nishitani: 2011年2月アーカイブ

2月4日から17日のアフガン取材、今回のテーマは「貧困と寒さ」、「女性と子ども」だった。
カブールでは大雪が降り、身体の芯まで凍える中での撮影だった。ヒートテックの下着に、セーター、オーバーと着込んでいても、10分もすると、手足がしびれてくる。そんな雪の中を靴下もはかずに子どもたちが歩いている姿を見て、「いつまでこの状態で放置するのか?」と、政府はもちろん、国連に対しても、「不作為の犯罪」を感じるのだった。

滞在期間中、2週間で2回のテロがあった。米軍が撤退を始める7月までは、「米兵を狙えるのも7月までだ!」と、仕掛け爆弾や自爆テロが繰り返されるだろう。そして撤退を開始した8月以降は、タリバンやヒズビ・イスラム、ハッカーニグループなど、「反政府勢力の主導権争い」で、やはりテロが頻発するだろう。

貧困のどん底にあえぐ人々に、支援が届いて、希望が見えるようになれば、テロは収まるだろうが、果たして事態はそううまく進むかどうか…。

今回の旅では、ヘラートまで飛べたのが収穫の1つだった。ヘラート市内は治安が安定しており、飛行機で行くのならば、ほぼ問題なく入れることが分かった。同じような病院の規模ながら、カブールのインディラガンジーに比べて、ヘラート州立病院は、設備もクリーンで薬もまぁまぁ足りていた。カブールの方が予算規模は大きいはずだが、首都であるカブール市内の病院は、より貧困だった。これは州知事の姿勢の違いだろう。カブールでの病院予算は賄賂に消え、ヘラートのそれは、ちゃんと病院まで回っているという印象を受けた。カブール州知事を交替させねばならないのでは?

雪の中のアフガン軍訓練で、米兵による「ロケットランチャー発射訓練」を取材した。携帯用コンピューターで位置を確定させ、相手の場所を「東経O度、緯度×度」で射撃する。
ハイテクだ。病院には家畜に噛まれて大けがをした子どもがいる。戦場では携帯コンピューターでGPS射撃が行われている。
一般家庭では江戸時代のような話がまかり通っていて、戦場では21世紀の驚くべき技術が披露されている。
「逆でしょう、金のかけるところが!」と突っ込みたくなる。

焼身自殺のアブサナちゃん。17歳にして自殺せざるを得なかった「部族の掟」「娘の身売り」。こちらも時代が19世紀で止まっているかのような錯覚すら覚える。「大嫌いだった」。嫁がされそうになったのは親族の男。娘の自殺を目の当たりにして、両親は何を考えただろう?

最後に自爆。身体に爆弾を巻き付けて爆発させるのだから、当然胴体も手足も、頭もバラバラに吹き飛ぶ。頭ではその理屈は分かっているつもりだが、やはり現実を見ると…。大きく見開かれた目、黒こげの髪、ぽっかり空いた口。その瞬間、何か叫んだのだろうか?
日本の特攻隊も「天皇陛下万歳!」と叫んだのではなく、「お母さん!」と叫んで突っ込んでいったと聞く。自爆犯の脳裏にあったのは? 果たして…。

一昨日まで、現地で取材してきた、「中東革命」の1つ、バーレーンの映像が、毎日放送夕方6時からのVOICEで報道されることになった。
ぜひ、独裁国王の非人道的な弾圧と、それに屈せず、闘い抜いた人々の勇姿、民衆革命の興奮をご覧ください。よほどのニュースが飛び込んでこない限り、オンエアです。よろしく。

真珠広場 20日集会 ブログ用.jpg

写真は一夜明けて「お祭り広場」と化した真珠広場


2月20日午前、やはり真珠広場へ。軍と警察の姿はなく、代わりにバーレーンの国旗と、「peace」「We want freedam」「No Sunni No Shea All Baharani」などの看板、昨晩泊まり込んだテントの群れ…。人々は踊り、叫び、歌っている。一昨日まで、ここは「虐殺広場」だったが、今や「お祭り広場」に変わっている。
広場の中央に即席ステージが出来上がっていて、ご丁寧にもそのステージ正面に、「メディア用のやぐら」まで。
スンニでもシーアでもない ブログ用.jpg


まずはステージに上がらせてもらい、民衆革命の熱狂、エネルギー、興奮を撮影。ちょうど本日から先生たちが全国一斉ストライキに入ったので、教師集団の代表が集会に入ってくる。割れんばかりの拍手と、アラビア語で「あなたたちに感謝します」とシュプレヒコール、そしてやはり「ダウン、ダウン、ハミド!」。
犠牲者の写真で入場する人々 ブログ用.jpg


ひとしきり広場を撮影した後、中心部にあるこの広場から車でわずか15分、米海軍基地に向かう。
「着いたわ、あの建物がそうよ」。タクシー運転手、ラティーファが指差す方向に、茶色のゲート。ゲート前で米兵がたむろしている。遠景を撮影。ダメ元で、ゲート前の米兵にプレスカードを見せて撮影許可を願うも、当然撮影はNG。仕方なく、やはり遠くから。
基地のすぐそばに、おしゃれな飲食店が並んでいる。米兵相手のレストラン、ナイトクラブなど。レストランの玄関に、フィリピン男性がいたので、少しインタビュー。
「このストリート、どれくらいの店があるの?」
「左側に18店舗、向こう側に8店舗あるよ」
「中華レストランまであるね」
「フィリッピン料理もあるよ」
そんな立ち話をしてるときにも、フィリピン女性が煙草を吸いながら、通り過ぎていく。沖縄の「社交街」を思い出す。
白人が通りかかったので、ちょっと尋ねてみる。
「アメリカから?」
「そう、海軍で働いているよ」
「何年ぐらい?」
「03年からずっとここで。もう8年目になるよ」。
急いでいるので、と彼は立ち去っていったが、イラク戦争の年からこの海軍基地で働いているのだそうだ。
「よく米兵を乗せるわよ。2年前、19歳の若者が『これからイラクに行く』と言ってたし、イラク帰りの米兵が『これがイラクのお札だよ』と見せてくれたこともある。この地区は米軍関係の人ばかりよ」。ラティーファは、「ここに米軍基地があって当然」のように語る。当面の敵は国王であって、国王の背後にいるアメリカについては、その関係が見えていないのか、あきらめているのか分からない。
集会に参加したバーレーン人にも尋ねてみたが、「ダウンダウン、ハミド」とは叫ぶが、「ダウンダウン、アメリカ」と言う人は少なかった。

チュニジアから始まった中東革命は、エジプト、イエメン、バーレーンなどに波及し、今やリビアが内戦状態に入りつつある。20世紀に完成させた植民地主義が、今、音を立てて崩れ始めている。この民衆革命の背後にあるのは、差別と貧困である。一泊30万円もする7つ星ホテルに泊まり、豪華ヨットでクルージングするアラブ人もいれば、一日数ドル以下で懸命に働くアラブ人もいる。そんな不公平を隠すために、スンニだ、シーアだ、キリスト教徒だと、あえて国民を分断してきた、その怨嗟のエネルギー。それが一気に吹き出したのだ。
今後も、バーレーンの行方は世界の注目を集めるだろう。なぜなら、バーレーンで革命が成就すると、一番困るのが盟主サウジである。サウジが壊れると、一番困るのがアメリカだ。おそらく次の金曜日、イスラムの休日に、大きな出来事が起こるだろう。
「今回がラストチャンスだ。これを逃すと、国王を倒すことはできない。俺たちは一生差別されて生きていくしかない」。シトラ市で聞いた男性の叫び。
ドリカムではないが、「決戦は金曜日」。ネット、アルジャジーラ、新聞、あらゆる媒体に注目して、この決戦を見守りたい。(了)

バーレーン 病院と広場 怒る親父 ブログ用.jpg


病院に集まった人々。患者が運び込まれてくるたびに、ダウンダウンハミドと叫ぶ

病院では看護師も医師も抗議行動に参加

現在行方不明のでも参加者 ブログ用.jpg


軍と警察によって行方不明になっている人は約70人。本日に至るも何の情報もない。無事だろうか?


催涙弾はbeikkusei  ブログ用.jpg

催涙弾は米国製だった

なぜか、ネットで写真をあげようとすると、すぐにダウンするので、
写真だけまとめて、アップしたい。うまく行くといいのだが…

ゴム弾が左胸を直撃 花を差し出した学生 buroguyou .jpg

警官隊に一輪の花を手渡した後、催涙弾を撃たれた


次々と集まる広場 buroguyou .jpg 写真は、軍と警官隊が立ち去り、次々と人々が集まりだした真珠広場


2月19日午後、負傷したデモ隊が運び込まれるサルマニア病院へ。驚いたことに、病院の周囲には数千人の群衆。負傷したデモ隊の人々が救急車でここに運び込まれてくるので、その人々を励ますために集まってきている。
「ピース」という看板を持つ人、昨日殺された犠牲者の写真を掲げている人、バーレーンの国旗を打ち振る人など、人人人…。
サイレンを鳴らして救急車が入ってくる。地鳴りのような抗議と励ましの声。圧倒されつつ、人々の表情を撮影。
私のビデオカメラを見て、「中に入って負傷者を撮ってくれ!」と叫ぶ人。医師が来て、こっちに来い!と病室に案内される。

野戦病院状態。催涙ガスを吸い込んで昏睡する人、酸素吸入器で応急処置されている人、ゴム弾が左胸にあたり、苦しそうに顔をしかめている人…。
そんな負傷者の中に、一輪の花をベッドに置いて横たわる若者。20歳の学生で、本日の集会に参加。軍に対峙している時、花一輪を手渡した。その後、軍と警察は「ピース」という看板を持っている人々に、ゴム弾と催涙弾を、花のお礼として「お返し」した。
「僕たちは石さえ持っていない。武器を持っていないことをアピールするため、両手を広げていたんだ。そしたら撃ってきた」。

病院の外では、うなりのような群集の声がこだましている。
すると、巨大なスピーカーからのニュースとともに、一斉に大きな拍手。
「革命だ!」「勝ったぞ!」と叫ぶ人々。何があったのか?
たった今、真珠広場から軍と警官隊が退場をはじめたと言う。
ゾロゾロと真珠広場に向かう群衆。私もタクシーで広場に急行。交差点では、喜びのクラクションが鳴り響き、みんな私のカメラに向かってVサインしている。

広場へ。驚いた。昨日を上回る数万の群衆。中央ステージには、昨日殺された青年の遺影と抗議の横断幕。舞台に向かって左側に、黒いヘジャブをかぶった女性たち。男性と女性の居場所がロープで区切られているのは、いかにもイスラム圏らしい。
主催者が、「警官隊は逃げていったのだ。私たちは勝利した」と叫ぶと、再び地鳴りのような大歓声。鳥肌が立った。革命は近いかもしれない。
この模様は、この日のCNNはじめ欧米メディアでもトップニュースだった。これだけ報道されると、軍も実弾を撃てなかったのだろう。ゴム弾に切り替えていたため、多数の負傷者を出したが、幸いに死者は出なかった模様だ。

さて、一夜明けたバーレーンの首都マナマ。大通りには人影はなく、車のみが通過している。本当に民衆が勝利できるのか?エジプトのように、何とかこの独裁政権を倒してほしい、と願いつつ、今から真珠広場に向かう。

2月19日、朝からデモ隊5人が軍と警察隊に射殺された「真珠広場」を目指す。タクシーを拾って広場に向かうが、広場に通じる道のすべてを軍と警官がシャットアウト。仕方なく遠く離れた場所で、タクシーの車内から軍を隠し撮り。大量に派兵された軍隊は、ほとんどがサウジ軍、そして警察官はパキスタン人である。なぜか?両国ともスンニ派の独裁政権で、バーレーンのスンニ派親米独裁政権が崩壊するのを恐れているのだ。
遠くから望遠で戦車や兵士を撮影するも、車が揺れるのと望遠なので、見るに耐えない映像になっているだろう。
真珠広場をあきらめ、対岸のシトラという町へ。実はこの町こそ、今回の抗議デモの震源地。貧しいシーア派が弾圧されつつ暮らしてきた町である。
タクシー運転手のラティーフさん(女性です!)は、シトラ出身で、昨日殺された被害者と顔なじみ。「これを見て!」と案内されたのが、墓地。昨日のデモで警官に射殺されたアリーさんの写真と、埋葬したばかりのお墓。22歳の若者で、エンジニアだった。
そのアリーさんの葬儀が町のモスクで行われている。モスクに入ると、みなさん「これを撮れ!」「アリーはいいヤツだった」「日本からか?この事実をぜひ報道してくれ。彼は無抵抗で、平和的にデモをしていただけなのに撃ち殺されたんだ」。など、次々と人々がカメラの前で訴える。
この状況、実は以前に経験している。それは04年のファルージャ。あの時も私のカメラの前で「今、人が死んでいるんだ!」と絶叫している若者がいたな。
17日(たった2日前だ!)の深夜3時に、至近距離から撃ち殺された52歳の葬儀。真珠広場での集会は深夜まで続き、帰る人もいたが、その場にテントを張って残る人も多数いた。彼と家族は、いわば「ピクニック気分で」テントを張って、この歴史的瞬間を勝ち取ろうとしていた。深夜3時、闇にまぎれて警官隊がテントを襲った。彼はテントの前に立ち、両手を広げて「撃つな!」と家族を守った。警官と彼の間はわずか5m。両手を広げて「武器は持っていない」と表現する彼の胸と背中(つまり前後から)を警官たちは実弾射撃。
彼の弟がその時のシャツを保管していた。赤く血に染まったシャツに、10数カ所の穴が空いている。銃弾の痕跡。
彼の家を訪問。黒いへジャブを着た18歳の女性。娘だ。「お父さんを好きだった?」「…」無言の後、彼女は泣き崩れ、兄が彼女を抱きしめる。2ヶ月後に結婚が決まっているという。しかし愛する父親はもういない。(続く)

2月18日夕方6時、カブール発ドバイ行きの飛行機。3時間で「普通の国」ドバイ。機中いろいろなことを考えた。今回の「中東革命」に、すぐ間近で接しているのに、やはり現場を踏まないのは、後で後悔するのではないか?
エジプトを先にして、アフガンを後にすれば、どうなっていたか…。
そんなことを考えながら、手帳を繰り返し確認。うまく行けば…。帰国後予定されている仕事に間に合うのではないか。短期間だが、中東革命をこの肌で実感したい。
で、どこに行く?エジプト、バーレーン、リビア…。リビアは2泊3日では難しい。エジプトかバーレーンだ。うーん、熟慮したあげく…。
バーレーンを選んだ。今回、エジプトには縁がなかったと感じる。逆にバーレーンは、ヘラートでテレビを見ているときに、たまたま臨時ニュースが飛び込んできた。今回はバーレーンに縁がありそうだ。
ドバイ空港の到着ロビーを出て、すぐに出発カウンターへ。なんとバーレーン行きの飛行機が、あと1時間後に飛ぶ。慌ててチケットを買い、列に並ぶ。といてもさすがにバーレーンに行く人は少なく、飛行機はガラガラ。
アフガンで疲れていたのか、飛び立った直後に寝込んでしまい、着陸と同時に目が覚める。ドバイからわずか1時間。東京〜大阪くらいの距離である。
バーレーンの入国審査。実はここが問題。当局が神経質になっているので、怪しいヤツは通さない。
「どこから来た?」「ドバイから」。
審査官は私のパスポートを繰りながら、「なぜアフガンのビザがこんなにあるのだ?」「やっぱりチェックされるんや」。一瞬くらーい気持ちになったが、気を取り直して「友達がいるんです。彼が呼んでくれるので」。審査官は別の人物をよび、その上官らしき人物が、私を別室に連れて行く。「ジャパニーズ、ここで待て」。
これは長期戦になるな、と覚悟を決めた。イスラエルでは6時間尋問されたことがある。イラクでは尋問の上に、ヨルダンまで「強制送還」されたこともあるので、「空港で徹夜」を覚悟。30分ほどあれこれ考えつつ待っていたら、「ジャパニーズ、こっちへ来い!」先ほどの上官に呼ばれ、何と私のパスポートにすんなりと印を押す。
で、こうしてバーレーンに入って、ブログを書いている。何が何だかよくわからないが、入国は認められたのだ。
取材できるのは、明日と明後日の2日間。何とかがんばって人々の生の声を拾いたいと思う。


顔面腫瘍.jpg

2月18日、午前中にインディラガンジー子ども病院。ハビーブ医師から先天性異常の赤ちゃんの写真をあずかる。彼はこのような異常な赤ちゃんの治療を続けているが、最近、重症患者が急増しているので、できればアフガン全土から医師を呼び集めて、「どのように治療したらいいのか?」「原因は何なのか?」などについて、全国医師大会を開きたいという。
何とか力になってあげたい。日本からの支援金3000ドルを手渡す。これでやけども子どもや水頭症の子どもたちに、薬や粉ミルクを買ってくれる。
写真の赤ちゃんは4ヶ月前に撮影したという。この病院には、すでに7回ほど訪れているが、何度来ても、ビックリすることばかりだ。
劣化ウラン弾の影響だとすれば、早期に「立ち入っては行けないところ」「避難しなければならない集落」などを指定し、これ以上の患者拡大を防ぐべきだ。
しかし国連も政府も、もちろんISAF軍も、何も行動していない。そして今日もおそらくどこかで劣化ウラン弾が使われている。

警官殺害 ブログ用.jpg 写真は殺害現場の付近を警備するアフガン警察官 彼らもいつこのような目に遭うか分からない


2月17日夕刻4時にカブール到着。ホテルに帰ってISAFからの情報をチェックすると、何と17日の早朝、カブール市内のアメリカ大使館付近、「マスード交差点」で、米軍車両がアフガン警官をひき殺したとの記事。ホテルから車で10分ほどのところだ。

「サバウーン、行くぞ」。現場へ急行。「マスード交差点」は、故マスード将軍の肖像画が大書された塔がそびえ立っているので、すぐに分かる。この辺りは米軍基地、大使館、厚労省など重要施設が建ち並んでいるので、警備兵と交通整理兵、警官がうじゃうじゃいる。ちなみに米大使館と米軍基地は地下通路でつながっており、その地下通路は空港まで延びている。つまり「テロリストに襲撃されないで」空港まで行けるようになっているのだ。

マスード交差点付近で車を駐車し、警官と交渉。
「日本のメディアだ。撮影させてくれ」「許可証は?」。こうした場合、ISAFメディアバッジを見せるのだが、彼らは英語が読めないので、許可証かどうかが分からない。サバウーンが口頭で「TVだよ、TV」。
何とか許可を得て、現場を撮影。基地につながる鉄の門扉の前に砂が溜まっていて、そこに車の轍と数カ所の血痕。8時間ほど前の血が点々とインクを落としたように連なる。
 血痕 ブログ用.jpg

「米軍の装甲車の無謀な運転によって、警官が殺されたのに、カルザイ政権は米兵を捕まえもしないし、非難声明も出していない。これが植民地の実態だ」。サバウーンがカメラの前で怒りの声明。
彼は昨年の日本平和大会に参加して、沖縄や佐世保で同様の事件が起こっていることを知っている。
「アフガンも日本も同じだよ。でも日本では、こんな事件があれば、人々はデモをするだろ?ここでは誰も何も言わないんだ」。

おそらく装甲車にひき殺された警官の家族は、収入源を奪われ、妻は物乞いで一家を支えるしか方法がなくなるのだろう。子どもたちは学校へ行けなくなるかもしれない。
「ひき逃げした米兵は、今頃どこかのバーで飲んでるかもしれない。逮捕も、裁判も、刑罰も、損害補償もない。殺され損だ」。

残された家族の中から、ニュータリバンが生まれたとしても、誰がそれを批判できるだろうか?
先日の自爆テロも、背景にはこうした理不尽な現実がある。米軍基地はどこにあっても、この種の悲劇を引き起こす。沖縄もカブールも、同じ問題に直面している。問題は、これを「他人事」として見過ごすか、次は私たちがやられるかもしれない、と立ち上がるか。基地問題は、私たち自身の問題なのだ。

物乞い女性 ブログ用.jpg 写真はナジバーさん。後ろにサバウーンと彼女の孫


2月17日今日でヘラートともお別れ。飛行機が2時半に飛ぶので、それまで街で物乞い女性を取材。ブルカをかぶった女性に、声をかけてインタビューに応じてくれるか尋ねるも、たいてい逃げられてしまう。
ビデオカメラの前で素顔をさらすなんて、日本でいえば、人前でおっぱいを見せるのと同じくらい恥ずかしいことなのだ。

何人かに断られた後、「どうして撮影したいの?」「貧しい女性の現状を知りたいから」「どこから来たの?」「日本から。この映像は日本でしか映さない。絶対にアフガンでは流れないよ」「本当?」「取材に応じてくれたら、寄付するよ」「本当?」。

おー、会話が成立するではないか。ナンパのような、「1万円あげるからあなたのおっぱい見せて!」という雑誌記者のような交渉の末、タクシーで彼女の家まで。
彼女はヘラート市内から車で10分ほどの、小さな古いアパートに住んでいた。
玄関の門扉を叩くと、わっと子どもが出て来た。この子たちは彼女の孫。彼女は15年前に夫を亡くし、病気の息子を抱えたまま5人の孫を育てているのだ。

家の中に入る。10畳ほどの狭い部屋に、孫が4人と息子、そして息子の嫁。あと一人の孫は、井戸まで水を汲みにいっている。
「名前は?」「ナジバー」「歳は?」「50歳」
私と同い年だが、かなり老けている。
「なぜ物乞いを?」「夫が亡くなり、私しかお金を稼げないから」。
「夫は?」「建設労働者だったが、15年前病気で亡くなった」
「一日の稼ぎは?」「だいたい100アフガニー(約200円)ほど」
「足りないね?」「8人家族なのよ、パンを買うだけで精一杯。どうしたらいいの」。
彼女は大粒の涙を流し始めた。傍らに息子が横たわっている。
「名前と歳は?」「アブドッラー、30歳」
「いつから病気に?」「5年前から。頭と胸が痛くて働けない」
「元気なときはどんな仕事を」「手縫いのペルシャ絨毯を作っていた」。

こんな会話をしているとき、サバウーンがささやく。
「彼は麻薬でやられたのさ。顔を見れば分かるよ」。
何をするのもおっくうだ、というように呆然と天井を見上げる若者と、その傍らで大粒の涙を流す母親。

一番上の孫は今年10歳になる。「学校は?」「以前、ちょっと行ったことがある」
「なぜ行かなくなったの?」「ノートも鉛筆もないもの」
「普段は何してるの?」「水汲みと燃料拾い」。

ストーブで燃やす薪が足らないので、街のゴミ捨て場から燃えそうなゴミを拾うのが彼の日課。家から20分ほど離れた井戸から水をくみにいくのも、すぐ下の妹と交替でやらねばならない。
「学校に行きたい?」「うん」「友達と遊んだりする?」「忙しいし、遊んでいない」。

ナジバーさんが泣き止んだので、彼女に少しつらい質問。
「ご主人の写真はありますか?」「ありません。夫が死んだ時はカブールに住んでいました。あの頃は内戦で、息子がロケット弾で殺されました。それで着の身着のままヘラートまで逃げてきたので、夫の写真はありません」。
「ご主人を愛してましたか?」「ええ、とても」。
ナジバーさんがまた大粒の涙を流し始める。10歳の孫がおばぁちゃんの前で困ったような笑みを浮かべ、麻薬?で身体を病んだ息子が所在なげに寝転がる。

戦争が貧困をもたらし、貧困が健康を害し、人々の顔に苦労のしわが刻まれる。
ナジバーさんは、たまたま街で出会っただけの普通の物乞い女性だ。つまりあちらの商店、こちらの交差点、大通りの並木の下などに座っているブルカの女性たち一人ひとりに、このような人生がある。
この国は30年も戦争を続けてきた。戦争と貧困に翻弄されてきた人々。この人たちに希望の光が射し込む日が来るのだろうか。


焼身自殺 少女 顔とプレゼントアップ ブログ用.jpg 写真は、焼身自殺を図った少女 日本からのプレゼントとともに

2月16日午前10時、ヘラート州立病院へ行き、副院長で広報担当のシラジーさんと面会。本日は休日であるにもかかわらず、わざわざ取材に付き合ってくれる。
まずは救急病棟。カブールでもそうだったが、熱湯をかぶってやけどする子どもが多い。そして交通事故。アフガンでは原付バイクに4人乗り、なんていうのが珍しくない。当然、事故も多く、ヘルメットなしの(アフガンでは当たり前)子どもが大けがをする場合が多い。
一通り取材したあと、別棟のやけど専門病棟へ。子どものやけど患者を撮影してから、女性のやけど病棟、重症者の病室へ。女性なのでいきなりビデオカメラを回しては行けない。医師に尋ね、患者自身に許可を得てから。

ベッドには番号がついていて、14番目の患者は身体中に包帯がまかれ、一目で危ない状態だと分かる。
「スーサイド(自殺未遂)」と医師。「この娘はのぞまない結婚を強要されて、一週間前に灯油をかぶり、火をつけた」。息をのみつつ医師の言葉に耳を傾ける。
「名前は?」「アブサナー」
「歳は?」「17歳」。
「この娘は身体の75%以上に火傷を負っている。おそらく助からない」。
医師の説明にうなずきつつ、「どうして自殺を?」「あの人と結婚したくなかったから」
「結婚は誰が決めたの?」「お母さん、いえ両親が」

両親から「結婚しろ」と迫られたのは親戚の男。結婚を迫られたその日の朝、彼女は人生に絶望して、灯油をかぶって火をつけた。そして…。死にきれず、ここに運ばれてきたのだ。
「その親戚の男の人を好きではなかったの?」
「大嫌い」と小さくつぶやく。

ヘラート州立病院は、この地域で唯一重症患者を受け入れることのできる病院である。ここには、カンダハール州、ヘルマンド州、ゴール州、ファラー州など周辺地域から、大量に患者が運び込まれる。アフガンの貧しい村々では、娘を商品のように、金持ちの男に嫁がせる場合がある。親が決めた理不尽な決定を、娘は拒否することができない。拒否すれば、「一族の名誉を穢した」と、父や男の兄弟、叔父などに殺される場合もある。いわゆる「名誉殺人」だ。

これはDVについても当てはまる。結婚したものの、夫がどうしようもない暴力男だったら…。日本でもそんな話を聞くが、ここアフガンでは離婚はまず無理。離婚すれば、やはり「名誉殺人」の可能性がある。つまり実家には帰れない。しかし夫の暴力は続く。残されたただ1つの道は、「灯油をかぶって火をつけること」なのだ。

日本でも昔、「娘の身売り」話があった。21世紀、カブールやヘラートの街にiPhoneが売られている時代に、焼身自殺せざるを得ない世界もある。

ちなみに、このヘラート州立病院は、30年前にイラクが建てた。
「サダーム・フセイン!」と副院長のシラジーさんは親指を立てる。
この病院には米軍の空爆で重傷を負った人々も多数やってくる。
アメリカが傷つけた人々を、フセインが救っている…。

Which is terrorist Sadam or America? ( いったいどっちがテロリストなんだ?) 
私の問いに、「アメリカだよ!」とサバウーン。

ヘラート全景 ブログ用.jpg

写真はヘラート中心部にある巨大なお城から見た街の全景

2月15日午前9時カブール空港に到着。市内からタクシーでわずか15分。空港は便利なところにある。ちなみに都心から電車で1時間以上もかけないと到着しない関空は、国際的にも異常な空港。ドバイ、ベイルート、バグダッド、ダマスカス、ハルツーム…。たいていの国は車で20分も走れば下町中心街だ。アンマンが少し遠くて、30分そこそこかかるかな?
いずれにしても関空は失敗空港なので、いくらてこ入れしても、あそこにある以上無理だ。橋下知事が異様なくらい関空を活性化させようとしても、ダメなものはダメ、なのだ。

パミール航空でヘラートを目指す。このパミール航空、1時間や2時間の遅れは当たり前、下手したら数時間待たせた上に平気でキャンセルするし、先日は墜落事故まで。世界で乗りたくない飛行機会社、ワースト5には入るだろうな。案の定本日も2時間遅れでフライト。午後2時半、アフガン西部の都市ヘラートに到着。気温12度、快晴。カブールに比べてかなり暖かい。
乗合タクシーで市内中心部へ。思ったよりも大きな街で、古いモスクや大きなお城。ヘラートは古代ペルシャの都として栄えた歴史を持つ。カンダハールやジャララバードでも走っているオート三輪。こちらではリキシャと呼ぶ。日本語が外来語化しているのだ。

ヘラート中心部のマルコポーロホテルにチャックイン。玄関に警備兵がいて、鉄のシャッターの上げ下げで出入りできる仕組み。まぁこれなら大丈夫だろう。
遅い昼食を済ませ、サバウーンと街を散策。この街で目立つのはブルカをかぶった女性の物乞い。
100アフガニー(200円)渡して、インタビュー。「夫が昨年死んでから、収入がありません。子どもは5人いて、一番下はまだ幼児。ここに日がな一日座り込んで、お金を恵んでもらっています」。そんなインタビューをしていたら、来るわ来るわ大勢の野次馬。「ニシ、ちょっと目立ち過ぎだね。早く移動しよう」。サバウーンが少し焦り始めた。野次馬たちは、ただビデオカメラが珍しいので集まっただけなのだが、目立つのは避けたい。

ビデオカメラを回しながら繁華街を歩く。カンダハールでこんなことをすれば、おそらく無謀であるが、ここヘラートでは何とかこういうことも可能。ただ、日本人であるということを悟られないようにするのが肝心だ。
リキシャに乗って巨大なお城へ。この石造りの城はおよそ2800年前に建てられたもの。石の階段を上り詰めて、王様の部屋を越えてさらに上がると城の頂上に出る。頂上からの眺めを写真撮影。古いモスクとミナレット、数百m先に、この城の城壁が半分崩れつつ、しぶとく残っている。大阪城の外堀にあたるものだろう。

一通りヘラート市内を観光し、ホテルに戻ってこの原稿を書いている。明日はヘラート州立病院を取材する予定。本日許可証を申請してきた。うまく許可が下りてくれれば良いのだが。

俺 ブログ用.jpg

半分はシャレ、半分は念のため、アフガン民族衣装路あつらえて、パコールという帽子をかぶり、ディスマールと呼ばれるマフラーを巻く。これで私も立派な「日系ハザラ人」だ。この国ではアーリア系の顔をしたパシュトン人、タジク人に並んでアジア系のハザラ人がいる。この格好ならパッと見、現地人である。

これはアフガンだからできるのであって、イラクでは顔が全然違うので、すぐにバレてしまう。1時間半だけ時差が少ない(その分日本に近い)だけあって、モンゴル系の人々も混じって住んでいる多民族国家なのだ。
この国が「文明の十字路」で、チンギスハーンが征服したこともある史実を実感するのだ。

シティセンター テロ zennkei  ブログ用.jpg 写真は自爆テロで大破したカブール、シティセンタービル

「ファック!また渋滞だ」。サバウーンがハンドルを叩きながら、毒づく。カブール市内は人口急増のため、慢性的に渋滞するのと、一昨日まで降っていた雪が溶けて、道路が川の状態になっているのと、それと自爆テロがあり幹線道路が封鎖されてしまったのとで、トリプルパンチの大渋滞。

上空をアフガン軍ヘリが飛び、携帯電話が切れる。自爆テロ、爆弾テロが起こった直後は、携帯電話の電波が切れる場合が多い。なぜか?犯人は携帯で爆破させるので、2時被害を恐れた米軍と当局がしばらく電波を止めるのだ。

それにしても大渋滞で前に進まない。抜け道を通り、警官にプレスパスを見せて封鎖をこじ開け、ようやくたどり着いた現場には、すでに警官と軍、民間軍事会社の社員たちと地元マスコミで大騒動。
シティセンター テロ 犯人の肉が車に ブログ用.jpg


現場は「カブールシティセンター」と呼ばれる、大きなデパートビルの玄関だった。この場所でタリバンとデパート警備員の銃撃戦が勃発し、追い込まれたタリバンの若者が自爆した。ビルの玄関に、緑をバックに白い文字の「CITY」と書かれた看板が吹き飛び、ガラスが飛び散り、犯人のものと思われる手足が飛び散っている。警官が何やらつかみ上げ、トタンの中にその「何か」を隠した。
一瞬だが、見てしまった。爆弾で吹き飛ばされた犯人の頭だった。目を見開き、髪が燃え、口を半開きにしていた。カメラを回していたサバウーンが叫ぶ「頭だよ頭!」。その声を聞きつけたカメラマンたちが一斉に「そのトタン板」にシャッターを切る。

「どけどけ!下がれ下がれ!」警官たちが叫ぶ。その声に後ずさりしては、また現場に近づくカメラマンたち。そんな様子を背景に地元TVが現場中継をはじめる。
「ニシ、こっちへ来い!」。サバウーンが私の袖を引っ張って道路の反対側へと誘導。路肩に張り付いていたのは、犯人の身体の一部。爆発地点から20mは離れているだろうか?身体に爆弾を巻き付けて自爆すれば、当然身体はバラバラに飛び散る。理屈では分かっているのだが、現実を見てしまうと…。

恐ろしい。

今、この原稿を書きながら、つくづく自爆は恐ろしいものだと再認識する。止めようがないのだ。このシティセンターが自爆テロにあったのは、これで2回目。警備体制は十分だった。3日前、このデパートに靴を買いにきた時、あるいは昨年10月、ここでRAWAのメンバーとお茶を飲んだ時、全ての場合に金属探知機で身体検査をされ、持ち物を調べられてから入場した。玄関を入るときらびやかな宝石店が並んでいる。「ここがホンマにカブールか?」。最初に来た時、驚いたものだった。
アフガンでは貧富の差が極端に広がってしまった。おそらく犯人たちは、「米軍に協力して金儲けをした人々」を恨み、犯行に至ったのだろう。

しかし殺されたのは貧しい警備員2人だった。3日前、私の身体を検査し、通過する際に「サラーム(平和を)」とあいさつしてくれた、あの警備員だ。玄関前なので金属探知機は鳴らないし、いきなり銃撃する犯人に対して即座に反応することができなかったのだろう。

またも罪なき人々が、理由もなく殺されてしまった。私たちの到着後、さらに20分ほどして4人の米兵が現場検証にやって来た。米兵に事情を説明しているのは民間軍事会社の社員たちだ。
「ニシ、そろそろ現場を離れよう。アナザーボンビングが来るかもしれない」。サバウーンの提案にうなずく。米兵や警官が集まった時点で、次の自爆が来る可能性がある。そうなれば道連れだ。
現場の遠景をカメラに収めつつ、ホテルへと戻る。

「サバウーン、何といったらいいか…」。「ニシ、早く忘れたいよ…」。その後、しばし無言。彼はこの街でずっと暮らさねばならない。普通のカブール市民にとって、あの場所での買い物は楽しみの1つだった。このまま市民から笑顔が消えていくのが怖い。「アフガン泥沼」。この状況はまだ続く。

標的と兵士 ブログ用.jpg 写真はM240機関銃で標的を撃つアフガン国軍兵士


2月14日午前9時にリシュホール基地の司令官室へ。司令官は不在だったが、広報官がいて、アフガン軍の訓練に関する取材許可が下りた。許可さえ下りればこちらのもの。可能な限りビデオカメラを回せる。

まずは、アフガン軍兵士の射撃訓練場へ。昨年10月に同じような訓練を取材したが、あの時はアフガン警察。ここは軍隊なので使用する銃もカラシニコフではなくM240機関銃である。雪の中を兵士たちが行進してくる。やがて2人一組になり、雪に身を伏せて、50mほど離れた場所からマシンガンを乱射。一人が銃を支えながら弾を込め、もう一人がトリガーを引く。
雪山で射撃訓練 立ち撃ち ブログ用.jpg


30組×2人が一列横隊に並び、雪山に銃声が響き渡る。かけ声とともに、回れ右。また弾丸を詰めて、乱射。この繰り返し。
広大な射撃訓練場に、別部隊が入場してきた。その数優に100名を越えている。広報官によると、1つの部隊が約200人、この基地だけで約5千人のアフガン兵士が訓練している。

ちなみに、彼らは新兵ではなく、むしろ「競争を勝ち抜いてきた」優秀な兵士。ここはそのエリート兵士を鍛え上げて、特殊部隊の兵士(コマンドー)を養成する訓練所なのだ。この基地で6ヶ月訓練し、試験をへてコマンドーに合格する兵士と、落第してまた元の国軍兵士に戻る人々。明日は機関銃ではなく、RPGロケット砲を撃つ練習をするとか。

射撃訓練を一通り撮影した後、施設の中を見て回る。宿舎と宿舎をつなぐ狭いスペースに土のうが積み上げられている。
「敵から攻撃を受けた時、ここに避難し反撃するのだ」と広報官。そういえば、自衛隊のサマワ基地も、よく迫撃弾が直撃していたなぁ。

数ある教室の1つに米兵がいたので、取材する。彼らは「退役軍人」で、ここアフガニスタンで「ロケットランチャーの撃ち方」を教えている。
1mを超える大砲の筒が転がっている。発射台に備え付けてタリバンが潜む地点を狙う「地対地ミサイル砲」である。
「双眼鏡で敵の場所を確認する。素早くその場所をこの地図にマークし、それをこの携帯コンピューターに入力するんだ。そして敵の位置を割り出してから、発射。この作業を素早くやる訓練だよ」と黒人兵のトンプソンさん。ここでもう4年、この技術を伝授しているそうだ。現代の戦争は機械化、無人化されているが、こうしたロケットランチャーも、コンピューターが活躍するのだ。

昼食後、雪山を登る。目指すはヘリ降下訓練用のやぐら。雪山の頂上に4階建てくらいのやぐらが建っていて、その頂上からロープ一本で飛び降りる訓練。
ヘリでホバリングしながら、「タリバンがいる村」に降下する部隊を養成するため。映画のシーンで良く見るが、これは恐ろしい訓練だ。おそるおそるやぐらの上から下をのぞく。「こら、あかんわ」。思わず後ずさり。
「危険な訓練だね。けが人は出ないの?」という問いに、「先月、一人失敗して、病院に運ばれた。彼は下半身不随になった」。やっぱりな。

一通り取材して帰る準備をしていた時、私の携帯とサバウーンの携帯が同時に鳴りだした。「たった今、自爆テロが起こった様子。カブール市内で爆音が響き、煙が上がっている」。
「サバウーン、行くぞ」「ニシ、早く車に乗れ!」。広報官へのお礼のあいさつもそこそこに、現場を目指す。自爆現場はカブールの中心街だ。道路状況にもよるが、この基地から30分はかかるだろう。(続く)

雪を抱いた山ブログ.jpg 写真はカブール旧市街からの風景 雪山が美しい

2月13日、昨日までの大雪がようやくやんで本日は快晴。午前中に国防省へ。
道中、雪山がとてもきれいなので、しばし撮影。旧ソ連が建てたビルの向こうにきれいな雪山。このシーンだけ見ていると、ここがスイスかオーストリアのよう。景色はヨーロッパでも、行き交う人々はタリバンの雰囲気。

国防省に到着。申請書類が受理されていて、アフガン軍の取材許可証が出る。当然ながら国防省の周囲は厳戒警備体制で、一般車は絶対に中に入れない。自動車爆弾を警戒している。車の駐車スペースがないので、私が車に残り、サバウーンが施設内に入って、許可証をゲットした。
国防省前ゲート ブログ.jpg

車の中で国防省の出入り口ゲートを隠し撮り。見つかれば、良くてカメラ没収、悪くて数時間の尋問になる。慎重に撮影。
許可証をゲットしたので、さっそくカブールを出て、アフガン軍司令官が駐屯する基地、リシュホールキャンプへ。この基地は300年前に作られた要塞をそのまま生かし、現代の基地を上乗せして作られている。
雪をかぶった山の頂きには、監視小屋があり、基地へ通じる道路には、数カ所の検問とM16を構えた兵士たち。迷彩服を着た兵士と黒服を着た兵士が混じっている。迷彩服の方はアフガン国軍兵士、黒服の方は司令官護衛の「特別兵士」なのだそうだ。
基地前ゲート ブログ.jpg


ゲートの前で検問中、やはり隠し撮り。アフガンやイラクに来ると、隠し撮りが多くなる。隠し撮りの技術が向上しても、他では役に立たないな。
数カ所のゲートを越え、ようやく司令官棟へ。
ダダダダーン、という銃声。近くの山の中でM16やAK47の射撃訓練をしている。その乾いた銃声に混じって、時折ズシーンという地鳴りのような轟音。RPGロケット砲を撃ったのだ。このようなM16やRPG砲は誰が供給しているのだろうか?現金には色がついていないので、日本の支援金で大量に購入しているのではないだろうか?
雪山に轟く銃声をバックに、司令官棟で待つこと30分。兵士が出てきて、「司令官は出張中。明日午前9時に来い」との返事。
軍隊では、トップの許可が出ないと絶対に取材させてくれない。仕方がない、明日また来るしかない。うまく行けば従軍させてもらえるだろう。

雪のカンバーレ  全景 ブログ.jpg 写真はチャライカンバーレ避難民キャンプ


2月12日カブールは今日も大雪。空港が閉鎖され、長距離バスも走らないので、このままここに缶詰状態。昨夜はエジプト革命の映像をBBCで見ながら一人興奮。早く行きたいのを我慢しつつ、アフガンでの仕事を粘り強くやるのみ。
2日続きの雪で、写真のように避難民キャンプは真っ白になり、子どもが雪だるまを作ったり、雪合戦をしていた。雪を転がして大玉を作るのは万国共通なのだろう。
雪のカンバーレ 毛布 ブログ.jpg
先日配った毛布が各テントで大活躍していた。石炭がほしい、テントの屋根に使うビニールシートがいる、上着がいる、食料が…。リクエストはきりがない。
雪のカンバーレ 子ども泣く ブログ.jpg

それにしても、乳幼児が心配だ。この子は姉に抱かれながら、寒さのためだろう、泣いてばかりいた。

これほど雪が積もっても、行き交う車はノーマルタイヤなので、各地で大渋滞。スリップしながらも事故しないのが、悪路に慣れているアフガンドライバーの腕なのか?
この大雪で予定が大幅に狂ってしまった。しかし雪が降るからこそ、ここに来たわけで、予定が狂うのは仕方のないこと。むしろ飛行機が無理に飛んで、事故されるよりずっとマシ。そう思わないと、この「ポレポレの国」(ゆっくりゆっくりの国)ではやっていけない。
「あと10分待って!」などと良く言われるが、「インターナショナルタイム?ORアフガンタイム?」と尋ねることしばし。10分と言われて待つこと1時間、というのも珍しくない国なのだ。

雪のカンバーレ 2 ブログ用.jpg 写真は雪の中で震えるジュマゴルちゃん

2月11日朝から大雪。カブールは舗装されている道が少ないので、足元はドロドロになる。気温は氷点下まで下がっており、この雪が続くと避難民たちには大変厳しい状況になる。
チャライカンバーレ避難民キャンプへ。晴れていたら多くの子どもが遊んでいる時刻だが、外へ出ている子どもは数人。3日前に毛布を配ったので、大人も子どもも歓迎してくれる。ここはキャンプと大通りの中間点で、周囲に人がいるので安全。キャンプに奥深く入ってしまうと危ない。よってテントから出てきた人に状況を聞く。

現在、テントの数は約800張りあって、1つのテントに8〜10人は寝ているので、人口は約8千人から1万人。昨年の今頃より千から2千人は増えている。
なぜかと言うと、米英軍の空爆。特にヘルマンド州はイギリス軍が駐留していて、米英共同でタリバン掃討作戦を行ったところ。ヘルマンド州はアフガン南部にあって、低地なので、カブールより暖かい。空爆で家を失った上に、寒いカブールで、冬を越さなければならない。

男の子が震えながら歩いている。ジュマゴルちゃん(3)は6人兄弟の一番下。薄手のアフガン服一枚で、鼻水をたらして半ば放心状態。父親は建設作業員などで仕事がある時、一日150アフガニー(300円)の収入があったというが、その仕事もなくなって、今は収入ゼロ。「150アフガニーの日当があったときでもパンを買えば終わりだよ」。つまりこの子に上着を買う余裕などなかった。もちろん病院へも連れて行けない。このまま大雪が続けば、ジュマゴルちゃんは冬を越せないかもしれない。先日の毛布が役に立てばいいのだが。
ジュマゴルちゃんに寄り添うように幼児がいるので、聞いてみると、1歳違いの姉だった。頭を坊主にしているので男の子かと間違えた。
「2年前の空爆で逃げてきた。この子どもたちに何もしてやれない」。指をこすりながら、父親が訴える。「金をくれ」というジェスチャー。

私はこの時、上半身に肌着を2枚重ねし、その上にジャケットとコート、下半身はズボン下とズボンで「完全武装」していても、10分も立ち話をしただけで真底冷え込んだ。その間、3歳と4歳のきょうだいは服一枚だった。何とかならないのか。
「国連も政府もやって来たことがある。その時、名前を聞かれて、拇印も押した。彼らはリストを作っただけで、その後何の援助もしてくれない」。大人たちが訴える。

日本の50億ドルはじめ、数兆円におよぶ支援金はどこに消えたのか?
UNHCRやUNICEFは何をしているのか?この人たちを支援するNGOはいないのか?このままこの子たちは忘れ去られ、凍えながら息を引き取っていくのだろうか?

背中に腫瘍 生後16日 ブログ用.jpg

先日インディラガンジー子ども病院を取材したが、その時撮影した映像の中から写真を書き出したので、このブログにアップする。百聞は一見にしかず。赤ちゃんの背中にできた腫瘍。生後16日目。専門家の調査が必要だ。

インド大使館前 ブログ用.jpg 写真は2度テロに見舞われたインド大使館の現在の様子


2月10日、午前中にアフガン国防省へ。だだっ広い敷地に、これでもかというくらいにコンクリートの壁が張り巡らされている。ゲート前にはカラシニコフ銃やM16銃を構えた兵士たち。ちなみに2年ほど前までは、兵士の銃はほとんどすべてがAK47カラシニコフであったが、最近M16を持つ者が増えた。こんなところにもアメリカ武器商人の影が透けて見える。
ISAFプレスバッジを見せて、中に入れろ、と交渉。一昨日、国防省広報官の名刺をゲットしていたので、結構話は早く進む。

中へ入る。写真撮影がNGなのでお見せできないが、カブール一等地に巨大な省庁。「テロとの戦い」で費やされたお金の一部が、ここにも「浪費」されている。国防省の中で、いろいろあったが、何とか取材申請が受理され、あとは許可を待つのみ。スケジュールがタイトなので、早く下りることを願う。

午後、インド大使館前で秘密警察の目を盗みながら写真をパチパチ。iPhoneで撮影するが、まだまだ慣れず、下手な写真。この場所は09年10月に自爆テロがあったところ。テロ直後、私はここで取材し、あらためて昨今の爆弾の威力に驚愕した。その時の模様は、拙DVD「GOBAKU」の第2章冒頭シーンを見ていただけるとうれしいが、あれから1年ちょっとが過ぎた現場は、やはり「これでもか」というくらいの巨大なコンクリート壁。ビザ申請のためのコピー屋さん、写真屋さんなどは、すべて封鎖され、ゴーストタウンの様相になっている。インド大使館はよく狙われるので、まぁこうなるのも仕方ないかな。

物乞いの女性 ブログ用.jpg 夕刻、チキンストリートと呼ばれる繁華街をぶらぶら歩く。物乞いの女性とガムや新聞を売る少年。幼児を抱えたブルカの女性に「お礼渡すから写真を」と交渉し、撮影。100アフガニー(200円)を手渡す。撮影に手間取ると、野次馬が寄ってくるので素早く撮影するのがポイント。写真撮らせれば金がもらえる、などと知れると、我も我もとパニックになる。それほどみんなお金がない。みんなよく耐えているな、と思う。 午後6時。日がどっぷりと暮れて闇がやってくる。夜間にぶらぶらと一人歩きは不気味である。早くホテルまで帰るとしよう。
路上散髪屋さん ブログ用.jpg 写真は爆弾テロ現場で普段通り仕事する路上散髪屋さん


2月9日、午前中はアフガンプレスセンターで、国防省の記者会見。広報官はダリ語でしゃべるが、英語の同時通訳があるので大要は以下の通り。
国防広報官「我々はアフガン軍の新兵を2万人増強した。そして新兵のトレーニングもほぼ終了。2014年に予定されている外国軍の完全撤退までに、治安維持のための軍事力を高めている」
「軍事力増強とあわせて、力を入れているのが『汚職の撲滅』だ。軍人の研修の中に『汚職と闘う』授業を入れている。『汚職との闘い』はきっとすばらしい結果を出すだろう」。国防相の短いコメントの後で、地元記者からの質問。

—カルザイ大統領と米国は「2011年から4年間で、米軍を撤退させる」と合意したが、アフガンプレスにある米軍基地はどうなるのか?

国「今のところ米軍基地は治安維持に必要だ。2014年までに治安権限がアフガン軍に委譲されるので、それまでにカルザイ大統領と議会がどのような結論を出すか?敵(タリバンなど)に対する防衛能力が高まっているかどうか、で最終結論が出るだろう」

—アフガン軍兵士の中で、逃亡する兵士がいるが、こんなことで治安が守れるのか?

国「部族の事情によって忠誠心が違う。この問題は議論しなければならない。それぞれの部族と軍の間に、信頼関係を作らねばならない。政治的、合法的に各州に軍を置くことが大事だ。逃亡する兵士の中には、貧困や戦争で家族を失い、家計を支えるために、故郷の村へ戻るものもいる。いろいろな事情があるのだ。現在雇用している軍人とは、雇用契約を更新している。おおよそ70%の軍人が契約を更新した。

— 今年から14年までの4年間で、どのように(米軍からアフガン軍へ)権力を移動させるのか?

国「3つのステージを考えている。武装勢力が多数いて①危険度の高い州、②危険度の中程度の州、③安全な州。このうち、②の危険度中程度の州から、治安権限を委譲していく。 徐々に武装勢力を掃討し、②から①へ移っていく。

インタビューの最後に、広報官は、「テロとの戦いが10年続いた。後半3年は(07年から現在)とても激しい闘いになった。この戦争で80億ドルが使われ、空港や基地が整備され、さまざまな武器を購入した」と、この10年を振り返った。80億ドル!もの巨費が投じられてもなお、泥沼の戦争が続いている。その80億ドルがあれば、多くの人が死なずにすんだのになぁ、と感じる。

午後からISAF軍の広報担当と取材日程についてのやり取り。その後、昨日の爆弾テロ現場へ。
路上散髪屋さんがいる。彼は爆発地点から5mも離れていない歩道で、客を待っていた。ドーンという音とともに、白煙がもうもうと舞い上がり、とっさに地面に伏せた。あとはパニックだった。幸いにしてケガはなく、こうして普段通り仕事をしている。この場所で10年働き、大家族を養っている。インタビュー中に客が来て、散髪が始まった。手鏡1つで器用に刈っていく。散髪代は30アフガニー(約60円)だった。爆弾テロ現場では、何事もなかったように日常が続いていた。

背中に腫瘍 赤ちゃん ブログ用.jpg


2月8日、今日は朝からインディラガンジー子ども病院へ。ハビーブ医師が門の前でお出迎え。握手と抱擁の後、さっそく病室を見せてもらう。
「あまりにもやけどの子どもが多いので、やけど病棟を新たに作った。もうすぐオープンするよ」とのこと。がんの子ども、先天性奇形の子どもも急増していて、ベッド数が足らないし、薬も不足。日本の支援金は、ぜひこの病院に回すべきだ。

新生児集中治療室へ。重篤な赤ちゃんが保育器で眠っている。「この子の背中を見ろ」。ハビーブ医師が赤ちゃんの包帯を外すと、そこには巨大な腫瘍。イラクでも数多く見てきた症例。生後2日目、おそらくそれほど長くは生きられないだろう。窓側の1つの保育器に2人の赤ちゃん。生後16日目の赤ちゃんの背中にはやはり大きな腫瘍が張り付いている。隣で眠るのは10日目。こちらは生まれつき内蔵が飛び出している。にわかには信じがたい光景。

やはり無肛門症の赤ちゃんが2人。腸を体外に出して排出させているが、いつまでこのような状態で保育器に入っていなければならないのだろう。

別の病室には水頭症の子ども。生後2ヶ月頃からにわかに頭がふくれあがった。
「水頭症と、小頭症の子どもも急増している」とハビーブ医師。

ハビーブ医師には、早急に実現したい計画がある。それは全アフガニスタンの医師を集めた研究会議。このよなアブノーマルな子どもをどう治療するのか、各地で似たような症例が広がっているので、手術の方法や術後のケアなど、研修が必要なのだ。
ただしこうした会議を開くには、障害がある。それは「劣化ウラン弾の問題」に結びつくので、米軍とカルザイ政権が、良く思わないのだ。この国では政治的な言動は、タブーである。困難な中で何ができるのか?帰国したら、ぜひ政府の方々と相談したい。

インディラガンジー病院の取材後、ホテルで明日の相談をしていたら、「たった今、爆弾テロがあった」との情報が飛び込んできた。
現場へ急行。大慌て警官を乗せたトラックが走っていく。後をついていけば難なく現場についた。

テロがあったのは旧市街、ディストリクト1と呼ばれる大通りに面した繁華街。数台の車が破壊され、背後のビルの窓が吹き飛んでいる。野次馬たちが集まって、騒然とした雰囲気。サバウーンにカメラを渡してとりあえず立ちレポ。ナンバープレートが吹き飛んでいたので、ガソリンまみれのプレートを拾い上げて、二言三言。そんなことをしていると、民間軍事会社(PMC)の社員数名が、バラバラと防弾車から下りてきた。彼らはM16ライフルを持ち、群衆に「立ち去れ!」と叫んでいる。アフガン警官もいるのだが、完全に現場の指揮は軍事会社の社員たちが行っている。この国では正式な国家権力(この場合は警察)よりもプライベートカンパニーの方がエライのだ。
軍事会社に遅れること数分、ようやくアフガン軍が到着した。「もっと早く来いよ、PMCに負けてるやないか!」とツッコミを入れたいほど。
この頃になって、ようやく現地のマスコミも到着して、ダリ語で何やらインタビューしている。インタビューのシーンを後ろから撮影。サバウーンの通訳「俺たちは普通の市民だ。なぜ無実の人間を巻き添えにするのか!」。

米軍もイヤだが、アルカイダ系のテロも全然支持されていない。

犯行に使われたのは、道路脇に設置された仕掛け爆弾。いわゆるIEDだ。携帯電話でリモートコントロールして爆破させる。アフガンやイラクでは、このIEDが一番恐ろしい。自爆と違って、犯人は生きながらえ、また次の機会をうかがうことができる。

一見するとカブールはずいぶん平和になったかのような雰囲気を醸し出しているが、まだまだ混沌は続く。治安を守らず、病院や貧困層への救済もなく、汚職にまみれたカルザイ政権。しかしこの国ではエジプトのように人々は立ち上がらない。いや、立ち上がれなくされている。政権の背後にアメリカがいて、その支配が人々の生活を苦しめているのは、エジプトもアフガンも、そして日本も同じ。ちょっとずつしか変わらないのだろう。しかし少しずつでも変えなければならない。

雪景色 ブログ用.jpg


2月7日午前中に毛布を買い出し、午後から避難民キャンプで配布。まずはチャライカンバーレキャンプ。昨日とは打って変わって快晴で、暖かい。避難民キャンプはパグマン山脈の山裾にあるので、雪をかぶった山脈と真っ青な空が美しい。これほど美しい景色なので、平和であれば、観光客がやってくるのになぁ。
毛布を積んだトラックが遅れてやってくるので、その間にキャンプの人々を撮影する。ぬかるんだ地面に大きめのテント。「アスタバーナ」というアフガン人によるNGOが運営する学校だ。許可証がないので外から撮影。
キャンプの学校前で ブログ用.jpg

裸足の子どもがぬかるみを歩いてくる。昨日ほど寒くはないので、昼間は耐えられるが、夜になるとどうだろうか?
井戸水をくむ子どもにインタビュー。一日数回、このぬかるみに足を取られそうになりながら井戸とテントを往復する。
一輪車が荷物を載せてやってくる。ぬかるみにタイヤを取られつつ、何とか無事通過。ブルカを着た女性たちが「私たちにも毛布を」と迫ってくる。彼女たちはキャンプ近隣に住む貧しい人々。家こそ借りているが、子だくさんでこの冬を毛布なしに過ごすのは厳しいと訴える。しかし避難民キャンプのリーダーが出てきて、「俺たちの毛布だ!」と女性たちを追い払った。
トラックが到着。200セットの毛布を喧嘩しないように配布するのが大変。案の定、最後の毛布を巡ってトラブル発生。先日、携帯電話の取り合いで紛争が発生し、10人以上が負傷したという。リーダーの一人は、その紛争の責任者として逮捕され、今は刑務所にいるらしい。毛布一枚に生死がかかっているので、争うな!というのも酷なのだが…。
キャンプに毛布を配る ブログ用.jpg

チャライカンバーレ避難民キャンプで毛布を配り終え、パルワンドゥー、セ避難民キャンプへ。
こちらは200セットの毛布をスムーズに配布終了。配布後、避難民にインタビュー。生後7ヶ月の娘、9ヶ月の娘を失った父親が2人。それぞれ1ヶ月前、12日前に、ともに寒さのため死んでしまった。
未熟児 危険な状態 ブログ用.jpg


未熟児を連れてきた男性。「生後2日目だ。ここで生まれた。病院に行きたいが金がない」。未熟児は娘で、保育器に入れないと命が危ないだろう。この赤ちゃんは、かなりの確率で死んでしまうのではないか?さっき配った毛布が役に立てば良いが。
以上、今回も無事、支援物資を配ることができた。早朝より夕方まで、サバウーンと2人で買い出し、配布、喧嘩の仲裁、そしてインタビューと、さすがに疲れた。靴とズボンはドロドロで、どこかの露天で安い靴を買わねばならない。
(おそらく中国製の安い靴や上着を売る店が多数)
支援いただいたみなさん、本当にありがとうございました。

雪のパルワンセ 子ども.JPG 写真は雪の中の避難民の子ども パルワンセキャンプで本日撮影

2月6日、朝一番にアフガンプレスセンターにてパルワン州知事の記者会見に参加。アフガン北部の人々の生活状況について知事が語る。昨年ヒンドゥークシュ山脈を貫くトンネルで渋滞していた車に雪崩が襲いかかり、100数十名のドライバーが犠牲になった。今年はあのような事故がないようにしたい、と表明。なにしろあのトンネルが物流の大動脈で、これから雪崩のシーズンだ。タリバンも怖いが、社会的インフラが未整備なための事故も恐ろしい。

記者会見後、「コンクリートの壁に囲われた大通り」を歩く。この辺りは政府関係の建物が集中しているので、全てのビルがコンクリートの囲われた要塞となっている。爆弾を積んだ自動車が突っ込んでくるのを避けているのだ。
そんなコンクリートの壁の隙間に、震えながら子どもが座っている。靴磨きだ。
「何歳?」「10歳だと思う」「寒くない?」「寒くて足がしびれてしまったよ」「毎日何時間くらいここで働いているの?」「朝5時から昼の3時まで」「稼ぎは?」「だいたい一日座って100アフガニー(約200円)」。学校へはときどき通う。家に帰っても食べるものがなく、6人兄弟なので、自分が働かざるを得ないと言う。雪が降ってきて、衣服は湿っている。このコンクリートの壁の隙間が風よけになっている。

次にチャライカンバーレ避難民キャンプへ。道中、ますます雪が激しく降り出し、周囲の露天が凍り付いたように見える。チャライカンバーレ避難民キャンプは、カブール郊外の山裾になるので、市内よりさらに雪が積もっている。
雪をかぶったテントが延々と続く。米軍の空爆が激しくなって、この2、3年で避難民が急増。その数今や約7000人である。
キャンプに入る。雪が溶けてぬかるんだ地道と所々に水たまり。5mも歩けば靴もズボンもドロドロ。長靴が必要だ。
ビデオカメラ前に子どもが寄ってくる。サンダルばきで靴下はない。いや、まだサンダルがある子はマシで、何人かは裸足である。テントの中に入って取材しようとするも、テントの中は真っ暗で撮影できず。ライトを持ってくるべきだった。

テントの中の子どもを、どう撮影しようかと思案していたら、「ニシ、今日はもうこの辺りで帰ろう。さっきカメラから顔を隠す若者がいた。あいつはきっとタリバンだ」。「このキャンプも、かなり追いつめられているね。人々の怒りを感じるよ」「先日、ここで一人、行方不明になっている。長居は無用だ」。
避難民たちは極寒の冬を迎え、ある者は途方にくれ、ある者はこのような生活に追い込んだ人々に怒りを燃やす。「死が近くなると、彼らも何をするか分からない。今日はキャンプのリーダーが不在だ。あらためて出直そう」。

ということで、雪のチャライカンバーレを短めに撮影。その後パルワンドゥー、パルワンセ避難民キャンプへ。こちらもテントが雪に覆われているが、市内にあるので、雪の量は少なめ。
雪の舞い散る中、子どもたちを撮影。昨年はパルワンセだけで5人の子どもが亡くなった。今年は何とか一人の死者も出さずにこの冬を乗り越えてほしい。援助物資は毛布に決定。

2011年2月5日現地時間午後4時。無事カブールに到着。気温7度、思ったより暖かい。周囲の山は雪で覆われているが、カブール市内はぬかるみの道。小粒の雨がしとしとと降っている。通訳のサバウーンと再会、しばし抱擁。
いつものホテルにチェックインすると、以前ボーイだったお兄さんが受付に座っている。出世したのだ。サバウーンと若干の打ち合わせ、その後ISAF軍にメールで連絡。さっそく取材の申し入れをする。
街へ出る。2週間前、ヒズベ・イスラミの武装勢力に襲われ、爆破されたスーパーマーケットへ。このスーパー、私も愛用していて、ここでひげ剃りやシャンプーを買ったこと数回。5人が殺され10数人が重傷を負った。スーパーは鉄の扉が下ろされ、周囲にアフガン軍が張り付いている。ISAFプレスパスを見せて撮影を始めるも、上官が出てきて「撮るな」と妨害。アフガンでは良くあることだが、警戒心の強い軍人が現れると、その時点でおおっぴらに撮るのはあきらめざるを得ない。
上官の目を盗み、周囲の人々にインタビュー。「スーパーの前で両替商をしている。あの日もここで商売していたよ。犯人は店の中で銃を乱射し、そして自爆した。子どもを含め5人が殺されたよ」。
この国では簡単に人が殺されてしまう。ただ買い物をしていただけなのに、「なぜ撃つのだ?」と疑問を抱きながら、人々は殺されていった。数百m離れたスーパーに、金属探知期の入り口がセットされている。自衛しなければやられるという危機感。ヒズベ・イスラミは、ヘクマティヤルが指揮する軍閥で、反政府勢力。タリバンとは違うが、この国を混乱させるべく、各地で暴力行為に及んでいる。「この国は敵ばかりだ」とサバウーン。
やがて日がどっぷりと暮れて闇が訪れる。歩行者は極端に少なくなり、大通りを走る車も家路を急ぐ。週末の夜8時。日本なら「さぁこれから楽しむぞ」という時刻にゴーストタウンと化すカブール。
さて、長旅で疲れた身体に、この夜を冒険しながら外で過ごすのは、少しきつい。ホテルに帰って寝ることにしよう。

2011年2月5日早朝、無事ドバイに到着。03年のイラク戦争から、エミレーツ便のドバイ経由で、イラクやアフガン、レバノン、スーダン、パレスティナ…。いろんな国に行ったなぁ、とあらためてこの「激動の10年」を振り返る。

ドバイ国際空港は午前5時というのに、観光客でごった返している。閑古鳥鳴く関空とえらい違い。
しかしその観光客もエジプトには行かないようで、一日3本ほど飛んでいるドバイ〜カイロ便は、ガラガラの状態のようだ。これなら予約なしで乗れそう。

ドバイから先にアフガンへ飛ぶ。多額の支援金を早く毛布と食料、医薬品にして配布して「身軽に」なりたいし、寒い冬を取材するのが目的なので、まずはカブールだ。
何が何やら分からないままツイッターをはじめたので、フォローしてくれる人多数。ありがとうございます。こちらからもフォローしますね。ただパソコンはネットにつながるのに、iPhoneは圏外です。何でやろ?

現地に来る度に感じるのは、「急速な技術発展」。03年当時、バグダッドには通信手段がなく、スラーヤという衛星携帯電話で話をしていた。これは空飛ぶ通信衛星に電波を当てて通話するものなので、数分しゃべるとすぐに切れた。衛星が西の空に沈むと次の衛星を探さねばならない。だからみんな空を見上げて通話していた。

その後携帯電話が普及し始め、ボーダフォンがつながった。「ノキアがつながりやすい」「モトローラーは…」などと話題になっていたのが06年頃。やがて日本の携帯会社も諸外国でつながり始め、私がシリアにいるときでも友人から電話がかかってくる状態になった。友人は私が日本にいると思っているので、のんびりと「また飲みに行こうや」などとしゃべっている。私が「今、シリアなのでこの電話高いで」と言うとすぐに切ったものだった。

そして今、ツイッターにフェースブック、ブログにミキシー、スカイプと何でもありの時代だ。その結果、チュニジアやエジプトで革命が起こった。
サッカーアジアカップで日本がPK戦の末、韓国を下した直後、私のiPhoneにイラクからメッセージが届いた。イラク中部の都市トゥーズ・フルマートゥーという町に住むシンコから「おめでとう。日本勝ったね」という内容。イラクから日本へ普通に携帯メールが届くのだ。

世界は狭くなっているのに、日本人のハートが内向きになっているという。
だが本当はもっともっと世界に出ていくべきなのだ。世界は、少なくとも中東諸国は日本が大好きで日本の進出を待っている。そんなことを考えているうちにカブール行きのフライトが迫ってきた。便利なドバイから、よく停電し、きれいな水も不足するカブールへ。では出発します。

いよいよ本日、アフガニスタンへ向けて出発する。今回は避難民キャンプに食料と毛布を配布し、その後インディラガンジー子ども病院へ、医薬品を届ける予定。ISAF軍のプレスバッジが4月6日に切れるので、今のうちに取材しておくという目的もある。
米軍がこの夏から撤退を開始するという。自衛隊の医務官も派遣されそうな気配だ。現状はどうなっているのか、日本の支援はどうあるべきか、などを取材してきたい。
では行ってきます。