nishitani: 2012年4月アーカイブ

焼かれた青年 ブログ用.jpg

4月19日、早朝からレバノン人によるシリア難民救済活動を取材。このNGOが入るビルの前に、2人のコーヒー売りが所在無さげに佇んでいる。
「あいつらは秘密警察だろう。普通、コーヒー売りは歩き回っているし、2人でチームも組まない。このNGOビルに入っていくシリア難民を調べているんだ」とは、通訳のモハンマド。昨日まではヨルダン人のハーミドだったが、彼は昨日、私と一緒に尋問を受けてしまったので、もうここでは動けない。ベイルートからヨルダンへと帰国した。
NGO取材の後、いよいよシリアとの国境へ。この町から国境までは車で1時間ほど。レバノンは岐阜県くらいの広さ。つまり大阪から大津くらいまでがレバノンで、米原はもうシリア、といった感覚。
シリアとの国境には川が流れ、渓谷になっていた。レバノンの町ハルバー側の山からシリア側の山を撮影。山裾に白い家とモスクが見える。あちらは、ホムス州タッカラ町。川底にシリア軍の検問所。あの検問所から、白い道が真っすぐタッカラの方向に伸びている。民家の陰に隠れて、検問所を撮影。何しろ、国境で撮影していることがバレたら、撃ってくる。スナイパーはゴルゴ13級の腕前なのか、武器の性能が発達したからか、ジャーナリストも撃たれて亡くなっている。
緊張しつつ、三脚で撮影。三脚がないと手ぶれして何を撮っているか分からない。でも三脚は目立つ。こちら側から見えているということは向こうからも見えているということ。
「さっと撮影しろよ」モハンマドが注意する。
25日前、タッカラで大虐殺があり、多くの難民がこちらへ逃げてきた。ハルバーのレバノン人たちは、川まで降りていって、負傷者を引き上げた。負傷者はシリアからすれば「生き証人」なので、国境で撃たれてしまう。助ける方も命がけ。
ハルバーの、避難民一時滞在所へ。デモに参加して撃たれた、パンを買いにいって撃たれた、家で寝ている時にロケット弾が飛び込んできた…。そんな話と怪我人であふれている。
ここは青年男性が寝泊まりしていて、デモの先頭に立っていた人たちが多かったので、シリア警察に捕まった人も多数。
彼らは顔を出して撮影するのを極度に怖がっていて、また匿名を条件に取材に応じてくれたので、まずはA氏の体験から。
Aさんは、さっき見てきたタッカラの町でデモに参加していた。6ヶ月前のこと。突然デモに戦車砲が撃ち込まれた。即死する人、血だらけになって逃げ回る人、その場で倒れ込む人…。彼は負傷して、道に倒れ込んでしまった。
軍がやって来た。彼らは道ばたに倒れて、まだ息がある人を次々に射殺していった。自分の番が来た。死を覚悟した。背中を撃たれ意識を失った。
「生き証人」を殲滅したと思った軍が帰ると、次に来たのがゴミ収集車。トラックに積み上げられた遺体は、一カ所にまとめて投げ捨てられた。
近所の人々が泣きながら、息子や従兄弟の遺体を埋葬しようと思ってやってきた。イスラムは土葬で、埋める前に身体を洗い、清めなければならない。Aさんの遺体を洗おうと思ったら、まだかすかに息があった。死んでいない!そう確信した近所の人々は、自由シリア軍に連絡して、秘密裏に国境を抜けて、この町へと運んだ。
この時の虐殺は、少なくとも40人以上と言われている。そして助かったのはAさんを含めてわずか3人だ。この時の模様は、YOUTUBEにアップされている。
次にBさん。Bさんは6ヶ月間ホムスの刑務所に拘留された。Bさんが衣服を脱いでくれたとき、私は息を飲んだ。
全身の皮膚がむけて白い肌が露出している。
ガスバーナーで焼かれたのだ。足や手、腹に背中。何度も何度も焼かれているうちに彼は気を失い、48時間後に目覚めた時は病院のベッドの上だった。
彼の仲間は何人もこの拷問で命を落としている。
2人とも驚異的な生命力で何とか死なずにすんだが、当然障害が残り、Aさんは歩けなくなった。この戦争犯罪を許してはならない。アサドは国際法廷で裁かれるべきである。

この狭い部屋2つに38人が住んでいる ブログ用.jpg 写真は激戦地ババアムルから逃げてきた家族。この狭い部屋に38人が住む。


4月18日、トリポリで取材開始。昨日暗くて撮影できなかった劇場&映画館へ。舞台の上に土のうが積み上げられている。
今年に入って、トリポリでは「親アサド住民」対「反アサド住民」の対立が激化し、何とこの劇場にも山側、つまり「親アサド住民」の方からロケット弾が飛び込んできたのである。あの土のうには、そのロケット弾に反撃するため、スナイパーが常駐していたという。
2箇所ある映写室が、難民たちの住居になっていた。畳10条ほどの広さに6人が眠る。天井を見れば、確かにロケット弾の着弾によって穴があいている。この町は、内戦になる一歩手前なのである。
映画館を後に、町の風景を撮影する。

「自由シリア」の国旗が、あちこちに張られている。自由シリアの国旗には星が3つ。現在のシリア国旗は星が2つ。①オスマントルコからの解放、②フランスからの解放、で2つ星なのだ。
「自由シリア」は3つ。なぜかというと3つ目は「アサドからの解放」を意味しているのだ。
大きな国旗の前で、子どもたちを撮影する。
「何だ、何だ」と野次馬たちが集まってきて、あちこちから「こっちも撮れ」「フリーシリア!」のかけ声。

調子に乗って撮影していた時だった。
「やばい、シークレットサービス!」通訳ハーミドの声とともに、黒塗りの車から降りてきたのは、銃を持った兵士と、サングラスをかけた、いかつい男2人。「しまった、目立ちすぎたか」。後悔先に立たず。パスポートとIDカードを取り上げられ、しばし尋問を受ける。
男たちが、ベイルートの内務省に電話している隙に、さっきまで回していたテープを抜き取り、ドライバーに渡す。間一髪で映像だけは死守しようという算段だ。
「撮影したカメラを見せろ」。案の定、テープとSDカードの確認。
たった今撮影を始めたばかりで、写真を撮っただけだと説明。SDカードは没収されたが、映像は守ることができた。
昨年パキスタンで捕まった時の経験が生きた。何事も経験しておくものである。

気を取り直して、撮影再開。全ての難民たちは、あの秘密警察を恐れていて、インタビューは覆面で行う。名前は匿名。よって撮影できるのは子どもたちだけ。
イドリスから逃げて来た母親。大学生の娘が行方不明になっている。イドリスの大学にシリア軍が入ってきて、13名の女子学生を強姦し、連れ去っていったのだ。娘は?生きているのか?
後ろ髪を引かれる思いで、残された家族は国境を越えて逃げてきた。13名の娘たちは今頃どうしているのだろうか?

やはり匿名を条件にインタビューに応えてくれた30代の男性。
半年前、ホムスでデモをしていた時に警察に逮捕されてしまった。20㎡くらいの狭い部屋に70名の囚人が詰め込まれた。電気も窓もない部屋で、2時間おきに座って眠る人と立ち上がる人が交代した。その後手錠をはめられ、天井から吊るされて、殴る蹴るの拷問を受けた。
その後「水攻め」が待っていた。
2リットルのペプシと2リットルの水を一気に飲まされ、ペニスをヒモで縛られた。大量の水を排出できない状態で放置された。
2ヶ月間はホムスで、そして4ヶ月間はダマスカスに移送されて、そんな拷問が続いた。ダマスカスでは、「囚人を釈放しろ」という運動が高まっていた。国際社会もアサド政権の拷問を批判し始めた。そして何とか「生きた状態」で、牢屋から解放された。
彼のペニスからは、常時おしっこが漏れている状態。そして二度と子どもを作ることができない身体になった。今も数種類の薬を飲んでいるが、機能が回復するかどうかは不明である。
今日はたくさんの証言を集めた。どれも耳を覆いたくなるような話ばかりだ。
明日は大規模なデモがある。病院は負傷者が満杯だが、秘密警察の目が光っていて、満足に取材できるかどうか?
何とか最善を尽くしたいものだ。


トリポリ シリア難民が逃げて来る街並 ブログ用.jpg 写真は、レバノン北部の町トリポリ。貧しい庶民が住むエリアで、写真の奥のビル手前が「シリア通り」。つまり奥側が「親アサド」で、手前側が「反アサド」である。


本日までに取材したことを簡単にまとめておく。現在宿泊しているホテルにはネットがなく、アップできる時間が限られているため、昨日のブログは説明不足だった。
まずレバノンにおけるシリア難民の状況について。
急激に難民の数は増えているが、ここには国連もいなければ、レバノン政府からの援助もない。なぜか?
まずはレバノン政府。ここレバノンは微妙な力関係の上に、行政が成り立っている。すなわち、キリスト教マロン派、イスラム教スンニ派、そしてシーア派。それぞれの宗派代表が、水面下で駆け引きしながら、辛うじて内戦になるのを防いできた十数年間だった。
最近勢力を増しているのが、シーア派のヒズボラ。アサドはアラウィー派、つまりシーアの流れを汲んでいる宗派に属していて、06年のイスラエル対ヒズボラの闘いの際には、シリア経由でイランから武器が供給された。
ヒズボラにしてみれば、「恩があるアサド」を裏切るわけにはいかないし、アサドの後ろにはイランがついているので、イランに逆らうことはできない。
つまりレバノン政府は、公然とアサド政権を批判することができない。
国連について。
現在、アナンの停戦合意条件に基づき、停戦監視団がシリアに派遣されている。まだそんな状況の中で、公然とレバノンに国連が入って来るに至っていないのだろう。もちろん、シリアの後ろ盾であるロシアの意向もあり、国連として一体となった動きがとりづらいのかもしれない。
レバノン北部のトリポリであるが、この町にはシリアの影響を受けた秘密警察がいて、住民たちはおおっぴらにシリアを批判できない。
日本ではあまり知られていないが、80年代〜90年代にかけて、レバノンでは多数の人々がシリア秘密警察に拉致されて、今も行方不明のままである。
北朝鮮と同じことが、この国で起こっているのだ。
だから、トリポリの人々は、隠れてシリア難民を支援している。昨日は壊れた映画館に住み着いたシリア難民を取材した。6ヶ月間、電気なし、水道なしで過ごしていた。映画館の客席や待ち合いロビーで寝泊まりしている。もちろんその中には子どももたくさんいる。学校にも行けずに、暗い映画館でローソク一本、長い夜を過ごしている。
そしてその生活は…。
おそらく何年も続く。アサド政権が倒れるまで。
昨日は、そんなトリポリでの取材に手間取って、夜間のインタビューになり、ちゃんと撮影できなかった。
本日も朝から好天である。きれいな地中海に、ローマ時代の建物。絵はがきになりそうな景色。こんな素晴らしい国が、ずっと戦争で苦しんでいる。
トリポリ取材の後、できるだけ国境に近づいてみようと思う。昨日はシリア全土で55人殺されているので、おそらく多数の難民が逃げてくるだろう。

4月17日、首尾よくレバノンのベイルートに入る。アンマンから車で6時間程度でベイルートに行けるのだが、途中、必ずシリア領内を通らねばならないので、陸路は不可能。よって交通は航路のみ。よって全てのフライトが満席である。
午後2時、ベイルートから北へ30キロ、世界遺産ビブロスのホテルにチェックイン。戦争さえなければ、この町は観光客であふれているはず。美しい地中海とフェニキア人が作ったお城、そしてマロン派の教会に石畳の道。
そんな美しい街を観光せずに、泣く泣く北部主要都市のトリポリへ。
リビアのトリポリではなく、レバノンのトリポリ。語源は同じで、3つの都市、つまり「トリポリス」から名付けられている。
トリポリは、住民のほぼ100%がイスラム教スンニ派なので、シリア難民が多数流れてきているという読みである。
つまり、現在のアサド政権は、シリアの少数派で、アラウィー派というシーアの流れを汲む教派である。現在は主に多数派のスンニ派住民が攻撃されてるし、激戦地ホムスから最も近いのが、このトリポリなのである。
トリポリはレバノン第2の都市で、1982年のレバノン内戦の被害を引きずっている都市。レバノン内戦後、この地を支配したのがシリア軍で、10年ほど前に、親シリアの住民対反シリアの住民で、内戦状態にもなったことがある。
トリポリの中心街を貫く大通りは、「シリア通り」と呼ばれていて、この「シリア通り」から山側が、親シリア住民が、海側には反シリア住民が住む。
この構図は、今回のシリア暴動以後も同じで、シリア難民は海側の「反シリア住民」の家や空き店舗などに居候している。
この土地で、シリア難民にインタビューすることは極めて難しい。新シリア住民にカメラの前でインタビューを受けていることがバレると、チクられて、下手したら捕まってしまう。なので、顔を隠しての撮影や、匿名での記事発表が条件になる。
ババアムルから逃げて来た42歳の女性。5人の子持ちで、夫はこのシリア内戦で、射殺された。ババアムルは、最も激しく破壊された町である。
この女性と子どもたちは、27日間、地下シェルターで過ごした。電気も水もなく、食料も不足した。地上では、ロケット弾が飛び交い、ビルというビル、家という家は破壊されつくした。
27日後、自由シリア軍がシェルターにやって来て、救い出してくれた。その後、ホムスの郊外、学校のグラウンドで野宿すること10日、そのホムスもシリア軍が迫ってきたので、25日前に、国境を越えて、レバノンに逃げてきた。
母親と5人の子どもがよく死ななかったものだ。
アサドの軍隊は、「町を焼きつくして、殺しつくしている」ようだ。ただインターネットも電話も切られているので、その事実が報道されないだけ。
本日は、夜間のインタビューで、時間も限られていたため、明日、じっくりと聞いて回ることにする。
シリアの事態は、想像以上に悲惨である。

ダルアーで撃たれた青年 ブログ用.jpg 写真は昨年12月26日、ダルアーでシリア軍に撃たれた青年。デモでは両手を上げ、「シリアに自由を」というポーズで行進していた。


4月16日、本日も国境の町ラムサへ。ヨルダンは高速道路が整備されているので、あっという間にシリアとの国境へ。ラムサの町の郊外にできた「シリア難民居住団地」へ。ここは地元ヨルダン人の篤志家が、自分の土地に4階建ての団地を4棟建てて、急増するシリア難民を受け入れているのだ。
この団地だけで約850人。毎日百人近い難民が国境を越えてやって来るので、それでも住宅が足らなくなる。本来は国連の出番だが、ここには国連は来ない。

なぜかというと、ヨルダン政府は、公式にはシリア難民の受け入れを認めていないからだ。つまりヨルダンに20万人近くいると考えられるシリア難民は、難民ではなく「旅行者」にカウントされている。
なぜヨルダンが難民を認めないのか?

それはパレスチナとイラク問題である。元々ヨルダンには、パレスティナ難民が多く居住していて、その数は地元民を追い抜き、実はヨルダンの人口の多数派は、パレスティナ人なのである。
さらに03年からのイラク戦争で、この国にはイラク難民も多数住んでいる。その上にシリア難民である。
「これ以上の難民は受け入れられない」というヨルダン政府の意向を反映して、逃げて来たシリア人は、「旅行者」扱いなのである。

だからラムサの「シリア人居住団地」で、取材することは非常に難しい。ヨルダン政府にとって、この団地は「存在しないこと」にしたい。どこの馬の骨か分からないジャーナリストに、「こんなに難民が流れ着いています」などと実態を知られると具合が悪い。だから許可は降りない。
仕方がないので、昨日同様「普通の家に紛れ込んで生活している」難民たちを取材。詳細は、またDVDなどで紹介するが、ここでは1人の青年の例だけ。

彼はシリア南部ダルアーの町で、反政府デモに参加していた。デモが解散し、11歳の従兄弟と家路についた。ただ歩いているだけのその時、シリア軍のスナイパーに撃たれた。11歳の従兄弟は即死。左腰の背後から銃弾が入り、前部へと突き抜けた。

12月26日のことだった。野戦病院に運び込まれ、従兄弟が死亡、彼が緊急の手術を受ける様子が、YOU TUBEに流れている。ただ単に歩いているだけ。もちろん武器も持たず、武器の使い方も分からない少年と青年に、シリア軍は銃撃を加えている。
18歳の青年は、ダルアーの野戦病院で応急手当を受けて、ヨルダン側へ逃げてきて、ラムサで手術を受け、一命を取り留めた。まだ痛みは残っているし、薬を飲み続けねばならない。しかしその薬を買う金がない。そして故郷ダルアーには、もう二度と戻れない。もし戻れば、確実に殺されてしまう。

シリア難民にとって、アサド政権が続く限り、決して故郷には戻れない。戻ろうとすれば、おそらく昨日見たあの国境で射殺されてしまう。わずか15㌔先の故郷なのだが、この人たちにとっては永遠に踏むことのできない土地になってしまった。
もちろんアサド政権が倒れれば戻れるが、まだ崩壊の兆しは見えない。そしてアサドが倒れれば、かなりの確率でシリアは内戦に突入してしまうだろう。

「八方ふさがり」。
シリア問題を取材すればするほど、この問題は「解くのが困難な3次方程式」のようなものだと思うようになった。この点については、また後日まとめてみる。
明日は、レバノンのベイルートに飛ぶ。なので早めに寝るとする。

ムハンマドさんと家族 ブログ用.jpg 写真は、ラムサに逃げてきたムハンマドさんとその子どもたち。子どもたちは後日、父を追いかけてここまで逃げてきた。ダルアーでは電気も水道もなく、食料にも事欠く状態だという。


4月15日、アンマンからシリア国境の町ラムサへ。ラムサまでは車で1時間半。ヨルダンとシリアは意外に近いのだ。

ラムサで通訳ハーミドの友人、ムハンナドに会う。本日の行動は彼がコーディネートしてくれている。
「公式な国境がいいか、非公式(非合法)な国境がいいか?」。どうやらシリア難民が多数逃げて来るので、「非合法な国境」があるようだ。

ちなみにこのラムサ、人口は約12万人の小さな町なのだが、昨年3月のシリア暴動以来、たくさんのシリア難民がここに逃げてきていて、なんとその数約15万人。つまり、「地元民より難民の方が多い」という逆転現象が起きている。
そしてラムサの町は人でいっぱいになった。市内中心部の商店街は、人と車であふれている。
なぜみんなラムサに逃げて来るのか?

「親族を頼ってやってくる」のである。

ラムサの町から、シリア側の民衆蜂起で有名になった町、ダルアーまでわずか15㌔。そしてラムサとダルアーは姉妹都市のようなもので、互いに行き来が頻繁で、婚姻関係にある家族も多い。ここアラブは大家族を形成するので、「夫の姉の旦那の家」とか「弟の嫁の実家」などに避難して来るのだ。
さて、「公式の国境」は封鎖されているだろうし、やはりここは「非合法な国境」を見るべきだろう。
「国境からシリアが見える。近づきすぎると撃たれる恐れがあるので、慎重に行こう」とのアドバイスにうなずきながら、「非合法な国境」まで30分ほどのドライブ。

「あの白い建物は、もうシリア側だ。見ろ、パトロールの車が走っているぞ」。
ムハンナドの指し示す方向に、白いモスクと軍の見張り台のような建物。その建物の前は、道路になっているようで、時折車が通過する。
牛が放牧されている。
「あの牛はシリア側にいる」。
そうか、あのあたりからシリアなのか。
さらに近づいていく。あの見張り台に兵士がいるなら、こちら側からカメラと三脚を担いだ3人が近づいて来るのが見えているはずだ。

国境は、「枯れ川」だった。アラビア語で「ワジ」と呼ばれる枯れ川は、大地を2分しており、雨が降ると今でも水が流れるようで、草木が生い茂っている「豊かな土地」である。遊牧民が羊を追っている。
のどかな風景。
そんな「日常」の中に、いかつい軍の「見張り台」がある。これが「非日常の風景」。

ヨルダン側の畑に三脚を据え付けて、シリア側をズームで撮影。
数分後に、なんとシリア側から1人の男が駆け出して、こちら側に走ってくるではないか。
フェンスを乗り越えて、放牧地を走る男性。数百㍍先なのでその表情などは捉えきれないが、今、1人の難民が無事こちら側にたどり着いたようだ。男性はその後、灌木の茂る森のようなところに入ってしまったので、見失ってしまった。ただ発砲音などはしなかったので、無事逃げ切ったと思う。白昼、兵士が監視する中で、大胆な逃走だった。

国境取材の後、枯れ川にそって遊牧民を撮影していたら、運悪くヨルダン軍の国境警備隊に見つかってしまった。
「撮影した映像を消せ」と命令される。しばし交渉するも、消せ!の一点張りだったので、泣く泣くさっきの映像を削除。しかし早送りと巻き戻しを繰り返しながら、消したふりをしたので、さっきの男性の逃走については、映像を守ることができた。まぁ不幸中の幸いか。

ラムサの中心街に戻って、難民たちを取材する。
ムハンマドさん(30)は、シリアでの暴動のしょっぱなからデモに参加していた。実はこのシリア紛争、発火点は、まさにダルアーの町からであった。
2011年2月11日、エジプトでムバラク政権が倒れたとき、ダルアーの少年10人が、壁に落書きをした。
「アサドよ、次はお前の番だ」。
翌日、シリアの秘密警察が犯人をあぶり出し、10名の少年たちは牢屋に入れられた。9歳から15歳の少年は、そこでレイプされ、顔を焼かれ爪をはがされた。
ダルアーの大人たちは、秘密警察署長に直談判し、子どもたちをかえしてくれと叫んだ。
「子どもたちは返さない。もし子どもがほしければ、女たちに別の子どもを産ませればいいのだ。生ませる能力がないなら、俺たちが代わりに生ませてやってもいいぜ」。秘密警察署長でアサドの従兄弟であるアッターフ・イジーブの対応に、大人たちは激怒した。そして…。
11年3月の「ダルアー暴動」につながったのだ。

平和的にデモをするこの「暴動」は全土に飛び火していった。ホムス、ハマ、アレッポ…。アサドは徹底的に暴力でねじ伏せた。結果、この国では1万人以上の人々が殺され、大量の難民が発生し、町は焼かれ、国自体が崩壊の危機に直面した。

ムハンマドさんがシリアを捨てるキッカケになったのは、やはりデモだった。ダルアーのデモにシリア軍が発砲してきた。隣の友人が撃たれ、意識不明になった。シリア側の病院に運ぶと殺されてしまうので、ヨルダン側へ運ばねばならなかった。バイクの3人乗りで、意識不明車をサンドイッチのように挟んで、ラムサの町を目指した。枯れ川を渡るとき、やはりシリア軍が撃ってきた。運転していたムハンマドさんには当たらなかったが、銃弾は3人目の友人の足に当たり、バイクを捨てて逃げた。意識不明の友人をその場で寝かせて、足を撃たれた友人は、河川敷に隠れた。彼は走ってヨルダン側へ逃げ込んだ。

結果は、意識不明者は、その場で射殺され、河川敷に逃げ込んだ友人は、負傷したまま夜を迎え、闇夜に乗じて、徒歩で逃げてきた。
彼はラムサの町につくや否や、気を失ったという。すぐにラムサの病院で手当を受け一命は取り留めた。

ムハンマドさん以外にも、たくさんの難民に出会った。検問所を通過する時に撃たれた男性や、息子がデモに参加していて家宅捜査を受け、秘密警察に逮捕され、14日間も拷問を受けた63歳の男性などから話を聞くことができた。
詳細は後日、映像にまとめる予定だ。
ラムサの町には難民キャンプはなく、全ての人々がいわゆる「借り上げ住宅」のような家に住んでいる。
1つのビルに850人も住んでいるところがあるという。女性や子どもは、どうしているのか?ここには国連がいないし、難民のための学校もないので、明日はそのあたりを取材することにする。

4月14日、無事ヨルダンの首都アンマンに到着。空港からタクシーで、市内キンディー通りのキンディーホテルにチェックイン。アンマンに来るのは4年ぶりだが、高層ビルが建設され、道路は新しくなり、通行する車も増えて、だんだんと巨大都市になっていく。

03年のイラク戦争では、イラク難民を大量に受け入れ、06年のヒズボラVSイスラエル戦争でも、レバノン難民がやってきて、最近ではリビアからも富裕層が逃げてきて、そしてシリア難民が入ってきている。

今年の夏は、サウジやクウェート、UAEなどから、多くの長期滞在者がここへやってくる。
なぜか?

サウジやクウェートの夏は暑い。彼らオイルマネーで潤った人々は、夏に長期バカンスで避暑に出る。今までは、ダマスカス、ベイルート、カイロ、アンマンなどであったが、カイロは「エジプト革命」で危なそう。ベイルートも今回のシリア内戦でちょっと怖い。ダマスカスなんて絶対に入れない。すると残るのは…。
同じアラビア語が通じて、近代都市で、それほど暑くない夏を過ごせるのは、アンマンしかないのだ。かくて、市内のホテルは満杯。物価は上がるし、交通渋滞。よって高速道路が整備され、交差点は立体になり、5スターの高層ホテルが建設される。
ここアンマンは、良くも悪くも「戦争で翻弄される、中東の拠点都市」なのだ。

通訳のハーミドと4年ぶりに再会。弟のサイフもやってきた。それぞれとハグ。
思えばこいつらとのつきあいも、もう10年だ。03年のイラク戦争開戦時は、サイフは高校生だったし、ハーミドは大学を卒業したばかり。(当時は、彼らの親父、ハリルを通訳としていた)それが今や立派な社会人となり、ハーミドに至っては、バツイチである。まぁいろいろあったんやろな。

ハーミドの自宅で、明日からのシリア周辺取材の打ち合わせ。話をしながら感じたのが、今回のシリア情勢の複雑さ。何しろ、ここ地元というべき、隣国ヨルダンでも評価が全然違う。アサド政権を打倒すべしという人と、いや下手に打倒したら、シリアは分裂し、徹底的な内戦になり未曾有の難民が出てしまう、という人と。

現地のテレビも二分されていて、シリア放送では「ダマスカスの平和な一日」を放映している。レポーターがピクニックしている人々にマイクを向けて、人々が「ダマスカスは平和です。治安が守られているのはアサド政権のおかげです」というコメントが流れている。
チャンネルを回して、アルジャジーラ(カタール)やアルアラビーヤ(UAE)を見れば、「今日、ホムスで爆撃があり数名が殺された模様です」「ダラアでは反アサドのデモが行われています」など、反アサドの放送が続いている。

どちらが本当なのか?

おそらく爆撃の映像が流れているのは本当で、現地の人々が携帯電話で撮影したものを、命がけで、ネットを通じてアルアラビーヤなどに送って、それが衛星テレビに流れているのだ。

昨日はシリア全土で629カ所、本日も125カ所の反アサドデモがあり、本日だけで(現地時間夜8時現在)14人が殺された。殺された人の数は、数時間ごとに増えていくので、本日の死亡者のトータルは、もう少し増えるかもしれない。つまり、停戦合意など無視されて、人々が殺されている状況に間違いはない。

そんなシリアの中にもぐり込みたいのだが、大変危険である。とりあえず、まずは状況の把握、そして人々の声を拾い集めることから始めよう。

明日は、ヨルダン、シリア国境まで行く。


原子力 明るい未来 ブログ用.jpg 写真は、有名になった双葉町の看板。看板の下で防護服を着た人々が線量を測っていた。「40マイクロ出てる」という声が微かに聞こえた。

ピーピピツピー。線量計からアラーム音が鳴り響く。「8マイクロ。8,4、8,56…。あー9マイクロ越えちゃった」。ここは福島県南相馬市と浪江町の境界、Y牧場のゲート前。餓死した牛の頭蓋骨が並び、「東電、国は大損害を償え」「殺処分反対」などペンキで書かれた怒りの看板。3月13日、福島第1原発20キロ圏内の立ち入り禁止区域に入った。ゴーストタウンと化した、半永久的に住めなくなった故郷。原発から「風下の町」をレポートする。

「最初にこの検問所を通過する時は緊張したけどね、今は慣れちゃった(笑)」。本日、私を案内してくれるのは、南相馬市原町区で、和洋菓子店「松月堂」を営む横川徳明さん、千代さんご夫妻。
検問所にて ブログ用.jpg
南相馬市役所から横川さんの車で国道6号線を南下すること10数分、前方に機動隊が検問所を作っている。「これより原発20キロ圏内。立ち入り許可証が必要」との看板と三重県警の警官が数人。全国から応援に入っている警官たちも被曝するので、ローテーションで検問に当たっている。昨年11月は、ここで大阪府警の若手警官にチェックを受けた。左手のコンビニ駐車場では、車を止めて放射線防護服に着替えている人がチラホラ。
許可証を見せて、圏内に入る。6号線を南下、人もすれ違う車もいない、不気味な静寂が続く。国道左手の海側は、津波で流され何もなくなってしまった平原。その向こうに波しぶき。「ここから海が見えるなんてねぇ。風景がすっかり変わっちゃったね」ハンドルを握る横川さんがつぶやく。
かつての田んぼ、家屋だったところに津波で流された車や自動販売機。一年前、3・11のまま、時が止まっている。
検問ラインから10分も走ると、松月堂の倉庫。横川さん夫妻が、海が見える国道脇に花を手向ける。「この辺りは津波で亡くなった人が多くてね。月に一回は圏内に入るから、こうして花を供えてるの」と奥さん。花のそばに小さなお坊さんの人形を置く。「この人形、お経をあげてるの。お坊さんが来れないからね」。
花を手向け、合掌。南相馬市だけで、津波の犠牲者は1800人を超える。原発事故があったので、すぐには救援できず、福島ではいまだに行方不明者も多い。
倉庫から原発まではだいたい15キロ。空間線量は0、15〜17マイクロシーベルトで推移している。「この地域より福島市、郡山市の方が高いよ。政府は距離だけで立ち入り禁止にしているからね」とはご主人。
倉庫から、「見えるようになった」数キロ先の海岸へ。海への道は311の時点のまま。あちこちに地割れ、そして津波で流された自動車や自動販売機がかつての田んぼに転がっている。
海岸沿いにガレキの山。自衛隊と警察がガレキを一カ所に集め、積み上げた。ガレキの上に線量計を置く。数値はじわじわと上昇し、0、8マイクロ。申し訳ないが、このガレキは全国に拡散させず、「低レベル放射性廃棄物」として安全に県内で処理するしかないだろう。
常磐線の小高駅へ。土盛りの上の線路が防波堤の役割をしていて、線路から海側は全て流されていて、山側に家屋が残っている。津波被害を逃れた山側の町も、原発事故で住めなくなった。駅前商店街は地震で崩れたままの状態。
小高駅 倒れた自転車 ブログ用.jpg
駅のそばに自転車駐輪場があり、たくさんの自転車が倒れたままになっている。この駅からたくさんの中学生、高校生があの日も通学していた。「通学用自転車 富1中031」「Odaka Technical High School08−190」。富岡町第一中学、小高工業高校生の自転車だろうか。
「中高生も津波で流された子がいてね。家も流されたので、形見はあの自転車だけ、という子もいるのよ。でもここが立ち入り禁止区域でしょ。形見の自転車さえ、取りに来れないの」。奥さんの横川千恵さんが、「地元の人しか知らない情報」を伝えてくれる。この地震で倒れた自転車の何台かは、主がいなくなって1年、ここでひっそりと倒れ続けているのだ。
横川さんは、この小高駅前商店街のはずれに、和菓子店を出店していた。昭和48年、娘の出産にあわせてここで商売をはじめたという。
店の中へ。地震で大きく傾いた商品陳列棚。店内には桜の造花。その奥にある日めくりカレンダーには3月11日という大きな文字。あの日は東北の寒い冬が終わり、来るべき春を待つ、浮き浮きした季節だった。あれから1年、この店は倉庫に変わった。仮に立ち入り禁止が解けたとしても、商店街には人が戻って来ないだろう。この場所での商売は、あきらめざるを得ない。
商店街から山側の集落に入っていく。建設中の常磐高速道路を越えたあたりで、アラームが鳴り出す。
「2マイクロを越えると、警戒音がなるんですよ」。横川さんが握るハンドルの隣に、緑色の線量計。車内で2マイクロ、外はもっと出ているはずだ。
牧場 頭蓋骨 ブログ用.jpg
車が峠道を駆け上がったところに「牛に注意」という手書きの看板。野生化した牛が道路を横断している時に、車とぶつかる事故が多発したのだ。「牛に注意」の看板を何枚かやり過ごしたところにY牧場があった。
牛の頭蓋骨が4つ並び、「東電、国は大損害を償え」という怒りの看板。牧場主が書いたものだろう。その赤いペンキの文字は、農民たち、酪農家たちの血の涙で書かれたようだ。
ピーピー。線量計が不気味に鳴り続ける。空間線量で毎時9マイクロシーベルト。もしここに1年立っていれば、78ミリシーベルトの被曝。おそらく何年かでがんになってしまう被曝量だ。試しに線量計を地面に置いてみる。
9、10、12…。数値は牧草の上で14マイクロ、森の中で15マイクロに跳ね上がった。これは除染できるレベルではない。ここは半永久的に人が入ってはならない場所になってしまった。
「原発さえなければ、私たちは故郷を捨てずにすんだのです。私たちの先祖がこの村をつないで、つないでやってきたのに…。まさかこんな形で何もかも失うなんてね…」。この村で生まれ育った奥さんがつぶやく。「あきらめたらダメですけど、でもあきらめるしかないかもね」。
浪江町を抜けて双葉町へ。さすがにここで放射線防護服を着る。JR常磐線双葉駅前、やはり線量計がピーピー鳴り出す。原発から5キロ圏内に入る。車内で線量が6、7、8マイクロと上がっていく。双葉町体育館が見える。車が体育館の方へカーブを曲がりきったとき、その看板が飛び込んできた。
「原子力 明るい未来の エネルギー」。
何という皮肉な標語。ブラックジョークのような看板の下で、やはり防護服を来た一団が、線量を量っている。かすかに、「40マイクロ出てる」との声がこちらまで聞こえる。原発の補助金だろう、駅舎も体育館も立派な建物。それだけによりいっそう悲しい現実が目の前に展開している。

311から一年が過ぎた。昨年末政府は「原発事故は収束した」と一方的に宣言したが、被害は延々と続いており、補償も生活再建も遅々として進んでいない。大量の汚染水は海に流れ続け、爆発で傾いた第1原発からは、今も放射能が漏れ続けている。故郷を、生活を、復興への夢や希望を根こそぎ奪っていく原発事故。フクシマから学ぶべき重い現実。そんな中、政府も電力会社も「電気が足らなくなる」と福井県大飯原発の再稼働を急いでいる。彼らが言うのは、経済性や効率。東京・永田町で政局を、駆け引きを続けているうちに、言葉からは人間らしい温かさが失われ、政治への深い失望が生まれる。
「政府のエライさんや電力会社の社長さんは、県庁とか、市役所には来て謝罪するが、このような汚染された現場には来ない」と横川さん。再稼働を言う前に東電も政府も、今一度、現場へ来て、この現実を目の当たりにすべきなのだ。

先日、神戸大学名誉教授の二宮厚美さんに、ハシズムを斬る、と題してロングインタビューを行った。暴走を繰り返す橋下氏であるが、人気はまだ衰えていない。彼が登場してきた時代背景というものを分析しないと、その本質は見えて来ないのではないか?そう考えてインタビューを企画した。その内容を以下、紹介します。
長いですが、読んでみてください。


——二宮さんは、最近「新自由主義からの脱出」という著書を上梓され、グローバル化の中での民主党政権の終焉や、新福祉国家づくりへの展望などを語っておられますが、それに加えて「大阪・橋下派の本質と問題点」についても言及されています。橋下維新の会、いわゆるハシズムですが、なぜこれほど人気が高まっているのでしょうか?

二宮 要因は2つあります。まず1つ目が橋下氏一流のパフォーマンスが、ある程度の大阪府民の心をとらえているということ。例えば「大阪都構想」や「維新八策」など、政策の中身が支持されているわけではなくて、テレビなどで報道される彼一流のアピール力に、支持が集まっています。各種世論調査でも、支持の理由が「橋下さんの行動力に期待する」というもの。でも大阪都構想の中身について、府民が詳しく知っているかというと、そうでもない。彼は大衆動員型の政治家で、少なくない府民が、内容も吟味できないまま、パフォーマンスに幻惑されている、というのが一点目です。
次に、大阪にはすでに橋下氏の考え方、いわゆるハシズムを受け入れる基盤が出来上がっていたということ。大阪の一般大衆が貧困化して、その貧困化した層が、彼のパフォーマンスに拍手を送った。橋下氏の手法というのは、徹底的に既得権を叩く。一般にポピュリズムとは、絶えず敵を作って、その敵と戦う姿勢を貫くことで、大衆の人気を得る、というものですが、橋下氏の場合、敵は既得権と、その「権益を享受している人々」です。

——世論調査でも、橋下氏は相対的に貧困な若年層や非正規労働者の支持を集めているようです。

二宮 21世紀になって、日本は小泉改革、つまり新自由主義の下でルールなき資本主義に陥り、雇用保障も、権利保障もない世の中になりました。生存競争の修羅場に多くの人々が放り出される中で、失業者から見れば、雇用保障された人々は「既得権者」に見える。派遣労働者に比べて、正規労働者は既得権の持ち主。そして公務員は解雇されることはない。民間と比べると、身分保障は公務員の特権なんだと。
彼が知事に就任した時、「大阪府は破産会社、民間会社なら従業員は解雇される。府の職員は解雇されないので、賃金カットは当然だ」という理屈で、大阪府職員の人件費を大幅にカットしました。官民の間では、公務員対民間労働者、そして民間会社の中では、非正規雇用と正規雇用を対立させていったのです。
そして公務員の中でも、とりわけ労働組合が「既得権の巣窟」(笑)になっていると、労組を攻撃しました。確かに大阪市役所の巨大労組には、人事介入や市役所ぐるみ選挙など様々な問題がありました。その不祥事をネタにして、本来守られるべき、労働者の団結権などの労働基本権を徹底的に叩きつぶしてしまおうということです。
これは学校教育でも同じです。府立高校と私立高校を比較して、府立高校は定員割れしても教師はクビにならないし、その高校はつぶれない。これは私立に比べて一種の既得権ではないか、と。
この論法でいけば、あらゆるところに格差はあるので、彼は常に、「少し上のところ」「身分保障された人々」を叩くことができる。そしてその攻撃の先頭に立つのは政治家・橋下である、というプロパガンダで人気を保ってきたのです。

——橋下氏はこの方法で弱者同士を戦わせているわけですね。本来、団結すべき労働者同士が、彼によって分断されているように感じます。全国的に見て、この大阪で「橋下人気」が高まっていった背景は何でしょうか?

二宮 大阪は全国に比べて貧困層が多いのです。大阪の非正規労働者の割合は、45%です。全国平均は35%なので10ポイントも高い。非正規労働者の多くは、「既得権から疎外された」と感じますから、既得権益を叩いてくれる橋下氏を応援したくなるのでしょう。全国的に見て、大阪は失業率ワースト5の中に入っていて、7%くらい。平均は5%弱です。生活保護受給者も就学援助受給家庭も全国でトップですし、ファミリー層から若年層まで総じて貧困化しているのです。時代の閉塞感とあわせて、橋下氏なら何かやってくれそう、と感じてしまったのでしょう。
でも非正規雇用が増えたのは、もちろん労働組合の責任ではなくて、新自由主義を押し進めた歴代政治の責任なのです。
例えば、橋下氏のブレーンといわれる堺屋太一さんは経済企画庁長官の時代、1999年に、派遣労働を解禁しました。「これからは正規ではなく、派遣や請負労働の時代だ。次々と好ましい仕事を労働者が選択できる。今までの年功序列や終身雇用は、もう時代に合わないんだ」と、非正規雇用を急増させる先頭に立っていた人なのです。そして小泉政権になって、製造業や日雇い労働にも派遣が可能になり、ワーキングプアという言葉が社会的大問題になるような世の中になっていったのです。

——なぜ大阪がそれほどまで貧困化していったのでしょうか?

二宮 関西財界の責任が大きいと思います。東京一極集中の裏返しとして、大阪からどんどん本社機能が逃げ出して、集積利益を奪われ、地域経済が沈下していきました。
次に大手企業、例えば家電業界が、輸出産業として大阪の下町の中小企業や工場に発注していた仕事を、21世紀になってから、アジア志向に切り替えた。昔は地域の人材や資源を、企業が利用して、会社を大きくしていったのに、下請け部門までアジアに移転させてしまった。つまり関西財界も大手企業も、大阪を見捨てたのです。
3つ目に、地域経済が沈下して失業者が急増しているのに、自治体が有効な対策を打たなかったことが挙げられます。地域が貧困化したら、自治体も困るのですが、福祉や医療などのセーフティーネットで、地域を再生する努力を怠ってきた。かつて吹田市が革新市政だった頃は、共働き夫婦が働き続けることができるように、保育・教育行政に力を入れました。簡単に生活保護にいたらないように、高齢者医療や介護などにも力を入れ、貧困化を防ぐ努力をしてきたのです。しかし、大阪府、大阪市をはじめ、巨大な開発には力を入れるものの、肝心の住民生活を守る施策については、カットしてきた歴史があります。つまり経済が沈下する中で、大阪府民は行政からも疎外されてきたのです。
だから橋下氏が「大阪市役所をぶっ壊す」とダブル選挙で叫んだ時、少なくない大阪市民が、「よく言ってくれた」「スッとした」と拍手を送ったのだと思いますよ。

——そんな橋下氏をテレビなどのメディアが持ち上げていたのも、大きな理由の1つではなかったでしょうか?

二宮 そうです、メディアの責任も大きい。既得権を叩くという手法は、実はナチスドイツのやり方なのです。この間、橋下流政治手法が人気を博す中で、私はヒトラーの「我が闘争」を読みなおして復習しました(笑)。
ヒトラーは「敵に対する攻撃は、仮借なく、徹底して行うべし」と述べています。積極的に攻撃を続けることで、「攻撃する側に正義がある」と大衆は理解する。つまり社会が混沌としている時は特にそうですが、徹底して攻撃し続けること、一歩も引かないこと、少々間違っても攻め続けること。ちょっとでも引くと、テレビや新聞に突っ込まれるので、常に勢いある強気の姿勢でのぞむ。例えば、大阪市役所の労組が選挙支援のリストを作っていた、と維新の会の市議が、リストを問題にしましたが、後になって、それはねつ造だったことがバレましたね。橋下氏はあの時、ちょっと迷って、一旦謝罪したのです。でも翌朝になって「労働組合の濡れ衣を晴らしてやった」と開き直ったのです。リストねつ造問題で一歩引くと、市役所職員への思想調査アンケート、庁内メール盗み見など、全てがマイナスに回転してしまう。ですから一夜明けて、一転して強気の姿勢で記者会見に臨んだのだと思います。
テレビや新聞が、橋下氏の一挙手一投足をただ単に追いかけて報道するだけでは、結果として彼の宣伝になるだけです。彼の政治手法を分析して、政策の中身を評価、批判しなければならない。それが本来のジャーナリズムです。

——リストねつ造問題に加えて、庁内メールの盗み見や、業務命令としての思想調査アンケート、卒業式の君が代斉唱での口元監視事件など、どれ1つとっても「政治家として終わり」のような事件が続いているのに、なぜ彼だけ責任を問われないのでしょう?

二宮 これが国会の場、例えば大臣ならおそらくどの事件でも辞任に追い込まれているでしょうね(笑)。なぜ橋下氏だけが責任を追及されないのか?これもまたメディアの責任と言わざるを得ません。テレビや新聞が橋下氏の手法に飲み込まれて、萎縮しているのです。某テレビ局が橋下氏にちょっと批判的な特集を組むと、翌日の記者会見で、彼は質問もされていないのに、某テレビ局だけ吊るし上げて非難する。そんな姿を見せつけられて、新聞記者やテレビのレポーターやコメンテーターが、彼への批判的コメントを一種のタブーとして控えている状態です。おそらく彼はタレント時代の経験から、テレビや新聞との付き合い方を知っているのかもしませんね。

——橋下氏は吹田市にある府立国際児童文学館を廃館にするとき、職員の勤務状況を盗撮しました。今回の庁内メール盗み見事件もそうですが、これは明らかに犯罪ですよね。なぜここまでやるのでしょうか?

二宮 これは彼の弁護士としての経験が、後押しをしているのではないでしょうか?例えば、税務署職員が脱税疑惑で家宅捜査をする場合、「違法な捜査方法であっても、最後に何か1つ、どんな小さなことでも脱税の証拠が見つかれば、捜査はとがめられない。何が何でも証拠をつかむことだ」と知り合いの税務署職員が言ってました。警察や検察の別件逮捕と似たようなことですね。つまり彼は「権力者の論理」を知っている。アンケートで多少、思想信条の自由を踏みにじっても、君が代で立たなかった教師への制裁を行っても、常に強気で、自分がやりたいようにやる。そんな過剰なまでの自信があるのでしょうね。
でもこれが欧米メディアなら、そんな「権力者のやりたい放題」に対して、反対のキャンペーンを張りますよ。権力者が人々の自由や人権を侵害することは、絶対に許してはならない、それが歴史から学んだ民主主義の原則です。権力者が暴走をはじめたら、新聞、テレビはそれをチェックし、ストップさせねばならないはずです。新聞は本来、社会の木鐸なのです。

——そんな橋下氏が、今は大阪市役所の労組を徹底的に叩いています。この真の狙いはどこにあるのでしょうか?

二宮 彼にとって、既得権とは社会権なのです。労働基本権は、教育権や生存権と並ぶ社会権です。この社会権は競争とはなじみません。例えば「全ての子どもは教育を受ける権利がある」「人には健康で文化的な最低限度の生活をする権利がある」ことは憲法で守られているのですが、「ジャングルの中の生存競争を生き残れ!」と鼓舞する橋下氏にとっては、そんな権利を生ぬるく感じているのでしょう。
ヒトラーが登場したとき、ドイツの左翼や労働運動は当時の世界最高レベルの勢力でした。この勢力と対抗するため、ヒトラーは、賃金や雇用は競争の中で勝ち取るものだ、と社会権を否定していきました。競争は闘争であり、それは戦争につながっていきます。橋下流の考え方もこれと似ていて、「あらかじめ全ての人間に与えられた権利なんてくそくらえ」と、社会権を敵視していきます。さすがに労働基本権そのものが不要だとは言えないので、その象徴である労働組合そのものを全否定したいのです。だから「労働組合は政治に口を出すな!」とキャンペーンを張って、労組そのものをバッシングする。彼にとっては、労働組合という存在そのものが気に入らないのでしょう。

——公務員の労働組合事務所が庁舎にあるのはおかしい、出ていけ、と迫っていますね。

二宮 民間の労組も会社の中に事務所があるでしょう?同じように、公務員労組も、労使の合意に基づいて事務所を置いているはずです。互いに仕事を進める上で、労使慣行のルールに基づいて、歴史的に職場の自治として勝ち取ってきたものです。それを今さら取り上げていくというのは、先人たちが苦労して勝ち取ってきた労働条件や、職場環境までを破壊するような反動的な行為ですね。

——そんな橋下氏が市民向けに、「収入の範囲で予算を組む」と言います。その論理で敬老パスの廃止や、国保料金の値上げなどが進められていきます。

二宮 福祉だけでなく、治安や防災、教育など公共の課題というのは、「社会全体で最優先でやらねばならない」のです。例えば火災が起きれば、消火活動に全力を尽くす。お金がどうだとか、財源は?などは後回しで対処するのです。橋下氏は知事になってすぐに「財政非常事態宣言」を行い、吹田の井上市長もそれにならって、非常事態を宣言しました。結論から言うと、これは市民を騙す方便であって、なるべく公共サービスをカットして、浮いたお金を開発に回したいという本音を隠すものです。
国が交付金を大幅にカットしたため、確かに地方の財政はピンチです。「臨時財政対策債」というのは、国が交付税を交付できないので、後から国が補填する借金です。橋下氏は知事1年目に、「こんなに借金がある」と言ってましたが、
2年目に気づいて、臨時財政対策債については、借金だとはいわなくなった。井上吹田市長は、まだこのことに気づいていません。いまだに「借金だ、ピンチだ」と。「収入の範囲で予算を組む」と言いながら、市民サービスを削っていくという手法は、私から言わせれば「サル知恵」なのですが(笑)、橋下氏の方が、まだ多少正しい知識をお持ちのようです。
いずれにしろ、橋下維新の会が目指すものは、教育や福祉、医療とあわせて職員の人員態勢も削っていきながら、民営化をすすめ、行政はその公共としての責任を放棄していく。そしてひねり出した金で、「国際的競争力を持った都市」を創る、というものです。彼はよく、大阪都にしてシンガポールや上海に負けない都市に、と言いますね。

——最後に、橋下氏を代表とする維新の会は、国政進出を狙っているようです。今後どうなるのでしょうか?

二宮 7月末からのオリンピック期間中は選挙ができないでしょうから、衆議院の解散は6月かもしれません。その際、消費税を引き上げてからの話し合い解散か、民主と自民が合意せず、税率引き上げの前に解散か、で状況は変わってくると思います。どちらの場合でも、橋下氏の強烈なパフォーマンスが大々的に報道されるでしょうから、維新の会は政界に進出していくでしょう。この状況は、05年小泉内閣の郵政解散選挙と似ています。あの時国民は、小泉氏の派手な言動に幻惑され、自民党に300を超える議席を与えてしまった。その結果、後期高齢者医療などの医療崩壊、派遣切り、貧富の格差拡大など、国民の怨嗟の声が充満し、09年の政権交代につながった。しかしその政権交代も、見事に期待を裏切られ現在に至っています。小泉改革が失敗だったことは、この10年の歴史が証明しています。今度もそうならないように、私たちは10年単位の長いスパンで政治を冷静に見ていく必要があると思っています。

——そうですね、私たちに求まられているのは、「騙されない冷静さ」かもしれませんね。一時のムードやイメージに惑わされず、平和や暮らしを守るためにどうすればいいか、しっかりと考えていきたいと思います。今日はありがとうございました。