シリア潜入 初日

4月8日午前11時、通訳ジャラールの携帯にようやく電話がかかってくる。自由シリア軍からだ。「準備OK。本当にいくか?」「ああ、行くよ」。トルコやイラク、レバノンでの取材も大事だが、やはり肝心のシリアに入国せねば。
「トルコ〜シリア国境のバーバルハワーでは、すでに外国人の入国を認めていません。なので、シークレットで入ります」。ジャラールの心配も無理はない。国境ではトルコ軍、ジャンダルマの目が光っているし、いったん入れたとしても、次にいつ出て来られるか分からない。イスタンブール〜大阪の飛行機チケットが無駄になるかもしれない。ロケット弾が飛んできて、電気もきれいな水も食料も不足するシリア、できるだけ短く切り上げたいのは人情だが、「密入国者」である私が、予定通り出国できるほど、ジャンダルマは甘くはない。
シリア難民4人とジャラール、そして私を乗せたワンボックスカーは、のどかなトルコの田舎道を走る。狭いデコボコ道にすれ違う耕耘機。田舎の農民たちはのんびりと畑作業をしている。一見すると平和な風景。田舎のあぜ道は、古ぼけた小さな門で遮られていた。門の前にはトルコ兵が2人。
あの門が「国境」なのだ。「何もしゃべらないでください。記者証は見せないで。あくまでも私たちは人道支援者です。国境付近に展開する難民キャンプに支援物資を届けることが目的ですから」。ジャラールに言われるまでもなく、トルコは外国人ジャーナリストの入国を厳しく制限している。治安が相当悪いので、トルコとしては安全に責任を持てません、ということ。幸い、私は「イラクの子どもを救う会」として何度も支援物資を運んだ実績があり、ジャーナリストとあわせて「2つの顔」を持っているので、今回は「人道支援者の身分」を活用する。
ジャンダルマ2人がやって来て、一人ひとりの名前と身分を確認する。「イラクの子どもを救う会」の名刺を見せる。幸いこの兵士は英語が苦手だったようで、Iraqと書かれていることに疑問を挟まなかった。「なぜSyriaでないのか?」という想定質問に答える必要もなく、小一時間待ちで門が開いた。
舗装されていない山道を行く。いわゆるここは「無国籍地帯」だ。正式な国境なら「DUTY FREE」があるところ。岩がごろごろ転がる丘を越えると…。無数のテントが広がっている。
「アトマ難民キャンプです。難民の数は毎日増えているので、正式には分かりませんがここだけで2万人は越えているでしょう。撮影は禁止です」。
約半年前から、この地域は自由シリア軍と、ダイシュと呼ばれるアルカイダ系武装集団との戦闘になって、いったんダイシュがここを制圧したが、最近また自由シリア軍が奪い返した。その後、この地区には検問所が増設され、ビデオカメラが見つかると、相当厄介なことになる。車内から小型カメラで隠し撮り。
オリーブ畑の中の農道を行く。農道に沿ってテントが続く。避難生活も長くなっているので、テントの中には日用品を販売する「店舗」もある。すれ違う軽トラックには、たった今逃げてきた家族と家財道具が満載されている。
アトマキャンプを通り抜け、アトマ村の中心部でワンボックスカーを降りる。待っていたのは自由シリア軍の兵士たち。迷彩服にカラシニコフ銃。
「サラームアレイコム」。部隊長のアブドッラーと握手を交わす。今日からジャラールと私の運命はこの男が握ることになる。
アブドッラーの車に銃を持った兵士が2人。護衛が着く。アブドッラーは村の一本道を猛スピードで飛ばして行く。治安上、スピードを上げて通り過ぎないといけないのか、それともこの男がタダのスピード狂なのか。「ダイシュに撃たれるより、この無謀運転で殺される確率の方が高いかもね」。ジャラールと密かに冗談を飛ばす。アブドッラーは英語が分からないので、陰口を叩かれているとは夢にも思っていない。遅い車が前にいると、さかんにクラクションを鳴らし、「どけどけ」と突き進んでいく。
着いたのはイドリブという町の玄関。アブドッラーたちの拠点ビル。ビルと言っても建設中で放置されたもの。戦争で施主が逃げ出した後に、兵士たちが住み着いている。何とこのビル、自家発電装置があって、給水タンクまで。シリア戦争も4年目に入り、長期戦である。兵士のねぐらもかなり改善(笑)されてきている。
自由シリア軍の拠点で、支援内容の打ち合わせ。難民の半分が子どもで、赤ちゃんも多数。食料不足で母乳が出ない母親も多いので、まずは粉ミルク。次に小麦粉、砂糖、コメにする。日本からの支援金6500ドルを手渡す。アブドッラーが支援物資を買い出している間、何もすることがないのでビルの窓から外を撮影。アサド軍の戦車の残骸が転がっている。旧ソ連製のT72。その横には救急車が燃えて転がっている。アサド軍は病院や救急車を破壊することが多いので、その行為に激怒した自由シリア軍が、RPG砲かなにかで、やっつけたのかもしれない。
午後2時、ようやくアブドッラーが帰ってくる。どこへ行くのも検問ばかりで移動に時間がかかる。
小型トラックに、本日の援助物資を少量つめて、いざアレッポへ。アブドッラーは飛ばす。アレッポでは「タル爆弾」が使われている。ドラム缶に爆発物と、鉄の破片を詰めたもので、これが炸裂すると、周囲数10mにいる人は、間違いなく大怪我か死亡。もちろんスカッドミサイルやロケット弾も飛んでくるし、何より恐ろしいのはミグ戦闘機からの空爆である。
イドリブからアレッポまでは、結構近くて2時間の「無謀運転」でカッスルナッハーという町に到着。ここはアレッポ中心地からわずか10キロの地点で、丘の上からアレッポの町が見下ろせる。カッスルナッハーでは7か月前にアサド軍と自由シリア軍の激しい争奪戦があり、今は自由シリア軍が制圧した。イドリブからの国道は、ここまで全部自由シリア軍支配なので、2時間で到着したわけだ。昨年までは、途中にアサド軍支配地域があったので、大回りしたため「アレッポって遠いなー」という感覚だったのだが、直線で走ると意外に近いのだ。因みに首都ダマスカスも、本来なら車で4〜5時間も飛ばせば行ける。しかし今のダマスカスは果てしなく遠い街だ。
カッスルナッハーは、ゴーストタウンとなっていた。工場が空爆され、主だった民家にはロケット弾が撃ち込まれている。ここは戦争前までは「アレッポの芦屋」という感じ。白亜の大邸宅が丘の上にそびえ立っていて、そこにホムスからの難民が住み着いているのだ。
アレッポのお金持ちたちは、とっくに外国へ逃げ出しているので、そこに家を奪われた最激戦地、ホムスの住民が逃げてきているのだ。
一軒一軒回りながら、小麦や粉ミルクを配っていく。「ズドーン」。遠くでミサイルの着弾音。アレッポへの空爆は毎日続いている。
支援物資は大歓迎された。広いお屋敷だが、電気、ガス、水道なしで、床に敷くカーペットもない。窓ガラスは爆風で吹き飛んでいるので、夜は大変寒いという。そんな家の数件目に、アブドルサラーム君(4歳)がいた。
「生まれた時は普通だった。戦争が始まって、爆弾の音を聞いているうちに、この子は歩けなくなってしまったんだ」。父親が精神の異常を訴える。ホムスへの空爆、銃撃戦が始まったとき、この子は1歳だ。あまりの恐怖で、脳に異常が発生したのだろう。実は、この子と全く同じ症状の子どもを、イラクのバグダッドで見たことがある。あの少女も確か3〜4歳だった。人間の脳というのは、恐怖で損なわれるのだろうか?医学的にありえることなのだろうか?
「ズシーン、ズシーン」と腹に響く爆発音が続く。アレッポの街から煙が上がる。あの煙の下で、何人か逃げ遅れた人が亡くなっている。すでに街はゴースト状態だが、執拗に繰り返される空爆。アサド軍は正気を失っている。戦争というのは正常な感覚ではできないのだが…。
日暮れが近い。イドリブまで早く戻らないと、また厄介なことになる。検問所を守る兵士も疲れている。アサド軍の空爆も怖いが、ダイシュの襲撃にも備えないといけない。アブッドラーの「無謀運転」がさらに加速する。「ダイシュに襲われるのと、この運転で殺されるのと…」。冗談も凍りつく。
午後8時、無事「拠点ビル」に到着。さすがに疲れた。兵士たちはカラシニコフ銃の点検などをしながら雑談しているが、私は早めに寝る。若いこいつらに付き合っていては、身体が持たない。毛布にくるまり泥のように眠る。


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このページは、nishitaniが2014年4月15日 11:46に書いたブログ記事です。

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