nishitani: 2006年9月アーカイブ

今日は、国連の「マインアクションセンター」、つまり地雷(クラスター)除去センターへ。
朝一番のブリーフィングで、決してインストラクターの指示以外のところを歩くな、カメラに気を取られて道を踏み外すな、散らばらずに一箇所に集中して撮影せよ、などの注意事項をひとくさり聞かされる。本日のミッションは、カブリーハという村でばら撒かれたクラスター爆弾の位置特定、および除去。
UNと大書された国連GMCの後ろを着いて走ること1時間、カブリーハに到着。何の変哲もない民家の裏庭がオリーブ畑になっている。バクテックというイギリス企業が、クラスター不発弾の除去にあたる。バクテックのメンバーが、この家の裏庭に回り、ブロックで囲われたところを指差す。
クラスターの不発弾である。これは飛行機から発射されたものではなく、イスラエルが地対地ミサイルで撃ったもの。M42という旧式のタイプで、このM42は、88個ある子爆弾のうち40%が不発弾になると言う。
M42を撮影し、さらにオリーブ畑を行くと、あるわあるわ、インストラクターが指差す方向に、M42があちこちに転がっているではないか。
イスラエルがばら撒いたクラスター爆弾はおよそ120万個と言われているが、実際の数字は誰にも分からないという。
このクラスターによって、停戦後も死者の数は増え続けている。昨日は、47歳の羊飼いの男性、9歳の少年、36歳の女性が、このクラスターで犠牲になった。そのうち9歳の少年は死んでしまった。停戦後、9月26日現在で110人がクラスターの洗礼を浴び、95人が負傷し、15人は死亡している。
クラスター爆弾は一つの親爆弾がパカッと開いて、多くの子爆弾が飛び出す。この子爆弾は、例えば飛行機から発射されるタイプBLU63についていえば、なんと一つの親爆弾から644もの子爆弾が飛び散る。その子爆弾には鉄片が詰まっていて、地面に落下したり、建物に当たると、その子爆弾が爆発し、周囲にいた人々の皮膚を貫き、鉄片が突入する。対人地雷が非人道兵器として禁止されるのなら、このクラスターも絶対に禁止させなければならない。
民家でクラスターを撮影した後、クラスター除去作業を撮影した。はるか離れた場所でバクテックのメンバーが爆発物を仕掛け、その後電気コードを伸ばして木陰から、スリー、ツー、ワンで爆破。めっちゃ危ない仕事である。危険手当は出てるのかな、と他人事ながら心配になる。
イスラエルは、停戦の数日前に、集中的にクラスターをばら撒いた。これは「人道に対する罪」だと思う。しかしイスラエルは国際法廷で裁かれることはない。バックにアメリカがいるからだ。
サダムフセインはイラクで裁かれ、ミロシェビッチは国際法廷で裁かれたというのに・・・。

今日は、午前中にベイルートの赤十字を訪問し、その後、イスラエルとの国境の町へ向かった。ベイルートから海岸線沿いに南下していく。途中、イスラエルによって破壊された橋などがあって、本来なら30分ほどで到着するサイダの街までに1時間。サイダでレバノン軍の広報へ行き、取材許可証をゲットする。この許可証がないと、チェックポイントを通過できなかったり、撮影したフィルムを没収されたりする。
サイダからさらに南下し海岸線を走ること1時間、ヒズボッラーの支配地域に入る。ヒズボッラー兵士は地下にもぐっているようで、目立つのは国連兵士とレバノン軍だけ。
スーラの町に到着。街の高層ビルが空爆され破壊されている。スーラ市は「国連銀座」の様相を示し、ユニセフ、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、WFP(国連食糧援助)などの事務所が集中している。その中の「地雷など爆発性危険物除去事務所」へ。
ここでは毎日のように、レバノン南部の村を訪れてクラスター爆弾の不発弾を除去している。本日の除去作業はすでに終了していたので、明日の除去作業に同行することにする。
何しろ、レバノン南部にばら撒かれたクラスター爆弾は120万個ともいわれている。今日もクラスターの爆発で、47歳の男性、9歳の子ども、36歳の女性が犠牲になった。9歳の子どもは死んでしまったようだ。
イスラエルがばら撒いたクラスター爆弾を全て除去しようと思えば、少なくとも2年はかかるとのこと。農業や牧畜で生計を立てている農家やベドゥインにとって、120万発のクラスターは脅威だ。今後も多くの子どもが、誤って死ぬか障害児になるだろう。
明日は、その実態に迫りたい。

今回もカタール航空を使ってドーハ経由でベイルートに入った。毎回そうだが、関空〜ドーハ、あるいはドバイまでは日本人客ばかりなのだが、ドーハからアンマン、ベイルートになると、日本人は激減、というかたいがい誰もいなくなる。
ベイルート国際空港を通過するのは、これで2回目となる。前回は2日間だけだったのでストップオーバー扱いで入ったが、今回はビザがいるのではないか、と心配だった。ましてやつい先日まで戦争をしていた国なので、制度が変わっているかもしれない。入国審査で手こずるかな、と心配していたが、全くの杞憂に終わった。
アンマンでは指紋を取られ、顔写真まで撮られたのだが、ここベイルートでは「日本から?」「2回目?」と聞かれただけ。ビザも無料で出るし、拍子抜けするほど。
ベイルートは「中東のパリ」と言われているだけあって、美しい街である。70年代から90年まで続いた内戦で、街の中心街がことごとく破壊され更地と化したため、街は区画整理をやり直し、素晴らしくきれいなダウンタウンに生まれ変わっている。
26日はそのダウンタウンからタクシーで20分ほどの、ダーヒヤ地区を訪れた。ここは隣にパレスティナ難民キャンプがあり、ダーヒヤ地区自身は、ほとんど全てシーア派アラブ人が住む、「ヒズボラの街」。
メーンストリートには、ナスラッラーのばかでかい写真が飾られ、22日に開催された大集会(勝利記念集会)への参加を呼びかける赤い旗が林立している。
ダーヒヤ地区の、かつてのヒズボラ議長府へ。
この戦争の初期に、集中的にやられたようで、議長府の建物が跡形もなく破壊されており、門だけが残っている。周囲のビルも全壊ないし半壊。ブルドーザー、バックホー、大型トラックが出入りし、瓦礫を取り除いている。
あたり一面の砂埃。アスベストと火災によるダイオキシンが充満しているだろうと思ったので慌ててマスクを買いに走る。
病院のマネージャーにインタビューしたが、ここではクラスター爆弾は使われておらず、劣化ウラン弾も使用されなかったようだ。しかし次々とイスラエルの戦闘機からミサイルが発射され、逃げ遅れた人々が殺されたとのこと。
全く普通の8階建てマンションが爆撃され、「3階建て」になっている。「なぜこのマンションが?」とたずねると、「バイチャンス(たまたまだよ)」とタクシーの運転手。
運転手自身は、戦争中シリアに逃げていたので助かったと証言してくれるのだが・・・。
さて、本日は初日でベイルート近郊にとどまって取材したが、いよいよ明日から南部に入ることにする。子どもたちが虐殺された街カナまで入れるといいのだが・・・。

レバノン出発直前に、イラク人ジャーナリスト、イサーム・ラシードから最新メールが届いたのでご紹介したい。メールによると、イサームは交通事故というか、イラク軍の銃撃にあったようだ。現在のバグダッドは「クレージー」である。生活のすぐ横に殺人がある。米軍による殺人もひどいが、内戦状態のために、民兵が非常に多くの罪なき人々を殺している。ハキームに率いられたバドル旅団、モクタダサダルによるマフディ軍。そしてそれら民兵と一体となって、イラク国軍、警察が民間人を逮捕し、拷問の上殺害している。イサームの友人はそんな大混乱のバグダッドで米軍に射殺された。イサームやハッサン、ワリードなど、イラクには世話になった人々がたくさん暮らしているが、果たして彼らと笑顔のうちにバグダッドで再会できる日がやってくるのだろうか・・・。

こんにちは 、西谷さん。長い間メールを書かなくてすいません、というのは、
私は交通事故にあったのです。ご存知のように、妻が妊娠中で、臨月に入っていました。9月6日に、妻は病院に行きたがったので、病院への道中でした。
私はイラク軍が一人のギャングを追跡しているのを見ました。そして突然私の車の前にギャングたちが現れたのです。逃げようとしましたが、イラク軍は私の車へ銃撃をはじめ、いくつかの銃弾は車を貫通しました。窓を壊され、後部座席に座っていた娘は、そして・・・。
神のご加護か、娘と妻はまだ生きているし、私は彼らから逃げるため逆走し、壊れた車を
壁沿いに駐車したその後、私の目の前で、イラク軍がギャングたちを全て殺していったのだ。もちろん妻も娘もその光景を目の当たりにした。以後、妻は悲嘆にくれ、話をすることもなくなった。妻は自分とおなかの赤ちゃんのためにも、休息が必要だった。
とにかく、神のご加護で、私たち家族は無事だった。しかし車は壊されてしまった。(車などどうっていうことはないが)この事件で、現場にいた2人の無実の人が亡くなった。

そしてまた別の事件があったのだ。
9月15日、私の助手(彼は親友だった)が米軍によって射殺された。家に帰る途中、米兵たちは特別な銃弾を彼に浴びせた。私は彼の脳みそが床に散らばっているのを見た。その後私は彼を埋葬し、その時携帯電話も失ってしまった。
私にとってとてもつらく厳しい時期だった。あれ以来、私はメールボックスを開くことができなくなった。米軍の指揮官に会う機会があった。私は彼に親友のことを告げた。しかし彼は無実の人々を殺すことに対して、ほとんど何も気に掛けていない様子だった。ここでは親友を含む多くの無実の人々が、毎日のように米兵に殺され続けているのだ。
今月は、私の車に続いて親友の死という2つの悲しい出来事があった。
そしてうれしいニュースがある。9月18日に、ついに子どもが生まれたのだ。私は子どもの誕生を心待ちにしていたが、親友の死に直面して、とても喜ぶ気にはなれない。
親友の死を悼む。彼は日本からの寄付金でイラクの人々のために食物を買い出してくれた。そして私を助け、イラクの人々にその食料を配達していた。次の週も同じように私は食品を配送するが、そばにいるべき友人がいないので、とても悲しい。彼は殺されたのだ・・・。
私は援助の食料と配送しているところの写真を撮って、この間の事件のリポートとともに、あなたに送るつもりだ。あなたは、ぜひ彼のことについて書き、日本のみなさんに伝えてほしい。詳細についてはまたメールします。
イサーム

長らくこのブログを書かなかったので、この画面が真っ白になっていた。これはいかん、と改心し、以後、ちょくちょく書き込んでいきますので、今後ともよろしく。
イサームからメールが届いているので、随時紹介する。劣化ウラン弾の新たな被害者とめぐり合ったようだ。最近のイラクでは病院が民兵の溜まり場になっていて、下手に病院へ行くと誘拐されたりするし、肝心の医師が逃げてしまっているから、こうした患者は、自宅でひっそりと暮らしている。イサームとめぐり合ったことで、援助の手が届けばいいのだが・・・。
以下、イサームからのメール訳です。

日本のみなさん、私からのメールが大変遅くなり申し訳ありません。なぜなら今のバグダッドは非常に治安が悪いので、ほとんどのインターネットカフェ営業をしていないのです。さらに電気がなく、ネットがつながりにくい状況です。それでも今まではネットカフェが独自に自家発電機で電気を起こし、インターネットにつなげていたのですが、最近のイラクではガソリンが不足し、自家発電機も、役に立ちません。
母親の胎内で・・・
私は新たな劣化ウラン弾の被害者を発見しました。この赤ちゃんの名前は、ムハンマド・ムシュタークといいます。家族は貧しく、父親はタクシードライバーなのですが、治安悪化とガソリン不足で仕事になりません。写真の母親は、イラク戦争の際、アメリカの空爆地点のすぐそばに住んでおり、おそらくその際使用された劣化ウラン弾の影響で、妊娠中に遺伝子が破壊されたようです。
誰かこの子をアンマンへ連れて行ってください
現在、夫妻は途方にくれています。イラクでは治療不可能なので、隣国ヨルダンの首都、アンマンに行かなければ、この子どもの命の火は消えてしまいます。どなたかこの子を助けてくれる方はいないだろうか、と夫妻は援助を求めています。

以上がイサームからのメールである。イラクからの報道が減ってしまった昨今、何かイラク戦争が終わってしまったかのような雰囲気であるが、実際の状況は最悪の戦争状態である。そんな中、劣化ウラン弾やクラスター爆弾の被害も増えている。
今のイラクでは、薬も電気もなく、手術のできる医師もいないので、イラクを脱出できない限り、この赤ちゃんは死んでしまうだろう。

早いものでもう9月になった。5月にイラク・スレイマニアを訪れたのが、かなり前の出来事であるかのように感じる。幸か不幸か毎日新聞に、現在連載を続けているので、5月の出来事を思い出しながら書いている。以下は7月に書いたもの。
samah.JPG「こ、これは一体…」。奥まった部屋からサマーさん(20歳)が現れたとき、私は思わず息を飲んだ。イラン、イラク国境の町ハラブジャにサリンなどの毒ガスが撃ち込まれたのは1988年3月16日のこと。一斉蜂起したクルド人に対するフセインの「回答」が虐殺だった。
当時1歳半のサマーさんにとって、父や兄、姉の姿は写真で見るだけ。サマーさん自身も生死の境をさまよった。毒ガス攻撃で一瞬にして視力を失い、ようやく右目が見えるようになったのは3歳のとき。残念ながら左目は完全に失ってしまった。以来18年間、サマーさんは学校へも行かず、ほとんど家の中で過ごしてきた。かろうじて見える右目には、刺すような陽射しは厳しすぎる。日中、彼女はまぶしくて外に出られないのだ。当時の写真を持ってサマーさんの横に座ったのは母親のグラーウィッシュさん(52歳)。夫と4人の子どもを失った母と、左目を失った娘。生き残った家族はこの2人だけだ。
「この娘を見てくれ。11歳になるが、左手が痛くて痒くて毎晩眠れないんだ」。父親が指差すのは小学校5年生のパルクちゃん。大量破壊兵器である毒ガスは、瞬時に5千人もの人々を殺害したが、被害はそれだけでは済まなかった。汚染された土地で育った野菜、家畜、そしてそれらを食べ続ける現地の人々。人間は食物連鎖の頂点にいるので、汚染物質が体内にたまっていく。
パルクちゃんの二の腕は赤く腫れ上がり、あきらかに腫瘍ができて盛り上がっている。「名前は?」「好きな教科は?」とインタビューしている間も左手をかきむしっている。パルクちゃんの隣でむずがっているのは弟のカーメルちゃん。1歳半になるこの弟の首筋にも同じようなミミズ腫れが。父親にインタビュー。
「薬は?」「十分でない」「なぜ?」「同じような被害に苦しむ人があまりに多いので、薬が足らない」「国連や人道支援のNGOは?」「外国からの援助はまったくない」「なぜ?」「なぜって、こっちが聞きたいよ」。
1991年の湾岸戦争後、ハラブジャの地域を実効支配したのは「アンサール・イスラム」というイスラム過激組織だった。フセイン独裁の次がイスラム原理主義者たちだったわけで、国連などが入って活動する余地はなかった。化学兵器被害者にとっては踏んだり蹴ったりである。
「ハラブジャの悲劇はまだ終わっていない。日本のヒバクシャが戦後ずっと苦しみ続けたように」とは通訳のハリル。ハラブジャの学校では、必ず原爆のことを教えている。それどころかヒロシマと自分たちの姿を重ね合わせ、自分たちの町を「ハラブシマ」と呼んでいるほどだ。
「ここを平和公園にしたいのです。私の夢はヒロシマと姉妹都市になり、この場所に平和の象徴であるオリーブの木を植えて、ヒロシマのモニュメントを建てることです」と、カリーム町長。町長が案内してくれたのは、虐殺された人々の墓地を抱く小高い丘で、ここからなら町全体を見下ろせる。
カリーム町長の夢は私たちの夢でもある。近い将来、日本からの旅行者、特に広島・長崎のヒバクシャがこの町を訪れて、平和公園のモニュメントに折鶴をかける日がやってくれば、どんなに素晴らしいことだろうか。そのためにも今のイラク戦争を早く終了させて、人々が安心して観光できる国にしなければならない。文明発祥の地中東、本来の中東は見所がいっぱいなのだ。

これを書いてから、8月6日を迎えた。カリーム町長はじめ、イラクの人々は広島・長崎を訪問したがっている。ハラブジャについては、現在フセインの裁判でその虐殺の真相が明らかになりつつある。フセインは有罪になるだろうが、そのフセインをけしかけて、イラン・イラク戦争に導いたのは、実はアメリカ・イギリスなど西側である。クルド人問題を考えるとき、単純化して言えば強者(アメリカ)と、利用された勢力(アラブ・フセイン)、最底辺で苦しみつつ、フセインを倒したアメリカに救われた勢力(クルド人)ということになる。勢いクルド人たちの間に「アメリカ万歳!」の声が上がりがちなのでが、「真の敵はフセインでなくてアメリカだったのだ」ということをクルド人たちにも理解してほしいと感じるのである。

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