nishitani: 2012年9月アーカイブ

アリーと トルコのホテルで ブログ用.jpg 国境を越えてトルコのホテルへ。ロビーで運び屋アリーと無事帰還記念撮影。

9月11日午後10時、無事トルコとの国境アトマ村まで戻ってきた。自由シリア軍兵士モハンマドの家で、シャワーとお茶。ほぼ3日ぶりのシャワー。このアトマ村は比較的安全地帯なので、電気もお湯もOK。普段何気なく暮らしている、この「普通の生活」が、何物にも代え難いものであることを痛感する。ここでは空爆に脅えなくてもいいし、通学路で撃たれることもない。アトマ村からトルコ国境までわずか数㌔。車で30分も走れば、国境の緩衝地帯だ。
モハンマドがトルコ側の運び屋アリーに電話している。後は、あの国境を暗闇の中、歩いて越えていくだけだ。

午前1時、アリーから電話。トルコ国境警備隊の警備も薄くなったようで、今なら越えれる、との連絡。
自由シリア軍の兵士たちとハグし、モハンマドの車に乗り込む。闇の中、オリーブ畑のあぜ道を行く。トルコ側の灯りが見えてくる。
車を降りて、ビデオカメラのスイッチを入れる。ナイトショットモードにして、「今から国境を越える」と自分を撮影。モハンマドの先導で、ビデオカメラを回しながら国境のフェンスへ。闇の中から難民家族が現れた。手には家財道具。この穴を越えて行くのだ。サラームアレイコム(こんばんは)小声であいさつし、難民家族を撮影。
「ヤッラ、ヤッラ」(早く早く)。鉄条網に気をつけながら穴を越える。トルコ側に出た。難民たちは、草むらを真っすぐ進んで行く。

ここで私は躊躇した。穴のところで待っているはずの運び屋アリーがいない。
「アリーがいない場合は、フェンスにそって右へ真っすぐ行け」とモハンマドがアドバイスしてくれていた。1人でフェンス沿いに真っすぐ進むか、それとも難民家族と一緒に草むらを行くか。

1人で行くことにした。フェンス沿いを歩く。私は超ド近眼なので、時折穴ぼこに足を突っ込んでは転びかける。
「参ったなー。アリーはどこや」。途方に暮れかけた時、草むらの中でピカピカと白い光。
あれか。光は100㍍以上離れている。あそこにアリーがいるのか。おそるおそる近づいていく。光はじっとこちらを照らしてくる。あの光は罠か?逃げるか?行くか?
逃げようがなかった。行くしかない。光に向かって進む。アリーであってくれ!
祈りながら闇を行く。その光の主は…。

トルコ軍だった。

「ここで何をしている」「ここは撮影禁止だ」「日本人か?どちらへ送ってほしい、トルコか、シリアか?」
最後の最後で大失敗。数人のトルコ軍の背後にアリーがいた。そう、アリーは軍に拘束され、私を違法に運んでいる「現行犯」で捕まり、穴まで来れなかったのだ。
「違法出入国」「撮影禁止地域の撮影行為」「国家機密漏洩」…。私の頭の中を様々な「罪状」がぐるぐる回る。撮影したテープは没収。留置場へ。日本大使館への連絡。新聞記事…。あーぁ、最後にやらかしたなー。2日、いや下手すれば1週間は塀の中かなー。(私は同様の罪でパキスタン軍に拘束されたことがある)
ビデオカメラを奪われ、回していたテープは没収。トルコ軍人がアリーと私に、「連行する!」と叫んだと思った。
アリーはといえば、「国境でカメラを回したらダメだ!」と私を叱責。
こいつと一緒に事情聴取か…。

とぼとぼとアリーの後を行く。
あれ?軍人は?
ついて来ないぞ。軍人たちは同じ場所で、さらに灯りを灯し続けている。
これってもしかして…。
アリーの家まで早足で歩く。
「アリー、俺たちは捕まらないの?」
「お前が撮影していたテープの没収だけだよ」
その場で、へなへなと座り込んだ。よかった、シリアのテープを守ることができた。刑務所にも行かなくていいんだ!
アリー、み、水をくれ。
助かった!貴重なテープ、証拠がまだ私の手の中にある!
ということで、私は辛うじてシリア〜トルコ国境を越え、こうして取材素材を守ることができた。
ありがとうトルコ軍(笑)!

※シリアの映像は、9月27日(木)午後6時半〜 大阪市立いきいきエイジングセンターで報告させていただきます。

空爆の煙 ブログ用.jpg アサド軍の空爆。ミグ戦闘機で民家を撃つ。一発の空爆で数十人が殺される。

9月11日午前5時起床。起きたのは私だけで、兵士たちはすやすや眠っている。戦闘が激化して2ヶ月。兵士たちにとって、爆音もズシーンと体に響く振動も「蚊に刺された程度」なのだろうか。
午前7時前、ようやく明るくなってきたので隠れ家のベランダから外の景色を撮る。大通りの向こうにモスクのミナレットが見える。無人の町。ドーンという爆音。鳩がビックリして一斉に飛び立つ。
隠れ家の出入り口から思い切って外へ。大通りの向こう側に警備の兵士たちがお茶を飲んでいる。小走りに兵士たちのところへ。
「アハランワサハラン(ようこそ)中国人か?」「いや日本人だ。アレッポの惨状を撮影に来た」。片言のアラビア語でジャーナリストであることを説明する。
兵士たちによると、昨晩聞いたあの爆音は、地対地ミサイル、ハウワーンというもので、一晩で22発撃ち込まれたという。そんな話をしていたら、「俺に着いてこい。爆撃の跡を見せてやる」と1人の兵士。
危なくないか?いや、銃声が止んでいる今、撮影のチャンスかも。せっかくだ、撮れるものみんな撮ろう。
兵士の後ろをついて狭い路地を行く。大通りに面したところで兵士が立ち止まる。「サラーサ、イスナー、ワーヒダ(3、2、1)。ゴー」
ロケット弾で破壊された民家 ブログ用.jpg


走り出す兵士の後をついて、大通りの景色を撮る。通りの中央分離帯のところに大穴。2日前の空爆によるものだ。モスク周囲の商店街が粉々になっている。昨晩の22発のうち、1発がここに当たったようだ。すすだらけの黒くなった商店。2階から煙がまだあがっている。
大通りの対岸にも路地があって、そこに駆け込む。どうやら路地に入っていれば、撃たれることはないようだ。
さきほどのお茶を飲んでいた場所まで戻ると、昨晩のハウワーン地対地ミサイルの破片が並んでいる。「撮れ撮れ」と兵士たち。アサドがいかにひどいことをしているか、報道してくれ、と。
その中に、「俺はヤバニーヤ(山本さんのこと)の棺を担いだよ」という兵士あり。山本さんの殺害現場は、ここからそれほど離れていないのだ。
慣れないアラビア語で取材していると、「グッドモーニング」。学生風の若者が通りを横切ってやってきた。「英語少ししゃべれるよ」。それはありがたい。名前は?「ハッサン・ミット。略してサムと呼んでくれ」。
サムはガスマスクを持っていた。3日前、知り合いの自由シリア軍兵士が、アサド軍兵士を捕まえて所持品を奪ったところ、銃や簡易爆弾(IED)の他にガスマスクがあった。アサド軍が化学兵器を使っているか、使おうとしている証拠だ。サムが使い方を実演する。湾岸戦争でイスラエル市民に配布されたものと同じタイプか?
サムを通訳としてアレッポの町を行く。旧市街の商店街。ほとんど全てシャッターが下ろされ、中には焼けて黒くなった店も。商店街の道路に兵士が寝ている。ホームレスではない。戦闘が激化してから、ずっとここに寝泊まりして、町を防衛している。
最前線の防衛ラインへ。土のうが積まれ、兵士が銃を構えている。アサド軍支配地域とはどれくらい離れている?と聞くと、約300㍍。
ビデオカメラのズームで撮影。あのラウンドアバウトは、すでにアサド側なのだ。
大通りを行くと、長蛇の列に出くわす。
「パンを買いにきた人々だ。戦争になり、パン屋が爆撃された。パンを待つ人々を撮る。ビデオカメラが珍しいのか、この虐殺に抗議するためか、たちまちカメラの前に黒山の人だかり。「アサドを倒せ!」と叫び出す。いつの間にか「自由シリア国旗」を肩にした子どもたちが数人、カメラの前で踊り出す。
パンの行列を後に、さらに町の様子を取材。道ばたに黒こげになった大型のバン。アサド軍兵士を運ぶ車を、自由シリア軍が銃撃した。バンの他に大型バスや戦車が破壊されて、放置されている。
新築商業ビルが粉々になっている。道路にはガラスの破片がギッシリ。さらに行くと、異様なにおいが鼻につき始める。
生ゴミを街角で燃やしている。
「アサドはゴミ収集車を空爆した。町を不衛生にしようとしたんだ。伝染病を流行らせようとね」。
ゴミの山の中で、金目のものを拾い集める少年2人を撮影していたら、ドーンという大きな爆音。近いな。
ゴミの山に別れを告げ、さらに進むと、もうもうと煙が立ちこめているのが見えてきた。さっきの爆音。あれはミグ戦闘機からの空爆で、なんと団地の方角から黒い煙。かなり大きな爆撃だ。おそらくあの一発で何十人と殺されただろう。あの団地に住んでいる人々が、すでに避難してくれていればいいのだが。
煙に向かって進むが、あの空爆の場所に近づきすぎるのは危険だ。まだ上空には戦闘機がいて、次の空爆を狙っている。
町の中心部にも大きな空爆跡。一昨日の空爆、一発の爆弾で70人が殺された。ビルの地下には大きな穴があき、その穴に水道水が溜って池になっている。穴の中にはベッドの枠、鏡台、時計、食卓など生活用品が水の中に沈んでいる。
「危ないぞ!」。サムが注意する。上部の壁が崩れ落ちる危険があるので、中に入ることができないらしい。
70名が殺されたビルのすぐそばのビルでは、住民たちが避難を始めていた。軽トラックに家財道具を積む人々。アレッポから地方都市へ逃げる予定だ。確かにここに住み続けるのは危険すぎる。アレッポは人の住めない町になりつつある。
無事、元の隠れ家に戻る。午後2時頃、戦闘がピークに。あちこちでパンパンパンと銃撃戦の音がこだまする。シュルシュルシュルーと不気味な音がして、ドッカーンと爆音が続く。ハウワーン(地対地ミサイル)の連射。生きた心地がしない。隠れ家の兵士は「ノープロブレム」と笑うが、すぐ先のモスクに落ちて、モスクから煙が上がっている。20㍍ほどしか離れていない。
夕刻4時、ようやく「ハウワーンの雨」が止む。弾切れか?
ハウワーンが止まったと思ったら、今度は戦闘ヘリがやって来た。空から銃撃している。地上から応戦しているのだろう、パンパンパンという銃声が響く。これ以上、ここにとどまるのは危険だ。アナダンへ帰るという兵士たちがいるので、その車に乗せてもらうことにする。

自由シリア軍の隠れ家の前で ブログ用.jpg


午後5時。アレッポの町を出る。上空にはまだアサドのヘリがいる。この車が狙われるかどうか、「神のみぞ知る」。運を天にまかせて、ゴーストタウンとなったアレッポの町を突っ走る。アレッポの市街地を抜けるのに約30分。緊張の時間、ヘリからの銃撃はなかった。マーシャアッラー(神の祝福あれ)。
アレッポを無事抜けることができた。やがて日没。もう大丈夫だ。アナダンまであと2時間。あとはトルコとの国境を無事越えられるかどうか、だけだ。

隠れ家 から外を見る ブログ用.jpg 隠れ家のベランダから外の景色。2階がパーマ屋で3階が寝室。この日だけで20発以上のロケット弾が飛び込んできた、死ぬかと思った。


アナダンからアレッポまでわずか10キロだが、途中にアサド政権支配地域があるので、直線コースでは入れない。時計回りに大回りして、自由シリア支配地域だけを通って、アレッポをめざす。途中、戦闘機が上空に現れると、その度に車を物陰に隠してやり過ごす。
やがて日没。闇の中をぐねぐねと走ること1時間、国道らしき大通りに出ると、車は全速力で突っ走る。前方に破壊されたバスやトラック。もしかして、ここが…。

「アレッポに入ったよ」と運転手。人口約600万人と言われているシリア第2の都市アレッポ。しかし大通りには破壊された戦車や自動車が無惨な姿をさらしていて、通行人はほぼゼロ。電気が足りてないのか、街灯はもちろん、民家の灯りもまばら。商店はほとんど全てシャッターを下ろしている。
ゴーストタウンだ。
ウーウー。闇の中、サイレンが響き一台の救急車が止まった。怪我人が運び込まれた様子。病院の受付には銃を構えた兵士が数人。住民たちが怪我人を治療する、「地下病院」だ。
撮影したい、止めてくれ!と叫ぶも、「ダメダメ。病院は撮影禁止だ」。
猛スピードで、車はとある商店街の迷路のような一角に滑り込んだ。

「着いたよ」。兵士たちが迷路のような路地に20人ほどたむろしている。古ぼけたビル、1階が散髪屋で2階がパーマ屋。この2階のパーマ屋が、兵士たちの隠れ家になっていた。「サラームアレイコム」。次々と差し出される右手。それぞれに握手してから、「中国人か?」「いや日本人だ」。

パーマ屋の狭い店内では、兵士たちがせっせとカラシニコフ銃に弾を込めているところだった。その中に英語をしゃべる若者がいた。ファラーク。彼の父親がイスラム党の幹部だったため、父アサドが彼の父を弾圧。父アサドはイスラム主義者を危険視して、徹底的に弾圧していた。80年代父は国外追放となった。ファラークはシリア人でありながら、ヨルダンで生まれ、ドバイ、アブダビなどを点々として育った。だから英語がしゃべれるのだ。このシリア内戦で、生まれて初めて故郷の土を踏んだ。彼にしてみれば、今のアサドは、先代からの恨みの対象。
ファラークからひとしきり状況を聞く。「今日だけで戦車を4台もやっつけたよ。最近はこちらにも(自由シリア側)新しいロケット弾が入ってくるようになったからね」。主にカタール、サウジなど湾岸諸国から対戦車砲などが流入しているようだ。

午後10時、やることがないので3階に上がって早めに眠る。それにしても疲れた。パンパンパン。銃声が聞こえる。やがて眠りについた…。
うとうとしはじめたその時、ドッカーン、ドッカーンと2発の爆音で叩き起こされる。近いぞ!もしロケット弾、戦車砲がこのビルに飛び込んできたら…。私の隣では兵士4人がすやすやと眠っている。こいつら、怖くないのか。天井を見上げる。昼間見た、ぺしゃんこになったビルを思い出す。もしあの天井が落ちてきたら、俺は確実に圧死してしまう。隠れようがない。トイレの中の方が柱が多くて安全か?いやそれともベランダの方が…。そんなことを考えていたら、またドッカーン!「おい、さっきより近いぞ。大丈夫か」。さすがに兵士2人がムックリと起きて、「アラー、アクバル」一言叫んで、また眠り出す。
よーこんな状態で寝てられるなー、と感心するも、こちらは恐怖で寝られない。51歳で死ぬのは、まだ早すぎるなー、遺書を書いとかなあかんかな、妻と子ども、実家の両親は泣くだろうな、世間を騒がせるのはイヤだな、などの考えが頭をぐるぐる回っていく。

さらにドカーン、ドカーン、ドカーン。続けて4発入った。その後、タタタッタタ、と乾いた銃声。ボン、ボン、というロケット弾の発射音。こちら側からも反撃しているようだ。さすがに兵士が起き出して、状況を確認している。
「大丈夫だ。いつものことだよ」。4人の兵士が、またすやすやと寝始める。

「あー、大変なところに来てしまったなー」。後悔先に立たず、ドーンドーンという爆音に、「当たれば仕方がないんだ。どうせなら即死の方がいいな」。轟音に慣れつつ、あきらめつつ、自分の人生、命って何だろうと考え始めたのが午前2時頃。するとあれほど入ってきたロケット攻撃がピタッとやんだ。そうか、相手側兵士も眠るんや。戦争とは日常生活の中の非日常。撃ち疲れて、あるいは「今日はこれぐらいにしといたろ」みたいな感覚で日々を過ごしているのだ。
ようやくまどろみ出す。夢の中ではなぜか亡くなったおばあちゃんが出て来た。
おばあちゃんが救いにきてくれたのかな?

銃撃戦で破壊された車 ブログ用.jpg 自由シリア軍が破壊したアサド軍の車 背後には新たな戦闘で煙が上がっている。

9月10日午前9時、いよいよアレッポ方面に向けて出発。その前にトルコから親戚の叔父が、アトマ村へ帰ってくるというので、トルコ〜シリア国境の「バーバル・ハワー(ハワーの門という意味のようだ)へ。昨日朝、通訳のジハードとトルコ側から取材した場所だ。
この「バーバル・ハワー」は、トルコ・シリア流通の要所というべきところで、普段なら大型トラックが一杯停車しているという。
バーブル・ハワーのゲートが破壊され、すすで黒くなっている。「Good by Syria」の看板はそのままだが、国旗が「自由シリア」の新しいものにさし変わっている。Duty Freeのビルは破壊されず残っている。パソポートコントロールや税関の入っていた建物の前に、所在無さげに座って雑談しているシリア人が数人。
2ヶ月前に自由シリア軍が、アサド政権からこの国境を奪い返している。国境ゲートにカラシニコフ銃を持った兵士たちがたむろしている。私のビデオカメラを見て、「フリーシリア!フリーシリア!」と叫ぶ。
その中に英語ペラペラのおじさんがいる。国境審査官として20数年間働いてきたので10カ国語はしゃべれるぜ、と胸を張る。
アサド政権時、陸路で国境を越えようとすると、かならず数時間は待たされ、ワイロ(50ドル程度)を要求されたものだ。「俺たちがフリーにしてやったぜ」とおじさん。あんたもワイロもらってたんと違うの!と突っ込みたいところだが、大きな銃を担いでいるので「ありがとう」と礼を言っておく。
察しの良い方なら、「じゃぁなぜ、この国境を越えないの?」と思うだろう。
今のシリアはジャーナリストが狙い撃ちされるので、シリア入りを試みる外国人は、トルコ側ではね返されるのだ。「不法入国」せずに、それこそ「本当に自由に」シリアへ入れる日はいつ来るのだろうか?
国境からアレッポをめざす。道路は結構きれいに整備されているのだが、町の入り口には必ず自由シリア軍の検問があって、そのたびにあいさつして通らねばならない。中にはモハンマドたちの知り合いがいて、「おー、そっちは大丈夫か?」など久々の会話に花が咲く。こっちはその度に待たざるを得ない。
帰路は夜だったので感心したのだが、全ての検問所は24時間態勢だった。いつ政権軍が町を奪い返しにくるか分からないので、村人たちが「自警団」として寝ずの番をしてくれているのだった。「大丈夫か」と互いに安否を確認するのも無理はない。そう「自由シリア軍」といっても、先日まで普通の農民やサラリーマンだ。ただシリアは徴兵制があるので、成人男性はほとんど全て銃の扱いを知ってはいるのだが。
そんなことを繰り返しながら、全速力で飛ばすこと約3時間。アナダンの町に到着。この町からアレッポまでわずか10キロ。
町はゴーストタウンになっていた。病院が戦車砲で破壊されている。受付の椅子が転がり、3階建ての建物は無惨にもぺしゃんこになっている。
「ヤツらは学校だろうと病院だろうとおかまいなしだ。この病院は先週戦車で破壊されたんだ」。同行の兵士が怒りをあらわにする。
兵士の言う通り、小学校の壁にはロケット弾の穴があき、グラウンドに薬莢が転がっている。商店街が破壊されている。シャッターが内側から外へ弧の描いてひしゃげている。家屋内部に戦車砲などが落下すると、内側からの爆風でシャッターが曲がってしまうのだ。
空爆された民家群へ。もうめちゃめちゃ。ハイヒールが転がっている。3時50分で止まっている壁時計。ガレキの中にはその日の新聞や子供用の自転車。
この空爆で25人が殺された。あのハイヒールは遺品かもしれない。
そんな撮影を続けていると、「タイヤーラ!(戦闘機)」と兵士が叫ぶ。上空を赤トンボのような戦闘機が旋回している。物陰に隠れて戦闘機の行方を見守る。
大通りに破壊された戦車と救急車。アサド軍の戦車をRPGロケット弾で破壊したのだ。シャビーハ(山本さんを殺害した民兵組織)もやっつけたよ。兵士の自慢。(とここまで書いて、飛行機の時間が迫ってきた。続きは明日)

ムハンマドとディボー 国境を越える.jpg 暗闇の国境を越える時に世話になったモハンマドとディボー。モハンマドは俳優と見間違うくらいカッコ良かった。(シリア・アナダン市で)

ブログを3日ほど更新していなかったので、心配された方もおられたと思う。無事、トルコ側に帰って来れたので、ブログを再開します。

9月9日、午後10時。ハッタイ県アンタキアのホテルをチェックアウトし、ジハードの車でアルアインという国境の町へ。この町に運び屋の親父が待っていて、私をシリアとの国境まで運んでくれる手はずだ。運び屋アリー(仮名)は、国境のフェンス沿いの村に住んでいて、シリア内戦勃発後、地元トルコのジャーナリストを、違法にシリアに送り込んでいる人物だ。アリーの車に乗り換え、シリアとの国境へ。満天の星空。数㌔先にシリアの灯りが点在する。盛んにアリーが誰かと電話している。電話の主は、シリア側で受け入れてくれる予定の自由シリア軍兵士だった。

田舎なので日本人が珍しいのだろう、近所の人々が寄ってきて、まぁお茶でも飲め、としばし雑談。星空を見上げながら、もう一度ここまで戻って来れるだろうか、絶対にこの星を見納めにしてはいかん、と気合いを入れようとしているのに、「お前は日本人か?」「俺は日本が大好きだ、トヨータ、ホンダ…」。うるさいねん、ちょっと黙っててくれ!

何回目かの電話が合図だった。「ヤッラ、ヤッラ(さあ、行くぞ)」とアリー。暗闇の中、国境の緩衝地帯を歩く。まさか地雷は埋まっていないと思うが、向こうにトルコ軍国境監視小屋があって、そこから白い光がピカッ、ピカッとまたたく。あの光に捉えられるとアウトだ。
アリーは小走りに暗闇を進む。ド近眼で運動不足の私は、ついていくだけで精一杯。と、突然アリーが足を止め、草むらの中にしゃがみ込む。しばし待機。やがて携帯が鳴る。レッツゴー。監視小屋の前を小走りで通り抜ける。

何と暗闇から人がぬっと現れた。頭に大きな荷物を載せた女性と、手を引かれる子どもたち。シリア難民が向こうからこちら側へ抜け出してきたのだ。2家族、およそ10名。「がんばれよ」と声をかけたいが、互いに余裕なし。無言のまますれ違う。
さらに5分ほど暗闇を行く。すると、小さなペンライトを持った青年が、やはり暗闇から現れた。「サラームアレイコム」(こんにちは)と小声で。
ここからはこの青年に手を引かれ、一気に走る。左手にフェンスが見える。
そうかこのフェンスが国境か。
駆け足で1〜2分行くと、フェンスに大きな穴があいている。「ヤッラ。ヤッラ」
フェンスには鉄条網が絡んでいるので、焦って越えようとするとケガをする。慎重にくぐり抜ける。

シリアに入った!

やはり暗闇の緩衝地帯を小走りに進む。数分走ったところで、青年が歩き出す。
どうやら安全地帯に入ったようだ。オリーブ畑のあぜ道に、ランドクルーザーが止まっていた。
「サラームアレイコム。ウエルカムシリア!」。自由シリア軍のモハンマドと、私を案内してくれた青年ディボーと固く握手。ここからアトマ村までわずか10数分のドライブ。

AM0時半、自由シリア軍兵士モハンマドの自宅へ。アハランワサハラン(ようこそ)、地域の兵士たちが出迎えてくれる。遅い夕食をとり、ひとしきり兵士たちの雑談に付き合った後、眠りにつく。タッタッタッタッタ。闇の向こうで銃声が聞こえる。「戦闘か?」「いや、訓練しているんだ」。後で分かったが、このアトマ村はシリアの中では例外的に安全な地域だった。

時折聞こえる銃声の中、兵士たちとごろ寝。しっかり寝ておかないと、明日から激戦地に入るのだ。しかし興奮しているのと、兵士たちのいびきと、銃声でなかなか寝付けない。やがて睡魔が襲ってきた…。

国境の山火事 ブログ用.jpg シリアとの国境、爆撃で山火事になっていた。


9月9日、ハッタイ初日。通訳のジハードの車で市内の「シリア難民収容所」へ。難民キャンプがあるのに、なぜ「収容施設」があるかというと、それは負傷者があまりにも多すぎて病室が一杯になり、溢れ出た「治療を要する患者の行き先がないから」、である。
本来なら長期入院せねばならないところだが、そんなこと言ってられないので、「簡易病院」のような施設になっている。国境ですぐに治療しなければいけない人々も大勢いるので、なんとカタールから「移動病院車」が送られてきている。(写真)
移動病院車 ブログ用.jpg
レバノンでもさんざん見ているが、それぞれにストーリーがあるので、カメラを回しながら撮影しようとしたら、「ここにたくさんのジャーナリストが来た。彼らは写真を撮って、その後何もしてくれていない。お前たちには期待しない」と責任者が撮影拒否。
まぁ気持ちは分からないでもない。このような状況になってすでに1年半以上が過ぎた。事態は改善されるどころか悪化しているのだから。
ジハードの車で、シリアとの国境へ。トルコ軍がいるので国境ゲートを隠し撮り。ゲートの手前は山林になっているが、一部が見事に焼けている。
「ロケット弾だよ」。シリア軍がここを狙って爆撃してきて、山火事になったのだ。この国境に近いヤイラダギー難民キャンプと、郊外にあるアバイドン難民キャンプを訪問。それぞれ6千人、4千人の難民たちがテント生活している。
キャンプ取材は許可証がいる。本日は日曜日なので内務省が閉まっていて、明日以降に許可証をゲットして中に入ることに。
アバイドンキャンプの前で、ジハードが携帯電話で中にいる友人を呼び出してくれた。
ムハンマド・アユー(24)さんは、シリア陸軍の歩兵だった。「自分の国の民衆を殺害せよ」という理不尽な命令に背いたら、自分が殺されてしまう。1ヶ月前、そのシリア軍の爆撃で、ホムス市に大量の負傷者が出た。軍の命令で救急車を追いかけ、病院の中にいる負傷者の調査をしているときだった。
大量の負傷者でごった返す病院。軍司令官の目、同僚の目が群衆に向いているその隙に…。
一目散に走って逃げた。見つかれば自分が処刑される。しかしこの戦争が始まってから、ずっと狙っていた脱走の瞬間がやって来たのだ。
必死に走りきって、民家に飛び込む。ホムスの民家のほぼ全てが自由シリア軍に通じているので、すぐに自由シリア軍に連絡してもらって、トルコまで逃げてきた。
難民となって1ヶ月。元兵士の彼は、そろそろ出番の時期が来たと感じている。
そう、近日中に自由シリア軍兵士として、ホムスに戻り、シリア軍と戦う予定なのだ。私のビデオカメラを見て、「カメラよりも武器を持ってきてほしかったよ」。笑いながら彼は言うが、目は真剣だった。24歳の若者の無事を祈る。

両足切断のハスナーさん ブログ用.jpg シリア軍の戦車砲で、夫と2人の子ども、両足をなくしたハスナーさん。

9月8日、トリポリ最終日。今日はシリア内戦で傷ついた人々を取材する。何しろアサド政権は、「スンニ派の町を町ごとつぶす大殺戮」を繰り返しているので、この町の病院は重症者で一杯だ。トリポリ北部の高台にある「アッザハラー病院」もそのうちの1つ。

あまりにも患者が多いので、詳細は27日の報告会後、映像で紹介したいが、このブログでは、ハスナーさん(37)の例を挙げておく。ハスナーさんの事例が、この戦争の本質を表している好例だと思うからだ。
3ヶ月前まで、彼女はホムス県ホムス市ババアムル地区の住民だった。アサド軍は、このババアムルを壊滅させている。戦闘機がやって来て町をじゅうたん爆撃していく。なぜババアムル地区が狙われるかというと、この地区からたくさんの人々が自由シリア軍に参加したからだ。
戦闘機からの空爆と戦車からの砲撃。誰が自由シリア軍で誰が一般市民か、など一切関係なく、手当り次第に砲撃が加えられる。
「もう限界だ」。家にとどまると殺されてしまうと感じたハスナーさん一家は、夫のバイクに息子と娘、そしてハスナーさんの4人乗りで逃げ出した。
空爆が続くババアムル地区の国道を走って逃げている時、一発の戦車砲がバイクを襲った。息子と娘は即死、夫は30時間ほど息があったが、やがて亡くなった。彼女は住民たちが自主的に運営する「地下病院」に収容され、赤十字の車でトリポリまで運ばれた。なぜ「地下病院」で治療を受けたかというと、シリアの公立病院に運ばれたら、病院で殺されてしまうからだ。

そしてこの病院で両足を切断した。

彼女は今、気丈にも、その時の記憶を辿りながら、彼女一家に何があったか、レポートを書いている。
「私自身が生き証人なの。アサド政権軍が何をしたか、私が身をもって証明するわ」。女性がカメラの前で障害を持つ体をさらすことは、特にイスラム圏では、大変勇気のいることだ。
彼女は真っすぐに私のカメラをみつめ、涙も見せずに淡々と子どもを失ったことを語った。傍らには看病する妹。インタビューを許可してくれた担当医師が、「ハスナーは、この体験を本にするだろう。トルストイのようにね」。
私が日本人だと分かると、医師は「おー、俺は日本人を知っているぞ、確かヤスダ…」。フリーの安田純平氏もこの病院を訪れたようだ。

さて、実は私はすでにレバノンを離れ、このブログをトルコのイスタンブールで書いている。今からトルコ東部のハッタイという町へ飛ぶ。明日から一週間ほどは、トルコからのレポートになる。

9.27web.jpg トリポリのネット環境は思ったほど悪くないので、ここでちょっと宣伝。帰国後、シリア報告会を行います。9月27日(木)午後6時半〜。大阪市立いきいきエイジングセンターにて。 トリポリでの取材と、これからトルコ、ハッタイ県に入りますので、そこでの取材内容が中心になります。関西在住の方、よろしければお越しください。 本日は、トリポリの病院を取材。その後、イスタンブールへ。そしてイスタンブールからハッタイへ。地図で見ると、ものすごく遠回りして、トルコ〜シリア国境へ行くことになります。ベイルートからハッタイへ直接飛べればいいのですが、①直行便がない②ハッタイではパスポートコントロールがない のです。レバノンとトルコが陸続きなら、そのまま車で行けばいいのですが。あらためてシリアの地政学的な位置の重要さを感じます。では行ってきます。
トリポリのシリア通り。10日前にここで大規模な戦闘があった。スナイパーはこの穴から山側の住民を狙った。


9月7日、トリポリ3日目は市内の「シリア通り」へ。前回も触れたが、この通りを挟んで山側がアサド政権支持、つまりイスラム教アラウィー派の居住区で、海側が反アサドのスンニ派居住区。シリア内戦激化に比例するように、この地区でも住民の対立が激化。10日前にも派手な戦闘があって、6人が殺され、180人以上が傷ついた。
シリア通りに面するビルに新しい無数の銃痕が刻まれている。トリポリは1980年代からずっと内戦継続中なのだ。
前回はこのシリア通りで、秘密警察に捕まっているので、カメラを回すときは、まず周囲を見渡してから。制服を着ているレバノン軍よりも私服の秘密警察の方が強敵である。
「撮ってもいいか?」ムスタファにジェスチャーで確認。「ラー、ラー」(ダメダメ)ムスタファが首を振る。そんな状況の中で、何とか「激戦地」をカメラに収める。
土のうが積んである(写真)。山側から撃ってきたので、こちら側から反撃した。山側(アサド支持派)にはヒズボラから最新兵器が入っているので、機関銃だけでなく、RPGロケット弾はもちろん、最新式の地対地ミサイルまで撃ってきたという。戦車も射抜く地対地ミサイルがビルに当たれば、当然ビルは粉々につぶれてしまう。180人以上が負傷したというが、強力ミサイルが飛んでくるのだから、それくらいは負傷するだろう。破壊されたビルを撮影。海側(反アサド派)にも大量の機関銃が流れ込んでいて、彼らが狂ったように撃ちまくる映像も見せてもらった。「アラブの春」は別名「フェイスブック革命」と呼ばれるが、最前線で撃ち合う様子も携帯で撮影できるし、YOU TUBEにその映像が流されるので「何が起こったか」がリアルな映像で分かってしまう。
この町では、同じレバノン人が、隣国シリアの内戦の影響を受けて、互いに殺し合っている。裏でほくそ笑んでいるのは、武器商人たちだろう。RPGロケット弾って一発いくらするのかな?
さて、内戦に巻き込まれる町トリポリとも明日でお別れだ。明日は病院を取材した後、大急ぎでイスタンブールまで飛ぶ。なので、ブログ更新は明後日になるかもしれない。トルコはイスラムだが酒に寛容な国。レバノンを去るのは少し残念だが、はやくトルコに行きたい気もする。

国境にて ブログ用.jpg シリア・レバノン国境にて

自由シリア軍兵士たちの隠れ家は、シリア国境を見下ろせる断崖の上にあった。昼間は暑いが、夕暮れ時になると強風が吹き付けてきて、日本より過ごしやすい。兵士たちがバラバラと出てきて、撮影はダメだ!と叫ぶ。シリアに残してきた家族が殺されてしまうし、実は彼ら自身の命も危ない。レバノン政府に見つかれば、逮捕され、母国に送り返されてしまう。そうなれば処刑確実。
なぜレバノン政府が自由シリア軍兵士を捜すのか?
それは「レバノンが事実上シリアの属国」だからだ。特にレバノン在住のヒズボラたちがシリア政府に加担しているので、ヒズボラに影響されたレバノンの秘密警察などに見つかれば大変厄介なことになってしまう。
日本でしか流さない、と説明するが、やはり撮影はダメ。兵士の話を聞き取るのみ。
以下、兵士の証言。
兵士A「内戦が始まるまでは、俺は空軍にいた。内戦が激しくなると、スンニ派兵士には飛行禁止命令が出た。飛行機に乗ってそのまま亡命するのを、政府は恐れたんだ。だから今やパイロットはアラウィー派、シーア派のみだ」
このインタビュー中も、シリア側からボン、ボン、と空爆の音が聞こえる。アサド政権は、スンニ派主体の町を、町ごと破壊している。表面上、この内戦は「宗教戦争」と化してきた。
兵士B「俺たちの部隊に、ヒズボラの兵士が入ってきたよ。シャビーハ(山本さんを殺害したとされる民兵組織)の大部分はヒズボラ兵士で補充されている。俺はスンニ派だから、小銃すら携帯禁止になった」
兵士C「ダマスカスで軍の重要会議がある。会議終了後、スンニ派幹部の車に爆弾が仕掛けられる。軍は今やアラウィー派とシーア派で仕切られている」
—そんな軍隊を、どうやって逃げ出したのか?
「夜間、全速力で逃げ出した。同じ国民を殺す軍隊にいたくなかったからね」と全員が答える。
—逃げ切れなかったら、どうなるのですか?
「これだよ」と全員が一斉に手で首をかききる仕草。家畜のように首を落とされるのだ。
—日本人ジャーナリストが殺されたニュースを知っていますか?
「知ってるよ。政府は真実を知られるのが怖いのさ。革命軍(自由シリア軍のこと)の犯行の可能性?ありえないよ。革命軍は真実を知らせたい。だからジャーナリストは命かけて守るよ」とのこと。

兵士たちは、シリア政府はもちろん、レバノン政府からもウォンテッドであるから、今後もこの隠れ家に身を潜めて過ごすことになる。この内戦が終わるまで。果たしていつまで続くのだろうか。

ムハンマドさん と息子3人 ブログ用.jpg モハンマドさンと3人の息子 学校に行けるようになったのだが…。


9月6日、午前10時、アブー・マージッドの車でレバノン、シリア国境の町ファルトーム村へ。ファルトーム村は、アクルーム地方にある7つの村の1つで、この地域はキリスト教徒とムスリム、そしてトルコマン人が混住している。教会が現れたかと思えば、モスクのミナレットが見えてくるし、レバノンの国旗に混ざってトルコの国旗もたなびいている。シリア、レバノンはモザイク国家なのだ。本日から通訳がつく。マージィという青年で、オーストラリアで1年半仕事をしていたが、このシリア内戦と引き続くトリポリの内戦のニュースを見て、故郷に飛んで帰ってきた人物だ。戦場での取材は、通訳の出来、不出来が結果を大きく左右する。この通訳ならまぁ大丈夫だ。
アブー・マージッドは、この内戦後、ずっと人道支援活動をしているので、ファルトーム村に入ると、すぐに友人、知人が出迎えてくる。村からシリアまで約2㌔。高台からシリアのホムス県が見える。
「あそこに空港があるんだ。アサドはあの空港に飛行機を終結させ、空爆しているんだ」村人たちが、指差す方向を見るが、私は視力が悪いので、どれが空港で、滑走路がどのように延びているか分からない。しばらく撮影していると、ボン、ボン、という爆撃音。ホムス県のどこかの町をアサド軍が空爆している。空爆は連日続いており、村人たちによると、「夜になると、空爆の炎が見える」とのこと。
この村には約200家族が、あのボン、ボンと音のしているシリアの村から徒歩で逃げてきていて、10数家族を取材したが、ほとんどが3〜4ヶ月前に逃げてきた人々。アサドが国連停戦監視団の目を盗み、空爆を強めたので、家や家族を奪われた人々だ。難民たちは、着の身着のままで逃げてきているので、近所の人々のイスラム的な寄附と、地元NGOが配給する食料だけが頼り。インタビューさせてもらった家族に、100ドルずつ手渡していく。平均で10人くらいの家族なので、(妻を2人持っている人もいる)100ドルでは全然足らないだろうが、赤ちゃんの薬代くらいにはなるだろう。
その中の1つ、ムハンマドさん(43)の状況を紹介する。
ムハンマドさんはホムス市に住んでいたが、空爆が激しくなり、3ヶ月前に徒歩で逃げてきた。車も財産も仕事も失った。アリー君(10)、ラビーア君(13)、そして長兄のマフムード君(17)の3人の息子と1人の娘がいる。
レバノンに逃げてきてから、アリー、ラビーア君は学校にも行けず、この狭い避難家屋で日がな一日、何もすることなく過ごしてきた。さすがに難民の子どもたちをこれ以上放置できない、と地元行政も重い腰を上げ、この10月から学校へ行けることになった。(レバノンは10月が新学期)
「良かったね、学校に行けるようになって」と笑いかけると、2人とも暗い表情でうつむく。
「うれしくないの?」
「うん」
「なぜ?」
「学校に行くとお金がかかるから」
家も仕事も失った父親が、息子の後ろで黙ってインタビューを聞いている。
事態は単純ではない。不幸の悪循環のような状況に陥っている。
マフムード君は高校に行かず、アルミサッシの職人として働いている。
「月給は?」
「週に約50ドル」
やはり暗い顔で答える。今は不況なので、地元レバノン人でもなかなか仕事にありつけないという。仕事がないよりマシだが、家族で働いているのはこの子だけ。それも週にわずか50ドルでは…。
難民たちのインタビューの後、さらに国境に近づき、アサド政権軍を離脱した自由シリア軍の兵士の隠れ家に向かう。ときおりボン、ボンという空爆の音。村人はもう慣れてしまったのか、その音を聞き流しながら、普通に生活している。日常の中の非日常。これが戦争だ、といわれればそれまでだが。(続く)

アブーマージッドとムスタファ ブログ用.jpg アブー・マージッドとムスタファたち。中央立っているのがマージッド。右端の若者がムスタファ。


9月5日、午後3時。前回の取材でお世話になった、アブー・マージッドの店へ。アブー・マージッドは、水道工務店を経営しているのだが、このシリア内戦以降、仕事そっちのけで、トリポリに逃げてきたシリア難民の世話をしている人道支援者だ。4ヶ月ぶりの再会。しばしハグの後、マージッドと店員のムスタファたちの写真を撮る。このムスタファも地域の青年団のような活動をしていて、前回はわざわざ私の取材のために、アサド政権に反対する若者を集め、「バイクデモ」を企画してくれた。
この「バイクデモ」は、一見すると、暴走族と見間違うようなデモである。原付バイクに「自由シリア」の旗を立て、アサド政権打倒を叫んで、町を突っ走るのである。私はムスタファの運転するバイクの後ろに乗って、デモを撮影したのだが、ヘルメットなしの「暴走」なので、こんなところで事故でもして入院したらシャレにならんな、とびくびくしながら撮影したのだった。今回はバイクデモは遠慮しておこう。
マージッドもムスタファも英語がダメなので、本日は片言のアラビア語で、明日以降の打ち合わせのみ。明日は通訳を世話してくれることになった。
ここトリポリでは、反シリア派住民と、親シリア派住民との間で内戦状態になっている。マージッドもムスタファも「反シリア派代表住民」なので、前回来たときよりも、行動に規制がかかるかもしれない。
住民は山手の団地群を指差して、向こうから撃ってくる、という。山側は「親アサド」なのだ。そんな話をしているときでも、コーヒー売りや靴磨き少年がのんびりと「今日は、どう?」などと尋ねてくる。日常の中で戦闘行為は繰り返される。気温37度の昼下がり。この気だるい日常が続けばいいのだが。

ベイルートからトリポリへの国道.JPG 写真はベイルート〜トリポリの国道にて。

9月5日、午前10時、予定通りレバノンのベイルートに到着。時間の余裕があれば、ベイルートで一泊したいところだが、おそらく本日も大量のシリア人が殺害され、命からがら逃げてくる人々がいる。すぐにタクシーで国境の町トリポリへ。ベイルートからトリポリまでは車を飛ばして約2時間。レバノンは岐阜県くらいの広さなので、移動は簡単。
とはいえ、ベイルートは首都なので、国道は大渋滞。気温37度でクーラーなしのオンボロタクシー。地中海気候のまぶしい日差しが容赦なく照りつけ、蒸し風呂状態。もうちょっとマシなタクシーにすれば良かった。
ベイルートからビブロスを越えて、トリポリへ。ビブロスとトリポリの間に検問所があって、ここだけ撮影不可。なぜここに検問があるかというと、ビブロスはキリスト教徒が多く住んでいて、トリポリはムスリムなのだ。レバノンは80年代からずっと内戦状態なので、こうしたレバノン軍に夜検問所が、ところどころ存在する。
トヨタ、ニッサン、ミツビシなど日本車の姿も目立つが、年々、ヒュンダイ、デウーといった韓国車が目立つようになってきた。日本はテレビに続き、自動車も劣勢に陥りつつある。
トリポリに到着。シャワーを浴び、ネットカフェへ。このブログを更新する。夕方5時頃から少し涼しくなってくるので、トリポリに町を歩くことにする。

ようやく朝夕に秋の気配が。残暑厳しいですが、いろいろと集会が予定されてますので、ちょっと宣伝。
まず1つ目 「いのちをみつめて」。
秋の行事ビラ.jpg


関西在住の方、もし時間あればのぞいてみてください。入場無料です。

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