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3月5日午前9時半、シリア情報省の外国人メディア担当部署を訪問。モハンマドと打ち合わせ。まずシリア中心部、観光省の横に、仮設であるがUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ができているのでそこを訪問。敷地の中に長い看板。細かい字でイラク難民の名前と番号。難民を登録し、番号が振られて初めて支援物資が届く。
敷地の中には巨大なテント。テントの中には登録を待つイラク難民がぎっしりと、番号を振られるのを待っている。「毎日5千人がここにやってきます」と担当官のイブラヒームさん。第2テントで「仮番号」をもらい、コンピューターに入力。第3テントで住所、氏名、家族の人数、携帯番号などを入力し、正式な難民カードが手に入る。カードが手に入ると、食料や衣類の配給を受けることができる。
配給現場へ。テントが仮設倉庫になっていて、米や油、ナツメヤシなどの食料とマットレスや毛布など非食料が分けて積んであって、10人家族なら、それぞれ10箱づつトラックに積んでいく。トラックもUNHCRが借り上げたもので、そのトラックが順次イラク難民の住所まで運んでいくというシステムだ。
3月10日に、中東学習ツアーでここを訪れることにする。
UNHCRの次は、リトルバグダッドと呼ばれるイラク難民の街、サイダザイナブへ。この街にはバグダッド~ダマスカスの長距離バスターミナルがあり、大量のイラク難民が住み着いた。街のメインストリートはいまや「イラク通り」と呼ばれている。
その中に、ファイサルさん(25歳)とウィサームさん(22歳)の兄と妹を紹介しよう。彼ら二人はサマッラという激戦地に住んでいた。03年3月、アメリカはサマッラの町を大規模に空爆した。今からちょうど5年前のことだ。空からはアパッチヘリが、陸上からは戦車砲が、夜の11時から朝の10時まで、11時間に及ぶ空爆だった。
そのとき兄と妹は家にいた。空からアメリカの爆弾が降ってきた、と思ったとき、2人は気絶して、気がついたときは空爆が終了して5時間がたっていた。
二人は異様なガスのにおいをかいだ。ものすごく気分が悪くなっていたが、街が破壊され病院に行けたのは1週間後のことだった。
ガスの異様なにおいをかいでから、二人は体調を崩していく。2か月ほどして、兄も妹もふらふらと歩くようになり、言葉もろれつが回らなくなっていく。「毒ガスではないのか!」。不思議なことに、母が知っている近所の若者&子どもも、18人が同じような症状を呈していく。やがて…。二人はまったく歩けず、そして軽度の言語障害になった。イラクの病院で治療を続けてきたが、イラクではこれ以上治療が進まないので、2か月前にシリアまで逃げてきた。
「アメリカが化学兵器を使ったのではないか」通訳モハンマドは、「それしか考えられない」と言って頭を振った。
現在は車椅子が一つしかないので、妹が外出するときは兄が、兄の外出時には妹が留守番をしている。中東ツアーでは車椅子も持ってくる予定なので、一台をこの二人にプレゼントできないものだろうか、と感じる。
本日は、この2人の兄妹の他にも、さまざまな戦争犠牲者と出会った。テロリストの銃弾で下半身不随になった携帯電話の店主、99年、クリントン時代の空爆のショックで障害児を生んでしまった母親、バグダッド大学で生物の教授だった妻が暗殺団に脅かされ、長男を人質に取られた家族…。「100人のイラク難民には100の悲劇がある。ぜひ、この事実を伝えてほしい」ムハンマドが重い言葉を投げかける。その横で難民の子どもがサッカーに興じている。サッカーはボールさえあればできる。この難民の街からスターが現れてほしいものだ。

3月4日午前9時、無事シリアの首都ダマスカスに到着。

シリア情報省のムハンマドが、私のビザを空港当局にファックスしてくれていたので、私は「外交官など」のコーナーで入国審査を受ける。VIP待遇だから、すぐに通してもらえると思っていたのだが、別室に連れて行かれ、1時間以上待たされる。

「これなら普通にビザ手数料を支払って、通過したほうが早かったな」と思い始めたころに、許可が出る。待った甲斐あってジャーナリストビザが出た。

空港からタクシーでダマスカス市街に急行するが、市街地に入るとものすごい交通渋滞。

200万人ものイラク難民が流入し自家用車が急増、そして地下鉄やモノレールなどの公共交通機関がないので、どこへ行くにも「歩いたほうが早い」状態。

やっとのことで安宿スルタンホテルにチェックイン。すぐに情報省へ。シリア政府はバース党政権。バース党というとフセインで有名になったが、もともとバース党はシリアが発祥の地。

ここでようやくムハンマドと初対面。メール、ファックスでやり取りしていた時から、誠実そうな人物やな、と感じていたが、実際のムハンマドは、小柄で物腰低く、それでいて一本芯の通った「反戦公務員」である。今回の中東ツアーの目的を告げると、「ぜひ協力させてほしい」との返事。

英語ぺらぺらで、なおかつ政府職員。イラク難民の現実に心を痛めている彼がガイドにつけば、今回のツアーは期待大である。

ムハンマドと簡単な打ち合わせ。明日から、イラク難民の通う小学校、戦争犠牲者が入院する病院、UNHCR、バグダッドへのバスターミナル、イラク難民を支援するNGOなどを訪問し、来週に迫る日本からの代表団の受け入れ準備をすることに。

ムハンマドと話をしていたら、別の職員が「昨年はNHKを案内した。これがそのときの番組だ」と、挨拶にやってくる。その番組はイラク難民がシリアに逃げてくる模様を追いかけたドキュメンタリーで、日本でも話題になったすばらしいものだ。

NHKドキュメンタリーほどの取材はできないかもしれないが、10数人の「代表団」にも、現実の一端を感じてもらえれば、と思う。

朝日放送「ムーブ!」の本番が無事終了した。いつもながら生放送は心臓に悪い。「本番5秒前で〜す、4、3、2、1」と秒読みされるのと、「この検問を超えればキルクークだ!」というのと、どちらが心臓に悪いだろうか?
番組の中で、ムラート君のことを紹介できた。彼はアルカイダ系のテロリストに、片目を奪われた。コメンテーターで作家の吉永さんが、「僕の友達の友達はアルカイダ」といった政治家がいたが、この映像を見たら、冗談でも『友達がアルカイダ』なんて言えるはずがない」と涙ながらに怒っておられた。
そう、政府は「テロとの戦いに協力しなければならない」というが、肝心の「テロとの戦い」の内実が報道されないのに、「協力すべきかどうか」を判断できるはずがない。
間違いなく、油田地域キルクークではテロが増えている。なぜか?クルド自治政府が西側の石油会社と独占契約を結んだからだ。「クルドのフライング」に対してシーア、スンニ、トルコが怒る。とりわけアルカイダが乗り込んでくる。
結果、無実の子どもたちが殺され、傷ついたわけだ。
市場で遊ぶ子どもを標的にするような、テロリストを決して許すことはできない。しかし同時に「戦争ではテロはなくならない」し、「むしろテロを誘発する」のだ。
アメリカの戦争が原因で、イラクは泥沼に陥った。そのアメリカに従属し、「友達の友達はアルカイダ」などと平気で発言する政治家には、次の選挙で引退してもらうしかない。

murat.JPGのサムネール画像のサムネール画像写真のムラート君は、前述のとおり、10月12日ラマダン明けの祭り初日にテロに遭い、重傷を負った。現在スレイマニア市のNGO国境なき医師団が、彼のやけどの手当てをしている。やけどが落ち着くと、次は胸に突き刺さった鉄片を取り除く手術、そして複雑骨折しているあごの手術、最後に失明してしまった右目の手術だ。 担当医師が「相当なトラウマを受けている。この子の人生は暗いものになる」と語った。そうかもしれない。でもキルクークテレビ局で、地雷によって片目と右手の指を失った青年が、テレビの編集の仕事のためにコンピューターに向かっていた。同じく片手と片目を失った青年が、サッカーの選手として活躍していた。この子はまだ13歳だ。可能性は無限大。何年か先に、元気で働く姿を見たいものだ。 「この子一人を救出しても解決にはならない」かもしれない。でも「できることからはじめる」ことも事実だ。 来年3月に、またスレイマニア市を訪れる予定なので、その時、何がしかのサポートができていればいいな、と思う。1年間という長期入院が予想されている。家族は「見捨てないで」と訴えている。みなさん、どうか、小額で結構ですので、募金にご協力をお願いします。 募金のあて先: 郵便局 00970−5−222501 イラクの子どもを救う会 または 三井住友銀行 吹田支店 普通 3712329 イラクの子どもを救う会 西谷文和 まで。

イラクから無事帰国して、ホッとしたのか少し体調を崩してしまった。通常帰国してすぐに行うことは、�エビスビールを飲む、�すしを食う、�飲み物を焼酎に切り替える、�溜まっている新聞に目を通す、の順番なのだが、どうも脂っこいアラブ料理に胃をやられていたようで、この数日間はおかゆと梅干で過ごさざるを得なかった。
さて、今回の取材で撮影した映像を中心に、「イラク特集」が組まれることになった。朝日放送「ムーブ!」で、11月2日(金)午後4時半〜5時頃にかけて報道される。昨日(26日)は、25本に上る撮影テープの編集で一日を費やした。よほどの大事件、例えば福田首相の突然の辞任などがない限り、予定通り報道されるので、関西地方のみなさん、お時間許せば是非ご覧ください。

ディア君(9歳)は、2005年バグダッドで通学途中に米兵から背中を銃撃され、下半身不随になった少年だ。今年(07年)3月にシリアのダマスカス、サイダザイナブ地区でであった。サイダザイナブは、バグダッド〜ダマスカス間の長距離バスのターミナルがある町で、住民の約70%がイラク難民、「リトルバグダッド」と呼ばれている町だ。私は今回の取材でサイダザイナブを徘徊し、「ディア君探し」を試みた。以前ディア君とであった場所には別の家族が住んでいた。昨日(21日)、アンマンで、ディア君の面倒を見ている、これまたイラク難民のアルディンに聞くと、ディア君一家はイラクに帰還した、とのこと。シリアのダマスカスでは、仕事が見つからず、イラクへ帰らざるを得なかったようだ。
ディア君一家は今、バグダッドの西方、ラマーディーという激戦地に暮らしている。ファルージャ、ラマーディーといえば、かつてはアメリカ軍と激しいバトルを繰り返していたところであるが、最近は若干安定しているというので、少しは安心だ。
今回の旅の目的の一つに「ディア君のその後」というテーマがあったが、ラマーディーを訪れることは不可能だ。で、それはあきらめることにした。
私は来年の3月に、またダマスカスとイラクを訪れようと思う。おそらく来年の3月になっても、日本人はラマーディーには入れないだろう。しかしこの活動を続けていれば、きっとディア君と再会できる日が来ると信じる。その時ディア君が車椅子から立ち上がって歩けていればいいのだが。

ということで、今回の旅も最終日を迎えた。この原稿は22日夜、ドーハの空港で書いている。今から関空行きの飛行機に乗り、明日は大阪だ。カタールは飲酒に厳しい国で、持ち込んだウィスキーを隠しながら、出発時間を気にしながらの原稿なので、少し支離滅裂になっているかもしれない。
ネットを見ていると、亀田親子がどうした、花田美恵子さんがどうなった(苦笑)、というニュースがトップである。しかし本日もバグダッドのサドルシティーで49人が米軍に殺され、トルコはクルドに侵攻しようとしている。私の任務は大きいのかもしれない。

18日、19日は激戦地のトゥーズフルマートゥー(以下トゥーズと略)への1泊2日取材を敢行した。ムラート君がどこで自爆テロに遭ったのか、家族はどうしているのか、一緒に遊んでいた従兄弟たちの具合はどうなのか、その他のテロや銃撃戦の様子などを取材しようと思えば、一日では足りない。
護衛2人をつけてスレイマニア市を出る。通訳はヌルディン。先のブログで紹介したように、彼は18歳のときにフセインの軍隊に逮捕され、1年間を刑務所で過ごし、その後イラン・イラク戦争が始まり、イラン側について蜂起。やがて化学兵器を使われ、死屍累々の町を後に山に逃げ込み、ペシャマルガ(PUKの兵士)になって、1991年独立を勝ち取った。とりわけ湾岸戦争後91年のフセイン軍との戦いは熾烈を極め、彼の生活はほとんど全て山の中。攻め上ってくるフセインの軍隊を山の上から撃退したという。
肝の据わっているヌルディンは、「ジャーナリストは少々危険を犯しても現場へ入るべきだ」と言う。「ベリーデンジャラス(危ない)」を繰り返すファラドーンとは対照的。
スレイマニア市からトゥーズに行くには二通りのコースがあって、一つは「キルクーク突破コース」。これは戦争前までは最も一般的なルートで、約3時間で着く。しかし途中のキルクークが非常に危険なので、避けたほうが良い。私たちはもう一つの「山越え迂回コース」を選んだ。クルディスタンはその土地のほとんどが険しい山々。いくつかの峠を越え、山間の村を通過し、到着したのがラズカリーという町。すでに夜の帳が下りているので、ラズカリーの警察庁舎に宿泊。ここの警察署長さんがヌルディンの友人で、私たちは無料で宿泊させてもらった上に、庭でバーベキューとクルドの民族ダンスを楽しんだ。
翌朝8時、ラズカリーからトゥーズをめざす。警察署長さんは「護衛が足らない」と、7人ものPUK兵士を追加で同行させてくれることになった。その内の一人は機関銃を持っている。「過剰警備だ」とヌルディンが笑う。「これだけの警備があればバグダッドにも行けるぜ」。
私たちのランドクルーザーの前を、7人の兵士を乗せたトラックが走る。荒涼とした大地の中を一本の道が地平線に向かって伸びている。先行するトラックはその道の真ん中を走る。対向車線からやってくる車は、トラックを見て、路肩に避ける。なぜ私たちは道の真ん中を走るのかというと、それは「路肩爆弾」なのである。この一本道では、路肩に仕掛けられた爆弾をテロリストが携帯電話を使用して爆発させ、警察官や国防軍を殺害している。「仕掛け爆弾国道」と呼んでもよい道だったのだ。道のあちこちに大きな穴が開いているが、それは仕掛け爆弾の爆発跡だったのだ。
午前10時トゥーズに到着。トゥーズのPUKはコンクリートの壁に囲まれている。自爆テロ車が突っ込むので、壁を作って防御している。
10月12日のお祭り初日に起こった自爆テロ現場へ。現場は普通の商店街だった。電気屋さんの前で爆発したようだ。シャッターが壊れ、店内に電気製品が散らばっている。ムラート君はこの商店街で遊んでいたのだ。
この爆発での死者は4人、重傷者は20人。現場の対面が人家なので、そこを訪ねる。家の中に犠牲者が横たわっている。全身大やけど。顔面には白い粉が塗られ、両手の皮膚はただれ落ち、両足には白い包帯が巻かれている。彼はこの家族の父親で、中学校の数学の先生だ。息子も顔面にやけどを負っている。祭りの初日なので、買い物をしている時にやられたという。
私たちが取材をしていると、「俺の息子もやられたんだ」「私の夫も」…。とあちこちから「家に来い」「状況を見てくれ」と声がかかる。一人の自爆によって、たくさんの不幸が引き起こされている。
ムラート君の実家にはお母さんが帰ってきていた。彼は8人きょうだいの末っ子で、父親は早くに亡くなっていた。英語が上手な姉が「日本のみなさん、本当にありがとうございます。でもムラートを治療するには、まだまだ援助が足りません。どうか私たちを見捨てないでください」と訴えた。
犠牲者たちの家族を一軒一軒訪ね歩いたので遅くなってしまった。最後にトゥーズ市長に自宅まで招待される。市長は「私の町に来た日本人はあなた方が初めてだ。トゥーズの町には石油がある。カナダなどの石油会社が、すでにトゥーズに来て営業を開始している。どうして日本の企業はこの町に来てくれないんだ」と、日本への期待を口にする。
このあたりは少し掘れば石油が出てくる地域らしい。トゥーズには米軍基地がある。石油のあるところに基地が建設されている。
予想以上に時間を取ったため、夜になってしまった。インシャアッラー(神にかけて)、私の任務は日本に無事帰って、この事実を伝えることだ。さぁスレイマニアまであの山道を突っ走るのだ。

18、19日は激戦地トゥーズフルマートゥー(以下トゥーズと略)取材を敢行していたので、またまたブログを更新できなかった。「今度こそ拉致されたのと違うか(笑)」と心配をおかけしたかもしれないが、無事スレイマニアに帰還したので、この原稿を書いている。本日(20日)がスレイマニアで、明日アンマンに飛び、その足でダマスカスに行きディア君(米軍の銃撃によって下半身不随になった少年)と面会し、22日の昼にアンマンに戻り、23日は大阪に帰る予定。つまりもう危険な場所には行かないわけで、これからの3日間は「温泉気分(笑)」で取材できる。それで、今回は17日に敢行したキルクーク取材の模様。

17日午前6時、通訳のファラドーンの車でキルクークをめざす。13日にキルクーク病院を訪れた際、自爆テロで片目を失い、胸に鉄の破片が突き刺さり危篤になった少年、ムラート君(13歳)に出会った。彼はキルクーク〜バグダッドを結ぶ国道の途中、トゥーズの出身。

ラマダン明けの12日は、フィトロ祭りの初日。少年たちは祭りでごった返すトゥーズの市場で遊んでいた。午前8時半、手押し車に穀物を載せた男が市場に入ってきた。誰もが行商の男と考えた。彼は実はアルカイダだった。その手押し車の中には強力な爆弾が隠されていたのだ。やがて…。
気がついたときは、あたりは血の海だった。あちこちに犠牲者の腕や、足、頭などの肉片が飛び散っている。叔父さんたちがやって来て、キルクークの病院まで運ばれた。病院で生死の境をさまよっている時、なんと日本人が病院にやって来た。こんなところまで日本人がやってくるなんて!母が泣きながら、叔父さんたちは不慣れな英語で精一杯「この子を助けてやってくれ」と訴えていた。やがて僕はまた、意識を失っていった…。

キルクーク病院には薬がなく、技術のある医者もいないため、このまま放置すればこの少年は死んでしまう。私にも同年代の息子が2人いるし、苦しそうに「アー、アー」とかすれ声をあげているムラート君の姿が脳裏から離れなかった。そこで柄にもなく(笑)「ムラート君救出作戦」を敢行した。スレイマニア大学病院の医師に受け入れを頼み、承諾を得て、キルクーク病院からスレイマニア大学病院絵へ搬送することにしたのだ。
スレイマニアからキルクークまでは約2時間。途中5か所の検問があって、最後の検問を越えてから病院までが危険な道のり。13日にキルクークを訪れたちょうどその時、警察署に自爆テロが突っ込み、警察署長が殺されたばかり。最後の検問の手前で、「今日、17日はフィトロ祭明けで仕事始めの日だ。テロリストは仕事に向かう警察官や病院関係者を狙う可能性がある。今日は普段より危険度が増している。お前たちはあの検問所で待っていて、俺たちだけで搬送してこようか?」とファラドーンの提案。いつもながら、最後の大事なときに「脅しに似た忠告」を言うのがファラドーンの特徴。
少々危険かもしれないが、少年を救急車に乗せて運ぶ場面から撮影しなければならない。病院までの道のりをハイスピードで走り抜けることにした。
無事キルクーク病院に到着。駆け足で受付を通り、病棟へ。3階へ上る。廊下にべっとりと血がこびりついている。昨晩テロリストに銃撃された患者が、本日朝7時に息を引き取ったという。その血が病室から廊下に流れ出しているのだ。
4日ぶりにムラート君と再会。彼の状況は若干持ち直しているが、依然として危険な状態。早く胸に突き刺さった鉄の破片を取り除かないと、彼の命は危うい。
午前9時、ようやく救急車が到着。「ヤッラ、ヤッラ(早く早く)」、親族たちがストレッチャーにムラート君を乗せて、救急車に。
ここで同行の吉田君が、救急車に同乗し、彼と母親を撮影。私はファラドーンの車で救急車を追いかける。
病院を出る。通行人が叫ぶ「日本人だ!日本人が乗っているぞ!」。日本人が珍しいので、ただそれだけで「ヤーバニー(日本人)」と叫んだだけかもしれない。しかし彼がテロリストの仲間で、携帯で連絡するかもしれない。
ファラドーンはアクセルを一杯に踏んで、猛スピードで走り出す。5分、10分…。検問所が見えてきた。無事検問を通過。私たちの車に続いて救急車も無事通過。思わず笑みがこぼれる。
スレイマニア大学病院で、医師二人にあいさつ。一人が胸の手術、もう一人は右目の手術を受け持ってくれる。日本からの支援金50万円をムラート君の家族に手渡す。
おそらくこれでも足らない。医師によると、少なくとも1年間は入院し、治療を続けないといけない。
日本に帰ったら、募金の訴えを強化しようと思う。

ご存知の方はご存知だと思うが(当たり前だ)、トルコとクルドは長年敵対関係にあり、トルコ政府はクルド人の存在すら認めず、クルド人を「山岳トルコ人」「トルコ語を忘れたトルコ人」と呼び、差別してきた。PKKはそのトルコからの独立をめざして闘っている長年の仇敵である。たまにイスタンブールなどで自爆テロがあるが、ほとんどはPKKの犯行である。今回の空爆、表向きの理由は、頻発するPKKのテロ行為に対する制裁である。しかしPKKのテロは今に始まったことではなく、さらにトルコ領内ではなくイラクにまで侵犯し、空爆を繰り返すのは「異常事態」だ。もし民間人に死傷者が出たら、「自衛」ではなく明らかな侵略行為となり、トルコは窮地に立たされる。おそらくトルコ軍は「人に当たらないように」空爆している。
つまり空爆は「アメリカに対するけん制」ではないか。アメリカはイラクの泥沼にはまり込み、今やイラク領内のクルド人政府だけがパートナーのような状態。治安の安定したクルド地域だけ投資が進み、先日も石油会社とクルド政府が油田開発で先行契約を結び、スンニ、シーア、トルコマンなど、その他の諸派閥を激怒させたばかり。
この状態はトルコのみならず、シリア、イランにとっても望ましくない。なぜか?
もしこのままイラクのクルドが事実上の独立を勝ち取り、石油利権、イラク復興利権をはじめとする莫大な権力を手にすれば、当然その「勝利」は、トルコ、シリア、イランのクルド人たちに伝染し、「独立をめざす戦い」に火がついてしまう。今までなら多少クルドを弾圧しても、国際社会(西側)は黙っていたが、イラク戦争後は状況が一変している。アメリカがクルドの後ろ盾なのだ。
一方トルコ政府はというと、イラク戦争に関連した米軍の軍事物資の内、70%近くをトルコ基地経由で運んでいるのをはじめ、必死で西側に協力してきた。キリスト教が主体であるEU諸国に配慮し、トルコ政府は極力「イスラム色」をなくして、EU加盟を目指してきたのだ。今までの努力は一体なんだったのか?
そこにトルコを激怒させる「事件」が起こった。10月10日にアメリカの下院で「オスマントルコによるアルメニア人虐殺非難決議」が通ってしまったのだ。アルメニア人虐殺に関しては、トルコではタブーと言うべき問題で、いまさら、そしてなぜこのタイミングでアメリカがこんな決議を出してきたのか?トルコから見れば明らかな「挑発行為」なのである。実はアルメニア人虐殺はオスマントルコ政府が行ったもので、今のトルコ政府の犯罪ではない。もっと言えば、第一次世界大戦でイギリスはオスマントルコを解体するために、「アラビアのロレンス」こと考古学者のロレンスを使ってアラブ人を組織、北からはイギリス軍が、南からはアラブ軍がオスマンットルコを攻め立てて、大戦に勝利した。大戦後トルコは分割され、事実上英仏の植民地状態に。その中で立ち上がったのがトルコ建国の父、ケマル・アタチェルク。現在のトルコ共和国成立の歴史からいっても、アメリカの「アルメニア人虐殺決議」は無視しておいても良かった。しかし事態は逆に動き、トルコは駐米アメリカ大使を召還し、国務大臣の訪米も急きょ取りやめた。つまりトルコはまんまと「アメリカの挑発に乗ってしまった」のである。
事態は戦争へ戦争へと動いている。PKKはもちろん、トルコにとってもアメリカにとっても戦争によって得るものは少なく、失うものは大きい。なぜそこまで突っ張るのか?
「これでまた戦争ができる」とにんまりしている武器商人にとってはメリットがある。さらにこの動きにつられて原油価格が急上昇している。「虐殺決議」を仕掛けた裏には、やはり「石油価格の操作」によって大儲けをたくらむグループがあるのではないか?
このまま原油高が続けば、間違いなく巨額のオイルダラーが転がり込む。誰に?湾岸の産油国?メジャー?ヘッジファンド?それとも…。
何はともあれ、今のところ死者がでていないのが不幸中の幸い。今は「小競り合い」程度で済んでいるが、これ以上空爆が続くと、やがて大きな戦争につながりかねない。それにしても不幸なのは、狙われているPKKではなく、一般市民であるということだ。

当初の予定を変更して、イラク〜トルコ国境の取材に出ていたので、ブログを更新できなかった。「あいつ、捕まったのと違うか」(笑)などとご心配をかけたかもしれない。無事スレイマニア市に帰還し、この原稿を書いている。

日本ではどれだけ報道されているか分からないが、実はトルコVSクルドの関係が、非常に緊迫している。というか、戦闘状態に入っている。本日(18日)の報道によると、トルコ議会は、イラク領内に越境し、PKK(クルド労働党)への軍事作戦を展開することに、同意したようだ。下手をすれば全面戦争になり、イラクはバグダッドを中心とする中南部で内戦、そして北部クルド地域ではトルコとの戦争という、「全土戦闘状態」になりかねない。
以下は、15、16両日に国境の村を取材したときのルポ。

スレイマニア市から車を飛ばすこと10時間、山また山の「クルディスタン(クルドの土地)」を走りぬけ、目的のイニシケ村に到着。到着時点ですでに夜12時を越えている。夜間に車内で宿泊するのは危険なため、急きょ安宿に宿泊。私と同行の吉田君、ドライバーと通訳、そして護衛2人、6人チームがオンボロ部屋で雑魚寝。
夜明けを待って取材開始。村人の証言によると、13日夜(一昨日だ!)イニシケ村の背後にそびえる山々からトルコ空軍機がやって来て、12発のミサイルを撃ってきたとのこと。インタビューをしていると、村の子どもたちがわんさか寄ってくる。小学校高学年くらいの子どもが「僕、ミサイルの破片を持っているよ」。彼が手にしているのは、レンガ大くらいのミサイルの破片。空爆の翌朝、ミサイル着弾地点から拾ってきたのだ。「着弾点を案内する」というので、山を登ること10数分、山腹に直径1メートルほどの穴が開いており、その周囲が火事になったらしく、木々が黒焦げに立ち枯れている。
昨日イギリスのBBCがやって来て、穴の中の破片を持って帰ったらしい。この場所は本日(16日)夜のCNNでも報道されていた。BBCには先着を許したが、CNNには勝利したのだ(だからといって何もないが)。
空爆は断続的に行われており、今後しばらく続くだろう。幸いにして今のところ犠牲者は出ていないが、「羊がビックリして逃げてしまった」「山火事で草が焼け、放牧できない」「これ以上続くと恐ろしくて村に住めない」など、村人たちは不満と不安を口にした。
この地域を担当するPUK(クルド愛国者党)の幹部は、「攻撃されている村にはPKKはいない。全て普通の市民だ。なぜトルコは一般市民を標的にするのか」と、トルコ軍への不満を口にした。彼はさらに「俺たちは今後も国境を警備する。しかしトルコ領内に侵入し、反撃したりはしない。トルコ政府のエライやつに現場を見に来てほしいよ。この地域にはPKKはいないんだ」。
インタビューの最後、「俺たちは戦車もミサイルもない。日本政府は俺たちに戦闘機や戦車をプレゼントしてくれないかなぁ」とも。おいおい、それは「反撃する」ということやないか!とツッコミを入れたかったが、怖かったので黙って聞いておいた。
イニシケ村周辺は、実はリゾート地なのである。村から車で1時間も走ると、キャンプ場があり、人々はピクニックを楽しんでいる。隣でミサイルが撃ちこまれているのに、のどかな光景。同行の通訳ヌルディンは、「俺たちクルド人はずっと戦争をしている。イラン、イラク戦争、湾岸戦争後のフセインとの壮絶な戦い、そして2003年からのイラク戦争(クルドはアメリカ側について闘った)…、人々は戦争に慣れきっているし、ミサイルが飛んできてもそれほど驚かないよ。みんな『逃げ方』を知っているのさ」と笑う。
日本なら間違いなくパニックになり、みんな総出で逃げ出すところなのだが…。

以上は、16日に書いた原稿。明日は「なぜトルコがイラク領内に侵入してまで空爆をしているのか」について考察してみたい。

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