2010年10月アーカイブ

イラクの通貨ディナールを使った詐欺が横行しているのだそうだ。詐欺集団は、「世界的に注目されているイラクの通貨・イラクディナール」と題したきれいなパンフレットを使って、イラクディナール札を売り込んでいるのだ。

09年3月に私は12回目のイラクを訪れたが、その時のレートがだいたい1万ディナール=900円であった。イラクの通貨はイラン・イラク戦争、そして湾岸戦争をへて、ハイパーインフレとなり、ディナールの価値が急降下し、このようなレートになった。

しかしこれは戦争を経験した国家ではよくあることだ。私は96年、旧ユーゴのセルビアで「1億ディナール札」を見たことがある。確か価値は100円程度だった。最近ではジンバブエで「1兆円ジンバブエドル」などの通貨も出ている。戦争に敗れた国は、このように通貨崩壊することが多々ある。国が壊れるのであるから、通貨は信用をなくし、価値ある物、例えば米や小麦に人々は殺到する。1キロ1円であった米が、10円、100円、千円と値上がりしていったのが戦後の日本。で、値段は戻ったかというと戻らない。昔の1円が今の千円くらいの値打ちになったまま、経済は進展していく。

そう、貨幣の値打ちは「壊れる時は一気。そこで落ち着いたら、そのまま」なのである。イラクも通貨ディナールのレートが一気に下がったが、今は1万ディナール=900円のレートで落ち着いている。
詐欺師たちは「イラクには石油がある。治安が回復すれば、1万ディナールは元の価値、つまり数百倍の値打ちになる」と、ディナールを売り込んでいるのだ。

25000ディナール(約2千円弱)札を、何と10万円で売りつけた後、逃げているそうだ。ちなみにイラクディナールは、日本ではおそらくどの銀行も換金しないだろう。25000ディナールは、イラクに行けば2千円の価値があるが、日本では円に交換できないので、ただの紙切れ同然である。
このような詐欺に引っかかる人が後を絶たず、中には2千万円もだまし取られた人がいるという。

聞き捨てならないのは、詐欺師たちは「イラクディナールに投資することで、イラク経済を活性化し、ひいてはイラク戦争の被害者を救援することにつながる」とだましていることである。楽して儲けたいという、人の「スケベ心」と良心をくすぐる悪質な詐欺である。だまされた人の中には老人が多いと聞く。なけなしの貯金や年金を、紙切れ同然のディナール札に替えてしまい、呆然としている姿が目に浮かぶ。どうかだまされないでほしい。イラクディナールは、おそらくイラクが復興しようがしまいが、今後も1万ディナール=900円くらいで推移する。決して業者の口車には乗らないでほしい。

以上、この詐欺話は11月4日の朝日放送「ニュース・プラスゆう」で特集される。私はインタビューで思いっきり「だまされたらあかん。ディナールは値上がりしまへん。老後の資金はしっかり日本円で持っていてください」と訴えた。しかし、このような「幼稚な詐欺」に引っかかる人が多いというのは、株もダメ、年金も不安、老後の世話をしてくれる人もいない、自分で資産を管理しないと不安、という日本の状況を反映しているのだろうか。


今回のアフガン取材を振り返ってみる。まずはISAF軍の中に入れたのが収穫だった。実際にISAF本部のスポークスマンにいろいろと疑問をぶつけて、その回答を聞けたのは、いろいろと勉強になった。彼はドイツの軍人で「米軍の誤爆が、タリバンを増やしているのではないか?」などの、いわゆる「きわどい」質問にも、ちゃんと答えてくれた。

彼の認識の中には「武力だけでは解決しない。食料や教育、病院などインフラ整備を含めた援助が、怒りを鎮め、和平につながる」というものがあった。
つまり「平和貢献」「人道支援」なしには、アフガンを安定させることができない、という理念である。

実際にアフガンで行われていることは、「タリバン掃討」と言う名の、無差別爆撃であり、それが諸悪の根源だと思うのだが、米軍のやり方を変えなければならないという意識はあるようだった。

もう1つ彼の頭にあるのは、「あと4年間で撤退をする」という結論から逆算して、警官やアフガン軍に治安権限を委譲していくプロセスを急ぐ、というものだ。ほぼカブール市内だけしか守れていない、今のアフガン警察と軍を、どのように強化して、タリバン支配地域を安定させていくのか? このあたりの具体的なロードマップはまだ描かれていないようだった。

ISAF軍で出会った人々は、ほとんど全て「日本が巨額の金を出してくれた。感謝している」と語った。50億ドルは莫大な金額だ。このお金が、真に平和に貢献する事業に使われねばならない。米軍やカルザイ政権の賄賂に消えることのないよう、監視が必要だ。

避難民キャンプやインディラガンジー子ども病院を訪問し、やけどの原因をほぼ突き止めることができたのも収穫だったが、少量の医薬品しか援助できなかった。今後の課題は、50億ドルの一部を、病院やキャンプに直接届ける態勢を作ること。国会議員のみなさんや外務省の方々と、ぜひ相談したいと思う。

反省点は、バグラム基地。アフガンで最大の米軍基地であるが、ここに入ることができなかった。理由はいろいろあるが、ここでは結果のみ記す。申請はほぼ通りかけていたのだが、今回は却下された。次回申請が受け付けられれば、バグラム基地の中をのぞくことができる。

秋のアフガンはパミグラントという赤い杏の季節。果物の行商人から1つ50アフガニー(100円)で買って食べたが、これが非常においしい。日本に輸入できれば、爆発的な人気を獲得するだろう。何とかこのパミグラントを利用して、アフガンの農民たちを助けることができないだろうか?パミグラントの名産地は、激戦地となっているカンダハルなのである。
カンダハルの農民たちが潤えば、タリバンには入らないだろう。貧しいので参加する。一時的な援助ではなく、彼ら自身が自立することができれば。

「パミグラントで平和実現」という運動が広がれば面白いかもしれない。

ドバイ ハリファの噴水ショー.jpg


10月19日早朝、カブール国際空港からドバイへ飛ぶ。今回も無事に取材が終了したことに感謝。ちなみにカブール〜ドバイ便は、4つの航空会社がしのぎを削っていて、毎日複数回飛ばしている。イラクに比べてアフガンはずっと日程調整が簡単である。
「行きやすい」のはアフガンであるが、「取材しやすい」のはどちらだろうか?両国とも街は検問だらけで、下手に撮影したら逮捕されるという点では同じようなもの。その時々の状況次第か。
ドバイ着午後0時半、35度を超える気温と空港を吹き抜ける熱風。一年中酷暑のドバイと四季のあるカブールを比べると、私は間違いなくカブールの方が住みやすいと思うが、カブールには武器があふれ電気がなく、ドバイには金があふれ銃撃される心配はない。
ドバイ中心街でイラク行きチケットを探す。私は今年の12月に「国境なき芸能団」と北イラクを訪問する予定なので、その準備が必要なのだ。
飛行機便を調べた後、世界一ののっぽビル「ブルジュ・ハリファ」へ。今年の正月にこのビルがオープンした時は、入場者が殺到し、最上階に上るだけで400ディルハム(約1万2千円)も取られたのだが、さすがに現在はダンピングされていて100ディルハム(3千円)に。

チケットを買い、列に並ぶ。2台のエレベーターがフル回転。エレベーターホールには、ビルのミニチュアとビル建設途中の写真が飾られている。
30分待ちでエレベーターに乗り込む。最上階まで5分くらいかな?と皮算用していたが、何と展望台のある124階まで一気に1分で駆け上がった。かつて私は千里ニュータウンで40年前にできた14階建ての高層棟に住んでいたが、あのエレベーターは遅かった。技術の進歩は凄まじい。
展望台から景色を眺める。確かに「世界一の高さ」なのだろうが、一度上るだけで十分だ。林立するビルと高速道路、ネオン輝く夜景が遥か下方に広がっている。いわゆる「100万ドルの夜景」を眺めながら、真っ暗な部屋で、満足にトイレさえ行けない、サバイさん一家を思い出す。このネオンの中の1つでもいいから、カブールを照らしてくれないかな。

ブルジュ・ハリファの真下は大きな池になっていて、30分ごとに噴水が吹き出す。派手な音楽に合わせて噴水は色とりどりに輝き、水しぶきを上げながら5分間のショーを終える。アフガンの子どもたちが見れば、きっと驚き、叫び、興奮するだろう。彼らはにごった水を一日に数回、井戸まで汲みにいく。おそらくこのショーを演出した人々が悪いわけではない。しかしショーが派手であればあるほど、美しければ美しいほど、なぜかしらけてしまう。この格差は何なのだろう。

ドバイのきらびやかな夜を過ごした後、私は今、空港でこの原稿を書いている。ドバイ発大阪行きのエミレーツ便は、午前3時に飛ぶ。久しぶりに聞く日本語。そして日本人旅行者たち。日本ではアフガン、イラクへの関心が次第に薄まっているようだ。帰国すれば、取材した映像をできるだけたくさんの人々に見てもらうようにしよう。


ムラートキャプテンと.jpg


10月18日午前8時半、カブール市東部にある「キャンプウェアーハウス」へ。ここは元々ISAFフランス軍の基地であったが、現在は多国籍化し、トルコ軍、オランダ軍なども同居している。
ここでトルコ軍キャプテンのムラートさんと面談。トルコ軍は2002年から約8年間、約2千人もの兵士を派兵している。ムラートさんたちと装甲車でのパトロールに同行する予定だったが、トルコ軍の都合でパトロールは行われず、代わりにトルコが財政支援する職業訓練校や女子校、病院などを見て回る。
職業訓練校は日本が建てて、トルコが運営している。正面に日の丸とトルコ国旗、JICAの文字にアフガン国旗。
私とムラートキャプテンの後を、トルコ兵たちがゾロゾロとついてくる。治安維持のためとはいえ、これほどの兵士は必要ないだろう。他に仕事がないのだろうか?

職業訓練所では、手縫いのカーペット、ミシン、パソコンなどを教えていた。貧しい家庭の子どもにとって、手に職を付けて家計を助けることが必要なので、この学校は大変喜ばれている。日本の50億ドルの支援の行き先は、こうした学校にも渡るべきだろう。
トルコ兵たちの手厚い保護のもと、キャンプドーガンへ。この基地にはトルコ、アゼルバイジャン、アルバニア兵がいて、それぞれの任務についている。
基地内にはトルコが作った病院があって、アフガンの普通の人々を受け入れて診察している。治療するのはトルコ人医師だ。
基地の中央に。トルコの英雄ケマル・アタチェルクの銅像があって、そこでムラートさんと記念撮影。
「我々は軍隊だが、戦闘行為よりこのような人道支援に力を入れている。日本もそうだろう?私の任期はあと4ヶ月。その間に何も起こらないことを願っているよ」。トルコの首都アンカラで家族が待っている。何としても無事に帰らねばならない。基地の食堂では何百人ものトルコ兵が一斉に食事している。この人々の無事を祈る。

さて、私の旅も本日が最終日となった。最後にどうしても訪れたい場所がある。それはサバイさんの自宅。彼女たちはどのように夜を過ごすのか、取材したかったのだ。
ビデオカメラを抱えて、自宅へ。サバイさんのアパートは大通りに面している。小さな鉄の門扉を開けると、細い路地が伸びているのだが、路地には電気がなく真っ暗。手探りで20mほどいくと、サバイさんの車椅子が置いてあって、急勾配の階段。真っ暗な急斜面の階段を上りきったときに、裸電球が1つ。ようやく足下が確認できる。ビデオカメラの画面は真っ暗。「ナイトショット」に切り替え取材する。この時点で午後6時45分。つまりこのアパートの人々は、タリバン政権崩壊後9年間を、このような闇の中で過ごしてきたのだ。当然、夜に勉強もできないし、本も読めない。首都カブールでさえ、貧しい人々はこの生活である。
一方、カルザイ政権の主要閣僚たち、麻薬ビジネスで巨額の富を得た人たち、さらには復興ビジネスで、かなりの所得を上げているゼネコンたちは、おしゃれなマンションに住み、貴金属を買いあさっている。(カブールはバブル景気)
何という落差であろうか。カブールの一般庶民は、市場で重い荷物を運んで一日わずか50円ほどの賃金。そこへ日本の税金50億ドルがぶち込まれるのだ。なんとしても直接この人々に届けなければいけない。50億ドルは私たちの税金である。その行き先を、今後も監視したいと、心に刻む。

警棒を振り上げる警官.jpg


10月17日午前9時、カブール東部にある「アフガン警察中央訓練センター」を訪問。この訓練センターでは、毎日500人以上のアフガン警官をISAF軍が訓練している。期間は6ヶ月間で教員はイタリア軍。
まずはスライドショーで簡単な訓練内容を教えてもらい、実際の訓練場へ。
新任の警官たちが、3つのグループに分かれて訓練している。
イタリア軍兵士のかけ声に会わせて、警棒を振り上げる警官たち。「POLICE」と書かれた透明な盾と警棒を持った警官が列を作り、そして警棒で盾をたたきながら、前進する。デモかなにかを鎮圧する時の訓練なのか。
警官を逮捕.jpg

その隣では、「テロリストとおぼしき人物」を警棒で叩き、突き、地面に押さえつけて、手錠をかける訓練が。さらにはランドクルーザーに乗った警官たちが、銃を構えながら、「テロリストとおぼしき人物」を探し出す訓練まで。
一時間ほど、この訓練を撮影した後、カブール〜ジャララバードを結ぶ国道沿いにある巨大なアフガン軍基地へ。
この巨大な基地に、装甲車、輸送車がずらりと並ぶ。基地の奥には旧ソ連軍の戦車の墓場、それを越えて数百mほど車で走ったところに、「射撃訓練場」があった。
ここはイタリア軍と米軍が、アフガン警官の指導に当たっている。
射撃訓練.jpg

「用意はいいか、撃て!」の合図とともに、一斉に放たれる弾丸。「バンバンバン」。凄まじい音とともに薬莢が飛び散る。親切にも、私たち(私とロイターの通信員)に耳栓が支給される。150m向こうに人間の上半身が書かれた板があって、肩や手に当たれば4点、胴体に命中すれば5点である。
射撃訓練 的.jpg

まずは「座り撃ち」。150mから撃った後、一斉に100m地点まで近づき、「撃て!」の合図とともに一斉射撃。さらに50m地点、7m地点と数段階に分けて撃ち進んでいく。
この訓練の休憩中に、米軍兵士にインタビュー。
「どこから来たの?」
「沖縄からだよ」
「キャンプシュワーブ?」
「そう。嘉手納にもいたよ」
「沖縄は気に入ってた?」
「もちろん。きれいな海に、SAKEがあったからね(笑)。ハブSAKEも飲んだよ」。

やっぱり米兵は沖縄から派兵されている。その他、三沢基地、横須賀基地からの米兵も。
日本の米軍基地は、今やアメリカの「テロとの戦い」に欠かせないものになっている。言い換えれば、在日米軍基地がなければこれほど大規模な戦争を続けることが困難になるのでは?

ゲリラ戦しかできないタリバンが日本まで攻撃をかけることは不可能である。しかし能力さえあれば、米軍への反撃として、タリバンが沖縄の基地を攻撃してもおかしくはない。沖縄はじめ、在日米軍基地は日本を守ってくれているのではなく、他国の人を殺しているし、殺させる訓練をしている。

10月16日、今日は朝からパルワンセ避難民キャンプを訪れて、避難民とお茶を飲む。薄汚れたテントに無数のハエ、そしてにごった水。「下手にたくさん飲んだら、また正露丸のお世話になるな」と感じるが、これはいわゆる「任務」である。というのは、避難民たちがどのようにして茶を沸かして、寒い冬を乗り切っていくのか、についての取材なのだ。

すすで黒くなった空の石油缶を逆さにして、中に枯れ草や薪を入れ、着火。歩いて10分ほどのところにある井戸からくんできた水(これが少しにごっている)を沸かす。お茶葉は透明な瓶に入っていて、こぼさないよう慎重にやかんに入れる。この作業は全て地べたで行う。私たちが珍しいので、子どもから赤ちゃんまでが近づいてきて、ビデオカメラやデジカメを興味津々で眺めている。

寒い夜、暖をとるためには茶を沸かして飲むのが一番だ。ガス器具はもちろん、毛布さえ不足してるのだ。電気のないキャンプは漆黒のヤミの中である。そんなとき湯気をあげるヤカンは、赤ちゃんの興味の対象。「しゅんしゅんと鳴っているもの」に近づき、倒してしまう。そして悲劇が繰り返される。
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写真は、本日インディラガンジー子ども病院のやけど病棟で撮影して来たもの。
「やけど病棟」は何度訪れても「このようの地獄」である。今日だけで5人の子どもが担ぎ込まれている。一番多いのが熱湯をかぶるパターン。次は暖房器具に着火しようとして失敗するパターン。日本では台所と寝室は分けれていて当たり前。ヤカンや鍋は、赤ちゃんの手の届かないテーブルの上。従ってこのような事故はほとんど起こらない。

やけども痛みで泣き叫ぶ女の子.jpg つまりやけどは貧困が原因なのである。一つのベッドに2人の赤ちゃん。傍らには母親が沈痛な面持ちで座っている。身体の65%が大やけどの子どもは、危篤状態で、今日明日の命かもしれない。 先日手渡した薬と栄養剤で命がつながればいいのだが。 生まれつき腸が出ていた子ども.jpg 次に新生児集中治療室を再訪。また一人先天性異常の子どもが運び込まれている。この赤ちゃんは腸が体外に飛び出たまま生まれてきた。北部タロカンで一週間前に出生。近所の人に金を借りて、ここまでやってきた。 「原因は分からない。しかし戦争で使用された爆弾の影響だと思う」と付き添いの医師。 私の取材も残りわずかとなったが、本日通訳のサバウーンにデジカメを買ってあげる。彼が引き続き取材するので、帰国してからもこのブログで「その後のインディラガンジー子ども病院」「その後の避難民キャンプ」をお伝えできると思う。ちなみに彼は、12月3日から長崎の佐世保で開かれる「日本平和大会」にゲスト出演する予定だ。12月にはぜひ彼のスピーチを聴いてやってほしい。

10月15日、待つこと5日、ISAFの取材許可が下りたので、カブールのISAF本部へ向かう。ISAF本部へ行くには、本部建物から一キロ以上はなれたチェックポイントで車を降りなければならない。自動車爆弾を使った自爆攻撃を防ぐために、昨年までは車で結構近づけていたのだが、今年になってかなり遠いところから歩かねばならなくなった。
数回のチェックポイントを通り、何重にも張り巡らされたコンクリートの壁を通り抜けなけてISAF本部前に到着。「歩行者のみ」と書かれた入り口で待っていてくれたのは、パウエル米兵。パウエルさんの案内で巨大なISAF本部の敷地に入る。

基地内にはいろんな施設があって、兵士の寮やトレイニングルーム、カフェ、食堂、コマンダーの執務ビルなどなど。74カ国がISAF軍に兵を送り込んでいるので、74もの国旗がずらっと飾られている。
その国旗が並ぶ建物の前が、広い公園になっていて、勤務明けの兵士がくつろいでいる。飲み物コーナーがあって、全て無料。日本のちょっとした大学のキャンパスライフのようである。
芝生が敷き詰められ、噴水が吹き出しているきれいな公園のベンチで、ISAFスポークスマン、ジョセフ・ブロッツさんにインタビューすることができた。

質問項目は5つ。1 カブールの治安は相当良いが、どうやって治安を守っているのか? 2 逆にカブールを離れると極端に治安が悪くなるが、例えばカンダハールなど、タリバン支配地域を、今後どのように治安改善するのか?
3 米軍が去ってしまうと、内戦が始まらないか? どうやって「後始末」するのか? 4 米軍が誤爆を繰り返しているが、これについてどう思うか? 5 日本政府が50億ドル支援を決めたが、日本へのメッセージを。

以上5点について、ブロッツさんは丁寧に答えてくれた。基本的には、治安改善の方法として、治安維持の権限をじょじょにアフガン警察と軍に移していく。そして特に貧しいエリアでは、農業支援や教育支援など国民生活の向上を図って、人々の怒りを鎮めつつ、アフガン警察と軍を投入して、治安を向上させる。
米軍の誤爆はきわめて遺憾。しかし昨年と比べて誤爆件数は減っている。逆にタリバンなど武装勢力の攻撃で人々が殺されている。今後も引き続き村々をタリバン化させないように努力していく。日本にはとても感謝している。50億ドルは巨額な金である。有効に使ってもらいたい。

ざっと内容は以上のようなものであった。インタビュー後、案内してくれたパウエルさんをインタビュー。
Q 出身は?
アメリカ。空軍に9年いて、その後広報担当管となって6年目。アフガンには3年前から来ている。アフガンに来る前は日本の横田基地にいた。
Q この仕事に恐怖を感じないか?
カブールにいる限りにおいては、感じない。他市に行った時が問題だね。
Q ここと比べると横田基地は天国だった?
日本は良かったよ。きれいで安全。酒もうまかったね。
Q 今の希望は?
早くこの戦争が終わって、アフガンが平和になること。戦地へ派遣されるのは自分で十分。子どもがアフガンに行く、何てことにならないよう願いたいね。

パウエルさんは横田基地から派遣されていた。ちなみにトレーニングセンターで2人がインタビューに応じてくれたのだが、そのうちの一人も横田基地出身だった。日本の基地で訓練している人が、結構多いのだと感じた。

少し緊張したISAFインタビューも無事終了した。基地内には女性の兵士の姿もちらほら見られた。一人一人の兵士は、まじめに任務をこなし、良かれと思って働いているのだろう。多くのアフガン人には、彼ら兵士は、時として「悪魔」に見える。しかし彼ら自身も恐怖を感じている。軍服を脱げば、みんな好青年なのになぁ。

ラバニ元大統領.jpg 写真右側が、ラバニ元大統領


10月14日、インディラガンジー子ども病院前で、ハビーブ医師と待ち合わせの後、薬問屋へ。専門家であるハビーブ医師と一緒に買い出すことで、値切れるし、必要度の高いものを購入できる。
やけどの子どもは、体内からプロティンを補給し、皮膚を作り出さねばならないので、アブドミンという高価なものを20箱。さらに点滴用の抗生物質や白血病の薬、栄養剤、粉ミルクなどを購入。
大量に買い込んだので、午後1時に病院まで持ってきてもらうことになる。

その間を利用して、ラバニ元大統領の記者会見へ。ラバニ元大統領は、マスード将軍に近い人物で、北部同盟の代表。1990年代は、国内的にはタリバンが圧倒していたものの、国際的な「アフガン大統領」は、このラバニ氏であった。
なぜラバニ氏が記者会見するのかというと、一昨日、カルザイ政権が作った「平和実現委員会」の委員長に就任したからである。
「ラバニといえば、内戦中に、たくさんの人を殺したんやね?」
「そうだよ。そんな人物が『平和委員会委員長』になるのは、この国ならではだね」とは通訳のサバウーン。他に人がいなかったのか?彼はタリバンとのチャンネルがあるからなのか?

記者会見は午後12時に始まり、誰でも参加できるし何を聞いてもよい。日本の場合は記者クラブがあって、大手メディアしか入れないが、これは世界的に特異な存在。記者会見は誰でも自由に参加できるようにすべきだ。この点では、日本はアフガンより送れていると言ってよい。

ロバに引きずられた少年.jpg 記者会見後、インディラガンジー子ども病院に急行。予定の薬が入ってきたか確認し、保管する。ハビーブ医師以下、看護師、病院長までやってきて、日本への感謝の言葉を述べてくれた。 薬を納入したついでに、病棟を回る。写真の子どもは4日間意識不明の重体である。 「ロバに頭を噛まれて、引きずり回された」。ハビーブ医師の言葉に思わず反応する。 「えっ、何て言ったの?ロバ?」 「そう、田舎ではロバや馬が子どもを殺すことが珍しくない。開頭手術を2回やって、命はつながっているが」 考えてみたら江戸時代の日本も、時として家畜に殺される子どもがいたのかもしれない。この国では、歴史が戦争によってストップさせられている。今は21世紀なのだが…。
サバイさん 通勤.jpg


10月13日、やはり今日もサバイさんの自宅へ。今朝は25歳の弟がいて、彼女を一階まで下ろして、車椅子に乗せる。そして10歳の娘、サファラちゃんが車椅子を押して、通勤する。

車椅子の後を追いかける。渋滞の大通り、手漕ぎの車椅子がゆっくりと進む。カブール市内はどこもかしこも渋滞しているので、時折いらだったドライバーが「プァーン」と大きなクラクションを鳴らして追い抜かしていく。
サバイさんもサファルちゃんも慣れたもので、そんな車の嫌がらせにもびくともせず、平然と進んでいく。
大通りを歩くこと20分、ようやく「マラライ産婦人科病院」に到着。道中、ずっとビデオカメラを回していたので、秘密警察に尋問されるかなと思ったが、大声で注意されただけで、尋問はなかった。今日はツイている。

サバイさんの職場は、病院の入り口にある4畳半ほどの小さな部屋。ここで病院の職員に関する書類や簡単な経理などをしている。
「トイレはどうするの?」
「行きません」
「えっ、ずっと我慢するの?」
「はい、だから仕事中はいっさい水を飲みませんし、食事もしません」。
驚いた。トイレ介護者がいないので、彼女は朝9時から午後3時まで、毎日飲まず喰わずで仕事をしているのだ。

娘のサファルちゃんに何点か質問する。
「学校は?」
「母を家に送り届けてから行きます」
午後3時過ぎから5時まで。つまり2時間くらいしか授業に出れない。
「鉛筆やノートはあるの?」
「ありません」
思わず使っているボールペンを彼女に手渡す。
「日本製の軽くて丈夫な車椅子がほしいです」
今使っているものは15年前に恵んでもらったもので、何回か故障しているし、重いのである。

「雪の日も雨の日も、この車椅子で通勤してきました。この娘には苦労をかけています」。サバイさんは苦しかった日々を思い出すように語る。
日本製の車椅子を次回、手荷物として機内に持ち込めるか?何か良い方法はないか、考えてみよう。

先天奇形のあかちゃん 足指異常.jpg

さて、サバイさんが勤務するマラライ産科病院を後に、今度はインディラガンジー子ども病院へ。
ハビーブ医師と、どんな薬が必要か、支援について打ち合わせた後、新生児集中治療室を再訪する。
「この赤ちゃんは生後4日目だ。先天性異常で肛門がなく、足指が折れ曲がって違う場所についている」。
ハビーブ医師の言葉を待つまでもなく、異常事態に息をのむ。足が反り返って脚についていて、親指がかかとから突き出しているではないか。明らかな遺伝子異常だ。

「どこから来たのか?」。看病する母親に聞くも、彼女はパシュトン語もダリ語も理解しない。アフガン北部、マザリシャリフ郊外に住むウズベク人だった。劣化ウラン弾の影響なのか、それとも別の武器弾薬で環境汚染が進んでいるのか…。アフガン北部もまた、旧ソ連軍やタリバンとドスタム将軍との戦闘、米軍の空爆など約30年に及ぶ戦争で、汚れきっているのだ。

このインディラガンジー病院には数名のインド人医師が働いていたのだが、半年前に、医師たちが住む住居を狙った自爆テロがあり、全てのインド人医師が殺されてしまった。犯人はおそらくパキスタンタリバンだろう。当然だが、その後インド政府は医師を送り込んでいない。

「私は日本に行って、がん治療や外科手術の勉強をしたい。高度な技術を持つアフガン人医師が少ないので、勉強しなければいけない」。ハビーブ医師の願いをかなえてあげたいのはやまやまなのだが…。

明日はハビーブ医師と薬を買い出しにいく。主にやけどの子どもに必要な薬にするつもりだ。ちなみに昨晩熱湯を浴びて担ぎ込まれた1才の子どもは、今朝亡くなってしまった。薬やガーゼを急いで買わねばならない。


物乞いの女性と子ども.jpg 写真は物乞いで生活するテルジャームさん

10月12日、早朝よりサバイ・ライラさんの自宅を訪問。彼女は10数年前(正確な年数は記憶していない)高校への通学途中にヘクマティヤルのロケット弾で両足を失った。その後結婚して2人の子どもを設けたが、2年前の自爆テロで夫が死亡、現在はおばあさんと、2人の子ども、合計4人でひっそりと暮らしている。
サバイさんの家は、いわゆる「貧民街」の狭い一室。細い路地を入り、急傾斜の階段を上がった2階の一部屋。車椅子生活なので、近所の弟がいない時は、彼女を誰も持ち上げて車椅子に乗せ、外へ出してくれる人がいないので、外出は不可能になる。
お風呂はどうしているのか?おばぁさんがタライにお湯を張って、狭い台所で身体を拭く。
排泄は?やはり台所で、小さな空き缶に用を済ませる。
「私も65歳で、肩や腰が痛くなった。娘の世話をするのも限界だよ」。おばあさんが痛そうに肩をさする。
「16歳の娘さんが両足を失った時は、どんな気持ちでしたか?」
「もうショックで、何で娘がこんな目に遭わないといけないのかと…」。白いスカーフで涙を拭うおばぁさん。
「近所の人は?近所の力持ちが、サバイさんを担いで外へ出してあげればいいのに?」
「弟とおばぁさん、娘しか無理なんだ。この国では、男は他人の女性に軽々しく触れない。アフガンのしきたりでね」。通訳のサバウーンが、介護できない理由を説明する。
「そんなアホな。足がない人が困っていたら助けてあげたらいいやん」。
「残念だが、この地域には古いしきたりが残っている」
65歳の祖母と、足のない母親、そして10歳の娘と4歳の息子。思わず娘に「早く大きくなれよ。そしてお母さんを介護してあげてや」と声をかける。娘は無言でうなずいた。

アフガンでの女性の地位は低い。街をドライブしていたら、おいしそうな果物が並ぶ市場があったので、そこで店主を冷やかしつつ、買い物していたら、ブルカをかぶった女性が「お金をください」と近寄ってくる。カブールでは普通の風景であるが、サバイさんの事例が強烈だったので、すこしインタビュー。
「名前と年齢は?」
「テルジャーム、35歳と思う(自分の年齢を正確に知らない人が多い)」
「なぜ物乞いしているの?」
「夫が障害者になったから」
「なぜ?」
「3年前、自爆テロに巻き込まれて」
「その時、夫は何をしていたの?」
「アフガン軍でパトロールしていた。片足を失った」
「子どもは?」
「5人、長男は交通事故で死んでしまった」
「後の4人は学校に行ってる?」
「男の子2人は行っている。(娘はいけない)」
テルジャームさんは、毎日この場所で、道行く人からお金を恵んでもらって生活しているのだが、一日に200アフガニ(400円)もあればいい方。子どもを養うには、全く足りないが、この国で女性が働くのは難しい。
物乞いするテルジャームさんの横で、少年たちはガムを売り、車の窓を磨く。絶望的な貧困層に、日本の50億ドルが届けばいいのだが。


プレスカードを作る.jpg カブール下町の怪しげなプリントショップで。


10月11日、午前10時にISAF(国際治安援助部隊)本部ゲート前へ。本部ゲートと言っても、コンクリートの壁と土のうで囲まれた殺風景な場所。ポルトガルの兵士が、土のうの奥から銃を突き出して監視している。時折、壁の向こうから米軍やISAF軍の車列が、突然現れてはどこかへ消えていく。

毎週月曜、水曜、土曜の午前10時から11時の一時間だけ、ISAFメディアパスがここで交付される。メディアパスを交付してくれるのは米兵のガブリエルさん。ポルトガル兵と同様、肩にはM16ライフルを下げている。
この許可証を得るために、日本から数種類の書類と健康診断書をあらかじめ送っていて、本日ようやく許可証をゲットした。これで晴れてISAF軍、米軍を取材できることになる。しかし同じように書類申請していた通訳サバウーンの許可証が出ない。提出書類の一部が不備で、再度申請し直さねばならない。そこで急きょ、書類に信憑性を持たせるため、彼のIDカードを作ることにした。

私は「日本平和協同ジャーナリストクラブ」という組織をでっち上げて(笑)、その代表という形でIDカードを持っているが、彼を「アフガン支局長」にするのだ。カブールの下町、ちょっと怪しげなプリントショップで、「偽造?IDカード」を制作。この店のお兄さんは慣れた手つきで、わずか30分でIDカードを作ってくれた。
さっそくこのIDカードと、これまたでっち上げた「それらしく見える推薦状」を作り、ISAFのメディア担当者にメール送信。うまくいけば今週中に許可証が出るかもしれない。

ボスニアやコソボ、イラク、アフガンといった戦場では、このような「一見すると立派に見えるが、何の根拠もない」プレスカードが物を言う。ちなみにアフガン政府が発行する記者証も持っているのだが、こちらはほとんど役に立たない。秘密警察や軍に尋問される時も、この「偽造?IDカード」で乗り切ってきたのだ。私の場合、今後はISAFカードがあるので、さらに取材しやすくなるだろう。

午後はアフガン政府「難民省」の記者会見に参加した。大臣はハザラ人でモンゴル系の顔をしている。ダリ語でしゃべるので、内容はよくわからなかったのだが、イランに逃げたアフガン難民と、パキスタンへ避難した難民をあわせると300万人ほどいるので、これら巨大な数の難民の支援を、UNHCRと一緒になって行っていく、というようなことをしゃべっていたようだ。

ここで1つの疑問が浮かぶ。イランやパキスタンに逃げた難民を支援するのはもちろんだが、イランやパキスタンにさえ逃げることのできない国内避難民はどうするのだ?ということ。会見に集まった記者は20人ほどいたのだが、この点についての質問は皆無だった。
国内避難民は別の省庁で対応しているのだろうか?
いずれにしても、この国にはまだまだ分からないことが一杯だ。少しずつ真相に近づいていきたい。


水頭症の子ども 1.jpg

10月10日、今日はカブール市内のインディラガンジー子ども病院へ。この病院もすでに4回目の訪問なので、受付にいる守衛のおじさんとも顔見知りになり、すんなりと中へ。
病院長にあいさつし、すぐに「やけど病棟」へ。相変わらず悲惨な状況。全身の3分の1、4分の1に大やけどを負った子どもが、泣き叫びながら治療を受けている。

やけどするパターンは大きく分けて2通り。1つは熱湯。カブールの夜は寒いので、母親が湯を沸かしているときに、子どもがその湯をひっくり返して熱湯を浴びるパターン。これが一番多い。次に暖房器具。寒い夜に暖房に近づきすぎる、または暖房器具に火をつけるときに灯油と一緒に燃え上がるパターン。いずれも生死に関わる大やけどになる。
付き添いの母親には薬を買う余裕がない。明日以降、どんな薬が有効なのかを調べて、まとまった量を支援しようと思う。

次に「がん病棟」へ。水頭症の子どもがいる。8歳半。先天性で足は動かない。しかし知能はしっかりしていて、「名前は?」「学校に行きたい?」などの質問には的確に答えてくれる。カブール郊外に住んでいて、自宅とこの病院を行き来する人生である。薬代と交通費が家計に重くのしかかっている。
白血病の子どもたちがいる。先月、インドから医療NGOがやってきて、薬を大量に支援したので、しばらくはそれで治療が可能になった。しかしすぐに薬もつきてしまうだろう。
この病棟の治療責任者ナシール医師も杖をついて歩く。聞けば2歳のときにポリオにかかり、障害者になったとのこと。この国で重い障害を抱えながら、医師になって人の命を救っている。「あなたの努力を賞賛します」と言うと、笑顔で「私のニックネームはエマール(強い男)です」。
アフガン人もこの医師を賞賛しているのだ。
新生児集中治療室 .jpg


次に新生児集中治療室へ。前回先天性奇形の赤ちゃんがいた病室だ。狭い病室にベッドが並んでいて、一つのベッドに2人の赤ちゃん。酸素吸入している危篤の赤ちゃんの隣で、別の赤ちゃんが泣いている。
うれしいことに、全てのベッドに日の丸が。日本からの緊急援助で、とりあえずベッドは搬入された。しかし薬や保育器などの医療器具は全然足らない。
この状況を撮影し、帰国したら国会で観てもらおうと思う。何しろ日本政府は50億ドルという大金をアフガンに支出するのだ。そのうちの一部がこの病院へ直接回るようにしなければならない。いったん、カルザイ政権に入ってしまうと、金は闇に消えてしまう。直接支援金が届く道筋を作ることが求められている。

小麦の買い出し UNHCR.jpg 写真は カブールの下町、小麦の卸売り店

10月9日、早朝よりカブールの下町で小麦、米、食用油の買い出し。30年も続く戦争で疲弊したアフガンでは、農業国でありながら食料自給率が低く、米や小麦は輸入に頼っている。
巨大な卸売り市場では、パキスタンやインドから来た米、カザフスタンの小麦、アメリカからの食用油などが所狭しと並んでいる。
写真はその中の1つ、パキスタンからの小麦の卸売店。この店の風よけシートは、UNHCRと大書されたビニールテントシート。
今年1月にこのシートを一枚15ドル(約1200円)で購入し、避難民キャンプに配ったのだが、こんなところにもこのシート。国連職員も汚職に染まっていて、本来なら無料のテントシートを、横流しして、こんなところまで流れてきているのだ。
店主と交渉。
「トラック一台分買うんだぜ、もう少しまけろよ」。サバウーンが粘っている。
「何を言うか、これ以上ディスカウントしたら卸値を下回るよ」店主が応酬。
そんな交渉を1つ1つまとめていき、小麦と米、油でトラックが満杯になる。
支援物資満載のトラックとともに、まずはパルワンセ避難民キャンプへ。パシュトン側の代表者とタジク側の代表者をあらかじめ、キャンプの外へ呼び出して、それぞれの「取り分」を決定させる。
2人のリーダーは、5対3の割合で分ける、ことに合意した。よし、いまから
パシュトン5、タジク3の割合で、支援物資を配ろうとした時だった。
「俺たちは、新たに逃げてきた者だ。日々の食料に困っている。俺たちにも回してくれ」というグループがやってきた。
米軍の空爆で村が焼かれ、最近逃げてきたばかりという。
分けてあげたいのだが、その様子を他の人に見られると、我も我もとなって収拾がつかなくなる。このグループには、あらかじめパルワンドゥーに回ってもらって、後から配ることにする。
小麦を運ぶ リヤカー.jpg


そんなこんなで配布開始。いったん5対3というルールを決めると、人々は素直に受け取っていく。
やがて配布完了。人々はアッラーの神と日本人に祈りを捧げてくれた。
パルワンセを後に、パルワンドゥーへ。ここは全てがタジク人なので順調に配布完了。子どもたちの様子を撮影する。

パルワンセの子ども アップ.jpg かくして今回も無事に食料を2つの避難民キャンプへ届けることができた。 募金してくださった全てのみなさん、本当にありがとうございました。これで何とか彼らも一息つけたと思います。この場を借りてお礼申し上げます。
首に腫瘍ができた女性.jpg 写真は首に巨大な腫瘍ができたシャイマさん。(カブール市内避難民キャンプで)

10月8日、いよいよ本日から5度目のカブール。まずは前回と同じくカブール市内のパルワンドゥー、パルワンセ避難民キャンプを訪問。薄汚れたテントと鼻をつく異臭、そして子どもたちの歓声。
「よく来てくれた。毎日祈ってたよ」キャンプの責任者の一人、アブドラさんが握手を求めてくる。「日本人が来たぞー」。子どもたちが騒ぐので、たちまち黒山の人だかりとなる。

アブドラさんによると、パルワンセには70家族が住んでいて、元からいたタジク人の他に、最近はパシュトン人も住み始めたとのこと。キャンプの中に細い道が一本通っていて、タジク側とパシュトン側に分けてある。今年だけで、パシュトン側で6人、タジク側で3人、合計9人の子どもが亡くなったという。

そんな取材をしていたら、首筋に大きな腫瘍を抱えた女性がやって来た。シャイマさん(35)は、カブールとバーミヤンの中間点にあるチャリカールという街で生まれた。旧ソ連が侵略してきて、彼女たちはパキスタンのペシャワールへ逃げた。15年前、首筋に小さな腫瘍が見つかった。手術したかったが、お金がないので放っておいたら腫瘍が徐々に巨大化し、このような姿になった。3年前、住み慣れたペシャワールのキャンプを、パキスタン警察によって追い出され、ここへやってきた。
カブールの病院にも行ったのだが、手術する金はない。
「家族は?」
「子どもが3人、孫が4人」
「子どもや孫もこのキャンプにいるの?」
「はい」
「ちょっと呼んできて」
現れたのが息子のシモーグルさん。あれっ、この息子、見覚えがあるぞ…。
思い出した。今年の6月4日、一緒に1歳半の娘のお墓にお参りした父親ではないか。(過去のブログを参照してください)
そうか、シャイマさんはあの時お参りした娘のおばあさんだったのだ。旧ソ連の侵攻から、この家族は不幸の連続だった。彼女の腫瘍は、おそらく不衛生な生活のためにできたもので、そして巨大化したのは、手術する金がなかったためである。孫娘は今年5月に亡くなり、墓参りにもいけない。坂道を転げ落ちるような人生ではないか。

パルワンセキャンプのすぐ横には、おしゃれなマンションが並ぶ。カブールでは「戦争景気」「復興ビジネス」で巨額の富を手にした人たちがいる。何とかならないのだろうか?「にわか成金たち」から税金を取って、この人々に回すのが、政治の役割だと思うのだが。

2010年10月7日、ドバイからアフガン・カブール行きの飛行機に乗り込む。ドバイ〜カブール便は毎日飛んでいて、今回も首尾よくチケットをゲット。安全な「普通の国」UAEのドバイからわずか2時間半で、物々しい警備の「戦争の国」アフガニスタンに到着。

カブール国際空港には相変わらずISAFやアフガン軍の軍用ヘリが多数駐機している。同じ国際空港と言ってもドバイとカブールでは大違い。

ちっぽけな空港を出た途端、「荷物持とうか?」「タクシー?」「旦那、両替は?」など、うるさいほどつきまとう「商売人」たち。そんな「必死でその日の生活費を稼ぐ人々」を振り切り、通訳のサバウーンと再会。

サバウーンの運転で、カブール中心街のフラワーストリート。ここには闇でビールを売る商店があって、首尾よくハイネケン6本をゲット。「おー久しぶりだな。今日カブールに?待ってたよ」。会釈する店主。厳しい戒律のイスラム国家で、ビールを買い付けにくる「堕落した日本人」は、彼のお気に入りになったようだ(笑)。
アフガンではタリバンの影響力が強まるにつれ、このような酒を売る店、ポルノショップ、中華料理店などが急速に姿を消している。イスラム原理主義者が増えると、どうしてもこのような「堕落した」店は、攻撃の対象になる。
さらにはカルザイ政権もイスラム主義の傾向を強めているのか、カルザイの秘密警察がこのような娯楽を禁じる傾向にある。
「俺たち若者にとって、非常に窮屈な社会に舞い戻ってきているよ。アメリカ軍もタリバンも、どちらも出ていってほしいのだが」とサバウーン。

先のビールを売る店は、秘密警察に多額の賄賂をつかませているので、ハイネケン一本あたりの値段が値上がりしている。おいしいキムチを出す韓国料理店も、かつては酒を出していたが今では「警察が怖いのでアルコールは出しません」と方針転換。うーん、カブールは以前の窮屈な社会に逆戻りしているではないか。
で、肝心の治安は?まだ何とかカブールは大丈夫。ただカブールを一歩離れればタリバン支配地域だ。米軍の空爆は絶対に許せないが、タリバン的な「政教一致内閣」もまた、非常に独裁的で窮屈だ。
人々がスポーツや音楽を楽しみながら、かつ、女性が解放され、そして治安が安定した社会になるためには、まだまだ時間がかかりそうだ。

いよいよというか、またまたというべきか。明日からアフガンへ出発する。この2年間で5回、通算6回目のアフガニスタン。さすがに慣れてはきたが、現地からのメールによると治安悪化が著しい。
前回までは入れたカンダハルや、おそらく行けたであろうクンドゥズは、もはや難しい。カルザイ大統領は、「カブール市長」になり、その他の地域はタリバンが押さえるという図式が出来上がりつつある。
なので、今回はカブール限定になるだろう。油断大敵、無理は禁物。アフガンで幅を利かせていた民間軍事会社を、カルザイ政権は解体し追放するという。悪名高きブラックウォーター社などはどう処分されるのだろうか。
カブールは復興ビジネス、軍事&麻薬ビジネスのバブル景気だ。日本は50億ドルの支援を約束しているが、多くの支援金はこのようなビジネスに消えていくのだろう。そのあたりを見てきたいと思う。