ガジアンテップ その2

5月12日午前10時、まずはガジアンテップの新市街地ホーシクール地区へ。地区の中心が広場になっていて、この広場から放射線状に路地が伸びている。すべての路地が上り坂。つまり町の底の部分が広場になっていて、住居は登り道に沿って連なっている。なだらかな坂道を上っていく。すれ違う住民はほとんどがシリア難民。彼ら同士でアラビア語を喋っているし、女性が黒いアバヤを着ているので、すぐにわかる。そんなダラダラ坂の中腹に目指す家があった。
鉄の門扉を開けて中へ入る。撮影の許可が下りて、カメラを回す、ますはご主人に挨拶。「よー来てくれた。さー、中へ」。なんとなくこんな感じのことをアラビア語でしゃべってくれて、客間へ。しばし雑談ののち、彼女が入ってきた。
アヤ・スードラさん(12)は、女の子が女性へとはばたく、ちょうどその時期を生きている。(シリアの子どもは成長が早い)美しい彼女の頬に傷が刻まれ、左目は失明している。10ヶ月前、シリア中部の町パルミラで、アサド軍は猛烈な空爆を仕掛けていた。当時パルミラは「イスラム国」の支配下にあったが、アサド軍が総攻撃を仕掛けて、取り戻す最中だった。彼女は家にいて、周囲が破壊されていくので、おばさんの家に逃げ込んだ。しかしアサド軍のミサイルは周辺の人家に容赦なく降り注ぎ、おばさんの家にも命中。母と姉が亡くなった。スードラの右顔面にミサイルの破片が飛び込み、気を失った。隣にいた弟のハムザくん(8)は左半身に大やけどを負った。
2人はパルミラから「イスラム国」の首都ラッカの病院に移された。本当はトルコに逃げたかったのだが、当時パルミラは「イスラム国」に支配されていたので、ラッカの病院に移されたのだ。ラッカの病院から退院して、5ヶ月前に家族と一緒にトルコに逃げてきた。「イスラム国」に見つかれば殺されてしまう。決死の逃避行だった。
スードラさん宅を後に、ディバ地区のハッサンさん(24)宅を訪れた。2年前のアレッポ。アサド軍の空爆でけが人が出た。たまたま車で通りかかったハッサンさんはけが人を車に乗せ、病院までアクセルを踏んだ。アサド軍の飛行機が見えた。飛行機からのミサイルが、道路脇のビルに命中した。ビルの破片が車めがけて猛スピードで飛んでくる。ハッサンさんの記憶はそこで途切れる。気がつけばガジアンテップの病院だった。ビルの破片が彼の背中に突き刺さり、彼は下半身不随、両腕もただ上下に動かせるのみ。スプーンも握れず、何をするにも介護が必要だ。彼にはフィアンセがいて、空爆された1週間後に結婚式の予定だった。許婚はトルコのガジアンテップへ、そして危篤。アレッポに残ったフィアンセは連絡先を告げずに去っていった。
彼の気持ちも、フィアンセの気持ちも痛いほどわかる。たった一発のミサイルが人々を不幸のどん底に叩き落とす。
傍で母親がインタビューを聞いている、カメラを向ける。
「この1年半、私はこの子を励ましてきました。『死にたい』と叫ぶ時は、背中をさすってやりました。テレビをつけて気分を紛らわせ、時にはコーランを読んで、生きる希望を与えました。この子の顔に毛布がかぶさった時は、毛布をよけてあげました。この1年半、私たちはここでひっそりと地獄の日々を送ってきたのです」。
民家の上にミサイルやタル爆弾を落とすこと、つまり空爆についてあらためて考えさせられる。確かにアサド軍だけが人殺しをしているのではない。反政府側も「イスラム国」など過激派原理主義者の側も、銃撃戦などでたくさんの人を殺害してきた。しかし空爆は「殺害する人数、不幸にたたき落とす家族の数」を圧倒的に高めていく。米露仏英などの空爆も同様。「空爆する側こそテロリスト」なのではないか。ハッサンさんのような事例は、今後もあまり報道されないだろう。現地の事例を掘り起こしていくことが必要だと痛感する。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: ガジアンテップ その2

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.nowiraq.com/mt/mt-tb.cgi/580

コメントする

このブログ記事について

このページは、nishitaniが2016年5月13日 02:04に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ガジアンテップ その1」です。

次のブログ記事は「ガジアンテップその3」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01