コラム: 2007年12月アーカイブ

mainiti tizu.JPG私はかつて吹田市役所で働いていた。その時の関係で、市役所の職員さんに向けた雑誌の執筆を頼まれることがある。2008年新年号に寄稿した「国境って何だ?イラクとクルド、トルコ問題から国境紛争を考える」という一文を書いたので、ここで2日に分けて、発表したい。

世界地図で中東やアフリカを眺めていると、不思議なことに気がつく。それは、少なくない国の国境線が、定規で引いたような直線になっていることだ。
島国の日本に住んでいると、国境線を意識することはないが、大陸では常に国境問題を意識せずにはおれない。国境は通常、高くそびえる山であったり、蛇行して流れる大河であったりする。つまり国境線がまっすぐであるということはありえない。
ではなぜ中東ではまっすぐな国境線になったのであろうか?トルコ~イラク国境問題のルポと絡めて、考えてみたい。

地図1に示されている国は、トルコ、イラク、シリア、そしてイラン。それぞれ国内外に紛争を抱えており、新聞紙上をにぎわさない日はない。しかし世界地図を眺めているだけでは分からない事実がある。それは、この4カ国にまたがって暮らしている、「世界最大の少数民族」クルド人が、地図から抜け落ちているからなのだ。
実際のクルドは、主に地図2の丸く囲った部分に居住する「山岳民族」だ。ではなぜクルドは自分たちの国を持てなかったのか?以下、歴史的に考察してみよう。
もともと中東の大部分は「オスマントルコ」であった。第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの連合国と、ドイツ、オスマントルコが戦った。当時イギリスは世界の覇権国家で、イギリス軍は海洋を支配。カイロ、ケープタウン、カルカッタという要所を押さえ、植民化政策で巨額の富を築いていた。(3C政策)そのイギリスに対抗して急激に力をつけてきたのがドイツ帝国。イギリスが海洋を支配するならば、ドイツは大陸を支配しようと試みた。当時すでにベルリン、ビザンティン(現イスタンブール)までの鉄道が敷設されていたので、その鉄道をバグダッドまで伸ばして、中東を陸から支配しようと試みたのだ。(3B政策)新旧二つの帝国はやがて、世界の覇権をめぐって争うこととなった。当初オスマントルコは中立を保っていたが、やがてドイツと手を結び、イギリスと闘うようになる。
イギリスはオスマントルコを解体するために、「アラビアのロレンス」こと考古学者のロレンスを使ってアラブ人を組織、北からはイギリス軍が、南からはアラブ軍がオスマントルコを攻め立てて、大戦に勝利した。
「さてオスマントルコをどう分割しようか?」と、協議したのがイギリスとフランス。サイクス・ピコ協定なる秘密会議で、ヨルダン、イラク、パレスティナはイギリスが、シリア、レバノンはフランスが統治しましょう、と勝手に決定し国境線を引いたので、見事な直線の国境となった。
それでクルドは?本当なら「この地域はクルド」と指定し、国境線を引くべきだったのだろう。しかしその時、クルド地域のモスルに大量の石油が眠っていることが発見されたのだ。イギリスはこの地域を最重要視し、本来はクルドの土地であるところを、イラクに編入してしまったのだ。
以後、クルド人の長い長い「独立闘争」が始まる。当時トルコも英仏の植民地状態であった。その中で立ち上がったのがトルコ建国の父、ケマル・アタチェルク。アタチェルクは勇敢に独立闘争を戦い、アナトリア半島、つまりトルコ領土を確保した。しかしその領土東半分は、実はクルドの土地でもあったのだ…。 (続く)

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