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いよいよ本日深夜便で中東に出発する。3月4日にダマスカスに着けばすぐに、政府情報省に出向いて、10数名となる日本人旅行者の受け入れ態勢を確保する予定だ。

シリアはイランとともに米国から圧力を受けているので、私たち「西側の旅人」を警戒するのかな、と思っていたのだが、実態は逆で、「見せてくれるところは見せてくれる」ようだ。半年ほど前、イスラエルがシリアの原子力施設を空爆した様子だが、そうしたところは見せてくれないだろう。

イラク難民が通う小学校や、戦争被害者が入院する病院、バグダッドへのバスターミナル、UNHCRなどを訪問できるように調整したい。「悪の枢軸」シリアが、一番多く難民を受け入れ、大金持ちのサウジやクウェートなどはほとんど受け入れない。そのあたりを政府も宣伝したいのかもしれない。
ダマスカスには、友人でジャーナリストのイサーム・ラシードの甥っ子が、私を迎えてくれる。アナス・ラシードという。彼からも最新のバグダッドの状況が聞けると思う。

4日~6日までをダマスカスで過ごし、7日にはアンマンへ。アンマンは私にとってホームグラウンドのようなもので、町の様子はよくわかっているつもりだが、05年のイラク人による連続自爆テロ後、アンマン在住のイラク難民は追い出されてしまったので、果たして現状はどうだろうか…。

通訳のハーミドによると、いまだに難民はアンマンで生活しているそうだ。アンマンでは、パレスティナ難民キャンプも訪問する。実はヨルダンは純粋のヨルダン人よりも、パレスティナ人の方が多い。長年の戦闘で、流入人口がオリジナルを上回った、世界でも珍しい国である。
「パレスティナ難民キャンプ」と聞くと、テントが林立し、国連の旗がはためくイメージであるが、実際の難民キャンプは、普通の「ごみごみした下町」という感じ。1967年第三次中東戦争で逃げてきた当初はテント。やがてそのテントが仮設住宅になり、それが石造りのアパートに変わり、商店街ができて、学校ができた。10数名の旅行者とともに、そんな中東の歴史を実感できる旅になればいいなと思う。

関空からドバイへの便は、深夜11時過ぎに飛び立つ。見送りに来る家族は私を心配し、私は妻の下手くそな運転で自宅まで帰る家族を心配する。関空がもう少し近くにあり、ドバイへの便がもう少し早く飛べばいいのだが、関西から飛んでくれるだけでも良しとせねばならないのだろうか。

戦災孤児に学用品1.JPG 私は03年11月から今まで通算5回イラク入りをしているが、その際たくさんのイラク人と知り合った。通訳として、あるいは取材パートナーとして行動をともにしてくれた、いわば「戦友」のような彼らであるが、その中の一人、イサーム・ラシードから心温まる写真が届いた。彼は米軍に捕まって拷問を受けたり、民兵に銃撃されたりしながらも、バグダッドから逃げずにジャーナリスト活動を続けている。

そんな彼が、昨年日本から送金した募金で、毛布と子どもたちの学用品を買って、それを戦争孤児や未亡人たちに配ってくれたのだ。ノートや鉛筆などが入っているビニール袋には「まいどおおきに」と書かれていて、粋な計らいを感じさせる。イラクでは治安悪化のために、子どもたちが安心して学校に通うことのできない状態が続いている。フセイン時代の教科書では教えられないため、新たな教科書が必要だが、援助体制がないので、子どもたちは手書き、またはコピーの教科書で勉強している。

戦争でインフラが破壊されたため、電気は一日1~2時間しか通電せず、きれいな飲み水が不足し、家を失った人が約120万人を越えるといわれるイラクにおいて、「この冬を越せるか」というのが重大テーマである。地球温暖化現象は、「夏は異常に暑く、期間は短いが冬はかなり寒くなる」ようで、先日バグダッドで100年ぶりに雪が降った。
つまり毛布の需要が高まっており、学用品とあわせてタイムリーな支援になったと思う。

悲惨な結果をもたらしたイラク戦争から、もう5年が経過しようとしている。私は開戦記念日にあたる今年の3月20日には、イラク国内に入って、取材をしようと考えている。
最近はイラク戦争について、ほとんど報道されなくなってしまったが、実際の戦争は今日も続いており、アメリカの空爆やアルカイダのテロ、スンニ派・シーア派の内戦などで、罪なき人々が殺され続けている。
先の国会では海自について「インド洋で給油を続けるかどうか」ばかりが議論されていたが、その陰に隠れて「空自がクウェートからバグダッド空港まで、人員・物資を輸送している」ことについてはほとんど触れられなかった。空自が運んでいるのは、ほぼ間違いなく米兵と武器弾薬であろう。

ンド洋での活動は「無料の洋上ガソリンスタンド」と揶揄されたが、実は日本は「無料の米兵専用タクシー」を続けているのだ。米兵を戦闘地域に送り続けることは、明らかな「戦争協力行為」である。憲法に違反していると思われるこうした自衛隊の行動を、イラク人たちはどんな思いで見つめているのだろうか。イラクやアフガンで、今必要なことはアメリカへの軍事支援ではなく、病院や学校への人道支援だろう。現地の人々に密着し、生の声を拾ってきたいと思う。

「なぜ市役所を辞めて、この道に進もうと思ったのですか?」とよく尋ねられる。様々な思いがあるので、「これだ!」という理由を一言で述べるのは難しい。

もともとジャーナリストという仕事に興味があった。高校時代、カンボジアのポルポト政権が崩壊した。あの頃は受験戦争真っ只中で、あまりニュースなどは見ていなかった。たまたま訪れた本屋に一冊の写真集が平積みされていた。それは「この目で見たカンボジア」。

恥ずかしながら、その時までカンボジアという国の正確な位置さえ知らなかった。カンボジア内戦が、ベトナム戦争によるものだということも後から学んだ。そんな知識はなかったが、一枚一枚の写真が胸に響いた。ほとんどが死体の写真だったのだ。

「どうしてこれだけの人を殺せたのか?」「ポルポトという人はどんな人物なのか?」「なぜこんな大虐殺を国際社会は止めることができなかったのか?」…。
写真が衝撃的だったことと同時に、この写真を撮影した中村梧郎という人に興味を持った。中村さんという人がいたからこそ、事実を知ることができたのだ。
しかし高校の日常生活の中では、このようなことは話題にすら上らなかった。迫り来る「共通一次試験」(私はその一期目です)の対策に、先生も生徒も追われていた。

立命館大学理工学部に入学した。1年生で学生自治会の執行委員になった。高校時代、生徒会活動をバカにしていたが、大学ではその中心に座ることになった。それはカンボジアの事実を通じて、私が社会的に成長していたからだと思う。
自治会の先輩に「この本を読め」「あの映画を観に行こう」などと、いろんな面で教えていただいた。学費値上げ反対闘争に取り組み、何日も大学に泊り込んだこともあった。当時学費は年間22万円。それが今や140万円とのこと。隔世の感がある。

「世の中のことを知るには、経済学を学ばねばならない」と感じ、翌年、大阪市立大学経済学部に入学。大学は中核派や革マル派が多く、大学祭の運営方法などをめぐって対立した。今大阪市大にはヘルメット学生など全くいなくなり、派手な立て看板も姿を消した。
私も下手なりによく立て看板を書いたものだが、「市大の名物」がなくなって少し寂しい。

この頃朝日新聞の本多勝一さんを知った。ベトナム戦争のルポ「戦場の村」や旧日本軍の犯罪を暴く「中国への旅」などを読んで、新聞記者になりたいと思った。
試験に落ちたので、新聞記者にはなれずに公務員になった。結果的には、「公務員になったことが正解」だった。就職してすぐに労組の役員を引き受けた。毎日交代で労組のニュースを出す。「日刊ニュース」と呼んでいて、月から土まで毎日出す、という体育会系のノリで、無理やり発行した。1991年から2004年まで13年間、私は「宣伝担当」として、機関紙、雑誌などを発行し続けた。

1993年、大阪の機関紙協会という団体が「カンボジア取材ツアー」を募集した。PKOで初めて自衛隊が海外派兵された。その現場を取材するという旅だ。ポルポト派がまだ残存していて、中田青年が殺されたのは、ツアーの一週間後のこと。
応募したのは私を含め4名だった。

プノンペン空港に降り立った時、私たちは「片足の人々の群れ」に取り囲まれた。シャツやカメラを引っ張り、「金をくれ」とせがまれる。一人に渡すとパニックになると思い、ひたすら「ノー、ノー」と言いながら脱出した。「片足の人々」は地雷被害者だった。
カンボジア内戦取材、地雷被害者の取材などを行ったが、言葉が通じず歯がゆかった。あれほど苦しんだ受験英語は一体なんだったのか…。

帰国後、英語の勉強を始めた。「駅前留学」などでは「身によくつかない」と思っていたので、ひたすら自習。NHKのラジオ講座が役に立った。ウォークマンに録音して毎日聞いた。この英語学習は今も続いている。
下手くそな英語だが、毎日聞くうちに、「自分の実力がどこまで通じるか」を試したくなる。95年に南ア、ジンバブエ、タンザニアの一人旅を敢行した。アパルトヘイトで苦しむ黒人の家にホームスティし、酒をあおりながら語り合った。私と同年代の青年が、黒人差別反対で立ち上がり、マンデラ大統領と同じ刑務所の独房に入れられていた。「地球から理不尽な差別をなくさねばならない」と抱き合い、泣きながら酒を飲んだのが、今では楽しい思い出である。

その後、ボスニア、カンボジア、タイ~ミャンマー国境の山岳民族、コソボと、海外取材は発展し、そして9・11事件が起こった。
9・11後はアフガン、そしてイラクである。とりわけイラクで出会った劣化ウラン弾の被害者、クラスター爆弾の被害者の姿が、帰国後も頭から離れず、何とかしなければならないと感じ、2003年12月に「イラクの子どもを救う会」を立ち上げた。

こうして振り返ってみると、やはり原点はカンボジアなのだろうと思う。戦争が人を狂気にし、平時では考えられない虐殺を引き起こしてしまう。私が撮影する映像や写真は戦争の一部を切り取ったものに過ぎない。いわば戦争という大きな象を触って、「鼻が長い」「いや、足が太い」など、一部を語っているだけである。しかし全然語らないよりましだ。ベトナム戦争、カンボジア内戦では、多くのカメラマン、記者が現地入りして、素晴らしいレポートを発信した。しかしイラクではその数は激減し、今や話題にさえ上らなくなった。戦争は今日も続いているのに…。

ジャーナリストに転身したことを決して後悔はしていない。(ボーナス時期などは「しまった」と思うことあるが)毎日が勝負。情報収集に手を抜いたり、語学の学習をサボったりすると、それは手痛い失敗につながってしまう。今は来る3月のツアーとイラク入りを、何とか成功させて、一人でも多くの人が、「戦争の一部」を切り取って帰国し、地域で、職場で、平和や憲法、命の大切さを語ってほしいと考えている。

mainiti tizu.JPG私はかつて吹田市役所で働いていた。その時の関係で、市役所の職員さんに向けた雑誌の執筆を頼まれることがある。2008年新年号に寄稿した「国境って何だ?イラクとクルド、トルコ問題から国境紛争を考える」という一文を書いたので、ここで2日に分けて、発表したい。

世界地図で中東やアフリカを眺めていると、不思議なことに気がつく。それは、少なくない国の国境線が、定規で引いたような直線になっていることだ。
島国の日本に住んでいると、国境線を意識することはないが、大陸では常に国境問題を意識せずにはおれない。国境は通常、高くそびえる山であったり、蛇行して流れる大河であったりする。つまり国境線がまっすぐであるということはありえない。
ではなぜ中東ではまっすぐな国境線になったのであろうか?トルコ~イラク国境問題のルポと絡めて、考えてみたい。

地図1に示されている国は、トルコ、イラク、シリア、そしてイラン。それぞれ国内外に紛争を抱えており、新聞紙上をにぎわさない日はない。しかし世界地図を眺めているだけでは分からない事実がある。それは、この4カ国にまたがって暮らしている、「世界最大の少数民族」クルド人が、地図から抜け落ちているからなのだ。
実際のクルドは、主に地図2の丸く囲った部分に居住する「山岳民族」だ。ではなぜクルドは自分たちの国を持てなかったのか?以下、歴史的に考察してみよう。
もともと中東の大部分は「オスマントルコ」であった。第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの連合国と、ドイツ、オスマントルコが戦った。当時イギリスは世界の覇権国家で、イギリス軍は海洋を支配。カイロ、ケープタウン、カルカッタという要所を押さえ、植民化政策で巨額の富を築いていた。(3C政策)そのイギリスに対抗して急激に力をつけてきたのがドイツ帝国。イギリスが海洋を支配するならば、ドイツは大陸を支配しようと試みた。当時すでにベルリン、ビザンティン(現イスタンブール)までの鉄道が敷設されていたので、その鉄道をバグダッドまで伸ばして、中東を陸から支配しようと試みたのだ。(3B政策)新旧二つの帝国はやがて、世界の覇権をめぐって争うこととなった。当初オスマントルコは中立を保っていたが、やがてドイツと手を結び、イギリスと闘うようになる。
イギリスはオスマントルコを解体するために、「アラビアのロレンス」こと考古学者のロレンスを使ってアラブ人を組織、北からはイギリス軍が、南からはアラブ軍がオスマントルコを攻め立てて、大戦に勝利した。
「さてオスマントルコをどう分割しようか?」と、協議したのがイギリスとフランス。サイクス・ピコ協定なる秘密会議で、ヨルダン、イラク、パレスティナはイギリスが、シリア、レバノンはフランスが統治しましょう、と勝手に決定し国境線を引いたので、見事な直線の国境となった。
それでクルドは?本当なら「この地域はクルド」と指定し、国境線を引くべきだったのだろう。しかしその時、クルド地域のモスルに大量の石油が眠っていることが発見されたのだ。イギリスはこの地域を最重要視し、本来はクルドの土地であるところを、イラクに編入してしまったのだ。
以後、クルド人の長い長い「独立闘争」が始まる。当時トルコも英仏の植民地状態であった。その中で立ち上がったのがトルコ建国の父、ケマル・アタチェルク。アタチェルクは勇敢に独立闘争を戦い、アナトリア半島、つまりトルコ領土を確保した。しかしその領土東半分は、実はクルドの土地でもあったのだ…。 (続く)

今年のサッカーアジアカップ、残念ながらオシムジャパンは韓国にPK戦で負けて4位に沈んだ。予選では開催国ベトナムを順調に下し、強敵オーストラリアにも競り勝っていただけに、予想外の惨敗だった。特に韓国戦では相手が一人少ない状態ながらも、決定的なチャンスを作れないまま、ずるずると時間だけが経過するという消化不良の試合だった。よく言われることだが、「組織としのパス回しはうまいが、個人としてシュートまで持っていく力強さに欠ける」のが日本の特徴だ。集団では力を発揮するが、一人になるとシュンとなるのが日本人の特徴か?
さて、そのアジアカップで初優勝を飾ったのがイラクである。4年にわたる戦争で祖国が破壊され、選手として十分な環境整備が整わない中での、優勝は非常に価値あるものだ。
準決勝のイラク対韓国戦。イラクはPK戦の末、韓国を下した。喜びを爆発させる民衆。人々はバグダッドの通りに出て、勝利を祝っていた。そんな群衆の中に、自爆テロリストが突っ込んだ。
勝利の喜びが一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。想像してほしい、阪神の優勝を祝う群衆の中に、つまり道頓堀の橋の上に爆弾を積んだトラックが突っ込んだとしたら…。
殺された人々が全くの無実の市民である点、そして久々の明るい話題が一転して最悪の地獄になった点、犯人はただ「喜んでいる民衆をターゲットにした」という非道さ…。こんなテロは絶対に許してはならない。
そんな思いで、一人の母親がイラクナショナルチームに手紙を書いた。
「私の息子は、韓国戦の勝利に喜んで街へと繰り出しました。そこに自爆テロがありました。息子は死んでしまいました。もう息子は帰ってきません。息子への最大のプレゼントは何でしょうか?それはあなた方イラクナショナルチームが次の決勝戦で勝利することです。天国の息子のために、どうか次の決勝戦で勝利してください」。
運命のサウジアラビア戦が始まった。実力では上と見られるサウジ相手に、イラクは互角以上の戦いを繰り広げた。選手の胸の内には、息子を失った母への手紙、そして天国にいる息子への約束があった。『優勝カップをなくなった息子に捧げたい』」。
試合結果はご存知のとおり1−0でイラクの勝利!試合終了後、イラクナショナルチームは金の優勝カップを、その母親に手渡した。
イラクは一つだ!!民衆はイラクの勝利に希望を見た。そう、イラクは一つなのだ。次は民衆の側が米軍を追い出し、この泥沼に終止符を打ち、平和を求める戦いに勝利する番だ。

2003年と04年にイラク入国した際、通訳として行動をともにしたワリードが、バグダッドを離れてチェコに逃れた。若い頃チェコに留学していたので、チェコ語はしゃべれるワリードだが、妻と3人の子どもは、これから異国の地で新しい生活がスタートするわけだ。何はともあれ、無事でよかったが、ワリード一家は、スンニ派の平均的な所得層の家族である。05年頃から、彼は何度もメールで「もうバグダッドには来るな。殺されるぞ」と警告してくれていた。04年には一緒にサドルシティーに入り、ツワイサ核施設にも同行してくれた。拙著「報道されなかったイラク戦争」にもワリードのことを、

ワリードとは03年11月、バグダッドで知り合った。ヨルダンの首都アンマンから乗り合いバスでバグダッドに到着した夜、レストランで食事をしていたときだった。メニューの全てがアラビア語で、店員も周囲の人々も英語が通じなかったものだから、途方にくれていると、「ディナーはうれしそうな顔で食べないとダメだよ。スマイルスマイル」とクリアーな英語。こいつや!「おまえ、名前は?」「ワリード」「英語、上手だな」「チェコに留学していた」「今の仕事は?」「高校で物理を教えている」「明日は仕事あるか?」「仕事なんて何とかなる。というか、イラク全体が失業状態だよ」「車持ってるか?」「72年製のトヨタだけど。十分走るよ」。かくしてワリードは私の通訳&運転手になった。1972年製のトヨタは、冷房もなく窓も開かない代物だったが、サドルシティー、マハムディーヤなどの激戦地を走り抜けてくれた。ワリードは戦場となったバグダッドに住んでいる。「チェコは良かったぜ。美人ぞろいで、毎晩ウイスキーで宴会。当時はイラク人のほうが金持ちでモテモテだったよ」。下ネタ大好きで陽気なワリードから笑顔が消えていなければいいが・・・。

と、紹介したのだが、やはりバグダッドには住み続けることができなかった。「もうバグダッドには戻らない」と言い切るワリード。彼にとっての故郷は永遠に思い出の中だけになるのだろうか・・・。

各地の講演会に伺って、「アメリカはイランと戦争をするつもりでしょうか?」と、よく聞かれるようになった。私は競馬などの予想屋ではないので、ハッキリと「やる」「やらない」とは言えないが、現時点では「本格的な戦争はやらないだろう」と考える。
理由は、「イランが強大だから」である。以下はレバノン在住のジャーナリスト安武氏や、アンマン在住のハリルの意見などを参照に現時点での考え。
もしアメリカがイランを叩くと、イランは3つの対抗措置を駆使する。
1つは、ホルムズ海峡の封鎖。これは西側にとって痛手。ペルシャ湾のタンカーが通行できなくなれば、原油価格は急騰、世界同時不況に突入する恐れがある。中東の原油に頼りきる日本は特に大打撃。
2つ目が、ヒズボラにイスラエルを叩かせる、こと。イランの指示でヒズボラは動くから、アメリカの動きによっては、ヒズボラが「報復」としてイスラエルを叩く。これに呼応してハマスも南から動き出すので、イスラエルは南北からはさまれた形で攻められる。この事態はイスラエルも避けたいと思っているはずだ。
3つ目が、イラク南部のシーア派の一斉蜂起。南部シーア派は実質上、イランの影響下にあり、イランの指示があれば、更なる反米闘争に立ち上がり、実質上、イラク南部油田は、イランの影響下に落ちることになるかもしれない。ただでさえ、イラクで手を焼いているアメリカにとって、これ以上の米兵死亡者急増は望まないだろう。
以上3点から、アメリカはイランに手を出しにくい。
イランとアメリカが「瀬戸際外交」をすることによって、アメリカは「やはり軍事力を削れない」となるだろうし、イランは国内不満分子の蜂起を、アメリカが敵なので、団結せよとなり、結果として大統領支持基盤が固まっていく。つまり、現在の「やるぞやるそ」という狼少年的緊張関係は、ブッシュとアハマディネジャドにとっては好都合なのではないか。
しかし、やはり「どこかで戦争を始める」のがアメリカであろう。「アメリカの公共事業は戦争」だからだ。
イランかもしれないし、シリアなのかもしれない。中央アジアも可能性がある。一番可能性が低いのは北朝鮮だろう。
いずれにしても、イランが原油決済をユーロで始めたことは、アメリカにとって戦争への序曲ではある。現時点では、「ベクトルは戦争へと向いているが、あまりにイランが強いので、しばらく自重して様子見を続ける」のが、アメリカの対応ではないかと見ている。

昨日、高遠さんのコーディネートで、「イラクの空には何が見える」と題する講演会を企画した。イラク・ラマーディ市で、市民社会を再建する活動を続けるカーシム・トゥルキさんを迎えての講演会だ。
「カーシムが来るの。大阪で講演会を企画できない?」と高遠さんから電話があったのは、確か3月15日。カーシムの滞在期間はわずか2週間ということで、急遽開催の運びとなった。会場を貸していただいた保険医協会の皆さんに感謝。
カーシムからは、激戦地ラマーディの様子を詳しく聞くことができた。ラマーディ市は人口40万人くらいだが、この4年間で(少なく見積もって)約3万3千人ほどが米軍に殺されているという。40万人のうち3〜4割は故郷ラマーディを捨てて国内避難民になっている。20ある学校は全て米軍に占拠され、基地になっている。米兵たちは冬場暖を取るため、学校の机やいすを燃やしている。病院は米兵に包囲されているので、重傷者も病院へ行くことができない。米兵と武装勢力の間で銃撃戦が始まって、それに一般市民が巻き込まれ、重傷を負っても、人々は病院へ行かずに家に帰る。そこで出血多量で死んでも、死者数にカウントされない。実際、止血剤や応急手当がないため、出血多量で死ぬ人が多いという。
カーシムは「武装勢力は負の遺産」という。米兵との戦闘で肉親を失って武器を持って戦うイラク人が多いのだが、「それでは解決しない」と。戦闘が戦闘につながり、犠牲者の数が雪ダルマ式に増える。まさに今のイラクの状態であるが、彼によると「戦闘ではなく、そのエネルギーを病院や学校の再建に向けること」が大事だというのだ。
つまり9条の考え方である。日本から大量の机やいすをラマーディの学校に運ぶ際、ラマーディの武装勢力から「自衛隊を派兵している日本から?米軍関係の物資ではないだろうな?」と検問されたという。
そのたびに「政府からの援助ではない。日本の民間人からの人道支援だ」と説明して難を逃れたという。
昨日、政府は派兵を2年間延長すると決定した。私たちは声を大にして言わねばならない。
「日本政府と日本人は違う。多くの日本人は撤退を望んでいる」と。

今回のイラク行きに際して、私は広島市長からいただいた「被爆アオギリ」の苗木を持っていこうと思う。原爆を受けた被爆アオギリは、もう枯れてしまったと思われていたが、見事に芽を吹き出し花を咲かせた。現在は平和記念公園に植樹され、アオギリの前に設置されたボタンを押すと、アオギリの歌が聞こえてくる仕組みとなっている。以下は、アオギリと被爆者沼田鈴子さんについて書いたもの。原稿中、沼田静子となってしまっている。沼田さんごめんなさい。鈴子さんである。今年も8月6日にアオギリサミットが広島平和公園で行われる予定なので、出席したいと思っている。


みなさんは「被爆アオギリ」の名前を耳にしたことがあるだろうか?広島逓信局の運動場に茂っていた4本のアオギリは、原爆の熱線と爆風で、枯れ木になってしまったと思われていたのだが、その内の3本が数年後、芽を吹いて、生き返ったのだ。1973年にアオギリは逓信局から平和公園に移され、今日も広島を訪れる人々に、「生き続けることの大事さ」を教えている。
沼田鈴子さんは、修学旅行で広島を訪れる子どもたちに、そのアオギリの下で自らの被爆体験を語り続けてきた。私が追いかけているのは、イラクで使用された劣化ウラン弾の被害だ。61年前の原爆と、4年前の劣化ウラン弾。決して風化させてはいけない現実をご紹介したい。

1945年8月6日、広島逓信局で働いていた沼田さん、朝の掃除をしようと思い、バケツを手に、水を汲むため階段を下りて踊り場に到達した瞬間だった。キレイな色、赤なのか青なのか・・・。この世のものとは思えない光が差し込んだ。次の瞬間沼田さんは、爆風に吹き飛ばされ、気絶する・・・。
「誰かいないかー、っていう声が聞こえたんですよ。『助けて!、助けて』と、声のするほうに訴えました。2人の男の人が私の身体に覆いかぶさっている瓦礫をのけて、助け出してくれました。背中に負われた私の足首がブランブランとしているのを見て、父は『誰か娘を手当てしてやってくれ!』と叫んでいました」
広島逓信局の4階で被爆した沼田さんは、建物の下敷きになって、左足首を失ってしまう。畳に載せられ、1階まで。そこには、原爆で大怪我をした人々が集められ、まさに生き地獄であった。
「気絶している間に誰かが血止めをしてくれたんでしょうね。とにかく一命を取り留めました。でも重傷者ばかりでしょ。1人の医師で何十人と診察しなければならない。それで足首が取れたまま、私は3日間放ったらかしにされたんですね。すると、だんだん足が腐っていくんです。死が迫ってきて、『左足全部を切断したら、命は助かる』と言われました。当時、私には婚約者がいて、足をきられてしまえば結婚できないと思ったんです。それで『切らないで!』と叫びました。医師は『あんただけやない。多くの人が生きるか死ぬかの瀬戸際なんやで』と言いました。重病者は畳に寝かされていて、隣のお母さんは3歳の息子を左手で抱きかかえていました。私のように爆風で飛ばされたのか、右手はなく、その切れた腕の先からは蛆虫がわいていました。多くの人が気が狂ったような声を出して死んでいきました。『足を切れば生き残れるかもしれない』と思って、『では切ってください』とようやく決断しました」。
切断手術は8月10日早朝。電気がないので夜明けを待ってから、麻酔なしの手術だった。大きな悲鳴を上げて、また気絶した沼田さん。婚約者のことを考えていた。
後になって分かったことだが、その時すでに婚約者は外地で戦死していた。1944年4月に出征し、本当なら8月8日に広島に帰ってくるはずだった。8月8日〜10日、軍の命令で広島に帰ってくる、その日に結婚式を挙げる予定だった。だから沼田さんは「早く8月にならないかな」と、その日を指折り数えて待っていたのだ。
仕事の中で唯一の楽しみは、同僚女子たちと昼休みのおしゃべりだった。室内でそんなことをすれば怒られるので、昼休憩は運動場に植わっている4本のアオギリの下に集まった。
「一発の原爆でね、全てを失ったの。切断した左足の筋肉が、なかなか盛り上がらなくってね、どうしても骨が露出する。だから1年半も逓信局の一階で寝たきりでしたよ。ようやく足の切り口が良くなって、街へ出たの。そうしたら、全部消えているじゃないの。街も、私の家も。家に帰ってからも、自暴自棄になってね、何度も自殺を考えました。兄は足と胸に大やけどを負っているし、妹の顔も傷だらけでしょ。父は義足ができたぞ、松葉杖で歩く練習をしろ、などと言うけど、どうしてもそんな気になれなかったの。だけど自殺もできなかった。家族が『自殺するんじゃないか』と思って、ずっと私のそばについてくれていたんですよ」。
一家6人が被爆した沼田家。父は沼田さんを励まし、リハビリのため逓信局まで散歩しようと、誘う。
「遅々と妹に挟まれるようにして逓信局へ。運動場に行けばアオギリが焼けて、枯れ木になっているの。4本のアオギリのうち1本はまったくダメになっていて、残りの3本も、ケロイドがあって、大やけどしている。その時は『何だ、アオギリもこんなザマになったのか』と思いました」。
その後、沼田さんは、だんだん歩行練習で外へ出るようになる。ある日のこと、父がまた「逓信局へ行こう」と沼田さんを誘う。
「もう一度逓信局へ行きました。運動場でアオギリと再会。大やけどをして死んでしまった、と思われたアオギリから新芽が吹き出していたのです。その姿を見たとき『自殺はいけないんだよ、どんなことがあっても立ち上がるんだよ』とアオギリが話しかけてくれたような気がしたんです。その時私は『あー、右足!』と思いました。私にはまだ右足が残っている。友人も女学校の生徒たちも、たくさん死んでいった。でも私は生きている。生きていれば、死者の代わりに、命の大切さ、被爆の恐ろしさを、伝えていくことができる。
爆風で吹き飛ばされたあの時、もし両足に瓦礫が乗っかっていたら、私は右足も失っていた。でも私は命も右足も残ったじゃないか、と。
 被爆アオギリに、生きることの大切さを教えてもらった沼田さんは、それから原爆の語り部という仕事を始める。
「妹はね、乳がんになって20歳で両胸を取り除いたの。左手もふくれ上がってしまってね。放射能って恐ろしいよ。イラクの劣化ウラン弾も一緒でしょ。そうですか、アオギリをイラクへ。ありがとうございます。今、被爆アオギリはジュネーブやドミニカ、イタリアやリトアニアで植わっていますよ。イラクで育てばいいですね。原爆も劣化ウラン弾も絶対に許してはダメです。私はね、年をとって老人ホームに入っているけど、来年も平和公園のアオギリの下で、お話しようと思っているんですよ」。
私は今年、広島市役所からいただいたアオギリの苗木と、沼田さんの気持ちを、イラクに持って行こうと思う。劣化ウラン弾を多数撃ちこまれたイラク南部では、信じられないほどの子どもが、がんなどの不治の病で倒れている。「はだしのゲン」たちが、イラクで助けを求めているのだ。もちろん薬も医療器具も、何がしかの生活するお金も必要だろう。しかし、私は「生きる望み」を持って行きたい。アオギリをイラクに植樹し、そこを平和公園にするのだ。原爆にも負けなかったアオギリを見て、イラクの子ども達が、戦争にも貧困にも、そして白血病にも負けないように、しなやかに、たくましく育っていくように。

イスラエルとヒズボラがようやく「停戦」した。しかしこの地域は「火薬庫」であって、おそらくそう遠くない時期にまた戦闘を始める可能性が高い。私は昨年、一昨年と3度にわたってイスラエル、レバノンを訪問したので、その経験からこの戦争の意味と今後の中東情勢について、私なりの意見を述べてみたい。

「えっ?靴下も脱ぐの?」。ここはヨルダン〜イスラエル国境の入国管理事務所。イスラエル兵士が、私の持ち物検査を行う。持ち物に続いて身体検査。金属探知機で「なめるように」全身を探査。上着を脱げ、シャツを、ズボンを…挙句の果てに靴下まで。私の所持品に大きなビデオカメラとデジカメがあり、その中にイラクの写真が入っていたので、「これは何だ」と尋問される。尋問・調査は延々と5〜6時間続き、ようやくイスラエルへの入国が認められたのだが、これが「イスラエルの日常」と言っても過言ではない。ジャーナリストの入国を極度に嫌う国。つまり「真実を知られたくない」、後ろ暗さを持つ国イスラエル。
イスラエルが最も撮影されたくない場所の一つが、「21世紀のベルリンの壁」だろう。聖都エルサレムから車で20分も走れば、高さ8メートルの巨大な壁が現れる。エルサレムはイスラム、キリスト、ユダヤ教の聖地。そのすぐ隣は「ヨルダン川西岸」。オスロ合意で、パレスティナ人に与えられた地域。イスラエル政府は、エルサレムとヨルダン川西岸を切り離すように、壁を建設している。この壁は完成すると全長700キロになるといわれている。
会社や学校はエルサレム側にある。壁の向こうに住むパレスティナ、つまりアラブ人たちは延々と壁に沿って歩いてきて、ところどころにある壁の隙間から出てくる。そこにはイスラエル兵がいて、一人一人のIDカードをチェックしている。チェックされるパレスティナ人にとって、エルサレムはふるさとである。「俺はエルサレム中学出身だ」「旧市街で育ったんだ」などの思い出を持つパレスティナ人が、そのエルサレムに入ることを制限されている。
エルサレムからPLO本部があるラマラの間には「カランディア検問所」というのがある。人々はそこでバスを降り、歩いて検問所を通過する。順番待ちの長い列ができており、イスラエル兵士にパスポートを見せて通過する。兵士の機嫌が悪いとき、あるいは自爆テロなどがあっあったときは、検問所を通過するのに何時間もかかる。たまたま私が「カランディア検問所」を通過しようとしたとき、救急車がやって来た。しかしカランディア検問所前には、そこを通過しようとする車の長蛇の列。救急車はサイレンを鳴らしながら渋滞の車列を避けようとするが、なかなか前へ進めない。「あんなふうに救急車が通れなくなって、車内で死亡するパレスティナ人も多いんだよ」と、順番待ちをしている老人が、「パレスティナの日常」について語る。
イスラエルとパレスティナの日常を見ていると、「和平は遠い」と感じる。第一次中東戦争からすでに60年弱。土地を奪い、今も入植を続けるユダヤと、ふるさとを追われるアラブ。日常的にこれだけの「格差」があれば、憎しみも増殖される。
ベイルートを訪れたのは昨年の11月だった。ベイルート入りしてまず訪れたのはハリリ元首相の暗殺現場。現場は国連の管理下に置かれ、立ち入り禁止。ハリリという一人の要人を暗殺するためにホテルごと吹き飛ばす、という大規模なもので、間違いなく「プロの仕業」だった。犯人はシリア?いやイスラエルかもしれない、などと言われていたが、真相はまだ藪の中。ただ今回のイスラエル対ヒズボラの戦闘にいたる経緯の中でハリリ暗殺は一つの伏線だったと思う。ハリリ暗殺後、シリア軍がレバノンから撤退を余儀なくされたのだ。レバノンというモザイク国家を実効支配していたのは、シリアだった。イラク、イランと並んで「悪の枢軸」に数えられているシリアにとっては、なんとしても「アメリカからの先制攻撃」を避けねばならない。つまり、ハリリ暗殺は真相が判明しない中だが、国際世論を敵に回さないためにも、レバノンから撤退せざるを得なかった。しかし、シリアとしては「アメリカ・イスラエル連合に一矢を報いたい」と考えても無理はない。ヒズボラを陰で支えて、イスラエルと互角に戦えるように、武器を供給していたとしても不思議ではない。
イランはどうか?ここも「危機的状況」である。アメリカが次に襲いかかるとすれば、イランである可能性が高い。イランとしては、レバノンのヒズボラを支援し、イスラエルと戦わせれば、圧倒的に火力で勝るイスラエルが過剰にレバノンを叩くので、国際世論はイスラエル非難に転じ、アメリカ・イスラエルの無法ぶり、をアピールし、ひいてはイラン先制攻撃をさせないような世論作りにつながる。
つまりこの戦争で相対的に勝利したのは、シリア・イランであり、武器商人と石油産業である(原油が上がれば石油産業が儲かる)。
逆に言うと、イスラエル・アメリカ連合は、ますます国際的に孤立し、信用を失ってしまった。イラク戦争後、アメリカはあえて国際的信用を失ってでも、戦争を続ける国になっている。

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