取材レポート: 2007年2月アーカイブ

本日はイラク・スレイマニアがん病院へ持参する薬の調達。大阪の保険医協会で作成していただいたリストに基づき、必要性と緊急性の高い薬から選んでいく。しかしここで難問が発生。今回は飛行機で運ぶので、総重量と、箱の数に制限があるのだ。イラク航空会社で、何キロまで、何箱までOKかを確認してから、その総重量と箱数にあわせて調達することにする。
2年前にも同じように薬を送ったので、アンマン・ダウンタウンの薬局の親父は、私のことを覚えていた。「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」とあいさつした後、この主人と雑談。「2年前はトラックで輸送できたのにな」「そうだ。バグダッドの状況が最悪で、トラック輸送も狙われる」「予算に合わせて、重量と箱数を調整するよ」「あなたは、薬学をどこで学んだの?」「バグダッド大学だよ。だからバグダッドの様子をテレビで見て、大変心を痛めている」。
この主人はヨルダン人であるが、1981年から86年までバグダッド大学で学んだ。当時アンマンには薬学を学ぶ大学がなく、バグダッド大学に留学していたらしい。「あの頃のバグダッドは良かったぜ、学費は無料。物価は安く、治安も良くて、毎晩2時頃まで飲んでいたね」。
イラン・イラク戦争中だったが、バグダッドはまったく平穏だったという。フセイン政権は「アラブ人なら学費は無料」という政策で、病院その他も無料で過ごしやすかったとのこと。その頃は誰も自分がスンニ派、シーア派などと意識もせず、同じ「アラブ人」として暮らしていたそうだ。
最も彼はスンニ派なので、そのあたりは優遇されていたのかもしれない。しかし今のような互いに殺しあう内戦状態でなかったのは確かで、フセインという重しを取り除いたために、最悪の事態を招いた点について、アメリカの責任を厳しく追及していた。
「今のイラクを治めようと思えば、フセインがあと10人は必要だな。それほど混乱しているよ。とにかく子どもがたくさん死んでいる。無事に薬を届けてくれ」。
フセインは独裁者であった。多くのシーア派、クルド人を虐殺もした。だからフセイン政権が良かったなどとは、私は思わない。しかし独裁政権であっても、外部から無理やり戦争を仕掛けて、フセインを倒すような乱暴なことをすると、現在のイラクのような内戦になってしまう。「アメリカ型の民主主義」を押し付けてはダメなのだ。
おそらくフセイン政権を打倒するか、その政権の中で徐々に民主的改革を進めるか、そういった類のことは、イラク人自身が決めることであって、アメリカが決めることではない。
同じことが、イランにも、北朝鮮にも言える。
明日までに、薬の量を決めなければならない。薬は木曜日に調達完了予定だ。アオギリと薬、そして希望を届けて、「日本人もなかなかやるやん」ということになれば一番いいのだが・・・。

2月25日(日)いよいよ6回目のイラクへの旅が始まった。午後11時のフライトに、TBSのカメラが回る。今回は「危険なイラクに行くちょっと変わったおっさん」(笑)特集をするとのことで、この3日間は、カメラがずっとついて回っていたのだ。
いつもながらの退屈な空の旅。11時間のフライトでUAEのドバイ着。同行の吉田君はあまり眠れなかった様子。
2時間待って、ドバイからアンマンへ。日本人の団体旅行客がいたので、「アンマンに行かれるのは珍しいですね」と尋ねると、ヨルダンのペトラ遺跡を観光するとのこと。ペトラ遺跡は世界7不思議の一つに指定されたとのことで、観光客が増えているのだ。
午前9時半(現地時間)アンマン着。懸念していた「被爆アオギリ」は、無事税関を通過して、今、私の手元で元気にしている。
この「被爆アオギリ」は、広島市長からいただいたもの。原爆にも負けずに生き残り、「被爆2世アオギリ」を産み続けているアオギリの苗木を、イラクに植えようというプロジェクトである。
順調に行けば、「イラクの広島」と言われているハラブジャに植えて、そこが日本とイラクを結ぶ平和公園になる予定だ。
今回日本からいただいた募金を、薬に変えるべく医療機関へ連絡。3日後(木曜日)には薬が準備され、イラクへ届く手はずだ。現地スレイマニアの病院では、「日本から薬が届く」という一方が入り、みなさん大喜びしているとのこと。この期待を裏切らないよう、無事に薬を届けなければならない。
この場をお借りして、大阪の医療人ネット、「こども基金」、イラクの子どもを救う会に募金された多くの皆さんに、お礼を申し上げたい。
ここアンマンは先日まで雪が降り、嵐にもなるという悪天候。日本より寒いと思われる日もあれば、気温20度まで上がるぽかぽか陽気になる日もあり、体調管理に気を使う。
本日は長旅で大変疲れたので、ブログはこのあたりで終了。現地のニュースでは、「自爆テロで35人が死んだ」「大学で爆発があり、教授や学生たちが棺を運んだ」などのニュースであふれている。何で日本でこの種のニュースが流れないのか、あらためて、「報道とは何か」を考えながら、日本から持参した焼酎を飲みながら、時差6時間のアンマンの夜は更けていく・・・

今回のイラク行きに際して、私は広島市長からいただいた「被爆アオギリ」の苗木を持っていこうと思う。原爆を受けた被爆アオギリは、もう枯れてしまったと思われていたが、見事に芽を吹き出し花を咲かせた。現在は平和記念公園に植樹され、アオギリの前に設置されたボタンを押すと、アオギリの歌が聞こえてくる仕組みとなっている。以下は、アオギリと被爆者沼田鈴子さんについて書いたもの。原稿中、沼田静子となってしまっている。沼田さんごめんなさい。鈴子さんである。今年も8月6日にアオギリサミットが広島平和公園で行われる予定なので、出席したいと思っている。


みなさんは「被爆アオギリ」の名前を耳にしたことがあるだろうか?広島逓信局の運動場に茂っていた4本のアオギリは、原爆の熱線と爆風で、枯れ木になってしまったと思われていたのだが、その内の3本が数年後、芽を吹いて、生き返ったのだ。1973年にアオギリは逓信局から平和公園に移され、今日も広島を訪れる人々に、「生き続けることの大事さ」を教えている。
沼田鈴子さんは、修学旅行で広島を訪れる子どもたちに、そのアオギリの下で自らの被爆体験を語り続けてきた。私が追いかけているのは、イラクで使用された劣化ウラン弾の被害だ。61年前の原爆と、4年前の劣化ウラン弾。決して風化させてはいけない現実をご紹介したい。

1945年8月6日、広島逓信局で働いていた沼田さん、朝の掃除をしようと思い、バケツを手に、水を汲むため階段を下りて踊り場に到達した瞬間だった。キレイな色、赤なのか青なのか・・・。この世のものとは思えない光が差し込んだ。次の瞬間沼田さんは、爆風に吹き飛ばされ、気絶する・・・。
「誰かいないかー、っていう声が聞こえたんですよ。『助けて!、助けて』と、声のするほうに訴えました。2人の男の人が私の身体に覆いかぶさっている瓦礫をのけて、助け出してくれました。背中に負われた私の足首がブランブランとしているのを見て、父は『誰か娘を手当てしてやってくれ!』と叫んでいました」
広島逓信局の4階で被爆した沼田さんは、建物の下敷きになって、左足首を失ってしまう。畳に載せられ、1階まで。そこには、原爆で大怪我をした人々が集められ、まさに生き地獄であった。
「気絶している間に誰かが血止めをしてくれたんでしょうね。とにかく一命を取り留めました。でも重傷者ばかりでしょ。1人の医師で何十人と診察しなければならない。それで足首が取れたまま、私は3日間放ったらかしにされたんですね。すると、だんだん足が腐っていくんです。死が迫ってきて、『左足全部を切断したら、命は助かる』と言われました。当時、私には婚約者がいて、足をきられてしまえば結婚できないと思ったんです。それで『切らないで!』と叫びました。医師は『あんただけやない。多くの人が生きるか死ぬかの瀬戸際なんやで』と言いました。重病者は畳に寝かされていて、隣のお母さんは3歳の息子を左手で抱きかかえていました。私のように爆風で飛ばされたのか、右手はなく、その切れた腕の先からは蛆虫がわいていました。多くの人が気が狂ったような声を出して死んでいきました。『足を切れば生き残れるかもしれない』と思って、『では切ってください』とようやく決断しました」。
切断手術は8月10日早朝。電気がないので夜明けを待ってから、麻酔なしの手術だった。大きな悲鳴を上げて、また気絶した沼田さん。婚約者のことを考えていた。
後になって分かったことだが、その時すでに婚約者は外地で戦死していた。1944年4月に出征し、本当なら8月8日に広島に帰ってくるはずだった。8月8日〜10日、軍の命令で広島に帰ってくる、その日に結婚式を挙げる予定だった。だから沼田さんは「早く8月にならないかな」と、その日を指折り数えて待っていたのだ。
仕事の中で唯一の楽しみは、同僚女子たちと昼休みのおしゃべりだった。室内でそんなことをすれば怒られるので、昼休憩は運動場に植わっている4本のアオギリの下に集まった。
「一発の原爆でね、全てを失ったの。切断した左足の筋肉が、なかなか盛り上がらなくってね、どうしても骨が露出する。だから1年半も逓信局の一階で寝たきりでしたよ。ようやく足の切り口が良くなって、街へ出たの。そうしたら、全部消えているじゃないの。街も、私の家も。家に帰ってからも、自暴自棄になってね、何度も自殺を考えました。兄は足と胸に大やけどを負っているし、妹の顔も傷だらけでしょ。父は義足ができたぞ、松葉杖で歩く練習をしろ、などと言うけど、どうしてもそんな気になれなかったの。だけど自殺もできなかった。家族が『自殺するんじゃないか』と思って、ずっと私のそばについてくれていたんですよ」。
一家6人が被爆した沼田家。父は沼田さんを励まし、リハビリのため逓信局まで散歩しようと、誘う。
「遅々と妹に挟まれるようにして逓信局へ。運動場に行けばアオギリが焼けて、枯れ木になっているの。4本のアオギリのうち1本はまったくダメになっていて、残りの3本も、ケロイドがあって、大やけどしている。その時は『何だ、アオギリもこんなザマになったのか』と思いました」。
その後、沼田さんは、だんだん歩行練習で外へ出るようになる。ある日のこと、父がまた「逓信局へ行こう」と沼田さんを誘う。
「もう一度逓信局へ行きました。運動場でアオギリと再会。大やけどをして死んでしまった、と思われたアオギリから新芽が吹き出していたのです。その姿を見たとき『自殺はいけないんだよ、どんなことがあっても立ち上がるんだよ』とアオギリが話しかけてくれたような気がしたんです。その時私は『あー、右足!』と思いました。私にはまだ右足が残っている。友人も女学校の生徒たちも、たくさん死んでいった。でも私は生きている。生きていれば、死者の代わりに、命の大切さ、被爆の恐ろしさを、伝えていくことができる。
爆風で吹き飛ばされたあの時、もし両足に瓦礫が乗っかっていたら、私は右足も失っていた。でも私は命も右足も残ったじゃないか、と。
 被爆アオギリに、生きることの大切さを教えてもらった沼田さんは、それから原爆の語り部という仕事を始める。
「妹はね、乳がんになって20歳で両胸を取り除いたの。左手もふくれ上がってしまってね。放射能って恐ろしいよ。イラクの劣化ウラン弾も一緒でしょ。そうですか、アオギリをイラクへ。ありがとうございます。今、被爆アオギリはジュネーブやドミニカ、イタリアやリトアニアで植わっていますよ。イラクで育てばいいですね。原爆も劣化ウラン弾も絶対に許してはダメです。私はね、年をとって老人ホームに入っているけど、来年も平和公園のアオギリの下で、お話しようと思っているんですよ」。
私は今年、広島市役所からいただいたアオギリの苗木と、沼田さんの気持ちを、イラクに持って行こうと思う。劣化ウラン弾を多数撃ちこまれたイラク南部では、信じられないほどの子どもが、がんなどの不治の病で倒れている。「はだしのゲン」たちが、イラクで助けを求めているのだ。もちろん薬も医療器具も、何がしかの生活するお金も必要だろう。しかし、私は「生きる望み」を持って行きたい。アオギリをイラクに植樹し、そこを平和公園にするのだ。原爆にも負けなかったアオギリを見て、イラクの子ども達が、戦争にも貧困にも、そして白血病にも負けないように、しなやかに、たくましく育っていくように。

2月25日から、また中東に行くので、永らく休眠状態だったこのブログを再開します。
イラクは現在混迷の極みにあり、バグダッド在住のイサーム・ラシードによると、シーア派マフディ軍により、スンニ派の大掃討作戦が始まっているとのこと。
逆にアルカイダ系のスンニ派ゲリラもシーア派掃討作戦をしているかもしれないので、しばらくはバグダッドはもちろん、比較的安全とされていたサマワでさえも、非常に危険な最悪状態が続くだろう。
とりあえずアンマンで様子を見ることになるだろうが、アンマンはイラクから逃げてきた人々で一杯だろう。
アンマンではネットカフェがあるので、随時、発信していくので、閲覧よろしく。
また、現在DVD「戦争あかん2」を製作中。気合いを込めて作ってます。

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