2012年2月アーカイブ

第1に、アフガンが20年に一度の大寒波に襲われている時に、約800枚の毛布と、テントシートを届けることができた。生死の境目ギリギリのところで、支援できたことはよかった。ただチャライカンバーレはじめ、避難民キャンプの総数は急増しており、800枚では全然足らない。政府レベルでの支援が必要である。課題として、早期に政府のしかるべき部署の方に、この窮状を認識してもらう必要がある。
第2に、子ども病院にやけどの薬、粉ミルクなどを支援することができた。こちらも個人のNGOの限界があるので、政府の支援金が、病院の外壁塗り変え工事から、保育器ややけどの薬、抗がん剤、血液検査機、やけど専門病棟の設立、など、本当にアフガン国民が求めているものに使われるようなシステムに転換してもらえるよう、陳情せねばならない。
以上が、緊急に日本、特に上京した際にやらねばならないことであるが、以下は今回の取材で得た新しいアフガンに関する状況。
まずカブールに関していえば、治安状況は上向きつつある。警官の検問も少々「和やかに」なっているし、自爆テロも減っている。カンダハルやヘルマンド、パキとの国境付近では、まだ米軍の空爆やタリバンの仕掛け爆弾などがあり、相変わらずであるが、全体としては落ち着いてきたように感じた。
町で目立ち始めたのは、「アフガン特殊警察」である。内務省やインド大使館など、かつて自爆テロの対象となっていた建物の前には、訓練を受けた特殊警察官が目を光らせていて、テロを未然に防いでいる。
イラクでもそうだったが、町の治安はその国の人々が守るべきで、米軍などが表へ出てくると、彼らに対する反発から、町は不安定になる。バグダッドのスンニ派地区やファルージャなどでは「覚醒グループ」が、劇的に治安を改善していったが、今後カブールなどでも、このような治安回復が進んでいくのではないか。米軍はいろんな意味で、早期に撤退すべきなのである。
マザリシャリフについて。マザリは、今やアフガンの中で、安全に取材できる数少ない都市の1つになった。マザリの他に入れそうなのは、ヘラート、ジャララバード、バーミヤンぐらい。あとは、米軍に従軍するか、相当覚悟して潜りこむか。今回は緊急事態だったので、陸路を使ってみたが、「移動は飛行機」が原則。かつては、ペシャワールからカイバル峠を越えてジャララバードへ、というのがバックパッカーの「憧れルート」だったが、今は不可能。カイバル峠付近は、米軍の無人戦闘機による爆撃地域になってしまっているので、しばらくは近づかない方がいいだろう。
今年7月に東京でアフガン復興会議が開催されることになった。アフガン人が世界で最も信頼を寄せる国は、実はこの日本である。和平の気運が盛り上がりつつあるときに、地元日本で会議が開かれるわけなので、日本政府は何らかの具体的な和平&復興へのロードマップを示すべきだろう。
とはいえ、今の野田内閣では不安だ。沖縄の基地問題、東北の復興、原発問題など、何一つ解決せず、失政を繰り返している。しかし、これら重要課題を前へ進める主体は、NGOでも国連でもなく、やはり各国政府しかないと思うのだ。
今回のアフガンへの旅、支援の内容に満足するとともに、その限界も見えてきた。無事に帰国できてホッとするとともに、また大きな荷物が背中にのしかかってきたような気分でもある。

2月15日、とうとうカブールも今日で最後。今回の取材テーマの1つに「戦争被害者の自立」を撮影したいと考えていた。ホスマンドの自宅へ。彼とは3年前、カブール市内で出会った。ISAF軍本部の前で「障害者にも仕事をよこせ」「アメリカは出ていけ」などのシュプレヒコールを唱えながらデモ行進していたうちの1人で、その時の様子は、報道ステーションでも流させてもらったし、拙著「オバマの戦争」で取り上げた。彼は今から約20年前、アフガン西部のヘラートという街に住んでいて、そこで当時のナジブラ政権軍兵士だった。
ヘラートはイランに近く、イラン軍が国境を越えて侵攻してきた。彼は若く、軍の中では下級だったので、イラン兵士&ムジャヒディーン(イスラム聖戦士)の敵陣近くまで攻め込まされた。そこで地雷を踏んだ。以後、障害者として生活しながら、同じような境遇の人々の生活改善に取り組んでいる。彼は片足で器用にホンダのスーパーカブに乗る。3年前まで郵便局員として郵便配達の仕事があったが、その仕事はパシュトン人に取って代わられた。みんな大きな声ではいわないが、この国ではハザラ人に対する差別がある。
ホスマンドの自宅はカブールから車で30分くらいのハザラ人居住区にあった。ハザラ人は一目で東洋系と分かるので中国かモンゴルの下町に迷い込んだ感じ。
ホスマンドの紹介で18歳の少女に出会えた。3歳の時、カブール郊外の自宅がロケット弾の直撃を受け、両足を膝下から失った。自宅から小学校まで歩いて通えなかったので、11歳まで学校に行かず、家で過ごした。国際赤十字が義足を作ってくれて、歩行訓練をして歩けるようになった。
小さい子に混じって学校に通い始め、今は7年生(中学一年)である。
彼女はミシン裁縫を習っていて、自分で洋服が縫えるようになった。洋服が売れれば自立できる。
次に紹介されたのもロケット弾で両足を失った22歳の青年。彼はパソコンの修理技術を習っていて、やはり一人前になれれば自立できる。あとは彼らを支える政府や地域の支援があれば。
ホスマンドも、18歳の少女も、22歳の青年も、アフガン内戦当時に障害を負った。このような人たちには、政府から年間に1800アフガニー(3600円)しか手当が出ない。逆に01年以後のテロとの戦いに巻きこまれて障害を負った人には、月に2000アフガニー(4千円)、年間4万8千円の手当が出る。カルザイ政権はアメリカが作り上げたので、現在の戦争被害者にはやや厚めに手当をするが、それまでの戦争は自分たちの責任ではないと切り捨てているのだ。
大阪空襲訴訟で、軍人や軍属には年金、恩給が出ているのに、空襲で家を焼かれ、障害を負った民間人には手当が出ていないことが明らかになったが、裁判所が「戦争だから受忍せよ」と、老齢の原告たちを突き放したのと似ている。
戦争だから仕方がない、俺たちの政権にあの戦争の責任を負わせないでほしい、というのはアフガンも日本も同じなのだ。いや、まだ少ないながらも手当が出ているカルザイの方がマシなのかも。
さて、飛行機の時間が迫ってきた。今日のカブールは快晴。この状況ならキャンセルはない。暖かくなってきたとはいえ、まだ氷点下である。空港までの道のり、途中にパルワンドゥーがあるので、この旅行中に着ていたズボン下、シャツ、靴下、手袋などを寄附。またもや感謝の祈り。ユニクロで千円のシャツに祈ってもらわなくても…。
さて、日本では橋下市長がまたまた大変なアンケートで世間を騒がせているようだ。帰国してからも忙しい日々が続くのだろうな…。

岩国であずかった絵と孤児たち ブログ用.jpg 写真は岩国と米国の高校生が描いてくれた絵の前で記念撮影する孤児たち


2月14日、一昨日までの大雪が嘘のように晴れ上がり、カブールは雲1つない快晴。まずはインディラガンジー子ども病院へ行き、丹波市の中学生からあずかったハンカチ、京都YMCAからいただいた絵本を、病室で配る。
先週やけど病棟で出会った、両手、両足を切断しなければならない赤ちゃん、そしてパン焼き釜に落ち込んだ、もう1人の赤ちゃんが亡くなっていた。
そして今度はもう1人、同じ事故で足指を切断しなければならない赤ちゃんが新しく入院していた。ガス暖房機の爆発でやけどしている子どもも多数。なぜこれほど爆発するのか?
犯人はマイナス20度のアンビリーバブルな冷気。極限まで冷えきったガスに着火しようとして、いきなり爆発してしまうのだ。急激な温度差、安全装置のついていない粗末な暖房器具。
ハビーブ医師とカトリーナ看護師に4千500ドルを手渡す。これでやけどの子どもの薬と粉ミルクを買ってもらう。本来は一緒に買い出しにいって配布する予定だったが、マザリで思いのほか日程を喰ってしまったため、現金で手渡した。次回訪問時に、薬や器具の写真をいただくことにした。
子ども病院を出て、タハエ・マスカン孤児センターへ。先日手渡した日米の高校生が平和を願って描いてくれた絵の前で、孤児たちを撮影。このセンターの目立つところに貼ってもらうことになった。
近い将来、日米の高校生とアフガンの高校生がここで交流できるくらいに、平和になることを願う。
さて、半月に及んだ私の旅もいよいよ明日で終了。明日未明、大阪のABCラジオから電話がかかってくる。道上さんの番組に生電話で出演することになった。こちらは携帯電話の電波が弱いので、ちゃんと会話が成立するか、若干不安だが、アフガンの最新情報を発信するようにしよう。日本時間の午前8時、つまりこちらは真夜中の3時半だ。寝ぼけていたら、トンチンカンな受け答えになってしまう。今日は早めに寝ることにしよう。

2月13日午後12時半、タクシーでマザリまで戻ることを選択。マザリからの飛行機は午後5時に飛ぶ。これを逃せば、またマザリでもう一泊しなければならない。あと4時間半しかない。来た道を戻る。ドライバーは「サラン峠?ノープロブレム。俺は何回も通っていて、そうだな、10時間くらいでカブールに着くよ」と言っていた。アフガンでは、人々の放つ「大丈夫」を鵜呑みにしてはいけない。このことは過去何回も経験していたのだが。
今更ドライバーに苦言を言っても仕方がない。それより安全運転で飛ばしてくれ。道中、何台かのトラックが大破していた。スピードの出し過ぎと、互いに道を譲らない強引さ。この国では交通事故が多いのだ。
プレホムリを午後3時に通過、あと2時間、これなら5時までに到着できそうだ。何カ所かトラックがチェーンを巻くために、スタックする場面があったが、行きよりは順調。サマンガンの町まであと10㌔ほど、この調子で行ってくれ!と願っていたときだった。

こんなところで渋滞するか?という何の障害もないところで、10数台の車がスタックしている。前方100mほどのところに銃を構えた米兵。米兵の後ろには、ドイツ国旗とハンガリー国旗がそれぞれ添付してある装甲車が10数台。おいおい、こんなところで道を遮断するなよな。
ISAF軍の車列を先頭に、みるみるうちに車が詰まってくる。どの車からもドライバーたちが「何が起こったんだ」と顔を出す。こんな時は、私の出番だろう。プレスカードを高く掲げて、米兵のところまで歩み寄り、ジャーナリストだということを確認させてから、交渉に入る。
「なぜ道を遮断しているのか?」「ハンガリーの装甲車がエンジントラブルを起こした」「エンジントラブル?でもここは公道だ。片側通行で、通してほしい」
「ダメだ。遮断せよ、という命令だ」「俺は5時の飛行機でカブールまで飛ばないといけない。せめて急用ある車だけでも通してほしい」「わかった、ボスに聞いてみる」。

結果、ダメだった。軍の命令は絶対なのだ。「アホ、お前らのおかげで間に合わんやないか。また無駄な一日をすごさなアカン。クソッ」心の中で毒づきながら、じりじりと復旧を待つ。4時、5時。あぁ、飛行機が飛んでいった。もう一日マザリで過ごすのか…。すっかり暗くなった国道を行く。6時半、ようやくマザリに到着。あそこで2時間スタックしなければ、間に合っていた。ダメ元で、空港へ。翌日のフライト時刻をチェックする意味もあった。

「カブールへの便は何時に出る?」「カブールか、急げ。みんなチェックインを済ませているぞ」。
何と、5時の便が遅れていて8時に飛ぶのだ。やった、さすがアフガニスタン。飛行機は予定通り飛ばないものなのだ。

かくして私は3時間遅れの便に、ギリギリ間に合い、現在カブールに無事戻ってくることができた。こうしてブログを更新できるのも、カブールにいるからなのだ。ホテルにチェックインして、熱いシャワーを浴びる。あー熱い湯が冷えきった身体の芯にまでしみ込んでいくようだ。ハードラックが続いていたが、どうやらこのへんで、ツキも戻ってきた。アフガンでの取材もいよいよ最終ラウンド。最後まで気を抜かずに、取材&支援を続けるつもりだ。

2月12日、午前中にマザリの下町でチャパンを買う。タジク人がよく着ている民族衣装で、カルザイ大統領も公式の場で着用するので見たことがある人が多いかもしれない。(カルザイはパシュトン人であるが、全アフガンの代表という意味を込めて、あえてタジクの衣装を着ている)その後、パコールをかぶると、もう立派なアフガン人だ。実際、この姿で下町を取材していると、いろんな人から現地語で話しかけられる。チンプンカンプンなので、英語でしゃべってくれ、というと初めて私が外国人と分かってくれる。
よし、これなら大丈夫だろう。実は、今日もカブールが大雪でフライトがキャンセル。マザリから数百㌔の道のりを、タクシーをチャーターして一気に走りきる。その際、私はハザラ人に見えるので、突っ切れると判断。
マザリの下町で最後の取材。寒そうにパンを売っている少年たち。「毎日、ここに立っているの?」「うん」「何時間くらい?」「朝9時から売り切れるまで」「寒いやろ?」「もちろん」「学校は?」「行ってない」「何で?」「行く余裕がない」。
取材している姿を見て、たちまち周囲は黒山の人だかりに。日本人に似たハザラ人の少年が、興味深そうにビデオカメラを見ているので、尋ねてみる。
「年は?」「12歳」「ここで何してるの?」「荷物を運んでる」。パン焼き場からここまでリヤカーでパンを運んでいるのだ。
「1日にいくらくらい稼ぐの?」「150アフガニーくらい(300円程度)」「学校は?」「行ってない」「行きたい?」「うん」。
やはり地方に来るとカブールより貧しいので、学校に行けない子どもが多い。
粉雪が舞う商店街で、「商売」する子どもたち。文字が読めないので、このまま成人しても、似たような仕事にしかつけないだろう。今後この国では、定時制の中学校などが必要になるだろう。
さて、タクシー乗り場で信頼できそうなドライバーを選び、マザリからカブールへ。道中、それほど厳しいチェックポイントはないだろう。問題は、マザリから200㌔ほど、カブールからも150㌔ほどのところに、3千m級の「サラン峠」を越えれるか、どうか、だ。
タクシーは飛ばす。できるだけ明るいうちにカブールに着きたい。うまく行けば、10時間程度のドライブだ。
サマンガン、プレホムリと主要都市を順調に通過。時折、タイヤチェーンを巻くためトラックが道をふさいでいて、スタックする。日本のような「チェーン巻きスペース」がないため、いちいちチェーンを巻き終わるまで後続車が待機せねばならない。
夜7時、ようやくサラン峠の山小屋まで到着。すでに標高1500mは行っているだろう。吹雪の中、私たちもチェーンを巻く。何もかも凍りつくマイナス20度の世界。
カブールまで、峠を越えてあと148㌔。バーミヤンへの分かれ道も過ぎていった。
ここで車がスタックしている。警官が何やら怒鳴っている。「吹雪のため、サラン峠はクローズ」。
あちゃー。昨日までは何とか通れていたと聞いていたが、さすがにこの気温、吹雪では、峠道は危険なのだ。
山小屋まで戻る。みんな震えながら、唯一のストーブに近づき、手をかざす。
こんな時でも、アフガン人は妙に明るくて、「仕方ないさ。飯でも喰おう」となる。小屋の中も氷点下の世界。薪をくべてストーブの温度を上げ、熱いチャイを飲み、パンをかじる。
峠はいつ開くのか?だれも分からない。明日の朝なら開くんじゃないか?まぁそんなくらい顔せず、ケバーブでも喰え。
夜10時、山小屋で雑魚寝。究極の低温の中、野宿に近い形で寝る。キャンプで子どもたちが寝ている姿を見て、寒いだろうな、と思っていたが、まさかこのような形で、同じような状況を来県するとは。深夜2時、あまりの寒さに目が覚める。風邪をこじらせてはいけない。しかし、あぁ…。残酷なことにストーブの薪が使い果たされ、残り火がちろちろと燃えているのみ。寒いはずだ。
震えながら眠る。朝5時半、みんなもぞもぞと起き出す。寒い中、お祈りを始める経験なイスラム教徒たちだ。
7時、辺りが明るくなり、補助の薪が運び込まれ、ちょっと一息。8時、9時、10時…。峠への道は閉ざされたまま。おいおい、今日中にカブールにたどり着かないと、日本で予定している仕事(講演会)に間に合わないではないか。
どうする、このままここで待つか、マザリまで戻って、今日の飛行機がキャンセルされないことを期待するか。
一か八か、マザリまで来た道を戻ろう。時刻は正午過ぎ。マザリからのフライトは午後5時。ギリギリ間に合うか?タクシーよ飛ばせ、マザリまで戻るのだ。

2月11日、少々風邪気味。昨日、裸足で凍りつくようなアリー廟を歩いたせいかな?タクシーでマザリシャリフ市立病院。駐車場から病院玄関まで、外来患者であふれている。徹夜したのだろうか、この寒い中、ベンチで寝てたら余計に悪くなるやん、と思いつつ、でも他に方法がないのだろうな、日本とは事情が全然違うのだ。彼らはそれこそ「清水の舞台から飛び降りるつもり」で、バス代を払って、ここに来ているのだ。したがって病院の玄関では、ちょっとしたバトルが繰り返される。「中へ入れろ」「何時間待たせるんだ!」怒号飛び交う中、数人のISAF軍兵士が佇んでいる。なぜ病院に?プレスカードを見せて、しばし取材。
彼らはノルウェー軍の兵士だった。「人道支援」のため、ここで働く2人のノルウェー人医師の警備をしている。装甲車に防弾チョッキとM16ライフル。病院にそんなんいるか!と突っ込みたくなる。
マザリは治安が安定していて、そんな重装備は必要ないと思うのだが、「NATOの基準」というのがあるのだろうな。後に病室を案内してくれた医師も「ここは病院だぜ。患者が怖がってしまう。迷惑だよ」と苦言を呈していた。
院長の許可を得て、病室を取材。白血病など血液のがん患者が多い。劣化ウラン弾との関連が気になるが、この国では因果関係を調査するのがタブーである。
子ども病棟へ。カブールでもそうだったが、この季節、肺炎で重症になった赤ちゃんが多数。1つのベットに2人はザラ、下手すると3人、4人と折り重なる様に寝ている。母親が付き添っているが、ずっと赤ちゃんを膝に抱いて、座って寝ているのだそうだ。
新生児集中治療室もひどかった。1つの保育器に、未熟児が2人、3人と入っている。保育器から出ていても、重篤な赤ちゃんは酸素吸入をしているのだが、1つのベットに2人、3人が寝ているため、酸素吸入と点滴のチューブがこんがらがりそうにからまっている。
この病院にも、かつては日本からの援助が入っていたのだが、なぜか援助がストップして、劣悪な環境の中で、多くの命が消えてしまっている。
原因は?おそらくマザリから日本人スタッフがいなくなったからではないだろうか?同じことがカンダハルでもヘラートでも起きている。危険だからと引き上げてしまえば、継続的な援助はできなくなるのだ。外務省の、特にJICAのみなさんが、現場にいることが重要なのだと思う。
成人の病室に、白い肌で赤毛の青年が座っていた。右足と両目の眼球がない。今から16年前、1996年にパキスタン軍の空爆でやられた。7歳だった。
なぜパキスタンが?答えはタリバンである。タリバンはパキスタンに支援された軍隊で、96年当時、このマザリはタリバン対北部同盟(ドスタム軍)の激しい闘いが続いていた。タリバンが北部同盟を打ち破るよう、パキスタン軍は「空爆で援助」していたのだ。昨日のブログにも書いたが、「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」。結果、このような罪なき子どもたちが負傷し、人生を狂わせる。
病院取材を終え、アリー廟の前で物乞いする人々に取材。ビデオカメラを回しながらインタビューするのだが、たちまち黒山の人だかり。聞いてもいないのに、撮影する対象でもないのに、「俺の話を聞け」「僕を映して」などちょっとしたパニックに。仕方がないので写真を撮って見せてあげると、大喜び。またまたパニックに。みんな純朴な人たちやなー、と感心する。
さて、飛行機の時間が迫ってきた。空港へと急ぐ。空港といっても滑走路があるだけで、何もない広場のようなもの。兵士がいる。「カブールまでだ、通してくれ」「今日のフライトはキャンセル」。
えっ、何で?カブールが大雪で飛行機が降りられないのだった。そう、私は厳寒のアフガンを取材しにきたのだ。こうなることは予想できたはず。でも実際に予定が狂ったときは「しまった」と思う。後の祭り。もう一日マザリだ。

アフガンの今後を考えるにあたって、まず最初に留意しなければならないことは、「今、起こっている現象だけで判断してはいけない」ということだろう。
米国とタリバンが、カタールのドーハを拠点にして和平交渉に入るというニュースが流れた。これはカルザイ政権の頭越しに行われるので、焦ったカルザイはサウジやパキスタンと組んで、サウジのリヤドで米国抜きの和平交渉、すなわちタリバンとカルザイの「アフガン人同士で」和平会議を開催しようとした。
ここでアフガン情勢に詳しい人なら、えっ、立場が逆なのでは?と感じるかもしれない。
すなわち、カルザイ政権は米国の傀儡としてスタートしているし、タリバンはサウジの資金を利用して、パキスタンが作り上げた武装組織であるからだ。歴史の流れからすると、米国はまずカルザイ政権と相談すべきだし、パキスタンやサウジはタリバンを支援していくはずだ。今起きている現象は、「昨日の敵が今日の友で、今日の友が明日の敵」である。ちなみにこれは中東でもよくあることだ。
では私なりに背景を探ってみよう。
まずは米国の事情から。周知の通り、米国はイラク&アフガン戦争で巨額の軍事費を投入しており、財政破綻してしまった。オバマ政権としては、これ以上アフガン戦争に金を突っ込むことは避けたい。アフガンをコントロールするためカルザイを大統領にしたが、予想以上に(あるいはわざと?)戦争が長引き、米国による誤爆や不当逮捕、殺人などでアフガン人の間に強い反米感情が芽生えた。カルザイは当初、米軍をかばっていたが、国民世論を無視できず、反米スタンスを取らざるを得ない状況に追い込まれた。彼の反米スタンスは、当初、国民向けのポーズだったが、あまりに米軍の戦争犯罪がひどいので、傀儡として振る舞うことに限界を感じ、本気で米軍撤退を要求するようになった。
ちょうど沖縄における仲井眞知事のような存在ではないか?と思う。

オバマ政権内部も一枚岩ではない。アフガンから撤退を主張するグループと、もう少し戦争を続けたいグループがいるはず。米国の失業率は今や10%に届く勢い。どこかで紛争の種をまき、戦争を続けないと軍産複合体も商売できない。しかしアフガン戦争は、もうそれほどうまみがない。トルクメニスタンからアフガン経由で石油パイプラインを引く計画も、現在は頓挫しているし、イラクやリビアのように、アフガンからは石油が出ない。
今年は大統領選挙なので、オバマとしては「タリバンと和解成立」を見せて、選挙に勝利したいだろう。でもカルザイは信用できないし、今やアフガン各地でタリバンが復活していて、カルザイが治めているのはカブールだけ。カルザイは今や「カブール市長」といっても良い状態だ。米国はそんなカルザイを見限って、タリバンと直接交渉に踏み切ったのだと思われる。
問題はここから。果たしてこの交渉は、両者、本気なのか?ということ。私は両者ともポーズではないか、と考えている。オバマは「自分は平和主義者である」とアピールできるし、タリバンは「アフガンの実権を握っているのは俺たちだ」と主張できる。しかし本当に和平が実現してしまうと、米国は戦争ができなくなるし、タリバンは恐怖政治でしか民衆を押さえ込むことができないので、和平が実現してしまうと、すぐに統治能力がないことが露呈してしまう。またタリバンと一口に言っても、地方によっては単なる軍閥だったりするので、一枚岩でもない。今のタリバンは「アフガンが戦争状態だからこそ、一定の民衆の支持を取り付けている」だけである。

隣国パキスタンはどうか?90年代、パキスタンは軍の諜報機関ISIを使ってタリバンをアフガンにもぐり込ませ、アフガンをコントロールすることに成功した。パキスタンは、石油パイプラインの利権と、隣国インドとの紛争があり、インドとの後背地としてアフガンを手中に収めておきたかった。この点で米国とパキスタンの利害が一致していたが、911事件で状況は一変した。米国は今までパキスタンとともに支援してきたウサマ・ビンラディンとタリバンに対して戦争を始めた。パキスタンのムシャラフは独裁的だが有能な政治家だったので、米国と協調するふりをしながら、民衆の反米感情にうまく折り合いを付けながらパキスタン軍をコントロールしていた。しかしブット女史の暗殺で、そのムシャラフも国を追われ、「金儲けの才覚はあるが、政治家としては無能なブットの夫」ザルダリに代わった。大統領が無能だと軍部が力をつける。パキスタン軍の力が台頭し、諜報機関であるISI主導で、自爆テロリストの養成が始まって、パキスタン・タリバンやラシュカレ・タイバなどの武装勢力が、アフガンやインドでテロ事件を引き起こすようになった。パキスタン・タリバンが、カブールなど主要都市で、次々と自爆テロや銃撃戦を引き起こし、アフガン人を巻き添えにして殺していったので、オリジナルの「アフガニスタン・タリバン」は、パキスタンと距離を置くようになった。アフガン戦争も、今や、米国とアフガン・タリバンとの戦いではなくて、主な戦場は、パキスタンとの国境付近、つまりパキスタン・タリバンとの戦争に変化しつつある。そんな中、パキスタンは米国一辺倒の同盟国ではなくなり、特に中国との関係を強め始めた。そしてだんだんとアフガン・タリバンから離れていったと想像される。
よってパキスタンとしても、アフガン・タリバンの敵=カルザイ政権を利用しようという思惑が生じた。

ではサウジはどうか?サウジはサウド家という王族の独裁国家である。日本ではあまり報道されないが、サウジもまた「アラブの春」の渦中にいる。王族の腐敗、独裁に抗議する民衆が、命を賭けてデモをしている。そんな時独裁者はどうするか?一定の譲歩、つまり福祉や教育など国民生活向上の約束で不満を沈めるとともに、国民の目を国内問題から国外へと目をそらすことができればなお良い。リヤドでアフガン和平会議を成功させて、王族が「平和主義者であり、打倒の対象ではない」ことをアピールしたい。そんな思惑から、カルザイを利用しようとしたのだろう。

ここまでが直接的、政治的背景。ではその裏の裏、経済的背景について考えてみよう。
リーマンショックをはじめとして、実体のないマネーゲームの破綻で世界の金融資本は大打撃を受けた。本来ならマネーゲームを改め、実体経済への投資に切り替えねばならない。しかしそれでは、あまり儲からない。株式や証券に投資していた巨額の富は、原油や金、穀物などの先物市場にも流れていく。
特に原油市場は、中東情勢で動く。イランやイラクで紛争があれば原油は急騰する。結果として産油国と、石油産業、そしてそれらの株式を所有する金融機関、原油先物市場で売り買いしているヘッジファンドなどが、巨額の利益を得る。イランがホルムズ海峡を封鎖する、とにおわせただけで、原油価格は跳ね上がる。その情報を前もって知っている投資機関があれば、当然「買い」に走るだろうし、「沈静化」のニュースを嗅ぎ取れば、「空売り」すれば良い。
リビアの内戦では、武器の取引はもちろん、このような思惑で動いて巨額の富を手にした投資機関があっただろうと想像する。ちなみにオバマ大統領の選挙資金を支えたのは、ゴールドマンサックス、JPモルガンなどの投資銀行だった。米国政権が何を考えているか、を前もって知っていれば大儲けできる。いわゆる戦争銘柄、石油銘柄のインサイダー取引だ。

アフガン戦争は、イラク戦争に比べてそれほど金にならない。しかし米国の一部勢力に取って、「戦争を始めるキッカケ」が必要だった。国民世論を戦争に向かせるための仕掛け、それが911事件とそれに引き続くアフガン戦争ではなかったか?米国、特にネオコンの狙いはイラク戦争であって、アフガン戦争はイラク戦争を引き起こす導火線に過ぎない。そのアフガン戦争も10年続き、そろそろ潮時である。
紛争のネタは他にもたくさんある、イランやシリア、イスラエル、エジプト、パレスチナ…。米国はイラク戦争で懲りているので、「よその国に戦争をしてもらって、その協力体制で儲ける方が、割が良い」と考えているだろう。したがってイスラエルにイランを攻撃させるのが、もっとも望ましいと考えるグループもいるはず。また絶えず緊張関係を作っておいて、情勢を不安定にした方が、軍産石油複合体にとっても、金融資本にとっても都合が良い。

結論。
米国もサウジもパキスタンも、それぞれ国内事情を抱えながら、アフガン戦争については収束の方向で一致し始めている。ただ、戦争は儲かるので、「アフガンを不安定なまま」にしておき、いつでも介入できる態勢にしておきたい。形だけの和平合意を実現させ、米国にとっては、アフガンに中国やイランの影響が及ぶのをできるだけ避けておきたい。よって現時点の実効支配者であるタリバンと「和解するふり」を始めた、と考える。

ハザラトアリー廟 ブログ用.jpg 写真は、マザリシャリフのハザラト・アリー廟。戦争さえなければ、ここは外国人観光客であふれているはずだ。


2月10日、早朝5時にタクシーを捕まえて、カブール空港。午後7時半、カブール〜マザリシャリフ行きの飛行機を待つ。8時、9時、10時。飛行機は飛ばない。遅れていることのお詫びもなければ説明もない。アフガンではよくあることだが、せめて遅れている事情だけでも説明すべきだ。
11時、ようやく離陸。わずか1時間でマザリシャリフに到着。
空港の周囲は何もない。アフガン復興費がここにも投入されていて、空港に新たなビルが建設中だ。空港とマザリ市内をつなぐ国道沿いには、多くの建設会社が軒を連ねている。
タクシーで30分、マザリの中心街、ケファヤットホテルに宿泊。外国人が珍しいのだろう、「ニイハオ」「ハロー」と声をかけてくる人多数。
チェックインを済ませ、まずは「ハザラト・アリー廟」へ。このモスクは、マホメット死後4代目のカリフである、アリーのお墓である。
そもそもマザリシャリフという都市の名は、「聖なるアリーの墓」という意味だ。
モスク前の白い鳩 ブログ用.jpg

きれいな青のモスクに何千羽もの白い鳩。なぜこれほど白い鳩だけが?白い鳩は、平和の象徴であり、宗教的にも縁起がいい物なのだろう。
モスクへ。どのモスクもそうだが、ここでも靴を脱がねばならない。カブールほどではないが、マザリもまた氷点下の厳冬である。まして午前中まで雪が降っていて、モスクの手前、中庭は凍った様に冷たく、そして濡れている。そこをソックスのみで歩くが、足指が凍りつきそうである。
今日は金曜日なので、特に参拝者が多く、祈りを済ませた人々は、例外なくうれしそうである。
そんな姿を撮影していたが、足指が限界を迎えてくる。しもやけになりそうだ。
モスクの前には、多くの物乞いと所在無さげに座る人々。
モスクを出て、町を歩く。思った以上に治安は安定している様に見える。明日は、ここの病院などを取材して、夕刻カブールに戻る予定だ。

片手を失ったベドゥインの少年.jpg 写真は地雷で片手を失ったベドウィンの少年。寒い季節、羊を追いかけるのも大変だ。手にしているのは丹波市の中学生が染めてくれたハンカチ。


2月9日、午前9時に孤児施設へ。正式名は「タハエ・マスカン孤児センター」で、アフガン厚労省が管轄している。
孤児センターの前で、羊に生ゴミを食べさせているベドウィンの少年たちがいるので、しばし撮影しながらインタビュー。寒くないか?学校は?などと聞いていくが、ふと見ると長兄の洋服、左手がブラブラしている。
地雷だった。5年前、10歳の時、羊を追いかけていて不思議なものを見つけた。その金属でできた不思議な物は、友人たちと格好のおもちゃになった。そして爆発。友人は失明し、彼は左手を失った。
それから5年、毎日のように羊とロバを追いかけて、時には都会で生ゴミを食べさせ、時には山で雑草を食べさせる。
雪に覆われたこの季節が、彼らにとって最も厳しい季節である。

「タハエ・マスカン孤児センター」では、本日午前中、アッラーに感謝するイスラム式典が行われていて、そこで岩国の高校生とアメリカの高校生が協力して描いた畳1条ほどの大きな絵をプレゼント。英語と日本語で「平和」と書いてある。「平和」の意味を伝える。
絵の後は、京都のYMCAからいただいた、ダリ語と日本語で書かれた絵本と、兵庫県丹波市の和田中学校からあずかっていた、草木染めのハンカチ。校長も、孤児たちも大喜びで受け取ってくれた。
孤児院を出て、カブールの米大使館近く、タリバンが屋上から大使館に向けてロケット弾を放ったビルへ。2ヶ月半前、この建設中のビルに、タリバンが侵入し、ロケット弾を放ち、その後激しい銃撃戦となった。米軍ヘリがやって来て、タリバンを殺害。以後このビルは立ち入り禁止。ビルの正面には武装したアフガン軍。
彼らの目を盗み、ビルを撮影。壁に空いた無数の穴で銃撃戦の激しさがわかる。
米軍 至近距離 ブログ用.jpg

一通り撮影し、帰路につく。すると米軍の装甲車2台が、私たちを猛スピードで追い越していく。ここは米軍基地と大使館に近いので、米軍の車列がたまに通りかかるのだ。カブールを取材して4年目を迎えるが、さすがに米兵の数は減っていて、米兵はめったに表に出て来ないのだが、今日は運良く(運悪く?)米兵に出くわした。
車列のすぐ後ろについて、撮影を始める。サバウーンが距離をとりながら、慎重に車を近づける。撮影開始。米兵との距離50m。その距離を縮めようとすると、装甲車の上から米兵がグーを突き出す。「これ以上近づくな」のサインだ。普通はパーで止めるのだが、米軍はグーサインで止める。そのことを知らずに近づいていった人々が、イラクでもアフガンでも犠牲になっている。
カンダハールでは緑のレーザー光線を浴びた。次に赤が出て、それでも距離をとらなかったら撃たれる。米兵も恐怖心に襲われているので、余裕がない。撃つ方も撃たれる方も、目に見えない恐怖で萎縮している。
さて、明日から2日間はイスラムの連休。退屈な連休をどうすごそうか。

昨晩、夜の避難民キャンプを取材した。チャライカンバーレにはタリバンやタリバン内通者がいるから、さすがに夜は危険だが、パルワンドゥーとセなら何とかなるとの読みだった。

夜8時、電気もなく、水道もガスもないキャンプに2つの強力なカンテラを下げてカメラを回す。雪の中に薄汚れたテントが浮かび上がる。昼間に毛布を配っていたので、難民たちは大歓迎してくれる。
テントの中へ。アフガン式の小さなコタツがおいてあって、そのコタツに素足を突っ込み眠る子ども。その数、1人、2人…。全部で4人寝ていて、3人起きていた。5歳の女の子に尋ねる。

「寒いね」「うん」「夕食は食べたの?」「熱いお茶を飲んだだけ」「昼食は?」「食べてない」「じゃぁ朝食だけ?」「うん」。彼女が指差したのは、黄色い豆が入っていたスープ皿。一日にこれだけなのか…。
「お腹空いてる?」。もちろん、というように大きくうなずく。この子たちは毎日ひもじい思いをして、氷点下10度を超える厳冬の中、震えながら眠っているのだ。

別のテントに生後間もなくの赤ちゃんが寝ていた。肺炎で弱っている。この400人ほどの小さなパルワンドゥーキャンプだけで、先月2人亡くなった。日本からの毛布が、これ以上の犠牲を防いでくれることを願う。

夜のキャンプを出る。大通りの向かい側に、ネオンサインを点灯した結婚式場。わずか15mほどの、この道路を挟んで、天国と地獄が対立している。このテントで眠る子にとって、わずか15mの距離は、おそらく地球と太陽くらいにはなれている。

両手両足を切断する赤ちゃん ブログ用.jpg 写真は、両手両足を切断予定の赤ちゃん

2月8日、今日は朝からインディラガンジー子ども病院に行く。それにしてもこの寒さは何だろう。朝7時で氷点下15度。道路はツルツルに凍っている。
ハビーブ医師と一緒なので、病院の玄関から撮影が可能に。実はこの病院、昨年タリバンから「この病院をターゲットにする」と宣告された。なぜか?病院とアメリカ大使館が近いので、タリバンがここを占拠すれば、病棟の屋上からロケット弾で、大使館を狙えるからだ。よって病院の周囲は物々しい警備。加えて、隣にも病院があって、ここはアフガン軍専用の軍事病院なのだ。よって病院の外でカメラを回すのは厳禁。ハビーブがいなければ、無理なのだ。
玄関で一通り撮影を済ませ、病室へ。
昨日のブログで写真を載せていなかった赤ちゃん。14日前の夕刻、母親は小麦粉をこねてパンを作っていた。アフガンの貧しい家庭にはちゃんとした台所がなく、パン焼き釜は地面を掘って、その中で薄いパン=ナンを焼く。氷点下の気温で、赤ちゃんは少しでも暖かいところに近づこうとする。地面に掘られたパン焼き釜から暖かい空気が流れてくる。この子が釜に近づく。母親は小麦をこねている。そして…。釜の中に落下。突然赤ちゃんがいなくなった。母親はパニックになって探す。どこにもいない。やがて釜の中で焼かれたこの子が発見された…。
この病院に担ぎ込まれたときは、もうすでに手足の細胞は壊死していた。写真の黒ずんだ両手両足を、一両日に切断する。
これがより詳しいストーリーだ。


新生児のICU、集中治療室に入る。重体の子どもたちが酸素吸入を受けている。一つのベッドに2人の子ども。ほとんどが肺炎で危篤状態。この2週間で肺炎患者が急増している。
私の二女宝も、18トリソミーという難病で、かつてこのICUにいた。保育器の前で、家族で祈った。しかし祈りは届かず、二女は星になった。この国では18トリソミーではなく、肺炎というありふれた病気で危篤になる。
生まれつき内蔵が飛び出ていた子ども ブログ用.jpg


写真の子どもは生まれつき内蔵が飛び出していた。ビニール袋にその内蔵が入っている。遺伝子異常による先天性奇形。医師たちは原因について、カメラの前では語ろうとしない。見えない圧力がかかっている。

この病院には国連も政府の支援も届いていないので、今回も薬などを購入して届けることにする。日本の中学生が染めたハンカチやダリ語の絵本などのプレゼントと一緒に。

病院を出て、パルワンドゥー、セ両キャンプへ。支援物資の毛布とテントシートを配る。配布後、みんなで祈ってくれる。リーダーから日本の人々への謝辞。
やはりここにも国連、政府の援助はない。国連難民高等弁務官事務所のカブール本部から、車でわずか20分のところにあるキャンプに、なぜ援助物資が届かないのか?
パルワンドゥーに毛布を配る ブログ用.jpg

このブログを書いている今は、現地時刻で午後5時半。もうすぐ漆黒の闇がやってくる。今日は、強めの照明を持って、今から夜のキャンプを取材する。

甲状腺がんの少女 ブログ用.jpg

写真は、インディラガンジー子ども病院で出会った甲状腺がんの少女


2月7日午後3時、ハビーブ医師と再会。彼はこの病院に勤めつつ、自分のクリニックを開院している。病院にもクリニックにも患者が一杯なので、ダブルワークをせざるを得ない。
本日はあいさつだけにしようかと思ったが、ハビーブが一通り病室を案内するというので、彼に従う。
まずは肺炎の重症患者から。生後数ヶ月の赤ちゃんが、1つのベッドに2人ずつ寝ている。傍らには母親が2人。そんなベッドが続く。何しろ氷点下10度以下で、ゴミを燃やして暖をとっているのだ。風邪引かない方がおかしいし、肺炎になるのは当たり前だ。それでもこの病院まで来れた赤ちゃんは助かるが、ここにたどり着けない子どもは死んでしまう。タクシー代がないばかりに命が消えていくのだ。

次にがん病室へ。白血病の子どもたちが横たわっている。その中に13歳の少女。スカーフを取ると、異常に膨れ上がった首筋。甲状腺がんである。激戦地のガズニ出身。劣化ウラン弾の放射能の影響だろう。半月前、高熱が出て、朝目覚めたら、首が腫れ上がっていた。ガズニからここまで近所の人々にお金を借りてやってきた。チェルノブイリでもそうだったが、この年頃の少女に甲状腺がんが多発し、甲状腺を取り除く手術跡が首に残ったので、「チェルノブイリネックレス」と言われた。あらためて福島の子どもが心配になる。

新生児室へ。やはり先天性奇形の子どもが保育器の中で眠っている。背中に頭ほどの大きな腫瘍。この症状もイラク、アフガンに共通している。「maybe depleted uranium (もしかすると劣化ウラン弾の影響?)とハビーブに尋ねると、「maybeではない、isだ」(劣化ウラン弾に決まっている)との返答。しかしこの国では、この事実を医師がおおっぴらに表明することはできない。「高度に政治的な問題」なので、タブーになっている。
やけどの子ども 顔アップ ブログ用.jpg


やけど病棟へ。毎回訪れるが、この世の地獄だ。大きめのストーブに落下した赤ちゃん。両足と両手が変色している。組織がもう死んでしまっている。「明日、切断する。この子は両手両足を失う」。弱々しい声で泣く生後半年ほどの女の赤ちゃん。この子は今後「ダルマのような人生」を送るのか?
6歳の男の子が両足に大やけどを負っている。意識を失って、ストーブに倒れ込んだのだ。なぜ意識を?ハビーブの説明。
「この子は3歳の時に、父親の死を見た。カンダハールで米軍の車列が通りかかった時、タリバンが仕掛けた路肩爆弾が爆発。運悪くその付近を通行していた父親が、身体から大量の血を流して亡くなった。その様子をこの子は目撃し、それ以来、精神を病んでしまった。そして時々意識不明になる。それでストーブに…」。
説明を聞きながら、カンダハールの通称「仕掛け爆弾通り」を思い出す。爆弾を仕掛けたタリバンも、固い装甲車で守られた米兵も、簡単には死なないが、その付近にいた普通の人々は死んでしまうし、その子どもは孤児になり精神にも障害を持つのだ。あらためてこの戦争の理不尽さを痛感する。

一通り病院を取材した後、ハビーブ医師と、今回の支援物資を相談する。明日、10時に再度訪問するので、ほしい薬のリストを作っておいてもらうことになった。緊急度の高さから、今回もやけど病室に、薬を集中することになるだろう。

病室を出て、駐車場までの雑談。
「あの病棟を見ろ。病棟の壁をキレイにピンクに塗り替えているだろ?なんでビルの外壁を何回も塗り直す?ワイロだよ。病棟の修繕などという理由で、建設会社が予算の半分を、そして厚生労働省の官僚が、半分の予算をせしめるのさ」。ああ、その予算があれば、やけどや白血病の子どもに薬が買えるし、未熟児の保育器にもなるのに。
日本は50億円もアフガンに援助しているが、その金はおそらく「ビル壁の塗り替え」に使われている。外務省はこの事実を調べて、カルザイ政権を厳しく指導すべきなのだ。いうまでもなくその50億円は私たちの税金である。無駄な工事とワイロに消えるのなら、支援しない方がマシだ。

2月7日、午前中にアフガン厚生労働省が運営する孤児施設の本部へ。30年以上も続く戦争で、この国は孤児があふれている。国営の孤児院は全土に35カ所もあって、把握しているだけで1万6千人の孤児を収容している。校長先生と面談。ここにはすでにニューヨークタイムズが取材に来ていて、いかにこの国の孤児施設に予算が行き渡っていないか、についての記事を紹介される。
すなわち、国際的な援助は、ほとんど全て厚生労働省の官僚たちのポケットに入っていて、こうした末端まで回って来ないのだ。
結果、孤児たちは期限切れのミルクなどを飲まされて食中毒になったりする。そんな中、現場から高級官僚の汚職に対して反発があり、現在は現場職員対厚労省の水面下の闘いが進んでいる。
日本から、たくさんのプレゼントを預かっているので、それを子どもたちにここで配ろうと思う。取材許可が出て、明後日の木曜日に再度訪問することにした。
孤児施設の本部を出て、ツルツルに凍った道を車まで歩いていたときだった。慎重に歩いていたつもりだったが、つるっと滑って見事に転倒、後頭部を強打。好事魔多し。しばらく動けず。カブールではタリバンより凍った道の方が恐ろしかった(笑)。
露店で昼食を済ませ、しばらくホテルで休む。
午後2時、インディラガンジー子ども病院へ。ハビーブ医師と再会。この病院には戦争や交通事故などで重症者が運び込まれてくるが、この季節、最も悲惨なのは「やけど患者」である。少々痛む頭で私が見たものは…。

チャライ 女の子 泥水と雪 ブログ用.jpg 写真はチャライカンバーレ避難民キャンプの女の子。日中は雪が溶けて、キャンプはドロドロになる。夜間は氷点下10度以下に下がる。


2月6日、早朝より市場にて毛布とテントシートの詰め込み作業を確認してから、市場で働くストリートチルドレンを取材。今朝は何と零下13度まで下がった。凍える寒さの中、通りに出てチューインガムを売る子ども、靴磨きの子ども、燃料にするためタバコの空き箱などを拾い集める子ども…。小学校高学年くらいの少年が、あちこちで商売している。何人かにインタビューして、写真を撮る。

ゴミを拾っていた女の子たち ブログ用.jpg 女の子が空のバケツに何かを燃やしながら、暖をとっている。傍らには大きなズタ袋。ガスなし、石油なしの自宅では唯一燃えるものが、ゴミである。ズタ袋には燃えるゴミがぎっしり。朝から晩まで市場でゴミを拾い集める毎日だと言う。カメラを向けると、キャーッといって顔を隠す。小学校高学年くらいになると、人前で顔を見せてはならないのである。学校にはいっていない。「5+3は?」との問いには、すぐに8、と答えたが、9+4には誰も答えない。繰り上がりの計算ができない。もちろん文字も読めないし書けない。読み書き計算ができなければ、まともな仕事に就けないだろう。ずっとこのままゴミを拾い続けるのか? ダウンタウンを車で走っていると、あちこちに生ゴミを拾い集める子どもたちの姿。昼までも、身体の芯まで冷え込んでいるので、夜は地獄だ。毎日、一定量のゴミを集めないと、家族全員が凍えてしまう。


列に毛布 2 ブログ用.jpg
午後1時、チャライカンバーレ避難民キャンプ。大型トラックに満載した毛布とテントシートが届く。避難民たちが先を争って受け取ろうとするので、一列に並ばせるだけでちょっとした騒動に。

女性たちと雪のキャンプ ブログ用.jpg 配布開始。その姿を見ていた近所の女性たちがやってくる。ブルカの奥から「毛布、毛布」と訴える。テント生活こそしていないものの、貧しい彼女たちも、子どもを守るために必死なのだ。ブルカ女性たちと避難民たちが言い争っている。気の毒だが、避難民を優先させる。 昨年取材したシュマーグル君に再会。やはり下半身裸で、震えている。足は棒の様に細い。昨年の冬は何とか越せたようだが、今年はどうか? このキャンプでは、1月だけで8人の子どもが亡くなっている。2月はもっと死ぬだろう、低体温症と肺炎で。 ということで、まずはチャライカンバーレに緊急援助物資を無事配布することができた。避難民たちは大喜びしてくれたが、まだまだ足りない。本当はカルザイ政権、国連機関が何とかしなければ、この人々を救えない。日本政府は50億ドルも支援したのだから、もっとカルザイ政権に、「貧しい人々のために使う様に」と厳しく注文すべきだ。ほとんどの援助金が、途中でワイロとして消えているのだ。日本政府の官僚たち、政治家たちは、机上で計算していないで、この現場を見るべきだ。 最後に、当会に援助いただいたみなさん、今年の冬も無事、キャンプに支援物資を届けることができました。一両日中に、残りのお金でパルワンドゥー、セのキャンプに同じものを届けて、そしてインディラガンジー子ども病院に薬を届ける予定です。今後もご支援をよろしくお願いします。


片目を失ったサバウーン君.jpg 写真は、クラスター爆弾の不発弾で片目を失ったサバウーン君

カブールの旧市街、カブール川の両岸に広がる大商店街、ポリキシラ地区へ。中央にモスクがあって、そのモスクから商店街が広がっている。遠くの山が雪で真っ白になり、その山を背景にして青のモスクが映える。
前回もこの商店街で毛布を買った。チャライカンバーレ避難民キャンプ用に、1000アフガニー(約2千円)の毛布を400セット、そしてテントシート700アフガニー(約1400円)を100セット、そしてトラック配送料で、合計1万ドル。大量なので、トラックに積み込むだけでも数時間かかる。アフガンはほとんど全て人力で積むので、時間がかかる。配布は明日の早朝から。
支援物資を購入した後、買い物に来ている人たちを撮影。携帯電話屋さんが露店で並ぶ。並んでいる携帯は盗品で、激安で売っている。
子どもが車の窓ふきをしているので、インタビュー。何しろ氷点下、氷るように冷たい水で洗車するので、両手はあかぎれている。11歳、朝9時からここで働いて、一日約100アフガニー(約200円)。学校に入っているので、文字は読める。そんなインタビューをしていると、片目がない子どもがいた。
通訳と同じ名前のサバウーン君(12歳)が、左目を失ったのは7歳の時。友人と不思議な金属を見つけて遊んでいたら、突然爆発した。おそらく米軍がばらまいたクラスター爆弾だろう。爆弾の破片が瞬時に目に飛び込むと失明だ。
サバウーン君は、学校に通っておらず、モスクで勉強している。モスクではコーランを中心に、文字を教えてくれる。
地雷、クラスター、仕掛け爆弾…。この国では普通に町を散歩していても、戦争被害者に簡単に出会える。無理に探さなくても、例えばカブール川の橋の上に片手、片足の人が座っている。日本の戦後もこんな感じだったのだろうな。
さて明日は早朝からキャンプへ直行する。

ホテルのつらら.jpg 写真はホテルの2階から外の風景。カブールは美しい街である。特に冬景色が素晴らしい。空の色が日本とは違う。


2月5日、昨日とは打って変わってカブールは透き通るような青空が広がっている。あまりに美しいので、つららと共にホテルからの景色を撮影。
日本も大寒波が襲っているようで、東北の被災者が心配だが、こちらもかなりの低温。昨日はマイナス11度まで下がった。こちらでは日本以上に寒暖の差が激しい。ちなみにマイナス11度は、モスクワ並みの寒さ。アフガニスタンの冬はモスクワ並みであることを知らない人が多いと思われるので、証拠写真をアップした。今日はこれから市場で毛布などの買い出し。では行ってきます。

パルワン 子どもアップ ブログ用.jpg

写真は、カブール市内、パルワンドゥー避難民キャンプにて。氷点下の気温の中、子どもたちは素足にサンダル。女の子の指は氷のように冷たかった

2月4日、今日も朝から大雪。カブール市内ではあちこちに雪下ろしをする人々。雪下ろし用のスコップが店頭に並んでいる。今日も、まずはチャライカンバーレ避難民キャンプを目指す。
カブール市内ではそれほど降っていなかった雪が、キャンプに近づくに連れて吹雪になっていく。あっという間にほぼ視界ゼロ。そんな中、やはり今日も物乞い女性が国道沿いに座っている。それも今日は3人も。吹雪の中、通り過ぎる車に弱々しく手をさし出す。もし物乞いの中に優劣をつける「格付け機関」があれば、この女性たちは、世界で1、2を争うほどの悲惨な状況で「働いている」ことになるだろう。
吹雪の中、車を止めてインタビュー。
「夫は2年前に病気で死にました。ここにいつも朝から座っています。もちろん寒いです。でも他に何ができるって言うの?私には3人の子どもがいて、お金が必要なんです」。
隣には杖を持って座る女性。ブルカ越しに同じようにインタビュー。「寒くないですか?」「毎日ここに座っているの?」などと聞いているうち、ついにブルカの中で泣き出した。この人たちに幸せなときがあったのだろうか?この人たちは笑ったことがあるのだろうか?

チャライカンバーレ避難民キャンプで、ワキールと再会。米軍の空爆で左手を方から失ったゴルジュマちゃんの父親で、このキャンプのリーダーの1人。
ワキールの案内で、キャンプの中を見て回る。
「2年前に、お前たちからもらったテントシートだ。でもこの大雪で、シートが濡れて雨漏りがする。穴もあいているし、新しくて丈夫なテントシートが必要なんだ」。ワキールは、日本からの援助に感謝しながらも、「昨年は、どうしてテントシートを援助してくれなかったんだ」と責めてくる。まぁ、そう言うな、今年はちゃんとシートも買うから、となだめておく。

ワキールの「家」でゴルジュマちゃんと再会。もう11歳になって、ちょっと背も伸びたようだ。左手がないことで、いじめられていたが、今は学校に通っている。「ダリ語、算数、理科…、教科では何が好きなの?」と尋ねるも、「お金がほしい」。質問の意味を理解しているのかな?
ゴルジュマちゃんは、3年前自宅で食事中に米軍の空爆に遭い、3人の兄弟姉妹を失って、そして左手を肩口から切断した。6〜7ヶ月入院して、その後ワキールたち家族とともに、このキャンプに逃げてきている。
彼女も靴下なし、暖房なしの生活をしている。緊急援助物資としては、まず毛布、次にテントシート、そして資金が続けば石炭などだ。本日は祝日なので店は閉まっている。もう一晩、寒い夜を我慢してもらって、明日朝一番に、物資を購入して、配ることにしよう。

チャライカンバーレ避難民キャンプを後にして、次に訪れたのがパルワンドゥー、パルワンセ避難民キャンプ。ドゥーが2、セが3という意味なので、「パルワン地区2丁目、3丁目キャンプ」という語感になる。「おー、あの日本人が来たぞ!」。1人の男性が私たちの姿に気づき、人々がバラバラとでてくる。リーダーたちがサバウーンと私を抱擁し、祈ってくれる。
ここでも鼻水をたらし、震えている子どもが多数。「どの子も病気だ。風邪をひいているが、薬もないし、満足な食事もできていない」。リーダーが窮状を訴える。ここにもやはり毛布とシート、石炭などが必要だ。
子どもを撮影して気がつくのは、男の子は辛うじて靴を履いているが、女の子は素足にサンダルが多いということ。男尊女卑の傾向が強いアフガンでは、どうしても「男の子優先」になる。もちろんその男の子も震えているのだが。
5歳の女の子が震えている。ペラペラの民族衣装一枚に素足にサンダル。寒いなんてものじゃない。このまま雪が続いたら、命がつながるかどうかの瀬戸際。実は、このドゥーとセは、私有地にテントを建てていて、地主が立ち退きを迫っている。すでにいくつかのテントは撤去され、新たな場所に立て直した。近々に別の場所を探さないと、このキャンプごと壊される可能性があるのだ。アフガン政府は何もしないし、国連も見て見ぬふり。日本からの援助金50億ドルがあれば、すぐにでも新たな場所にちゃんとした仮設住宅ができるはず。いったい援助金はどこに消えているのだろう。

パルワンドゥーキャンプを出る頃ようやく雪がやみ、太陽が顔を出した。白い山に透き通るような青い空。絵はがきになるほど美しい景色に、薄汚れたテントと、異臭。戦争さえなければ、ここカブールは豊かな観光地として栄えていたはずだ。この景色が生かされないのは、大変もったいない。近い将来、この地に大勢の外国人観光客が訪れる日が来ることを祈る。


リヤカーで薪を運ぶ子ども ブログ用.jpg 写真は、チャライカンバーレ避難民キャンプ前で、薪にする木材を運ぶ子ども。

2月3日、カブールは朝から大雪。通訳のサバウーンと9時半にホテルで待ち合わせしていたが、彼は自宅の雪おろしをした後、交通渋滞に巻き込まれたため、約1時間の遅刻。
午前10時半の時点で気温は氷点下5度、車で町へ出るが、人通りはまばら。のろのろ運転で渋滞する市内を抜けて、チャライカンバーレ避難民キャンプへ。

キャンプは雪で覆われていた。子どもが雪の中で遊んでいるが、見るからに寒そう。素足にサンダル、ぺらぺらの生地一枚の民族衣装に、どこかのNGOが緊急援助した子供用防寒具を着ている。かじかんだ指で、雪を食べている。お腹がすいているのだ。
私が、子どもを撮影していると、たちまち群衆が取り囲む。「息子に着せる服がない」「食料も燃料もない」「金をくれ」…。一番ほしいものは何だ、という問いには「全部」あるいは「金」という答えが判で押したように返ってくる。

キャンプの前を、リヤカーに雪で湿った材木を運ぶ子どもが通る。ガスも石油もないので、市場でゴミを拾い集め、キャンプまで運んでいるのだ。
カメラを回しながら、一通り聞いていく。この木材はもちろん燃料なのだが、市場まで片道2㌔、往復4㌔の道のりを、リヤカーで運ぶ。学校は?との問いには、「行ってない」。文字を読めるか聞いてみたが、読めない、とのこと。小学校高学年くらいだが、読み書きはできない。
「13+11は?」。しばらく考えて、「25」。正確な計算もできない様子だ。
「学校に行って、文字を読めるようになりたい」と語ってくれたが、現実は厳しい。

そんな取材をしていると、「俺の娘が昨夜死んだ。午前中に埋葬を済ませた」という男性が。25歳でカンダハール出身。2年前、米軍の空爆で村を破壊され、彼自身も爆弾の破片を受けて傷ついている。「もうカンダハールには住めない」と感じて、カブールまで逃げてきた。しかしカブールは、カンダハールよりずっとずっと寒いのだ。彼には7人の子どもがいて、一番下の赤ちゃんが3日前に生まれたが、昨晩息を引き取ったのだ。出産直後の妻は、自身も出産によって病気になっていて、さらに我が子を亡くしたショックで臥せっている。妻にインタビューをしたいが、ここアフガンでは女性にカメラを向けるのはタブー。妻の命に別状がなければいいが。
7人の年齢攻勢は、8歳、7歳、6歳、5歳、3歳、2歳、そして昨夜亡くなった生後3日の赤ちゃんだった。避妊の習慣も知識も避妊具もないので、妻は妊娠、出産、妊娠を繰り返してきたことになる。
父親の腕の中で2歳の娘が、寒さで泣き始める。このまま寒さが続けば、この2歳の娘も亡くなるかもしれない。何しろ今週、このテントの周囲だけで5人の子どもが亡くなっている。2歳の娘は、靴下もズボンもなく、雪の中を下半身裸で過ごしている。絶望的な状況。急いで毛布を配らねばならない。このキャンプを、もう10数回も訪問しているが、一度もカルザイ政府や国連に出会ったことなし。多額の復興費、国連への募金は何に使われているのか?この人々はずっとここで見殺しなのか?

10分もすると指が凍り付き、靴の中に雪が入ってきて足指の感覚がなくなってくる。防水のスキーシューズが必要だった。
雪の上の物乞い女性 ブログ用.jpg

一通りキャンプを取材して、帰路につく。カブール市内への国道で、ブルカを着た1人の女性が、道ばたにうずくまって物乞いをしている。
雪の中に座って、通り過ぎる車に手を差し出している。もちろんブルカは防水ではないし、薄いペラペラのナイロン生地である。そんなブルカで、雪の上に何時間も座っているのだ。

彼女はシュマーグルさん(48)で、アフガン内戦が始まりイランに逃げた。イランで難民生活をしていたが、イラン政府から追い立てられ、3年前にカブールに戻ってきた。夫とは生き別れていて、イランのどこかに住んでいるはず。
仕事もなく、扶養してくれる親族もいないので、こうして毎日物乞いに出てくる。一日座って、平均100〜200アフガニー。日本円で300円程度。

カルザイ政権は、国内避難民はもちろん、彼女のような帰還難民にも、何の救済もしていない。アフガンを取材するたび、絶望感に教われるが、特に冬のアフガンは極限状態である。ここでは毛布一枚、石炭一袋で助かる命が、みすみす奪われている。何とかならないのか。

WTCビルでの訴訟問題で、お知らせです。ドバイから橋下市長関連の連絡ができるとは、便利な世の中ですね。
1 「橋下さん96億円かえして」。WTC住民訴訟 原告&サポーター集会
   日時:3月2日(金)午後6時半より エル大阪708号室
   集会に参加いただいた方がサポーターです。お気軽にご参加を。

2 WTC住民訴訟 初公判
   日時:3月15日(木)午後2時半 大阪地裁201号法廷
      原告&サポーターのみなさんは2時には地裁玄関前に集合してください。傍聴券を求めてくじになることが予想されます。

いよいよ裁判が始まります。被告は松井知事です。松井氏、橋下氏にはぜひ証言台に立ってもらいましょう。

2月2日早朝5時半、予定通りドバイ国際空港に到着。機内の新聞で確認したところ、近々に、タリバンとカルザイ政権の間で和平会議が開催される見通し。場所はサウジアラビアの首都リヤド。記事によれば、カルザイは大分焦っているようだ。

なぜかというと、この間の和平プロセスは、米国とタリバンの間で進められて来た。カタールのドーハで、直接、両者の和平会議が開催される。カルザイはアフガン大統領というより、今や「カブール市長」のような存在となっていて、カブールを離れれば、ほとんどタリバン支配地域のような状況。
つまり現状のまま米国とタリバンが和平プロセスを続けると、おそらくカルザイの出る幕はなくなってしまう。

そんな中、カルザイとサウジが動いたようだ。サウジとパキスタンは80年代に、対ソ連のゲリラ戦で、アフガンに異常といえるほど介入した。タリバンにもサウジの金とパキスタンの武器が流れているはず。本来なら、サウジもパキスタンも、アフガンにタリバン政権が復活するのは歓迎のはず。でも実はそうでもないようだ。

それはおそらく米国との関係。このまま米国主導でアフガン和平が進むと、この両国は、影響力が相対的に低下するので、面白くないのではないか?
一方、カルザイ政権は「米国の傀儡」としてスタートしたが、カルザイ政権が全土を支配するどころか、徐々に影響力を低下させ、タリバンの復権が始まっているので、米国はじわじわとカルザイに見切りを付け始めたようだ。

どんな形であれ、和平プロセスが進むのは喜ばしいこと。舞台裏で、いろんな国の駆け引きがあるのは当然だ。今後、和平プロセスがカタールで進むのなら、米国と米国派の勢力が、アフガンを押さえにかかるということ。リヤドが巻き返していくなら、その背後にサウジはもちろん、中国、ロシアも絡んできそうだ。
いずれにしろ、今年は米国の大統領選挙がある。オバマにとって、「アフガンをスマートに幕引きできるか、否か」は、選挙結果に大きな影響を及ぼす。

戦争は始めるより終わらせる方が難しい。米国は財政危機で、イラク&アフガン戦争を今までのように続ける余裕はないだろう。かといって、未曾有の不況で米国内には大量の失業者がいる。失業を解消し、景気を上昇させるには、戦争、つまり軍需産業の活性化が必要だ。主なプレーヤーは、タリバン、米国、パキスタン、サウジ、カルザイ。脇役として、イラン、中国、インドなどの利害が絡む。ただし、この「アフガン劇場」には、戦争と貧困で苦しむ現地の人々は出てきそうもない。

ちなみに、和平会議のホストは、本当は日本がふさわしい。その理由は以前に書いた。もし「ちゃんとした日本政府」があったのなら、今頃東京で和平会議が開催されていただろう。