nishitani: 2014年3月アーカイブ

国会前抗議 ブログ用.jpg 写真は右派セクターと一般市民が包囲したウクライナ国会


ウクライナ3日目、やはり独立広場前でヘレナと待ち合わせ。昨晩、ウクライナの国会前で右派セクターが大規模な抗議集会を行った。ウクライナ内相のアバコフが、右派セクターの幹部ムズイチコ(別名サシコ・ビリー)に対して殺害命令を出し、ウクライナ西部でムズイチコが殺害されたのだ。右派メンバーはこの「暗殺」に激怒して、約1千人で国会を包囲した。その包囲は今日も続いている。
独立広場から国会議事堂まで、バリケードが敷かれた通りを行く。キエフは坂の多い町で、国会は小高い丘の上に建っている。ヘレナも私もハーハー言いながら急坂を上る。「ヘレナ、もうちょっと痩せろよ」。普段の運動不足を反省しつつ、彼女の大きめのヒップを見ながら、脂肪分が多く、かつボリュームあるウクライナ料理を食べ過ぎるとダメだと心に刻む。
右派セクター 覆面 ブログ用.jpg


国会議事堂前に赤と黒の右派セクターの旗、そして黄色と青のウクライナ国旗がはためいている。その数ざっと500人程度。概して右派セクターには若者が多く、黒い覆面をしているメンバーも。これは表向き「KGBにチェックされて、後に迫害されるのを恐れて顔を隠しているのだ」と説明されているが、多くの一般市民が右派セクターを、「厄介な若者たち」と考えていて、実際は民衆に顔を見られたくないということだと、私は考えている。その右派セクターに混じって、ナチスのカギ十字に似た腕章を着ける若者も。彼らはスボヴォータというネオナチのグループ。そんな「過激派」に混じって、一般の人々も国会を包囲する。それは国会議員の多くが、ヤヌコビッチ派の残党で、ヤヌコビッチが去った今、お前たちも議員を辞めろという主張なのだ。
右派セクターが国会を攻めて来たので、議員たちはさっさと逃亡している。国会空転だ。まぁ5月の25日の大統領選挙まで、事実上、この国の行政はストップしているに等しいのだが。
国会包囲を取材して、右派セクターの人気のなさを感じる。そもそも今回の「革命」は、ヤヌコビッチがEU加盟を行わず、不正腐敗政治を続けてきたことが発端。独立広場に集まった民衆は、平和的な抗議活動を続け、治安警察とにらみ合ってきた。ところが、2月になって、どこからともなく現れた右派セクターの若者たちがヤヌコビッチの特殊部隊=ベルクトたちへの投石を始め、投石がやがて火炎瓶になり、ベルクト側も催涙ガスから実弾へ。デモ隊を殺傷して怒りに火をつけ、結果として「実力行使」の革命が成就したことになっている。私はこの一連の流れに違和感を感じる。確かにヤヌコビッチはどうしようもない大統領で、プーチンと結託して蓄財してきたのは事実。でもリビアやサウジとは違って、ウクライナには選挙制度も国会もあるのだから、「腐敗大統領」は、選挙で交代させるべきだ。独立広場で殺されたデモ隊メンバーには、いまだに身元が分からない人もいる。殺された人の数も確定していない。確かにヤヌコビッチの特殊部隊が、市民を弾圧&殺害したのは事実だが、そのキッカケを作ったのは右派セクター。そしてロシアのテレビはさかんに「キエフのデモは極右が仕切っている」「テロリストが支配しつつある」と報道してきた。キエフの新政権はダメだというキャンペーンを張るには、極右、ネオナチという言葉が極めて有効だ。そんな中、プーチンは「あっさりと」クリミア半島の併合に成功した。もし平和的に政権が移行していたら…。ウクライナはクリミアを失わなかったかもしれない。ムズイチコ(別名サシコ・ビリー)は、「チェチェンの闘士」としてプーチンと闘ってきた、と言われているが、一方で「プーチンと裏でつながっていた」と証言する人も多い。つまり、右派セクターの背後にKGBがいて、彼らを過激化させることで、結果ロシアが利益を得ているのではないかという疑惑があるのだ。
いずれにしても、この調子では右派セクターは大統領選挙には勝利できない。ウクライナの「普通の市民」は、過激派を支持してはいない。問題は、ウクライナの国境に配備されている何万人ものロシア軍だ。右派セクターやネオナチが、何か事を起こして、「プーチンがウクライナに侵攻する口実」を与えないか?大統領選挙まであとまだ2か月もある。この間に何も起こらず、平和裏に選挙が行われることを願うのみだ。

子どもの写真 引き ブログ用.jpg 写真はチェルノブイリ事故直後に生まれた子どもたち。今は30歳前後になるはずだ。

ウクライナ2日目。独立広場前で通訳のヘレナと待ち合わせ。驚いたことに、銃撃戦と火炎瓶で真っ黒になった独立広場の地下に、普通にメトロが走っていて、おしゃれな地下街が展開している。「私たちは武装闘争を望んでいない。デモには参加したけど、破壊活動などは絶対やってはいけないことよ」。ヘレナが「冷静に行動した」ことを強調する。
そのメトロに乗ってみる。青いプラスチックのコインを買って入場。長いエスカレーターが地底に続いている。東京の大江戸線なみの深度。この地下鉄は旧ソ連時代に作られたもので、冷戦時代の核攻撃にも耐えられるように極めて深いところを走っている。
2駅目で降りたところはダウンタウンだった。路面電車が走り、大聖堂がそびえる。そんな歴史ある町並みを10分ほど歩くと、チェルノブイリ博物館がひっそりと佇んでいる。
博物館の前には犠牲者を悼む母子像。その横には1986年の事故当時に出動した消防車、パトカー、救急車、旧ソ連軍の装甲車が、当時のままに陳列されている。
中に入る。「ふくしまとともに」。大きな日本語の看板と、原発事故を伝える東北の新聞、天井には大きな鯉のぼり。1階フロアのテレビには、事故直後の福島で、牛が普通の道を歩いている様子が流れている。ウクライナは農業国。誰もいなくなった町を、乳牛だけがさまよい歩く。こちらの人々にもショッキングな映像であるに違いない。
1階から2階へ上がる階段の両サイドにはキリル文字の看板が何枚も貼付けてある。これらは「居住不可能区域」の村の名前。事故後27年経過しているが、こんなに多くの村が、いまだに「廃村」になっているのだ。
2階の展示場へ。深夜1時23分で止まった時計、時計の横には放射線防護服を着た消防士の模型。
白黒写真が並んでいる。チェルノブイリ4号機の爆発直後、夜勤の運転員たち消防士たちは、必死で消火活動を行った。彼らは事故後「リクビダートル」と呼ばれ、英雄として表彰された。ここにはそんなリクビダートル30万人中、4千人の写真が飾られている。白黒写真の一部に放射能マーク。事故直後にお亡くなりになった人々だ。マークが付いてなくても、現在治療中で障害者になった人も多い。
事故は原子炉の設計ミスが原因だった。そして4号炉は格納容器もなかった。
爆発は2回、連続して起こった。最初は水蒸気爆発、続いて、燃料棒を覆うジルコニウムから出てきた水素による水素爆発。(これはフクイチと同じ)この2回の爆発で、黒煙や核燃料が周囲に飛び散り、原子炉周辺で火災が発生した。未曾有の危機だった。
当直の運転員さんたちはどうしていたか?アナトリーさんは事故で500レム(=5シーベルト)もの放射能を浴びた。彼は逃げずに夜を徹して3号炉を停止させた。英雄だ。しかし当時のソ連政府は事故原因を運転員の捜査ミスと決めつけ、彼を逮捕し投獄した。後になって事故は制御棒の設計ミスだと判明したが、旧ソ連政府は彼に10年の服役を課したのだ。1995年、サハロフ博士らの嘆願書によって、彼はようやく釈放された。
アレキサンドルさんは翌朝8時までポンプによる給水を続けた。多くの人が逃げる中、彼は居残って、事故と闘うことを選んだ。600レムの放射線を浴びて、手足をやけどした。86年からモスクワで15回、ドイツで3回手術を受けたが、彼は障害者となった。レフチェンコさんは、3日間も作業員の救助にあたった。放射能で汚染された水にヒザまでつかりながら、1000レムを浴びてしまった。彼は2週間後、5月7日に死亡した。
アルミーナさんは当時非番で家にいたが事故の報を聞き、原子炉に駆けつけた。彼女は水質検査員で、95人の検査員中、原発に戻ったのは5人だった。プリピャチ市に住んでいた子どもは、クリミヤ半島に避難させた。86年7月、彼女が子どもに宛てた手紙が残っている。
「お父さん、お母さんは仕事がとても忙しいの。あなたのところに行ってあげられなくてゴメンね」。
90レムの放射線を浴びた彼女は、やがて健康が悪化して90年に退職。現在は障害者となっている。
消防士たちはどうしていたのか? 4号機の爆発で黒煙がもうもうと舞う中、飛び散った燃料の破片で、30カ所以上に火災が発生していた。28人の消防士は、3号炉の屋上で1時間以上、消火作業にあたった。彼らは消火用の作業服のみで午前2時15分に延焼を食い止めた。嘔吐と衰弱感に襲われた。その内の5人はプリピャチ市の病院に緊急搬送され、やがて死亡した。死後「赤旗賞」「レーニン賞」などの勲章が与えられた。消防士たちは人生で一番元気な22〜28歳だった。
チェルノブイリ原発作業員の町、プリピャチ市では何が起こっていたのか?
この町は原発から3㌔離れていて、人口は5万人、平均年齢は26歳で、毎年1千人の子どもが生まれていた。
事故直後、バスが1200台、1500席の臨時列車もやってきた。翌日27日、政府の避難命令が出た。「3日分の食料を1時間以内に用意して、荷物をまとめてバスに乗れ」。3日で帰れると思っていた住民は、二度とこの町に戻れなかった。当時、事故は隠されていて、住民は何が起こったのか知らなかった。29日になって、ソ連政府は「レンガの建物の陰に隠れるように」「牛乳は飲まないように」と指示しただけだった。
86年5月、ソ連の鉱山労働者が密かに集められた。4号炉の下に136mのトンネルを掘り、溶け落ちた核燃料と地下水が接触しないように、鉄筋コンクリートの板を敷き詰める計画だった。
放射線は毎時3〜4レントゲン。労働者に与えられたのはマスクのみ。しかもそのマスクさえ、暑いのと息苦しいのとで、外して作業する人が多かった。
旧ソ連の新聞が飾ってある。これほどの大事故なのに、小さなベタ記事扱い。その下にニューヨークタイムズが陳列されていて、こちらは1面トップ。日本でもそうだったが、原発事故は国家が隠蔽する。旧ソ連も日本も同じだ。その横にキエフのメーデーパレードの写真。事故後5日目が、メーデー。キエフ市民が総出でメーデーを祝っている写真。事故は隠されていたので、キエフ市民も多数、放射能を浴びてしまった。スピーディーの情報を隠した日本と、当時のソ連は大差ない。
博物館の一番奥まった部屋、8角形のボードに子どもたちの白黒写真が貼付けられている。8角形のボードは、原子炉の形状を表している。そしてこのボードに貼付けられた数百名の子どもたちは、プリピャチの住民で、事故直後に生まれた子どもと、リクビダートルとして原発で作業した人々の子どもだ。その後の調査で、染色体異常は通常の7倍に上っている。
チェルノブイリ博物館を出て、キエフの町を歩く。ヘレナも私も無言。ウクライナは、こんなひどい事故があったのに、原発を再稼働させ、現在も5基が動いている。道行く人々はチェルノブイリ事故などなかったかのように、笑顔で通り過ぎていく。東京も大阪もやがて同じ光景になるのだろうか。日本の安倍政権は再稼働に向かって着々と外堀を埋めている。
「ふくしまとともに」。博物館に掲げられたひらがなのメッセージ。月並みかもしれないが、ノーモア広島、福島、ノーモアチェルノブイリ、というメッセージを日本とウクライナで確認し合う時が来ていると思う。

タワー ブログ用 .jpg 写真はキエフの独立広場、中央にあるタワー。ヒットラーに似せたプーチンがいる。


キエフの独立広場には数多くのテントが並び、「革命防衛隊」が泊まり込んでいるのであるが、面白いのはそのテントに「OO市からやってきた」と書いてあること。いや、ウクライナだけでなく「ベラルーシから」「グルジアから」など「外国人部隊」もここに泊まり込んでいる。
興味深いのは、「OO市から」のテント名の中に、ハリコフ、ポルダブァなどウクライナ東部、つまり「ロシア人多数派地域」からのものがある。報道ではウクライナを西部と東部に分けて、あたかも民衆が2分されているようなイメージの地図が描かれていたりするが、ことはそんなに単純ではない。いや、むしろ「ウクライナ人、ロシア人」の線引きそのものが、誤解を与えるのかもしれない。例えば通訳のヘレナは、母がウクライナで父はロシア。生まれたのが旧ソ連で、2つの言葉を自由に操る。というか、2つの言語に大きな違いはない。彼女は、自分はウクライナ人だと主張していて、今回の革命を支持しているがそれはヤヌコビッチ前大統領の不正腐敗、独裁に怒っているからであって、「ウクライナはウクライナ人だけのもの」という民族浄化のような狭い民族主義者ではない。旧ユーゴでも「俺たちはセルビアでもクロアチアでもない、ユーゴ人だ」という人が多かった。ことさら民族対立を煽っているのは、もしかしたらEU系、ロシア系のメディアだけなのかもしれない。
独立広場で新政府の演説が始まった。曰く「プーチンとヤヌコビッチの『癒着』によって、ウクライナは相場より高い値段で、なおかつ必要以上の天然ガスを買わされてきた。本日、ウクライナ国営ガス企業のトップを『汚職の罪』で逮捕した」。新政権は「ヤヌコビッチの腐敗」を追求することで、クリーンさをアピールしている。5月25日の大統領選挙、キエフ議会選挙を意識している。
この「天然ガス問題」は、ヨーロッパ、米国、日本をも巻き込んでいく大問題になる。
ウクライナ新政府によると、ウクライナは人口からしても、自国のガス資源からしても、ロシアからそんなにたくさんのガスを買う必要がなかった。しかしプーチン、ロシアの大企業であるガスプロム、ヤヌコビッチ、ウクライナ国営ガス企業などが共謀して、高値、余剰のガス販売でロシアが、キックバックでヤヌコビッチが蓄財してきたというのだ。今回のウクライナ政変はプーチンにとっては痛手。4月1日からウクライナへ販売するガスの値段をさらに引き上げて、他のヨーロッパ諸国よりも最高値に吊り上げる、とプーチンが発表。キエフ市民の怒りを買うことは必至だ。そもそもクリミア半島のセバストポリをロシア軍港としてウクライナから借りる代わりに、ガスの値段を下げてきたプーチンからすれば、クリミア半島を「併合」したわけだから、セバストポリの賃貸料は支払わなくてよい、賃貸料と引き換えにディスカウントしてきたガスの値段は上げさせてもらう、ということになる。
これをウクライナ側から見れば、セバストポリをはじめクリミア半島はウクライナ領なのに、勝手に併合して、さらにガスの値段を引き上げるとは、プーチンはヒットラーと同じだ、ということになる。実際キエフの街にはプーチンの顔にヒットラーを上書きしたポスターまで張られている。
とまぁ、いろいろとややこしい事態になっているのだが、そんな独立広場で10数名の若者が、銃と旗を掲げて行進を始めた。最近報道されている「極右グループ」だ。彼らが威勢良く行進を始めたが、周囲の人は冷めた目でながめている。この状況はリビアやバーレーンとは全然違う。リビアのベンガジの革命広場、バーレーンの真珠広場では、このような行進が始まると周囲の民衆は熱狂してお祭り騒ぎになったものだが、キエフの群衆は全然反応しない。極右グループも大衆の支持を取り付けていないのだ。
独立広場での取材はひとまずここまで。明日は「チェルノブイリ博物館」に行く。


燃えたビル 遠景 ブログ用.jpg 写真はキエフの独立広場。革命防衛隊が泊まり込み、今も多くの人々がここで犠牲者を悼み、革命を祝福している。

3月26日午前10時、イスタンブールから飛行機を乗り継ぎ、無事ウクライナのキエフに到着。空港で通訳のヘレナが待っている。ヘレナは母がウクライナ人で、父がロシア人。ウクライナの女性はきれいな人が多いが、40歳くらいからお腹や足元などに「貫禄」がついてくる。「あー、この人もたくさん食べはったんやろなー」「みんな、若い頃はきれいやのになー」と「率直な感想」を心に秘めつつ、年齢を聞くのは失礼なので、「キエフは暖かいね?」などと「当たり障りのない会話」をしていたら、彼女の方から「私は53歳なの」。
えっ1960年生まれ?——何と私と同い年で、誕生月まで一緒。「スコーピオ?」。ヘレナが尋ねてくる。蠍座のO型で、星座も血液型も一緒だ。相性はどうなのかな?(私は占いを信じないが)
ヘレナの案内でエアポートタクシーを使わず、空港を出てから普通のタクシーを拾う。これで市内までの料金が半額の200フリブナ(約2千円)になる。エアポートタクシー会社と空港がつるんでいて、高額な値段設定がなされているようだ。ちなみにウクライナの通貨フリブナは「銀の塊」という意味。そしてルーブルは「切り取ったもの」。ロシアの通貨「ルーブル」は「フリブナを切り取ったもの」という意味だった。つまりウクライナのキエフが先に栄えて、モスクワはその後塵を拝していたのである。そもそもウクライナとは「辺境」ということだが、それは「オスマントルコやヨーロッパから見て辺境」であった。キエフから見たモスクワは、さらに「さいはて」の地。キエフは東西のシルクロードと、スカンジナビアからコンスタンチノープルまで、ドニエプル川を下って、南北に走るルートの交差点であり、(その黒海への出口がクリミアだ!)貿易と商業で栄えた街なのであった。歴史が進みキエフとモスクワの立場が逆転してロシアに併合されてしまうのは最近のことなのだ。
ヘレナがあらかじめ手配してくれたアパートへ。ここは日本で言うウィークリーマンションみたいなところで、ホテルに泊まるより割安。4日間のウクライナ取材の段取りを相談する。
まずはキエフの中心、独立広場へ。インデペンデント・マイダンという名前で、旧ソ連からウクライナが独立した1991年に、その祝福シンボルである塔が建てられた。マイダン(広場)は、元々はアラビア語。キエフはアラブにも近い。その旧ソ連から独立したウクライナが、ヤヌコビッチという「プーチンの操り人形」のような独裁者によって、事実上ロシアに隷属してきた。そんなウクライナの真の独立を、ということで民衆がここに集まった。大規模な民衆デモは昨年の10月頃から続き、やがてデモを弾圧する治安警察と民衆のにらみ合いとなり、この2月に流血の騒乱を経て、ヤヌコビッチが逃亡。民衆が勝利したのは既報の通り。
「革命」から1か月以上が過ぎているのに、広場にはテントが建ち並び、人々はそのテントに泊まり込んでいる。5月に予定されている総選挙まで、独立のシンボルであるこの広場を守り切ろうというのだ。ロシアがクリミアを併合したこともあって、まだ「反革命」が起こるかもしれない。だから彼らは「革命防衛隊」となっている、とのことだ。
広場のあちこちに治安部隊に撃たれて犠牲になった人々の写真と花が飾られている。基本的にその場所は「彼が殺されて地点」だ。バリケードが何重にも築かれていて、治安警察はバリケードの向こうから発砲してきた。人々は道路から石のブロックをはぎ取り、それをバリケードの向こうに投げつけた。催涙ガス、実弾などが飛び交う中、一進一退の攻防だった。その治安部隊の背後にスナイパーがいた。広場を見下ろすウクライナホテルの屋上から、スナイパーが投石する人々を狙い撃っていった。撃ち殺された、その場所にロシア正教の十字架とキャンドル、花束が供えられている。
バリケードには、古タイヤがうずたかく積み上げられている。治安警察とスナイパーから身を守るために、人々はタイヤを燃やし、黒煙で広場を覆いつくした。だから広場の周囲の建物はいまだに黒いすすで汚れている。道路も街路樹も。「もう少し早くここに来たかったなー」。広場を撮影しながら「後悔」する。仕事の都合で延び延びになってしまったのだが、まぁ仕方ないか。(続く)

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