nishitani: 2010年6月アーカイブ

明日29日(火)午後10時半頃、テレビ朝日系の「報道ステーション」で、先日取材してきたアフガン映像が流れる予定。
今年1月に取材した寒さに震える避難民キャンプの子どもが、5人も亡くなっていたという事実や、ロケット弾で両足を失った母親と、その車椅子を押す少女、カブール市内のインディラガンジー病院に入院している重篤な子どもたちの映像が中心。
沖縄の基地から飛び立った米兵たちが、アフガンやイラクで戦争をして、そして子どもたちが傷ついているという事実を、多くの人に見ていただけたら幸いである。
首相が交代するとか、大きな地震があるとか、そんなニュースがない限り、予定通りオンエアされると思うので、みなさん見てやってください。

手紙が欲しい.jpg

アフガニスタンで孤児施設を訪問したのだが、施設の少女たちが日本のみなさんへすてきな絵を描いてくれた。
絵画をスキャナーで取り込んだので、ご覧いただきたい。
一枚目は、「私は平和が好き。みんな平和の手紙をほしがっている。日本からの手紙はとても美しい。みなさんが元気でありますように」。
6年6組 グラーライ 日本の高校生へ。
と英語で書かれている。手紙を「litter」としているのはご愛嬌である。
これは岩国市の高校生が描いた絵に対する返事である。おそらく絵は彼女の宝物になっているだろう。
左半分戦争.jpg
2枚目は、左半分に「戦争したらダメ」。右半分に「私たちは平和を求めている。みんな平和が好きなのに、アフガンは平和ではない。アフガンの人々は平和が好きだ」。サラ 
と描かれている。戦争の記憶と、それを乗り越えたいという気持ちが、この絵に出ている。
絵画は全部で14枚。データがあるので、これらの絵画を学校や公民館などの展示したいと考えておられる方は、連絡いただければ貸し出します。
私までメールを。nishinishi○r3.dion.ne.jp まで。

左足大やけど.jpg

今回の取材は2週間という短期間であったが、インディラガンジー病院、ジャララバード中央病院、マラライ産科病院などを周り、あらためて戦争と貧困がもたらす悲劇が深刻であることを確信した。
悲惨だったのは、インディラガンジー病院の「やけど病棟」。
アフガンの乳幼児が大やけどを負うケースが多い。最初はなぜ?と疑問に思ったのだが、取材を進めるうちに原因が判明した。

貧困である。
後頭部に熱湯.jpg

避難民キャンプが象徴的だが、狭いテントに10数人が折り重なるようにして眠る。寒い夜、少しでも暖をとろうとお茶を沸かす。電気のない暗闇の中、細心の注意を払っていても、その熱湯がテントに眠る赤ちゃんに浴びせられてしまう場合が多いのだ。
都市ガスも電気もない狭いテントで、家族のためにお茶を沸かした母親が、何かの拍子につまづいて転ぶ。そして悲劇が・・・。
左半身に熱湯.jpg

「やけど病棟だけで患者が一杯だ。やけど専門の病院が必要。日本の力で建設できないか?」。やけどで重篤な赤ちゃんには、少しでも清潔な環境で治療することが大事だと、ハビーブ医師は言う。

「やけど病棟」と並んで、いやそれ以上に悲惨だったのが「新生児手中治療室」だった。放射線によるとしか考えられない先天的奇形の子どもたち。ほとんどが助からない。アフガンでは、あのような劣化ウラン弾の被害者を見る機会が少なかった。

しかしジャララバードのアジュマル医師は「道路が整備されてきて、郊外都市から急患が運び込まれるようになった。それでたくさんの先天的奇形児が入院できているのだ」と証言した。
アフガンに比べ、イラクの都市インフラは進んでいる。従ってバグダッドの子ども病院は、多くの都市からがんの子どもが入院していた。
アフガンで、そういった子どもが少ないのは、劣化ウラン弾の被害者が少ないのではない。カブールまでたどり着けないだけなのだ。

今回の取材で、あらためて劣化ウラン弾の非人道性を痛感した。
オバマ大統領は「核兵器を使った道義的責任」を表明した。しかし現在使用を続けている劣化ウラン弾も、ある種の核兵器ではないのか?
03年バグダッドの病院で、多くのがんの子どもとであってから、私は「イラクの子どもを救う会」を作った。あれから7年。被害は収束するどころか、急速に拡大している。
国際社会が、もっともっとこの問題に目を向けるべきだ。

6月12日、私は無事日本に帰国した。アフガンの孤児たちが描いた絵には、すべて「PEACE」という文字が記されている。全てだ。
私たちは、平和は当たり前の空気のようなもの、と感じているかもしれない。しかし世界には「戦争しか知らない子どもたち」がいる。そしてその「戦争しか知らない子どもたち」を空爆する米軍は、沖縄から飛び立っている。
その事実から目をそらしてはいけない。あらためてそう感じた今回のアフガンであった。

シャイスタくん 弟.jpg 写真は 2月に3歳の姉を失った弟のシエスタくん

6月10日、手漕ぎ車椅子の母子を取材してから、やはりパルワン3キャンプに向かう。
今年1月に、薄手の服一枚で震えていた男の子のその後を追いかけるためだ。1月に撮影した写真を見せながら、住民に尋ねていく。
「あぁ、この子ならアフガンの北部地域、バグランに帰ったよ」。
父親はバグランで仕事を見つけたのだろうか?バグランに帰るための交通費はどうしたのだろうか?ここカブールよりはマシな生活ができていればいいのであるが・・・。
じつはこのパルワン3キャンプだけで、今年になって5人の子どもが亡くなっている。
2月に娘を失ったボンチャグルさん(30)にインタビュー。
「なぜ娘さんが亡くなったのですか?」
「強烈な寒波がキャンプを襲ったからです」
「娘さんは何歳でしたか?」
「3歳でした」
「病院で亡くなったのですか?」
「容態が悪くなって小児科の病院へ連れて行きました。そこは治療費が無料だったので。でも病院は受け入れてくれませんでした。あちこち回りましたが、結局どこも入院させてくれないので、このキャンプにつれて帰って、そしてここで亡くなりました」
「今、子どもは何人ですか?」
「6人でした。娘が亡くなったので5人になりました」
インタビューをしていると、彼女の子どもが寄ってくる。やはり靴を履いていない。
「靴、欲しい?」
「うん」
裸足の子ども.jpg


母親のボンチャグルさんに、靴もいるでしょ?と尋ねると、
「靴なんてなくても死にません。食べ物が必要なのです」。
彼女は、朝食を食べさせているときから、昼食のことを考え、そして夕食はどうなるのかと不安になる。毎日、食事のことばかり考えているのである。
ゆりかごの中で1歳半の弟がぐっすり眠っている。その顔にはハエが数匹。
この弟が、来年の冬を越せるかどうか。
靴を買って配ろうと考えていたが、やはり食料と毛布、石炭などにした方がいいのだろう。今回は靴はやめて、そのお金を貯めておき、10月頃にまたここへやってくる時の、越冬用の物資に充てよう。


車いすの母と椅子を押す娘.jpg 写真はカブール市内で、通勤するために渋滞の道を行くサバイさんとサハールさん母子


6月10日午前9時、カブール〜ドバイ帰りの航空チケットを、予約すべくサフィーエアーのオフィスに向かっていたときだった。
渋滞する車の中を縫うように、一生懸命手漕ぎの車椅子で前へ進んでいく母子がいる。
「これは取材せなあかん」と、緊急インタビューを敢行した。
「両足はどうしたのですか?」。車椅子を押す娘には「学校には行けてるの?」などと質問しながらビデオカメラを回すと、案の定秘密警察が来て「何を撮影している?」「許可証は?」と執拗に尋問してくる。
やっぱりお前らが来たか、と半ばあきらめ、半ば抗議しながら、「俺は人道支援でやってきたんだ。取材させろ!」と一悶着。
ピースジルガにロケット弾が飛び込んでから、カブール市内には警官と軍隊、そして平服を着た秘密警察が増えた。

日本では報道されていないかもしれないが、カルザイ大統領のすぐそばにロケット弾が炸裂して、大統領のガードマンが足を切断する重傷を負った。タリバン側からいえば、まことに「惜しい」一撃だったのだ。
当然、そんなロケット弾攻撃を許した内務省は、糾弾される。そして内務大臣は更迭され、警察としてもメンツがかかる局面に入った。当然、執拗な警備が繰り返されるのであるが、一般市民としては「うっとしい」ことこの上ない。
何しろ、どこの交差点をわたるときにも尋問されるのだから。

そんな秘密警察を振り切って、カメラを回し続ける。
車椅子を手でこぐ母親はサバイさん(35)、そして車椅子を押す娘はサハールちゃん(10)だ。サバイさんは15年前、カブールに住んでいたときにヘクマティヤルのロケット弾で両足を失った。足を失ってから妊娠し、2人の子どもを産んだ。障害者福祉やバリアフリーの観点もない国で、2人の子どもを出産するのは相当な苦労だっただろうと想像する。

「夫は?」
「2年前に死にました」
「なんで?」
「自爆テロに巻き込まれて」
インド大使館を狙った自爆テロが炸裂したとき、運悪く付近を通っていたのだ。家族の生活を支える夫が亡くなって、サバイさんはマラライ産科病院で、事務員として働いている。

「お父さんが亡くなった時、どう思ったの」。娘に残酷な質問をする。
「・・・、悲しかった」小さな声で答える。
「お母さんの両足がないことについてどう思っているの?」
「・・・」。サハールちゃんは今にも泣きそうな顔でうつむくのみ。
「将来は何になりたいの?」
「お医者さん」
「なぜ?」
「お母さんを治してあげたいから」
これ以上の質問はできなかった。涙でファインダーが曇ったからだ。

サハールちゃんが母の車椅子を押す姿を、遠景で撮影する。
障害を持ちながらも、仕事をしながら娘と息子(5)を養おうとするサバイさんの姿に感動する。ただでさえ女性が自立しにくい社会である。普通なら彼女は街に出て物乞いするしか生きる方法はなかったのかもしれない。
しかし彼女は職を得て、2人の子どもを養っている、障害を抱えながら。

「めっちゃ厳しい15年間だったのだろうな」。

20歳で結婚して、すぐにロケット弾を浴び、両足を切断。でも彼女はしたたかに生きている。
「今何が一番欲しいですか?新しい車椅子?それとも義足?それとも・・・」
「お金です。娘と息子を養っていくにはお金が必要です」

そうなのだ、ここアフガンでは、人々は日々を生きていくのに精一杯なのだ。
戦争被害者に目が向くのは、人々の生活が一段落してからになるのだろう。

ヒロシマ、ナガサキがそうであったように。


二つ目の月.jpg 写真はカブールに浮かぶ「二つ目の月」

アフガンの首都カブールは、他の都市と比べて治安が良いのであるが、さすがに夜間の外出は控えなければならない。
したがって夜はホテルの一室にこもっているのであるが、こんなときこそ読書の時間。

今、村上春樹さんの1Q84第3巻にはまっている。アフガンの夜のために、あえて日本で読むのを控えて持ってきた宝物である。

小説では天吾と青豆だけに、二つ目の月が見える。マザとドウタ。通常の1984年から、青豆が1Q84年にワープして、ずっとそうなのだ。

実はこのアフガニスタンにも「二つ目の月」、ドウタが出ている。

米軍が住民監視用に飛ばしている不気味な無人飛行船である。

アフガニスタンでは1979年以来、もう30年以上戦争が続いている。私がアフガンに足しげく通いだしたのは、2009年。もしかすると私は200Q年のアフガニスタンに迷い込んでしまったのかもしれない。

頭上に浮かぶ「二つ目の月」。そして不条理に殺されていく人々。過剰な警備、自爆テロ、そして執拗な米軍の空爆。
アフガニスタンのドウタたちは、手足を奪われ、焼かれ、そしてがんに冒されている。

小説では「空気さなぎ」がドウタを守ってくれるのだが、カブールには「空気さなぎ」は存在しない。ドウタたちは戦争という名の悪に「露出」し、深い傷を負っている。
そして根本的に違うことは、1Q84年はフィクションであるが、200Q年は、現実に進むこの地球上での出来事である。

戦車に上る.jpg

写真はカブールからジャララバードへ向かう国道。戦車の上で。

6月9日早朝5時、カブールからジャララバードを目指す。
今年の1月にジャララバードへ行った時、ジャララバード中央病院の院長ジュマル医師にお世話になった。そのアジュマル医師の案内でジャララバードの医療状況を取材することになった。
カブールからジャララバードまでは車で約3時間。比較的安全だが、何が起こるか分からない国なので、日の出とともにスタート。日没までにはカブールに帰ってきたいので早朝のスタートになる。

カブールからジャララバードまでの道は、アフガンでは珍しくきれいに舗装されていて快適なドライブ。
途中、カブール川をダムでせき止めた人造湖に展望台があって、そこに旧ソ連軍の戦車がこつ然と展示されている。アフガンゲリラがロケット砲かなにかで破壊した戦車を、ここに飾っている。
戦車に上ってみる。もしこれが今回のイラク戦争で破壊された戦車なら、ガイガーカウンターがピーピー鳴っているだろう。90年代以降の戦争では、戦車は劣化ウラン弾で破壊された場合が多い。
だがこの戦車は80年代に破壊されたもので、その点では安心だ。
戦車の中に入ってみる。時を超えた嘆きというのか、「ここで若きロシア青年の命が奪われた」という重い現実に直面する。

戦車のある展望台から2時間も走ると、ジャララバードに着く。
アジュマル医師と再会。医師に病院の中を案内してもらう。
アジュマル医師は、政府の中でかなり高いクラスにいるので、「米軍の戦争」「誤爆」「劣化ウラン弾」という言葉に敏感である。
質問が核心に触れそうになると、「政治的なことはいえない」と言葉を濁す。アメリカに占領されているこの国では、仕方のないことではある。
クラスター爆弾の不発弾で遊んでいて、爆発・重傷を負った子どもがいる。おそらく米軍がばらまいたものだと思うが、こうした症例はきわめて「政治的」なので、詳細を聞くことができない。

カンダハールと違って、ここジャララバードでは、「米軍の犯罪」をストレートに表現する人が少ないのが特徴的である。
これがもしカンダハールでの出来事なら、人々は「アメリーキー」と叫ぶ。
カンダハールは、タリバンの拠点都市で米軍とは「全面対決」の様相を示しているが、ここジャララバードは、「したたか」に局面を見つめている。米軍に殺されても、タリバン化せずにじっと耐えている、そんな雰囲気がするのである。
カンダハールとジャララバード。どちらもアフガンで2、3位を争う人口集中都市であるが、この戦争に対する考え方はだいぶ違うようだ。

個人的にいえば、私はジャララバードの方が「大人の対応」をしているように感じる。米軍の空爆や銃撃は決して許せないが、だからといって暴力で報復するのでは泥沼である。
ジャララバードのカブール川に架かる橋で、4日前自爆テロがあった。米軍車列を狙った自爆で、自爆後、米軍は戦車から周囲にいる人々を片っ端から連射し、14名を殺害した。しかしここジャララバードは、落ち着いている。米軍に反撃したい気持ちはやまやまあるだろうが、とにかく耐えている。

タリバニゼーション(タリバン化)。現地英字新聞に踊る言葉。
米軍が空爆すればするほど、農民たちがタリバンに加入する事態を、タリバニゼーションという言葉で表現しているのだ。

実のところ、農民が「タリバン化」すれば、米軍の思うつぼなのだ。戦闘が続けば、それだけ米軍は長く駐留できるし、たくさんの軍事費がつぎ込まれる。米軍の裏にいるアメリカの軍産複合体とそれを操る金融資本にとって、戦争ほどおいしい商売はない。
戦争ビジネスを打ち破るには、ガンジーのような非暴力の戦いができるのかどうか、である。
それが今、すべてのアフガニスタンの人々に問われているのだと思う。
ジャーナリストという職業としては、カンダハールのように「アメリーキー」と叫んでくれる人々が多いほど、「分かりやすい」のではあるが、戦争を終わらせるためには、それだけではダメだ。どんな方法で「米軍の無法さ」と闘っていくのか?
アフガニスタンの人々に課せられた、大変難しい課題である。


無肛門症 人工肛門のあかちゃん.jpg

6月8日、やはり今日もインディラガンジー子ども病院へ行く。ハビーブ医師と再会。2日前に訪問した同じ病棟を回る。新たに重篤な子どもが担ぎ込まれている。
無肛門症の子どもが寝ている。1歳1ヶ月で大腸を体外に出して、そこから排出する。食事は口から食べている。

肛門を見せてもらう。
穴がない。無肛門症なので当然なのだが、やはり息をのむ。
しばらくこの状態で状態を見て手術する。排泄できるように肛門を開ける手術をすれば、この子は生き残れる。

別の病室には水頭症の子どもが寝ている。体液が頭にたまっているので頭が異様にふくれているが、3日前に手術して体液を抜いたので、これでもかなり良くなった状態だという。
「生き残れるのか?」
「5年くらいは持つだろう」
水頭症の赤ちゃん 2人目.jpg


さらに別の病室へ。やはり水頭症の赤ちゃんが母親に抱かれて眠っている。
この子は3人兄弟の末っ子で、一番上の子どもも同じ病気で、既に亡くなっている。
3人産んで2人が水頭症という残酷な現実。母親は、次の子どもを産む勇気を持てるだろうか?それより医療費や病院と自宅を往復する交通費、その他諸費用を負担していけるだろうか?
ハビーブ医師はカメラの前では「戦争が原因だ」と言うことをためらった。この国では米軍や政府の批判は一種のタブーになっている。

カメラの回っていないところで、医師は、
「当たり前だよ。それしか考えられない。みんなそう思っているよ」とつぶやいた。

背中に腫瘍ができた赤ちゃん.JPG

昨日のブログでは肝心なところが抜けていたので、本日詳細を記す。
6月6日の日曜日、カブール市内にある「インディラガンジー子ども病院」を訪問した。この病院はアフガニスタン全域から、重篤な子どもを受け入れ、治療しているのだが、その特徴は①やけどの子どもが多い②交通事故も多い③最近原因不明の奇形児、がんの子どもが増えた、ことなどである。

病院の新生児集中治療室に入ったときに、私は息をのんだ。信じられない症状の子どもが、多数保育器の中に入っていた。
写真の子どもは、肛門がなく、そして背中に大きな腫瘍を抱えている。
いったいどのような原因で、このような悲劇が生じるのか。

母親たちは子どもを身ごもった喜びから、一転して地獄に突き落とされたかのようなショックを一様に受けている。母親にカメラを向けるが、この国ではカメラの前で自分の意見を言うことのできる女性はまれである。

原因は戦争であることに間違いないと、私は思う。しかしこの国で「劣化ウラン弾被害者の会」などが結成されるだろうか?おそらく難しい。アフガンでは政治的なことについてズバリと語ることのできる人は非常に少ない。みんな政府やタリバンを恐れている。まして女性の地位は極めて低い。したがってこの母親たちは、泣き寝入りするしかないのだろう。
インディラガンジー子ども病院を紹介してくれたのは、RAWAといってアフガニスタンの女性解放団体である。
RAWAのカブール担当者の名前を、仮にミーナさんとしておくが、このミーナさんは、専属の車を持たない。移動はすべて徒歩かタクシー。アフガン秘密警察やイスラム原理主義者から脅迫の電話が入り、活動は常に制限されている。「女性の解放」を主張するだけで、弾圧されるお国柄なのだ。

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7日、やはりRAWAの案内で孤児施設を訪れた。この孤児施設は女子学生用で、約60人が共同生活を送っている。タリバン時代に親を殺された子どもが多い。
兵庫県の和田中学校から預かってきた、折り鶴とメッセージ入りのハンカチを手渡すと、みんな大喜び。日本の折り鶴文化のことは知らなかったが、みんな日本が大好きだという。
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ハンカチに加えて、岩国市の高校生たちが描いてくれた心のこもった絵を手渡した。少女たちは絵が大好きで、3日後に、お礼の絵を描いてくれることになった。
日本の中高生とアフガンの学生が、こうした形で交流できれば、平和を求める輪が広がっていくのではないか。
なぜならハンカチに添えられた手紙のほとんどには「love」や「peace」と書かれていたし、絵には広島のことや平和の虹などが描かれていたからだ。
さて孤児になった少女たちはどんな絵を描いてくれるだろう。楽しみが一つ増えた。

IMG_1034.JPG 写真は 先天性奇形腫瘍の赤ちゃん


「コンジネンタル・テラトーマ(先天的奇形腫瘍)だ」。ハビーブ医師がその赤ちゃんをくるんでいた布をめくりあげた時、私は言葉を失った。
「な、何やこれは。双子がくっついているのか?」
巨大な腫瘍が、その赤ちゃんの股の間からふくれだしていることを理解するのに、数秒かかった。そして悲しみと怒りと憐れみが混ざったような、何とも表現できない感情が、私を襲った。

生後4日目で、まだ生きている。

「がんの一種だ。このような原因不明の奇形児が、アフガンではたくさん産まれるようになった」。ハビーブ医師は透明な手袋をはめて、赤ちゃんの患部を触りながら、説明する。
女の子だ。赤ちゃんの泣き声が、狭い病室に響く。
隣の保育器には「無肛門症」の子どもが二人、ぐったりと寝ている。
「生まれつき肛門がない。だからお腹がふくれあがっている。腹の中央から腸を出して、そこから排出させている」
「劣化ウラン弾など、戦争の影響か?」
「まだ誰も解明できていない。でもみんなそう思っている」

米軍はアフガンで様々な爆弾を使用した。地下20メートルのところで爆発するバンカーバスターなどは、先端に劣化ウランが使われている。もちろん「通常の」劣化ウラン弾も使用された。その他にもクラスター爆弾、デイジーカッター、白燐弾・・・。
環境が破壊されない方がおかしいのだ。
これらの爆弾は、やがて水や草木を汚染し、それを食べる家畜がいて、人間はそれら食物連鎖の頂点にいる。

イラクで急速に広がっている、これら新生児の異常は、ここアフガンでも同様に悲劇を生み出していた。
米軍は今月からカンダハール掃討作戦を行う予定だ。またしても土地が、水が動植物が汚染されていく。

日本は絶対にこのような「汚い戦争」に協力してはならない。

キャンプに食料を運ぶ10年6月.JPG 写真はパルワン2キャンプで食料を配っているところ


6月5日、早朝よりカブール下町の市場で、小麦と米、そして油を大型トラックに詰め込む。何しろ、小麦と米、油が100万円分。大型トラック2台に詰め込むだけで2時間かかった。
そのトラックとともにまずはパルワン2、3避難民キャンプへ。あらかじめキャンプのリーダに電話を入れていたので、みんなキャンプの前でお出迎え。
かつては避難民のリストがなかったので、配布の際にパニックになったが、ここでの配布も、もう3回目。みんな整然と待ってくれている。

順調に配布している間に、キャンプの子どもを撮影していく。やはり女の子が軽んじられているようで、靴を履いていない子が多い。
「靴、欲しいか?」とジェスチャーで尋ねると、「欲しい、欲しい」と騒ぎだす。本当はノートと鉛筆も欲しいだろうが、予算の関係で学用品まで手が回らない。
今回の旅で余裕があれば、もう一度市場に行って、靴を買ってこよう。

パルワン2、3での配布を終えて、急いでチャライ・カンバーレ避難民キャンプへと向かう。
ここはカブール最大の避難民キャンプなので、おそらく全員には、米と小麦は行き渡らないかもしれない。
ワキールと再会。左手を失った少女ゴルジュマちゃんの父親だ。
「1月にもらったテントシートが役に立った。でもこれを見てくれ。半年で、もう穴が開き始めている」。
6月はたまに雨が降るので、これでは雨漏りがするようだ。しかしテントシートを買う余裕はない。カブールでは、夏より冬が厳しいので、テントや毛布は次の機会にしよう。
ワキールのテントへ。5歳くらいの少年がぐったりと横たわっている。
「鼻血が止まらなくなった」。ワキールが症状を説明するが、もちろん病院には行ってないので、本当のところはわからない。テントの中が暑いのでのぼせたのかもしれない。
チャライ・カンバーレでも、無事食料の配給が終了。米と小麦は、それぞれ10キロのパックにして配ったのだが、おそらく10キロでは、一週間持つかどうか・・・。

国連はどうしているのか?こんなときにこそ、UNHCR(難民高等弁務官事務所)やWFP(世界食料供給プログラム)の出番ではないのか?
残念ながら、国連スタッフは避難したのだ。タリバンが「すべての外国人は敵」と規定し、国連事務所を襲い始めたため、600人ほどいた国連スタッフが、仕事を続けることが困難になり、ほとんどが避難してしまった。
昨年6月、カブールのメーンストリートでは、青地でUNと書かれた白いランドクルーザーが多数行き交っていたが、その国連カーもほとんどが姿を消してしまった。
アフガニスタンはこれからどうなっていくのだろうか?

最後になりましたが、「イラクの子どもを救う会」に募金いただいたみなさんへ。
今回も無事に避難民キャンプにて、食料を届けることができました。
何人かの子どもが亡くなってしまいましたが、何人かは救われました。
このブログを借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。

墓の前で祈る母.jpg 写真は、墓の前で祈る母親シモーグルさん


6月4日、今日は金曜日なので大多数の企業、商店はお休み。カブール市内は相変わらず軍と警察が多くの検問所を設け交通を遮断しているが、車の通行量が少ないので、それほどの渋滞はない。
昨日同様、パルワン・セ避難民キャンアプへ。先月娘を亡くしたシモーグルさん夫婦と一緒に、娘さんのお墓へ。

日中は日差しが厳しく、暑いくらいのカブールであるが、夜は急速に冷え込む。この冬、そんな寒い夜をテントで過ごしていた2歳半の娘は、ずっと体調が良くなかった。5月初めの夜も、やはり寒かった。娘の容態が悪くなった。さすがに病院へ連れて行った。しかしすでに娘が重篤な状態であったことと、両親がお金をいっさい持っていなかったことで、病院は受け入れを拒んだ。
そして娘はこの世を去った。

娘の遺体をここに埋葬するために、1500アフガニー(約3千円)が必要だった。知人に借金して、ここに埋めた。この夫婦には3人の子どもがいるが、今は2人になってしまった。
こんもりと地面が盛り上がり、そこにただ何もかかれていない石が置かれているだけ。3千円のお墓では墓石に名前を刻むこともできない。

墓の前で父は立ち上がって、母はうずくまってイスラム式の祈りを捧げる。アフガニスタンは、アジアで一番平均年齢が低い国であるが、それはこのように乳幼児がたくさん死亡するからである。
祈りを終えた父親に100ドルを手渡す。これで知人の借金を返せます。父は100ドル札を大事そうにしまい込んだ。

「もう少し早く病院へ運び込めたら」と後悔しているのだろうか?それとも毎日の生活で精一杯で、娘の死はこのまま遠い記憶となっていくのだろうか?
パルワン・セ避難民キャンプから、車でわずか20分くらいの距離にあるこの墓地に、はたしてこの両親は、今後何回墓参りができるのだろうか?

ジルガ前 正門で.jpg 写真は、ジルガ会場前の特殊警察部隊 撮影はNGなので隠し撮り。


昨日のピースジルガ会場前でのテロ事件は死者2名、重傷者1名だった。ジルガの会場を教育大学と記したが、教育大学に隣接して建っている「警察学校」の中で会議が行われているのであった。
4回の大きな爆発音の内訳は、自爆が一回とRPGロケット弾攻撃が3回であった。

自爆攻撃者は、ブルカをかぶって女装した若者だった。最近は、障害者や子ども、女性も自爆を行うので、検問はすべての人を対象にしたものとなる。

本日(6月3日)のピースジルガはマスコミを遮断して行われたので、やはり中には入れなかった上に、前日以上の警戒態勢で、どこへ行くにも止められる。
結果、交通渋滞に巻き込まれ、不便この上ない。

そんなカブール市内中心部にあるパルワン・ドゥー、セ避難民キャンプを訪問。ドゥーが2、セが3という意味なので、「谷町1丁目」「2丁目」キャンプ、といった感じ。

今年1月、両キャンプに支援物資を配布した。あの時は凍てつく大地に裸足の子どもたちが心配で、「死ぬなよ」と念じたのだが、やはり何人かは亡くなっていた。先月だけで5人の子どもが死んだ。栄養不足による病気、風邪、下痢。
約100人に満たないキャンプで、5月だけで5人の子どもが死んでいるという現実。明日、可能ならば近所にあるお墓を訪問する予定。

2ヶ月前にやってきたという男性がいた。
「どこに住んでいたの?」
「バグランだ」(米軍基地で有名なところ)
「何で逃げてきたの?」
「息子が死んだからだ」
9歳の息子が、道ばたに落ちているものに興味を示し、棒でつついていたら爆発、駆けつけてみたら、遺体は散り散りになっていた。
彼にはまだ幼い息子と娘が3人いる。不発弾だらけの村には住んでいられない、とカブールに逃げてきたのだ。
息子の写真を撮影。写真は珍しいのでかなり前の幼い写真である。
不発弾は旧ソ連軍のものだった。
「現在戦争をしているアメリカと、不発弾を残していったロシアと、どちらが憎いですか?」
「単純には比べられない。どちらの国も嫌いだ」

そうだろうな。

今年32歳になる父親は、鳥かごを作ってそれを道ばたで売る。鳥かごは一つ300円ほど。たくさん売れて、生き残った子どもが学校に行けるようになればいいのだが。


ピースジルガへの道路.JPG

6月2日、早朝より「ピースジルガ(和平会議)」会場をめざす。今回の通訳はイスマイル。彼はカブール出身で、現在インドでジャーナリズムを学ぶ学生である。休暇でカブールに戻ってきていて、経験を買って採用した。
イスマイルはカブールの裏道も熟知していて、一目散に会場を目指すのだが、メーンストリートはアフガン警察と軍であふれている。大きな交差点は、ほぼ間違いなくカットされ、厳重な通行規制が行われており、大渋滞を来している。
その度に、抜け道を探り、会場に近づいていくのだが、とうとう大通りは全面ストップ。ここから先は歩いてかねばならない。
車を止めて長い坂を上り、下ること30分ほど。ようやくピースジルガが行われているアフガニスタン教育大学の正門前へ。
正門前は、数十人の警官と特殊警察で物々しく警備されている。責任者と交渉し、中へ入れてもらうように頼むが、許可が下りず入れない。小一時間粘ってみたのだが、断念。さっき30分かけて上り下りした道をとぼとぼと歩いていたときだった。

ドーンという乾いた爆発音。
「やったな!」
イスマイルと爆発音がした方向を振り向くと、警官たちが慌てて車に乗って走り出している。爆発は、さっきまで「中に入れろ、無理だ」と交渉していた、あの会場入り口付近で起こった。
しばらくすると、またもドーンという爆発音。その後乾いた銃声が響く。

「ウー、ウー」けたたましいサイレンとともに救急車が通り過ぎていく。そして何台もの軍関係の車が続く。
ドーンという爆発音は合計4回。しかし現場に戻ることは許されない。山ほどいた警官たちが道をブロックして誰も通してくれない。
「明日まで通行止めだよ」イスマイルもこうした現場を何回も取材しているので、アフガン警察の対応を熟知している。
ピースジルガ開催日には、何かが良くないことが起こるかもしれないと感じていたが、やはりそれが現実になった。
あれほど厳重な警備体制を敷いていたのに、防げないのがアフガンの現実だ。
和平会議の評価はいろいろあるだろうが、話し合いを否定するようなこうしたテロは、事態を混乱させるだけだ。
おそらく今日もまた、まじめな警官たちやたまたま通りかかっただけの人々が巻き込まれ、血を流してしまった。こんなことがいつまで続くのだろうか?


カブールの新興マンション.JPG 写真は新興マンションが建設されるカブール市内

ドバイでカブール行きの飛行機便をゲット。粘った甲斐があった。
飛行機はいつものように時刻通りには飛ばなかったが、明るいうちにカブール到着。

4ヶ月ぶりのカブール市内だが、市内中心部のおしゃれなビルは、自爆テロで破壊されて、現在修復中である。このビルはショッピングセンターで、入り口に金属探知機によるセキュリティーがあって、中に入るときらびやかな貴金属が並んだジュエリーショップや、最新のウインドウズパソコンがきれいなショーウインドーに飾られていたりしていたのであるが・・・。
タリバンには、こうした「成功した人々」も敵に見えるのだろうか?

カブールには戦費とアフガン復興費に群がることのできた「ニューリッチ」がいて、次々とおしゃれなマンションを建設している。
人口も急激に増えているので、このようなマンションに入居する人も多いのだろう。でなければ、こんなにたくさん建てないはずだ。
そうしたマンションの裏手に、避難民キャンプがあるというのに。

道行く人の間に、物乞いの数が増えているように感じる。
多くは年老いた女性。そして子ども。物乞いしか収入の方法がないのだろう。

さて、明日はそんなカブールで、ピースジルガ(和平会議)が開催される。
会場に入れるだろうか?ジルガを狙ったテロが起こらなければいいのだが。

6月1日早朝5時、ドバイに到着。いったん空港を出て、ターミナル2へ。
ドバイ国際空港は巨大なハブ空港で、大阪からの便はターミナル3へ着く。アフガンやイラクへの飛行機は、ターミナル2から出るので、タクシーを拾って20分ほど走らねばならない。そう、同じ空港なのにターミナルが違うだけで20分も車で走らねばならないほど巨大なのである。

「日本人がターミナル2に行くのは珍しいね」タクシードライバーはパキスタン、ラホールからの出稼ぎ労働者。
日本人はたいていブルジュドバイやパームジュメイラといった観光地へ行く。「ターミナル2へ」と命じるのはアメリカ人やイギリス人が多い。彼らはカブールやバグダッドで戦後復興費を当てにしたビジネスマンや民間軍事会社の社員だったりする。
「あんた、何でアフガンへ?」
「人々を撮影するために」
「へぇー、でも日本人は大丈夫だよ。日本は戦争に加担していないから。狙われるのはアメリカ人だよ」
「そう願いたいね」

このパキスタン運転手は、インド洋で給油していたことは知らないし、日本がNATOと違って、軍隊を送っていないことを評価していた。
この「美しい誤解」がもう少し続いてくれて、今回も無事であることを願う。
さて、今回はドバイでの乗り継ぎ便が満席で、午後便を待たねばならない。カブールで開催される「ピースジルガ(和平会議)」の影響で、飛行機が混んでいるのだろうか。
さて、そろそろドバイ〜カブール便のチケットを確保すべく、列に並ばねばならない。できれば今日中にカブールまで行きたいのであるが・・・。