ミスラタのトリポリ通り

殺された人々 ブログ用.jpg 写真はトリポリ通り 「死亡者・行方不明者展示会場」で

5月25日午前8時、起床後宿泊しているホテルの被害状況を取材。この5つ星ホテルの母屋は、徹底的に破壊されている。玄関、レストラン、ホールなどが戦車砲、ロケット弾の着弾で大きな穴が空き、黒こげになっている。私の宿泊している離れは、この母屋が壁の役割を果たしていて、無事だったのだ。母屋の屋根からミスラタ市内を撮影。メーンストリートの商店街は全てシャッターを下ろし、通りを通行する人影はない。ゴーストタウンだ。ホテルから見えるひときわ高いビルが「保険センタービル」で、このビルは先月まで「スナイパービル」だった。ビルの屋上に陣取ったカダフィー軍のスナイパーが、通行人を射殺していた。反政府勢力も地上からこのビルに銃弾を浴びせ倒していたので、ビルは穴だらけになっている。

ミスラタでの通訳はバシール。彼は理学療法士の資格を取るために英国に留学した経験を持つ。先日までロイター通信の通訳をしていて英語はバッチリ、頼りになる。
バシールの案内でミスラタの中心、「革命広場」へ。ここはカダフィーの、1969年無血クーデターを祝う広場である。広場には反政府勢力が破壊したカダフィーの戦車が陳列されている。吉本さんが戦車を撮影していると、どんどん人々が集まってきて「カダフィー、ダウン」「ゲームオーバー」などとすごい熱気。

革命広場から5分も歩くと、ミスラタ市内を貫く「トリポリ通り」に出る。この通りこそ、悲惨を極めた市街戦の中心地。カダフィー軍は最新の武器で攻めて来た。155ミリトルコ製ロケット弾、ロシア製カチューシャロケット、イスラエル製クラスター爆弾、フランス製対空砲弾…。まさに「武器の見本市」と化すような戦争。義勇兵たちはカラシニコフ銃とRPGロケット弾で対抗するが、次第にカダフィー軍が優位に立ち、トリポリ通りはカダフィーに支配されてしまった。ビルのあちこちにスナイパー。「動くものは全て撃て!」という方針。かくして子ども女性、お年寄り、付近の人々が次々と犠牲になっていった。
トリポリ通りの両サイドにはビルが建ち並んでいて、その中の1つを取材する。

このビルはイスラム教会のビルで、戦争前までは宗教者が集まるビルだった。このビルをカダフィー軍が占拠。5階建てのビル屋上の壁に穴を空け、その穴から地上を通行する人々を狙撃していた。狙撃穴の周りにはジュースの空き缶、ビスケットの空き箱、「狙撃兵たちは、ゆったりと食事をしながら撃ち殺していたんだ」。バシールがつぶやく。
このビルの隣にもビルがあって、やはり黒こげになっている。
「あそこはフィリピン人看護師の寮だった。カダフィー軍はフィリピン女性がいることを発見し、あのビルを襲撃。門番は殺され、女性たちは拉致されてしまった」。「レイプされたのか?」「メイビー(多分)」。
女性たちはいまだ行方不明だと言う。
NATO空爆で破壊された戦車 ブログ 1.jpg


そんなミスラタの虐殺を止めるために、NATOが空爆を開始した。カダフィー軍は撤退を余儀なくされ、ミスラタは再度、反政府勢力の支配地域となった。
3月はカダフィー軍、4月は反政府勢力に押さえられたミスラタ。この戦争で多くの血が流された。NATOの空爆は当初、虐殺を止めるための「仕方のない」空爆だった。しかし戦争は泥沼化している。NATOの空爆をどう見ればいいのか、まだ私の中で結論は出ていない。


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このページは、nishitaniが2011年5月30日 06:32に書いたブログ記事です。

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