2014年4月アーカイブ

4月9日午前9時、ようやく兵士たちが起き出して遅めの朝食。今日は病院とキャンプを訪問して、昨日来た道を抜けてトルコに戻る。午後4時までに戻らないと、ジャンダルマ(トルコ軍)があの門を閉めてしまうので、急がねばならない。しかし…。
アブドッラーがいない。支援物資の調達に行っているのか、私たちの安全確保のための調整をしているのか、それともまだどこかで寝ているのか…。
11時、12時…。じりじりしながらアブドッラーの到着を待つ。何しろ彼がいないと検問所を通過できないので、来ないことにはこの拠点ビルから一歩も出られない。午後2時、ようやくアブドッラーが現れ、まずは難民キャンプをめざす。ヤッラヤッラ(早く早く)。あれだけ待たせておきながら、行動を起こすとなるとせっかちだ。
まずは国道沿いにできた名もない避難民キャンプ。半年前にホムスから逃げてきた人々300名が丘の上にテントを張って暮らす。電気なし、水道なし。食料は不足がちだが、国際支援物資が入ってくる。今何が欲しいか?という問いには、「電気」だった。水は届いている。次は電気ということだ。
このキャンプをさっと取材して、次へと移ろうと国道を走行中、少年がズタ袋を担いで歩いている。検問所が近いので、車の中から彼にインタビュー。
「どこから来たの?」「アレッポ」「いつからここへ?」「2か月前」「アレッポの家は?」。ここで少年はクビを振る。通訳のジャラードが何やら早口のアラビア語で聞いている。「ニシさん、この子はホムスに住んでいて、爆撃で逃げ出し、まずはアレッポへ。そこもまた空爆されたので、この街に来たのです」。
朝9時から6時間、ゴミ拾いをして約200シリアポンド。(150円程度)
少年の顔がゴミとすすで黒ずんでいる。風呂には何か月も入っていないのだろう。20トルコリラ(1000円)札を握らせると、その時だけちょっと微笑んだ。「シュクラン」。アラビア語でありがとう。彼はまたとぼとぼと国道を歩いていく。空き缶を探しながら。
昨年末にも訪れたアカラバット地区へ。ここは山々が一面のオリーブ畑になっている風光明媚な場所だったが、そこに巨大なテント群が出来上がっている。
新しいテントばっかりやなー、と車内から隠し撮りをしていた時だった。
「火事だ!」アブドッラーとジャラードが同時に叫ぶ。車を急停車させ、燃え上がるテントの方へ走り出す。他のテントにいた難民たちも、わらわらと火災現場の丘の上をめざして駆け上がっていく。巨大な火柱が立ち上がり、黒煙が噴出する。泣き叫ぶ女性たち。
私も丘を駆け上がっていこうとするが、その手をジャラードに掴まれ、オリーブの木陰に引き込まれる。
「ダメです!カメラを持って近づいたら、危険です」。
「そうなの?もう少し近づいて撮影してもいいんと違う」。ジャラードと口論になりかけたその時、パンパンパン!銃声が響いた。火事の混乱、行きどころのない怒り、家族を失った悲しみ…。そんな感情が混ざり合って、誰かが銃を連射したのだ。野次馬同然で、大きなカメラを回していたら、撃たれかねない。ジャラードの判断は正しかった。何しろ、住民たちの間にマグマのような怒りがたまっているのだ。
ウーウー、10分以上経ってから消防車がやって来た、それも1台だけ。消火する水もない。あの消防車は数ある検問に引っ掛かっていたのかもしれない。さらにその5分後、救急車が。その間もテントから赤い炎がチロチロと舌を出し、黒煙が噴き出し続けている。難民たちは着の身着のままで逃げてきたので、ガスコンロも粗末なものだ。故郷ではガス爆発などありえない事故だが、キャンプでは常に危険と隣り合わせの生活なのだ。
泣きっ面にハチ、踏んだり蹴ったり…。泣き叫ぶシリア難民たちを見ながら、そんな月並みな言葉しか頭に浮かばない。
時間が迫ってきた。アトマ村の「ハンドインハンド」病院へ。これはイギリスのNGOが運営している。中に入る。栄養失調の子どもが多数入院している。やはりこの冬、援助物資が届かずに母親が飢えてしまい、母乳が出なかったのだ。アフガンのカブールでも見た、危篤状態の赤ちゃん。弱々しく泣いているだけ。
「シリアのアフガン化」が始まっている。
ヤッラヤッラ。病院取材中もジャラールが私をせかす。午後3時半、あと30分しかない、その時アブドッラーの携帯が鳴った。何やら大声でしゃべっている。
「ニシさん、アトマ村で銃撃戦が勃発した模様です。あの門は、今日は閉ざされてしまいました」。えっ、あの門が閉まったら、「密入国者」の俺は、どこから出ればいいのだ?正式な国境も密入国の門も閉まっている。
「ブックラ(明日)、あるいは明後日…」。おいおい下手したら、ここで缶詰かいな。「明日までにイスタンブールに行かないと、日本に帰国できなくなる。何か他に方法はないのか?」
アブドッラーと兵士が相談している。30分後、追加の兵士と車がやって来た。
「さらに秘密の道を通って、トルコへ抜けましょう。今からチャレンジします」
護衛を追加して、イドリブの危険地帯を走る。運転席のアブドッラーだけでなく、人道支援者のフォワッドまでが拳銃を手にしている。どうやら、自由シリア軍の支配地域外を、突っ切らねばならないようだ。
アブドッラーの無謀運転に拍車がかかる。ブォーン、ひときわ大きなクラクションを鳴らして、おんぼろ道を100㌔で走る。私のとなりに兵士が乗り込んでいたのだが、たびたび車の天井に頭をぶつけては、苦笑いしている。
山道をぶっ飛ばすこと1時間。ハーレンという村に入る。やがて小さな橋のない川が現れる。この川が国境。川岸を進むと、赤いビニールロープとタライ船が。岸のこちら側にシリア人が数名たむろしている。
「ここは撮影厳禁です。ムハーバラート(シリアの秘密警察)、ジャンダルマ(トルコ軍)の双方がいるかもしれません。ジャラールの忠告にうなずき、カメラを隠して下車。ヤッラヤッラ(早く早く)。兵士たちにせかされながら、アブドッラーとハグ。こいつのおかげでシリア取材ができた。ありがたい。兵士たちと短い別れのあいさつを交わし、川岸に止められたタライ舟に乗る。「屈め、屈め」と船頭が指示する。川を渡っているところを見つかると、良くて刑務所行き、悪くて銃殺…。
タライ舟で向こう岸まで。船頭は思いっきりロープを引っ張って、タライ舟を進めていく。トルコ側に着岸。河川敷の道なき道を突っ走る。
ヤッラヤッラ。草むらで待ち構えていたトルコ親父が、耕耘機を指差す。荷台に飛び乗る。ジャラードと、ファワッド、私の3人が荷台に寝転がるやいなや、耕耘機が走り出す。ガタンゴトン、かなりの悪路に、身体を浮かせながら、荷台から見上げる青空。これって映画にすれば面白いかも…。
「やったー、トルコに抜けたぞ」。ジャラードも笑いながら、荷台の上で身体をくねらせている。
かくして、私は「密出国」に成功した。川の向こうは戦争、こちらは平和。あらためて国境ってなんだろうと思う。
その後、私はトルコのリハニーヤでやり残した取材を済ませ、イスタンブール経由で大阪に戻ってきた。泥沼のシリア内戦は4年目を迎え、すでに15万人以上の人命が奪われた。しかしそれでもなお、戦闘は今日も続き、さらなる犠牲者を生み出している。帰国してもメディアをにぎわしているのは「小保方さん」や「マー君」であり、シリアはほとんど取り上げられない。毎日50〜100人が理不尽に殺されている状況なのに。本来ならもっと大騒ぎして報道すべきだと思うのだが…。

4月8日午前11時、通訳ジャラールの携帯にようやく電話がかかってくる。自由シリア軍からだ。「準備OK。本当にいくか?」「ああ、行くよ」。トルコやイラク、レバノンでの取材も大事だが、やはり肝心のシリアに入国せねば。
「トルコ〜シリア国境のバーバルハワーでは、すでに外国人の入国を認めていません。なので、シークレットで入ります」。ジャラールの心配も無理はない。国境ではトルコ軍、ジャンダルマの目が光っているし、いったん入れたとしても、次にいつ出て来られるか分からない。イスタンブール〜大阪の飛行機チケットが無駄になるかもしれない。ロケット弾が飛んできて、電気もきれいな水も食料も不足するシリア、できるだけ短く切り上げたいのは人情だが、「密入国者」である私が、予定通り出国できるほど、ジャンダルマは甘くはない。
シリア難民4人とジャラール、そして私を乗せたワンボックスカーは、のどかなトルコの田舎道を走る。狭いデコボコ道にすれ違う耕耘機。田舎の農民たちはのんびりと畑作業をしている。一見すると平和な風景。田舎のあぜ道は、古ぼけた小さな門で遮られていた。門の前にはトルコ兵が2人。
あの門が「国境」なのだ。「何もしゃべらないでください。記者証は見せないで。あくまでも私たちは人道支援者です。国境付近に展開する難民キャンプに支援物資を届けることが目的ですから」。ジャラールに言われるまでもなく、トルコは外国人ジャーナリストの入国を厳しく制限している。治安が相当悪いので、トルコとしては安全に責任を持てません、ということ。幸い、私は「イラクの子どもを救う会」として何度も支援物資を運んだ実績があり、ジャーナリストとあわせて「2つの顔」を持っているので、今回は「人道支援者の身分」を活用する。
ジャンダルマ2人がやって来て、一人ひとりの名前と身分を確認する。「イラクの子どもを救う会」の名刺を見せる。幸いこの兵士は英語が苦手だったようで、Iraqと書かれていることに疑問を挟まなかった。「なぜSyriaでないのか?」という想定質問に答える必要もなく、小一時間待ちで門が開いた。
舗装されていない山道を行く。いわゆるここは「無国籍地帯」だ。正式な国境なら「DUTY FREE」があるところ。岩がごろごろ転がる丘を越えると…。無数のテントが広がっている。
「アトマ難民キャンプです。難民の数は毎日増えているので、正式には分かりませんがここだけで2万人は越えているでしょう。撮影は禁止です」。
約半年前から、この地域は自由シリア軍と、ダイシュと呼ばれるアルカイダ系武装集団との戦闘になって、いったんダイシュがここを制圧したが、最近また自由シリア軍が奪い返した。その後、この地区には検問所が増設され、ビデオカメラが見つかると、相当厄介なことになる。車内から小型カメラで隠し撮り。
オリーブ畑の中の農道を行く。農道に沿ってテントが続く。避難生活も長くなっているので、テントの中には日用品を販売する「店舗」もある。すれ違う軽トラックには、たった今逃げてきた家族と家財道具が満載されている。
アトマキャンプを通り抜け、アトマ村の中心部でワンボックスカーを降りる。待っていたのは自由シリア軍の兵士たち。迷彩服にカラシニコフ銃。
「サラームアレイコム」。部隊長のアブドッラーと握手を交わす。今日からジャラールと私の運命はこの男が握ることになる。
アブドッラーの車に銃を持った兵士が2人。護衛が着く。アブドッラーは村の一本道を猛スピードで飛ばして行く。治安上、スピードを上げて通り過ぎないといけないのか、それともこの男がタダのスピード狂なのか。「ダイシュに撃たれるより、この無謀運転で殺される確率の方が高いかもね」。ジャラールと密かに冗談を飛ばす。アブドッラーは英語が分からないので、陰口を叩かれているとは夢にも思っていない。遅い車が前にいると、さかんにクラクションを鳴らし、「どけどけ」と突き進んでいく。
着いたのはイドリブという町の玄関。アブドッラーたちの拠点ビル。ビルと言っても建設中で放置されたもの。戦争で施主が逃げ出した後に、兵士たちが住み着いている。何とこのビル、自家発電装置があって、給水タンクまで。シリア戦争も4年目に入り、長期戦である。兵士のねぐらもかなり改善(笑)されてきている。
自由シリア軍の拠点で、支援内容の打ち合わせ。難民の半分が子どもで、赤ちゃんも多数。食料不足で母乳が出ない母親も多いので、まずは粉ミルク。次に小麦粉、砂糖、コメにする。日本からの支援金6500ドルを手渡す。アブドッラーが支援物資を買い出している間、何もすることがないのでビルの窓から外を撮影。アサド軍の戦車の残骸が転がっている。旧ソ連製のT72。その横には救急車が燃えて転がっている。アサド軍は病院や救急車を破壊することが多いので、その行為に激怒した自由シリア軍が、RPG砲かなにかで、やっつけたのかもしれない。
午後2時、ようやくアブドッラーが帰ってくる。どこへ行くのも検問ばかりで移動に時間がかかる。
小型トラックに、本日の援助物資を少量つめて、いざアレッポへ。アブドッラーは飛ばす。アレッポでは「タル爆弾」が使われている。ドラム缶に爆発物と、鉄の破片を詰めたもので、これが炸裂すると、周囲数10mにいる人は、間違いなく大怪我か死亡。もちろんスカッドミサイルやロケット弾も飛んでくるし、何より恐ろしいのはミグ戦闘機からの空爆である。
イドリブからアレッポまでは、結構近くて2時間の「無謀運転」でカッスルナッハーという町に到着。ここはアレッポ中心地からわずか10キロの地点で、丘の上からアレッポの町が見下ろせる。カッスルナッハーでは7か月前にアサド軍と自由シリア軍の激しい争奪戦があり、今は自由シリア軍が制圧した。イドリブからの国道は、ここまで全部自由シリア軍支配なので、2時間で到着したわけだ。昨年までは、途中にアサド軍支配地域があったので、大回りしたため「アレッポって遠いなー」という感覚だったのだが、直線で走ると意外に近いのだ。因みに首都ダマスカスも、本来なら車で4〜5時間も飛ばせば行ける。しかし今のダマスカスは果てしなく遠い街だ。
カッスルナッハーは、ゴーストタウンとなっていた。工場が空爆され、主だった民家にはロケット弾が撃ち込まれている。ここは戦争前までは「アレッポの芦屋」という感じ。白亜の大邸宅が丘の上にそびえ立っていて、そこにホムスからの難民が住み着いているのだ。
アレッポのお金持ちたちは、とっくに外国へ逃げ出しているので、そこに家を奪われた最激戦地、ホムスの住民が逃げてきているのだ。
一軒一軒回りながら、小麦や粉ミルクを配っていく。「ズドーン」。遠くでミサイルの着弾音。アレッポへの空爆は毎日続いている。
支援物資は大歓迎された。広いお屋敷だが、電気、ガス、水道なしで、床に敷くカーペットもない。窓ガラスは爆風で吹き飛んでいるので、夜は大変寒いという。そんな家の数件目に、アブドルサラーム君(4歳)がいた。
「生まれた時は普通だった。戦争が始まって、爆弾の音を聞いているうちに、この子は歩けなくなってしまったんだ」。父親が精神の異常を訴える。ホムスへの空爆、銃撃戦が始まったとき、この子は1歳だ。あまりの恐怖で、脳に異常が発生したのだろう。実は、この子と全く同じ症状の子どもを、イラクのバグダッドで見たことがある。あの少女も確か3〜4歳だった。人間の脳というのは、恐怖で損なわれるのだろうか?医学的にありえることなのだろうか?
「ズシーン、ズシーン」と腹に響く爆発音が続く。アレッポの街から煙が上がる。あの煙の下で、何人か逃げ遅れた人が亡くなっている。すでに街はゴースト状態だが、執拗に繰り返される空爆。アサド軍は正気を失っている。戦争というのは正常な感覚ではできないのだが…。
日暮れが近い。イドリブまで早く戻らないと、また厄介なことになる。検問所を守る兵士も疲れている。アサド軍の空爆も怖いが、ダイシュの襲撃にも備えないといけない。アブッドラーの「無謀運転」がさらに加速する。「ダイシュに襲われるのと、この運転で殺されるのと…」。冗談も凍りつく。
午後8時、無事「拠点ビル」に到着。さすがに疲れた。兵士たちはカラシニコフ銃の点検などをしながら雑談しているが、私は早めに寝る。若いこいつらに付き合っていては、身体が持たない。毛布にくるまり泥のように眠る。


昨晩、無事シリアからトルコに抜けて日本へと帰国した。悲惨なシリア内戦の現状を早くまとめねばならないが、ウクライナの分析をしておかないと、今後の情勢を見誤るかもしれないので書き記しておく。

ウクライナのキエフにしか入っていないので、いわゆる「西側の人々」の見方だけを聞いてきた。なので、「東側およびクリミア半島」の人々の意見を聞かないといけない。次回は東側&クリミア半島を取材したいと思う。このことを前提にして、今回のウクライナ取材で分かってきたことを以下に記す。
まず、分析の前提として、①いわゆる何でもかんでも「これはCIAの、KGBの仕掛けたものだ」という考え方はとらない。②しかし、事件の背景には米ロの駆け引きがある。当然キエフにはCIAもKGBもいる。③独立広場に集まった民衆の視点で考える。
ということにしたい。

「政変」(革命?)は必要だった。ウクライナは2010年の大統領選挙でヤヌコビッチ態勢になったが、これは「ロシアの傀儡政権」で、不正腐敗、個人蓄財の典型的なダメ政治で、ウクライナ経済を弱体化させていた。
逆にいえば、プーチンは、「軽薄な大統領」をトップに据えてコントロールしやすくしていた。この点は、アメリカが日本の首相を安倍晋三にしたのと同じ構図だ。
国民は純粋にヤヌコビッチを代えたかった。個人的に蓄財しながら、一般市民には重税を課し、何をするにも役人へのワイロ。簡単にいえば、旧ソ連風の官僚主義と独裁政治。その上に米国型の新自由主義。いわば米ロの「悪いところだけ」を取り込んだような政治だった。
13年10月30日からキエフで大規模デモが組織されてきた。この大規模抗議集会は、アラブの春と同様、最初は武器を持たない平和的な集会で、次第にこの集会の規模が大きくなってきて、本当にヤヌコビッチ態勢を脅かしはじめた。
ヤヌコビッチは大統領選挙を前倒しで行うことを約束した。この時点で、プーチンは危機感を抱いたと想像する。ウクライナがEUに加盟すれば、ロシアのコントロールが利かなくなっていく。ヤヌコビッチがもう少し「賢くまともな」大統領だったら、この危機を乗り越えてくれるかもしれない。でも国民はヤヌコビッチとプーチンの癒着を見抜いてしまっている。選挙になればヤヌコビッチは勝てない。全てのウクライナがEUに取り込まれてしまう。この危機を乗り越えるには、ヤヌコビッチのような力量のないリーダーでは無理だ。
そうこうしているうちに、キエフの集会は大規模化していく。プーチンはソチオリンピックを何としても成功させねばならない。ウクライナの危機に対処しつつ、ソチを成功させることが必要だった。
そこでソチオリンピック開催中に、大規模な抗議集会の中に、「ネオナチグループ」「右派セクター」を紛れ込ませた。ここでKGBが暗躍したのだろうと想像する。
民衆はヤヌコビッチへの怒りに燃えている時だ。大部分のデモ隊は、平和的な権力委譲を求めているにもかかわらず、デモ隊の一部が「過激化」して、投石を始めた。やがて石は火炎瓶になり、デモ隊の一部が銃の発砲まで。
当然治安警察も反応する。治安警察も実弾を使いはじめる。デモ参加者に死者が出始めると、デモ隊はさらに過激化して、一般の人々も石を投げ始める。やがて「右派セクターの指導の下で」、ヤヌコビッチが退陣する。ロシアのメディアは、このデモを右派セクターが仕切っていると宣伝する。ネオナチの若者の姿が繰り返しメディアに登場する。
世界はヤヌコビッチという大統領の退陣を是認するが、右派セクター、ネオナチにも眉をひそめる。何より、「右派セクターが、ウクライナ東部を攻めてくる」「ネオナチがウクライナを乗っ取ってしまう」かのような宣伝になって、クリミア半島、ウクライナ東部の住民の中で、特にロシア系住民たちが、「ロシアへの帰属」を求めるようになっていく。そしてロシア軍のクリミア半島への投入、住民投票でロシアへの帰属が決定していく。
もしこの抗議集会に右派セクターがいなかったら…。おそらく人々は「平和的に」ヤヌコビッチを葬り去ったはずだ。そうなれば、ウクライナ東部もクリミア半島もこの結果に満足して、ロシアへの帰属を選択しなかっただろう。ロシアはヤヌコビッチと言う傀儡を失ったが、クリミアを取得して、かつ東部に火種を残すことに成功した。(その東部が、今や親露派、親ウクライナ派に分裂寸前だ)
プーチンは今、ウクライナへのガス価格を2倍にして、経済的に追い込もうとしている、ヨーロッパはロシアが核を持っていることと天然ガスの取引があるので、ロシアに対して強く出られない。ロシアのオルガルヒたちが米国やイギリスに多額の金融資産を持っていることも、手を出せない理由なのかもしれない。IMFもまた、ウクライナへの援助と引き換えに、ウクライナ政府に「グローバル化」を強制して、さらなる新自由主義を導入し、西側資本家の天国にしたいと狙っているのかもしれない。
間違いないのは、これは最初「ヤヌコビッチ独裁・腐敗態勢」を代えたい民衆の闘いだった。それに危機感を抱いたロシアが、民衆の中に過激派を送り込んだ。米国・ヨーロッパもそのことに気づきながら、ロシアの行動を是認して、ヤヌコビッチをあのような形で退陣させた。事態を解析すれば、自由と民主主義、富の再分配を求める「民衆 対 米露の強欲な資本家」という図式。

米国は賢くて、ウクライナがEUにすんなり入るのも良し、ロシアを悪者にして、ウクライナの西側を自国の態勢に組み込むのも良し。何より、事態の混乱に乗じて、IMFが介入して、ウクライナの労働市場、農工業などを新自由主義化すれば、それで大もうけできる企業が出てくる。もちろん軍事介入で軍産複合体も巨額の商売ができる。ロシアのガスプロムも天然ガスの値段を高止まりさせることができる。ガスの値段が高止まれば、今後「シェールガス革命」で、ガスを世界に売りまくる米国の企業も喜ぶ。つまり一般市民は極貧に突き落とされ、米露の企業が儲かっていくという図式にはめ込まれるということだ。

以上が、3月31日、キエフを離れる時点での分析である。私の予想通り、クリミアで火がついた「ロシアへの帰属運動」は、ウクライナ東部に拡散した。
おそらくウクライナ系、ロシア系の大部分の人々が、「過激派」に眉をひそめているだろう。キエフの右派セクターのデモは、誰も振り向かず、誰も手を振らなかった。日本でもヘイトスピーチに眉をひそめる人が多数なのと同じように。
この短い情勢分析を行うにあたって、痛感するのは「ウクライナの悲劇的な歴史」である。ある時はタタール、時代が下ってオーストリアハンガリー、ポーランド、そしてロシア革命のさなか、ボリシェビキと反革命派による大量虐殺、ソ連時代のスターリン独裁、強制移住、農村の「計画的餓死」…。
今回のウクライナ政変の背景には、東西南北の「強国」から侵略されてきた歴史がある。ドニエプル川の恵み。肥えた土地。そしてヨーロッパとモスクワに挟まれた地政学的重要性。そんなことを考慮に入れないとウクライナ政変の本質は見えてこないのだ。


 

チモシェンコ 支持者 集会 ブログ用.jpg キエフのソフィア広場に集まったティモシェンコ支持者の集会

ウクライナ4日目。今日は土曜日なので、オフィス街は閉まっているが、独立広場は曜日に関係なく、多くのサポーターが集まってくる。この独立広場から車で10分も走ると、ソフィア広場に出るのだが、そこに大きな電光掲示板が設置され、数千人もの人々が集結している。青と黄色の無数のウクライナ国旗が打ち振られ、人々はティモシェンコ元首相のポスターを掲げている。
5月25日に予定されている大統領選挙。EUへの加盟を進め、クリミア半島をウクライナに取り戻し、ロシアとは一線を画そうという人々の集会だった。
昨日の国会前を包囲した右派セクターの集会よりも数倍規模で、覆面姿の若者もいないし、武器もない。「ウクライナは1つだ!」と唱和する人々。この時点でティモシェンコ元首相は世論調査によれば3番手グループ。後に本命視されているポロシェンコ候補に一本化されたようで、集会参加者は結果としてポロシェンコに投票するだろうと思われる。
一通り集会を取材した後、ドニエプル川をさかのぼってキエフの北側、郊外へと抜ける。高速道路のようなきれいな舗装された道。「ヤヌコビッチ道路よ。前大統領は『交通渋滞に巻き込まれるのがイヤだ』という私的な理由だけで、この道路を整備したの。キエフにはまだまだ整備が必要な道路があるのに、屋敷につながる道路だけが、まずは舗装されていったの」。ヘレンの説明を聞きながら、フセインが整備した国道を思い出す。イラクのフセインは、外国が攻め込んできた時に備えて、いざという時には滑走路になる国道を作っていた。独裁者は似たようなことをするものだ。
ヤヌコビッチ邸の前に長蛇の車列。土曜日なので、地元観光客が屋敷に入るために並んでいるのだった。屋敷の門前に数台の自転車。あまりにもお屋敷が広大なので、自転車が必要ですよ、ということ。うろ覚えだが、その昔「クイズ、世界は商売笑売」という番組があったように思うが、いろんなことが商売になるものだ。
屋敷 ブログ用.jpg

20フリブナ(200円)支払って、入場。もう完全にここは「清水寺、金閣寺、奈良の大仏状態」である。屋敷に入る。四角い建物の前にコイが泳ぐ池。建物はヤヌコビッチ専用のスポーツジムだった。この中で泳いだり、走ったりしていたのだろうか。
池を越えてしばらく歩くと、木造の巨大な屋敷。これがメーン住居だった。やはり住居の前に鴨が泳ぐ大きな池。池の真ん中に噴水。屋敷の裏に回れば、ギリシャ時代の彫刻と遺跡。クリミア半島から、実際の遺跡を運んできたそうだ。やりたい放題やな。
屋敷の裏は、うっそうとした森になっていて、森の中の小道を歩く。10分ほどの散歩で、「牛に注意」の看板。丘の上にミドリの塀で囲まれた空間が。塀を回り込んで、そこに広がっていたものは…。
動物園だった。アラパカ、カモシカ、クジャクに牛や羊、大きなダチョウが芝生の上を走っている。彼1人のために作られた動物園。アホや、こいつは!
見学しているウクライナ人も、怒りを通り越して軽蔑の笑いを浮かべている。このダチョウのエサも彼らの税金だった。園の柵に「動物が飢えはじめています。募金を」という箱が置いてある。ヤヌコビッチがこの屋敷からヘリで逃亡してから1か月。飼育員も逃げたので、このダチョウは飢えているのであった。
動物園の横には、やはり植物園があった。温室の中できれいな花が咲き誇っている。誰も世話する人がいないので、やがてこの花も枯れていくのだろうか。
その他、「ヤヌコビッチハウス」にはサウナスパも湖の見えるレストランもあった。ありそうでなかったのはゴルフコースと遊園地くらいだ。
ヤヌコビッチハウスを出て、キエフに戻る。とうとうとドニエプル川が流れて、緑の大地が広がっている。元々ウクライナは豊かな国だった。旧ソ連時代、ウクライナが小麦や砂糖、野菜などの農産物を供給してきた。西欧が産業革命で工業化されたとき、ウクライナは「ヨーロッパのパン籠」として食料を配給してきたのだ。
逆にいえば、そんな豊かな土地だからこそ、ある時はポーランド、ある時はオーストリアハンガリー、タタール、そしてロシア…。この国は東西南北に敵がいて、その度に侵略されてきた。そして今、プーチンのロシアとEUが東西でにらみを利かせている。今後のウクライナはどうなっていくのだろうか。

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