物乞いの女性宅を訪問

物乞い女性 ブログ用.jpg 写真はナジバーさん。後ろにサバウーンと彼女の孫


2月17日今日でヘラートともお別れ。飛行機が2時半に飛ぶので、それまで街で物乞い女性を取材。ブルカをかぶった女性に、声をかけてインタビューに応じてくれるか尋ねるも、たいてい逃げられてしまう。
ビデオカメラの前で素顔をさらすなんて、日本でいえば、人前でおっぱいを見せるのと同じくらい恥ずかしいことなのだ。

何人かに断られた後、「どうして撮影したいの?」「貧しい女性の現状を知りたいから」「どこから来たの?」「日本から。この映像は日本でしか映さない。絶対にアフガンでは流れないよ」「本当?」「取材に応じてくれたら、寄付するよ」「本当?」。

おー、会話が成立するではないか。ナンパのような、「1万円あげるからあなたのおっぱい見せて!」という雑誌記者のような交渉の末、タクシーで彼女の家まで。
彼女はヘラート市内から車で10分ほどの、小さな古いアパートに住んでいた。
玄関の門扉を叩くと、わっと子どもが出て来た。この子たちは彼女の孫。彼女は15年前に夫を亡くし、病気の息子を抱えたまま5人の孫を育てているのだ。

家の中に入る。10畳ほどの狭い部屋に、孫が4人と息子、そして息子の嫁。あと一人の孫は、井戸まで水を汲みにいっている。
「名前は?」「ナジバー」「歳は?」「50歳」
私と同い年だが、かなり老けている。
「なぜ物乞いを?」「夫が亡くなり、私しかお金を稼げないから」。
「夫は?」「建設労働者だったが、15年前病気で亡くなった」
「一日の稼ぎは?」「だいたい100アフガニー(約200円)ほど」
「足りないね?」「8人家族なのよ、パンを買うだけで精一杯。どうしたらいいの」。
彼女は大粒の涙を流し始めた。傍らに息子が横たわっている。
「名前と歳は?」「アブドッラー、30歳」
「いつから病気に?」「5年前から。頭と胸が痛くて働けない」
「元気なときはどんな仕事を」「手縫いのペルシャ絨毯を作っていた」。

こんな会話をしているとき、サバウーンがささやく。
「彼は麻薬でやられたのさ。顔を見れば分かるよ」。
何をするのもおっくうだ、というように呆然と天井を見上げる若者と、その傍らで大粒の涙を流す母親。

一番上の孫は今年10歳になる。「学校は?」「以前、ちょっと行ったことがある」
「なぜ行かなくなったの?」「ノートも鉛筆もないもの」
「普段は何してるの?」「水汲みと燃料拾い」。

ストーブで燃やす薪が足らないので、街のゴミ捨て場から燃えそうなゴミを拾うのが彼の日課。家から20分ほど離れた井戸から水をくみにいくのも、すぐ下の妹と交替でやらねばならない。
「学校に行きたい?」「うん」「友達と遊んだりする?」「忙しいし、遊んでいない」。

ナジバーさんが泣き止んだので、彼女に少しつらい質問。
「ご主人の写真はありますか?」「ありません。夫が死んだ時はカブールに住んでいました。あの頃は内戦で、息子がロケット弾で殺されました。それで着の身着のままヘラートまで逃げてきたので、夫の写真はありません」。
「ご主人を愛してましたか?」「ええ、とても」。
ナジバーさんがまた大粒の涙を流し始める。10歳の孫がおばぁちゃんの前で困ったような笑みを浮かべ、麻薬?で身体を病んだ息子が所在なげに寝転がる。

戦争が貧困をもたらし、貧困が健康を害し、人々の顔に苦労のしわが刻まれる。
ナジバーさんは、たまたま街で出会っただけの普通の物乞い女性だ。つまりあちらの商店、こちらの交差点、大通りの並木の下などに座っているブルカの女性たち一人ひとりに、このような人生がある。
この国は30年も戦争を続けてきた。戦争と貧困に翻弄されてきた人々。この人たちに希望の光が射し込む日が来るのだろうか。


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このページは、nishitaniが2011年2月18日 03:55に書いたブログ記事です。

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