nishitani: 2008年6月アーカイブ

6月12日夕刻6時。スーダン・ハルツーム空港からドバイ経由で大阪へ。しかし飛行機は飛ばない。待つこと1時間、2時間…。どうやら一昨日の大事故の影響で、大幅にダイヤが乱れているようだ。
ようやく飛行機が飛ぶ。ドバイまでは3時間半のフライト。ドバイ上空で「本機は着陸態勢が整うまで待機します」とのアナウンス。空港の上空で旋回しながら、着陸を待つ。この時点で、すでに午前2時。ドバイ発大阪行きの飛行機が2時35分発なので、あせりながら、着陸を待つ。
着陸。ロンドンやJFK空港への客たちと競争しながら、ボーディングパスを求めるが、この時点で、ロンドンと大阪への客はアウト。無常にも大阪への飛行機が飛んでいった。
ということで、想定外のドバイにもう一泊している。空港近くの5つ星ホテルに泊まって、食事も無料提供なのだが、それより日本での仕事が気にかかる。
ハルツームで禁酒して5日、今日はうまい酒を日本で飲む予定だったのだが、もう一日禁酒日延長である。

6月12日、いよいよ本日がスーダン最終日。午前中UNHCRのハルツーム事務所を訪問し、活動内容を取材。その後、昨日も訪れた「ジャバル・アウリヤ」避難民キャンプへ。

昨日はユニセフと一緒だったので、検問をすぐに突破できたが、本日はタクシーである。パスポートと撮影許可証、IDカードなどをチェックされるが、無事通過。国内避難民キャンプには、ダルフールからの避難民がたくさんいるので、スーダン政府はジャーナリストの出入りに神経を尖らせている。

避難民キャンプで、日本からのおもちゃを配る。おもちゃがある、と分かると、どこからか「わいてきたように」人々が集まってくる。風船やサッカーボール、シャボン玉など、どれもがすごい勢いで、人々の手から手へと渡る。

子どもを抱えた母親にインタビュー。彼女はやはりダルフールから逃げてきて、ここに住んで16年。10人の子どもがいる。泥でできた家の中には、所狭しとベッド、食器、ガスコンロ…。電気は来ていないが、プロパンガスは買えるようだ。ロバで引っ張ってきた水をドラム缶ごと買っていて、ドラム缶一つで16ポンド(800円)だという。16ポンドは、この人たちにとっては大金である。

ダルフール紛争は、この数年で悲惨さを増しているが、多くの人々の証言によると、16年前から逃げてきているという。紛争は今に始まったものではなく、長期間続いていることが分かる。これは南部のジュバでもそうだった。今になってようやく注目されているだけで、本当はもっと早い段階で、国際社会が注目すべきだったといえる。(こんなえらそうなことを書いている私自身、スーダンの状況については、こちらへ来るまで無知だったに等しい)

さて、約2週間弱にわたってスーダンの現況を見てきたが、まだまだ「かじった程度」の取材である。私のおもな取材先はイラクであるが、戦争で家や財産を失っている状況は、イラクもアフリカも変わらない。来る6月20日は難民の日である。一年でその日だけ注目されるのではなくて、ずっと関心を持ち続けて行きたいものだ。

6月11日未明、東京から電話。スーダン・ハルツームの空港で飛行機事故があり、多数の死者が出ている、との連絡。あわててテレビをつけると、アルジャジーラが特集している。
死亡したのはイラク人2人とスーダン人40人ほどで、200人以上が病院に運ばれているとのテロップ。深夜、タクシーを飛ばして空港に向かおうとするが、ホテルのスタッフが「行っても無駄。現地周辺は物々しい警戒で、中に入れてもらえない」とのこと。それにこの時間、タクシーも走っていない。

仕方なく朝までテレビを見て、その後、ユニセフへ。

ハルツーム・ユニセフ事務所の職員と一緒に、「ジャバル・アウリア」という国内避難民キャンプを訪問。
「ジャバル・アウリア」は、1992年にできて、以後避難民が急増し、今では2万5千人を数える巨大なキャンプ。泥で作られた家が延々と続く。本日は、このキャンプの中で「HIVエイズ予防教育」が行われているので、そこを取材する。
それにしても広大なキャンプだ。泥でできた避難民の家のほかに、やはり泥でできた店、学校、診療所。
ロバが青いドラム缶を運んでいる。「あれが給水車だ」とスタッフ。水道がないので、このようにロバできれいな水を運んでいる。電気はなく、自家発電のジェネレーターがうなっている。そんな中、「青空エイズ教室」が開催されていた。
正面にはユニセフが作成したポスター。「HIV陽性になっても、普通に生活できますよ」「栄養あるものを食べて長生きしましょう」などとアラビア語で書かれている。大事なのは「差別されないこと」。サハラ以南で爆発的に増えているエイズ。このキャンプは南部スーダンからの避難民が多いので、結構陽性の人が多いそうだ。「怖がらずに健康診断を受けましょう」というポスターも。
こうしたポスターを見せながら、エイズ予防教育をするのかなと思えば、そこはアフリカ。まどろっこしい話ではなく、歌と劇でエイズ予防教育。現地語なので、何を言っているのかは分からないが、歌の最後に抱き合ったりしているので、「陽性でもずっと友達だよ」などというメッセージなのだろう。

エイズ教育の現地責任者は18歳の女性。彼女はスーダン西部、ダルフールからの避難民だ。「エイズのことを知らずに感染する人が多い。ちゃんと知らせて、予防教育をすることが大切だと思ったので、責任者を引き受けた」とのこと。
内戦で家や家族を失い、貧困のどん底に突き落とされたあと、エイズが襲う。12歳の少年がいる。将来何になりたいかと尋ねると、「医師になりたい。医師になって家族を助けたい」との答え。希望の灯は、まだ失われていない。


6月9日夕刻に、ハルツームのシナ・化学薬品工場を訪れた。ここは1998年にアメリカによるトマホークミサイルで徹底的に破壊されたところ。98年はビンラディンのアルカイダグループによって、ケニアとタンザニアの米大使館が自爆テロで襲われ、数百人の死者を出した年。アルカイダが一躍悪名高くなっていく過程の事件だ。
実は96年まで、ビンラディンはこのスーダン・ハルツームに匿われていた。スーダン政府がイスラム原理に近いので、ビンラディンを受け入れざるを得なかったのだと思う。

ビンラディンとの関係を疑ったアメリカ、ハルツームの工場で化学兵器を作っているのでは?と、この工場を破壊したのだ。この攻撃には、多分に「報復」の意味がこめられている。しかし狙い撃ちされた、シナ化学薬品工場は、単なる化学薬品を調合するだけの工場だった。

現場は当時のままに残されている。数発のトマホークが、ピンポイントであたっている。トマホークははるかかなた、紅海上の艦船から撃たれたもの。瓦礫と化した工場の正門には、なぜかスーダン人がいて、「ここを撮影しては問題だ」などと言う。たまに私のようなジャーナリストが来るので、何か言って金をせしめようという魂胆だ。10ポンド(約400円)渡して、中へ入る。無残にも破壊された工場の瓦礫の中に、「普通の」薬瓶が転がっている。ここが化学兵器製造工場でないことなどは、CIAなら知っていたのではないかと思われるが、アメリカはミサイルを撃ち込んだ。「テロとの戦い」の走りのような事件だ。

いきなりミサイルを撃ち込まれたスーダン政府の面目は丸つぶれであっただろうが、その後、スーダン政府は明確にこの事件を非難していない。しかし、現場をそのままに残しておくことで、「無言の抗議」をしているのかもしれない。
もしスーダン政府がビンラディンを追い出さなかったら、9・11後、すぐに戦争になったのは、このハルツームであっただろう。ビンラディンはスーダンから追い出され、アフガン・タリバンの元に匿われた。歴史の運命を、少しだけ感じる。

ここハルツームは、異常な暑さで、20分も外へ出ていれば、シャツが汗でびっしょりになる。白ナイル川をボートで渡り、中州で繰り広げられている農業を見物していたのだが、あまりの暑さに熱中症になりかけてしまった。ナイルで水浴びでもすればよかったのかもしれないが、白ナイルは名ばかりで、実際の水は「黒ナイル」。ここで泳いで、誤って水を飲み込めば、下痢をしてしまうと感じたので、水浴びはやめた。現地の子どもたちは気持ちよさそうに泳いでいたのだが…。

さて、以下は7~9日までの記録。

6月7日は、ジュバからハルツームへ飛んだ。その足でハルツーム政府の外国人メディア事務所を訪問。ハルツーム市内の撮影許可を申請。ダルフールに行きたいと申し出るが、ダルフールへの移動許可は、早くて1週間、平均すると10日も待たねばならない。
西側メディアがダルフールに入ることに、神経質になっているようだ。今回の取材日程では、ダルフールはあきらめるしかない。

8日、ユニセフを訪問。ハルツーム市内にある国内避難民キャンプへの取材を申請し、快諾を得る。

9日、JICAのスーダン事務所を訪問。所長の宍戸さんにお話しを聞く。
JICAがスーダンで活動を始めたのは、比較的早く、現バシル政権になってさまざまな人権弾圧問題が出てきて、いったん活動を中止。05年、北部と南部の停戦合意を受け、活動を再開した。
現在力を入れているのは、母子保健。国土が広く、自宅出産の多いスーダンでは、乳幼児死亡率が高い。したがって助産師の育成に力を入れている。具体的には800のコミュニティーに800人の助産師を目標としている。現在は500人しかいないので、あと300人を育成しなければならない。
加えて、「産婆だけではダメ」で、妊婦の健診や新生児へのワクチン投与、村への衛生教育、HIV予防教育など、助産師の仕事は多岐にわたる。
こうした母子保健の取り組みに加えて、ここハルツームでは、JICAの援助で建設された「イブン・シナ病院」が稼動している。
病院へ。正面には日の丸とスーダン国旗。中へ入ると、外来患者が列を成して待っている。
この病院では透析やX線検査が可能で、慢性疾患の患者さんに喜ばれている。放射線の機械や透析の器具などは、1983年に日本が寄贈したもの。25年たった今も、何とか稼動しているが、CTスキャンなど、最新の医療器具が必要だ、と現場の医師。

自衛隊をスーダンに派遣するお金があるなら、その分をこの病院に回せばいいのに、と感じる。
さて、ハルツーム市内の取材許可証をゲットできた。国内避難民キャンプを取材できればいいのだが。


ハルツームに帰ってきて2日目。首都は平穏で人々も親切。日中は40度近くまで気温が上がるので、水分補給を欠かせない。ここではネットができるのがうれしいが、アルコールは絶対に飲めない非常に不便な国だ。以下は、一昨日の取材。

6月6日、今日はジュバで活動するJVC(日本国際ボランティアセンター)を取材。ここジュバでは悪路のため、さすがトヨタのランドクルーザーでもよく故障する。JVCは自動車の修理工場を運営し、現地スーダン人に技術を教えながら、毎月40台ほどの自動車を修理・改修している。
ここで働く30人ほどのスーダン人は全て帰還民。それぞれウガンダやケニアなどからスーダンに戻ってきた若者たちだ。修理する車の多くは、UNHCRのものであったり、他のNGOの車であったりする。
ピースウインズジャパンの車がやってきた。雨季になったので、ランドクルーザーの運転席付近まで水に漬かってしまった、とのこと。
昨日のニムレで道がところどころ巨大な水溜り、小さな池になっていたのを思い出す。

JVCを後にして、ジュバのウェイステーションを再訪する。一昨日300人ほどの帰還民が帰ってきたが、多くはすでに故郷へ向けて旅立ったようで、いまだに残っているのは数十家族ほど。この人たちも数日で故郷に戻れる日がやってくる。
戻ること自体は大変うれしいことなのだが、実は多くの場所で、難民と帰還民の「逆転現象」が起こっている。つまり、ウガンダに逃げた難民は、国連その他が援助して、学校にも通えるし、食料にも不自由しない。
しかしスーダンに帰還した人々は、故郷の家を焼かれ、学校もなく、電気もきれいな水も供給されない地域が多い。
これではせっかくスーダンに帰ってきたのに、ウガンダで難民生活を送るほうがマシだ、ということになってしまう。20年もの長きにわたって内戦を繰り広げてきた南部スーダンであるから、社会的インフラを整えていくのはこれから。しかし事態は急を要する。どんどん難民が帰ってきていて、昨年25万人の人口であったジュバが、今年は50万人を越えて倍増している。道路を整備し、学校を作り、医療機関を充実させる。この地域では、今が日本の出番であろう。

次にジュバ郊外にあるロロゴ難民キャンプを訪れた。ここは帰還民ではなく、エチオピアから逃げてきた難民たちのキャンプ。エチオピアでも激しい内戦の末、多くの難民が発生している。スーダン内戦がとりあえず停戦したので、3年前からエチオピア人がここへ避難しはじめたのだ。
かくして南部スーダンでは、他国へ逃げざるを得なかった8万人もの難民を生み出しながら、一方で他国から難民を受け入れている複雑な地域となった。

ロロゴ難民キャンプのエチオピア難民たちの話によると、政府軍が村を襲ってきて、大量虐殺があったようだ。ここからエチオピア国境までかなりの距離であるが、「3ヶ月かけて歩いてきた」と小さな子どもを抱えた母親。スーダンが平和になったと聞いてやってきた。このキャンプができたのは2004年。子どもたちは学校に通えていないし、電気もきれいな水もない。南部スーダン政府にとっては、自国の帰還民への福祉医療も整備できていない中で、エチオピア難民にまで手が回らないのだろう。ここにはUNHCRとWFPが入っている。唯一の頼りは、国際的な援助だけである。

続いて、ジュバ2日目の模様。

6月5日午前9時、ジュバの空港から国連機でスーダン最南端の町ニムレへ飛ぶ。車体にUNと大書された国連機に乗るのはもちろんはじめてであるが、わずか12人乗りのプロペラ機に乗るのも初体験だ。小型乗り合いバスのような車内、コックピットから前方の景色がよく見える。本日は快晴なので素晴らしいフライトになるだろうが、今は雨季である。雷雨が来れば、木の葉のように揺れるとのこと。

9時半、ジュバを出発。プロペラ機は空港を旋回しながら南方へ進路を取る。眼下にはミニチュアのようなジュバの街と、白ナイル川。頭に水を乗せて歩く女性の姿まで見える。原生林の上空を国連機が飛ぶ。「象の群れを見れるかも」と、UNHCRの現地副代表、ジェフさんが叫ぶ。
残念ながら象の群れは見ることができず、一時間ほどのフライトでニムレ上空。飛行機は旋回を数回繰り返し、高度を下げていく。「あれが空港だ」とジェフさん。「えっ?あれって草原の中に…」。そう、「空港」は草原の中に伸びる、一筋の赤茶けた「道」だった。舗装もされていない、デコボコの大地。ガガガッ、タイヤから白い煙を上げながら、国連機はけなげにも無事に着陸してくれた。

「空港」にはUNHCRの現地スタッフが待ってくれていた。トヨタのランドクルーザーに分乗し、目的地のガンジ村まで走る。「雨季が来たので、道は最悪だよ」ドライバーの言うとおり、デコボコ道に時折巨大な水溜り。「トヨタのランドクルーザー以外では、おそらく無理だね」。私が日本人だからか、「トヨータ!」と親指を立ててくれた。
約15㌔進むのに一時間ほどのドライブ、ようやくガンジ村へ。大きな木の下で子どもたちが集まっている。「青空学校」のようだ。
カメラを回すと、ワーワー叫んで近づいてくる。この子どもたちは全員が先月ウガンダから帰還したばかり。教師もまたウガンダからの帰還民だ。
50~60人ほどの子どもたちに、ユニセフの教科書が数冊。家の仕事を手伝っているのか、鍬を抱えたまま授業を受ける女の子もいる。
先生が、髪の毛を指差して「ヘアー」、口に「マウス」、耳をつまんで「イアー」。手持ちの黒板にスペルを書いていく。
「青空教室」の隣で、「青空健診」が始まった。ポリオの予防薬を子どもたちに飲ませていく。予防薬は赤十字が用意したもの。
学校の教師にも、予防薬を飲ませている医師にも、給与は支給されていない。「ボランティアワーク」と医師が答える。
「青空教室」から車で数分走ると、診療所がある。中をのぞくと、赤ちゃんを抱いた母親。昨晩から高熱が出ているので、ここへ連れてきたのだ。しかし医師はいないし、薬もない。マラリアでなければいいのだが。

ニムレのウェイステーションへ。
ここはジュバのものより大きくて、一度に1000人を収容できる。ニムレはウガンダとの国境の町なので、まずウガンダからニムレにやってきて、そこから故郷への長い道のりを取る。
帰還民を乗せたバスが車列を作ってやってくる。「オー、レレレレー」アフリカの部族特有の甲高い声を上げて、女性たちが出迎える。ほとんどの帰還民にとって約20年ぶりのスーダンだ。
杖を突いて歩く老女がいる。もしや地雷では?とインタビュー。地雷ではなかった。難民となってスーダンから逃げ出すとき、「早く、早く!」といわれ、急いで走り出したときに穴ぼこに足を取られ、骨折してしまったのだ。それ以来約20年、彼女は杖を欠かせない。
20年ぶりに帰還する決心をしたのはなぜか?と尋ねてみた。
「私の周囲の人がスーダンに帰還し始めた。でもスーダンはまだまだ危険だと思っていたので様子を見ていたの。でも帰還した人がウガンダに戻ってこない。これはもう大丈夫なのかな、と思ったわ」。
人々がスーダンからウガンダやケニアに逃げたのは、1983年と1989年の内戦勃発時が多い。89年に逃げた人は19年間を、83年に逃げた人は25年間、つまり四半世紀を難民として暮らさざるをえなかったのだ。

南部スーダン、ジュバではインターネットができなかったので、詳細をブログにアップすることができなかった。
以下は、ジュバ初日の記録。

6月4日、早朝の飛行機に乗り、ジュバという南部スーダンの街へ。スーダンはアフリカ一広い国で、国内線だがジュバまで2時間以上かかる。

午前9時半、ジュバ到着。ハルツームは砂漠気候なので、ナイル川沿いだけが緑で、他は茶色の大地であったが、ここは雨が降るのでサバンナのような草原と、青々とした山が広がる。行きかう人々のほとんどが黒人のブラックアフリカである。同じ国スーダンであるが、民族も宗教も気候も肌の色までが違う。ここ南部スーダンでは2011年に住民投票をして、独立するか否かを決めることになっているが、確かにこれほど違えば、「独立したい」という南部の人々の気持ちも分からないではない。

空港でUNHCRの滝沢氏と出会う。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のジュバオフィスで、南部スーダンの難民の状況についてレクチャーを受ける。

午後4時、ウガンダからの難民が、ジュバに帰還してくる。ここは「ジュバ・ウェイ・ステーション」。つまり長引く内戦で故郷スーダンを捨てて逃げ出した難民たちが、戻ってくるための「道の駅」なのだ。
難民たちは車列を作って帰ってくる。先頭にはUNHCRの旗を掲げたランドクルーザー。続くのが、UNHCRと大書された乗り合いバスだ。

大勢の難民たちが、ぞろぞろとウェイステーション(道の駅)の簡易宿泊所に入っていく。ここでは最大500人が宿泊できるのだが、近年、帰還民が大量に発生しているため、テントを張ってあと200人、つまり700人収容の施設にすることが急務なのだという。

スーダンの治安が安定してきたという情報を元に、2年ほど前から多くの難民が、ケニア、ウガンダ、コンゴ、中央アフリカなどから帰還している。しかし事態は複雑で、スーダンが安定したから、エチオピアから難民が入ってきたりする。エチオピアではいまだに内戦が続き、ようやく和平が成立したスーダンを目指して逃げてくるのだ。故郷を捨てて逃げ出す民と、安全を求めて逃げてくる民とが混ざり合う国スーダン。アフリカ各地で長引く戦闘は、事態を非常に複雑なものにしている。

明日は、さらに南部ニムレの町まで飛ぶことになる。さて明日はどんな一日になるのだろうか。

続いて、本日のハルツーム取材報告。

6月2日、無事スーダンの首都ハルツームに到着。ダンダスホテルに宿泊。ここでネットをつなごうと思ったのだが、このホテルは無線LANになっていて私のパソコンではつながらない。日本を出る直前まで滋賀県の9条の会、和歌山の母親大会などに出席し、バタバタしていたので、もう3日ほどメールができていない。ブログも更新できていないのでご心配をおかけしているかもしれない。

このダンダスホテルには毎日新聞の記者&カメラマンが宿泊しており、彼らもスーダンの難民取材のため昨日ハルツーム入りしたばかり。私のような気楽なフリーとは違って彼らはプロ。事前に綿密な調査をしていて貴重な情報を提供してくれる。スーダンの地図を前に、「このあたりは何ていう地域?」「それはですね…」。試験前、クラス随一の優等生に授業のノートを写させてもらった日々を思い出す。毎日新聞に感謝、感謝。

3日、午前中ハルツーム市内観光へ繰り出す。まず向かったのがナイル川。ここハルツームは青ナイルと白ナイルが合流する地点で、その雄大な姿をカメラに収めようという趣向だ。タクシーを拾って青ナイルへ。ハルツームの街中には英語を喋れる人がいるかと思ったが意外に少なく、通じるのはアラビア語のみ。運ちゃんと不自由な会話。とにかく「ナイルへ行け」と命じて車内から撮影。ナイル川にかかる橋を撮影しているときだった。「ここは撮影禁止だ」。警察官が2人、私のビデオカメラを取り上げようとする。スーダンは独裁政権で、写真撮影については、かなり気を使う国である。「あぁそうですか。知りませんでした。日本からです。以後気をつけます」と笑って答える。答えてから手を差し出して握手する。こういうとき笑って答えるのが決定的に重要。悲壮な顔をすると、彼らは「何か悪い目的でもあるのか?」と疑うので、下手をすれば刑務所行きだ。シリアでもジンバブエでも似たような経験をした。少しは腹が据わってきたのかな?

警官の目を盗んでナイル川を撮影。ナイルの合流点が見えるところには5つ星ホテル。ホテルのそばには建設中のビル。看板には「CHINA」の文字。中国資本が入っている。スーダンにも「石油成金」が生まれつつあるようだ。実際、街を歩いていると必ず「ニイハオ!」とあいさつされる。スーダンでアジアといえば、中国のことだ。
ハルツームの中心部に戻り、市場(スーク)を歩く。道端に赤ちゃんを抱いた親子連れ。物乞いだ。私の次女「宝」が生きていれば、ちょうど同じ年恰好の子どもがいたので、思わず10スーダンディナール(500円程度)を手渡した。

パニックになった。

我も我もと手を差し出す人々。異邦人の私は街中で注目の的。「東洋人が金を出した!」固唾を呑んで見守っていた子どもたちがまとわりつく。「しまった!」と思ったが、後の祭りだ。足早に歩く私を、執拗に一人の子どもが追いかけてくる。帰れ!と振り払っても、ずっと付きまとう8歳くらいの少年。腹を指差して「食べていない」というジェスチァー。路地に入って、周囲に人がいないことを確認して、10ディナールを手渡す。
この国の、いや、アフリカの貧しさを改めて実感する。

さて、明日からはこのハルツームともお別れ。ジュバという南部の町へ飛ぶ。ジュバで難民キャンプを取材し、その後うまく行けばダルフールだ。短期間の取材なのでハルツームでゆっくりすることはできない。早く目的のダルフールに入らねば。


今はスーダンのハルツームにいます。6時間の時差があるので、現在6月3日午後8時前です。ようやくインターネットがつながる店を発見。昨日、本日とアップできなかったブログを、アップします。
以下は、ドバイの空港で書いたもの。

本日(6月2日)早朝、無事ドバイ到着。スーダン・ハルツームへの便に搭乗するのに、空港で9時間待ち。アフリカ大陸の土を踏むのは、私にとって13年ぶり。95年に南ア、ジンバブエ、タンザニアを旅して以来。

あの頃は右も左も分からなくて、ジンバブエの首都ハラーレで、ムガベ大統領の自宅付近を撮影していたら、いきなり警官に捕まったこともあった。そう、写真を撮影しただけで逮捕されることがあるなどとは到底考えていなかったのだ。ジンバブエではその後も「ムガベ独裁」が続いたが、ようやく野党が選挙で勝利するまでに変化してきた。内乱にならなければいいが。

当時のタンザニアはジンバブエよりも貧しかった。街角で販売されているタバコは、1箱ごとではなく、1本ごと。道路は舗装されずでこぼこで、クーラーつきのホテルが珍しかった。ジンバブエはキリスト教徒が多く、教会の風景などはそれなりに見慣れていたが、タンザニアはイスラム教徒が多かった。首都ダルエスサラームのレストランで「ビール」と注文すると、「うちには置いてません」。「なんというサービスの悪いレストランや」と憤慨していたが、今にして思えばイスラムでは当たり前のことだった。あの時が私にとってイスラム初体験だった。意地になってバーを探して、夜のダルエスサラームを徘徊した。細い路地を突き当たった看板も何もない店にビールを発見したときは、我ながら「よくやった!」とひそかに乾杯したものだった。

早朝5時。朝の祈りを知らせるアザーンの大音響でたたき起こされた。ホテルの目の前がモスクだった。「おいおい、朝の5時やないか」と祈りに参集するムスリムを眺めていたのが思い出される。
今から訪問するスーダンは、北部がイスラム国家で、南部がキリスト教徒が多く住む地域。経済的にも優位に立つ北部のアラブ政権が南部を制圧するという構図から、南部の「スーダン人民解放戦線」(SPLA)が蜂起し、内戦。停戦が成立したものの、戦火の絶えない国の一つで、難民は100万人規模といわれている。

首都ハルツームまでは問題なく入れるだろう。そこからダルフール地方に入ることができるかが勝負だ。北部のアラブ政府(ハルツーム政権)はダルフールを見せるのを嫌がるだろう。「国内移動許可証」をゲットできればいいのだが。