2010年1月アーカイブ

RAWAが送ってくれた写真 女性虐待 ブログ用.jpg 写真はRAWAから提供されたもの。夫に虐待され、身体は焼かれ、肋骨が折れていた。現在セーフ・ハウスで暮らしている。

今回の取材で、お世話になったのがRAWAのカブール担当者。RAWAとは、Revolution association of the women of Afghanistanの略。「アフガン女性解放協会」とでも訳される団体である。

RAWAのカブール担当者は、20歳代の若き女性。仮に名前をノリスさんとしておく。彼女は本名を明かすのを拒んだ。カルザイ政権からも、タリバンをはじめとするイスラム原理主義者からも、RAWAは狙われ、弾圧されている。
ノリスさんに会ったときも、「私たちの活動は、ここアフガンでは非合法なので、目立つと困る。どこか秘密の場所で会いたい」とのことだった。

実際にRAWAの創始者は暗殺されている。

インタビューの場所に選んだのは、ムスタファホテルの、とある一室。レストランやカフェなどでは誰が見ているかわからないので、ホテルには別々に入り、あらかじめ定めた部屋に入室する。
アフガンでは、一般的に男性である私が、女性を撮影するのは難しい。ノリスさんを撮影するのは、別の意味で配慮が必要だった。彼女は「男の前では顔を隠さねばならない」「女性は仕事をしてはならない」などというタリバン的な政策に真っ向から反対して、闘ってきた女性であるから、「顔出しインタビュー」は歓迎である。しかし政治的弾圧があるので「顔出しインタビューは困る」のである。先日も名前を名乗らない男から、「RAWAの活動を続けると、殺す」という電話脅迫を受けたばかり。
顔を隠してのインタビューで、今のアフガン女性の状況の一端を垣間見た。

―戦争未亡人が多いでしょ。彼女たちはどうして生計を立てているの?
「物乞いです。よっぽどラッキーな女性でないと、仕事には就けません。路上に出て寄付を求めて歩いています。最近、カルザイ政権が『路上での物乞い禁止』を言い出したので、未亡人たちは、さらに厳しい状況に追い込まれています」

―再婚できるのでしょうか?
「貧困や戦争で夫が亡くなった場合、夫の兄弟に嫁ぐ場合もありますが(イスラムでは4人まで妻を持てる)、経済的な理由もあって再婚できない場合が多いです」

―レイプも多いそうですね。どのような場合に、多くレイプされるのでしょうか?
「軍閥たちにレイプされる場合が多いです。銃を持っていますので逆らえません。イスラム原理主義者にも襲われる場合が多いです。被害を受けてもほとんど泣き寝入りです」

―勇気ある女性が、例えば警察に訴えたりできないのですか?
「もし警察に訴えたら、その女性は警官たちにもう一度レイプされます。実際にそうした例を私たちは見てきています」

―夫からの暴力被害(DV)も多いのでしょう?
「そうです。体中にアザを作り、骨折した状態で逃げてくる女性が多いです。私たちはそんな女性たちを保護する『セーフ・ハウス』を運営しています。夫が奪い返しに来る場合があります。奪い返されると、生死の問題になります」

―そんな暴力的な夫なら、離婚の自由もあるでしょう?
「法律では、あります。しかし実際は離婚は不可能です」

―妻が実家に逃げて帰ればどうなりますか?
「一族の名誉が傷ついた、と父や兄弟に殺される可能性があります。実家には戻れません」

―では家庭内暴力を耐え続けるしか方法はないのですか?
「唯一の方法が、自殺です。灯油をかぶって焼身自殺する女性が、多く出てきます」

―虐待されている女性を保護したり、戦争孤児を育てたりしているRAWAが、なぜ過酷な弾圧にあうのですか?
「男性は家事をしなくて良い、レイプしても捕まらない、暴力を振るって女性を従わせる、などという古い考え方は、男性にとって都合が良い。『イスラムの教え』という口実をつけて、そのような社会を、変えたくないグループがいるのです。それはイスラム原理主義者であるし、カルザイ政権も同じ考えです。したがって私たちは双方から狙われています」

ノリスさんの証言は以上のような内容だった。今回の旅では、RAWAに密着する時間が少なく、セーフ・ハウスや虐待の内容などを詳しく取材することができなかった。次回への宿題である。RAWAは旧ソ連からも狙われていた。権力者にとっては、「女性の解放」は都合の悪いことなのだろう。
昔、日本では「戦後強くなったのは、女性と靴下」と言われた。女性が強くなることは結構なことだ。アフガンほどではないが、イラクでも、出戻ってきた娘を父が殺す、という「名誉殺人」がある。
戦争で社会秩序が乱れ、レイプも増えている。タリバン時代はほとんど一件のレイプ事件もなかった。ばれたら公開処刑場で石投げ処刑だった。
石投げ処刑も許せないが、レイプの横行、そして警官によるセカンドレイプも、断じて許されないことなのだが…。

米軍の毒ガスを吸った子ども2 ブログ用.jpg 写真は、カブールのインディラ・ガンジー子ども病院にて。手にしているこの管は、この子どもの胃に直接入る栄養分の管。ISAF軍の空爆後、体調が激変した。

カブール中心街より車で、空港方面に15分、国道沿いにインディラ・ガンジー子ども病院がある。病院玄関には子どもを抱きかかえた父母が並んでいる。

RAWAのカブール担当者マヤールさんは、この病院に入院する子どもたちの支援を、粘り強く続けている。
マヤールさんの案内で、ガンジー病院の副院長にインタビュー。彼は、米軍が使用した劣化ウラン弾によるとと思われる影響で、アフガンにたくさんのがん患者がいること、そしてその数は増え続けていること、劣化ウラン弾だけではなく、化学兵器を米軍が使ったと思われること、などを医者の立場で証言した。
「できるだけ典型的な患者を」とのリクエストに、案内されたのが小児病棟。

写真の子どもは4歳。昨年ISAF軍(おそらく米軍であろう)の空爆で、母ときょうだい全てを殺され、生き残ったのが、父親とこの子どもだけ。
ISAF軍の空爆で、この子どもは肺呼吸が困難になり、胃腸の消化機能が著しく低下した。父親が公文書を持っている。
「ISAF軍が毒性のガスを空爆したので、この子どもは障害を持った」と書かれている。その証明書には、ISAF軍の空爆で、この子ども一家は、母ときょうだいを殺された、との証明も。
この4歳の子どもは、空爆後体重が減っていき、今では4歳にしてわずか9キロ。頭髪も抜けかけている。4歳で9キロ、そして服を脱がせてみると…。

心臓の辺りから管が出て、その管が二つに分かれている。
「毎日こうして注射している」。父がその管に注射器をあてるまねをする。消化機能が衰えたので、栄養分を直接、この管から内臓に注入しているのだ。

明らかな異常事態。それも空爆後に。

担当医師は劣化ウラン弾の存在を知っていた。しかしこの子の場合ウランの影響ではなく、化学兵器(毒ガス)の影響かもしれない。イラクのラマーディーから逃げてきた子どもにも、毒ガスとしか考えられない症状が現れていた。呼吸器と消化器を攻撃する毒ガスが、存在する。米軍はいったい何をしているのだろうか?なぜこのような事実が報道されないのだろうか?

その後、小児がん病棟を見て回る。
イラクとまったく同じ光景がそこに繰り広げられていた。白血病の子ども、抗がん剤の副作用によると思われる頭髪が抜け落ちた子ども、原因不明の吐血が続く子ども、様々ながんの子ども…。
がん病棟とともに、悲惨だったのがやけどの子どもたち。カブールはじめ、アフガンは寒いので、暖房の効いていない貧しい家庭の子もたちはつい火に近づく。暖かい衣服もなく、氷点下のカブールでは石炭ストーブが、冬を越す手段だ。
結果、衣服に火がついて焼け死ぬ子どもが後を絶たない。

やけどの子どもを撮影する。肉が赤く露出し、泣き叫ぶ。悲惨、そして地獄。貧困は、子どもを凍死させるし、時として焼け殺す。日本では考えられない事態が、アフガンで進行中である。
私はイラクで多くのがんの子どもたちを取材した。「想像以上の事態が進行中である」と、この「イラクの子どもを救う会」を立ち上げた。同じ被爆国として何かできることを、と支援活動を始めた。
アフガンでも、同じ状況が進行中であることがわかった。

劣化ウラン弾がアフガンでも使われ、そしてその被害者が急増している、という事実。
今回、それが初めて、私の中で証明された。

イラク戦争を「ブッシュの戦争」と呼ぶのなら、今のアフガン戦争は、「オバマの戦争」である。オバマの戦争も、同じように汚れ、腐りきっている。
急がねばならないのは、「オバマの虚像」を崩すことである。

孤児施設1 ブログ用.jpg 写真はカブール市内の孤児施設 豊中市の小学生が描いた絵をプレゼントした

1月17日、ジャララバードよりカブールまで無事帰還。標高1800メートルのカブールは凍てつく寒さなのだが、雪は降らず「例年に比べ段違いの暖かさ」だという。
あらかじめ連絡を取っていたRAWAのカブール責任者と面会。

RAWAとはRevolution association of the women of Afghanistan つまり「アフガン女性解放協会」。(RAWAについては後日詳述する)
RAWAの案内で「戦争孤児施設」へ。RAWAはイスラム原理主義者からもカルザイ政権からも、組織解体を迫られ、弾圧されている。したがってこのような施設には看板が掛かっておらず、一見すると民家と変わらない。

RAWA担当者は、通訳のイブラヒームが同行するのさえ、拒否した。移動手段はタクシー。専用車だと秘密警察に尾行され、この孤児院がRAWAの運営だとばれてしまう恐れがある。日本で言えば戦争中の共産党の活動のようだ。

孤児院は3階建てで、この場所へ移転したばかり。前の場所は狭くて、増え続ける戦災孤児を受け入れるスペースがなくなったため、昨年移動したばかり。
普段は80名ほどの孤児たちがここで生活しているのだが、今は冬休みなので、片親が生きていたり、祖父母がいる子どもは故郷に戻っていて、本日会えたのは14名の子どもたち。
豊中市の小学生が描いた絵を子どもたちに手渡す。喜んでいる。

14名の子どもの中ではバーミヤン出身者が多かった。バーミヤンは雪深く、遠いので村に帰れず、ここで冬休みを過ごしているのだ。1998年からの「タリバン時代」、バーミヤンでは大虐殺が行われた。ハザラ人主体のバーミヤン自警団と、タリバンが大規模に戦闘を行い、結果、ハザラ人たちは虐殺されていった。当時1~3才で父親を失っているので、父の記憶がない子が多い。

この子どもたちは主に欧米の「養親」がバックアップしていて、子どもたちが中学卒業後も「学びたい」という意思があり、養親たちが「支援する」ことを続ければ、高校にいけるが、この二つの条件がそろわなければ、働くことになる。

孤児院の次は、病院を訪れる。カブール市、インディラ・ガンジー子ども病院で、私はイラクと同じ光景を見ることになる。

ジャララバードで 中村さんと ブログ用.jpg

「やぁ、よく来たね」。その人はそこに居るのが当たり前のように、ドアから出てきた。中村哲さん。ジャララバード、ダラエヌールの地で、用水路を建設してもう10年が過ぎている。

まさかダラエヌールで中村さんと会えるとは思っていなかった。この地で農業支援中に、不幸にしてお亡くなりになった伊藤和也さんのお墓にお参りしようと思って、ダラエヌールを訪れた。伊藤さんのお墓の場所を探しながら、道行く人々に聞いていくと、
「俺たちは、日本に感謝している。ナカムラ先生に。ミスターイトーの件は、本当に申し訳ないことをした。イトーのことなら、あそこの事務所で聞けばいい」。紹介されたのが、ペシャワール会の事務所だった。

中村さんは伊藤さんの事件以来、ここで1人で用水路建設に携わっている。ランドクルーザーに乗せてもらい、水路の建設とその結果できあがってきた緑の大地を見せてもらう。
「私が来たとき、ここは全て砂漠でした。この水路は7年前に建設を開始し、3週間後に完成します」
「水さえあれば、人々が生活できるんですね」
「この周辺の土地は、全て私たちが建設した水路が命綱になっています。例えばこの水路は完成すれば23キロになりますが、15万人の命を救ってくれます」

中村氏の言葉通り、水路沿いの土地は見事に小麦畑に変わっている。そして人々が家を作り、村ができ始めている。
「彼らは、この村に帰ってきたのです。旱魃で食えないから難民になった。ジャララバードの橋からこちら側(東側に当たると思う)は、全てこの間私たちが作ったり修繕した水路で、農業が成立しています」
草木も生えない乾いた大地が、一本の水路によって緑に変わっていく。カメラを回しながら、感激して言葉も出ない。

「彼こそ、ノーベル平和賞にふさわしいよ」イブラヒームも感動している。

クナール川の取水口や、洪水時のための貯水池、水門や防砂林などを見て回る。重機も使っているが、アフガン人たちのほとんどは手作業で溝を掘り、石を並べる。私たちが通り過ぎると、みんな笑顔で手を振ってくれる。
「約600人を雇用しています。彼らは農民なので、器用に何でもやりますよ」。
この事業は、大地を潤しながら、現地の人々の雇用も生み出している。
対岸で「HITACHI」と書かれた大型重機を運転しているのもアフガン人。
すると中村さんは水路にジャブジャブ入って行き、なんとその重機を自ら運転し、「こういう具合に土砂で固めて」などと指示している。必要に迫られたとはいえ、土木工学や水流に関する理論などを学ばれたからこそ、できる作業である。

1時間ほど水路に沿って走ると、きれいなモスクと学校が現れた。何とこれらの施設も中村さんたちが建設した、という。
「モスクと学校も3週間後に完成します。水路の開通と合わせて記念式典を行う予定です。あのモスクは、私が設計したんですよ」。

もう完全に脱帽状態。同じ日本人であることに誇りを感じる。
「なぜモスクを作るかというと、まぁ日本で言えば神社みたいなもの。村の共同体にとってモスクが必要なのです。揉め事があっても、モスクでジルガ(会議)をして解決する。モスクで勉強も教えることができる。相談事もモスクで行う。モスクにはいろいろな機能があるのです」

学校は?
「両親を失った孤児が多い。両親が健在でも貧しくて勉強する余裕がない。学校建設も長年の悲願でした」
もちろん、モスクや学校を作っているのも、中村さんたちが雇った現地の人々である。
クナール川下流の、別の村への取水口へ。タリバン時代に作られた用水路が干上がっている。なぜか?原因は対岸の護岸工事。米軍の一部であるPRTが、水路の知識もないままに「見えるところだけ」護岸し、そのままメンテナンスもないままに放置したからである。

どういうことか?PRTが行った「護岸」工事によって、対岸は守られたが、護岸壁に当たってはね返った水流が、こちら側の川底を掘り下げたため、川の水位が低下しこのタリバン時代の取水口に水が届かなくなってしまったのだ。
結果、下流の村が飢えた。

中村さんたちは、新たな取水口を作って、新たな水路を建設中だ。
「米軍は2重に邪魔をする。一つは空爆など戦争で人を殺す。もう一つは、『支援』と称して逆に貴重な財産(この場合は水路)を使えなくしてしまっているのです」。

最後に中村さんはこう訴えた。
「水路を作り始めて、今年で10年になります。今年が一番降雪量が少ない。このまま放置すれば、旱魃になります。3万人の米軍増派で、戦争はさらに拡大する。そんな中飢饉が襲う。今年は間違いなく悲惨な年になります。川の水量が少ない1月2月までに、あの取水口工事と新たな水路建設を急がなければ、暴動が起こる可能性もあります」。

日本は今すぐ、米軍増派に反対し、PRTへの支援をストップし、国際社会の中で平和への対話を呼びかけるべきだろう。50億ドルがPRTへ流れないようにすることが大事だ。現地の人々は、PRTは米軍と同じだと認識している。


ジャララバード・チャンタラ避難民キャンプの子ども1 ブログ用.jpg 写真は、ジャララバード郊外の「チャンタラ避難民キャンプ」で。8万人が住むキャンプに、井戸が一本もない。

1月15日早朝6時。氷点下のカブールを出発しジャララバードを目指す。カブール~ジャララバード間は、舗装された立派な道。カルザイ政権が巨額の費用をかけて、3年がかりで整備した。おそらく巨額の援助金に、建設会社と政府官僚がおいしいところを持っていったのだろう。

左手に巨大なアフガン軍基地を見ながら、高速道路のような道を30分も行くと、カブールともお別れ。実はカブール市内からこの基地あたりまでが、仕掛け爆弾の可能性が高くて、この「カブール出口検問所」を越えれば、安全性が高まる。ここからジャララバードまで何もなければ約3時間。米軍が通過したりすれば、そのつど待たねばならないので、時には4時間にも5時間にもなる。

本日は金曜日でイスラムの休日。行き交うトラックも少なく、午前9時半、ジャララバードに到着。
早速ジャララバードの避難民キャンプをめざす。

国道を歩く人に道を聞いていると、「プァオーン」という大きなサイレン。一本道の国道を、米軍の車列が通る。先頭の装甲車から米兵がマイクで何か怒鳴っている。「道を空けろ」と言っているのだろう。ちょうどその時、国道沿いの売店にいたので、売店の柱の影から米軍車列を撮影しようと、カメラを取り出したときだった。

「やめろ!撃たれるぞ!」。イブラヒームと周囲にいたおじさんが「撮るな!」と叫ぶ。柱の陰に隠れて撮影しているのが見つかれば、米軍への襲撃者とみなされて容赦なく撃たれるのだ。
「米軍はタリバンよりもずっと恐ろしいぞ」とおじさん。彼はアフガン警察官で、きょうは非番なのだそうだ。国道沿いにいた人々は、私を含め、隠れずにそのままの状態で立つ。抵抗する意思がないことを米軍に示さねばならない。数台の装甲車が通過していく。
近寄ってもいけないし、逃げてもいけない。ただその場で立つ。そして見送る。
これがルールなのだ。

さて、その国道からそれて30分ほどでこぼこ道を走ると、広大な避難民キャンプが現れる。
「チャンタラ避難民キャンプ」には、約8千家族が住んでいる。1家族平均で10人いるとすれば、約8万人もの人々が、ここで不自由なテント生活を送っていると言う計算になる。
見渡す限り、草木一本生えていない乾いた大地。
そこに延々とテントと泥でできた家が続いている。

避難民のほとんどはパシュトン人で、パキスタンから2年ほど前にここに戻ってきた人々である。
2年前、パキスタン政府は「もうお前たちは、アフガンに帰れ」と強制退去させられた。同時にアフガン政府は「政府が土地と家を保障する」と帰還を奨励した。
パキスタン・ペシャワールから帰ってきたものの、政府から土地と家を与えられた人は本の少数で、大多数は約束の土地をもらえず、こうして「帰還難民」となった。

カブールのチャライ・カンバーレ避難民キャンプやパルワンドゥーキャンプと違うのは、水がないこと。乾ききった大地に井戸はなく、避難民たちは川まで水を汲みにいかねばならない。水汲みは女性と子どもの仕事で、1日に数回、プリタンクを担いで片道20分の距離を往復する。川の水は汚いのだが、その水で生活する。

少しばかりの金がある避難民は、水を買う。このキャンプのそばに私企業が井戸を掘削し、ポンプでくみ上げ、それを給水車に積んで、水を売って回っている。
ドラム缶2本分くらいある大きなタンクで、8ドル。日本では安いと感じる人も多いだろうが、ここでの避難民は1日1ドル以下で生活している人がほとんど。8ドルの水を買えない家族は、やはり川の水を飲まねばならない。

貧困ビジネス。
日本では、派遣労働者に不当に高い家賃のアパートや、高金利の金を貸したりして、その良識が疑われる企業があるが、ここアフガンでは大量の避難民相手の商売が成立している。

少年が大きな袋を担いで歩いているので、中を見せてもらう。
中身は雑草を干したもの。「家畜にやるべき草を、ここでは人間が食べているんだ」とイブラヒームが通訳。

国連の援助は、2年間でたったの2回だけ。「タリバンがいる」「危険だ」と思っているのか、援助物資を配ると、「犬のように」すばやく去っていくという。

「8万人か…」延々と続くテントを見ながら、その途方もない規模に、しばし言葉を失う。
日本の援助金50億ドルが、こうしたところに使われるべきである。
私のような一個人が、ちょっとした量の小麦を配っても、それは何の解決にもならないだろう。政府、国連レベルの解決策が望まれている。

米軍に撃たれた遊牧民の子ども ブログ.jpg 写真は昨日のブログで紹介した 米軍に撃たれた遊牧民の子ども


昨日と同様、午前中はミルワイズ病院で戦争被害者の取材。外科病棟で今年に入ってからの統計を見せてもらう。
IDE(仕掛け爆弾)犠牲者が14日間で33人、空爆の犠牲者が69人、銃撃戦が48人だった。合計150人。1日に10人以上が重傷をおってここに運び込まれていることになる。
村で即死した人、金がなくてここまで運べなかった人、軽症だったので地元の病院で手当てを受けている人などを考えると、犠牲者はこの倍にはなるだろう。

アフガンのイラク化。

イラク・バグダッドでは、最悪の時期には一日100人以上が死んだ。中央病院の遺体安置所は、すさまじい死臭であった。
ここミルワイズ病院にも遺体保冷庫がある。イスラムは土葬なので、亡くなっても遺体を焼かずに保存せねばならない。24体入る保冷庫に、7体のご遺体が眠っていた。
昨夏、この保冷庫の電源が切れて、異臭が充満していたという。ここで数日間待って、引き取り手のない遺体は、地方政府が「処置」する。

さて、2度目のカンダハールとも、そろそろお別れである。
信頼できるタクシー運転手を選んで、ここから空港までの、通称「IEDロード」を戻らねばならない。
午後1時、市内のホテルを出発。タクシーは順調に飛ばす。20分ほどで軽い渋滞に巻き込まれる。前方に事故車でもいるのかな、と思ったら、米軍だった。米軍の戦車と装甲車が通過するので、一般車は路肩によける。
通り過ぎて、また10分ほどいくと、今度は本格的な大渋滞。米軍の戦車数十台が約一キロにも及ぶ大車列を作って、「IEDロード」を寸断している。
30分ほど待っても寸分も動かない。仕方なく「IEDロード」をそれて、畑なのか、放牧地なのかわからない乾いた大地を、全ての車が走り出す。

「こんなときが一番危ない。タリバンがあの車列を狙って自爆したら、俺たちは巻き込まれてしまう」イブラヒームが言うまでもなく、全てのトラックドライバー、タクシードライバーは我先に、荒地を進む。
空港まであと数キロの地点。そしてフライト時間が刻々と迫ってくる。
私にとっては緊張の数十分。悪路でタクシーがスタックしないか、立ち往生している車にタリバンが襲ってこないか、飛行機の時間に間に合うのか。3重の恐怖と緊張。
やがて我がタクシーは悪路を抜け、元の「IEDロード」に戻る。

それにしても、何で米軍は道を寸断するのか?「タリバン狩り」でもするつもりなのか?
こんなことを日常的にやられたら、例えば妊婦が出産に間に合わなかったり、急病人が車の中で亡くなったりしてしまう。地元の人々にとっては大迷惑な話なのだ。

何とか空港に着いてカブールへと飛ぶ。しかし今度は私のほか数名の荷物が届かない。
「飛行機が一杯だったので、次の便に積んだ」とのこと。5時間待ち、6時間待ちは当たり前、そして時間通りに飛べば、荷物を積まない。なんともオシャレな航空会社だ。
かくして私は無事カブールに帰ってきた。今夜はイブラヒームと祝杯をあげる予定。

そして明日からはジャララバードに入る。


この左手は切断せねばならない ブログ.jpg 写真はISAF軍に撃たれた子ども。左手は切断しなければならない

自爆攻撃で破壊されたホテルから、ミルワイズ病院まではタクシーで10分ほどの距離。前回よりは緊張の度合いは薄れているが、やはり街行く人々全てがパシュトン人の伝統衣装を着ていて、頭にはターバンを巻いているので、誰がタリバンで誰が一般市民か区別することはできない。
「街の人々の半分が、親族にタリバンがいると考えて差し支えない。このタクシー運転手も信用してはいけない」とイブラヒーム。
アフガンは大家族で、ここはタリバンの拠点。身内にタリバンがいるほうが普通なのだ。

ミルワイズ病院でモレスタンディー外科部長と再会。部長は往診の最中で、空爆や銃撃戦の被害者を診察して回っている。
「前回訪ねた時、空爆で全身を焼かれた少女がいましたね。彼女は今どうしているのですか?」
「アッサン・ビビのことだね。彼女は村に帰ったよ」
「元気になったんですね」
「ザブール州の病院に移った。やけどの状態がマシになったのでね。うん、もう歩けるようになっていると思うよ」

まずは良かった。前回の訪問時に、こっそりと叔父に金を渡していたので、村へ帰るバス代にしてくれたようだ。彼女に会えないのは残念だが、良い知らせである。ちなみにビビちゃんはザブール州カラートというところに住んでいる。平和であるなら、車で2時間ほど。しかしザブール州は、最も戦闘の激しい州の一つ。車で行くのは自殺行為だ。

前回同様、外科病棟を見て回る。
野戦病院状態。顔や手足にギブスをはめた人々が苦しそうにうめいている。

ツーマディヤさん(25)はヘルマンド州の出身。5日前、村に2機の米軍機がやってきた。ヘルマンド州では連日のように、米軍の空爆が続いている。その日は、村の人々の誰か(タリバンとは言わない)が、その戦闘機にRPGか何かを撃った。その砲撃は米軍機には当たらなかった。しかし2機の戦闘機は、急速に村に向きを変えて、村の家々を空爆した。
「2人死んで、4人重傷をおった。俺たちは普通の農民だ。無実の人間をなぜ撃つのか?」全身の痛みに耐えながら、ツーマディヤさんは弱々しく、抗議した。

写真のサタール君(14)はウルズガン州の出身。20日前に、家の前で友人たちと遊んでいたら、ロケット弾が飛んできた。一緒に遊んでいた2~3人の子どもが死んだ。隣のベッドには、そのとき重傷を負った友人が入院していたのだが、本日朝、ウルズガンに帰ったが、彼はまだ治療が必要なので、ここに残っている。
その治療とは…。
彼の左手は皮膚の色が変色し、触っても体温を感じない。医師が「左手は、もうダメだ。これから切断する」と英語で。
左手の指を触りながら、「感覚がないの?」「うん」
「今から左手を失うことについて、どう感じている?」

するとイブラヒームが、「その通訳はやめておこう。彼はまだ自分の左手が切断されることについては、知らされていない」。
差し入れのジュースを上げると、ニッコリと微笑んでくれたサタール君。彼の今後の人生は苦難の連続だろう。

実はこのロケット弾は、米軍ではなくISAF軍(おそらくイタリア軍)が撃ち込んだもの。翌日ISAFの司令官とアフガン軍の責任者が、村に謝罪にやってきた。しかし謝っただけ。その後の補償は一切なかった。
「僕は、もう戦争に疲れたよ」。サタール君の小さな声に胸が痛む。

ディマ・ムハンマド君もやはり14歳だった。ザブール州の出身。1ヶ月前、ザブール州のメーンストリートを米軍が車列を作って通り過ぎた。ザブール州では空爆と地上戦が繰り返され、米軍部隊がコンボイ(車列)を作って、通過することは珍しくない。

ディマ君は遊牧民だ。毎日羊やヤギを追いかけて生活しているのだが、その日はたまたまメーンストリートで米軍と出会った。テレビも新聞もない生活。米軍の車列がどれほど危険か、彼には知識がなかった。ただ好奇心で近づいていった。ただ見たかっただけなのだ。
赤のレーザー光線が出た。これ以上近づくな、のサインである。もちろん、彼はそんなサインを知らない。
そして、撃たれた。

「僕はそのとき、ただ羊を追いながら、薪を集めていただけなんだ。足を打たれて、もう歩けなくなるかもしれない。歩けないと仕事ができないよ」。
米軍には、遊牧民の子どもが自爆テロリストに見えるようだ。1ヶ月を過ぎても、何の謝罪も補償もない。これが「大義ある戦争(オバマ大統領のノーベル賞受賞演説)」なのだろうか。
この病院に来るたびに、激しい怒りと悲しみに襲われる。

実はこの病院には併設して、看護師養成学校が建っている。この看護師養成学校の正面には、アフガン国旗と日の丸。ここは日本のJICAの援助で設立された。
治安上、日本の支援者はいないけれど、立派に看護師の卵を社会に送り続けている。
病院関係者が、私に好意的なのは私が日本人だからという理由もある。また前回インタビューした、国際赤
十字から派遣されている2人の看護師も、いまだに人命を救い続けている。

今後日本の援助のあり方が問われてくるだろうが、何も難しく考える必要はない。このような実績をそのまま伸ばしていけばいい。

War-torn country…戦争で切り裂かれた国。現地新聞は、よくこのような表現で自らの国をあらわしている。30年の長きにわたって切り裂かれ続けた国なので、平和にいたる道筋も、すぐには見えてこないかもしれない。しかし支援は確実に必要で、日本はその先頭に立てる国である。いろいろとフラフラしている新政権だが、給油をやめて平和貢献に徹すれば、きっとこのアフガン問題で国際社会を引っ張っていける活躍ができる、と信じている。

破壊された ホテル ブログ用.jpg 写真は、カンダハールで唯一、警備が行き届いていた「コンチネンタル・ゲストハウス」。クリスマスイブに破壊された。


アフガンにおいて、「テロとの戦い」を強化するオバマ大統領の方針のもと、カンダハール空港は、今、拡張工事の真っ最中である。この空港は軍民共用なので、ここが拡張されるということは、それだけ空爆の回数が増えるということだろう。
無人機プレデターはここから飛んでいる可能性が高い。

空港周辺には、コンクリート壁で囲われた建設会社。ベクテルやハリバートンなどの米国軍事企業が、おいしいところを抜いて、現地企業に丸投げしているようだ。
前回は「西神文化センター」と大書されたミニバスに現地の人々と一緒に乗り込んで、カンダハール市内に向かったのだが、ハッキリ言ってこれは危険。乗客の中にタリバンと通じている人物がいるかもしれない。
運よく国際赤十字の車に乗せてもらって、カンダハール市内へ。

空港からカンダハール市内への道は、別名「IEDロード」「死のロード」と呼ばれているほど、テロが頻発する。特に恐いのが路肩爆弾、IEDである。
死のロードを10分も走ると、前方からイギリス軍の戦車と装甲車が合計6台通過。英国軍が通過するまで、一般車は路肩で待機。全てが軍隊優先である。
さらに5分ほど走ると、今度はカナダ軍が前方から接近。1台、2台…全部で13台の戦車が通過していった。

カンダハール市内に入ると、さすがに軍隊の車列より普通の車が多くなる。昨年10月に宿泊したコンチネンタルゲストハウスへ。カンダハール市内で、警備が行き届いているのはこのホテルだけなので、是が非でもここに泊まらなければならないのだが、様子がおかしい。入場ゲートのところに兵士が二人、銃を構えているのは前回と同じなのだが、何とホテルの窓という窓が壊れているではないか。

09年12月24日、クリスマスイブの午後7時。ロバに荷車をつないで、行商している男がホテルの前にたたずんでいる。不思議に思ったホテルの兵士が、「何をしているのだ」と声をかけた。
大爆発音がとどろいた。男を尋問しようとした2人の兵士、通行人などが12人殺され、ホテルは破壊された。
それから17日。私たちが「泊めてくれ」とやってきたわけだ。

客は私と通訳のイブラヒーム2人だけ。ビニールで応急措置をした窓から隙間風が入る。厨房が壊れているので、満足な食事もない。インターネットも切れている。
そんな「かつての5つ星ホテル」に宿泊する。
このホテルにはジャーナリストや民間軍事会社の社員が宿泊していたので、外国人を狙ったタリバンの犯行なのだろう。クリスマスイブに自爆したのが象徴的だ。

ホテルに見覚えのある顔が入ってきた。昨年10月に取材したカンダハール警察署長である。「このホテルの周囲を壁で囲ってくれないか」と警察署長。「そうしたいのは山々だけど、コンクリート壁で囲うお金がないんですよ」とはホテルオーナー。両者の駆け引きがしばらく続きそうだ。

何はともあれ今回も無事にカンダハールまでたどり着けた。明日は早朝からミルワイズ病院で取材。日が沈めば外へは出れないので、窓ガラスのないホテルで一晩を過ごさねばならない。冷たい夜風が吹き込んでくる。毛布を3枚重ねにして眠るとしよう。

3時半、ガチャッと音がして扉が開く。はじめて見る「正真正銘の」タリバンである。扉の向こうに現れたのは…。

現れたのは、少しふっくらした感じの、温厚そうなイスラム聖職者だった。「初めまして。私は日本から来た…」緊張しながら握手を交わす。失礼のないように気を使いながらも、肝心なところは聞かねばならない。緊張のインタビューを始める。

―お名前と現在の肩書きをお願いします。
「ムタワッキル。カンダハール市出身で、タリバン時代は外務大臣を務めていたが、今は普通のカブール市民である」

―タリバン政権が崩壊して、あなたは米軍に逮捕されたのですね?
「そう、カンダハルの刑務所に3年、バグラムの刑務所に2年」

―なぜあなたは逮捕されたのですか?
「わからない。なぜなのか、米軍に聞いてくれ(笑)」

―刑務所では拷問されたりしましたか?
「拷問はなかった。私は他の囚人より丁重に扱われたようだ。刑務所内でも新聞などが読めた」

―なぜ他の囚人やタリバンメンバーより、あなたの待遇が良かったのでしょうか?
「私は外交官だったので、戦闘行為には携わっていなかった。武装して戦ったメンバーは、私よりひどい扱いをされていたようだ」

―5年後に、米軍はなぜあなたを釈放したのでしょうか?
「釈放されたのは私だけではなかった。アメリカがタリバン時代の外務省を調べ上げたが、何もアルカイダやテロとの関係は出てこなかった。だから彼らは私を釈放したのだ」

-現在のカルザイ政権について、どう考えておられますか?
「3つの問題を抱えている。1つは、内戦に起因する民族・部族の問題。2つ目が政権自体が汚職にまみれていること。3つ目が麻薬の問題だ」

-先の大統領選挙で、カルザイとアブドラが争いましたが、あなたはどちらを支持していましたか?
「どちらもダメだ。誰が大統領になっても、この国の国民を救うことは難しい。それは、米国やパキスタン、ロシアやイランなど、大国からの干渉が常にあり、予算や権限が制限されているからだ。しかしアブドラに比べてカルザイがマシであろう。なぜならカルザイは最も国民に知られていて、行政経験があるからだ」

―米軍やISAFがこの国に駐留していることについては、どう感じられていますか?
「彼らが駐留しているために、この国は大変混乱した状況である。疑問が3つある。1つは、米軍の敵は誰なのか?アルカイダか?タリバンか?それとも一般市民なのか? 2つ目は、こんな戦争をいつまで続けるつもりなのか? オバマが3万人の米兵の増派を決めた。終わりが見えないではないか。 最後に『テロリストの定義』とはいったい何で、誰が決めるのか?米軍やISAFは、これらの疑問に、まったく答えていない状況だ」

―アフガニスタンを平和な国にするためには、どうしたらいいでしょうか?米軍と戦い続けることなのか?それとも話し合うことができるのでしょうか?
「両方が必要だ。時には戦うことが必要だ。しかし戦争がいいか平和がいいかと尋ねられれば、もちろん平和がいい。しかし現状では話し合うことも難しい。戦おうとするグループと話し合おうとするグループ、双方の意見を聞いて判断したい」

―カルザイが勝利した選挙について、どう思われますか?
「誰もあの選挙が公平に執行されたとは思っていない。この国のメディアは2人の候補の広報のような存在に成り下がっている。不正な投票があった。しかしこの国では民主主義がまだ育っていない。本当に選挙で選ぶのが民主主義なのか?あれだけの不正があって、民主主義が貫かれたとは思わない。

-2人に代わる、国民を救えるような候補者はいますか?
「特定人物を挙げることはできない。今、この国は戦争をしている。誰が大統領になっても、対立勢力から足を引っ張られる。誰がふさわしいかというより、公平に政治ができるためのシステムを作ることが先決だ。汚職のない、公正な政府を作ることが先で、公正な選挙はその後になるだろう」

―パキスタン・タリバンとアフガン・タリバンの違いは何ですか?
「目的が違う。パキスタン・タリバンは、より『イスラム原理主義』に近く、シャリーア(イスラムの教え)によって行動する。アフガン・タリバンは、明らかに占領軍を追い出すために戦っている。米軍を追い出して、人々が望む政権を作ることを目的としている」

―タリバンの中に「武装タリバン」と「穏健タリバン」がいると言われていますが?
「私たちは全て同じ、タリバンである。米軍が戦争するから極端になるグループがいるだけだ。私たちをイスラム原理主義者と呼ぶなら、米国にもキリスト原理主義者がいるではないか」

-自爆攻撃についてどう思いますか?イスラムでは自爆は禁止のはずですが。
「米国とアフガン国民の間には、圧倒的な力の差がある。米軍は最新兵器で空爆してくる。私たちがそれに対抗するには、『新たな手段』が必要だった。リベンジするために戦争の技術の一つとして、自爆攻撃がある。君たちの国、日本にも昔あっただろ?」

―神風特攻隊がありました。
「アフガンも同じ。追い込まれた人々には、自爆しかないのだ。フィリッピンでもスリランカでも同様のことが起きている」

―今のオバマ大統領をどう考えますか?
「米国の戦略が、彼1人で決まっていくわけではない。オバマ個人ではなく、オバマ政権としてみることが大事だ。アフガンについていえば、ブッシュもオバマも一緒だ。彼は戦争をする大統領だ」

―そんなオバマにノーベル平和賞が出ましたが?
「早すぎる。もし彼がイラクでもアフガンでも、戦争を終わらせることができたのなら、そこで授与すべきだ。選考委員の見識を疑う」

-日本政府がアフガン支援として50億ドルを支出することを決定した、というニュースはご存知ですか?
「知っている。民生支援してくれるのは歓迎するが、しかし金よりも必要なのは平和と安定だ。国際社会に、アフガン戦争を終わらせることを提案してほしい。その後、汚職のない政府ができてから、金を援助してほしい。今のまま大金を注入しても、きれいな服を水につけて着れなくしてから、その服を恵んでいるのと一緒だ。
しかしインド洋での給油をやめることは、良い考えだ。インド洋で米軍やパキスタン軍に給油することは、空爆の手助けをすることに他ならない。多くの人が空爆で死んでいるのだ」

-最後に、日本人へメッセージを。
「まず最初に、日本がアフガンへ軍隊を送らなかったことに感謝する。日本政府はカブール空港を建設してくれた。多くの学校も作ってくれた。これにも感謝している。日本は国際社会に影響を持っているので、平和を構築するための世論を作ってほしい。お互い戦争では悲惨な経験をしてきた。戦争の悲惨さを知っている国として、ぜひ平和を勝ち取るための努力を、世界に訴えていってほしい」

インタビィーの最後に、「あなたは日本憲法第9条を知っていますか?日本は武器を持たないと宣言したのです」と言うと、通訳のイブラヒームが「ホワット?9条?何なんだそれは?」と聞き返してきた。「えーっと、9条はというとね…」と説明しかけたとき、ムタワッキル師が、「I KNOW」と一言。

彼は9条を知っていたのだ。なんとタリバンの元外務大臣が日本の平和憲法9条を知っていて、それはすばらしい考え方だと言うではないか。
感動した私は、長く、堅くムタワッキル師と握手した。

握手しながら、私は自身の無知を恥じた。私も米国発の「イメージ操作」に毒されていたのではなかったか?タリバン=悪、恐怖という。
タリバンの中にもいろいろな人物がいる。少なくとも、タリバンの元外務大臣は平和主義者であった。   

本当なら、本日は「厳冬のカブールで 3」を書くつもりだったが、うれしいニュースがあったので、臨時的に発表したい。ただ今1月10日、カブール時間午前8時。さて「うれしいニュース」とは…。


「やった」。テレビを見ながら思わず叫んだ。「やるやん、BBC!」
カブール時間1月10日午前7時。イギリスのBBCが、9・11事件での、ビル崩壊の仕方がおかしいと、特集で伝えている。
きくちゆみさんが日本に招聘し、昨年10月にお会いしたリチャード・ゲイジ氏が、出演している。彼はWTCビル1、2の崩壊について、疑問を発し続けている建築家である。

「コントロールデモリッション(制御解体)で、崩壊させたのです。そうですビルに爆弾を仕掛けて」。
ゲイジ氏のインタビューに続いて、場面はWTC7の崩壊シーンになった。日本人も、米国人も、いまだに知らない人が多いが、9.11事件は、2つのビルが崩壊したのではない。3番目、47階建てのWTC7も、当日午後5時20分頃に、わずか6秒できれいに崩壊しているのだ。

「飛行機も当たっていない鉄骨のビルが崩壊している」ことについて、日本のマスメディアはもっと報道すべきだと思うが、この問題は一種のタブーになっているようで、日本ではほとんど報道されてこなかった。
番組はさらにこう伝えた。「WTCビルの崩壊は、何らかの専門家集団が関わっていたと考えられます」。わずか19人の、サウジアラビア出身者を主体とする「テロリスト集団」だけの犯行ではないことを、伝えてくれている。

実は9.11事件当日、当のBBCが誤報していることは結構有名だ。
WTC7が崩壊する20分も前に、キャスターが「今、WTC7が崩壊した模様です」と伝えているのだ。崩壊しました、と言う画面には、まだWTC7がそのままの状態で映っている。
BBCは、自ら犯したこの誤報についても、当時のディレクターやキャスターを出演させて、検証している。
「あの時は情報が錯綜していて」「明らかに間違っていた」。

この姿勢もすばらしい。日本のテレビ局、特にNHKは、自局の失態については、目をつぶる傾向がある。政治家との関係、紅白などの裏金問題…。
おそらくNHKでは、9.11事件の検証番組は報道しないだろう。BBCとNHK、同じ国営放送だが、その姿勢には、かなりの差があるのだ。

私が9・11事件に疑問を持ったのは、04年に「ボーイングを探せ」というビデオを見てからである。
以後、様々な立場の方々の意見や本、映像などを自分なりに検証し、この事件は、米国政府が関わっていたか、少なくとも事件が起こるのを知っていながら、あえて止めずにやらせたか、だと考えるようになった。
日本でも、今週号の「週刊朝日」がゲイジ氏のインタビュー記事を載せているそうである。
ようやく9.11事件の検証が、世界的に始まったようである。

9.11事件の謎について語ると、すぐに「それは陰謀論だ」とか「またユダヤの仕業にするやつらがでてきた」などと言う意見が出る。
でも真実は一つだ。冷静に科学的に分析してほしい。飛行機が当たっただけでは、あれほど見事にほぼ自由落下のスピードで、鉄骨のビルは解体しないのである。

9.11事件後、アフガン戦争が起こった。私は今「テロとの戦い」のまっただ中で取材している。
昨日ゴルジュマちゃんの父親、ワキールに、
「ブッシュを知っているか?」と聞いてみた。
「聞いたことがある」
「オバマは?」
「名前は知っている」
「新聞は読めるのか?」
「コーランなら読める」
コーランはアラビア語で書かれているので、彼は字が読めない。コーランを「音楽として」記憶しているだけだ。彼はノーベル賞も9.11事件も知らない。彼らのような人々が、あんな大きなテロを起こす気にもならないだろうし、その能力もない。
しかし米軍は、彼らの村を空爆する。9.11事件の報復として。

タリバンと米国政府。「本当のテロリスト」はどちらだろうか?

ゴルジュマちゃん 10年1月 ブログ用.jpg 写真は、昨年10月にも取材したゴルジュマちゃん。片腕がないためにいじめられているという

1月9日午前8時、寒いけれど快晴。水溜りに氷が張っている。ヒンズークシュの山々には雪が積もっているが、ここカブールは、例えて言えば「近畿地方の山奥」くらいの気温。
「今年はとても暖かい。異常気象だね」とはホテルの受付。

昨日同様、イブラヒームと下町の市場で援助物資の買出し。本日はカブールにおける最大の避難民キャンプ、「チャライ・カンバール」にテントと小麦を贈る。
まずは越冬用のテントシートの品定め。
「400家族分を買うのだから、まけてくれよ」と、まずは店主に牽制球を投げる。
「テントシートかね、いいのがあるよ」。店主が出してきたテントシートには、堂々と「UNICEF」の大きな文字。
「おいおい、これは無料で配ったヤツやないかい!」と心の中で叫びながら、「で、一枚いくら?」
「18ドル、でもこちらなら16ドルだよ」。16ドルのテントシートには、やはり堂々と「UNHCR」の大きな文字。
よく見れば、あっちの店にもこっちの店にも、国連物資の横流し品が商品として陳列されている。
「俺たちの募金で国連が買ったんやないか、何でそれが店に並ぶねん!」と怒る方々も多いかもしれないが、ちょっと冷静に考えてみよう。

なぜ国連の援助物資が、店頭に並んでいるか?考えられるパターンは2通りである。
一つ目。UNHCRのテントを配給された避難民が、テントシートより食料品など他の物資がほしかったので、店に売ってしまったケース。これは仕方がない。避難民は生きていくのに必死。テントを2重に受け取って、それを金に替えたとしても、それはそれで「支援が届いた」ことになる。
もう一つは、国連が雇っている現地職員、例えば倉庫番などが数をごまかして横流ししたケースである。Aという避難民キャンプに5千枚テントシートを配った、と帳簿上はなっているのに、実際には3千枚しか配らず、2千枚を抜いてしまったケースだ。これは明らかな犯罪であり、このケースが大勢を占めているだろう。
おそらく国連職員は知っていて見逃しているか、そこまで目が届いていないか。この国は「汚職大国」なので、このような犯罪を完全に取り締まることは、まず不可能。取り締まるべき警察官が汚職にまみれている。さらに言えば、その警官を統括する警察官僚がワイロ漬けで、その官僚を取り仕切るはずのカルザイ大統領の弟が、麻薬王にしてCIAとつながっている人物なのだ。いかりや長介ではないが「ダメだこりゃ」状態。

かくして「無料のはずの」UNHCRのテントシートを、ディスカウントして一枚15ドルでゲット。避難民の、泥でできた家の天井にかぶせてあるテントシートは、もうだいぶ古くなって雨漏りがする。UNHCRのテントシートは丈夫なので、雪が降っても安心だ。

次は小麦。アフガン人の主食はナンである。ナンがない=飢餓なので、小麦粉は最も重要な食料といえる。小麦粉市場へ。店頭の空き地に空高く小麦粉袋が積みあがっている。やはりイブラヒームと値段交渉。
小麦粉一袋、50キログラム入り、16ドルを粘って14ドルまで値下げし、400家族分。小麦粉は品質の良いカザフスタン製。激安だ。

「昨年は小麦粉が非常に高くて、50キロ25ドル以上だった。今年は値下がりしているので、貧しい人々も助かっているよ」とイブラヒーム。

今年が豊作だったからか?おそらく違う。昨年までのマネーゲーム、穀物先物市場で、ヘッジファンドなどカジノ資本が値段を吊り上げていたからではないのか?そのおかげで日常のパンが買えず、腹をすかせていた人々がアフガンには多数存在した。「グローバリズム」「新自由主義」の悪影響を意外なところで実感する。

小麦粉50キロ、400家族分は想像以上に大量で、大型トラック2台分になった。

チャライ・カンバール避難民キャンプで、テントシートと小麦粉を配る。続々と集まってくる避難民たちの中に、昨年10月に取材した片腕の少女ゴルジュマちゃん(9)がいる。
「昨年、買ってあげた人形はどうしたの?」。恥ずかしそうに首を振るゴルジュマ。どうやら他の避難民の子どもに奪われてしまったようだ。
「学校は楽しい?」
「ううん。学校には行ってないの」
「なんで?」
「からかわれるから」
片腕がないのでいじめられているようだ。子どもは時として残酷である。自分たちと違う対象を見つけたとき、それを受け入れず、弾き出してしまう場合もある。
「じゃぁ、普段はどうしてるの?」
「家にいる」
「今一番ほしいものは何?」
「左腕。両手があれば学校に行ける」
「一番大事なものはどっち、友達、それとも食料?」
「食べ物。おなかがすいているもの」。
米軍の空爆で片腕をなくしたのだから、本来、彼女は同情されるべき存在のはずだが、ここはアフガンである。掃除や洗濯が得意でないゴルジュマちゃんは、友達からも家族からも「お荷物」になってしまうのだろうか…。(アフガンでは掃除・洗濯は女性の仕事という不文律がある)

かくしてチャライ・カンバールでも無事、支援物資を届けることができた。改めてお礼申し上げたい。昨日の石炭や本日のテントシートは、確実に何名かの命を救ってくれるだろう。

午後3時、カブール郊外のとある一軒家を訪問。この家の前にはアフガン政府軍が24時間いて、特別警備態勢を取っている。
主の名はムタワッキル師。タリバン時代の外務大臣である。彼はアフガン人の間ではかなり有名な人物で、「穏健派タリバン」の立場から、様々なメッセージを発し続けている人物である。実は昨年10月、アフガン訪問の際に、取材申し入れをしていたのだが、治安上の問題があって取材できなかった。あれから3か月、イブラヒームが粘り強く交渉してくれて、本日インタビューが許可された。
ムタワッキル師の応接間で、彼の出現を待つ。かなり緊張する。聞きたいことは山ほどある。でも下手に質問すると…。
3時半、ガチャッと音がして扉が開く。はじめて見る「正真正銘の」タリバンである。

扉の向こうに現れたのは…。

01年、北部同盟のロケット弾で片足を失う ブログ用.jpg 9年前の「不朽の自由作戦」で、北部同盟のロケット弾を被弾した男性


1月8日午前8時、気温4度。これでもカブールは暖冬で、去年と比べてかなり暖かいという。
昨年10月に訪れたパルワンドゥー避難民キャンプへ。まずはこのキャンプで越冬するのに何が必要かをインタビューし、購入するものを決めるためだ。
このキャンプは4年前にできて、35家族およそ350人が住む。昨年の毛布支援を覚えていて、私の顔を見るなり多くの人が走りよってきて、タシャクール(ありがとう)と挨拶してくれる。
「この中で病気の家族を抱えている人は?」と聞くと、
「全ての家族に病人がいる」との返事。まずは一つ目の「泥でできた家」へ。

子どもがアフガン式のコタツで寝ている。生後間もない赤ちゃんのムエーパンちゃんが病院から帰ってきたばかり。風邪をひいている。夜は寒くて寝れずに泣いてばかりいるようだ。コタツ布団をめくって中をのぞく。小さな石炭を入れる火鉢のようなものがあって、子どもたちは裸足を突っ込んで暖を取っている。
未亡人のマラーラさん(25)にインタビュー。
「夫が3年前に死にました。夫は電気工で感電死してしまったのです。以後、私は子ども4人と義父を養わねばなりませんでした。でもこの国では女性が働くのは難しくて、街へ出て、物乞いで子どもを育てました。でも最近になってアフガン政府は『物乞い禁止』を言い出したので、収入がありません。どうしたらこの子たちに食べさせることができるのでしょうか」

アフガンの未亡人は、非常に苦しい立場に追い込まれる。厳然と残る女性差別、そして戦争と貧困。絶望的な状況の中で、マラーラさんは難民としてパキスタンで20年ほど、そしてここアフガンで3年を過ごしている。
彼女が結婚したのは8年前。毎年子どもができた計算になる。何が必要か?との質問には、
「何よりも食べ物です。次にカーペット。地面が冷たいので子どもが寝ません。最後にコタツ用の石炭かな」。
パキスタンとアフガン、どちらも避難民として過ごしてきたが、どちらの国がよかったですか?との問いには、
「アフガンです。自分の国ですから。でも冬は嫌いです。パキスタンは暖かかった。この寒い冬だけは好きになれません」。

そんなインタビューをしていたときに、ふと見るとおなかの大きな女性がいる。
「何ヶ月ですか」
「7ヶ月です」
「子どもは病院で産めますか?」
「いいえ、お金がないのでこのキャンプで産みます」。
バルオナさん(22)は、娘2人、息子1人をすべて難民キャンプで産んでいる。出産のたびに恐怖に襲われる。病院で産むには50ドル(約4500円)が必要なのだが、その50ドルがない。もし出血して輸血が必要な場合は100ドルに値段が跳ね上がる。そんなお金はないので、このキャンプで産むのだ。
「妻にもっと食べささないと、元気な赤ちゃんが生まれないのは、よく知っている。でもどうすればいいんだ。俺にはまったくお金がない」。夫は24歳。「俺はまだ若いが、ずっと苦労しているので40歳くらいに見えるだろ?」。
彼の収入は一日90アフガニー(約180円)ほど。市場でリンゴを売ったお金で妻と子どもを養う。
産婆は?
「近所の元ベドゥインの女性に頼むつもりだ」。
ベドゥイン(遊牧民)は、山から山へと旅をしながら生活しているので、お産の技術があるようだ。

次に「パルワン・セ避難民キャンプ」へ。ドゥーが2、セが3なので、新しくできた避難民キャンプである。このパルワン・セには30家族約300人が住む。ドゥーは全てタジク人だが、セはタジク人とパシュトン人が混じっている。

右足を足元から切断した男性がいる。9年前ロケット弾が自宅に飛んできて、足を失ったのだという。
9年前、そう9・11事件後、ブッシュが「これは戦争だ!」と、アフガンで「不朽の自由作戦」を開始。
カブールはそのときタリバン支配地域だったが、米ソ・中国などの大量の武器が北部同盟に流れて、一気に北部同盟が勢力を挽回し、カブールに迫った。
彼はその時、西カブールに住んでいた。北部同盟がタリバン支配地域に撃ち込んだロケット弾で、彼と息子の足が奪われたのだ。彼はタリバンではない。タリバンの拠点までロケット弾が届かず、途中にあった彼の家に着弾したそうだ。
こうなると、誰がテロリストで誰が正義か、などという理屈は通らない。そこに武器があれば、傷つくのは市民である。ブッシュの演説を思い出そう。「俺たち正義の側につくのか?それともテロリストの側なのか?」。大統領はあの時世界の国々に、「ブッシュ風の踏み絵」を迫っていた。でも実際に行われていたのは、無差別な殺戮だったのだ。

このパルワンセ避難民キャンプでは、昨冬、2人の子どもが死んでしまった。1人はストーブに近づきすぎて衣服が燃え上がって死んだ。もう1人はセキが止まらず病死した。
靴をはいていない子が多い。凍てつく大地に裸足で、セーターもなし。ドゥービーちゃん(5)に、「一番ほしいものは何?靴、セーター、それとも食べ物?」と尋ねる。
「靴がほしい。だって寒いもの」。

通訳のイブラヒームと下町の市場で、米、小麦、大豆、石炭を買出し。
大型トラック2台を満載にして、パルワンドゥーとセに配る。
「タシャクール、ジャパン(ありがとう、日本のみなさん)」。避難民たちはコーランの一節を謳い上げた後、神に祈ってくれた。
募金いただいたみなさん、どうもありがとうございました。おそらく何人かの命は救えたと思います。明日はカブール最大の避難民キャンプ「チャライ・カンバール」で同様の支援を行います。

ブルジドバイ 1 ブログ用.jpg

1月7日午前5時(ドバイ時間)、ドバイ国際空港に到着。すぐにアフガン行きの飛行機チケットをゲットすべく、チケットカウンターに飛び込むが、カブール行きが飛び立ったばかり。残念。前回はぎりぎり間に合って、ほぼ待ち時間なしで乗り込めたが、今回はダメだった。この時点で午前6時。次のフライトは11時半でチケット販売開始が9時半。
あと3時間をこの空港で待つか、それとも街へ出てみるか。

迷わず街へ出た。というのも、世界一ののっぽビル、ブルジドバイに上れるかもしれないからである。
タクシーを拾い、ブルジドバイへ。周囲のビルも60階建てとか70階建ての高層ビルなのであるが、ブルジドバイは天を切り裂く巨大ビルだ。周囲のビルが子どもに見える。高さ826メートル、164階建てのビルをカメラに収めようとするが、収まらない。

ブルジドバイの正面を、多数のインド系出稼ぎ労働者が歩いている。
「彼らがこのビルを建てたんだ。わずか月に800ディルハム(約2万5千円)の給料でね」。とタクシー運転手のサレー。
警備責任者に「ブルジドバイに入れてくれ」と頼み込むが、オープンは午前10時。私は空港に9時半に戻らねばならない。仕方がないので少し離れたところから、ブルジドバイの全景を撮影する。

ドバイは空前の好景気に沸き、このようなとてつもないビルを建ててしまったのであるが、その景気も傾き始めた。「俺の給料も2年前の半分になった。5年前からここで働いているけど、昨年から極端に客が減ったね」とサレー。
高層ビルの窓には「オフィスをレンタルします」の看板。そんな看板がかかっているのに、まだ隣では別の高層ビルが建築中だ。
日本の都会でも「これでもか!」というくらいにマンションが建っているが、ドバイも日本も「一輪車で走っているような状態」であろう。走り続けないとこけてしまうのだ。

午後1時、カブール行きの飛行機は1時間半遅れで飛んだ。1時間半遅れならまだマシなほうだろう。
3時、カブール到着。到着ロビーに「ブラックウォーター」の社標を持つ出迎え人がいる。
イラクで罪なき人々を殺害し続けて世界的非難を浴びている民間軍事会社が、ここカブールでは堂々と営業を続けている。確か「ブラックウォーター」はあまりにも悪名がとどろきすぎたため、社名を「EX」か何かに変えたはずなのだが…。

空港を出る。米兵とアフガン兵、そして装甲車にISAFのヘリ。ドバイからわずか2時間半のフライトで、戦争のニオイが充満するカブールである。
冷たい北風が吹いているが、厳寒というほどでもないし、雪も積もっていない。やはり地球が温暖化しているのか?

ホテルにチェックインをすませ、通訳のイブラヒームと再会。しばしハグの後、明日からの日程を打ち合わせ。
明日は早朝から避難民キャンプへ行く。乗り継ぎ時間を合わせるとほぼ24時間の移動だったので、さすがに疲れる。
行きつけの闇市場でビールを買い、眠ることにしよう。

みなさん新年おめでとうございます…というような挨拶を交わしていた正月もすぐに過ぎて、いよいよ本日よりアフガンに出発します。
通訳のイブラヒームが避難民キャンプの様子や、国際赤十字など人道支援機関の活動などを調べてくれています。
途中立ち寄るドバイで、世界一高いビル、ブルジドバイに登ってみようと思っていたのですが、今回は日程がタイトなので、無理かもしれません。
飛行機から「バブルの塔」を眺めるだけになるかも。
旅の模様は、このブログで綴っていきますので、閲覧よろしくお願いします。