平和村にやってきた子どもたち

矢倉先生と子どもたちブログ.jpg 両手でパンを挟み 食べる ブログ.jpg ザウラちゃん 診察前 ブログ.jpg 写真は順に、子どもたちを診察する矢倉医師。やけどで両手指が癒合した子ども。地雷で左足を切断した少女

8月21日午前9時、昨日平和村にやって来た子どもたちの診察が始まる。ドイツ人医師のハリルさんと日本人医師の矢倉さんが、子どもたちの宿舎を回る。
今回の援助飛行でやって来た子どもは89名、そのうち30名ほどが空港から病院に直行しているので、平和村に宿泊した子どもは60名弱だ。
まずは幼児から。ハリル医師が子どもたちを座らせて症状を尋ねていく。矢倉医師は、包帯の交換、膿んだ傷口の消毒、硬直した関節の曲げ伸ばしなどをテキパキとこなしていく。
カブールで出会ったズフラブ君。大やけどで両手の指がくついてしまっている。アフガンではよくある事故なのだが、幼児がよくパン焼き釜に落ちるのだ。カブールの冬は氷点下20℃まで下がる、そんな極寒の夜に、暖房は薪で煮炊きする釜だけ。危険性が分からない幼児は、その釜ににじり寄り転落する。転落した時に、両手で踏ん張るので、指が焼け溶けてくっついてしまうのだ。
「骨は残ってますね。これから病院で指の癒合を解く手術をします。手のひらで重要なのは親指です。回復を待って足指を移植して親指にすれば、物をつかめるようになると思います」。矢倉先生の解説にうなずきながら、この子がスプーンやフォークを使って食事が出来る日が早く来ることを願う。
プロパンガスの爆発で大やけどを負ったイブラヒム君。顔の皮膚と首の皮膚がくっついていて、唇が引っ張られて口を閉じることができない。
「顔と首の癒着を切り離して、皮膚の移植手術をしないといけません。口も閉じることができるようになるでしょう」。矢倉医師は毎年4回、援助飛行の子どもたちがドイツに飛来してくる度に、こうして治療にやって来る。「病院勤務だったのですが、年に4回も休ませてくれるところはありません。なのでいったん仕事を辞めて、平和村に来れるように勤務先を変えました」。今は北海道で「融通の聞く」病院につとめている。
女の子の宿舎に、ゼタラちゃんがいた。アフガン北部の都市マザリシャリフで地雷を踏んだ。マザリシャリフは、旧ソ連軍とアフガンゲリラが激しく戦ったところ。今でも無数の地雷が眠っている。
ゼタラちゃんの右足はすでに付け根から切断されている。残った右足も手術がうまくいかなかったのか、間接が硬直化して曲がらなくなっているし、その上骨髄炎を発症している。
左足の硬直化した関節を手術で曲がるようにして、あとはリハビリで少しずつ回復させていくしかない。もちろん骨髄炎も平和村で完治させねばならない。この少女は「3年コース」になる可能性が高いだろう。義足が出来て、左足が曲がるようになって、また歩けるようになるという「奇跡」が、ここ平和村では実現可能な「希望」になる。
一通り診察を取材して、外へ出る。平和村ではバスケットコートや広場があって、子どもたちが遊んでいる。「ありがーと」。アンゴラの子どもたちが陽気に近づいて来る。平和村には日本人スタッフも多いので、子どもたちはドイツ語とちょっとした日本語もしゃべれるようになっている。
無謀な戦争を引き起こして戦争に負けた日本とドイツ。その後両国は世界が驚くほどの経済成長を成し遂げ、医療水準もトップクラス、発展途上国からすれば憧れの国になった。ドイツは戦争責任を認め、謝罪し、原発を止めることを決意した。平和村が発足したのが、1967年。第3次中東戦争が勃発して、イスラエルがガザとヨルダン川西岸に侵略、シリアからゴラン高原を奪い取った年だ。平和村は67年以来、そんな紛争で犠牲になった子どもを救出してきた。日本でもこんな活動ができないか、と思う。今の日本は武器や原発を外国に売ろうとしているが、進むべき方向を間違えている。日本に帰国したら、ぜひこの平和村の活動を各地で紹介していきたいと願っている。


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このページは、nishitaniが2014年8月23日 16:47に書いたブログ記事です。

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