2011年8月アーカイブ

テント生活被災者.JPG 支援物資を配る 2.JPG

チャウサダのモスク敷地内で、いまだにテント生活をしている人々。洪水被害から1年。しかしまだ住居はない。


8月21日、本日は昨年の大洪水で被害にあった村を訪問する。昨年7月、パキスタンのインダス川、カブール川流域一帯が大洪水で、多くの家が流され、人命が奪われたのは記憶に新しい。この大洪水で約90万人が家を奪われ、今なお4万人もの人々が屋根のないテント生活を送る。

イスラマバードから西へ車を飛ばすこと2時間、インダスの大河が見えてくる。このあたりは中流に当たるが、それでも川幅は淀川の河口×1.5倍くらい。このあたりは雨がよく降り温暖なので、周囲には緑豊かな大地が広がる。古代文明が栄えたのも納得できる。
インダスの大河を越えて、さらに30分程走るとカブール川にさしかかる。カブール川はインダスの支流だが、このあたりまで来ると満々とした水を貯え、淀川の枚方大橋くらいの広さ。カブールではチョロチョロと流れる「どぶ川」程度だが、ジャララバードを越えて、ペシャワールあたりまで下ると、大河に変身する。

そんなカブール川が昨年6月頃よりじわじわと水位が上がり、そして7月には何と今渡ってきた橋をあふれ、堤防下の家々を飲み込んでいった。ヌシャラという中流層の住む街へ。カブール川岸の家には高さ3mのところに茶色い線が入っていて、これが当時の「洪水ライン」だと言うことが分かる。
東北の津波は一気に家を飲み込んでいったので、現地はかつての面影を跡形も残していないが、こちらは「じわじわと」飲み込んでいったので、家やビル自体は無事で、家財道具や人が流されていった。
「1年が過ぎ、ようやく家の修理に取りかかっているよ。国連も政府も何の援助もしてくれないので、修理費は持ち出し。まぁ家族は無事だったので、それだけでも幸いだったけどね」と、長いあごひげをたくわえたおじさん。ツナミのことはもちろん知っていて、日本のことを心配してくれていた。

ヌシャラを後にして、チャウサダという街へ。ここは相対的に貧困層が住んでいて、やはり3mくらい、低地の家々が沈んでしまった。
チャウサダの国道沿いにモスクがあって、そのモスクの敷地内にテントが続いている。
テントは避難民の出身地区によって2カ所に分かれていて、合計約80世帯、700人程度が、洪水被害から1年も経っているのに、まだテント暮らしである。
被害発生から3ヶ月ほどは、各国からのNGOがやって来て、それなりに食料援助などがあったのだが、ほとんどの支援団体は帰国してしまい、今やHRDSというNGOが給水援助をしているだけ。気温40度を超える炎暑の中、過酷なテント生活で電気はない。食料こそ、周辺住民がイスラム的な寄付(ザカートという)で何とかなっているが、この環境で1年は堪え難いものがある。
政府からの支援として、一度だけ被災者に「ビザカード」が配られた。この「ビザカード」で地元金融機関から5千ルピー(約4500円)引き落とせる。

で、支援はおしまい。

「この国は雨が降り、農作物が育つ。人々も勤勉で問題ない。問題なのは政府だ」と通訳のアユーブ。

テント生活する人々に、何がほしいかリクエストを聞く。何といってもまずは食料だった。特にラマダンなので、昼間は断食せねばならず、子どもがお腹を減らしているという。
8月22日、早朝よりラワルピンディーの市場で、支援物資の買い出し。80世帯700人分、約2トンの小麦、米、食用油、砂糖を買い出し。トラックに積み込み、ラワルピンディーからチャウサダへ。
テントからたくさんの被災者が出てくる。食料援助をみんな大喜び。パニックにならないように一列に並ばせ、配布スタート。
聞けば、今年になって初めての援助だとのこと(水はのぞく)。災害も戦争も、起こったときは、たくさんの支援が集中するが、やがて忘れられていく。

そもそも昨年の大洪水は、現地の人には責任がなく、おそらく地球規模で進む気候変動が原因だ。アフガンやパキスタン北部に大量の雪が降り、その雪解け水で増水しているところに長雨が続いた。
一方、東アフリカのソマリア中心に大干ばつが襲いかかり、100万人単位で餓死寸前に陥った人々がいる。

砂漠か洪水か。

地球規模で緑が奪われ、人口が爆発し、化石燃料が燃やされた。そのしわ寄せが一番弱い立場の人々に押し付けられている。
支援物資の配布が何とか終了。時計を見るとすでに午後5時。ここからイスラマバードまで約3時間。私の帰国便は午後10時に飛ぶので、急がねばならない。

ハプニング続きのパキスタンであったが、現地に入ることによって、また「テロとの戦い」の本質に少しは近づけたのではないかと感じる。
私がパキスタン入りした3日後、リビア情勢が激変し、そして22日にトリポリが陥落した。リビアに行けなかったのは残念だが、世界の歴史が、激しく動き出しているのを実感する。今年になり、日本では311地震、原発事故が起こり、中東・北アフリカでは次々と独裁者が倒れていった。そして911関連としてビンラディンが殺害され、アフガンから米軍が撤退を初めた。アフガン情勢を考える時、決定的な影響力を持つのがこのパキスタンだ。
さて、今年後半、来年はどうなっていくのか?

8月20日、難民キャンプもマドラサも取材制限がかかるため、仕方なく「ブッダ修行の地」へ。私は専門家ではないので詳しいことは分からないのであるが、ブッダはネパール近郊の町で生まれ、パキスタン(旧インド)、ペシャワール近辺で修行したということだ。

訪れたのはタキシーラという町で、町の入り口に博物館があって、近所の遺跡から発掘された仏像などが展示されている。
博物館から車で20分も走ると、その仏像などが出てきた遺跡に着く。ここはブッダの教えを聞くために集まった仏教徒の町で、メーンストリートの両サイドは商店と寺院の跡。表参道のような雰囲気だったのだろう。

「ストゥーバ、ストゥーバ」と案内人。卒塔婆はサンスクリット語のようだ。この案内人、実は日本語を少しだけしゃべる。「ホネ、ホネ」というので付いていくと、そこは遺骨が出てきたところ。「ヒドケー」と指差すのは、約2千年前に作られた日時計だった。
この当時の仏像は、ギリシャ様式の衣服を着ている。正倉院にはアフガンで掘り出されたラピスラズリがあるというし、エジプトのツタンカーメン王の目はやはりラピスラズリで飾られている。古代からシルクロードを通じて東西交流があり、この場所が文化交流の中心地の1つであったのだろう。三蔵法師が目指した天竺は、パキスタンのペシャワール近郊にあるというし…。

さて、200ルピー(約180円)で雇ったこの案内人が、なぜ日本語をしゃべるのか?それはかつてたくさんの日本人が観光でやって来たからである。今は?残念ながら激減している。自爆や銃撃戦のニュースが流れるので、それも仕方がないだろう。戦争が長引くと、観光業は大打撃だ。イスラマバードのホテルも外国人が来ないので、閑古鳥が鳴いている。

夕刻5時、イスラマバードに戻り、「赤のモスク」へ。ここは07年7月、モスクに立てこもった神学生たちと、当時のムシャラフ政府軍が激しい銃撃戦を繰り広げ、多数の死者を出した場所。
正確に言えば、神学生たちは赤のモスク本体に立てこもったのではなく、モスクの敷地内にあるマドラサ(イスラム神学校)の校舎に立てこもった。その校舎は、破壊されたままの無惨な姿で残っている。

07年7月、この赤のモスクの指導者アズィーズ師は、ムシャラフ前大統領が進めようとしていた教育改革に批判的だった。とりわけ、ムシャラフは「アフガンやイラクなどのイスラム教徒を殺戮している米軍の手先」と指弾されていた。このアズィーズ師がタリバンとつながっていたかどうかは定かではない。しかし住民が反米化していく中で、イスラム聖職者が、政治的発言を強めていくのは、イラン、イラク、リビアでも当然だったように、ここパキスタンでも目立った動きになっていった。

7月4日、神学生たちおよそ150人がイスラム教で禁止されている売春婦を拉致し、マドラサに立てこもった。政府は外出禁止令を出し、学生たちに投降を呼びかけたが、アズィーズ師は徹底的に戦うことを指示。マドラサにはあらかじめ武器が用意されていて、「覚悟のろう城」だったようだ。

7月10日、軍が強行突入。神学生75名、治安部隊10名が死亡したといわれる事件である。
「赤のモスク」で日没の礼拝が始まる。モスク周辺でカメラを回すのは危険なので、車の中から隠し撮り。モスクの建物自体はそれほど大きくはないが、マドラサを含めた敷地はかなり広め。
ムシャラフは「強力な指導者」だったので、妥協を許さず、強行突破を図ったのだろう。女性を拉致して立てこもるという犯罪行為を犯したわけだから、神学生たちは罪に問われるべきだと思うが、しかし銃殺する必要はなかったはずだ。この事件が、強固に見えたムシャラフ体制の蟻の一穴になった、と思う。
そして07年12月、ブット女史暗殺事件をキッカケにムシャラフは国を追われることになる。

パキスタン情勢が落ち着いたら、当時立てこもっていた神学生の生存者にインタビューしたいものだ。

8月19日、少々危険だが、ペシャワールへ。2年程前までは、ペシャワールは安全で、おそらく一人旅のバックパッカーでも訪問できただろう。しかしこの2年で情勢は一変した。米軍が「ドローン攻撃」を始めたのだ。ドローン、無人空爆機によるタリバン掃討作戦だ。
主にペシャワールから西側の部族支配地域で、このドローン攻撃が繰り返されている。
私は「正義の戦争」などないと思っている。戦争は常に「正義のため」「自衛のため」「権益を守るため」などと主張されるが、実態はウソ、ダマし、強欲な「邪悪な動機」で始まると思っている。百歩譲って、「正義の戦争がある」としよう。オバマは常に「テロとの戦いは正義の戦争だ」と演説している。

でも無人機で無抵抗な村を襲う戦争が、果たして「正義」といえるのか?

当然、攻撃されている「部族支配地域」は反米一色に染まっていく。
そこにマドラサがある。純粋な10代の若者にコーランを勉強させ、そして「聖戦」を教える。
私はこのマドラサを取材すべく、ペシャワールに向かったのであるが、マドラサ周辺にはISIの目が光っていて、外国人ジャーナリストは間違いなく検挙されてしまう。今年に入って、フランス、ドイツのジャーナリストが、同じような取材を試みて、見事に拘束されている。マドラサはあきらめるしかない。

ペシャワールはイスラマバードから高速を飛ばして2時間半。街中は一見すると何の変哲もなく、平和に見える。道行く人々はほとんどがパシュトン人で、ウルドゥー語しかしゃべれない通訳を連れていくと、ほとんど役に立たない。
ペシャワールの公設市場へ。庶民相手の「蚤の市」だが、入り口には銃を手にした警官。自爆テロが増えたので、警備が必要になったという。
中に入れば、普通に日用品やおもちゃ、婦人服などが売られている。不自然にはビデオカメラを回せないので、純然たる旅行者のように買い物をしながら、パシュトン文化に興味があるようなそぶりを見せながら、それとなくインタビューしていく。
警官「今年に入って治安はますます悪くなっている。自爆テロが増えた。でも市内は大丈夫だ。市外に出たらダメだよ」
店主「外国人旅行客なんて皆無に等しいね。商売上がったりだ」。
こんな取材をしていたのが午後1時半頃。その30分後、ペシャワールからほんの10キロ、部族支配地域のモスクで自爆テロがあり、48人が殺された。犯人は10代の若者。ズボンの中に仕組んだ爆弾を、金曜礼拝中に爆発させたのだ。
翌日犯行声明が出た。パキスタンタリバンだった。動機は?モスクの地域の部族棟がパキスタンタリバン運動に批判的だったからという理由。
それだけで、約50人近くの人々が何の理由もなく殺される。10代の若者はおそらく「マドラサで洗脳」されたのだろう。マドラサは自爆テロ犯製造機になっている。ISIは、影でタリバンを支援しているのでマドラサの内部を絶対に見せないのだ。今後もこうした自爆テロが続くだろう。911事件から10年、結果として、米国が始めた戦争は、テロを押さえ込むどころか、反米感情をあおり、暴力には暴力で対抗するという気運が広がり、ますますテロを助長している。

8月18日、10時間に及ぶ尋問でさすがに疲れた。さらに私と通訳の名前が記録されてしまったので、次に拘束されればアウト。慎重に行動しなければ。
まずは、ラワルピンディーの「ベナジール・ブット女史暗殺現場」へ。現場には彼女の大きな写真と追悼の碑が。

ブットが暗殺されたのは07年12月27日。現場は演説会場となった広場と大通りを結ぶアクセス道路。このアクセス道路と大通りは鉄の門扉で仕切られている。演説を終えたブットは多くの民衆に取り囲まれ、この鉄の門扉付近で車上から身を乗り出し、群衆に手を振っていた。その車のすぐ後ろ、あたかも護衛の車に見える車上から、一人の男が至近距離から銃撃、その後車が自爆した。銃撃後、自爆すれば確実に殺せる。プロの仕業に違いない。
現場にはその時の自爆した跡が穴になって残っている。

問題は誰が殺したのか?である。いまだに真相は明らかになっていない。イスラム過激派ではないか?というのが西洋社会の見方であるようだが、こちらでの多数意見は「夫で、現大統領のザルダリだ」というもの。まさか自分の妻を殺すなんて、と感じるが、この暗殺で誰が一番得をしたか、といえばザルダリなのだ。

当時の大統領ムシャラフは軍のトップでもあり、強力な独裁者だった。しかし911事件後、アメリカが「テロとの戦いに協力しなければ、パキスタンを石器時代に戻してやる」と脅迫され、ムシャラフは基地提供など米軍に便宜を尽くした。米軍がアフガンでおなじイスラム教徒を殺しているのに、その米軍に協力するとは何事!ということで反米・反ムシャラフ感情が高まっていく。

ブット女史に取れば、政権に返り咲くチャンス。しかしまだまだムシャラフは強い。そんな時に暗殺事件が起こった。当然、①ライバルであるムシャラフが殺したのではないか。②なぜ、国家の重要人物を守れなかったのか。ということになり、ムシャラフは引きずり下ろされ、代わりに政権トップに居座ることができたのは夫のザルダリだった。

このザルダリという人物、大変評判が悪くて「汚職王」なのである。現地では「ミスター10%」と呼ばれている。外国企業が様々な公共工事を受注する時、かならずワイロを支払わねばならず、それが10%なのだ。トップがそんな人物なので、警官も軍もワイロ漬け。昨日取り調べを受けたときも、執拗にワイロを要求された。

ブット暗殺現場を取材したのが、夕刻6時頃。日没が近づいてくる。人々はそわそわし、家路を急ぐ。ラマダン中は日没になってから食事をする。イフタールと呼ばれているが、みんなお腹をすかせているので、このイフタールに間に合うように一斉に帰ろうとする。
かくしてラワルピンディーの国道はラッシュとなる。腹が減ってるので、みんなイライラ運転。そんな状態でメーン交差点が大渋滞。本来交通整理をするべき警官までが、イフタールを求めて帰ってしまったため、「通せ!」「俺が先だ!」クラクションが鳴り響き、交差点上で小競り合い。
まぁイスラム圏ではよくあること。

ちなみに人々はなぜラマダンをするのか。
豊かになった現在でも、貧しかったときのことを忘れてはならない。なので、一年に一回くらいは満足に食事ができなかった頃を思い出そう、今も食事できない人々のことを忘れずにいよう、ということらしい。


8月17日、通訳兼運転手のアユーブとアボタバード行きについて打ち合わせ。
アユーブは、アボタバードにも住んでいたことがあり、ビンラディン殺害現場の周辺状況に詳しい。アボダバード市内は、人々は普通に暮らしているが、ビンラディン殺害現場は、軍と警察が何重にも警戒線を張っていて、それをすり抜けて中に入れるかが、本日のハイライトである。

イスラマバードからラワルピンディーに入ったところに、巨大な難民キャンプ。
ムスキナバードという所で、約8千人の貧しい人々が、泥でできた粗末な家で過ごす。約半数がアフガンから逃げてきた人々、残りがペシャワールなどから仕事を求めてやってきた人々だ。車を止めてちょっと取材。子どもがいるが、学校には通っていない。年齢は?と聞くも「分からない」。文字は読める?黙って首を振る。「1+1は?」「2」では「5+3は?」「うーん、9?」。絶望的な貧困⇒次世代への教育環境不備⇒さらに絶望的な貧困へ。貧困の悪循環である。
ムスキナバードから20分程で、ペシャワールへと続く高速道路に入る。高速道路を走ること1時間半、ようやくアボタバードの看板が見えてきた。

アボタバードは山の中腹に位置する高原都市で、夏はイスラマバードからの避暑客でにぎわう。
またアボダバードには巨大なパキスタン軍基地と、それに並んで銃などを作る「軍需工場」が林立している。地元民の多くは、軍事関係者である。
巨大な銃工場を右手に見ながら、いよいよ軍事ゾーンに入る。赤い看板で「これよりカクート基地」。巨大な基地を横目に見ながら、何カ所かの検問をすり抜ける。道路には「パキスタンを愛せ」「パキスタン人としての誇りを持て」などの標識。

ちなみにオサマビンラディンは、01年の米軍によるアフガン総攻撃で、ジャララバードに逃げ、その後トラボラの洞窟に潜んでいたと言われる。実はこの時ジャララバードの軍閥が、いったんビンラディンを捕まえていたのだが、多額の身代金をビンラディンが支払ったので、解放され、そしてトラボラ経由で、このアボタバードまで逃げてきたわけだ。殺害されたとされるビンラディンが本人ならば、ビンラディンは実に9年もの長い年月をこのアボタバードで過ごしていたことになる。

彼が殺されるまで、アボタバードの一般人は、この町に住んでいることさえ知らなかったのだが、果たしてパキスタン軍は本当に知らなかったのか?
「アボタバードは軍隊の町。軍が知らないなんて考えられない。諜報機関のISIは当然知っていて、匿っていたと思う。ISIはこの町のすべてを掌握しているはずだ」。アユーブと私の意見は一致する。
アフガンのタリバンを育てたのもISI、ビンラディンを匿っていたのもISIだとすれば、いったい、パキスタン軍は親米なのか、反米なのか…。
おそらく「どちらも」なのだ。パキスタン政府が米国と中国に「両賭け」するように。

いよいよビンラディン殺害の近くまで来た。のどかな風景。農民たちが畑仕事をしている。子どもたちは井戸まで水をくみにいく。電気は通っているが水道はない。地元住民に尋ねながら、現場に迫る。
数人の警官がいる。かねてからの作戦通り、私が車に残ってアユーブだけが警官のところに。地元民を装って、中に入れるか尋ねる。
「あちらの検問所で聞け」とのことだった。

問題の検問所へ。数人の兵士がたむろしている。おそらくビンラディン殺害現場はこの検問所の向こう側。細い道にロープが張られ、誰も通れないようにしている。少し離れた場所に車を止めて、私は車に隠れアユーブが兵士のところへ。「通っても良い」と許可されるなら車で中に入るし、「許可証がいる」というなら「どこで取ればいいのか?」を尋ねるつもりだった。実際、何人かの地元民が兵士と何やら話している。おそらく通らせてくれ、などと頼んでいるのだろう。

10分が過ぎ、20分が過ぎた。

兵士に連れられ、アユーブが車までやって来た。「ニシ、ばれちゃったよ」。
アユーブの持っている免許証などが調べられて、地元民でなくイスラマバードから来たことがばれてしまったのだ。
兵士「どこから来た」「日本からです」、兵士は笑っているが、目は真剣だ。やがてパソコンとビデオカメラ、携帯電話、所持金、パスポートなどが次々と没収されていく。かなり危機的状況だ。
検問所から50m程のところに掘建て小屋があって、ここが「取り調べ室」だった。30分程して、私服のおじさん2人が小屋にやって来た。

彼らが諜報機関ISIのメンバーだった。
兵士は「ノープロブレム」と言っていたが、この2人は違う。ハナから「尋問モード」だ。
「ここがどこか知っているな?」「ビンラディンが殺害された場所です」。こういうときは、ウソでごまかそうとしても無駄。素直に供述するのが一番。なぜか?実はイスラエルの国境で、同じように尋問されたことが3度ある。その際「テルアビブの町が素晴らしいと思って」などと入国目的をごまかしたが、すぐウソが見破られてしまい(ガザに行こうとしていた)、逆に悪印象を与えたのだ。彼らはプロなので、下手に言い繕っても逆効果。こうなった以上はまな板の上のコイである。
「この場所は、どのジャーナリストも立ち入り禁止だ。知っているな?」「これほど厳しく立ち入りが制限されているとは知りませんでした」。取材目的は素直に認めるが、悪気はないことを強調する。
「お前の持っているパソコン、携帯、ビデオカメラに、何も映っていなかったら良いが、怪しい写真などがあれば、厄介なことになるぞ」。取り調べ官はそういいながら、パソコンを入念にチェックする。

「下手したら監獄行きやな」……。絶望的な気分だった。私のパソコンには、アフガンでの自爆テロの様子や、米軍とアフガン軍の共同演習の写真、避難民キャンプやタリバン元外務大臣とのインタビュー動画も入っている。泣く子も黙るISIが、これらの写真をどう判断するか…。
「これはどこだ?」「カブールです」「これは?」「カンダハール」。
イラク、リビア、エジプトなどの写真が次々と検閲されていく。ラッキーだったのは、まだパキスタン入り2日目だったので、パキスタンの写真がなかったこと。パソコンは没収されず、ビデオカメラへ。
カメラには、アボダバードの街並、地元民へのインタビュー、殺害現場に至る道のり、基地や検問所の様子などが記録されている。あわれ、これまで撮影した全てのテープは没収。イスラマバードとアボタバードの記録はパーになってしまった。
やはりラッキーだったのは、カメラが旧式のテープ方式だったこと。本体への記録が可能なカメラだったら、カメラごと没収だった。

尋問されること約3時間、ようやく解放。しかし次に待っていたのが警察官たち。パトカーに乗せられ、アボタバードの刑務所へ。「入っては行けない地域に無断で侵入した罪」で取り調べがある。
刑務所に入るなり、暗—い気持ちに襲われた。3畳程の房に囚人たちが数人、所在無さげに座っている。「あそこに放り込まれるたら最悪やな」「ここで宿泊だけは避けたいね」。アユーブとひそひそ話。

制服警官はおおむね友好的だったが、イヤらしかったのが若手の私服刑事。尋問中に「(ワイロを)いくら払う?」「俺を日本に連れて行ってくれないか」など、関係のないことばかり質問してくる。実は、ビンラディン殺害現場を撮影しようとしてやってきたジャーナリストは、全て拘束されてここへやってくる。昨日は中国人ジャーナリストが2人、ここで尋問を受けた。この若手刑事は、外国人ジャーナリストからいろいろとかすめ取っているようだ。
取り調べが延々と続く。それもどうでもいいような質問ばかり。布川事件や足利事件など、密室で取り調べを受けた冤罪被害者のみなさんは、もっとひどい扱いを受けたのだろうな。
やはり3時間程尋問され、調書を取られ、何とか解放された。ワイロだけは絶対に払ってやるか、と抵抗したので、彼はボールペンとコーラン(お守り用に所持していた)、新品のノートを没収した。外へ出る。すでに真っ暗。拘束されて10時間以上が経過している。さすがに疲れた。

「捕まらなかっただけでもラッキーだったよ」「そうだね」「神様が助けてくれたのさ」「俺がコーランを持っていたのが良かったのかな?」「実は僕、クリスチャンなんだよ」。
驚いた。アユーブはパキスタンでは大変珍しいキリスト教徒だったのだ。
時計を見ればすでに11時。取り調べのうっぷんを晴らすかのように、アユーブは飛ばす。イスラマバードへの高速道路に乗る頃、深い睡魔が襲ってきた。

ちょっとした事情があって、ブログアップを遅らせていた。現在パキスタン取材中で、以下、順に紹介していきたい。


8月15日深夜、イスラマバードに無事到着。空港は客引き、タクシー運転手、旅行手配者などでごった返している。パキスタンは人口が多いんやなぁーとあらためて実感。タクシーはスズキアルトの、30年ほど前の中古車。アフガンのタクシーは圧倒的にカローラが多かったが、こちらはスズキアルトの独擅場である。
高速を走る。珍しいことに日本と同じ左側通行。ここはイギリスの植民地だった。道路標識もウルドゥー語の下に英語表記があって助かる。予約していたクラウンプラザホテルにチェックイン。
実は最近のパキスタンビザは、なかなか厳しくて、航空券の領収証はもちろん、ホテルの予約書まで要求される。そしてホテル予約書は、ネットで取ったものではダメで、必ずそこにパキスタン人の自筆サインが必要なのだ。
書類一式をそろえて、東京のパキスタン大使館に提出したのが7月末。すると大使館から電話がかかってきて、「パキスタンのどこへ行く?」「何をする?」「いつまで泊まる?」「お前はジャーナリストか?」などと「尋問」される。
あげくの果てには、「私は観光で訪問します」「イスラマバード以外宿泊しません」という英文の誓約書を提出しなければならなかった。
パキスタン国内に何か隠したいことでもあるのか?それともこの領事がめちゃめちゃ神経質な人物なのか?
ということで、めったにホテル予約などしないのであるが、今回は必須。クラウンプラザという「いつもより豪華目の」ホテルなのだ。

16日、イスラマバードは昼からスコール。なので思ったより涼しい。テレビでは「洪水被害の状況」が流れている。昨年インダス川が氾濫し、約90万人の人々が家を失った。今なお4万人の人々が屋根のないキャンプに住んでいるらしい。日本のテレビでは画面下に「本日の放射能飛散状況」が出るが、こちらでは常に「洪水被害状況」が出ているのだ。
イスラマバードのBBCオフィスへ。ここでハルン・ナジャフィザダさんと面談。彼はBBCの現地特派員で、ビンラディンが殺害された場所、アボダバードについて詳しい。一通り注意事項を聞き、明日からのアボダバード行きに備える。
殺害された家には、現在誰も入ることができない。外からの撮影になるだろう。

午後2時過ぎ、暑さと渇きで体力消耗。しかし今はラマダンなので、レストランはおろか、雑貨屋さんも空いていない。昼間は水さえ飲めないので、人々は日陰でごろ寝。夏のラマダンは日が長いので大変だ。
夕刻5時、ようやく涼しくなってきたので、イスラマバード郊外の「パキスタンモニュメント」へ。パキスタン建国の歴史を伝える巨大なモニュメントが、山の上に建っているのだが、そのモニュメントのすぐ下には「中国・パキスタン友好センター」が、これまた巨大な建物としてそびえている。
ビンラディン殺害では、米軍が国際法違反の、パキスタン主権侵害をしたのだが、この事件が起こる前から、パキスタン政府は、米国からじわじわと距離を置き始め、代わりに中国に接近しているのだという。
対インドとの関係、アフガン戦争でのパキスタンの役割、衰退する米国経済、台頭する中国など、様々な現代世界情勢を反映して、パキスタン政府は、その中をうまく泳いでいこうとしている。
パキスタンモニュメントの丘の上に小学生たちがいる。学校が終わり、ここで遊んでいるのだと言う。マドラサ=学校では、コーランを学ぶ。パキスタンには「普通の学校」と「マドラサ」があって、この子たちはどちらにも通っている。要するに、普通に戦争や帝国の歴史を学びつつ、これとは別にイスラム的な世界観を学ぶ。どちらの学校が好きか?と聞くと、全員がマドラサ!と答える。おそらくこの子どもたちの中からタリバンなどの「反米戦士」は生まれては来ないと思うが、911事件後、反米感情の高まりの中で、少なくない人々が「イスラム急進化」しているのは間違いない。


原発は危険だけれど、コストが一番安いのだから、日本経済発展のためには止められない…。これが財界や経産省、北海道知事の言い分なのだろう。
しかし「コストが一番安い」というのも真っ赤なウソ。おそらく原発が最も高くつく発電方法である。以下検証してみよう。

よく出てくる原発の発電単価は、1キロワット時5、9円という数字。これは資源エネルギー庁が出したもので、電力会社が計算したものではない。しかし今まではこの数字が一人歩きして、何となく水力や太陽光、風力などの自然エネルギーは高くて、原発は安い、というイメージが作られてきた。
この資源エネ庁の数字は、経産省があるモデルを建てて机上の上で計算したもの。しかし大事なのは「実際にいくらかかって電気を作ったのか?」ということ。
立命館大学の大島教授が、電力会社の有価証券報告書を元に、各電源ごとの単価をはじき出した。
その方法は①燃料などの発電に関わる費用と、②その処理にかかるバックエンド費用を足した額。
水力に算入.jpg
集計すれば、原子力が8.64円、火力は9.80円、水力が7.08円となり、原子力はそれほど安くないことが判明した。
しかし、この表には「隠された真実」が潜んでいる。それは揚水発電だ。
揚水 仕組み.jpg
原発は一度動かすと、フル回転させなければならないので、電気が余る夜も100%稼働である。電気は貯めておくことができないので、かならず原発のそばには揚水発電書を作らねばならない。
下の池と上の池を作っておいて、電気が余る夜に、下から上へ水をくみ上げておき、必要になる昼間に、水を落として発電する。10の電気でくみ上げて、7しか発電しないので、揚水発電書は「捨て電所」と呼ばれている。
揚水 全景.jpg

本来、揚水発電のコストは原発に参入しなければいけないが、政府や電力会社は水力に加えていたのだ。
よって、揚水を加えた本来の姿に戻すと、原発コストは10.13円、一般水力は3.88円となり、かなりの差で原発は高コストになってしまう。
本当のコスト 1.jpg


さらに考慮すべきは、原発につぎ込まれてきた税金である。田中角栄が導入した電源3法によって、特に立地自治体に巨額の税金が投入され、それらが麻薬のように地方自治体を蝕んできた。この「原発補助金」はよくできていて、「箱ものに限って支出する」ので、小さな自治体に不似合いな豪華な温泉施設や公民館が林立した。建てたはいいが、運営資金は自治体持ちなので、金がかかる。また新規原発にかけられる固定資産税が5年で終了するので、立地自治体は、「さらなる補助金」を求めて、2号機、3号機と「麻薬のように」原発を誘致してしまう。実は福島には7号機、8号機の計画まであった。
当然、立地自治体につぎ込まれた巨額の税金もコストに算入されねばならない。
税金投入後のコスト.jpg


よって、本当の原発コストは、原子力+揚水が12.23円、火力が9.90円、一般水力は3,98円となり、圧倒的に原発が高いのである。

当然もう1つ考慮すべきコストがある。それは事故による賠償金。福島の土地を除染する費用、農業や漁業への補償、健康被害や風評被害への補償…。これらは天文学的数字に跳ね上がるので、今や世界の投資家は原発には投資せず(事故が起きれば投資金は返って来なくなる)、太陽光に切り替え始めているのだ。
さらにCO2のところで触れたが、この中には核燃料サイクル費用は含まれていない。バカ高いMOX燃料や六ヶ所村、もんじゅの費用などを考えると、「原発を続ければ、経済破綻」してしまいかねない。

財界や政府、電力会社の中に、本当にこの国を愛する人がいるのなら、これらの事実を明らかにして、今までの政策を国民に詫びて、一からやり直すべきである。もういい加減にメディアを使ってのウソ宣伝は止めるべきだ。
「原発はコストが一番安い」というのは全くのウソで、「最も高くつくのが原発だ」という事実を広げよう。

核燃料サイクル図 あとみん.jpg

すいません。前回のブログ、「あとみん」の核燃料サイクル図、見やすいように修正しました。これです

核燃料サイクル図 あとみん.jpg これは「あとみん」という小中学校での「教材」。文科省も原発推進だったため、このような教材を使って「原発は安全」「CO2を出さない」「核燃料サイクルで安心」などのウソを教えてきた。

原発は地震が来たら壊れてしまう、ということは分かったけど、火力発電に切り替えたら、CO2が出てしまうし、コストも…。などと考えている方、だまされないようにしよう。「原発は地球温暖化の切り札」でもなんでもなく、むしろ「地球を温め続ける厄介な発電所」なのだ。以下、検証してみよう。
温排水.jpg
これは福井県の原発銀座から出る温排水で、敦賀湾が温められている様子。原発は火力発電より熱効率が悪く、出てくるエネルギーの3分の1しか電気にならない。残りの3分の2は熱になってしまう。つまり原発を運転すれば原子炉が熱を持つので、炉を冷やし続けねばならない。今回のフクシマ事故で明らかになったように、原子炉を海水で冷やす必要があるので、日本の全ての原発は海岸に建っている。
逆に言えば、原発は常に海を温め続けている。CO2削減の目的は地球温暖化防止のはず。「発電時にはCO2を出しません」とくどいほどCMで宣伝していた原発だが、実態は海を温め続ける「温暖化推進」の発電所だったわけである。
それだけではない。原発を運転すると必ず出てくるのが使用済み核燃料棒。いわゆる核のゴミ=死の灰である。今回の事故で明らかになったように、この使用済み核燃料棒は、放置すれば崩壊熱を出し、溶融してしまうので、原子炉建て屋の中の「使用済み燃料プール」で冷却し続けねばならない。
その期間は?
3年から5年。
冷却水を循環させるのは、石油などを焚いたエネルギー。つまりCO2を出し続けるのだが、問題は始まったばかり。
3年から5年、冷却した使用済み核燃料棒はどこへ行くか?
青森県の六ヶ所村。ここでプルトニウムだけを取り出し、残りをガラスと混ぜて「ガラス固化体」にして冷やす。
その期間は?
約50年。
六ヶ所村はあくまで再処理工場と中間貯蔵なので、50年間冷やしたガラス固化体は、いよいよ「最終処分場」へ送られることになる。しかし…。
日本には、まだその受け入れを決めた自治体はない。北海道の幌延町などで「地層処分の研究」をしているようだが、あくまで研究なので、受け入れ先ではない。
モンゴルの大平原に埋めたらどうか、という案も出たようだが、モンゴル人も反対運動をするだろうし、そもそも自国の核のゴミは自国で処分するのが世界の原理原則。よって、おそらくモンゴルもダメ。
仮に最終処分場が決まって、ガラス固化体を作るのに成功したとする。六ヶ所村で50年ほど冷やし続けた高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)が完全に無害になるのは10万年から100万年後である。仮に地下500mの所に埋めたとして、10万年間安全であるという保障はないし、未来の人類が、「これは何だろう」と掘り返すかもしれない。
つまり「核のゴミ=死の灰の処分方法は、まだ未確立」なのだ。そうすると解決策は?
今すぐ原発を止めて、核のゴミをこれ以上出さないこと、である。
東電や関電など電力会社は、核廃棄物の処分費用を積み立てていて、それが2兆数千億に上るとされている。福島の被災者への賠償金は20兆円程になるのではないか、と言われている。
「この積立金を取り崩して、賠償に充てんかい!」と叫びたくなるのは私だけか?
ちなみにこの積立金も、私たちの電気料金に上乗せして、はぎ取ってきた金である。
この積立金と約100兆円も買い続けた米国債を売れば、増税なしでも賠償金が出てくる。原子力村とアメリカがおいしい目をしてきた、この国の政治経済を変えることができるか?
私たちはこれ以上だまされたくない。CO2を出さない、というのも大ウソだった。