パキスタンにて その5

8月20日、難民キャンプもマドラサも取材制限がかかるため、仕方なく「ブッダ修行の地」へ。私は専門家ではないので詳しいことは分からないのであるが、ブッダはネパール近郊の町で生まれ、パキスタン(旧インド)、ペシャワール近辺で修行したということだ。

訪れたのはタキシーラという町で、町の入り口に博物館があって、近所の遺跡から発掘された仏像などが展示されている。
博物館から車で20分も走ると、その仏像などが出てきた遺跡に着く。ここはブッダの教えを聞くために集まった仏教徒の町で、メーンストリートの両サイドは商店と寺院の跡。表参道のような雰囲気だったのだろう。

「ストゥーバ、ストゥーバ」と案内人。卒塔婆はサンスクリット語のようだ。この案内人、実は日本語を少しだけしゃべる。「ホネ、ホネ」というので付いていくと、そこは遺骨が出てきたところ。「ヒドケー」と指差すのは、約2千年前に作られた日時計だった。
この当時の仏像は、ギリシャ様式の衣服を着ている。正倉院にはアフガンで掘り出されたラピスラズリがあるというし、エジプトのツタンカーメン王の目はやはりラピスラズリで飾られている。古代からシルクロードを通じて東西交流があり、この場所が文化交流の中心地の1つであったのだろう。三蔵法師が目指した天竺は、パキスタンのペシャワール近郊にあるというし…。

さて、200ルピー(約180円)で雇ったこの案内人が、なぜ日本語をしゃべるのか?それはかつてたくさんの日本人が観光でやって来たからである。今は?残念ながら激減している。自爆や銃撃戦のニュースが流れるので、それも仕方がないだろう。戦争が長引くと、観光業は大打撃だ。イスラマバードのホテルも外国人が来ないので、閑古鳥が鳴いている。

夕刻5時、イスラマバードに戻り、「赤のモスク」へ。ここは07年7月、モスクに立てこもった神学生たちと、当時のムシャラフ政府軍が激しい銃撃戦を繰り広げ、多数の死者を出した場所。
正確に言えば、神学生たちは赤のモスク本体に立てこもったのではなく、モスクの敷地内にあるマドラサ(イスラム神学校)の校舎に立てこもった。その校舎は、破壊されたままの無惨な姿で残っている。

07年7月、この赤のモスクの指導者アズィーズ師は、ムシャラフ前大統領が進めようとしていた教育改革に批判的だった。とりわけ、ムシャラフは「アフガンやイラクなどのイスラム教徒を殺戮している米軍の手先」と指弾されていた。このアズィーズ師がタリバンとつながっていたかどうかは定かではない。しかし住民が反米化していく中で、イスラム聖職者が、政治的発言を強めていくのは、イラン、イラク、リビアでも当然だったように、ここパキスタンでも目立った動きになっていった。

7月4日、神学生たちおよそ150人がイスラム教で禁止されている売春婦を拉致し、マドラサに立てこもった。政府は外出禁止令を出し、学生たちに投降を呼びかけたが、アズィーズ師は徹底的に戦うことを指示。マドラサにはあらかじめ武器が用意されていて、「覚悟のろう城」だったようだ。

7月10日、軍が強行突入。神学生75名、治安部隊10名が死亡したといわれる事件である。
「赤のモスク」で日没の礼拝が始まる。モスク周辺でカメラを回すのは危険なので、車の中から隠し撮り。モスクの建物自体はそれほど大きくはないが、マドラサを含めた敷地はかなり広め。
ムシャラフは「強力な指導者」だったので、妥協を許さず、強行突破を図ったのだろう。女性を拉致して立てこもるという犯罪行為を犯したわけだから、神学生たちは罪に問われるべきだと思うが、しかし銃殺する必要はなかったはずだ。この事件が、強固に見えたムシャラフ体制の蟻の一穴になった、と思う。
そして07年12月、ブット女史暗殺事件をキッカケにムシャラフは国を追われることになる。

パキスタン情勢が落ち着いたら、当時立てこもっていた神学生の生存者にインタビューしたいものだ。

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このページは、nishitaniが2011年8月25日 18:11に書いたブログ記事です。

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