2011年5月アーカイブ

前線で.jpg 写真は前線で対空砲を撃つ兵士。対空砲を水平に向けて、遥か彼方のカダフィー軍兵士を狙っている。


5月27日、今日はミスラタでの最終日なので、前線に行く。ミスラタ市内から前線までは約30キロ、車で飛ばせばわずか30分の距離だ。
通訳バシールの車で、海岸沿いの国道を西へ。この道はトリポリに続く幹線道路で、周囲の町はつい最近までカダフィー側の支配地域だった。右手に地中海、左手に中国系企業団地。漢字で「なんとか公社」などと書かれている、その工場群が、ミサイル攻撃で破壊されている。スーダンもそうだったが、中国のアフリカ進出は凄まじい。スーダンもリビアも石油が出るのだ。

20分ほど走ると最初のチェックポイント。日本から来たジャーナリストだと分かると、カダフィーダウン、アッラーアクバルなど、兵士が大声で叫びながらビデオカメラに向かって撮れ、撮れとうるさいくらい。
今週から戦闘が激しくなっていて、昨日は迫撃弾で、反政府側の兵士が5名死亡した。本日はその報復で朝から激しく攻撃しているらしい。今日は金曜日なので、特別派手にやるつもりなのか?
チェックポイントで兵士の写真を撮影していたら、別の兵士を乗せたピックアップトラック4台が、猛スピードで前線に向かう。援軍を送り込んでいる。急いでそのトラックを追いかけながら、第2、第3のチェックポイントを過ぎ、あっという間に前線へ。
トリポリに向かう国道を、大きなトレーラーが遮断している。そのトレーラーの周囲には土が盛ってあって、その盛土が「前線」であった。兵士が盛土の上で銃を構え撃ちまくっている。トラックの荷台には対空砲。対空砲の隣には肩からRPGロケット弾を担いだ兵士。

ズドーン、腹に響く轟音とともにロケット弾が発射され、数キロ先で煙が上がる。ここからカダフィー側の前線までは約5キロ。こちらからロケット弾を撃つと、向こうからも撃ってくる。わずか1キロ先で、煙が上がる。普通の銃では届かないので、このようなロケット弾の打ち合いで間合いを計り、頃合いを見て「決死隊」が近づいて、RPG やFNマシンガンをぶっ放す、というのがここでの戦闘スタイルだ。
もちろん「決死隊」は反政府の義勇兵だけではなく、カダフィー側の兵士も木々やその他障害物にまぎれて近づいてきて、ロケット弾を撃ってくるから、こちら側にも死者が出る。
「危ない、離れろ!」兵士が叫ぶ。対空砲の横で撮影していた私たちが離れないと、自陣の放った砲弾の熱などで怪我する場合があるのだ。ズン、ズン、ズシーン。対空砲は連射式、轟音とともに周囲に土煙。実際に間近で撮影していると、耳がおかしくなるほど。

「もう限界だ。長居は危険、早く退散しよう」。バシールが促す。確かにあのロケット弾の直撃を受けたらひとたまりもない。前線を去ろうとしたその瞬間、パンパンパン、前線の盛土から外へ出て、マシンガンをぶっ放す若者。カダフィー軍の兵士を発見したようだ。撃たれれば彼は間違いなく死亡。彼も狂ったようにマシンガンを連射している。
結局30分ほどで前線を後にする。「早く車に乗れ!ぶっ飛ばすぞ」。バシールは猛スピードで前線から遠ざかる。「あの前線の周囲数キロまでロケット弾の射程距離だ。一目散に遠ざかるのが肝心だ」。バシールの言葉にうなずきながら、「安全圏」へと戻る。

午後5時、ミスラタへの船を待つ。港で「臨時ニュース」が飛び込んできた。
「本日、前線で地元ラジオ局のレポーターがロケット弾の直撃にあって死亡、2人が重症」。ついさっき、アルジャジーラが伝えたようだ。私たちが去ってから1時間後の出来事。危なかった、そして地元ラジオ局勤務ジャーナリストのご冥福を祈る。
午後9時、ミスラタ発ベンガジ行きの大型客船が出港。ベンガジまでは20時間の船旅。地中海は何事もなかったかのように静かに波打っている。「シルト湾」の対岸、ベンガジにたどり着けば、私のリビア取材はひとまず終了となる。


訓練する義勇兵.jpg

写真はミスラタの元中学校。現在は義勇兵の訓練所で。

5月26日、ミスラタ市内の中学校が「義勇兵訓練所」になっているので、そこで取材。この「トレーニングセンター」には、2月17日の革命後、のべ1300人の義勇兵が、前線に立つことを志願し、ここを巣立っていった。
大半が大学生、高校生だった。もちろん、それまで一切武器などに触れたことのなかった若者たちだ。
中学校のグラウンドがトレーニングセンターの訓練場になっていて、まずはみんな整列して、国旗掲揚国家斉唱。新しいリビアの旗の元に、新しい国歌が奏でられる。集まった数百人の義勇兵の卵たちは、それぞれ私服。中にはジーンズにスリッパ履きの若者もいる。なまじ私服であるから、余計に「ゲリラ兵」の雰囲気を醸し出している。

トレーニングが始まった。教官の笛とともに、校舎の壁をよじ登るヤツ、塀の上を走り抜けて、備え付けのロープに飛び移って空中を移動するヤツ、高さ50センチくらいのところに鉄条網が敷かれていて、その下を匍匐前進するヤツ…。なかなか見事な集中ぶりだ。ここでの訓練はまだ7日目。先月は前線の兵士が足らなかったので、3日で送り出していたが、NATO の空爆が始まって余裕ができて、今は10日ほどの訓練の後、前線へ送り出されるという。
カラシニコフ銃の撃ち方、手入れの仕方、対空砲の狙いの定め方、RPGロケット弾の撃ち方など、少数の教官に多数の若者。「俺たちは進んで前線に立っている。カダフィー軍はいやいや命令されている。戦闘ではこの違いが出るのさ」。教官が「モチベーションの違い」を強調する。

ホテルに帰りロビーでくつろいでいたら、AP通信のエジプト人記者がいた。「今日、前線に行ったよ。クレイジーだった。ヒュンヒュンとロケット弾が飛び交っていた。今日だけで5人の兵士が殺されたよ」。ミスラタから前線まではわずか30キロ、車で40分だ。少々危険だが、明日はその前線に行く。

殺された人々 ブログ用.jpg 写真はトリポリ通り 「死亡者・行方不明者展示会場」で

5月25日午前8時、起床後宿泊しているホテルの被害状況を取材。この5つ星ホテルの母屋は、徹底的に破壊されている。玄関、レストラン、ホールなどが戦車砲、ロケット弾の着弾で大きな穴が空き、黒こげになっている。私の宿泊している離れは、この母屋が壁の役割を果たしていて、無事だったのだ。母屋の屋根からミスラタ市内を撮影。メーンストリートの商店街は全てシャッターを下ろし、通りを通行する人影はない。ゴーストタウンだ。ホテルから見えるひときわ高いビルが「保険センタービル」で、このビルは先月まで「スナイパービル」だった。ビルの屋上に陣取ったカダフィー軍のスナイパーが、通行人を射殺していた。反政府勢力も地上からこのビルに銃弾を浴びせ倒していたので、ビルは穴だらけになっている。

ミスラタでの通訳はバシール。彼は理学療法士の資格を取るために英国に留学した経験を持つ。先日までロイター通信の通訳をしていて英語はバッチリ、頼りになる。
バシールの案内でミスラタの中心、「革命広場」へ。ここはカダフィーの、1969年無血クーデターを祝う広場である。広場には反政府勢力が破壊したカダフィーの戦車が陳列されている。吉本さんが戦車を撮影していると、どんどん人々が集まってきて「カダフィー、ダウン」「ゲームオーバー」などとすごい熱気。

革命広場から5分も歩くと、ミスラタ市内を貫く「トリポリ通り」に出る。この通りこそ、悲惨を極めた市街戦の中心地。カダフィー軍は最新の武器で攻めて来た。155ミリトルコ製ロケット弾、ロシア製カチューシャロケット、イスラエル製クラスター爆弾、フランス製対空砲弾…。まさに「武器の見本市」と化すような戦争。義勇兵たちはカラシニコフ銃とRPGロケット弾で対抗するが、次第にカダフィー軍が優位に立ち、トリポリ通りはカダフィーに支配されてしまった。ビルのあちこちにスナイパー。「動くものは全て撃て!」という方針。かくして子ども女性、お年寄り、付近の人々が次々と犠牲になっていった。
トリポリ通りの両サイドにはビルが建ち並んでいて、その中の1つを取材する。

このビルはイスラム教会のビルで、戦争前までは宗教者が集まるビルだった。このビルをカダフィー軍が占拠。5階建てのビル屋上の壁に穴を空け、その穴から地上を通行する人々を狙撃していた。狙撃穴の周りにはジュースの空き缶、ビスケットの空き箱、「狙撃兵たちは、ゆったりと食事をしながら撃ち殺していたんだ」。バシールがつぶやく。
このビルの隣にもビルがあって、やはり黒こげになっている。
「あそこはフィリピン人看護師の寮だった。カダフィー軍はフィリピン女性がいることを発見し、あのビルを襲撃。門番は殺され、女性たちは拉致されてしまった」。「レイプされたのか?」「メイビー(多分)」。
女性たちはいまだ行方不明だと言う。
NATO空爆で破壊された戦車 ブログ 1.jpg


そんなミスラタの虐殺を止めるために、NATOが空爆を開始した。カダフィー軍は撤退を余儀なくされ、ミスラタは再度、反政府勢力の支配地域となった。
3月はカダフィー軍、4月は反政府勢力に押さえられたミスラタ。この戦争で多くの血が流された。NATOの空爆は当初、虐殺を止めるための「仕方のない」空爆だった。しかし戦争は泥沼化している。NATOの空爆をどう見ればいいのか、まだ私の中で結論は出ていない。


5月23日ベンガジ港に大型客船が入船。ミスラタとベンガジを結ぶ船が定期的に往来することになった。本日までは、いつ出るか分からない、何時間かかるか分からない(海の状況で)小型漁船で行くという方法がメーンだった。この定期客船が就航してくれたことは大変ラッキー。早速、チケットを買い、ミスラタを目指す。船内は負傷リビア人であふれている。この戦争で腕や足を失い、ベンガジで治療していた人々が、ミスラタに帰還するのだ。

深夜1時、ベンガジ港を出港。ミスラタまでは約20時間の船の旅。
なぜ船で行くか?それはミスラタ周辺の都市は全てカダフィー側に落ちていて、陸路で行けば、間違いなく「拉致されるか殺される」のである。飛行機は飛ばないので、船しかない。岸壁を離れる瞬間、「いつ戻って来れるか?」と不安になるが、行くしかない。大型客船はトルコ製で、普段はクルージング用に使われていたらしく、船内にはスロットマシーンやミニバーなどがある。もちろん、すべて使えないし、そんな悠長な気分にもなれない。船室でごろ寝。詰めも詰めたり、数百人の乗客が乗り込んでいるので、いったんスペースを離れると、寝るとことがなくなる。ふと、終戦後の引き揚げ船がこんな調子だったんだろうな、と先日聞いた戦争体験者の話を思い出す。
午前3時、あまりの寒さに目を覚ます。毛布なし、海風ピューピュー。同行のカメラマン吉本さんは、半袖なので先ほどから咳き込んでいる。体調が心配。
午前8時、大海原に太陽が昇る。進行方向に向かって左がアフリカ、右がヨーロッパ。時にはイルカが顔を出すという。

午後9時、ようやくミスラタに到着。闇の中で抱き合う人々、救急車のサイレン。けが人を運び出す車が去った後、大型トレーラーに積み込まれて、ミスラタ港を出る。通りには義勇兵。カラシニコフ銃、RPGロケット弾を肩からかけている。通り過ぎるピックアップトラックの荷台には対空砲。あぁついに戦場に来た、と実感。
私たち以外にもイギリスからAP通信やロイターがやって来ていて、ミスラタ市内のコーズアティークホテルにチェックイン。このホテルは3月にカダフィー軍の戦車砲で徹底的に破壊されていて、ガスなし、水道はちょろちょろ、電気たまに停電、という環境だが、もともとは5つ星ホテル。「よくミスラタに来てくれた。宿泊料は無料だ」とマネージャー。ミスラタの状況を世界に伝えるジャーナリストは、当面無料で宿泊させてくれるらしい。

午後11時、停電で真っ暗なホテルの一室。パンパンパンと乾いた銃声がこだましている。義勇兵が空に向かって撃っているのだろう。さすがに疲れがどっと出てくる。水のシャワーを浴びて、泥のように眠る。(続く)

祈る兵士 ベンガジ.jpg

写真はベンガジの「自由広場」で祈る兵士


5月23日午前11時、ベンガジのジャラ病院へ。遺体安置室から「新リビア国旗」にくるまれた棺がおごそかに出棺する。「ラーイラーハイッラーラー(アラー以外に神はなし)」兵士たちの野太い声に押されるように、棺がピックアップトラックに乗せられる。出棺の合図か、死者への弔いなのか、一人の兵士がカラシニコフをぶっ放す。一発、二発…。
棺を乗せた車は「自由広場」に入場。この頃には棺を取り巻く人々が三々五々集まってきて、「にわか決起集会」の様相。
殺されたのは19歳の義勇兵。この「革命」前までは高校生だった。一昨日、アジュダビーアという町の郊外で、カダフィー軍のスナイパーに狙撃された。
同世代の兵士に「その時の様子」を尋ねる。
「あいつは俺から2mの所に立っていた。すると遥か彼方から銃弾が飛んできて額に命中したんだ。カダフィー軍は最新式の兵器で襲ってくる。俺たちには旧式のカラシニコフしかないのに」。
祈りが始まる。人々はメッカの方角にひざまずいて、その後地面に頭をこすりつけるようにして礼拝する。
棺をかつぐ兵士たち.jpg

群衆とともに墓地へ。棺を持った兵士に、大群衆が続く。アラーアクバル!(神は偉大なり)の声とともに、やはり銃声がパンパンパンと鳴り響く。遺体を埋葬し、最後は地対空砲の連射。亡き人を弔う方法はその国の文化や宗教によって違うが、涙は共通。おそらく親戚の若者、同級生たちなどが抱き合って泣いている。
お葬式が終わり、墓地から外の国道へと続く道に、先ほどの銃弾の薬莢が転がっている。19歳の若者は、この薬莢に入った銃弾で殺されたのだ。カラカラカラ。小指くらいの小さな薬莢を蹴飛ばすと、薬莢はコンクリートの通路を門の所まで転がっていった。

5月22日、本日はベンガジ子ども病院で激戦地アジュダービアから逃げて来た子どもを取材。
16歳の少年は、アジュダービアで友人が撃ち殺されるのを目撃した。若干トラウマがあって、インタビューに答える声に力がこもらない。近所にロケット弾が落ちてきて、家族が圧死するのも見ている。ロケット弾攻撃があったのでアジュダービアには住めないと思い、家族と一緒に逃げてきた。
彼は生まれつき腎臓が悪く、ここで週に3回透析をしているが、根本的に直すためには海外へ出て手術が必要。
「将来の夢は?」との質問に、「とにかくエジプトに出て、病気を治すこと」との答えだった。

子ども病院には「がん病棟」があって、ここに白血病やその他のがんの子どもが入院している。
その多くがリビア東部の町デルナやトクラの出身。世界でほとんど報道されていなかったので知らなかったが、実はリビア東部のこれらの町で、1996年に住民が一斉蜂起したことがあった。打倒カダフィーの蜂起は今回だけではない。その時はカダフィー軍が徹底的に弾圧。90分で1千人以上の人々を虐殺した、などと語られている。当時のリビアに外国人が入国するのは非常に難しく、またネットなども遮断されていたため、この虐殺が大きく報じられなかったのだ。カダフィーはこの虐殺に「マスタードガス」などの毒ガス兵器を使用した模様で、毒ガスの影響やその他爆薬、銃弾の重金属による化学的毒性によって、人々の健康が蝕まれていったと考えられる。

子ども病院の壁に一枚の写真が貼ってある。幼い子どもの手術の写真と、銃弾が体内に入っているレントゲン写真。聞けば、この子は生きていてベンガジに住んでいるという。

ベンガジの下町、釣り具屋さんの5歳の息子は、3月19日、父親と表通りでデモを眺めていた。ベンガジでは独裁打倒を叫ぶデモ隊とカダフィー軍が衝突を繰り返していた。デモ隊は平和的に表通りを行進していた。すると突然、カダフィー軍のスナイパーがデモ隊に実弾を発射してきた。その中の一発が、釣具店の壁に当たり、跳ね返った銃弾が5歳の少年の左肩を貫き、肺で止まった。
「痛いよ、お父さん」。肩には小さな血痕。その時、父はまさか少年の身体に銃弾が入っているとは思わなかった。「怪我したのか?ママの所に帰りなさい」。少年は歩いて自宅へ帰り、母が少年の手を引き、歩いて病院へ連れて行った。
病院へ着いてからすぐに少年は意識を失う。レントゲンを撮った医師は母に告げた。「おそらくダメだ。生き残れないだろう」。

緊急手術が始まった。銃弾は肺と心臓の間、背骨の所で止まっている。早く取り除かないと、血液と酸素が脳に入らなくなるので、死んでしまう。時間との闘いだった。手術は半日に及び、AK47の小さな弾丸が取り除かれたときは深夜だった。
驚いたことにその後少年は意識を戻し、数日後には自分で立ち上がり、歩き始めた。奇跡的に何の障害も残さず回復したのだ。
ビデオカメラの前で「走るのと踊ることが好きだよ」と無邪気に笑う。
「アルハムドリッラー(神のご加護があった)」と両親は安堵の表情を浮かべる。

おそらく薄皮一枚の距離、本の数ミリ左か右にずれていたら、肺か心臓を傷つけて、この少年は助かっていなかっただろう。カラシニコフが発した、たった一発の弾丸。わずか数センチ、真ちゅう色に鈍く光る先の尖った金属が、家族の運命を、人の人生をめちゃくちゃにする。

実は今回のリビアへの旅には、NPO法人「映像記録」の吉本さんが同行してくれている。私がインタビューして吉本さんが撮影。アフガンでは全く一人だったので、これはラクである。一昨日、携帯とデジカメ、PCアダプターを盗まれたが、ビデオカメラと現金は無事だった。よって映像はちゃんと撮れている。不幸中の幸い。

ベンガジのホテルでフリーランスの高橋カメラマンと邂逅。高橋さんのPCがマックだったので、アダプターを借りてバッテリー充電に成功。やれやれ、これでしばらくはブログ&ツイッター、その他の仕事がスムーズに進む。

21日にベンガジ医療センターを訪問した後、「カチーバ」と呼ばれる「カダフィー防衛隊」の宿舎跡を取材。

2月17日の革命当日、大群衆となったデモ隊が、この「カチーバ」を攻める。
「カチーバ」のビル、屋上には数10名のスナイパーが陣取って、デモ隊を容赦なく射撃。「カチーバ」に至る国道には100名を越える死体が横たわっていたと言う。100名以上が殺されても、人々は行進を止めなかった。そしてデモ隊がついに「カチーバ」を占拠。ビルに火をつけ、建物を破壊した。
「カチーバ」の中に入る。ビル襲撃から3ヶ月以上が経っているが、内部はまだ瓦礫が山積みになっていて火災による黒いすすが充満している。
カダフィー防衛隊のものと思われる自動車数十台が破壊され、燃やされ、赤茶けた姿をさらしている。
「激闘」の結果、40年ぶりにつかんだ自由。毎日、午後6時を過ぎてから、「お祭り広場」で人々が踊り、歌うのも無理ないことなのかもしれない。

その「お祭り広場」では、今日も「自由、リビア、自由、リビア」の声がこだましていた。「革命」からすでに3ヶ月以上が経過した。そろそろ「お祭り」から「日常」に戻る頃だと思うが。


ベンガジの電気屋を歩き回ったが、マックコンピューターを扱う店は皆無だった。バッテリーはあと1時間。ピンチだ。

本日(21日)はベンガジ子ども病院と医療センター緊急病棟を訪問。医療センターには多数の戦争犠牲者が入院していた。

2月20日、ベンガジの民衆蜂起に刺激されたミスラタの人々が、打倒カダフィーで立ち上がった。「独裁打倒」「リビアに自由を」。ミスラタのメーンストリートを平和的にデモをしている人々に、遥か彼方から「地対空マシンガン」の砲弾が飛び込んできた。数キロ先からカダフィー軍が撃ってきたのだ。この「地対空マシンガン」の銃弾の威力は凄まじく(当然だ、飛行機を撃ち落とすのだから)、たった一発の銃弾でも、多くのデモ参加者を死傷させた。

右手の親指、左手の薬指と小指を失った男性。「俺はミスラタの漁師だった。あの時、武器も持たずに、ただ行進していただけだった。この指では、もう漁に出ることができない」。

潜水夫として、漁船の修理にあたる男性は、別のデモで左足を射抜かれていた。
「俺たちは武器を持たない普通の市民だ。左足のすねの骨が欠損しているので、もう歩けないかもしれない。もちろん潜水夫としての仕事は、無理だ。カダフィー軍は戦車から撃ってきた。町にはカダフィーの雇った外国兵があふれていた。チャド、マリ、ナイジェリア、南アメリカからも来ていたよ」
えっ、南アフリカではなくて?ブラジル?
「コロンビアだ。それも女性兵士だった。噂では、彼らの日当は一日3千ドル。(約27万円)カダフィーは狂っているよ」。
戦車砲で撃たれた後、彼はまずトルコの病院に送られた。同じ船の中に負傷した母子がいた。母親の腕を貫通した銃弾が、子どものアゴの骨を砕いていた。カダフィー軍の使用する武器は、最新鋭の強力な物だ。

ナイジェリア人が下半身不随になっている。2月25日、ミスラタに出稼ぎにきていた彼の家に、数人の兵士が侵入してきた。兵士たちは彼を捕まえて殴る蹴るのリンチを加えた。ある兵士は銃で殴り掛かり、ある兵士はひたすら蹴りを入れてきた。やがて意識を失って2日間が経った。気がつけば隣で友人のイブラヒームが死んでいた。彼は背中の神経をやられたので下半身不随になった。

なぜ彼の家が襲われたのか?殴りかかる兵士たちはアラビア語をしゃべっていた。つまりリビア人だろう。カダフィー軍なのか、それとも…。
奇跡的に一命を取り留めた彼は、赤十字の船でベンガジまでやって来て、ここに入院した。入院生活はすでに3ヶ月。陰茎に管を通して、おしっこを取っている。下半身は動かない。ナイジェリアから家具職人としてミスラタに出稼ぎに来て2年目だった。
「リビアを選ばなければ良かった。違う国で働いていたら…」弱々しく彼がつぶやいた。

入院患者の9割以上がミスラタ出身者だった。そのミスラタには、船でしか行けない。船で行くには片道35時間。つまりミスラタを取材しようと思えば、往復に丸4日、そして船はいつ出るか分からない。陸路?車で行けば、途中のカダフィー軍支配地域で、おそらく捕まってしまう。飛行機?現在、NATOの空爆で上空は「ノーフライゾーン」になっていて飛行機は飛べない。
さて、船で行くべきか、それともベンガジにとどまるべきか。

パソコンのバッテーリーがあと1時間半。誰かマックブックを持っているジャーナリストに充電させてもらうか、ベンガジの電気屋で充電器を探すか。
いずれにしても、打開策を取らねばならない。

5月20日、本日は金曜日なので金曜礼拝を取材。ベンガジの港に面した大通りが、今は歩行者天国になっていて、そこに特設ステージと広場がある。2月17日の革命前までは、人々はモスクで祈っていたのだが、革命後、この「革命広場」に人々が集結し、祈りを捧げるようになった。
午後1時、ゾロゾロと大勢の人々が集まってくる。イマーム(イスラム教のお坊さん)が大群衆を前に演説した後、朗々とコーランを読み上げる。
おそらく1万人を超える人々が一斉に立ち上がり、そして地面にひれ伏す。
「アッラーアクバル!」
一斉に放たれる祈りの言葉。ステージの上から撮影するが、かなりの迫力。ステージの背後には、絞首刑になったカダフィー人形。

カダフィー人形が風に揺られる中、礼拝を終えた人々が「カダフィー打倒」を口々に叫ぶ。人々の背後にはイギリス、フランス、イタリアなどヨーロッパの国旗に混じって、星条旗がはためく。
大量のイスラム教徒の背後に星条旗とは、何とも不似合いな…。

しかしこの光景には既視感がある。99年6月の旧ユーゴスラビア、コソボ。あの時もアルバニア系住民が、「サンキュー、アメリカ!サンキュー、クリントン」と叫びながら万歳していた。やはりあの時もNATOがセルビア軍を空爆し、アルバニア系住民が急速に支配地域を拡大していた。
確かに「狂犬カダフィー」は、多くの無実の人々を虐殺した。ベンガジの人々がカダフィー独裁政権打倒で立ち上がり、勝利を収めたのは素晴らしいことだ。
その「新革命政権」を守るため、NATOは空爆という非常手段で、一方のみを肩入れしている。

2月にバーレーンを取材したとき、やはり独裁者のハマド国王は一方的に無実の人々を虐殺していた。しかしNATOはハマド国王の軍を空爆していない。
これはダブルスタンダードではないのか?イスラエルの核は認めるくせに、イランや北朝鮮の核は絶対に認めないというような。

星条旗やユニオンジャックに並んで、UAEやクゥエート、カタールなどの国旗も見える。これら湾岸諸国は、自分たちが独裁を続けていて、かつバーレーンの独裁国家に軍隊を送り、武器を援助しながら、リビアではカダフィー独裁打倒を叫び、民主主義を言う。この欺瞞に人々は気づいているのか、気づいていながら、(武器や金を援助してくれるので)容認しているのか?
まだまだ取材を続けないと、リビア問題の真実が見えてこない。この国では2月17日以降、学校もオフィスもシャットアウトされ、多くの若者が民兵となりストリートに立つ。
「早く学校に行きたい」。プラカードを持った小学生がいる。確実に言えることは、彼らが一番の被害者になっているということだ。

PCのバッテリー、後2時間。ピンチである。
ここベンガジはリビア第2の都市。昨日も「2月17日革命」を祝う大きなデモがあった。バーレーンのデモと違うのは、デモ隊が武器を持っているということ。持っているどころか、大きな銃を空に向けて発砲しながら行進する。武器はカラシニコフなどの旧ソ連製が多かった。地対空ロケットやRPGロケットなどもロシア製だ。これはカダフィ政権が旧ソ連から大量の武器を輸入していて、その政権が、ここベンガジでは反政府政権となったので、それら「旧式の」武器を、今、使っているのだ。
町のあちこちに、「ネズミの身体にカダフィの似顔絵」が書かれていて、その「カダフィねずみ」が、欧米社会に金を配っているマンガが書かれている。だから欧米社会も批判しているかと思いきや、集会には米、仏、英などの国旗が。NATO空爆を圧倒的に支持している。
武器が反乱していること、NATO空爆無条件支持、など反政府勢力には、今後の課題が多そうだ。本日は金曜日なので、これから大きなデモがある模様。では取材に行ってきます。

無事リビアに入国したのだが、リビアを甘く見てしまった。というのは、チェックインしたホテルで、ちょっと外出する用事があり、わずか30分ほど部屋にいなくなった間に、iphoneとデジカメ、そしてパソコンの電源を盗まれてしまったのだ。
ということでこのブログは、わずかに残っているパソコンのバッテリーでネットに接続して、アップしている。体調はまぁまぁ。取材は順調。しかし機材が盗難。明日から何とかしてブログ報告していけるようにしたいのだが、なにしろここはリビアである。マックの電源、売ってるかな。
ちなみに、本日はベンガジという町まで入って、大規模なデモを取材。しかし写真撮れない。悔しかった。

地中海.JPG

写真はエジプト〜リビアへの国道。美しい地中海が目前に迫ってくる


18日早朝、カイロから契約タクシーを飛ばし、ひたすら西へ。エジプトは高速道路が発達していて、運転手は時速150キロで飛ばす。アレキサンドリアへの国道を、やはり西へと分かれて、飛ばすこと3時間で、美しい地中海に出た。地中海に面した国道は、南側に広大な砂漠、そして北にはエメラルドグリーンの美しい海がどこまでも続く。
約700キロ、8時間のドライブでようやくリビアとの国境に到着。タクシーを降りて、まずはエジュプト側の出国審査。この間の戦争でエジプトに逃げていたリビア人が、故郷に帰ろうとして長蛇の列を作っている。国境にはUNHCRのテントが並ぶ。難民としてエジプトにも行けずにここでテント生活している人々である。
リビアへの帰還民に混じって、無事エジプトを出国。今度はリビア側の入国審査であるが、リビアの東半分はカダフィー政権ではなく、反政府勢力が押さえている。よってビザは反政府政権のもの。「あと一週間でカダフィーはこれだよ」。入国審査官が手で首を切る真似。「日本からのジャーナリストだ」と言えば、「ウエルカム!」となる。ろくに書類審査もせずにリビアへ。
国境からはリビアの乗合タクシーで、港町トブロクに到着。午後10時、町に1つか2つしかない安宿にチェックイン。
ということで、今、私は無事にリビアに入国し、銃声を聞きながらこのブログを書いている。銃声というのは、この「革命」を喜んだ市民が、AK47を空へ向けてぶっ放している音なのだ。リビアは西半分が「トリポリタニア」、東半分を「セレイナイカ」と呼ぶが、私の取材はこの「セレイナイカ」からスタートする。明日はトブロクからリビア第2の都市ベンガジへ移動する。カイロから約1千キロの旅、さすがに疲れたので、今日は早めに眠ることにする。

コプト教徒の集会.JPG 写真はカイロ中心部 コプト教徒地区の抗議集会


本日早朝、無事ドバイに着きその後カイロへ。カイロでリビア行きの段取りをしながら、まずはタハリール広場へ。ここは今年の2月11日に民衆がムバラク政権を打倒して、いわゆる「お祭り広場」となった場所。
広場では「エジプトのマフィアたち」と題して、ムバラク前大統領やその夫人、側近たちの顔が描かれたペナントが並んでいる。エジプト国旗の横にはパレスティナの国旗、そして「カダフィ後の」リビア国旗が続いている。エジプトの人々は、リビアの反政府勢力を応援しているのかと思いきや、広場の片隅では「カダフィ支持」の人々が気勢を上げていたりする。この国はまだまだ混沌としているようだ。

タハリール広場のすぐ横にはナイル川が流れていて、その橋を渡ると「コプト教地区」に入る。コプト教とは「原始キリスト教」とでもいうべきもので、エジプトでは圧倒的に少数派。10日ほど前に、「コプト教からイスラム教へ改宗した」と言われていた女性が、実はコプト教徒のままでイスラム教徒ではないと、宣言したために、怒ったイスラム教徒がこの女性を殺害し、周囲の人々を巻き込んだ銃撃戦になってしまった。結果、10人のコプト教徒、5人のイスラム教徒が殺されたという。以後、この地区は物々しい警備となっていて、コプト教徒地区入り口には、警官と軍隊がにらみを利かせていて、通行人は全て身体検査を受けないと、道路を通れなくなっている。

この光景は既視感がある。イスラエルの東エルサレムと同じ光景。イスラエルで検問しているのはユダヤ教徒の兵士で、検問を受けながら不自由な生活をしているのがイスラム教徒であるが、こちらでは立場が逆転して、検問しているのがイスラム系の兵士たちである。

タハリール広場では大半の人々が「ムバラクがいなくなって自由になった」と語っていたが、少数ながら「ムバラクがいなくなって治安が悪くなった」と眉をひそめる人もいた。イラクでサダムフセインが倒されて、治安が急速に悪化したが、そんな事態にならなければいいが。
コプト教徒たちが軍に守られながら、ミニ集会をしている。十字架を手に、気勢を上げる人々。集会参加者に女性が多いのは、この暴動のキッカケとなった犠牲者がうら若き女性だったことと関係しているのだろうか?

いずれにしても、その国の民主主義度を測る物差しの1つに「少数民族が大事にされているか」というのがある。ことエジプトに関して言えば、まだまだ民度が高まっているとは言いがたい。独裁者ムバラクを打倒するまでは良かったのだが、その先は一体どうなるのだろうか?


本日(4日)夜10時半頃、テレビ朝日系列「報道ステーション」で、2月に取材したアフガン映像がオンエアされる予定です。ヘラートで出会った物乞いでしか生活することのできない女性たち、そして望まぬ結婚を強要され焼身自殺を試みた少女、戦時下の町の様子、最後に首都カブールでのテロ現場などが流れます。
ビンラディンが殺されても、殺されなくても、アフガン戦争10年の責任は重い。10年に及ぶ「テロとの戦い」の結果、多数の家族が崩壊し、貧困状態に突き落とされています。お時間あれば、ぜひ観てください。