パキスタンにて その2

8月17日、通訳兼運転手のアユーブとアボタバード行きについて打ち合わせ。
アユーブは、アボタバードにも住んでいたことがあり、ビンラディン殺害現場の周辺状況に詳しい。アボダバード市内は、人々は普通に暮らしているが、ビンラディン殺害現場は、軍と警察が何重にも警戒線を張っていて、それをすり抜けて中に入れるかが、本日のハイライトである。

イスラマバードからラワルピンディーに入ったところに、巨大な難民キャンプ。
ムスキナバードという所で、約8千人の貧しい人々が、泥でできた粗末な家で過ごす。約半数がアフガンから逃げてきた人々、残りがペシャワールなどから仕事を求めてやってきた人々だ。車を止めてちょっと取材。子どもがいるが、学校には通っていない。年齢は?と聞くも「分からない」。文字は読める?黙って首を振る。「1+1は?」「2」では「5+3は?」「うーん、9?」。絶望的な貧困⇒次世代への教育環境不備⇒さらに絶望的な貧困へ。貧困の悪循環である。
ムスキナバードから20分程で、ペシャワールへと続く高速道路に入る。高速道路を走ること1時間半、ようやくアボタバードの看板が見えてきた。

アボタバードは山の中腹に位置する高原都市で、夏はイスラマバードからの避暑客でにぎわう。
またアボダバードには巨大なパキスタン軍基地と、それに並んで銃などを作る「軍需工場」が林立している。地元民の多くは、軍事関係者である。
巨大な銃工場を右手に見ながら、いよいよ軍事ゾーンに入る。赤い看板で「これよりカクート基地」。巨大な基地を横目に見ながら、何カ所かの検問をすり抜ける。道路には「パキスタンを愛せ」「パキスタン人としての誇りを持て」などの標識。

ちなみにオサマビンラディンは、01年の米軍によるアフガン総攻撃で、ジャララバードに逃げ、その後トラボラの洞窟に潜んでいたと言われる。実はこの時ジャララバードの軍閥が、いったんビンラディンを捕まえていたのだが、多額の身代金をビンラディンが支払ったので、解放され、そしてトラボラ経由で、このアボタバードまで逃げてきたわけだ。殺害されたとされるビンラディンが本人ならば、ビンラディンは実に9年もの長い年月をこのアボタバードで過ごしていたことになる。

彼が殺されるまで、アボタバードの一般人は、この町に住んでいることさえ知らなかったのだが、果たしてパキスタン軍は本当に知らなかったのか?
「アボタバードは軍隊の町。軍が知らないなんて考えられない。諜報機関のISIは当然知っていて、匿っていたと思う。ISIはこの町のすべてを掌握しているはずだ」。アユーブと私の意見は一致する。
アフガンのタリバンを育てたのもISI、ビンラディンを匿っていたのもISIだとすれば、いったい、パキスタン軍は親米なのか、反米なのか…。
おそらく「どちらも」なのだ。パキスタン政府が米国と中国に「両賭け」するように。

いよいよビンラディン殺害の近くまで来た。のどかな風景。農民たちが畑仕事をしている。子どもたちは井戸まで水をくみにいく。電気は通っているが水道はない。地元住民に尋ねながら、現場に迫る。
数人の警官がいる。かねてからの作戦通り、私が車に残ってアユーブだけが警官のところに。地元民を装って、中に入れるか尋ねる。
「あちらの検問所で聞け」とのことだった。

問題の検問所へ。数人の兵士がたむろしている。おそらくビンラディン殺害現場はこの検問所の向こう側。細い道にロープが張られ、誰も通れないようにしている。少し離れた場所に車を止めて、私は車に隠れアユーブが兵士のところへ。「通っても良い」と許可されるなら車で中に入るし、「許可証がいる」というなら「どこで取ればいいのか?」を尋ねるつもりだった。実際、何人かの地元民が兵士と何やら話している。おそらく通らせてくれ、などと頼んでいるのだろう。

10分が過ぎ、20分が過ぎた。

兵士に連れられ、アユーブが車までやって来た。「ニシ、ばれちゃったよ」。
アユーブの持っている免許証などが調べられて、地元民でなくイスラマバードから来たことがばれてしまったのだ。
兵士「どこから来た」「日本からです」、兵士は笑っているが、目は真剣だ。やがてパソコンとビデオカメラ、携帯電話、所持金、パスポートなどが次々と没収されていく。かなり危機的状況だ。
検問所から50m程のところに掘建て小屋があって、ここが「取り調べ室」だった。30分程して、私服のおじさん2人が小屋にやって来た。

彼らが諜報機関ISIのメンバーだった。
兵士は「ノープロブレム」と言っていたが、この2人は違う。ハナから「尋問モード」だ。
「ここがどこか知っているな?」「ビンラディンが殺害された場所です」。こういうときは、ウソでごまかそうとしても無駄。素直に供述するのが一番。なぜか?実はイスラエルの国境で、同じように尋問されたことが3度ある。その際「テルアビブの町が素晴らしいと思って」などと入国目的をごまかしたが、すぐウソが見破られてしまい(ガザに行こうとしていた)、逆に悪印象を与えたのだ。彼らはプロなので、下手に言い繕っても逆効果。こうなった以上はまな板の上のコイである。
「この場所は、どのジャーナリストも立ち入り禁止だ。知っているな?」「これほど厳しく立ち入りが制限されているとは知りませんでした」。取材目的は素直に認めるが、悪気はないことを強調する。
「お前の持っているパソコン、携帯、ビデオカメラに、何も映っていなかったら良いが、怪しい写真などがあれば、厄介なことになるぞ」。取り調べ官はそういいながら、パソコンを入念にチェックする。

「下手したら監獄行きやな」……。絶望的な気分だった。私のパソコンには、アフガンでの自爆テロの様子や、米軍とアフガン軍の共同演習の写真、避難民キャンプやタリバン元外務大臣とのインタビュー動画も入っている。泣く子も黙るISIが、これらの写真をどう判断するか…。
「これはどこだ?」「カブールです」「これは?」「カンダハール」。
イラク、リビア、エジプトなどの写真が次々と検閲されていく。ラッキーだったのは、まだパキスタン入り2日目だったので、パキスタンの写真がなかったこと。パソコンは没収されず、ビデオカメラへ。
カメラには、アボダバードの街並、地元民へのインタビュー、殺害現場に至る道のり、基地や検問所の様子などが記録されている。あわれ、これまで撮影した全てのテープは没収。イスラマバードとアボタバードの記録はパーになってしまった。
やはりラッキーだったのは、カメラが旧式のテープ方式だったこと。本体への記録が可能なカメラだったら、カメラごと没収だった。

尋問されること約3時間、ようやく解放。しかし次に待っていたのが警察官たち。パトカーに乗せられ、アボタバードの刑務所へ。「入っては行けない地域に無断で侵入した罪」で取り調べがある。
刑務所に入るなり、暗—い気持ちに襲われた。3畳程の房に囚人たちが数人、所在無さげに座っている。「あそこに放り込まれるたら最悪やな」「ここで宿泊だけは避けたいね」。アユーブとひそひそ話。

制服警官はおおむね友好的だったが、イヤらしかったのが若手の私服刑事。尋問中に「(ワイロを)いくら払う?」「俺を日本に連れて行ってくれないか」など、関係のないことばかり質問してくる。実は、ビンラディン殺害現場を撮影しようとしてやってきたジャーナリストは、全て拘束されてここへやってくる。昨日は中国人ジャーナリストが2人、ここで尋問を受けた。この若手刑事は、外国人ジャーナリストからいろいろとかすめ取っているようだ。
取り調べが延々と続く。それもどうでもいいような質問ばかり。布川事件や足利事件など、密室で取り調べを受けた冤罪被害者のみなさんは、もっとひどい扱いを受けたのだろうな。
やはり3時間程尋問され、調書を取られ、何とか解放された。ワイロだけは絶対に払ってやるか、と抵抗したので、彼はボールペンとコーラン(お守り用に所持していた)、新品のノートを没収した。外へ出る。すでに真っ暗。拘束されて10時間以上が経過している。さすがに疲れた。

「捕まらなかっただけでもラッキーだったよ」「そうだね」「神様が助けてくれたのさ」「俺がコーランを持っていたのが良かったのかな?」「実は僕、クリスチャンなんだよ」。
驚いた。アユーブはパキスタンでは大変珍しいキリスト教徒だったのだ。
時計を見ればすでに11時。取り調べのうっぷんを晴らすかのように、アユーブは飛ばす。イスラマバードへの高速道路に乗る頃、深い睡魔が襲ってきた。

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このページは、nishitaniが2011年8月21日 11:52に書いたブログ記事です。

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