nishitani: 2015年8月アーカイブ

サダちゃんたち 帰国できる子ども ブログ用.jpg サダちゃんとゼタラちゃん 歌 ブログ用.jpg

帰国できる子どもたち。右側の車椅子がサダちゃん。

8月21日、今日は平和村の食堂で、帰国できる子の名前が発表される。昼食後、一同に集まる子どもたち。
「モハンマド・アブドッラー、サダー・ジュハイル…」スタッフが子どもの名前を読み上げていく。「ナ、ハウゼ。ナ、ハウゼ」(家に帰るぞ!)の大合唱とともに、テーブルを叩いて大喜び。1〜3年間、親元を離れて、手術やリハビリを繰り返してきた成果だ、おめでとう。
一方、名前が呼ばれると思っていたのに、呼ばれなかった子どもがテーブルに突っ伏して泣いている。悲喜こもごもであるが、確実にみんな順調に回復している。今回帰れなかった子どもも、次は必ず。
ゼタラちゃんは帰れなかった。まだリハビリと手術が必要なのだ。タジキスタンに帰れることになったサダちゃんと、車椅子で外へ出る。サダちゃんは14歳だが、筋ジストロフィーと似た病気で、全身の筋肉が非常に弱まっていて、先天的に骨も曲がっている。平和村には3回来ていて、4度の手術を乗り越えて、何とか松葉杖を使って歩けるようになった。身長が低いので、最初「14歳よ」と聞いた時は信じられなかった。しかし少し膨らみかけた胸を見ると、やはり14歳なのか、と再認識する。
サダちゃんは歌が大好きで、日本人スタッフに教えてもらった「翼をください」を歌ってくれる。音感と耳がいいのだろう、その後に「WE ARE THE WORLD」を熱唱してくれた。英語の難しい曲なのに、彼女は歌詞を覚え切っていた。その横でゼタラちゃんも恥ずかしそうに歌ってくれた。
彼女たちの歌、機会があれば聞いてみてください。録音しています。
明日はいよいよグルジア、ウズベク、タジク、アフガンの順に飛行機が飛ぶ。
今回はアフガンビザが出なかったので、残念ながら私は飛行機に乗り込めないが、空港まで行って、旅立つ子どもたちの姿を撮影したいと思う。


イブラヒム 診察中 ブログ用.jpg イブラヒム カッコ良くなった ブログ用.jpg ムスリムベック君ブログ用.jpg

8月20日、今日は平和村に昨晩やって来た53名の子どもたち(残り33名はドイツの病院へ入院)の診察がある。
日本からやって来た矢倉医師とドイツ人のベッカー医師、そして看護師数名で、幼児棟、男子、女子棟を診て回る。
男子棟にウズベキスタンからやって来たムスリムベック君(10)がいる。顔面にひどいケロイド。両手の甲にも同じようなケロイドが。ガス爆発で大やけどをしたのだ。他にもウズベキスタンからやけどの子どもが多数やって来ている。アフガン、タジクもそうだが、安全装置のついていない調理器具で生活しているし、地面に穴を掘ってパン焼き釜を作り、そこで調理するので、どうしてもプロパンガスの爆発、パン焼き釜に落ちる、ヤカンをひっくり返して熱湯を浴びる…、という事故が後を絶たない。カブールの子ども病院にはやけど治療専用の病棟まである。
「顔面と両手を大やけどしたので、長い時間をかけてケロイドになったのです。ケロイドが手の皮膚を引っ張るので、指が外側へ反り返ってしまい、両手を握りしめることができません。手術でケロイドを取り除いて、お腹や足の皮膚を移植することになりますね」。矢倉医師の診断を聞きながら、筆舌に尽くしがたい痛みだったんだろうな、と想像する。
今回の援助飛行はムスリムベッカー君のようなやけど受賞患者が多かった。昨年、そのやけどで平和村にやって来たイブラヒム君と再会。1年前はやけどのケロイドで、首と肩がくっついて、顔を正面に向けることができなかった。手術で癒合した皮膚を切り離し、お腹の皮膚を顔に移植して、かなりの男前になっている。
「イブラヒム、かっこええな!女の子にもてるで!」。周囲からの声に少しはにかむ。
ドイツの直射日光に当たって、ケロイドが痛むのか、それともお母さんが恋しくなったのか、ムスリムベック君が泣き始める。彼の泣き声が響くと、同宿の子どもも泣き始める。来年は、きっと笑顔になっているだろう。

ゼタラちゃん 父と ブログ用.jpg ゼタラ 立ち上がる ブログ用.jpg 甲状腺がん 親子アップ2 ブログ用.jpg ズバイルくんブログ用 .jpg 写真は1年前のゼタラちゃんと現在。2年前のズハイル君と現在


8月19日午前9時、平和村の子どもたちのリハビリ施設へ。最初の部屋では包帯替えをしている。日本人スタッフの矢倉医師がテキパキと、かつ慎重に傷口から包帯やガーゼを取り外し、新しいものに取り替えていく。
アンゴラ、ウズベク、タジク、アフガン…。子どもたちが次々とやって来る。すでに1〜3年をここで過ごしているので、それぞれがドイツ語で受け答えしている。一般に子どもの方が語学習得能力が高いと言われるが、会話が成立していることも、治療がうまくいくカギの1つだろう。
子どもたちの中に見覚えのある顔があった。
ズバイルくんの首にできていた腫瘍は手術で取り除かれ、すっきりとしている。イラクやアフガンでは腫瘍を持って生まれてくる子が増えている。それも首筋に大きな腫瘍ができている場合が多いのだ。一体これは何なのか?がんなのかそれとも…。最初にバグダッドで同じ症状の子どもを見たとき、一瞬凍りついたのを思い出す。
リハビリ室へ。やはりここでも日本人スタッフの看護師、作業療法士たちが子どもたちの治療に当たっている。ドイツ平和村は、日本人スタッフやボランティアがいなければ、おそらく立ち往生してしまうだろう。ちょっと嬉しい。
リハビリ棟を出て、中庭へ。お目当ての子どもを捜す。その子は車椅子か義足をはめて松葉杖で歩いているはずだ。
いた。
ゼタラちゃんの右足に義足、骨髄炎で曲がってしまっていた左足は何度かの手術の後、徐々に真っすぐに矯正され、何と1年で歩けるようになっていた。
「えー、歩けるようになったの?僕のこと覚えてる?」
恥ずかしそうに首を振る。何や覚えてくれてないんや…。ちょっとがっかりしつつ、「一緒に飛行機に乗ってアフガンからここまで来たやん」と言うと、
「あー、あの時の…」。思い出してくれた。
「あの時は全然歩けなかったやん。今、見事に歩いてるやん。すごいよ、ゼタラちゃん」。
感動しつつ、ビデオカメラに彼女の姿を収める。アフガン北部マザリシャリフで地雷を踏んだゼタラちゃん。その後パキスタンで手術をするも、歩けるようにはならなかった。2年間の闘病生活。衛生状態の悪い中で座って過ごした。左足は骨髄炎になり、ヒザの関節は硬直し、アキレス腱が伸び切って、左足首が反り返ってしまって、彼女は這いずり回ることしかできなかった。
今、彼女は見事に立ち上がり、そして歩いているのだ。
アフガンの両親は奇跡が起こったと思うだろう。帰国できるかどうかはまだ微妙だが。
午後5時、デュッセルドルフ空港へ。タジクを発った飛行機が、アフガン、ウズベク、ジョージアを経由して、この空港に飛んでくる。
夕暮れの空港でその到着を待つ。午後7時30分、飛行機が飛んできた。数十名の救急隊員と10数台の救急車、バス2台が駐機場まで。
最初の救急隊員が子どもを抱えてタラップを下りてくる。一斉にたかれるフラッシュ。タラップの下では、平和村のスタッフが子どもたちの腕にまかれた番号を読み上げ、ドイツの病院に入院する子ども、平和村にいったん宿泊する子どもを選り分けていく。
午後9時、バス2台が平和村に到着。幼児宿舎、男子、女子宿舎にそれぞれが到着して、長い旅が終わる。これから1〜3年程度、ドイツで過ごす子どもたち。家族と離れて不安なのだろう、ママと泣き叫ぶ子どももいる。不安と希望。明日からは徐々に不安が消えていき、希望がわき上がる日々になるだろう。


アシナーちゃん 全身 ブログ用.jpg


アミナ 義足をつけるところ ブログ用jpg.jpg


8月18日午前7時。平和村スタッフ中岡さんの運転で、フランクフルト郊外にあるリハビリ施設へ。オーバーハウゼンとフランクフルトは片道3時間のドライブ。アウトバーンに乗る。ヒットラーの造った高速道路網がドイツ中に敷かれていて、距離の割に結構早く着く。アウトバーンは無料。日本も早く、高速を無料にすべきだと思うのだが…。
午前10時、バドゾーデンザルランスターという長い名前の町に到着。ここのリハビリ施設セントマリアにアミナちゃんがいる。
2013年夏、カブールの赤新月社で出会った時は、彼女の両足は腐りはじめ、ハエがたかっていた。カンダハルで結婚式に参加しようと、母親と国道を歩いていた時に、仕掛け爆弾が爆発。母親は即死、彼女は瀕死の重症を負った。
セントマリア病院は主に高齢者向けのリハビリ施設だった。ドイツでも高齢者介護は社会問題になっているようだ。4階の病室にアミナがいた。
残念ながら彼女の両足はなくなっていたが、さっそうと車椅子に乗り、器用にどこへでも「お散歩」できるようになっていた。そして義足が完成して、歩行訓練を始めていた。
2年前に出会った時は、この子の表情は暗かった。顔面から血の気が消えていて、表情には「絶望」が浮かんでいた。あれから2年。彼女は笑顔で迎えてくれた。「義足はこうして履くのよ」「早くアフガンに帰りたいわ」「ここはお年寄りばかりで退屈」などとドイツ語で語ってくれる。学校で習う前の9歳で爆発にあったので、母語であるパシュトゥー語の文字は読めないけれど、ドイツ語の読み書きはできる。
両足を切断したのは2014年6月。つまりドイツに運ばれてから10か月は足を切らなかった。合計76回も全身麻酔を受けて、お風呂に入り、消毒した。医師も彼女も両足を切らずに完治させたかった。しかし無理だった。何しろ腐りかけてハエがたかっていたのだ。足を切ってからリハビリが始まった。1年2ヶ月で、彼女は義足で歩けるようになった。アフガンはバリアフリーではない。道路は舗装されていないし、段差だらけの社会だ。車椅子以上、つまり自力歩行が求められる。残念ながらアミナちゃんは、帰国便に乗れず、オーバーハウゼンの平和村にも戻れない。もう少しここでリハビリが必要だ。しかしきっと母国に戻れる時が来る。来年なのか、再来年なのか。その時は、一緒に帰国便に乗り、彼女の親族と再会したいと密かに願う。

8月17日午前6時、パリ発デュッセルドルフ行きの鉄道に乗り込む。タリフという名の新幹線で、ドイツデュッセルドルフまで約4時間。
フランスとドイツの国境を越えるが、パスポートチェックなし。いろいろ問題があるが、やはりEUになったことは素晴らしい。国境などない方が良いと個人的には感じている。
デュッセルドルフ着。スターバックスへ駆け込む。ドイツのスタバはネットが通じるので、ここで毎日新聞の原稿を送る。ドイツ平和村はネット環境が悪いので、ここで送っておかなければ締め切りに間に合わない。
デュッセルドルフから電車で1時間、オーバーハウゼンという小さな街の郊外に、ドイツ国際平和村がある。
8月15日に「世界ウルルン物語」で平和村の特集をしていただいたので、ご存知の方も多いかもしれない。ここに毎年2回、アフガニスタンから子どもたちがやって来る。地雷やクラスター爆弾、貧困による様々な疾病・ケガなど、心身ともに傷つく子どもたちが多数。約600〜700名の応募者の中から、その1割程度、70名ほどの子どもたちが19日に到着予定。昨年もここで取材したが、あの子どもたちにも再会できる。1年間でどれだけ治療が進んだのだろう、リハビリをして歩けるようになっているだろうか…。

8月16日、パリの中心部モンパルナス駅から北へ地下鉄を30分ほど。ジェヌブリエ地区はおしゃれな新興住宅地といったおもむきで、きれいなマンションが建設中。そんな町を10分ほど歩く。右側に新築マンション、左側にちょっと古びたアパート。ケンタッキーフライドチキンはKFCという看板だが、HFCの看板が出て、「ハラール、フライドチキン」の略。つまりイスラムの教義に則った屠殺の方法で調理したお肉ですよ、ということ。この看板だけでも地区の住民にムスリムが多いことが分かる。
古びたアパートと言っても、8階建ての高層で、階段ごとにオートロックがある。8月はバカンスなので、通行人はまばら。
その高層アパートの17番階段。ここが犯人の兄弟2人が、犯行の前日まで住んでいたアパートだ。おそらく家賃は700〜800ユーロはするだろう(通行人の証言)。日本円にして10万円程度の家賃だとすれば、犯人たちは結構稼いでいたことになる。
報道によれば、普段は真面目な兄弟で近所の評判は悪くなかった。地下鉄で30分、パリ郊外の新興住宅地にある中級マンション。これがシャルリーエブド事件の犯人のすみかだった。通行人数名に出身地を尋ねると、すべてアルジェリアとモロッコ。かつてのフランス植民地。移民一世がパリに来て、ここに住んでいる人々は2世、3世だと思われる。
ムスリム居住地区=貧困地帯、というステロタイプの固定観念があったが、ここは必ずしもそうではない。昨今の格差社会で言えば、ここの住民は少なくとも「負け組」ではないようだ。
きれいなモスクがある。犯人の兄弟はここでお祈りしていたはずだ。あいにくモスクは閉まっている。中東のモスクは24時間開いているものだが、パリのモスクは、バカンス中はお祈りの時間だけしか開かないようだ。モスクが開いていれば、そこにいる人々にインタビューしようと思ったが、閉まっているのであきらめる。
地下鉄を乗り継いでサンドニ地区へ。この地区もほとんどがムスリムで、低所得者の多い地域。1998年にフランスでサッカーワールドカップが開催されたが、そのお膝元で巨大なスタジアムもある。犯人の父親はここに移り住んできたと言われている。サンドニの雑踏を歩く。露店が並び、公設市場の喧噪がある。ここはまさに「中東の下町」だ。犯人の兄弟はここで育ったと思われる。
さて、シャルリーエブド事件を3日にわたって追いかけてきたが、謎は深まるばかり。簡単に列挙してみる。
1 あれだけの事件なのに、人々の関心は極めて低くなっている。「私はシャルリー」のポスターはほとんど見かけない。あの熱狂は何だったのか?
2 警官射殺現場が保存もされず、献花もない。あの警官はヒーローだったのに。「警官は撃たれていないのではないか」という説もある。果たして…。
3 パリのムスリム=貧困というステロタイプのイメージは消去すべき。ホームグロウンテロリストと言われる犯人であったが、貧困に喘いでいたわけではく、差別・偏見にさらされていたわけでもなさそうだ。おそらくフランス社会のもっと底流に、「ムスリムやその他移民系住民」との隔絶があるのかもしれない。何が犯人たちをそうさせたか? 今後も同様の事件が発生してしまうのか? 残念ながら分からない。
パリの取材は以上で終了。明日からドイツ平和村。平和村ではネットがつながりにくい。ブログの更新はしばらく無理かもしれないが、安全地帯で取材しているので、ご安心を。


警官射殺現場 ブログ用.jpg

シャルリーエブド社のビルを撮影し、次に警官射殺現場を探す。犯人の兄弟は、犯行後、ビルから飛び出し一方通行の大通りに停めてあった車に向かったと思われる。
ビル前の路地を抜けて大通りへ。この通りはビルから見て右行きの一方通行。路駐した車に乗り込むため、犯人は焦っていたに違いない。
通行人に聞く。「知らないよ。警官が殺されていたの?」「あー、そんな事件もあったわね」。何人かに聞いていくが、警官射殺現場をなかなか特定できない。
それにしても事件からまだ半年しか経っていないのに、この関心の低さは何だろう? 地元住民に聞いてもなかなか分からないので、自力で探す。
事件直後の映像には、犯行現場には電光掲示板の広告が写り込んでいて、その動く広告の背後に信号が見える。その電光掲示板が見当たらない。
右行き一方通行の背後は公園になっていて、公園を抜けると左往き一方通行の大通り。つまりここは極めて幅の広い道路の中央に公園を挟んでいる、という構造だった。左往き大通りに出て、シャルリーエブド社に戻るように歩く。あった!
動く電光掲示板に、背後の信号。
犯人たちはビルを出て公園を突っ切って、反対側の一方通行で警官を射殺したのだった。シャルリーエブド側の道路が犯行現場だと思い込んでいたので、確認に手間取った。
あの時、警官は足を負傷していた。動けない警官を無慈悲にここで撃ち殺した。警官はイスラム教徒だった。「私はアフマド」というポスターもあった。殺害されたアフマドさんは当時英雄扱いだった。しかし「フランスの英雄」が殺害された現場は今、花もなく、追悼の碑もない。電光掲示板だけがあの日と同じように、広告を動かせている。あたかも「早くこの事件を忘れてくれ!」とでも願うかのように、何の痕跡も残されていなかった。


「リシャード・ルノアー駅」からナシオン駅へ。地上に上がると大きなラウンドアバウトがあって、その中央にやはり巨大な銅像。ここがナシオン広場で、当日のデモの最終地点。パリで160万人、全仏で370万人と言われる大規模デモの先頭には40カ国の首脳が立った。日本からの代表もデモに参加した。首脳たちの写真がアップになって翌日の新聞トップで報道された。

しかしそのデモは群衆と隔離された場所で行われていた。首脳たちは「デモをしたふり」をしたのだ。背後に見える群衆と思われた人々は、実はガードマンだった。そんな「首脳たちの詐欺的なデモ」は、この広場から見えるボルテール大通りで行われた。
首脳たちは「テロとの戦い」を叫びながら、テロに脅えていたのだ。なぜ脅えながら「テロと戦うふり」をしなければならなかったのか?おそらくそれは、「世界が団結して、ISやアルカイダと戦う流れになったんだよ」というメッセージを送りたかったのだろう。

ナシオン広場からセントマンデ駅へ。ここはすでにパリ郊外。地上に上がって数十m歩くと、ユダヤ系食品センターがある。ここに別のイスラム過激派が立てこもり店内にいた4名を射殺した。犯人はイスラム国を名乗った。

ユダヤ系食品センター前 ブログ用.jpg この現場はすぐに分かった。殺された4名の写真が飾られ、追悼の花が献花されていた。最近も追悼式が行われているのだろう、ローソクがイスラエル国旗、つまりダビデの星の形をして燃え残っている。何の痕跡もなかった警官の殺害現場とは対照的だ。はて、この違いは何だろう?この事件には「隠さないでいいもの」と「隠さねばならないもの」があるように感じる。
シャルリーエブド社 ビル全景 ブログ用.jpg


写真はシャルリーエブド社。訪れる人も献花もなかった。


8月15日モンパルナス駅から地下鉄を乗り継ぎ、「リシャード・ルノアー駅」へ。地上に出る。「あっ、この風景、見たことある」。
一方通行の大通りに、路上駐車している車。並木と背後の公園との境界を示す鉄柵。犯人の兄弟2人が銃撃戦で警官を負傷させる。犯人たちはライフルを持って走って逃げていく。道端に倒れ込んだ警官を、犯人は至近距離で射殺する。繰り返し見たあの映像。あの光景が目の前に広がっている。
「リシャード・ルノアー駅」から歩いて5分。閑散としたマンション群の中にそのビルは建っていた。これも繰り返し見た光景。かつてこのビルにシャルリーエブド社が入居していて、このビル内で事件が起きた。
ビル4階の窓に辛うじて「私はシャルリー」のポスターが一枚。お供えの花も、追悼の品もなし。向かいのビルに犠牲になった漫画家たちの小さな似顔絵。それも一部が、はがれ落ちそうになっている。
シャルリーエブド社 前の似顔絵 ブログ用.jpg

犯人の兄弟は、目的のビルを間違えて、まずは6番、10番入り口から入ろうとした。恐怖を感じた向かい側ビルの住民が、「シャルリーエブドはあっちよ!」と叫んだ。犯人たちはようやく間違いに気づいて、「本物のビル」に忍び込み銃を乱射する。
グーグルの位置情報に、シャルリーエブド社の住所を入れると、向かい側のビルを指す。つまり6番と10番入り口だ。初めて訪れる私も、このグーグルサイトを利用して、ここまで来た。おそらく犯人たちもネット情報だけで犯行に至ったのだろう。そうだとすれば、ちょっと変。あれだけの犯行を企画していたのだ。犯人たちは事前に現場を確認していなかった!
普通そんなことはあり得ない。世界を揺るがす事件、命をかけての犯行だろう。向かい側のビルもシャルリーエブド社で、当日たまたま別館で編集会議をしていた、というのならまだ話は分かる。しかし向かい側のビルは全く別物で、インターネットの間違った位置情報で犯行に及んだとすれば…。
事件の巨大さに比べて、極めてずさんな計画。

8月14日無事パリに到着。ドゴール空港から電車でパリ市内へ。地下鉄に乗り換えてモンパルナスのホテルにチェックイン。8月のパリは、国民のほとんどがバカンスに旅立つので、空いている。ホテルも「8月価格」で安くなっていた。
地下鉄に乗り、まずは共和国広場へ。2015年1月7日、シャルリーエブド事件が勃発。イスラムへの風刺マンガを描き、週刊新聞として発行していたシャルリーエブド社を、イスラム過激派の犯人2人が襲って、編集長ら17名を射殺した事件。犯人3名が射殺されて事件が収束したのが1月9日。その2日後、「テロには屈しない」「表現の自由を守ろう」とフランス全土で370万人、パリだけで160万人もの人々がデモをした。
共和国広場は、そのデモの出発地点だ。当時「私はシャルリー」というポスターがあふれていた。今は…。ポスターはほとんど見かけず、広場の中心、自由博愛平等を意味するであろう、銅像の一部に貼られているだけ。
むしろ、銅像への落書きの方が目立つ。フランスでは記念碑に、勝手にペンキで自分の名前や絵を描く輩がいるが、当局は取り締まらない。これも1つの「芸術」「表現の自由」なのか?
日本で奈良の大仏に何か書けば、絶対に捕まるし、大ニュースになるだろう。
パリはインターナショナルな町で、黒人系と中国人が目立つ。共和国広場の手前、「ストラスブルグ・セントデニス」という駅でわざと降りて、1駅分を歩いたのだが、店の看板に中国語がちらほら。「巴里恋人婚礼会館」なるお店も。中国系住民のための出会い系喫茶なのか?
広場で何名かの人々に事件のことを聞く。多くが「あぁ、あの時はデモに参加したよ。」と答えてくれるが、事件のことは「そんなことがあったねー」という反応。早くも風化しているのか?

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