2016年12月アーカイブ

12月24日早朝、モスルを目指しスレイマニア市を出発。クリスマスイブなので日本ではツリーなんかが飾られていると思うが、この街にはほとんどキリスト教徒がいないので、「普通の土曜日」である。
12月のクルドは結構寒い。そしてあいにくの雨。難民キャンプのテントが雨漏りしていなければいいが。
車をぶっ飛ばす事1時間、キルクークに到着。「右へ行けば、アルビル、左はモスル」の看板を、左へ。さらに走ること30分。
「おー燃えてる燃えてる」。地面から猛烈な炎が噴き出して空を焦がしている。油田だ。「北クルド石油カンパニー」という看板。そして周囲は高いコンクリートの壁に囲まれる。クルド兵士が道路に立ち、チャックポイントが増える。そしてパイプラインがはるかトルコまで伸びている。
兵士たちは「住民ではなく油田」を守っている。
油田を通り過ぎて、どんどん西へと進む。昨年の11月、キルクークを訪問した時はこのあたりが前線だった。あれから1年。特に今年10月末から開始された「モスル奪還作戦」で、イラク軍とペシュメルガ(クルド軍のこと)が攻勢に出て一気に陣地を西へと広げた。もちろんその勝利の背後に、米英仏露の猛烈な空爆があった。
ISは敗走して西のシリア方面へ逃げていくが、その時に住民をさらっていき、その住民を「人間の盾」に使っている。なんとかISから逃げだせた人は新避難民となって、クルド側に押し寄せている。
午前10時、ドバスという街に到着。「1ヶ月前にIS兵士が突然、この街を襲ってきた。しかしペシュメルガは勇敢に戦い、ISを追い返した」。通訳ファラドーンが説明してくれる。一方的にクルドが勝ってるわけではない。IS側も警備が手薄な街を集中的に攻撃して、奪い返そうとしているようだ。(現実に、シリアのパルミラはISが奪い返している)
ドバスからさらに30分ほど西へ走る。巨大なキャンプが見えてくる。ディバガ避難民キャンプだ。ここはネットに地図があった。http://reliefweb.int/sites/reliefweb.int/files/resources/20160715%20Iraq%20Flash%20Update.pdf
前線に行く前に、ぜひキャンプの中を取材してみたい。責任者と交渉。このディバガには3つのキャンプがあって、主にモスルとその近郊から逃げてきている。最初はわずか100名程度の小さなキャンプだったが、1年間で2万人になった。今は、ISからの解放で故郷に戻っていく人、新たな攻撃で村が破壊され、ここに逃げてくる人の差し引きで、2万人という数字はキープされている。
広大なキャンプなので、車でざっと周回する。一箇所、車を降りて男性にインタビュー。私のビデオカメラに子どもたちが寄ってくる。この子たちに、兵庫県丹波市の和田中学校から預かっていた草木染めのハンカチを配る。日本の中学生たちが英語で「Peace」と染めてくれたハンカチは奪い合いになった。
キャンプを後にさらに30分ほど西へ。
大きめの工場が破壊されている。2014年6月、モスルを陥落させたISは、クルドの首都アルビルに進出してきた。ここはマハムールという町。この町を陥落させたISは、アルビルを奪いかねない勢いだった。アメリカ2014年8月に空爆を開始。最初の一撃はこの町に着弾した。オバマ大統領は、イラク人、特にヤジディー教徒たちがISに大虐殺されてもすぐには動かなかったが、油田に近いこの街が襲われたら、すぐに空爆で対応したのだ。
マハムール基地へ。この基地は正面の門に向かって左側がイラク軍、右側がペシュメルガ。かつての敵同士が、同じ基地から出撃してIS掃討作戦を行っている。そして両基地の奥には米軍基地がある。
なぜ米軍がいるのか?
それは戦闘指導、作戦立案のためだ。イラク軍とペシュメルガが装甲車に乗って前線に出発する。どちらの装甲車、戦車も米軍の払い下げだ。ちなみにISもモスルを陥落させた時にイラク軍から奪った戦車で戦っている。何のことはない、イラク軍、クルド軍、ISの3者は、すべて「かつては米軍の武器」で戦っているのだ。
ペシュメルガの装甲車の中に入らせてもらう。運転席の窓ガラスに大きな弾痕。
「カンナース(機関銃)」と兵士が説明。IS兵士に狙撃されたのだが、防弾ガラスが強力なので、装甲車は無事だった。IS狙撃兵の腕がいいのか、見事にガラスの中心、つまりブチ抜けば運転手に当たったことになる。
あちらの装甲車も同じ場所に大きな銃痕。結構撃たれてるやないの、ペシュメルガ。
基地からは護衛がつく。護衛の車に守られながら、いよいよ前線へ。
「えっ、何これ?町が全部…」
前線の町ルワラは文字通りのゴーストタウンだった。すべての家が破壊され、誰もいない。ISが奪ったり、ペシュメルガが取り返したり、この町は3度にわたって「所有者」が変わった。両者からの砲撃でほとんどすべての家が破壊された。命からがら逃げ出した住民は、あのディバガ避難民キャンプにいる。そして逃げだせなかった人々は、ISが連れ去っていった。だから町に誰もいないのだ。
無人の町を行く。家が途切れ、視界が広がったところに基地があった。ここだけ人が住んでいる。基地に入る。
「ここは非常に危険だ。IS支配地域は2キロ先。いつ兵士が襲ってくるかわからない」。ファラドーンは早く取材を切り上げろ、と急かす。確かにゆっくり取材するわけにはいかないようだ。ここには時折ロケット弾もとんんでくる。
カリーム司令官にインタビュー。一週間前も兵士が10人死亡し、数十人重傷者が出た。IS兵士を捕まえても自爆するので、その巻き添えでペシュメルガ兵士も殺され、傷つく。戦闘は主に夜間に行われるので、兵士の多くは寝ているようだ。
基地の監視カメラの映像を見せてもらう。わずか2キロ先のIS側がアップになる。カラーでくっきりとした映像、今の技術は大したものだ。
基地を後に、急いでマハムールへと戻る。道中、誰もいなくなった大通りに4台の大型バス。ISから逃げてきた人々だった。夜間にIS兵士の目を盗み、徒歩で10時間歩いてここまできた。バスはクルド政府がチャーターしたもの。このバスに乗って、あのディバガキャンプまで移送される。
乗っていた男性はすべて長いあごひげを生やしている。IS地域では男性は髭を生やさねば、処刑か拷問。女性も民族衣装で顔を隠さずに外出すれば、処刑か拷問だ。靴下なしの子どもも大勢いる。せわしなくポテトチップスを食べる幼児がいる。お腹が減っているのだ。寒い山道を、よく10時間も耐えてきたと思う。
マハムール基地まで戻れば大丈夫。ここまではロケット弾も届かない。
ということで私は無事にスレイマニアまで戻ってきた。平和なスレイマニア、5つ星ホテルがあって、ショッピングモールまである、この町から車で4時間も行けば、そこはISとの最前線である。逃げてきた人々にも普通の生活があった。イラクがここまで混乱したのは、2003年の無謀な戦争からである。ブッシュ大統領が無謀な戦争をしなかったら、ISは生まれていない。「製造者責任」があるアメリカは、空爆を続けて、さらに人々の生活を破壊している。
さてオバマを経て、トランプになった。この戦争はいつまで続くのだろう。

2016年12月20日、関空からのドバイ便。ギリギリに乗り込んだ私の隣に座っていたのは、小柄なおばあさん。私は一人で飛行機に乗るので、隣に座る人も一人旅の人が多い。バックパッカーのお兄さんや出稼ぎに行くイラン人など「濃いめ」の人が多いのだが、今回は全く普通の、いやむしろ海外旅行などしたことなさそうなおばあさん。一人で寂しそうに座っていたのだ。
「どこまで行かれるのですか?」「サンパウロです」。
おばあさんは50年前にブラジルに移住したのだった。
「当時は大変だったのですね。ブラジルへ行けば仕事があると…」「何も食べるものがなかったからね」
おばあさんは沖縄の人だった。8歳の時に終戦、沖縄戦ではガマの中で過ごした。米軍に「保護」されて捕虜収容所で暮らしたが、一番しんどかったのは「食べるものがないこと」だった。
「ブラジル、ドミニカ、ボリビアなどへ行けば食べるものがあるよ」。当時の琉球政府は、南米への移住を奨励していた。移住先がサンパウロになったのはラッキーだった。ボリビアやドミニカの田舎に行った人は荒れ地をあてがわれて、筆舌に尽くしがたい苦労をした後、おばあさんらが移住したサンパウロの村に逃げてきた。そんなウチナーンチュの移住者達とブラジルで生活すること50年。どうしても、死ぬまでに故郷沖縄を見てみたい。
おばあさんは一人で、サンパウロからドバイ、そしてドバイから日本にやってきて、2ヶ月間、故郷沖縄ですごした。そして本日、ドバイまでの便に乗り込んでいたのだった。
「沖縄は変わったわー。いっぱい建物が建ってる」。おばあさんは沖縄の発展ぶりに驚いた。でも変わっていないものもあった。
「オスプレイが落ちたね。知事さんも苦労するわね」。
島民の4人に1人が殺されたと言われる沖縄戦。そして捕虜として収容され、米軍の占領が続いたのち、貧困のために南米への移住を選択。
「戦争がなかったら、普通の人生だったと思います」。ドバイ到着後にポツリと一言。おばあさんは今、ドバイでサンパウロ行きの飛行機を待っている。

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