゴミを羊が食べる。やがて風景は「日干しレンガ」に変わる。人々が泥をこねてレンガを作っている。この地域の家は日干しレンガでできている。そんな日干しレンガが並ぶ、荒涼とした台地に、泥でできた家と灰色のテントが現れた。避難民キャンプだ。
子どもが薪をロバに積んで歩いている。

「どこから逃げてきたの?」「食料はどうしているの?」などとゆっくりインタビューできないので肝心なところは分からない。ただカメラを回す。青年がやってきたので、「政府の援助は?」「どうして生活しているの?」この2点を尋ねる。
政府の援助はない。ここで日干しレンガを作って生活している、とのこと。レンガを作って一日3ドルの収入。それで家族を支えている。

避難民キャンプを後に、やはりミルワイズ病院へ。本日も新たな患者たちが運び込まれている。そんな患者たちを取材していると、全身包帯、顔には白い粉を塗った少女が現れた。
彼女はベドウィンの娘で全身おおやけどを負っている。全身を震わせて、苦痛に耐えている。

10月6日、ベドウィンたちはいつものように仕事を終え、山間部にテントを張って就寝した。午後10時、悪魔がやってきた。米軍の戦闘機だ。「このテントはタリバンの基地ではないか?」米軍はベドウィンたちが眠るテントを空爆した。そのとき少女たち兄弟姉妹はぐっすりと眠っていた。一瞬にして燃え上がるテント。阿鼻叫喚の灼熱地獄の中、父親は必死でこの少女をテントから救い出した。米軍の誤爆は、父親から2人の息子を奪い、4人の娘の体を焼いた。誤爆を認めた米軍は4人の娘のうち重症である2人を、カンダハール空港まで運んだ。ただ運んだだけ。謝罪も補償金もなかった。
やけどがひどくてのどが渇くのだろう、たえず少女は水を飲む。そして全身を震わせて搾り出すような鳴き声。

この少女を空爆したのは、「無人戦闘機」である可能性が高い。朝9時、ラスベガスの豪華ビルを見ながら、米軍基地に出勤する兵士たち。「おはよう」と挨拶して画面に向かう。コーヒーを飲みながら、現地からの情報を聞き、無人機を操作。「あのテントにタリバンがいる模様」「ラジャー(了解)」そして爆撃。勤めを終えた兵士は午後5時に帰宅し、家族と団欒。よき父親が殺人マシーンなのだ。
一方、現地では燃え上がったテントに地上部隊が突入。「あれ?このテントはタリバンのテントと違うようだぞ、畜生、ガセネタだったか。ベドウィンの娘がやけどを負っている。仕方ないな、ヘリで運んでやれ」。
おそらくこんなところだろう。

空爆のボタンを押した兵士は、「よき父親」としてハッピーな人生を送る。ベドウィンたちは家財道具を焼かれ、娘と息子を失い、一瞬にして避難民となる。こんな戦争を続けている米国大統領に「ノーベル平和賞」が授与された。授与されたのは9日、娘が焼かれたのは6日だ。

「アメリーキー、アメリーキー」父親が叫ぶ。この父親はノーベル賞があることすら知らない。「真実」を知れば、どう反応するだろうか。

どうもネットの調子が悪くて写真がアップできない。写真は後ほどアップする。以下、カンダハールでの取材模様


10月13日早朝にホテルを出てカブール空港へ。カンダハール行きの便を待つ。乗客は地元民が圧倒的。3、4年前まで、地元の人々はカブール~カンダハール間を車で移動するのが一般的であった。しかし道中がかなり危険になったので、人々は移動手段として飛行機を使わざるを得なくなった。地元民に混ざって、民間軍事会社の社員がチラホラ、そして私が数少ない外国人である。
約50分のフライトでカンダハール着。機内で着陸の模様を撮影していたら、「フィリピン人か?何を撮影している?」と若者が近寄ってくる。適当に答えていくが、ちょっと不気味。おそらくビデオカメラが珍しく、好奇心だけで聞いているのだろうが、「こいつがタリバンの内通者だったら」と思うと、うかつには会話できない。
空港にはISAFとアフガン軍の軍用ヘリ、米軍の戦闘機がズラリ。ここは軍事空港で、私たちが乗る民間機は「間借りさせてもらっている」状況なのだ。
空港を出る。通訳のイブラヒームがランドクルーザーの運転手となにやら話している。全て民間軍事会社の社員を運ぶためのランクルで、乗せてはもらえなかった。
バスに乗ってカンダハール市内を目指す。地元市民で満員のバスに乗る。
「誰も信用するな。市内に着いたらさっとタクシーを捕まえよう」とイブラヒーム。彼自身もかなり緊張しているのが分かる。
空港と市内を結ぶ道路は一本道で、米軍やISAFの戦車とかなりの頻度ですれ違う。カブールよりも数倍の兵士がここに来ている。

タクシーに乗り換え、「市内で最高のホテルに行け」とイブラヒーム。カブールでもそうだが、最高級ホテルはそれなりに警備がしっかりしていて、国連職員やジャーナリストが宿泊している場合が多い。相対的に安全である。
コンティネンタルゲストハウスへ。玄関に警備員が数名いて、バーの上げ下げで中に入れる仕組みになっている。このホテルが正解だ。
ホテルの中には、やはり民間軍事会社の社員たちがたむろしていた。屈強な体にスキンヘッド、そしてサングラス。なぜかみんな同じようなスタイルである。違いがあるとすれば肌の色が白いか黒いか。

ホテルで遅い昼食を取り、市内で最も大きいミルワイズ病院へ。連日のように空爆と銃撃戦、そして仕掛け爆弾(IED)による爆発が起こるので、この病院は戦争被害者で一杯だ。
外科病棟集中治療室へ。包帯ぐるぐる巻きの患者。仕掛け爆弾の被害者である。彼の左側で爆発があったらしく、左半身に破片が入っているようだ。人工呼吸器につながれてはいるが意識はある。

銃撃戦の流れ弾が貫通した7歳の子どもがいる。タリバンに撃たれたようだが、「誰に撃たれたの?」と父親に聞くも「犯人は分からない」。もし米軍に撃たれたのなら「アメリーキー」と叫ぶ。しかしタリバンにやられた場合は、名指しでは批判しない。なぜか?私たちのインタビューを病室で聞いているほかの患者が、タリバンの内通者である可能性があるのだ。
もし「タリバンにやられた」と証言しようものなら、後にこの父親は攻撃される可能性がある。それほど市民の中にタリバン支持者が増えているということだ。

少年は目にうっすらと涙を浮かべ、赤いホースをくわえてブクブクと呼吸練習。銃弾が肺を貫いているので、呼吸練習をしないと肺がしぼんでしまうのだ。
「一日に平均20~30件、手術するよ。銃撃戦、IED、空爆…。もうクレイジーだよ。医師の数が足らないので、休む間もない。日本政府に望むこと?とにかく医師を増やしてほしい。患者の数が多すぎて手が回らないんだ」と外科部長。
外科部長との会話は英語なので、地元民は理解できない。タリバンに関する微妙な質問にも答えてくれる。部長は「あの少年はおそらくタリバンに撃たれたのだろう」と証言した。

この病院には大型フリーザーが数台配備されている。遺体安置冷蔵庫だ。米軍の空爆は山間部で行われる場合が多いので、田舎から患者が運ばれるが、なくなるケースが多い。親族が遺体を受け取りに来る間、遺体を冷蔵せねばならない。かくして巨大なフリーザーが配備されたわけだ。
その中の一つを覗く。ご遺体が並ぶ。フリーザーの門の前にはお棺を載せた自動三輪車。この戦争で「葬儀ビジネス」が繁盛している。

病院を出て市内へ。車の中からの撮影が主になるが、「これは!」というところでは車から出てピンポイント撮影。その中の一つ、オマル師のモスクが建設中でストップしている。タリバンの指導者であるオマル師が2001年に建設した自分の名を冠したモスクである。
ご承知のとおり、9・11事件後、米軍の攻撃でオマル師はこの街を追われたわけで、今はどこにいるか分からないのであるが、フセインが故郷のティクリートで捕まったように、案外、この街のどこかに潜伏しているのかもしれない。

自爆テロ現場へ。かなり巨大な自爆で周囲の建物がすべて破壊されている。犠牲者は100人を越える。トラックに爆弾を積めて突っ込んだようだ。明らかにタリバンの犯行なのだが、地元民は「米軍が空爆した」と言う。空爆なら地面に大きな穴が開き、その穴に雨がたまって池になるはずだ。爆発があれば全て米軍の仕業と考えているのか、周囲にタリバン内通者がいるので本当の意見を言えないのか…。

夕刻、ホテルへと急がねばならない。車の前には米軍の戦車。のろのろと運転しているので、渋滞する。と、突然ピカッと緑色の閃光。
「米軍は戦車に車が近づきすぎると、レーザー光線で威嚇するんだ。最初が緑、次は赤。それでも距離をとらずに走ると、容赦なく撃たれるんだ」。イブラヒームは数回、このレーザー光線の洗礼を受けている。

緊張の市内取材を終えて、ようやくホテルへ。夜は絶対に出歩けないので、ここで朝まで缶詰。ここにいるとカブールが「平和都市」に感じる。戦場の町では日が出ている時間が勝負。明日は早朝から避難民キャンプへ行こう。

3日間このブログを更新できなかったので、心配されていた方もおられたと思う。
実は激戦地カンダハールに行き、現地の戦争被害の実態を取材していたのだ。今は安全なカブールに戻ってきたのでホッと一息ついているところである。

カブールからカンダハールまで飛び、そしてカンダハールで一番警備がしっかりしているホテルに飛び込み、ピンポイント取材を敢行してきた。カブールから陸路でカンダハールに行くこともできるのだが、陸路で行くのはクレイジーだ。おそらく道中、攻撃されてしまう。

このブログにて公開しなかったのは、①外務省から厳重に「カンダハールには行くな」と、いやカブールから出るな、と注意されていたこと、②カンダハールでは外出するのが危険なため、ネットカフェにいけなかったこと、③できるだけ身軽に行動したかったのでノートパソコンを持参しなかったこと、などで物理的に更新できなかったのだ。外務省のみなさん、とりわけ在アフガン日本大使館のみなさん、すいませんでした。無事ですのでご安心を。

タリバンの拠点の町であったカンダハールは、今や再びタリバンの影が忍び寄っている。米軍の空爆があまりにも悲惨なため、また無実の人々が殺され、逮捕されているため、多くの人々が、ニュータリバンになっている。カンダハールの街中で取材していても、外国人は私だけ。非常に目立つし、長居は無用。さっと撮影し、さっと立ち去る。移動中は車の中から街の様子を写す。市内を歩いているとき、こちらから「サラーム(こんにちは)とにこやかに挨拶しても、挨拶を返さない人もいる。カブールとは違う。もともと親切だったであろう人々が、怒りのために暗い表情になっている。

すべての外国人はこの街から出て行け!」というタリバンのメッセージが、じわじわと普通の人々の中に浸透しているように感じる。しかしひとたび話してみると、「日本から来たのか?俺は日本が大好きだよ」と、温かく迎えてくれる人も多い。疑心暗鬼。とっても親切な人に見える一方、この人がもしかしたら足り晩と通じているかもしれない…と感じるのも事実である。

カンダハールはほぼ100%の住民がパシュトン人で、どうみてもタリバン的な格好をしている。私の中に変な先入観が植え付けられているのであろう、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とでもいうべきか?

今回、カンダハール行きを敢行したのは、通訳のイブラヒーム。彼がいなければカンダハール行きはなかった。イブラヒームと熟慮し、今ならいけるだろうと判断したのだ。

今後米軍の空爆が激しくなれば、二度と行けない街になってしまうかもしれない。それほど微妙な情勢だ。
とりあえず肉体的にも精神的にも疲れたので、詳細については後日報告する。

避難民キャンプに物資を配る 1 ブログ用.jpg 写真はカブール郊外、チャリカール避難民キャンプ。トラック2台に満杯の食料と毛布を配った。避難民たちは「日本への感謝」を込めて、アラーの神に祈ってくれた。


10月12日、今日はかねてよりの課題であった、「避難民キャンプへの物資援助」を行う。本日より通訳をイブラヒームに交代。イブラヒームはここアフガンの女学校で英語を教えていただけあってクリアーな英語、そして人道支援への熱いハートを持っている頼れる男だ。

イブラヒームとカブール下町で援助物資の買出し。米、小麦、油、砂糖、大豆、お茶をそれぞれ10キロ100袋分。これをトラックに詰め込むだけで2時間かかる。さらに毛布200枚、カーペット200枚を別のトラックに詰め込む。これだけの分量を避難民に配るわけだが、飢えている避難民たちにいきなり配ろうとすると、絶対に彼らはパニックを起こす。あらかじめ、連絡先を入手しているワキール(娘がゴルジュマちゃん)に連絡し、列を作って待つように指示。念のため、地域の警官二人をパニック防止のため臨時雇用。
満を持してキャンプへと向かう。

午後3時、キャンプ到着。キャンプの責任者たちが私たちを待っている。「騒ぐな!」「並べ!」と怒鳴りつつ、何とか列を作らせる。
まず食料の配布スタート。整然と受け取ってくれる。その後毛布とカーペット。首尾よくいっていたのだが、終盤、食料と毛布がなくなりかけたときに、やはりパニック。大声で叫びながら避難民と警官が取っ組み合いのけんかをしている。
警官が避難民を警棒で殴り、事態が収拾。

事態を遠くから眺めていた私は、「また避難民が無理なことを言ったのかな」と思っていた。しかし事実は全く逆だった。残り少なくなった食料と毛布を、警官が「これは俺の家族の分だ」と、避難民に手渡さなかったのだ。
この国では警官への給料が極めて少ないので、色気を出した警官が物資をかすめ取ろうとしたのだ。これでは何のために警官を雇ったのか分からない。でもこれがアフガンの現実なのだ。
日本的感覚で「公務員がワイロにまみれている」というのはたやすい。しかしたかだが150ドル(約15000円)の月給で10人程度の家族を養わねばならない警官も、また必死だった。
もちろん避難民たちはその150ドルも得ておらず、さらに悲惨な生活である。しかし「お前ら、ちゃんと仕事をしろ!」と、警官2人を叱責できなかったのもまた事実である。

一通り物資を配った後、何人かにインタビュー。
「日本のみなさん、ありがとう。アッラーの神が日本のみなさんを守ってくれるでしょう」と、避難民たちはお祈りしてくれた。
本日配布した食料、トラック一杯分は、この避難民キャンプの人々の、およそ10日分でしかない。毛布はこの冬を越すために重宝されるだろう。

「冬のカブールはものすごく寒い。氷点下20度まで下がる。毎年一つの避難民キャンプで50~60人の子どもが死んでしまう。この毛布は、何人かの子どもの命を救うだろう」とイブラヒーム。真冬の1月までに、ストーブと灯油が必要とのこと。死と隣り合わせの避難民キャンプに、国連も政府もNGOも、何の援助もしていないのはなぜだろうか?

以上が本日の行動内容である。明日からしばらくネット環境が悪くなりそうなので、このブログはしばらくお休みである。できるだけ早く発信できることを願う。みなさん心配しないでブログ復活を期待されたし。


カブールの小学校を訪問する岡田外相 ブログ用.jpg カブール市内の小学校を訪問した岡田外相。「日本のこと知ってる?」と子どもたちに気さくに話しかけていた。

10月11日、本日は岡田外相がカブールを電撃訪問する日である。午前10時、アフガン外務省前でスタンバイ。待つこと30分、兵士を乗せたピックアップトラックに続いて黒塗りの車が数台。その中の一台からテレビでおなじみの岡田外相が登場。いっせいにフラッシュがたかれ、SPと日本大使館員と私たちカメラマンが先を争って外相の後を追う。
日本・アフガンの両外相が握手したところで、「カメラは外へ出るように」との指示。

外へ出て次なる外相の訪問先を訪ねる。カルザイ大統領府に行き、その後地元の小学校を視察するとのこと。
地元小学校で岡田外相を待機。

午後1時半、やはり数台の黒塗りカーとともに外相が登場。小学校の正門には歓迎の花束を持つ教師と生徒。その中を外相が「やぁやぁ」と入ってくる。やはりいっせいにたかれるフラッシュ。「カメラ、移動してください」と大使館員が叫ぶ。岡田外相にぴったりくっついているのはおそらく「コントロールリスク」という民間軍事会社の警備兵。

混雑の中、外相は一教室ずつ丁寧に回る。「コーラン読めるの?読んでみて」とのリクエストに、朗々とコーランを読み上げる子ども。「教科書は足りているの?」との問いには、「教科書はあります。でも教室が狭いんです。それに夏は暑いし冬は寒い」などと答える子どもたち。「日本ってどこにあるか知ってる?」との問いには、多くの子どもが首を傾げる。

ひとしきり小学校を視察した外相は、風のように黒塗り車で去っていった。
わずか4時間程度の滞在であったが、現地を見ないよりは見たほうがずっと良い。忙しい中、そして危険を顧みずカブールを訪れた外相。これも政権交代の成果なのだろう。

インド洋の給油に代わる民生支援。それはおそらくこうした小学校への援助や病院、農業、女性の自立など、一般の人々への支援であるはずだ。一刻も早く米軍への給油をやめ、こうした民生支援に切り替えるべきである。岡田外相がそうした「チェンジ」の旗振り役になってくれることを願う。

パルワンドゥー避難民キャンプから豪華なマンションを望む ブログ用.jpg パルワンドゥー避難民キャンプから豪華マンションを望む。戦争によってアフガン人の格差が広がっている。


10月9日、カブール市内のあちこちに豪華なショッピングセンターやきれいなマンションができているので、その復興ぶりを取材。カブール・シティー・センターには7階建てのビルができていて、入り口には金属探知機。それを抜けるとエスカレーター。2階へ上がると、ジュエリーショップ、コンピューターショップなどが並ぶ。こうした光景だけを見ると、アフガンは着実に復興しているように見える。

カブール・シティー・センターから大通りを車で走れば、道路の両サイドには建設中の建物がズラリ。洒落た建物が並ぶ地区があったので、車を止めてこのビルは何かと訪ねる。

私立大学とマンションであった。まぶしいくらいの日差しを浴びてきらきらと輝く出来たてのビル。そのビルの横には薄汚いテントが連なる。

「パルワンドゥー避難民キャンプ」には約500名ほどの人々が生活する。このキャンプができたのはほんの数ヶ月前。全てがパキスタンからの帰還難民である。
旧ソ連の侵攻で、隣国パキスタンに逃げたアフガン人たち。パキスタン、ペシャワールでの難民生活は20数年に及んだ。
「アフガンは平和になった。もうここにいる必要はない」とパキスタン政府が難民たちを故郷アフガンへ追い立てた。仕方なく、彼らは帰還した。しかし彼らの家はすでになかった…。写真をご覧になれば分かるように、この貧富の差を生み出したのは、30年に及ぶ戦争である。

アフガン復興費にいち早くありつき、うまくドルをせしめた人々は豪華なマンションに住む。戦争で家を奪われた「流浪の民」は、テントで生活し、この冬を乗り越えられるかの瀬戸際にいる。そしてやはりこの流浪の民たちに、国連や政府の援助はない。
アフガンの冬は寒い。この避難民キャンプにも食料と毛布が必要だ。

ゴルジュマちゃん ブログ用.jpg 写真は、アフガン郊外の避難民キャンプで撮影。彼女は米軍の空爆で左手をもぎ取られた。


10月8日に発生した自爆テロ現場取材後、カブール郊外のモジュリーン避難民キャンプを再訪する。6月に軽トラック一杯分の食料を配布したところだ。今回は①今一番何が必要か②パニックにならずに全ての避難民に届ける方法は?という調査と、③新たな犠牲者の取材、である。
前回同様、キャンプに入るや否や、「俺の家族は満足に食事できていない」「母親が寝込んでいる」「うちのテントにはまだ屋根がない」など、黒山の人だかり。その中に「娘が空爆にあって重傷を負った」という男性あり。彼のテントへ。
ワキールさん(40歳)はヘルマンド州に住んでいた。一年前、「村にタリバンがいる」と米軍機がワキールさんの家を空爆、10人の家族を失った。
その爆撃で9歳の少女、ゴルジュマちゃんの左腕がもぎ取られた。彼女は1ヵ月半入院し、肩の部分から左手を切断した。
「学校には行っているの?」「うん」と恥ずかしそうにうなずく。右手には腕輪が数個。失った左手の分まで腕輪をはめているのだろうか。
「勉強は楽しい」と聞くも、小さな声で「うん」とうなずくのみ。父のワキールさんが「学校には喜んで行っているよ」とフォロー。
学校といっても、UNICEFと書かれた大きなテント。そこで文字を習っているのだ。将来は先生になりたいと語る彼女。10人の家族と娘の片腕を失ったワキールさん一家に、米軍の補償はない。誰がタリバンで、誰が普通の農民だったか、についての調査もない。
「殺され損」「やられ損」である。ゴルジュマちゃんの片腕を奪った米軍。その米軍を指揮しているオバマ大統領に、本日ノーベル平和賞が出た。なんというブラックジョーク。
通訳は「ノーベル戦争賞がふさわしい」とつぶやいた。
実は本日は、私の娘の命日である。彼女は18トリソミーといって、先天性の遺伝子異常で、心臓に穴が開いて生まれてきた。娘が死んだとき、私たち家族は悲嘆にくれたが、ワキールさん一家の嘆きは、いかばかりであっただろうか。
ゴルジュマちゃんは目のパッチリした美人なので、父親は、彼女の結婚式を楽しみにして育ててきたという。こちらの結婚式は派手で、一族の名誉がかかっているのだ。
そんな家族の幸せを一瞬にして奪ってしまった空爆。オバマ大統領へのノーベル平和賞は偽善の塊である。


自爆テロ直後の病院と被害者 病院の天井が破壊されている ブログ用.jpg 写真は、自爆攻撃後、病院に運び込まれた重傷者。病院の天井も爆発の衝撃で破壊された。

10月8日、午前8時半に社民党の阿部、服部議員が宿泊するセレナホテルへ。ホテルの受付で両議員を待っていると、共同通信の記者から電話。私の宿泊するムスタファホテルのすぐそば、内務省とインド大使館の間の路上で自爆テロがあったとのこと。

あわててホテルへ戻り、テロの惨状を取材。ムスタファホテル前には警官がたくさん張り付いていて、「入るな!」と怒鳴っている。「俺はこのホテルに泊まっている、入れろ」と気合で進入。ホテル屋上から自爆テロ現場を撮影。

現場は軍と警察ががっちりガードしていて近づけない。

仕方なく犠牲者が運ばれた病院へ急行。病室の床に血がこびりついていて、看護師の制服には血のあと。包帯を巻いた患者がうめきながら治療を受けている。
この時点で死者4名、重軽傷者64名と発表されていたが、その数字は時間ごとに増えていき、このブログを書いている時点で、死者13名、重軽傷者85名に膨れ上がった。
明後日に大統領選挙の正式な結果発表がある。第2期カルザイ政権誕生に不満を持つグループの反抗だろうか、それともインドに敵意を燃やすパキスタンの情報機関が絡んでいるのだろうか…。

本日は4箇所の病院を回り、その後避難民キャンプの取材をするのだが、私の宿泊するムスタファホテルが危なくなったので、内務省から少し離れたホテルに移動することとなった。
自爆攻撃は発生したが、事態はすぐに静まり、カブールの人々は普段どおりに行き交っている。自爆になれたのだろうか?それとも30年も戦争をしていれば、これが普通の状態なのだろうか?
考えてみれば太平洋戦争末期の日本も同じような状況だったのかもしれない。心斎橋が燃やされていても、梅田の人々は普通に生活していたのかもしれない。

今日は社民党・民主党3名の議員が帰国される前夜に加えて、ホテルを変更した。バタバタしているので、ブログはいったんここで中断する。カブールの危険度は多少上がったように感じるが、まぁ普通に過ごしているので、心配せず、帰国するのを待っていてほしい。

10月6日ドバイへと出発の日、地元吹田で寿司を食べる。回っている寿司ではなく止まっている寿司である。しばらく飲めないであろう日本酒をしこたま飲んで、にぎり寿司に舌鼓。午後8時、関空へと向かう。愚妻の運転で阪神高速環状線に出たとき、胸ポケットがいつもより軽いのに気が付く。
「パスポートは?」あわてて胸ポケットをまさぐるも、ない。

あわてて寿司屋と家に電話。なんと我がパスポートは家の机の上。息子にパスポートを駅まで持ってこさせて、再度吹田から関空まで車をすっ飛ばす。うまい日本酒も大トロのとろける味も吹っ飛んで、関空到着が10時過ぎ。何とか間に合い機中の人となる。
「慣れてきた頃に油断するんや。これを教訓に慎重に取材してや」。愚妻の言葉に一言も出ない。
10時間のフライトでドバイ到着。すぐにアフガン行きのチケットを購入。ラッキーなことに待ち時間ほとんどなしで、3時間のフライトでカブール着が午前9時半。
あっという間にカブールまで来てしまった。

3ヶ月ぶりのカブールは、明らかに街の様子が違っていた。まずコンクリートの壁が増えた。自爆攻撃を防ぐための要塞である。そしてイラクでも見かけたのだが、不気味な無人飛行船が上空にプカリ。米軍が市民生活を監視するために24時間飛ばしている監視船である。

前回と同じくムスタファホテルに宿泊。その後国連の「選挙監視センター」へ。大統領選挙に不正があったという疑惑を、このセンターで調べて票数を再カウントしている。大きなドームに、多数の選挙箱が積み上げられている。ほとんど全ての「疑惑票」が調べられていて、10月10日に結果が出る予定。かくして8月20日の大統領選挙結果が決着するところまでこぎつけた。あさって10日の発表が楽しみだ。
次にカブールの自爆テロ現場へ。ここは空港からの一本道で、周囲は商店街が広がる大通り。ここでイタリア軍を狙った自動車爆弾が炸裂。イタリアの兵士と市民多数が殺傷された。爆発はかなり大規模なもので、商店街は広範囲に破壊されている。

「俺の息子が死んでしまった、この写真を見てくれ!」とおじいさん。犯人はタリバンだといわれているが、おじいさんは「外国軍が居座るからだよ。米軍もタリバンも同じ犯罪者だ」と嘆く。

夕刻、現地視察に来ている社民党の阿部議員、服部議員と面談。インド洋の給油に代わる民生支援のあり方を調査するため、現地に来られたのだ。あらためて政権が交代したことを実感する。なぜなら自公政権では給油が延長されていただろうし、「危険」といわれているカブールに滞在し、現地調査する議員も出てこなかっただろうと思うからだ。しかし現地を見て見ないと本当の支援のあり方は分からないわけで、こうした国会議員の体を張った調査活動は貴重なものだと思う。

明日は01年にアフガン戦争が始まってからちょうど8年目に当たる日である。明日もきっちりと取材したいものだ。

いよいよ本日出発する。4日の平和コンサートは約200人の参加で、入場料収入と募金で約26万円が集まった。この募金と今までいただいた募金をあわせて約200万円の予算があるので、これをイラクとアフガンの避難民キャンプに持って行きたい。
具体的には、アフガンでは食料と毛布、イラクでは毛布と医薬品にして配るつもり。
募金いただいたみなさん、コンサート参加のみなさん、参加できなかったけれど心は一つとおっしゃるみなさん、ありがとうございました。
4日のコンサートでアフガンとイラクの映像を流した。よろしければご覧ください。
http://move.b-fx.net/modules/cinemaru/movie.php?id=8 でアフガン
http://move.b-fx.net/modules/cinemaru/movie.php?id=9 でイラクがご覧いただけます。
日本にいるときはほとんど更新していないこのブログですが、明日からはほぼ毎日更新でいきたいと思いますので、ちょくちょく覗いてくださいね。
では行ってきます。

長らくこのブログを更新してこなかった。怠慢な性格に我ながら情けない。
日本にいるとバタバタと時間だけが過ぎて、気が付けば、本年3度目の中東取材の日まであと4日。
まずは10月4日の平和チャリティーコンサートを成功させねばならない。アフガンでは食料と毛布、イラクでは毛布と医薬品を届けたいので、コンサートでどれだけ資金が集まるか、が勝負である。

今回のアフガン行きは、首尾よくいけば、なんと現地で社民党から初当選した服部議員と会える可能性が大。服部さんらは、アフガンでの支援のあり方を考えるため、危険を顧みず4日から現地入りするのだ。
政権が交代し、今までとは違う政治の流れが生まれつつある。本当はもう少し社民党、共産党の議席が伸びればよかったと思うのだが、まぁ実際の政治が変わりつつあるのはうれしい限りだ。
以下は、新聞うずみ火に掲載した、「選挙結果を受けてどう思うか」という拙文。

写真を持つ男性の手が怒りに震える。「米軍の空爆で娘は殺された。俺たちはタリバンではない、普通の農民だ」。腹から血を流している2人の娘は12歳と16歳。「誤爆」だ。昨年戦闘に巻き込まれて殺されたアフガン人は2800名を超える。そのうちの4人に1人が「誤爆」によるものだ。

日本は自公政権の下で、米国の戦争に「ポチのように」従い、多額の税金を浪費し、「テロとの戦い」を後方支援してきた。政権が交代し、まずチェンジしなければならないのは、「インド洋での給油ストップ」だ。

もし米軍にガソリンがなければ、この娘は殺されずにすんだかもしれない。「給油は間接殺人」なのだ。
鳩山政権の試金石は、米軍への思いやり予算をカットできるか?だろう。「官僚政治打破」「政治主導」などとかしましいが、官僚だろうが、政治家だろうが、問題は中身のはず。少ない予算から何をカットし、何を充実させるか?

子どもへの手当、農業や中小企業への支援、失業者へのセーフティーネット拡充などなど。未曾有の不況、少子化、食の安全などを考えると、これらはすべて喫緊の課題。増税せずにこれらを実施しようとすると、何かを削らねばならない。それはズバリ防衛費だ。米軍の人殺しに、血税が使われているという事態を、一刻も早くチェンジしなければならない。

そのためには政権内部の社民党がどこまで奮闘できるか。もちろん共産党が外部からアシストすることも必要だ。両党合わせて16議席。たかが16、されど16議席が、この国の命運を握っているといっても過言ではないだろう。