ウクライナのチェルノブイリ博物館

子どもの写真 引き ブログ用.jpg 写真はチェルノブイリ事故直後に生まれた子どもたち。今は30歳前後になるはずだ。

ウクライナ2日目。独立広場前で通訳のヘレナと待ち合わせ。驚いたことに、銃撃戦と火炎瓶で真っ黒になった独立広場の地下に、普通にメトロが走っていて、おしゃれな地下街が展開している。「私たちは武装闘争を望んでいない。デモには参加したけど、破壊活動などは絶対やってはいけないことよ」。ヘレナが「冷静に行動した」ことを強調する。
そのメトロに乗ってみる。青いプラスチックのコインを買って入場。長いエスカレーターが地底に続いている。東京の大江戸線なみの深度。この地下鉄は旧ソ連時代に作られたもので、冷戦時代の核攻撃にも耐えられるように極めて深いところを走っている。
2駅目で降りたところはダウンタウンだった。路面電車が走り、大聖堂がそびえる。そんな歴史ある町並みを10分ほど歩くと、チェルノブイリ博物館がひっそりと佇んでいる。
博物館の前には犠牲者を悼む母子像。その横には1986年の事故当時に出動した消防車、パトカー、救急車、旧ソ連軍の装甲車が、当時のままに陳列されている。
中に入る。「ふくしまとともに」。大きな日本語の看板と、原発事故を伝える東北の新聞、天井には大きな鯉のぼり。1階フロアのテレビには、事故直後の福島で、牛が普通の道を歩いている様子が流れている。ウクライナは農業国。誰もいなくなった町を、乳牛だけがさまよい歩く。こちらの人々にもショッキングな映像であるに違いない。
1階から2階へ上がる階段の両サイドにはキリル文字の看板が何枚も貼付けてある。これらは「居住不可能区域」の村の名前。事故後27年経過しているが、こんなに多くの村が、いまだに「廃村」になっているのだ。
2階の展示場へ。深夜1時23分で止まった時計、時計の横には放射線防護服を着た消防士の模型。
白黒写真が並んでいる。チェルノブイリ4号機の爆発直後、夜勤の運転員たち消防士たちは、必死で消火活動を行った。彼らは事故後「リクビダートル」と呼ばれ、英雄として表彰された。ここにはそんなリクビダートル30万人中、4千人の写真が飾られている。白黒写真の一部に放射能マーク。事故直後にお亡くなりになった人々だ。マークが付いてなくても、現在治療中で障害者になった人も多い。
事故は原子炉の設計ミスが原因だった。そして4号炉は格納容器もなかった。
爆発は2回、連続して起こった。最初は水蒸気爆発、続いて、燃料棒を覆うジルコニウムから出てきた水素による水素爆発。(これはフクイチと同じ)この2回の爆発で、黒煙や核燃料が周囲に飛び散り、原子炉周辺で火災が発生した。未曾有の危機だった。
当直の運転員さんたちはどうしていたか?アナトリーさんは事故で500レム(=5シーベルト)もの放射能を浴びた。彼は逃げずに夜を徹して3号炉を停止させた。英雄だ。しかし当時のソ連政府は事故原因を運転員の捜査ミスと決めつけ、彼を逮捕し投獄した。後になって事故は制御棒の設計ミスだと判明したが、旧ソ連政府は彼に10年の服役を課したのだ。1995年、サハロフ博士らの嘆願書によって、彼はようやく釈放された。
アレキサンドルさんは翌朝8時までポンプによる給水を続けた。多くの人が逃げる中、彼は居残って、事故と闘うことを選んだ。600レムの放射線を浴びて、手足をやけどした。86年からモスクワで15回、ドイツで3回手術を受けたが、彼は障害者となった。レフチェンコさんは、3日間も作業員の救助にあたった。放射能で汚染された水にヒザまでつかりながら、1000レムを浴びてしまった。彼は2週間後、5月7日に死亡した。
アルミーナさんは当時非番で家にいたが事故の報を聞き、原子炉に駆けつけた。彼女は水質検査員で、95人の検査員中、原発に戻ったのは5人だった。プリピャチ市に住んでいた子どもは、クリミヤ半島に避難させた。86年7月、彼女が子どもに宛てた手紙が残っている。
「お父さん、お母さんは仕事がとても忙しいの。あなたのところに行ってあげられなくてゴメンね」。
90レムの放射線を浴びた彼女は、やがて健康が悪化して90年に退職。現在は障害者となっている。
消防士たちはどうしていたのか? 4号機の爆発で黒煙がもうもうと舞う中、飛び散った燃料の破片で、30カ所以上に火災が発生していた。28人の消防士は、3号炉の屋上で1時間以上、消火作業にあたった。彼らは消火用の作業服のみで午前2時15分に延焼を食い止めた。嘔吐と衰弱感に襲われた。その内の5人はプリピャチ市の病院に緊急搬送され、やがて死亡した。死後「赤旗賞」「レーニン賞」などの勲章が与えられた。消防士たちは人生で一番元気な22〜28歳だった。
チェルノブイリ原発作業員の町、プリピャチ市では何が起こっていたのか?
この町は原発から3㌔離れていて、人口は5万人、平均年齢は26歳で、毎年1千人の子どもが生まれていた。
事故直後、バスが1200台、1500席の臨時列車もやってきた。翌日27日、政府の避難命令が出た。「3日分の食料を1時間以内に用意して、荷物をまとめてバスに乗れ」。3日で帰れると思っていた住民は、二度とこの町に戻れなかった。当時、事故は隠されていて、住民は何が起こったのか知らなかった。29日になって、ソ連政府は「レンガの建物の陰に隠れるように」「牛乳は飲まないように」と指示しただけだった。
86年5月、ソ連の鉱山労働者が密かに集められた。4号炉の下に136mのトンネルを掘り、溶け落ちた核燃料と地下水が接触しないように、鉄筋コンクリートの板を敷き詰める計画だった。
放射線は毎時3〜4レントゲン。労働者に与えられたのはマスクのみ。しかもそのマスクさえ、暑いのと息苦しいのとで、外して作業する人が多かった。
旧ソ連の新聞が飾ってある。これほどの大事故なのに、小さなベタ記事扱い。その下にニューヨークタイムズが陳列されていて、こちらは1面トップ。日本でもそうだったが、原発事故は国家が隠蔽する。旧ソ連も日本も同じだ。その横にキエフのメーデーパレードの写真。事故後5日目が、メーデー。キエフ市民が総出でメーデーを祝っている写真。事故は隠されていたので、キエフ市民も多数、放射能を浴びてしまった。スピーディーの情報を隠した日本と、当時のソ連は大差ない。
博物館の一番奥まった部屋、8角形のボードに子どもたちの白黒写真が貼付けられている。8角形のボードは、原子炉の形状を表している。そしてこのボードに貼付けられた数百名の子どもたちは、プリピャチの住民で、事故直後に生まれた子どもと、リクビダートルとして原発で作業した人々の子どもだ。その後の調査で、染色体異常は通常の7倍に上っている。
チェルノブイリ博物館を出て、キエフの町を歩く。ヘレナも私も無言。ウクライナは、こんなひどい事故があったのに、原発を再稼働させ、現在も5基が動いている。道行く人々はチェルノブイリ事故などなかったかのように、笑顔で通り過ぎていく。東京も大阪もやがて同じ光景になるのだろうか。日本の安倍政権は再稼働に向かって着々と外堀を埋めている。
「ふくしまとともに」。博物館に掲げられたひらがなのメッセージ。月並みかもしれないが、ノーモア広島、福島、ノーモアチェルノブイリ、というメッセージを日本とウクライナで確認し合う時が来ていると思う。

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このページは、nishitaniが2014年3月30日 05:02に書いたブログ記事です。

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