nishitani: 2014年8月アーカイブ

アゼフ君と矢倉医師 ブログ.jpg アゼフ君の腕が伸びていることにビックリ。今後手術とリハビリを重ねて、1人で物がつかめるようになるだろう。

8月23日、いよいよカブールへの帰還便が飛ぶ。故郷に帰れる子と帰れない子の運命が分かれる。帰還できる子の名前が読み上げられると、わっと泣き出す子ども、両手を突き上げてガッツポーズをする子ども、それぞれ悲喜こもごもである。
アゼフ君は帰れない子の1人だ。カブール郊外の自宅で、凧揚げをして遊んでいたら、凧が電線に絡んでしまった。それを取ろうとして電線に手をかけた途端…。電流が両腕を突き抜け、失神した。彼の両手はほぼ付け根から奪われて、顔面に大やけどを負った。
昨年、カブールで出会ったときは、暗い表情でずっと下を向いていた。何を聞いても、ぼそぼそと小さな声で答えるのみだった。
ドイツ平和村に来て、長期の入院生活で、少しずつ、彼は変わってきた。まず、両腕の骨を伸ばす手術をして、付け根まで切断された腕が、15センチくらいまで伸びてきたのだ。顔面のやけどもかなり回復して、今は痛みも消えたという。
今後、この少しだけ伸びてきた上腕に、義手をつけて物がつかめるようになるまでリハビリをする。前腕からの切断だと、骨が2本に分かれているので、義手をつけた後の細かい作業が可能。彼の場合、骨が一本の上腕で切断しているので、義手をつけたとしても、義手と顔面で物を挟むことしかできない。しかしそうなれば、自分でやれることが飛躍的に増えていく。
食事の時、彼は隣に座った子どもから、ご飯やおかずを口に運んでもらっている。今は介助が必要だが、今後は食事や排泄などが、自分でできるようになるまで再手術とリハビリをがんばる決意を示してくれた。
帰還する子どもを見送る子ども ブログ.jpg
午後3時半、帰還する78名の子がバスに乗り込む。「ナ、ハウゼ」(家に帰ろう)の大合唱。平和村に残るアフガンやアンゴラの子どもが、一生懸命手を振っている。
クラクションを大きくならして、バスが出発。明日の朝、彼らは両親や兄弟、友人と再会する。大きく、たくましくなった彼らを見て、親族は喜びの涙を流すことだろう。逆境を耐え抜いて、笑顔になって帰っていく彼らから勇気と希望をもらった。日本に帰国したら、さっそく映像編集にあたることにしよう。


ツバイヤー ブログ.jpg ザミウラ インタビュー ブログ.jpgウマナズイア これから帰国 ブログ.jpg 写真は順に、ツバイヤー、ザミウラ、ウマナズィア君。

8月22日、今日は平和村に以前から宿泊して、ケガや病気の治療をしている子どもを取材する。
平和村の中庭で遊んでいる子どもたちをビデオに撮影していると、見覚えのある顔が2〜3人。
「ツバイヤー君やないか。えっ、もう口が塞がっているの?やったねー」。思わず歓声を上げてしまう。そう、この子とは昨年カブールの赤新月社で出会った。アフガン東部の都市ジャララバード。通学路で拾った「ペンのようなもの」。
キャップが開かないので、右手で「ペンのようなもの」をつかみ、口で開けようとした。そして爆発。
あの時は彼の右ほほにポッカリと穴が開き、右手指は辛うじて人差し指と中指が残っているだけだった。
平和村の援助飛行でドイツにやってきた彼は、6か月間入院して、足やお尻の皮膚を右ほほに移植。口が塞がって、今では普通に食事もできるそうだ。
今回、アフガンに帰国できるかと、期待していたのだが、まだ治療が必要なので、平和村に残る。「将来は、医師を助ける看護士になりたい」。はにかむようにボソッとつぶやいてくれた。
「文字の読み書きはできるようになったの?」。ノートとペンを差し出すと、「ツバイヤー」と書いてくれた。しかし、カブール、ジャララバードは書けなかった。ケガをしてから学校へ行っていないので、ダリ語の読み書きがまだ十分にできないのだ。皮肉なことに、こちらで1年住んでいるので、ドイツ語がしゃべれるようになった。しかしアフガンでドイツ語は通じない。早急にダリ語の勉強をしないといけない。
大やけどのザミウラ君がいた。顔面のやけどは徐々に治療が進んでいるようだ。驚いたことにやけどでくっついた両手指が、少しではあるが、切り離されて、物をつかむことができるようになっている。
「グー、パーできる?」「うん」。
短い指ながらも、一生懸命グーパーしてくれる。今は、木の実をつかむ練習をしている。食事の様子を取材したが、器用にフォークを挟んで、サラダを食べていた。かなり復活したが、残念ながらまだ治療が必要なので、アフガンの帰国便には、まだ乗ることができない。
最後に、ウマナズイヤ君を紹介する。彼も大やけどを負っていたが、手術とリハビリの結果、明日、故郷に帰ることが決定した。
「パパに会いたい」。はにかみながらも笑顔があふれる。よーがんばったなー。思わず、ウマナズイヤ君を抱きしめる。1年前のことを彼はよく覚えていて、私にビデオ撮影された後、わけが分からないうちにバスに乗せられ、飛行機に乗り、深夜ドイツに到着したと思ったら、病院に直行。その後の手術とリハビリに耐えてきたのだ。そんな「思い出話」をドイツ語でしゃべってくれた。子どもは言葉を覚えるのが早い。脳が柔軟なのだろうか。
食堂からは「ナ、ハウゼ。ナ、ハウゼ」(家に帰れるぞ)という歓喜の声が上がっている。この子たちがカブールに帰還した時、迎えの親たちは本当に奇跡が起こったと思うだろう。閉じた指が開いて、物をつかむことができる。開いたほほが閉じて、食べたものが外に出ない。息が漏れないので言葉も通じる!
ここでは、そんな感動の物語があふれているのだ。

矢倉先生と子どもたちブログ.jpg 両手でパンを挟み 食べる ブログ.jpg ザウラちゃん 診察前 ブログ.jpg 写真は順に、子どもたちを診察する矢倉医師。やけどで両手指が癒合した子ども。地雷で左足を切断した少女

8月21日午前9時、昨日平和村にやって来た子どもたちの診察が始まる。ドイツ人医師のハリルさんと日本人医師の矢倉さんが、子どもたちの宿舎を回る。
今回の援助飛行でやって来た子どもは89名、そのうち30名ほどが空港から病院に直行しているので、平和村に宿泊した子どもは60名弱だ。
まずは幼児から。ハリル医師が子どもたちを座らせて症状を尋ねていく。矢倉医師は、包帯の交換、膿んだ傷口の消毒、硬直した関節の曲げ伸ばしなどをテキパキとこなしていく。
カブールで出会ったズフラブ君。大やけどで両手の指がくついてしまっている。アフガンではよくある事故なのだが、幼児がよくパン焼き釜に落ちるのだ。カブールの冬は氷点下20℃まで下がる、そんな極寒の夜に、暖房は薪で煮炊きする釜だけ。危険性が分からない幼児は、その釜ににじり寄り転落する。転落した時に、両手で踏ん張るので、指が焼け溶けてくっついてしまうのだ。
「骨は残ってますね。これから病院で指の癒合を解く手術をします。手のひらで重要なのは親指です。回復を待って足指を移植して親指にすれば、物をつかめるようになると思います」。矢倉先生の解説にうなずきながら、この子がスプーンやフォークを使って食事が出来る日が早く来ることを願う。
プロパンガスの爆発で大やけどを負ったイブラヒム君。顔の皮膚と首の皮膚がくっついていて、唇が引っ張られて口を閉じることができない。
「顔と首の癒着を切り離して、皮膚の移植手術をしないといけません。口も閉じることができるようになるでしょう」。矢倉医師は毎年4回、援助飛行の子どもたちがドイツに飛来してくる度に、こうして治療にやって来る。「病院勤務だったのですが、年に4回も休ませてくれるところはありません。なのでいったん仕事を辞めて、平和村に来れるように勤務先を変えました」。今は北海道で「融通の聞く」病院につとめている。
女の子の宿舎に、ゼタラちゃんがいた。アフガン北部の都市マザリシャリフで地雷を踏んだ。マザリシャリフは、旧ソ連軍とアフガンゲリラが激しく戦ったところ。今でも無数の地雷が眠っている。
ゼタラちゃんの右足はすでに付け根から切断されている。残った右足も手術がうまくいかなかったのか、間接が硬直化して曲がらなくなっているし、その上骨髄炎を発症している。
左足の硬直化した関節を手術で曲がるようにして、あとはリハビリで少しずつ回復させていくしかない。もちろん骨髄炎も平和村で完治させねばならない。この少女は「3年コース」になる可能性が高いだろう。義足が出来て、左足が曲がるようになって、また歩けるようになるという「奇跡」が、ここ平和村では実現可能な「希望」になる。
一通り診察を取材して、外へ出る。平和村ではバスケットコートや広場があって、子どもたちが遊んでいる。「ありがーと」。アンゴラの子どもたちが陽気に近づいて来る。平和村には日本人スタッフも多いので、子どもたちはドイツ語とちょっとした日本語もしゃべれるようになっている。
無謀な戦争を引き起こして戦争に負けた日本とドイツ。その後両国は世界が驚くほどの経済成長を成し遂げ、医療水準もトップクラス、発展途上国からすれば憧れの国になった。ドイツは戦争責任を認め、謝罪し、原発を止めることを決意した。平和村が発足したのが、1967年。第3次中東戦争が勃発して、イスラエルがガザとヨルダン川西岸に侵略、シリアからゴラン高原を奪い取った年だ。平和村は67年以来、そんな紛争で犠牲になった子どもを救出してきた。日本でもこんな活動ができないか、と思う。今の日本は武器や原発を外国に売ろうとしているが、進むべき方向を間違えている。日本に帰国したら、ぜひこの平和村の活動を各地で紹介していきたいと願っている。


赤新月前で 家族と子ども ブログ.jpg カブールの赤新月社 今からドイツへ飛ぶ子どもたちと家族

8月20日午前8時、カブールの赤新月社に61人の子どもとその家族が集結してくる。本当は62名の子どもを連れていく予定だったが、1名、出発を前にして亡くなってしまった。
バスが3台やって来て、子どもたちがバスに乗り込む。お父さん、お母さんと一緒にドイツに行けると思い込んでいた子どもの何人かが、1人で行くことにショックを受け、大泣きする。バスに乗り込んでも窓ガラスに顔を押し付けて泣き叫ぶ。昨年も同じような子がたくさんいた。
いよいよ空港に向けて出発。沿道で手を振る家族に、笑顔で手を振り返す子ども、泣き叫ぶ子ども。早くて1年、治療の関係で長くて3年はここアフガンに帰って来られない。今度ここに帰ってくるときは、元気に回復していることだろう。アフガンの両親からすれば、それは奇跡に近い喜びなのだ。
カブール国際空港へ。特別チャーター便はタジキスタンのイーストエアーという航空会社のものだった。タジクは物価が安く、またアフガンの隣国で、アフガン上空の飛行を許されている数少ない航空会社なのだ。
特別チャーター便なので、すぐに飛ぶかと思っていたが、さすがここアフガン。人道支援飛行で、病気・大怪我の子どもが乗っている、と主張しても、治安維持のため、全員の身体検査、エックス線探知機の通過、などを求めてくる。
かんかん照り、気温30度以上の悪条件の中で、子どもたちは2時間待たされる。
後で聞いた話だが、主催者と目されたマルーフ医師は空港の別室に連れていかれ、アフガン政府、空港の治安を任されているオリーブグループという名の民間軍事会社などから15回に及ぶ尋問を受けて、ようやく飛行が認められる。
2時間遅れで、いよいよ出発。チャーター便(以後、援助便と呼ぶ)のタラップに民間軍事会社オリーブグループの社員が数人。サングラスをかけたお兄さん、スカーフを巻いたお姉さんが陣取って、何と子どもたちをボディーチェックし始める。
2歳〜12歳の、やけどや骨髄炎で傷つく子ども、内反足や地雷被害者で松葉杖の子どもを立たせて、爆弾を持っていないか、身体検査をするのだ。ギブスをさわって、ギブスの中に爆弾があるかどうか調べるオリーブグループの社員。もちろんこの模様は撮影禁止。この馬鹿げた様子を脳裏に刻み込む。
ようやく援助飛行便の機内へ。すでにタジキスタンの子ども数人が乗り込んでいる。この子どもたちもドイツで治療を受けるのだ。
援助飛行機の中 ブログ.jpg
援助便は、まずウズベキスタンのタシケントへ飛ぶ。轟音とともにジェット機が浮かび上がると、子どもたちは大歓声。さっきまで大泣きした子どもが手を叩いて喜んでいる。
砂漠の中、アムダリア川が見える。01年に初めてアフガン入りした時、夜中にボートで越えた川だ。あの時は世界中のメデァイがここにやって来ていた。あれから13年。今、アフガンからの報道はほとんどなくなってしまった。1時間の飛行でタシケント着。ここからもウズベキスタン、キルギスタンの子どもたち数名が乗り込んでくる。
援助便は、さらにグルジアの首都トビリシをめざす。4時間ほどの飛行でトリビシ着。ここでもアルメニア、グルジアの子どもが乗り込んできて、機内は6カ国、総勢89名の子どもと平和村のスタッフ、医師でほぼ満席となった。
トビリシからドイツのデュッセルドルフまで約7時間のフライト。ドイツ到着は深夜11時。デュッセルドルフ空港は、あらかじめ撮影許可が下りていてカメラを回してもよいということだった。機内から外へ。ドイツのマスコミのカメラフラッシュと救急車の緊急灯火で、援助便のタラップだけ赤々と明るくなっている。比較的症状の軽い子どもたちから、タラップを下りていく。一斉にたかれるフラッシュ。平和村のスタッフが、子どもの腕に巻き付けられている番号を読み上げ、病院に緊急搬送するか、平和村に宿泊させるか、手際よく峻別していく。
深夜1時、平和村に到着。平和村には日本人スタッフ、ボランティアがたくさんおられるので、心強い。子どもたちは、男の子、女の子、幼児に分かれてそれぞれの宿舎へ。宿舎の様子を一通り取材してから、明日からの取材スケジュールを打ち合わせ。ここで待ち望んでいたビールが出てくる。アフガンでは飲めなかったビール、それも本場のドイツビールだ!ここは夜間でもビールが飲めて、銃声は聞こえないし、道路には装甲車も軍隊もいない。そんな当たり前の社会が、ものすごく幸せに感じる。平和が一番いいなー、とほろ酔い気分でぐっすりと眠りに陥った。

地雷を踏んだ少女 ブログ.jpg

8月19日午前11時、カブール市内の赤新月社へ。今日はアフガンの独立記念日で、カブール中心部は普段に増して物々しい警備。もちろんほとんどの市民はこの日を祝うのであるが、タリバンなど武装勢力は、よくこんな日に攻撃をかけて来たりするのだ。道路が警察と軍によって寸断されているので、回り道をしながら、赤新月社に到着。
ここにドイツ平和村のスタッフが2人、アフガン人医師のマルーフさん、そしてドイツに治療のため渡航する62名の子どもとその家族が集まっている。
早速、子どもたちを取材。
アフガン北部のマザリシャリフで地雷を踏み、片足になった少女。ドイツに行って、義足を作らねばならない。アフガン全土にはまだ約500万発以上の地雷が眠っている。まだまだ被害は終わらない。
マルーフ医師と空爆被害の少年 ブログ.jpg
米軍の空爆で、破壊された家の下敷きになった子ども。怪我の部分が化膿しているので、マルーフ医師が薬を塗る。ドイツに行って、怪我が完治すればいいが。
骨髄炎少年 ブログ.jpg
アフガンでは戦争以外でも、例えば屋根から落ちる、交通事故、やけどなどで傷つく子どもが多い。この子は怪我したところから菌が入り骨髄炎になっていた。骨髄炎はアフガンでは治らない。
今回のドイツ行きは、本当は63名だったが、先週少女が1名亡くなってしまい、62名となった。
明日は早朝からここに集まり、バスで空港へ。そしてドイツのデュッセルドルフに飛んでいく。私もその飛行機に同行させてもらうことになった。いよいよアフガンも今日で最後だ。

ロケット弾で傷ついたきょうだい ブログ.jpg

8月18日午前4時、民間軍事会社の湯川さんがシリアで拘束されている件で、シリアの友人たちと緊急に情報を交換する。そうこうするうちにテレビ、新聞社から問い合わせの電話が殺到する。この事件については、あらためてブログにまとめる。今は生存を祈るのみ。

午後3時、カブール市内の「戦争被害者のための緊急病院」へ。ここは旧ソ連時代の学校が、タリバン時代に病院に転換されて、2001年4月、つまり911事件が起きる直前に、タリバンからイタリアのNGOにその運営を委託された場所。その後の経過はみなさんご存知、ブッシュが「これは戦争だ」「犯人はビンラディンだ。彼はアフガンに隠れている!」と叫び、01年10月7日にアフガン戦争が始まり、タリバン政権が崩壊した後も、イタリアのNGOが運営し続けている。
許可を得て中に入る。あらかじめインタビューを申し込んでいた子どもにしかカメラを向けられない。
3歳の男の子と7歳の女の子がベッドに横たわっている。4日前、タリバンとアフガン軍の戦闘に巻き込まれ、自宅にロケット弾が飛び込んできた。弟は背中に破片が入り、歩けない。姉は首に破片が突き刺さっていて、除去手術が成功すれば、歩けるようになる。
2つのベッドの中央には、「親類縁者」と英語で書かれたカードを首から下げた父親。
たまたま自宅に飛び込んだロケット弾で、6名が重軽傷。4名は地元の病院、この2名がカブールに運ばれて来た。
別のベッドへ。昨日運ばれて来た4か月の赤ちゃん。両親が車の運転中に、流れ弾が。赤ちゃんの肺に弾が食い込んでいて、すぐに手術が必要だ。どこから飛んできた弾なのか、犯人はタリバンなのかアフガン軍か…。
地雷で失明 ブログ.jpg
農作業中に地雷を踏んだ少年が所在無さげにベッドの上で座っている。1か月前、激戦地のヘルマンド州。一緒に作業していた兄は死亡した。弟の身体に無数の傷跡。そして左目に大きな眼帯。片目を失明してしまったが、傷が癒えれば、また働けるようになる。13歳の子どもに過酷な運命がのしかかる。
イタリアのNGOがこの病院を運営してから、すでに15年。かつてはあれほど騒がれたアフガン戦争も、今はほとんどのメディアが報じなくなった。でも事態は改善されていない。運び込まれた患者は、先月だけで326人。何とこの数は、病院始まって以来、最高なのだそうだ。今のアフガン、急速に治安が悪化しているのだ。米軍が撤退して、山に逃げ込んでいたタリバンが出て来たのだろうか?いずれにしても国土の70%以上は、カルザイ政権の統治が及ばない無政府地帯だ。今後も、タリバンやアフガン軍の戦闘の巻き添えで殺される人は増え続けるだろう。
さて、そんなアフガンにドイツ平和村からチャーター機がやってくる。アフガンで治療できない子どもたちをドイツに運んで治療するのだ。
明日は、赤十字で取材する。


ノートを渡す ブログ.jpg 小学校でノートを手渡す。サンキュージャパン!と子どもたちから歓声が上がった。

8月17日午前10時、カブール市内の「ハッキーム・ナセル・ヒスラール・バルビー小学校」へ。通訳のサバウーンが、市内マーケットでノートとペン、鉛筆を買い出している。大量の買い出しで梱包に時間がかかっていて、さらには交通渋滞で、トラックの到着が大幅に遅れる。
鶴笑さんたちは本日午後3時半の飛行機でドバイに発つので、やきもきしながら校長室でトラックの到着を待つ。
午前11時半、トラック到着。ギリギリ低学年クラスの下校時間に間に合う。生徒を並ばせて、ノートとペン、鉛筆を配布していく。
「タシャクール(ありがとう)」。笑顔とともに生徒たちが下校していく。校長先生が日本への感謝の言葉を述べる。
急がねばならない。すぐにカブール郊外の「カレイワジール避難民キャンプ」へ。ここに約300人の避難民が住んでいるが、子どもたちは裸足である。大人用、子ども用、男女あわせて1500足のサンダルを配布。配布していたら周辺の人々も寄って来て「私にもちょうだい」「俺の子どもにも」とちょっとしたパニックに陥る。
アフガンで支援物資を配る時は、常にこのようになってしまう。キャンプの住民だけではなく、周辺住民も極めて貧しいので、援助物資の奪い合いになるのだ。
「私たちは毎日ゴミを拾って、生活しています。このサンダルは神からの贈り物だ。ありがとう」。キャンプの責任者が感謝の言葉を述べる。
飛行機の時間が迫って来ている。メインストリートは渋滞しているので抜け道を使って空港へ。
午後2時、チームお笑い国際便は全ての行程を終えて、日本への帰路についた。支援いただいたみなさん、本当にありがとうございました。

阪野さん 女学校で ブログ.jpg 三金さん 女学校で ブログ.jpg 鶴笑さん 女学校で ブログ.jpg

8月16日午前6時半、カブール市内のザルブナという女子校に到着。アフガニスタンでは公立校でも男女別。ここザルブナで学ぶ女子生徒は何と8千5百人。7歳から18歳までの少女がダリ語や数学、歴史などを学んでいる。
早朝から子どもたちが通学してくる。黒い制服に白のスカーフ。商店街の路地、民家の影、大通りと、子どもたちは「湧いてくる」ように現れて、学校の校門に吸い込まれていく。
ナシリーン校長に許可証を見せて、公演の許可を取る。こちらでは土曜日が週の始まりなので、朝7時から朝礼がある。講堂が壊れているので、青空の下、学校の中庭で朝礼が始まる。子どもたちが、わらわらと教室から出て来て中庭に集合する。女学校は朝、昼の2シフトなので、その数4千人。後で聞いた話だが、4千人が一同に集まって朝礼する場所がないので、多くの子どもたちは、私たちの公演を見ることができなかった。これだけ集まっていても全部の生徒ではなかったのだ。
鶴笑さんの手品、紙切りが始める。興味津々で見つめる子どもたち。パンダやミッキーマウスが出来上がると、ワーッという大歓声と拍手。三金さんの風船、阪野さんのマジックと続く。作品が出来上がるたびに、マジックが披露されるたびに、学校全体が揺れるほどの拍手と歓声。この模様を動画でお見せできないのが残念。詳細はぜひ、10月7日の天満天神繁昌亭、アフガン報告会で。
続いて、インディラガンジー子ども病院へ。毎年ここを訪れているが、いつも患者と家族でごった返している。がん病棟で白血病の子どもたちをマジックで励ます。アフガニスタンでも米軍は大量の劣化ウラン弾を使用した。戦争後、がんの子どもが急増しているが、ここアフガンでは劣化ウラン弾被害はタブーになっている。カルザイ政権が米国の傀儡だから、米軍の犯罪はタブーなのだ。1つ1つのベッドを回っていく。点滴のチューブでベッドから出られない子どもに笑顔が浮かぶ。付き添いのお母さんも笑顔になっていく。右心房と左心室が逆になっている子どもが寝ている。「アフガンでは治らない。インドへ行かせたい。誰かこの子に寄附できる人を探しているんだ」。ムハンマド医師の説明。「このままここで入院していたら?」「助からない」。母親が私たちの会話を心配そうに聞いている。マジックと風船、日本からの絵本などで笑顔を見せてくれたのだが…。
「新しい病棟が出来たので案内する」。ムハンマド医師の案内で新病棟へ。受付ホールにベッドが並ぶ。病室が足りないので、玄関や廊下も「病室」になっている。一つのベッドに2〜3人の栄養失調の子どもたちが寝ている。妊娠中、あるいは産後に十分な食料がなかったため、母乳が出なかったのだ。粉ミルクも不足していたので、こんな事態になる。ベッドに眠る子どもの顔にハエがたかっている。衛生状態は最悪。
「この2人の子どもは、捨てられてしまった」。えっ、どういうこと?
障害を持った幼児が二人、ベッドに寝ている。左の子どもは1か月前、右の子どもは1週間前に、ここに連れてこられたが、母親は病院から逃げてしまった。絶望的な貧困。逃げた親を責めることは酷なのだ。今は病院の乏しい予算の中から、この子どもたちをケアしている。この子たちは今後どうなっていくのだろうか…。
野戦病院状態の廊下で、3人のパフォーマンスを見せる。暗い顔の子どもたちが笑顔になっていく。医師たちも喜んでいる。あー、ここに来てよかった!
アフガニスタンでは6人に1人が1歳までに死んでしまう。今日出会った子どもも、危篤状態あるいはインドに行けなければ絶望的という子どもがいた。この国では命が軽い。
さて、私たち「チームお笑い国際便」のアフガンツアーもいよいよ最終版にさしかかった。明日は支援物資を配布する。もう一度、子どもたちの笑顔に出会ってから、帰国することになる。

カレイワジール 避難民キャンプ ブログ.jpg カレイワジール避難民キャンプで公演終了後、記念撮影。


8月15日午前11時、カブール郊外にある「カレイワジール避難民キャンプ」へ。ここに約60家族、300名の避難民が暮らしている。泥で出来た壁にテントシート。今は夏だからまだマシだが、真冬のカブールは気温が氷点下20℃近くまで下がるし、そんな凍りついたキャンプをすきま風が吹き抜ける。
狭い土地にひしめくようにテントが建っているので、落語&マジックをする場所を探す。20畳ほどの広さの「避難民たちの憩いの広場」があったので、そこで本日初公演。
まずは鶴笑さんの紙切り。パンダを作って、「パンダー!」と叫ぶも反応は今イチ。三金さんの「風船ウサギ」も、食いつきが悪い。ここには絵本もテレビもないので、子どもたちはパンダを知らないのだろう。
その点、阪野さんのマジックは分かりやすい。新聞紙にコップの水を入れて、水がなくなると大拍手。その新聞紙から水が出てくると、子どもも大人も大興奮。本当はもっと長く交流したいのだが、治安悪化のため、短時間でキャンプを後にする。ざっと見渡したところ、裸足の子どもたちが多数。これから寒い冬になるし、足をけがして裸足でいると、傷口からばい菌が入って骨髄炎になってしまう。支援物資は子どもたちへサンダルに決定する。
「カレイワジール避難民キャンプ」の人々は、アフガン戦争が激しくなって、いったんイランに逃げた人々だった。最近になってイラン政府がアフガン難民の居住を認めず、追い返したため、彼らは再びカブールに戻らざるを得なかった。イランへの経済制裁が、回り回ってこの人たちに悪影響を及ぼしているのだと感じる。
チャライカンバーレ ブログ.jpg
次にカブール最大の避難民キャンプ、チャライカンバーレへ。ここは米軍の空爆で村を焼かれ、逃げて来たパシュトン人が主体。つまり反米感情が最も激しく、タリバンが紛れ込んでいるキャンプだ。長時間の公演は無理なので、鶴笑さん、阪野さんの手品、三金さんの風船アートを子どもたちにさっと見せる。
大歓声と拍手。子どもたちの瞳が輝き始める。このキャンプは激戦地カンダハルやヘルマンドから逃げて来た人たちが主体で、その数、なんと1万人を超えている。最近になってようやく学校が(テントだが)できて、子どもたちは学校に通えるようになった。しかしそれも状況次第。電気もガスもないキャンプ生活では、昼間に薪やゴミを拾っておかないと、夜間の調理にも事欠いてしまう。ゴミ拾いは子どもの仕事、つまり学校に行く余裕のない子が多いのだ。
最後に「パルワンドゥー避難民キャンプ」でも短時間の公演。ここはタジク人主体のキャンプで、やはり劣悪な環境の中、避難生活を余儀なくされている。

カブールはいわゆる「復興バブル」で、新規マンションがどんどん建設されている。数年前までパルワンドゥーの敷地にはサッカーができるくらい余裕があったが、どんどんマンションが建設され、今や立ち退き寸前の状況。彼らの行き先も決まらない中、マンション建設工事がどんどん進んでいる。
難民キャンプ3カ所の公演を終えてホテルに戻る。3人はさすがに疲れた様子。同じホテルに宿泊しているインド人たちが「テレビを見たよ。ぜひ、パフォーマンスを見せてくれ」というので、急きょ、ホテルの中庭でも公演することになった。
明日は早朝6時半から女学校、その後は子ども病院へ行く。明後日の帰国便まで安全に留意して、多くの人々に笑いと支援物資を届けたい。

落男 登場 ブルグ.jpg 集まり出した生徒たちに校長室のバルコニーから「落男」が初登場


8月14日、午前8時ホテルを出発してカブール市内の「ハッキーム・ナセル・ヒスラール・バルビー校」へ。ここは男の子の学校で、地域の小、中、高校生が学んでいる。その数何と5200人。7歳から18歳までの公立校で、1クラス50人以上で96クラスある。1日の授業は2回に分かれていて、午前の部と午後の部で生徒が入れ替わる。日本も団塊の世代のみなさんは、こんな風だったと聞いている。
学校長のムハンマド・サディーキ先生に許可証を見せて、公演の許可を取る。問題は場所。講堂も体育館もないので、グラウンドに生徒を集めるしかない。マイクもアンプもスピーカーもなし。「地声でやりなはれ」「えっ、地声でっか?」苦笑いの鶴笑さん。ここはアフガンである。少々の困難は乗り越えねば。校長室は2階にあり、バルコニーからグランドが見える。公演が決まると、校舎からわらわらと子どもが出てくる。次から次へと人がわき出してくる。ここは男子校だが、9歳までの女子学生も学んでいる。この国では「男女10歳にして席を同じくせず」なので、10歳になれば女子校に転校していくのだ。
「落男(らくお)」というゆるキャラをかぶり、鶴笑さんがバルコニーから手品を見せる。ウォーッと地鳴りのような歓声。「おー、受けてる、受けてる」。喜ぶ三金さん、阪野さん。昨日は静寂のテレビ局スタジオでの生出演。心が折れかけた3人だったが(笑)、この学校で見事に復活を果たした。


小学校で初公演 ブログ.jpg
グラウンドに机で高座を作り、まずは鶴笑さんの切り絵。ミッキーマウスやパンダが出来るたびに、ウォーッという歓声、興奮した子どもたちが制止の声を無視して前へ前へと進んでくる。
三金さんの風船アート。ウサギや象が出来上がると、やはり興奮した子どもが殺到して危険な状況。雑踏の中で倒れる子どもも出て来たので、小休止の後、阪野さんの手品。ハンカチが消えたり、ボールが出て来たりするたびにやはり大興奮する子どもたち。小さな印刷機に紙を入れてくるくる回すと、アフガンのお金になる手品では、先生までが興奮して「それをくれ!」。
鶴笑さんのパペット落語が始まる。忍者や赤鬼が出てくるたびに大拍手。子どもたちが押し寄せてくるので、モンスターを早めにやっつけてパペット落語が終了した。
すっかりスターになった3人から、風船で作った象や馬を各クラスにプレゼント。大好評の内にアフガン初公演が無事終了した。
「日本のみなさんに感謝する。わが校の生徒は貧しい家庭の子どもが多く、教科書は何とかそろっているが、ノートは鉛筆にも不自由している。そんな中で、今日の公演は、子どもたちの心に残るだろうし、子どもたちを励ますことができたと思う。今後も日本からの支援をお願いしたい」。ムハンマド校長の御礼のあいさつ。明日にでも市場でノートやペンを買い出して、後日配布することにしよう。

生出演後 ブログ.jpg 生出演後、スタジオで記念撮影


8月13日午前7時、カブールの「1TV」へ。車に乗り込んでからも、アッサラームアライクム(おはようございます)ノーメ、マン、カクショー(私の名前は鶴笑です)などなど現地のダリ語で練習を繰り返す3人。阪野さんは、「拍手!」と書いたプラカードを用意している。鶴笑さん、三金さんは手の甲や肘に台詞を書き始める。付け焼き刃も甚だしい。
7時半、テレビ局に到着。厳重な警備を経て、スタジオ入り。
モーニングショー「グルボング」がすでに始まっている。昨日あいさつしたお兄さんがキャスターで、真剣に何やらしゃべっている。日本では、コメンテーターや芸人さんが横から意見を行ったり、笑いを取ったりして盛り上げてくれるのであるが、こちらでは冗談も笑いも全くなし。ただひたすら真剣にニュースを伝えていく。CM前のコメントに「ジャポーン」という言葉が何度か挟まる。「お笑い国際便」のことを紹介しているのだ。
CMに入った。急いで、高座にする机を運び込む。カメラの位置と3人の立ち位置を確認する。8時6分、2分遅れで本番スタート。
キャスターと通訳のサバウーンが何やらしゃべっている。おもむろにマイクが3人に向けられた。「アッサラームアライクム、アフガニスターン!!」3人がジェスチャーを交えて元気にあいさつ。無観客で、キャスターも無言なので、受けているのか、滑っているのか全然分からない。日本なら、ここで拍手が起こるのだが…。トップバッターの三金さんが風船で象を作り出す。場内は水を打ったように静まり返っている。♬チャラララララー♬見かねた鶴笑さんと阪野さんがBGMを口ずさむが、キャスターはやはり厳しい表情で三金さんの風船を見つめるのみ。
三金さんの風船アートが終わって、阪野さんのマジック。静寂の中、鶴笑さん、三金さんの心細げな「口BGM」だけが「堪忍して」とでも訴えるようにこだまする。
いつもと違う緊張感の中、最後に鶴笑さんの舞台が始まった。ニンジャと赤鬼を使ったパペット落語なので、言葉を超えて理解できる。しかし鶴笑さんもかなり勝手が違うのか、粛々と物語が進む。静寂の中の落語は「拷問」だ(笑)。
8時半、ライブ終了。楽屋で記念撮影。アフガンに落語家さんが来るのはおそらく初めてのことだろうし、さらにテレビに生出演だ。アフガンのお茶の間ではどんな反応だったのだろうか?
約1時間後、通訳の携帯にテレビ局から電話がかかってくる。日本大使館からだった。曰く「先ほど日本人らしき人たちがテレビに出てましたが、全然日本語をしゃべらなかったようです。本当に日本人が来ているのですか?」という問い合わせだった。
大使館の方もビックリされたに違いない。すぐに電話を入れて、この間のプロジェクトについて説明する。
午後からは小学校を訪問。あらかじめ公演の許可を電話で取っていたのだが、「正式な文書での許可がないと学校での公演は無理なのよ」と女性校長。出た!アフガン方式。「あの時はいい加減に『いいよ、いいよ』と言ったけど、本当にやって来たの?あなたたち」てな反応。彼女では判断できず、カブールの教育委員会へ。
教育委員会に行って許可を申請すると、まずは文部科学省へ行け、と言われる。カブール郊外の文部科学省に行くと、「文部科学省は市内中心部に移転した」。
おいおい、それならそうと早く言えよ!と怒りたくなるが、これもアフガン方式。気を取り直して市内の文部科学省へ。許可証の申請はスムーズに行くが、文科省からの文書を持って、元の教育委員会に戻って、最終許可証を申請する。1時間ほど待たされてようやく教育長が出てくる。曰く「少年の学校は許可するが、女学校はダメだ」「なぜ?」「お前たちが男だから」。
鶴笑さん、三金さん、阪野さん、私の中年親父グループは、「卑猥なおっさんたち」と判断されたのだ(笑)。この国では戦争が長引き、官僚主義が蔓延して、さらにはイスラム原理的な考え方が支配している。暑い中、待たされたあげくにこの返事。何はともあれ、最終の許可証をゲット。これで明日、小学校に行ける。明日のライブは、観客多数。熱い反応が返ってくるから3人もやりやすいだろう。疲れたので早めに寝ることにする。

 

1TVで 明日出演決定 ブログ.jpg 地元テレビに出演決定!


8月12日午前9時、ホテルを出てワジルアクバルハーンというカブール市内中心部へ。この地域は日米大使館やISAF本部などがあり、厳重な警戒でストリートには警官と軍人だらけ。厳戒態勢による交通渋滞をなんとかくぐり抜けて、「1TV」というテレビ局へ。つまりチャンネル1番のアフガン地元局ということだ。
やはり厳重な警備で30分ほど待たされてようやく入場。応接室で、鶴笑さん、三金さん、阪野さんのパフォーマンスを見せると、即、出演決定。翌朝の「グルボング」というワイドショーで落語&マジックをライブでやることに。因みにグルボングとは「花の声」という意味。8時から4分間ニュースを流して、その後30分まで落語&マジックに決定。日本でいえば「朝ズバ!」(今は、名前変わっていたな)のような番組だ。
テレビ局のスタッフとスタジオで記念撮影。「戦争で疲れた国には、笑いが必要なんだ」とは、看板番組「ガジェットTV」のアナウンサー。
テレビ局を後に、昨年訪れた「チャマン・フズリー避難民キャンプ」へ。ここは約200家族、2千人以上が住む巨大なキャンプだった。できたのが2〜3年前と比較的新しく、ジャララバードからカイバル峠、パキスタンのペシャワールに至るアフガン・パキスタン国境地帯からカブールに逃げて来た人々だった。これは米軍の無人機による空爆と、パキスタンタリバンの攻撃。双方から逃げて来た人々によるキャンプだった。
今回はこのキャンプで落語パフォーマンスをして、支援物資を配ろうと思ったのだが、何と、キャンプが消滅している。
キャンプ消滅 ブログ.jpg
板塀が張り巡らされ、門の前には兵士がいる。その兵士によれば、キャンプはつぶされて、トルコ系の建築会社の敷地となった。カブールは日米はじめ、国際的な復興支援金で、「公共事業バブル」となっていて、建築会社が巨万の富を得ている。この広大な土地はカブール中心部に近く、「成金たち」の格好のターゲットとなったのだ。あの避難民たちはどこへ行ったのだろう…。
不気味な飛行船 ブログ .jpg
「キャンプ跡地」を撮影していたら、やはり米軍の無人飛行船が近づいて来た。空から私たちをビデオカメラで撮影している。腹が立ったので、私も飛行船を撮影。すると、飛行船は高度を下げてみるみる近づいてくる。車に乗って国道を走れば、飛行船はすごいスピードで追走してくる。「あれが無人空爆機なら、やられてるね」と三金さん。嫌がらせなのだろうが、かなり不気味だ。
無人飛行船を振り切り、(というか、相手が離れていってくれた)パルワンドゥー避難民キャンプへ。ここは辛うじて残っているが、敷地の大部分は新築マンションに浸食され、かなり狭いスペースに45家族が住んでいる。
避難民たちは、私をよく覚えていて大歓迎を受ける。テントから子どもたちがわらわらと出て来て、鶴笑さん、三金さん、阪野さんのパフォーマンスに大喜びしている。
三金さんとキャンプの子ども ブログ.jpg
狭いキャンプの中で牛とヤギを飼っているので、そこで落語ができそうだ。子どもたちは学校に通っておらず、裸足の子、満足な衣服のない子も多い。食料も衣服もないので、後日、支援物資を届けたいと思う。
近年のカブールで感じるのは格差の急拡大である。復興支援金に群がって仕事を受注できた人と、戦争で家を奪われた人。天と地ほど開いていく残酷な運命。そんな格差の広がりが、新たなテロを生む。米軍から払い下げられた装甲車にはアフガン兵士が乗っている。その装甲車にテロがかかっても、兵士は殺されない。道端でタバコを売っていた子ども、物乞いのブルカ女性が死ぬ。キャンプと、その隣にそびえる豪華な結婚式場を見るたび、「戦争はいろんな意味で残酷だ」と感じる。


アフガン到着 ブログ.jpg 8月11日午後2時、カブール国際空港に到着。いよいよ「アフガン寄席」が始まる。

8月11日午後2時、エミレーツ航空ドバイ発カブール便がカブール国際空港に着陸した。いよいよ「チームお笑い国際便」のカブール寄席が始まる。
カブールは標高1800mで、日本でいえば信州のような気候なのだが、さすがに8月の日中は36度。照りつける太陽でクラクラするが、日陰に入ると意外に涼しい。今回のアフガン寄席は落語家の笑福亭鶴笑さん、桂三金さん、マジシャンの阪野登さんが、学校や子ども病院、難民キャンプ、孤児院などで笑いと支援物資を届ける予定。通訳のサバウーンと再会。すでに女学校のアポは取ってくれている。ただ昨年に比べ治安が悪くなっているので、慎重に行動しなければならない。
治安悪化の原因は、大統領選挙と人々のさらなる貧困化。良くも悪くも国連軍が撤退を始めていて、その結果、米軍、国連軍関連の仕事が減っていて失業者が急増している。タリバンの自爆攻撃や銃撃戦も恐ろしいのだが、貧困化した人々が一部暴徒化して、強盗が増えている。いつもなら私一人なのだが、今回は集団で動くので目立ってしまう。今日はホテルにとどまり、外へでないことにする。
こちらの新聞の一面トップは、昨日の自爆テロ。カブール郊外で国連軍が襲われ、巻き添えになった付近の市民が4人死亡。35人が重症を負った。タリバンが犯行声明を出している。
最近の特徴だが、米軍も国連の治安維持部隊も、装甲車が強力化して、自爆攻撃を受けても彼らは安全。死ぬのは周囲にいた人々だ。タリバンも早く武力闘争をやめて、話し合いのテーブルにつくべき時が来ているのだが、そこに武器がある限り内戦は続いてしまう。(パキスタンやサウジがタリバンに金と武器を送り込んでいるのが問題)
昨晩から待ち時間会わせて約20時間のフライトなので、さすがに疲れた。明日からの打ち合わせを済ませて、早めのディナーにして、眠ることにする。サバウーンは、日本から持って来た焼酎を見て大喜びしている。こちらでは自由に酒も飲めないし、ナイトクラブもない。若者にとって大変窮屈な街になってしまった。戦争をすれば、どこの国も窮屈になる。日本もダンスしている若者たちが取り締まられている。だんだん日本もアフガンに似てくるのかな?

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