nishitani: 2007年10月アーカイブ

murat.JPGのサムネール画像のサムネール画像写真のムラート君は、前述のとおり、10月12日ラマダン明けの祭り初日にテロに遭い、重傷を負った。現在スレイマニア市のNGO国境なき医師団が、彼のやけどの手当てをしている。やけどが落ち着くと、次は胸に突き刺さった鉄片を取り除く手術、そして複雑骨折しているあごの手術、最後に失明してしまった右目の手術だ。 担当医師が「相当なトラウマを受けている。この子の人生は暗いものになる」と語った。そうかもしれない。でもキルクークテレビ局で、地雷によって片目と右手の指を失った青年が、テレビの編集の仕事のためにコンピューターに向かっていた。同じく片手と片目を失った青年が、サッカーの選手として活躍していた。この子はまだ13歳だ。可能性は無限大。何年か先に、元気で働く姿を見たいものだ。 「この子一人を救出しても解決にはならない」かもしれない。でも「できることからはじめる」ことも事実だ。 来年3月に、またスレイマニア市を訪れる予定なので、その時、何がしかのサポートができていればいいな、と思う。1年間という長期入院が予想されている。家族は「見捨てないで」と訴えている。みなさん、どうか、小額で結構ですので、募金にご協力をお願いします。 募金のあて先: 郵便局 00970−5−222501 イラクの子どもを救う会 または 三井住友銀行 吹田支店 普通 3712329 イラクの子どもを救う会 西谷文和 まで。

イラクから無事帰国して、ホッとしたのか少し体調を崩してしまった。通常帰国してすぐに行うことは、�エビスビールを飲む、�すしを食う、�飲み物を焼酎に切り替える、�溜まっている新聞に目を通す、の順番なのだが、どうも脂っこいアラブ料理に胃をやられていたようで、この数日間はおかゆと梅干で過ごさざるを得なかった。
さて、今回の取材で撮影した映像を中心に、「イラク特集」が組まれることになった。朝日放送「ムーブ!」で、11月2日(金)午後4時半〜5時頃にかけて報道される。昨日(26日)は、25本に上る撮影テープの編集で一日を費やした。よほどの大事件、例えば福田首相の突然の辞任などがない限り、予定通り報道されるので、関西地方のみなさん、お時間許せば是非ご覧ください。

ディア君(9歳)は、2005年バグダッドで通学途中に米兵から背中を銃撃され、下半身不随になった少年だ。今年(07年)3月にシリアのダマスカス、サイダザイナブ地区でであった。サイダザイナブは、バグダッド〜ダマスカス間の長距離バスのターミナルがある町で、住民の約70%がイラク難民、「リトルバグダッド」と呼ばれている町だ。私は今回の取材でサイダザイナブを徘徊し、「ディア君探し」を試みた。以前ディア君とであった場所には別の家族が住んでいた。昨日(21日)、アンマンで、ディア君の面倒を見ている、これまたイラク難民のアルディンに聞くと、ディア君一家はイラクに帰還した、とのこと。シリアのダマスカスでは、仕事が見つからず、イラクへ帰らざるを得なかったようだ。
ディア君一家は今、バグダッドの西方、ラマーディーという激戦地に暮らしている。ファルージャ、ラマーディーといえば、かつてはアメリカ軍と激しいバトルを繰り返していたところであるが、最近は若干安定しているというので、少しは安心だ。
今回の旅の目的の一つに「ディア君のその後」というテーマがあったが、ラマーディーを訪れることは不可能だ。で、それはあきらめることにした。
私は来年の3月に、またダマスカスとイラクを訪れようと思う。おそらく来年の3月になっても、日本人はラマーディーには入れないだろう。しかしこの活動を続けていれば、きっとディア君と再会できる日が来ると信じる。その時ディア君が車椅子から立ち上がって歩けていればいいのだが。

ということで、今回の旅も最終日を迎えた。この原稿は22日夜、ドーハの空港で書いている。今から関空行きの飛行機に乗り、明日は大阪だ。カタールは飲酒に厳しい国で、持ち込んだウィスキーを隠しながら、出発時間を気にしながらの原稿なので、少し支離滅裂になっているかもしれない。
ネットを見ていると、亀田親子がどうした、花田美恵子さんがどうなった(苦笑)、というニュースがトップである。しかし本日もバグダッドのサドルシティーで49人が米軍に殺され、トルコはクルドに侵攻しようとしている。私の任務は大きいのかもしれない。

18日、19日は激戦地のトゥーズフルマートゥー(以下トゥーズと略)への1泊2日取材を敢行した。ムラート君がどこで自爆テロに遭ったのか、家族はどうしているのか、一緒に遊んでいた従兄弟たちの具合はどうなのか、その他のテロや銃撃戦の様子などを取材しようと思えば、一日では足りない。
護衛2人をつけてスレイマニア市を出る。通訳はヌルディン。先のブログで紹介したように、彼は18歳のときにフセインの軍隊に逮捕され、1年間を刑務所で過ごし、その後イラン・イラク戦争が始まり、イラン側について蜂起。やがて化学兵器を使われ、死屍累々の町を後に山に逃げ込み、ペシャマルガ(PUKの兵士)になって、1991年独立を勝ち取った。とりわけ湾岸戦争後91年のフセイン軍との戦いは熾烈を極め、彼の生活はほとんど全て山の中。攻め上ってくるフセインの軍隊を山の上から撃退したという。
肝の据わっているヌルディンは、「ジャーナリストは少々危険を犯しても現場へ入るべきだ」と言う。「ベリーデンジャラス(危ない)」を繰り返すファラドーンとは対照的。
スレイマニア市からトゥーズに行くには二通りのコースがあって、一つは「キルクーク突破コース」。これは戦争前までは最も一般的なルートで、約3時間で着く。しかし途中のキルクークが非常に危険なので、避けたほうが良い。私たちはもう一つの「山越え迂回コース」を選んだ。クルディスタンはその土地のほとんどが険しい山々。いくつかの峠を越え、山間の村を通過し、到着したのがラズカリーという町。すでに夜の帳が下りているので、ラズカリーの警察庁舎に宿泊。ここの警察署長さんがヌルディンの友人で、私たちは無料で宿泊させてもらった上に、庭でバーベキューとクルドの民族ダンスを楽しんだ。
翌朝8時、ラズカリーからトゥーズをめざす。警察署長さんは「護衛が足らない」と、7人ものPUK兵士を追加で同行させてくれることになった。その内の一人は機関銃を持っている。「過剰警備だ」とヌルディンが笑う。「これだけの警備があればバグダッドにも行けるぜ」。
私たちのランドクルーザーの前を、7人の兵士を乗せたトラックが走る。荒涼とした大地の中を一本の道が地平線に向かって伸びている。先行するトラックはその道の真ん中を走る。対向車線からやってくる車は、トラックを見て、路肩に避ける。なぜ私たちは道の真ん中を走るのかというと、それは「路肩爆弾」なのである。この一本道では、路肩に仕掛けられた爆弾をテロリストが携帯電話を使用して爆発させ、警察官や国防軍を殺害している。「仕掛け爆弾国道」と呼んでもよい道だったのだ。道のあちこちに大きな穴が開いているが、それは仕掛け爆弾の爆発跡だったのだ。
午前10時トゥーズに到着。トゥーズのPUKはコンクリートの壁に囲まれている。自爆テロ車が突っ込むので、壁を作って防御している。
10月12日のお祭り初日に起こった自爆テロ現場へ。現場は普通の商店街だった。電気屋さんの前で爆発したようだ。シャッターが壊れ、店内に電気製品が散らばっている。ムラート君はこの商店街で遊んでいたのだ。
この爆発での死者は4人、重傷者は20人。現場の対面が人家なので、そこを訪ねる。家の中に犠牲者が横たわっている。全身大やけど。顔面には白い粉が塗られ、両手の皮膚はただれ落ち、両足には白い包帯が巻かれている。彼はこの家族の父親で、中学校の数学の先生だ。息子も顔面にやけどを負っている。祭りの初日なので、買い物をしている時にやられたという。
私たちが取材をしていると、「俺の息子もやられたんだ」「私の夫も」…。とあちこちから「家に来い」「状況を見てくれ」と声がかかる。一人の自爆によって、たくさんの不幸が引き起こされている。
ムラート君の実家にはお母さんが帰ってきていた。彼は8人きょうだいの末っ子で、父親は早くに亡くなっていた。英語が上手な姉が「日本のみなさん、本当にありがとうございます。でもムラートを治療するには、まだまだ援助が足りません。どうか私たちを見捨てないでください」と訴えた。
犠牲者たちの家族を一軒一軒訪ね歩いたので遅くなってしまった。最後にトゥーズ市長に自宅まで招待される。市長は「私の町に来た日本人はあなた方が初めてだ。トゥーズの町には石油がある。カナダなどの石油会社が、すでにトゥーズに来て営業を開始している。どうして日本の企業はこの町に来てくれないんだ」と、日本への期待を口にする。
このあたりは少し掘れば石油が出てくる地域らしい。トゥーズには米軍基地がある。石油のあるところに基地が建設されている。
予想以上に時間を取ったため、夜になってしまった。インシャアッラー(神にかけて)、私の任務は日本に無事帰って、この事実を伝えることだ。さぁスレイマニアまであの山道を突っ走るのだ。

18、19日は激戦地トゥーズフルマートゥー(以下トゥーズと略)取材を敢行していたので、またまたブログを更新できなかった。「今度こそ拉致されたのと違うか(笑)」と心配をおかけしたかもしれないが、無事スレイマニアに帰還したので、この原稿を書いている。本日(20日)がスレイマニアで、明日アンマンに飛び、その足でダマスカスに行きディア君(米軍の銃撃によって下半身不随になった少年)と面会し、22日の昼にアンマンに戻り、23日は大阪に帰る予定。つまりもう危険な場所には行かないわけで、これからの3日間は「温泉気分(笑)」で取材できる。それで、今回は17日に敢行したキルクーク取材の模様。

17日午前6時、通訳のファラドーンの車でキルクークをめざす。13日にキルクーク病院を訪れた際、自爆テロで片目を失い、胸に鉄の破片が突き刺さり危篤になった少年、ムラート君(13歳)に出会った。彼はキルクーク〜バグダッドを結ぶ国道の途中、トゥーズの出身。

ラマダン明けの12日は、フィトロ祭りの初日。少年たちは祭りでごった返すトゥーズの市場で遊んでいた。午前8時半、手押し車に穀物を載せた男が市場に入ってきた。誰もが行商の男と考えた。彼は実はアルカイダだった。その手押し車の中には強力な爆弾が隠されていたのだ。やがて…。
気がついたときは、あたりは血の海だった。あちこちに犠牲者の腕や、足、頭などの肉片が飛び散っている。叔父さんたちがやって来て、キルクークの病院まで運ばれた。病院で生死の境をさまよっている時、なんと日本人が病院にやって来た。こんなところまで日本人がやってくるなんて!母が泣きながら、叔父さんたちは不慣れな英語で精一杯「この子を助けてやってくれ」と訴えていた。やがて僕はまた、意識を失っていった…。

キルクーク病院には薬がなく、技術のある医者もいないため、このまま放置すればこの少年は死んでしまう。私にも同年代の息子が2人いるし、苦しそうに「アー、アー」とかすれ声をあげているムラート君の姿が脳裏から離れなかった。そこで柄にもなく(笑)「ムラート君救出作戦」を敢行した。スレイマニア大学病院の医師に受け入れを頼み、承諾を得て、キルクーク病院からスレイマニア大学病院絵へ搬送することにしたのだ。
スレイマニアからキルクークまでは約2時間。途中5か所の検問があって、最後の検問を越えてから病院までが危険な道のり。13日にキルクークを訪れたちょうどその時、警察署に自爆テロが突っ込み、警察署長が殺されたばかり。最後の検問の手前で、「今日、17日はフィトロ祭明けで仕事始めの日だ。テロリストは仕事に向かう警察官や病院関係者を狙う可能性がある。今日は普段より危険度が増している。お前たちはあの検問所で待っていて、俺たちだけで搬送してこようか?」とファラドーンの提案。いつもながら、最後の大事なときに「脅しに似た忠告」を言うのがファラドーンの特徴。
少々危険かもしれないが、少年を救急車に乗せて運ぶ場面から撮影しなければならない。病院までの道のりをハイスピードで走り抜けることにした。
無事キルクーク病院に到着。駆け足で受付を通り、病棟へ。3階へ上る。廊下にべっとりと血がこびりついている。昨晩テロリストに銃撃された患者が、本日朝7時に息を引き取ったという。その血が病室から廊下に流れ出しているのだ。
4日ぶりにムラート君と再会。彼の状況は若干持ち直しているが、依然として危険な状態。早く胸に突き刺さった鉄の破片を取り除かないと、彼の命は危うい。
午前9時、ようやく救急車が到着。「ヤッラ、ヤッラ(早く早く)」、親族たちがストレッチャーにムラート君を乗せて、救急車に。
ここで同行の吉田君が、救急車に同乗し、彼と母親を撮影。私はファラドーンの車で救急車を追いかける。
病院を出る。通行人が叫ぶ「日本人だ!日本人が乗っているぞ!」。日本人が珍しいので、ただそれだけで「ヤーバニー(日本人)」と叫んだだけかもしれない。しかし彼がテロリストの仲間で、携帯で連絡するかもしれない。
ファラドーンはアクセルを一杯に踏んで、猛スピードで走り出す。5分、10分…。検問所が見えてきた。無事検問を通過。私たちの車に続いて救急車も無事通過。思わず笑みがこぼれる。
スレイマニア大学病院で、医師二人にあいさつ。一人が胸の手術、もう一人は右目の手術を受け持ってくれる。日本からの支援金50万円をムラート君の家族に手渡す。
おそらくこれでも足らない。医師によると、少なくとも1年間は入院し、治療を続けないといけない。
日本に帰ったら、募金の訴えを強化しようと思う。

ご存知の方はご存知だと思うが(当たり前だ)、トルコとクルドは長年敵対関係にあり、トルコ政府はクルド人の存在すら認めず、クルド人を「山岳トルコ人」「トルコ語を忘れたトルコ人」と呼び、差別してきた。PKKはそのトルコからの独立をめざして闘っている長年の仇敵である。たまにイスタンブールなどで自爆テロがあるが、ほとんどはPKKの犯行である。今回の空爆、表向きの理由は、頻発するPKKのテロ行為に対する制裁である。しかしPKKのテロは今に始まったことではなく、さらにトルコ領内ではなくイラクにまで侵犯し、空爆を繰り返すのは「異常事態」だ。もし民間人に死傷者が出たら、「自衛」ではなく明らかな侵略行為となり、トルコは窮地に立たされる。おそらくトルコ軍は「人に当たらないように」空爆している。
つまり空爆は「アメリカに対するけん制」ではないか。アメリカはイラクの泥沼にはまり込み、今やイラク領内のクルド人政府だけがパートナーのような状態。治安の安定したクルド地域だけ投資が進み、先日も石油会社とクルド政府が油田開発で先行契約を結び、スンニ、シーア、トルコマンなど、その他の諸派閥を激怒させたばかり。
この状態はトルコのみならず、シリア、イランにとっても望ましくない。なぜか?
もしこのままイラクのクルドが事実上の独立を勝ち取り、石油利権、イラク復興利権をはじめとする莫大な権力を手にすれば、当然その「勝利」は、トルコ、シリア、イランのクルド人たちに伝染し、「独立をめざす戦い」に火がついてしまう。今までなら多少クルドを弾圧しても、国際社会(西側)は黙っていたが、イラク戦争後は状況が一変している。アメリカがクルドの後ろ盾なのだ。
一方トルコ政府はというと、イラク戦争に関連した米軍の軍事物資の内、70%近くをトルコ基地経由で運んでいるのをはじめ、必死で西側に協力してきた。キリスト教が主体であるEU諸国に配慮し、トルコ政府は極力「イスラム色」をなくして、EU加盟を目指してきたのだ。今までの努力は一体なんだったのか?
そこにトルコを激怒させる「事件」が起こった。10月10日にアメリカの下院で「オスマントルコによるアルメニア人虐殺非難決議」が通ってしまったのだ。アルメニア人虐殺に関しては、トルコではタブーと言うべき問題で、いまさら、そしてなぜこのタイミングでアメリカがこんな決議を出してきたのか?トルコから見れば明らかな「挑発行為」なのである。実はアルメニア人虐殺はオスマントルコ政府が行ったもので、今のトルコ政府の犯罪ではない。もっと言えば、第一次世界大戦でイギリスはオスマントルコを解体するために、「アラビアのロレンス」こと考古学者のロレンスを使ってアラブ人を組織、北からはイギリス軍が、南からはアラブ軍がオスマンットルコを攻め立てて、大戦に勝利した。大戦後トルコは分割され、事実上英仏の植民地状態に。その中で立ち上がったのがトルコ建国の父、ケマル・アタチェルク。現在のトルコ共和国成立の歴史からいっても、アメリカの「アルメニア人虐殺決議」は無視しておいても良かった。しかし事態は逆に動き、トルコは駐米アメリカ大使を召還し、国務大臣の訪米も急きょ取りやめた。つまりトルコはまんまと「アメリカの挑発に乗ってしまった」のである。
事態は戦争へ戦争へと動いている。PKKはもちろん、トルコにとってもアメリカにとっても戦争によって得るものは少なく、失うものは大きい。なぜそこまで突っ張るのか?
「これでまた戦争ができる」とにんまりしている武器商人にとってはメリットがある。さらにこの動きにつられて原油価格が急上昇している。「虐殺決議」を仕掛けた裏には、やはり「石油価格の操作」によって大儲けをたくらむグループがあるのではないか?
このまま原油高が続けば、間違いなく巨額のオイルダラーが転がり込む。誰に?湾岸の産油国?メジャー?ヘッジファンド?それとも…。
何はともあれ、今のところ死者がでていないのが不幸中の幸い。今は「小競り合い」程度で済んでいるが、これ以上空爆が続くと、やがて大きな戦争につながりかねない。それにしても不幸なのは、狙われているPKKではなく、一般市民であるということだ。

当初の予定を変更して、イラク〜トルコ国境の取材に出ていたので、ブログを更新できなかった。「あいつ、捕まったのと違うか」(笑)などとご心配をかけたかもしれない。無事スレイマニア市に帰還し、この原稿を書いている。

日本ではどれだけ報道されているか分からないが、実はトルコVSクルドの関係が、非常に緊迫している。というか、戦闘状態に入っている。本日(18日)の報道によると、トルコ議会は、イラク領内に越境し、PKK(クルド労働党)への軍事作戦を展開することに、同意したようだ。下手をすれば全面戦争になり、イラクはバグダッドを中心とする中南部で内戦、そして北部クルド地域ではトルコとの戦争という、「全土戦闘状態」になりかねない。
以下は、15、16両日に国境の村を取材したときのルポ。

スレイマニア市から車を飛ばすこと10時間、山また山の「クルディスタン(クルドの土地)」を走りぬけ、目的のイニシケ村に到着。到着時点ですでに夜12時を越えている。夜間に車内で宿泊するのは危険なため、急きょ安宿に宿泊。私と同行の吉田君、ドライバーと通訳、そして護衛2人、6人チームがオンボロ部屋で雑魚寝。
夜明けを待って取材開始。村人の証言によると、13日夜(一昨日だ!)イニシケ村の背後にそびえる山々からトルコ空軍機がやって来て、12発のミサイルを撃ってきたとのこと。インタビューをしていると、村の子どもたちがわんさか寄ってくる。小学校高学年くらいの子どもが「僕、ミサイルの破片を持っているよ」。彼が手にしているのは、レンガ大くらいのミサイルの破片。空爆の翌朝、ミサイル着弾地点から拾ってきたのだ。「着弾点を案内する」というので、山を登ること10数分、山腹に直径1メートルほどの穴が開いており、その周囲が火事になったらしく、木々が黒焦げに立ち枯れている。
昨日イギリスのBBCがやって来て、穴の中の破片を持って帰ったらしい。この場所は本日(16日)夜のCNNでも報道されていた。BBCには先着を許したが、CNNには勝利したのだ(だからといって何もないが)。
空爆は断続的に行われており、今後しばらく続くだろう。幸いにして今のところ犠牲者は出ていないが、「羊がビックリして逃げてしまった」「山火事で草が焼け、放牧できない」「これ以上続くと恐ろしくて村に住めない」など、村人たちは不満と不安を口にした。
この地域を担当するPUK(クルド愛国者党)の幹部は、「攻撃されている村にはPKKはいない。全て普通の市民だ。なぜトルコは一般市民を標的にするのか」と、トルコ軍への不満を口にした。彼はさらに「俺たちは今後も国境を警備する。しかしトルコ領内に侵入し、反撃したりはしない。トルコ政府のエライやつに現場を見に来てほしいよ。この地域にはPKKはいないんだ」。
インタビューの最後、「俺たちは戦車もミサイルもない。日本政府は俺たちに戦闘機や戦車をプレゼントしてくれないかなぁ」とも。おいおい、それは「反撃する」ということやないか!とツッコミを入れたかったが、怖かったので黙って聞いておいた。
イニシケ村周辺は、実はリゾート地なのである。村から車で1時間も走ると、キャンプ場があり、人々はピクニックを楽しんでいる。隣でミサイルが撃ちこまれているのに、のどかな光景。同行の通訳ヌルディンは、「俺たちクルド人はずっと戦争をしている。イラン、イラク戦争、湾岸戦争後のフセインとの壮絶な戦い、そして2003年からのイラク戦争(クルドはアメリカ側について闘った)…、人々は戦争に慣れきっているし、ミサイルが飛んできてもそれほど驚かないよ。みんな『逃げ方』を知っているのさ」と笑う。
日本なら間違いなくパニックになり、みんな総出で逃げ出すところなのだが…。

以上は、16日に書いた原稿。明日は「なぜトルコがイラク領内に侵入してまで空爆をしているのか」について考察してみたい。

本日(14日)はフィトロ祭3日目、街は依然としてクローズ常状態。商店街はもちろん、取材対象のハンディキャップセンター、戦争犠牲者のための緊急病院なども門扉がロックされ、誰もいない。祭り期間中だとはいえ、緊急病院が閉まっていていいのかとも感じるが…。
病院取材をあきらめ、スレイマニア市郊外の「カラーワ避難民キャンプ」へ。甲子園球場くらいの広場に、大小あわせて150ほどのテントが張られている。避難民は本日時点で435人。その数は増え続けている。このキャンプができたのは2006年3月。バグダッドその他地域が内戦状態になり、危険を感じたアラブ人たちがこの地へ逃れてきた。
テントの中に入る。ハエが飛び交う中、飲み水や氷を保管する大き目のポリタンク、マキで煮炊きするかまど、夜の明かりを確保する灯油ランプなどが、テントの中に乱雑に並んでいる。子どもたちが「写真を撮れ」とやってくる。この子どもたちはお金がないため、学校には通っていない。テントに横たわる45才の主婦。一ヶ月前から具合が悪くなり、寝たきりになっている。病院にいく金がないので、何の病気かも判明しないが、しきりにお腹を指差すので、衛生状態の悪さからひどい下痢に悩まされているのかもしれない。イラク北部では先月、コレラが流行ったのでその影響があるのかもしれない。いずれにしてもハエが飛び交うこの状況で、体調を崩さない方がおかしいくらいだ。彼女は7人の子どもがいて、夫はすでになくなっているので、病院にいけるかどうかは、政府の援助とイスラムの寄付次第である。
シリアなどへ逃げたイラク難民は200万人を越えると言われている。その多くが家財道具や車を売り払って旅費にして他国へ逃げている。さらに問題なのは、そんな旅費も捻出できずイラク国内に留まらざるを得ない国内避難民である。避難民の多くがバグダッド出身。しかも06年以降に発生している。06年2月にサマッラの黄金モスクが破壊されて以来、イラクは内戦状態に陥った。恐ろしいのは民兵である。治安もルールも何もない無政府状態こそが一番危険なのだ。直接的に殺しているのは、スンニ、シーアの民兵たちかもしれない。しかしこの不幸な状態を作ってしまったのは、間違いなくアメリカの侵略戦争である。その結果責任は大きい。

本日(13日)は激戦地キルクークへのピンポイント取材を敢行した。スレイマニア市から車で2時間程度の距離であるが、キルクークは全く別世界。
PUKの護衛とともに、数ヶ所のチェックポイントを無事通過し、キルクークの自爆テロ現場へ。現場で車を停車させると、覆面をした警官がやってくる。「やばい、捕まるのでは?」と感じるが、同行のファラドーンが「日本から来たジャーナリストだ。怪しいものではない」と説明。警官がなぜ覆面をしているかというと、テロリストが警官の顔を記憶し、そして任務以外の時間帯で撃ち殺されてしまうからだ。
自爆テロ現場はメインストリートにそった何の変哲もない商店街。11日(一昨日)に自動車による自爆テロがあった。この場所で10人が殺され25人が重傷をおった。テロで破壊された店の中に入る。自爆した車は跡形もなく、車のボデイの破片、ホイールなどが転がる。
その隣の店は跡形もなくブロックだけになっている。店の中にいた2人が、店の下敷きになって殺されている。地面に血がこびりついている。この店は肉屋さん、肉を売っていた人が殺された。
その隣の店に血が流れてその血にハエがたかっている。わすか2日前のテロで流された血にハエがたかる。
ファラドーンは「早く撮影しろ。もうだいぶ時間が過ぎた。危ないぞ。次に移動しよう」と催促してくる。もっといろんな人にインタビューしたいのだが、やはり安全第一に行動すべきだ。後ろ髪を引かれる思いで、現場を後にキルクーク病院へ。
キルクーク病院は現場から一番近い病院なのだが、激戦地のために満足な医療設備が整っていない。薬もなく、この病院では助かる患者も助からないのだという。したがってお金のある患者はアルビルの病院へ移送される。ここに留まっているのは貧しい患者。
病院の院長にあいさつし、すぐに2階の病棟へ。
13才の少年ムラート君がドーズフルマートーでテロに遭った。彼の顔面は破壊され、右目はつぶれ、頭には包帯がぐるぐる巻き。「あー、あー」とあえぐ彼の胸には鉄の破片が13個も入っている。隣の母親は昨日から息子の前で泣きはらしている。父は死んでいるので、この息子だけが頼りなのだが…。彼はフィトロ祭なので友人と広場で遊んでいたときにテロに遭った。「イラクでは子どもの遊び場所もないんだ。これがイラクの子どもたちの運命だよ」と見舞いに来た親族。
38歳のカマルさんがベッドに横たわっている。彼は先ほどのキルクーク自爆現場でテロに巻き込まれた。あの肉屋の前で肉を買おうとしていた時にテロにあった。日本でいえば「大晦日におせち料理の具材を買おうとして、市場でテロに遭ったようなもの」である。
なぜ、最近になってテロが頻発しているのか?
2通りの理由があると思う。
その1 祭りで楽しそうにしている市民を狙って、「天国から地獄へ」落としたほうが、相手へのダメージが大きい。
その2 石油利権に関して、クルド政府がアメリカをはじめとする石油会社と優先的な契約を結ぼうとしているため、取り残されそうな、スンニ派、シーア派、トルコマンなどが、反発を強めている、ことがあげられる。
何はともあれ、スレイマニア市に無事帰り着いてホッとしている。本日撮影した映像などを通じて、テロで殺されているのは普通の市民であること、石油利権をめぐって紛争が激化していること、そしてその原因を作ったのが、アメリカ、イギリスなどの大国であること、などを訴えていけたら、と考えている。

こちら(北イラク)では、電気事情が悪いため、インターネット接続時間が限られている。したがってブログを更新することが2日ほどできなかった。この間にイランでの邦人誘拐事件が起こったため、ご心配されている方も多いだろうと想像する。こちら(スレイマニア)では、治安に関しては比較的安定していて、なおかつPUK(クルド愛国者同盟)と行動をともにしているので、無事取材を終えて帰国できると考えている。で、以下はこの間の行動。

本日(10日)深夜、アンマン発アルビル行きの飛行機に搭乗。2時間ほどのフライトでイラク、アルビルに到着。11日未明、無事入国審査をパスしてアルビルへ。出迎えてくれたのはファラドーン。PUKの職員で、彼と行動するのはもうすでに3回目だ。
未明の車窓から見えるアルビルの風景は、4年前とは一変していた。まず道路が拡幅され、メインストリートには高層ビルが建築中。アルビルはクルド地域の首都で、イラク復興費、そしてオイルマネーで、大規模なインフラ整備が進んでいる様子。アルビルのKDP(クルド民主党)責任者は、「今から4年後、アルビルはドバイのようになる」と豪語している。UAEのドバイは、この数年間中東で最も開発が進んだ国際都市だ。
約3時間のドライブでスレイマニア市に到着。アルビル〜キルクーク〜スレイマニアへと続くメインストリートをぶっ飛ばせば早いのだが、途中のキルクークが危険なので、山道を遠回りしたため、3時間かかったわけだ。
仮眠後、スレイマニア大学がん病棟へ。ラマダン明けのフィトロ祭が控えているため、症状の軽い子どもは実家へ帰っている。したがってベッドに横たわる子どもは、数人。全てが、ここ2ヶ月以内にがんを発症。ハラブジャで使用された化学兵器のためなのか、それともアメリカが使用した劣化ウラン弾のためなのか、やはり特徴は「子どもが多く、最近になって発症」というもの。半年前に来たときに入院していた子どもはもうすでにいなかった。亡くなったのであろうか…。
「日本から人道支援のNGOが来た」とのことで、地元テレビの取材を受ける。こちらが病棟を取材したいのであるが、しばし病棟の前でインタビューされる。本日の模様は午後9時の地元ニュースとして報道された。
午後9時半、私の宿泊するホテルにスレイマニア大学の教授たちが訪れてきた。実は彼らは今年広島で開催された原水爆禁止世界大会に出席したのである。クルドから来日する際に、私がビザを段取りしてあげたので、そのお礼もかねてやってきた。
ラマダン中であるが、ウエルカムパーティーを開催。久々のウィスキーにありつく。ここクルド地域はそれほどイスラムが強くないので、酒類は比較的簡単に手に入る。アンマンでは非常に苦労したのであるが…。
飲み干したウイスキーのグラスが増すにつれ、みんな饒舌になっていく。互いに下手な英語で自らの人生史を語りだす。18歳でフセインの軍隊に逮捕され、1年間を刑務所で過ごし、その後イラン・イラク戦争が始まり、イラン側について蜂起。やがて化学兵器を使われ、死屍累々の町を後に山に逃げ込み、ペシャマルガ(PUKの兵士)になって、1991年独立を勝ち取る…。1961年生まれなので私と同年代だが、老けて見えるのは、それだけ苦労しているからだろうか…。
何はともあれ明日はラマダン明けのお祭りだ。みんな嬉しそうな様子。ウイゥキーのほろ酔い気分で、今日は寝るとしよう。

本日(9日)は、アンマンで活動を続ける日本のNGO、JIM-NET(ジムネット)の事務所を訪問。出迎えてくれたのは加藤丈典さん(25歳)。大学を卒業してクェートに留学していた彼は、アラビア語がぺラペラ。アンマンに来てまだ2週間に過ぎないが、会話ができるので、すっかり街に溶け込んでいる。
彼の案内で、イラーフちゃん(5歳)のアパートへ。イラーフとは「みんなが知っている者=人気者」という意味。2002年、バグダッドの北方ディヤラ州で彼女は生まれた。正常分娩で、健康だった。やがてイラク戦争が始まり、ディヤラ州もアメリカの空爆を受けた。3歳になった頃、イラーフは頭痛を頻発し、嘔吐するようになった。左目が異常に片寄り、父は彼女を病院へ連れて行った。「脳内に腫瘍ができている」との診断。イラクでは治療は困難だった。父は自分の車、家財道具、そして弟の車まで売り払って、1万ドルのキャッシュを作ってヨルダンまでやって来た。2006年11月のことだ。父と娘、2人だけの生活が始まる。幸い、キングフセインがん病院での手術が成功し、症状は快方に向かっている。手術後30数回にわたる放射線治療を経て、現在は薬による治療。イラーフの治療費だけで1万ドルもの大金を使い果たしてしまった父は、今、JIM−NETの援助で細々と生活する。アパートの家賃、食費、その他…。イラーフの治療はあと一年は続くので、日本からの援助だけが頼り。
現在はラマダーン中なので、日没後、イラーフ父子と加藤さん、同行の吉田君そして私の5人でささやかな夕食をとった。普段は二人きりで食事をすることの多い父が「たくさんの人と一緒に食事をするのは楽しい。イラーフも喜んでいる」と、感謝の言葉。ラマダーン明けが数日後に迫る本日は、日本でいえば大晦日のようなもの。母親とはなれて早1年。母とは電話だけの連絡だが、電話するごとに、母は「イラーフに会いたい」と泣いてしまう。何とかしてラマダン明けのフィトロ祭にはディヤラ州に帰郷したいのだが、アンマン〜バグダッドの飛行機運賃がばか高いのだ。なぜか?撃墜される恐れがあるので、高い保険に入っているからである。もちろん陸路でも帰れるが、治安の問題と、イラーフの体力の問題があって、空路で帰らざるを得ない。
明日、父はイラーフを連れて航空会社に交渉に行く。しかし運賃をディスカウントしてくれる可能性は低い。なぜなら陸路は危険なので、多くのイラク人が空路を利用している昨今、飛行機は常に満席状態なのだ。
「イラクの子どもを支援する大阪市民基金」が、「イラーフ、パパママ募金」を呼びかけている。イラーフの治療が終わるまで、日本から援助金を送ろうという取り組みである。詳細はホームページで。http://supporttheiraqi.aikotoba.jp/

今回は少し戻って8日の状況。

8日はダマスカスのUNHCR、国連難民高等弁務官事務所を訪ねた。半年前にも訪れたのだが、場所がダマスカス郊外に移動しており、なお多くのイラク難民が難民申請のために長い列を作っている。UNHCRの前で撮影を始めると、すぐに警備員が飛んできて、「ここは撮影はダメ。許可を得てから」。UNHCRの警備員と私たちのやり取りを見ていた難民たちが、「この事務所は何もしてくれない」「何日並んでも同じなんだ」「日本からか?この状態を伝えてくれ」などと黒山の人だかりに。
難民たちの不満は極限に達しており、このまま難民認定されなければ、バグダッドに戻らざるを得ない状況がよく分かった。それにしても国連は「冷たい対応」に終始している。やはりアメリカに遠慮しているのだろうか?コソボやボスニアでは活躍していたUNHCRだが、この難民を作った原因は明らかにアメリカの不当な侵略であるから、おおっぴらに活動できないのだろうか?国連の持つ表の顔と裏の顔の一場面を見る思いだ。
200万人ともいわれる難民にとって、最も必要なのは人道支援だ。UNHCRはその戦争がどんな背景であるにせよ、公平に活動しなければならないと思うのだが、現実はどうも違うようだ。
シリアの情報省はシリア・バース党の建物の中にある。バース党と聞くと、フセインを思い出して少し気が引けたのだが、受付も愛想がよく、すぐに情報省幹部のアリー氏と面会できることに。訪問の目的を告げると、アリー氏は歓迎してくれて、「人道支援の取材なので、協力しよう」という回答。取材制限されるかと思ったところで、逆に取材協力の返事が返ってきた。シリアとしてもアメリカの戦争に反対し、この戦争犯罪を告発したいと考えているのかもしれない。
いずれにしてもダマスカスを再訪し、難民の生活に密着していきたいと思う。アリー氏に感謝しつつ、バース党を後にしたのだった。

本日(9日)は私の娘、宝の命日である。「命どぅ宝」という沖縄の有名な言葉から、宝と名付けた。宝が生まれたとき、私はレバノンでクラスター爆弾の取材をしていた。1200人ものレバノン人がイスラエルの空爆で殺されていたが、戦争が終わっても、クラスター爆弾の不発弾で多くの人々が現在進行形で傷つき、命を奪われていた。
宝は18トリソミーという難病で、遺伝子の18番目が「トリソミー」、本来なら2本しかない遺伝子の腕が3本あり、その異常で心臓や耳が正常に発達していなかった。心臓の壁が育っていなかったため、肺からのきれいな血液と、全身から戻ってくる汚れた血液が混ざってしまい、医師からは「2ヶ月持つかどうか」と宣告されていた。
亡くなる前日、苦しそうに呼吸する宝の指を保育器越しに握ってやると、宝は私と妻の両方を交互に見つめてくれた。今にして思えば、あれが最後の別れだった。
あれからちょうど一年、私はイラク入りをめざして中東に戻ってきた。ここに暮らす戦争犠牲者はこの4年間で家族を、愛する人を失った。自ら障害を負ったり、生活の基盤を失った人がほとんどだ。この地でたくましく生きる子どもたちを見ていると、どうしても「宝が生きていたら、同じくらいやな」と考えてしまう。
日本と違って、こちらは多産系なので子どもが多い。貧しいながらもたくましく生きる姿を見ていると、「子どもは社会の宝物」だと感じる。
おそらく、近日中にイラク入りをすることになり、子どもを失った親、親を失った子どもの取材にあたることになるだろう。彼らの証言を、できるだけ身近なものに引き寄せて取材したい。

本日(7日)もジャラマナ地区。地区の中心、とあるオフィス。イラク難民に集まってもらって、一家族ずつインタビュー。通訳はヌーマン医師。放射線科の医師としてバグダッドで働いていたが、「医師は殺す」という民兵からの脅迫状が届いて、シリアに逃げてきた。つまり通訳も戦争被害者である。
ヤシンさんは妻と子ども3人の5人家族。フセインの軍隊に所属していたヤシンさんは、バグダッド軍事空港のすぐそばに住んでいた。2003年3月〜4月の空爆で、ことのほか徹底的にやられたのが、このバグダッド軍事空港近郊だった。長男は現在8歳。つまり空爆時は4歳だ。4歳まで正常に発達していた長男の身体が、空爆後変調する。言葉がうまくしゃべれなくなり、視力が低下、歩き方もぎこちない。不安になった両親は病院で診察を受けるが、回答は「脳がダメージを受けている」。本来なら小学校3年生の長男は、現在1年生として小学校へ通う。
二男は当時わずか8か月。4歳になった今、やはり「脳のダメージ」のため、知的障害をおっている。劣化ウラン弾?あるいはまた違った種類の爆弾の影響なのだろうか?
兄弟に共通するのは、「黒目の位置がおかしい」こと。黒目、つまり瞳が異様に中央に寄っている、いわゆる「ひんがら目」になっている。
4年前バグダッド軍事空港の近郊を訪れたとき、やはり同じような娘さんと出会った。空爆までは正常に発達した娘が、空爆後、ぐったりして、やはり視力低下を起こしていたのだ。あの時通訳のワリードは「何か新しい爆弾を使用したのでは?」と言っていたが…。
空港の周囲は、フセインの軍人がたくさん住んでいたところで、アメリカはそんなところだからこそ、「新型兵器」を試したのだろうか?

ヤシンさん家族にインタビューしていると、次から次へと「私の話を聞いてくれ」「俺の息子は…」と、難民たちが口々に窮状を訴える。このジャラマナ地区に腰を落ち着けて取材する必要があると感じる。
今回の取材では、イラククルド人地区にも入らねばならない。しかし予定を変更して、クルド地区を早めに切り上げて、ダマスカスに戻ることにした。その時に、イラク難民の実態をもう少し詳しく取材しようと思う。帰国すれば、この人たちの映像を観てもらわねばならない。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)はほとんど何も援助していない。人道支援のNGOもいない。彼らは家財道具や車、家を売ってシリアにやってきている。しかし仕事もなく、難民認定も受けられないので、日々の生活にも事欠く状態だ。
「ノーホープ、ノーヘルプ」(希望も援助もないよ)。ヌーマン医師が絶望的な現状を一言でまとめる。
ラマダン明けの「フィトル祭り」が迫っている。日本の正月にあたるお祝いの日だ。しかしイラク難民たちの表情は暗い。彼らの絶望は、いつまで続くのだろうか…。

私の宿泊したダマスカスのアパートではインターネット環境がよくないため、ブログを毎日更新できなかった。したがって本日も前日の続き。
タクシードライバー、マンスール(28歳)の運転でジャラマナ地区へ。マンスールは飛ばす。高速道路はもちろん、渋滞に巻き込まれても、クラクションを連打し、前を走る気の弱い車を追い払い、右へ左へと斜線を変更し、「そんなに迫れば当たってしまう」というギリギリのところまで追い込みをかけて、「イッツ、ドンキー(のろま野郎め!)」と悪態をついて追い抜いていく。
ジャラマナ地区の大通りはイラク難民であふれかえっている。複雑な街並みの中で、道行く人に聞くこと数十回、ようやく前回訪問したオフィスに到着。このオフィスで通訳を確保。明日の午前10時から本格的な取材が可能に。
ジャラマナ地区を後に、サイダ・ザイナブ地区へ。ここにはバグダッドからの長距離夜行バスが到着するバスターミナルがある。
バスターミナルはイラク難民でごった返している。「ビデオ撮影OK」とマンスール。その言葉を信じて、バグダッド行きのバスの乗客を取材。
バスの前でビデオカメラを向けながら取材をしていると、「何だ何だ」と野次馬が集まる。やがて野次馬たちは「俺もイラク人だ。撮影してくれ」「こいつはビザが切れてバグダッドに帰らざるを得ないんだ」「米兵も恐ろしいが、スンニとシーアの内戦で民兵が殺しまくっているんだ」など、口々に叫びだす。
「やばいな」と感じるが、ここでひるんでは取材ができない。同行の吉田君と、バスの乗客や運転手を取材しているときだった。
「お前たち、何をしているのか」。シリアの秘密警察だ。「やばい!」と思ったが後の祭り。どうやら私が写真を撮ったので、そのフラッシュでばれてしまったようだ。「出発の記念に撮影しただけですよ」などと答えたのだが、警官は携帯で何やら上司と連絡している。
「これはやばい」と感じてマンスール、吉田君とともに、車に飛び乗り発車させようとするが、その前に秘密警察が立ちふさがる。マンスールは「ちょっと風景写真を撮っただけ。見てくださいよ、バスの外観しか写ってないでしょ」と私のデジカメの一部を見せながら、吉田君のビデオカメラを後部座席に隠してくれた。
私のデジカメにはバスしか写ってなかったので、秘密警察官は「次回から人々は撮らないように」と「釈放」してくれた。マンスールのとっさの機転で、一番大事なビデオカメラを守ることができた。
マンスールをドライバーに雇ったのは、結果的に正解だった。英語はあまりしゃべれないのだが、彼は頼りになるヤツだった。
これからシリアでの取材が続くが、「やりすぎは禁物」な国なのだ。

本日(6日)は、アンマンを発ってシリアの首都ダマスカスへ。乗り合いタクシーで一人15ヨルダンディナール(約2千円)也。ダマスカスまでは砂漠の中の一本道。1時間弱でヨルダン・シリアの国境。アンマンやダマスカス、ベイルートという首都の名前を聞くと、それぞれかなり離れているように思いがちだが、実際は車をぶっ飛ばして2時間ほどの距離に過ぎない。
ヨルダン側の出国審査でかなりの時間を待たされる。ミャンマーでの長井さんの事件があって、日本人ジャーナリストの出入国に関して、厳しさが増している様子だ。
シリア側の入国審査では、係官が携帯電話を窓越しに手渡して「会話しろ」と言う。会話の相手はシリア情報省の幹部。「何をしに行く?」「いつまで?」「職業は?」「メーンの活動場所は?」など矢継ぎ早に「尋問」される。やがて許可が下りて晴れてシリアに入国。私のパスポートにはイラクやアフガンはじめ、各地のビザがスタンプされているので、このような審査は、シリアではお約束事のようだ。早く「パスポートをきれいに」することが必要なのかもしれない。
国境から1時間でダマスカスに到着。半年前と同じく、大変な交通渋滞。100万人とも200万人ともいわれるイラク難民がこの街に流れ込んでいるのと、ラマダンで日の入り前に帰宅を急ぐ通勤の車で、一つの交差点を越えるのに、排ガスを思い切り吸い込まねばならない。おそらくダマスカスでは日本のような排ガス規制はないのであろう、真っ黒な煤煙を吹き上げながら、オンボロバスがすぐ前を走る。車内では運転手以下全員がタバコを吸うので、窓を閉めるのも地獄、開けるのも地獄、という最悪の状況。
今回はホテルではなく、アパートの一室を借りる。ホテルに泊まるよりも自炊ができて安くて便利だ。
到着後、休むひまなくジャラマナ地区を目指す。ジャラマナ地区はイラク難民の街。ジャラマナ地区へ行けば、また新たな難民たちの生活を取材できるだろう。今回は通訳のハーミドがいないので、英語をしゃべる通訳を見つけることができるかがカギ。大通りでタクシーを拾う。運転手は28歳のマンスール。英語しゃべれるか?と聞くと「アッリトル(少し)」。他のタクシーも似たようなものだ。仕方ない、こいつを頼りにジャラマナ地区に潜入しよう。(以下、翌日に続く)

本日(5日)は金曜日で休日のため、イラク航空の事務所は仕事をしないため、チケットの段取りができない。仕方なく、アンマン郊外にあるバカー難民キャンプへ。ここはパレスティナ難民キャンプとしては、ヨルダン最大の規模である。普通「難民キャンプ」と聞くと、テントが張ってあって国連の旗がはためき、UNHCR(国連高等弁務官事務所)と大書されたトラックが行き交うような光景を想像するが、何しろこのキャンプができたのは60年前である。パレスティナ問題は、1948年の第一次中東戦争から現在に至る60年間の歴史があるので、難民キャンプも年季が入っているのだ。
1967年、第3次中東戦争(別名6日間戦争)当時は、この地にはテントが張られ、約4万人の難民が緊急避難していたのだが、それから約40年の歳月は、このキャンプをテントからバラック小屋、そして狭いアパートメントへと変えてしまった。つまりバカーキャンプを一瞥するだけでは「普通の貧困街」と変わらない。
キャンプの中の細い道、コカコーラや菓子を売る店の主人、ハーヤクさん(52歳)も、67年の6日間戦争でイスラエルの民兵に家を終われ、アンマンに逃げてきた。近隣の村の住民が民兵に虐殺され、赤十字が緊急避難としてハーヤクさんらをイスラエル〜ヨルダン国境に非難させた。しかしイスラエル軍が国境の難民キャンプを空爆してきたので、じりじりとキャンプをヨルダン側に移動させ、最後にヨルダン政府がバカー地区に難民を誘導した。
当時12歳で小学校5年生だった彼は、以後国連の援助で学校を卒業、ごみ収集業で働き、その後保険会社を退職して現在は無職。
妻も難民で、夫婦の間に12人の娘と4人の息子。つまり16人もの子どもを育てたのである。バカーキャンプにはその後もイスラエル軍によって土地を奪われた人々がやってきたことと、ハーヤクさんのように「多産系」の夫婦が多かったので、いまや人口は50万人以上。つまり一つのキャンプが、都市の様相を呈しているのだ。
「ハマスとファタハ、どちらを支持するか?」と、ハーヤクさんにも、その他の人々にも尋ねてみたが、「どちらも支持しない」との答え。理由は、ファタハ幹部は汚職にまみれているし、ハマスは武力で支配しようとするから、という回答だった。パレスティナ人を解放するには、汚職にまみれている政府でもなく、テロや暴力で解決しようとする政府でもない、新たな政府が必要だという意見であった。
私は今、来年3月頃に、中東への「スタディーツアー」を考えている。
このバカーキャンプを参加者のみなさんと訪れてみるのも面白いかもしれない。

昨日(4日)現地時間で午後3時半に、無事アンマンに到着。あと1週間ほどでラマダンが明ける。ラマダン中は、特に午後3時頃から6時頃までが一番しんどい時間。何せ、日の出から今まで飲まず食わずで過ごしているから、疲れがピークなのだそうである。ドライバー兼通訳のハーミドが「ラマダン中は交通事故が多い。特に夕方。みんなお腹がすいて気が立っているんだ」。確かに中東の、普段から荒っぽい運転がさらに荒っぽさを増している様子。
午後6時半、モスクから「日の入りを告げるアザーン(お祈りのお知らせ)」が流れれば、いっせいに食事開始。レストランは満杯。みんな嬉しそうに料理にかぶりついている。もし日本で「ラマダンをやれ」と言われたら、私たちは約一ヶ月間我慢できるだろうか?
日の出が6時とすると、大抵私は7〜8時に起きるので、朝飯はアウト。何も食べずに夕方まで持つわけがない。アッラーも酷なことを人々に要望するものだ。
「なぜラマダンをするの?」と主婦サマーに尋ねた。
「昔、人類は貧しかった。農耕を覚え、狩りの技術が発達して豊かになった。さらに今でも貧困地域では満足に食べられない人々がいる。だから年に一回くらいは、貧しかった頃を思い出そう、貧困な人々の立場になってみよう、という意味を込めてラマダンをするのです」との答え。
断食に耐えられない子どもはどうするのか?それは「耐えられる年齢までは食べてもよい」のだそうだ。大抵小学校の高学年、中学校くらいから大人に混じって断食に参加するのだという。
そんなラマダンもあと一週間。ラマダン明けのフィトル祭で、人々の喜びは爆発する。ラマダンは太陰暦で考えるので、今年は10日頃に明ける。大まかに言えば、一年につき約11日前倒しになっていく。私が始めてイラク入りしたのが11月中旬で、バグダッドはラマダンの真っ最中だった。あれから4年。今や9月にラマダン入りするようになった。夏のラマダンは夜が短いので厳しい。ともあれ、今回の旅でフィトル祭を取材しようと思う。

いよいよ本日午後11時50分発のカタール航空で中東へ。関空から毎日飛んでいるのだが、深夜のフライトなので、関空には9時についても余裕で間に合う。9時を過ぎた空港はガラガラ。レストランも9時半頃にはオーダーストップとなり、シャッターが閉まる。24時間空港と違うんかい!と思うが、客が全くいないので、閉めるのも仕方ないことなのだろう。そんな関空に2本目の滑走路を作ったのだから、これはもう赤字空港への転落に加速度がつくのではないか?
ドバイやドーハ国際空港は早朝5時でも人でごった返しており、その差は歴然。
今回は乗継が悪く、ドーハで6時間も待たねばならない。アンマン到着は日本時間で明日の午後9時半。ほぼ丸一日費やしてようやくアンマンだ。やはり中東は遠いなぁ。

ビルマ(ミャンマー)で兵士に射殺された長井さんのご冥福をお祈りするとともに、丸腰のジャーナリストを有無を言わせず撃ち殺した、軍事独裁政権に抗議する。私はビルマ(ミャンマー)には入ったことがないのだが、タイとの国境、カレン族の村に泊り込んだことがある。
国境の町メーサイから車で1時間ほどの所に難民キャンプがあって、当時(2000年)で約8万人ものカレン族がビルマ側から逃げてきていた。当初国境付近にあった難民キャンプは、ビルマ兵士が攻めてくるので、じりじりとタイ側に後退を余儀なくされていた。ビルマの人権侵害、少数民族迫害は当時から有名で、「冷血な」政府に対して、怒りが込み上げていた。なぜビルマのような政府を、ASEANに加入させるのか、不思議だった。
さて、私はといえば、やはりイラクである。明後日10月3日から、またヨルダン・アンマンまで飛び、そこからイラク入りを考えている。
「交通事故と同じ。慣れた頃が危ないよ」とご心配をいただいている。安全第一で取材したいと思う。イラク入りの道中については、このブログで更新していくので、ご愛読よろしくお願いします。

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